譚海 卷之六 勢州二見浦津浪の事(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]
勢州二見の浦に、山、有り。
そのいたゞきに、「伊勢三郞物見の松」といふ所あり。
そのかたはらに鹽をやく所あり。これは大神宮の御にへに、そなふる所なれば、この山を「みしほ殿(どの)」といへり。
寬政四年七月十二日、晝、この「みしほ殿」の山より、
「雲、おびたゞしく、立(たち)のぼる」
と見るほどに、沖の方より、高なみ、立(たち)きたる事、五度ばかり、
「津浪なるべし。」
と、浦人、さわぎあへるに、「みしほ殿」の山より、神馬(しんば)の如きもの、かけくだりて、往來、甚だ、いそがはしく、さながら、海にのぞんで、波をふせぐ體(てい)に見えたるにあはせて、やうやう、何事なく、波、をさまりぬ。
後(のち)、この馬、また、その浦つゞきに、大神宮の別宮ある所へ、はしり行きたり、とぞ。
「これは、津波の來(きた)るべきを、全く神明(しんめい)のふせぎ給ひしなるべし。」
とて、その比(ころ)、殊に噪(さはぎ)傳(つたへ)して、神德を仰ぎけるとぞ。
板にまで、由來を、ゑりて、傳へたるといへり。
[やぶちゃん注:「勢州二見の浦」ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。以下の「山、有り」、「そのいたゞきに」「伊勢三郞物見の松」「といふ所あり」とあって、「そのかたはらに鹽をやく所あり」『この山を「みしほ殿」といへり』と、すらすらかく以上は、この「二見の浦」と「山」「のいたゞきに」ある「伊勢三郞物見の松」と、「そのかたはらに鹽をやく所」があって、そ「の山を」「みしほ殿」と呼ぶと言っているからには、「二見の浦」・「山」・「伊勢三郞物見の松」・「そのかたはらに鹽をやく所・そ「の山」=「みしほ殿」は総て直近に位置しなくてはおかしい。さすれば、「二見の浦」は「夫婦岩」よりも有意に西の海岸線を指し(上記データでは『二見浦』)、その西、現在の伊勢市二見町(ふたみまち)荘(しょう)にある「御塩殿(みしおどの)神社」がある、こんもりした丘陵が「山」であることになる(拡大すると、その神社の境内の海岸に近い位置に「御塩殿神社御塩焼所」を確認出来る)。「伊勢三郞物見の松」ここには見当たらないが、この人物、源義経の家臣伊勢三郎義盛で、襲い来る頼朝の軍勢を松に登って見張ったという伝説がある松であるが、現在はずっと内陸のこちら(サイト「観光三重」の「伊勢三郎物見の松」。地図有り)になら、ある。その解説によれば、『五代目の松が植えられている』とあるから、「みしほ殿」山に元あったのではあるまい。津村は実際に行って見た内容を書いたらしいものもあるが、伝聞で聴いたものも多いようんで、他の譚でも、地名や位置関係に甚だ重篤な誤りが、よくあるのである。
「寬政四年七月十二日」グレゴリオ暦で一七九二年八月二十九日。この日に、伊勢沖で、津波の発生するような地震は起こっていない。この年の四箇月余り前の旧暦四月一日に発生した、日本史上、最大最悪の災害を齎した「島原大変肥後迷惑」で、津波が島原や対岸の肥後国を襲ったことからデッチ上げた、伊勢神宮の神異創作物であったろう。]
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