柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「南海侯の化物振舞」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
南海侯の化物振舞【なんかいこうのばけものぶるまい】 〔甲子夜話巻五十一〕予<松浦静山>少年の頃久昌夫人の御側にて聞きたりしを、よく記億してあれば玆(ここ)に書《かき》つく。芝高輪の片町<東京都港区内>に貧窶《ひんる》の医住めり。誰問ふ人もなく、夫婦と薬箱のみ在《あり》て、僕《しもべ》とてもなき程なり。然るに一日訪問者有り。妻乃《すなは》ち出《いで》たるに、家内に病者あり、来診せらるべしと曰ふ。妻不審に思ひて見るに、身ぎれいなる人の帯刀して武家と見ゆ。因《よつ》て夫に告ぐ。医出て、某《それがし》固《もと》より医業と雖ども、洽療のほど覚束なし、他に求められよと辞す。士曰く、然らず、必ず来らるべしと。医固辞すれども聴かず。乃ち麁服《そふく》のまゝ随はんとす。見るに駕《かご》を率《ひき》ゐ、僕従数人《すにん》あり。妻愈〻(いよ《いよ》)疑ひて、薬箱を携ふる人なしと、以ㇾ実《じつを》て辞す。士曰くさらば従者に持たしめんとて、薬箱を持して医を駕に乗せ行く。妻更に疑はしく跡より見ゐたるに、行くこと半町もや有りけんと覚しき頃、駕の上より縄をかけ、蛛手《くもで》十文字にからげたり。妻思ふに極めて盗賊ならん、されども身に一銭の貯ヘなく、弊衣竹刀《しなひ》何をか為(な)すらんと思へども、女一人のことなれば、為すべきやうもなく、唯悲しみ憂へて独り音づれを待暮しぬ。医者は側らより駕の牗(まど)を堅く塞ぎて、内より窺ふこと能はざれば、何づくへ往くも知らざれど、高下迂曲《かうげうきよく》せるほど凡そ十余町も有るらんと覚しく、何方につれ行くかと案じ悶えたるが、ほどなく駕を止めたると覚しきに、傍人曰く、爰にて候出たまへとて戸を開きたるゆゑ、見たるに大造《たいさう》なる家作の玄関に駕を横たへたり。医案外なれば還《かへつ》て驚きたれど、為方《せんかた》なく出たるに、その左右より内の方にも数人並居《なみゐ》て、案内の人と行くほどに、幾間も通りて、書院と覚しき処にて、爰に待居《まちを》られよと、その人は退入《のきい》りたり。夫より孤坐して居るに、良久(ややひさしく)ありても人来らず。如何にと思ふに人声も聞こえざる処ゆゑ、若しや如何なる憂きめにや遇ふらんと思ふに、向うより七八歳も有らんと覚しき小児、茶台を捧げて来る。近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に眼一つあり。医胸とゞろき、果して此所は化物屋鋪ならんと思ふ中《うち》、この怪も入りて、また長《た》け七八尺も有らん、大の総角(あげまき)の美服なる羽織袴を著、烟草盆(たばこ《ぼん》)を目八分《はちぶ》ンに持来《もちきた》る。医愈〻怖れ、怪窟はや脱する所あらじ、逃出《にげいで》んとするも行く先を知らず、兎やせん、角やせんと思ひ廻らすに、遙かに向うを見れば、容顔端麗なる婦の神仙と覚しく、十二単衣(ひとへ)に緋袴《ひばかま》きて、すらりすらりと過ぐる体《てい》、医心にこれこの家の妖王《やうわう》ならん、然れどもかれ近寄らざれば一時の難は免れたりと思ふ間《あひだ》に、程なくして一人継上下《つぎかみしも》を著たる人出で来て、御待遠なるべし、いざ案内申すべしと云ふ。医こはごは従ひ行くに、また間かずありて襖を隔て人声喧《かまびす》し。人云ふ、これ病者の臥所《ふしどころ》なりとて襖を開きたれば、その内には酒宴の体《てい》にて、諸客群飲して献酬頻りなり。医こゝに到ると一客曰く、初見の人いざ一盃を呈せんとて医にさす。医も仰天して固辞するを、また余人寄て強勧《きやうくわん》す。