只野真葛 むかしばなし (119) 力士「谷風」と蕎麦食いを張り合った役者澤村宗十郎のこと
一、鐵山樣[やぶちゃん注:これは「徹山樣」の誤記。既に何度も注しているが、仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のこと。彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。]の御代に出(いで)しは「谷風」なり。
近頃のこと故、人もしれば、かゝず。
命、ながくて、世人(せじん)にしられたれど、「まる山」は、それにも、まさりしものならんが、其間、みじかゝりし故、江戶人なども、今は、しるもの、すくなかるべし。
其世に名を得し澤村宗十郞、「まる山」と、そばの食(くひ)くらせしことも、人の、よく、しりし事なりしが、後(のち)は、しる人もなくなりぬべし。
[やぶちゃん注:前の「118」の横綱丸山に触発されて記されたもの。
「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は、「奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)」の「丸山」の最後にちらっと出るので、見られたい。注もしてある。事実上、史上初の実在した横綱である。
「澤村宗十郞」歌舞伎役者の四代目澤村宗十郎(天明四(一七八四)年~文化九(一八一三)年)。文化八(一八一一)年十一月、市村座において、四代目澤村宗十郎を襲名し、大当りをとったが、翌年十二月、病いにより没した。享年二十九。]
此宗十郞、そば好(ずき)にて、手打の「そばみせ」を出(だ)し、狂言やすみの折(をり)は、其みせへ、女客、おほく來り、繁昌せし、とのことなりし。
「其頃、『おはなこま』といふ博打、はやりて、役者などの、もはら[やぶちゃん注:「專」。]、せしことなりしが、宗十郞、いつも『おはなこま』にまけると、駕(しのぐ)にも、かけおちして、舞臺を引(ひき)し時、御城女中(ごじやうぢよちゆう)[やぶちゃん注:江戸城大奥勤めの女中。]より合(あはせ)て、「つぐのひ金(きん)」して、舞臺へ、いだせし事、數度(すど)有(あり)し。」
と、ばゞ樣、常のはなしなりし。
[やぶちゃん注:サイト「ゲームの会ボードウォーク・コミュニティー」の「お花こま」に、『お花こま・お花コマ・お花独楽』とあり、『江戸時代に街角で行われた遊戯。六角柱の木材に心棒を付けた独楽で』六『つの側面に絵を描いてある。別にその』六『つの絵を描いた紙を用意し、これに賭け金を出させる。独楽を回し、回り終わって倒れた時に、書けた絵が上面に出ていれば賭け金の』四・五『倍程度の賞金が帰ってくる仕組み。絵柄が、お花半七、お染久松などが描かれていたので、お花独楽と言う』とあって、画像も載る。見られたい。]
文化年中に「宗十郞」といひしが、「ぢゞ」にて、男ぶりよく、至極の風雅人にて有しとのはなしなり。
「役者の妻など、不義有(ある)事は、いさめがたし。」
とて、「女房」といふ名のつきし女、五人ばかり、常に、もちて、所々に、かこひおき、氣にむきたる所にとまり、其身、かへりて、間男(まをとこ)の氣どりにて、たのしみし、とのことなりし。
上方へのぼるとて、いとまごひに海老藏方へ行(ゆき)し時、屁(へ)の出(いで)しを、
ふつと立(たつ)顏にもみぢの置(おき)みやげ
と、いひしかば、
餘りくさゝにはなむけもせず
と、海老藏つけし故、
「此歌にて、ことすみし。」
とて、其頃の世人、いひはやせしとて、ばゞ樣のはなしなり。
宗十郞、俳諧上手にて、よき句ども、あまた有しとぞ。
くどかれて火ばちのはいもうつくしく
などいふ、口つきなり。
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