柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗の雇」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
天狗の雇【てんぐのやとい】 〔諸国里人談巻二〕正徳のころ、江戸神田鍋町<東京都千代田区内>小間物商ふ家の十四五歳の調市(でつち)[やぶちゃん注:「丁稚・丁児」に同じ。商人又は職人の家に奉公して雑役・使い走りなどに使われた少年。小僧。]正月十五日の暮かた、銭湯へ行くとて手拭など持ち出でけり。少時《しばらく》して裏口に彳(たたず)む人あり。誰ならんととがむれば、かの調市なり。股引《ももひき》草鞋(わらぢ)の旅すがたにて、藁苞(わらづと)を杖にかけて内に入りけり。主人了(かしこ)き男にて、おどろく体《てい》なく、まづ草鞋を解き、足をすゝぐベしといへば、かしこまりて足をあらひ、台所の棚より盆を出し、苞(つと)をほぐせば野老(ところ)なり。これを積みて、土産《みやげ》なりとて出しぬ。主人の云ふ、今朝《けさ》はいづかたよりか来れる。秩父の山中を今朝出たり、永々の留主《るす》、御事《おんこと》かけにぞ侍らんといへり。いつ家を出《いで》たると問ふに、旧臘(きゆうろう[やぶちゃん注:ママ。歴史的仮名遣は「きうらう」が正しい。])<去年の暮>十三日煤《すす》をとりての夜、かの山に行きて昨日まで某所にあり。毎日の御客にて給仕し侍り。さまざまの珍物を給はる。客はみな御出家にて侍る。きのふ仰せつるは、明日は江戸へ帰すべし、家づとに野老を掘るべしとあるによつて、これを掘りけるなど語りぬ。その家にはこのもの、師走出たる事を曾てしらず。その代りとしていかなるものか化《け》してありけると、後にこそはしりぬ。その後《のち》何の事もなく、それきりにぞ済みける。
[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之二 雇天狗」を見られたい。そこの注でも述べたが、この少年は芝居をして嘘を言っているのではなく、離性同一性障害(旧称「多重人格障害」)である可能性が高いように思われる。
「野老(ところ)」ここは広義の「山芋」のこと。狭義には、単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指し、「~ドコロ」と呼ばれる多くの種があるが、特にオニドコロ Dioscorea tokoro を指すことがある。参照したウィキの「トコロ」によれば、食用のヤマノイモなどと同属だが、『食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ』又はヒメドコロ Dioscorea tenuipes の栽培品種であるエドドコロ(学名はヒメドコロに同じ)が栽培されていた、とある。芭蕉の名句の一つに「此の山のかなしさつげよ野老掘」がある。これは、貞享五年(九月三十日に元禄元年に改元)二月中旬、伊勢朝日山の西麓にあった菩提山神宮寺を訪れた際の吟。この寺は八世紀、聖武天皇の勅願によって行基が開山した古刹であったが、当時は既に荒廃していた(現存しない。個人サイト内の「伊勢への道」の「伊勢の寺」の中で、まさに「野老(ところ)掘」りに「かなしさ」を「つげよ」と声掛けしたくなる、「此の山の」現状が見られる)。この句の「野老」は決してトコロ類を指すのではなく、広義の「山芋」の意であると私は断言する。「万葉集」の時代にはヤマノイモ科 Dioscoreaceaeの種群を総称していたのである。芭蕉の心情は常に古代へと憧憬しているからである。]
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