医辞すること能はず、乃ち酒盃受く。時に妓《ぎ》楽座《がくざ》に満ちて絃歌涌くが如く、俳優周旋して舞曲眼《まなこ》に遮《さへぎ》る。医生も岩木《いはき》に非ざれば稍〻《やや》歓情を生じ、相俱(《あひ》とも)に傾承《けいしよう》時を移し、遂に酩酊沈酔して坐に臥す。それより医の宅には、夫の事を思へども甲斐なければ、寡坐《ひとりざ》して夜闌《たけなは》に到れども消息なし。定めし賊害に遭ひたらんと寐《ね》もやらで居《をり》たるに、鶏声狗吠《けいせいくはい》暁を報ずる頃、戸を敲く者あり。妻怪しみて立出たるに、赤鬼青鬼と駕を舁《かき》て立てり。妻大いに駭き、即ち魂《たま》も消えんとせしが、命は惜しければ内に逃入りたり。されども流石《さすが》夫の事の捨てがたく、暫して戸𨻶《とのすき》より覘(うかが)ひたるに、鬼ははや亡去(にげ《さ》)りて駕のみ在り。また先の薬箱も故(もと)の如く屋中《やうち》に入れ置きたり。夜もはや東方《とうはう》白《びやく》に及べば、立寄りて駕を開きたるに、夫は丸裸にて身には褌《ふんどし》あるのみ。妻死せりと伺ふに、熟睡して鼾息《いびき》雷《かみなり》の如し。妻はあきれて曰く、地獄に墜ちたるかと為《す》れば左もなく、盗難に遭ひたるかと為れば酒気甚し。狐狸に欺かれたるかと為れば、傍《かたはら》に大なる包《つつみ》あり。発《ひら》きて見れば、始め著ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲《かさ》ねて襦袢紙入れ等迄、皆具して有りたり。然れども夫の酔覚めざれば姑《しばら》く扶《たす》けいれ、明朝やゝ醒めたるゆゑ、妻事の次第を問ふに、有りし如く語れり。妻も亦その後《のち》のことを語り合ひて、相互《あひたがひ》に不審晴れず。この事遂に近辺の伝話《つたへばなし》となり、誰《たれ》知らざる者も無きほどなりしが、誰云ふともなく、これは松平南海の徒然《つれづれ》を慰めらるゝ戯《たはむれ》にして、斯くぞ為《せ》られしとなん。この時彼《か》の老侯の居《を》られし荘《さう》は、大崎とか云ふて高輪(たかなわ)遠からざる所なる故《ゆゑ》なり。また一目童子《ひとつめのどうじ》は、その頃封邑《ふういふ》雲州にて産せし片わなる小児なりしと。八尺の総角は世に伝へたる釈迦獄《しやかがたけ》と云ひし角力人(すまふ《にん》)にて、亦領邑より出し力士なり。また神仙と覚しき婦は瀬川菊乃丞と呼びし俳優にして、その頃侯の目をかけられし者なりしとぞ。<『落栗物語』後編に同様の文がある>
[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事」を細かな注を附して公開しておいた。そこの冒頭注で述べた通り、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。今回は完全にブラッシュ・アップしたので、最初のリンク先が決定版となる。
「落栗物語」は豊臣時代から江戸後期にかけての見聞・逸話を集めた大炊御門家の家士侍松井成教(?~天明六(一七八六)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第一 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正字表現で視認出来る(右ページ下段後ろから二行目以降)が、実は、これも柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化した。今回、上記の『百家隨筆』版を底本にし、そちらの本文を校訂しておいたので、そちらを見られたい。なお、こちらは、注は不要と断じた。]
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