只野真葛 むかしばなし (97)
一、うかれめの、おもはぬ人にそふは、珍らしからず、といへども、まさしく見しこと故(ゆゑ)、しるす。
吉原に、「かなや」の内、「直衞(なほゑ)」といふ女、高井孫兵衞とて、わるしわく、理屈の外には、なしを、しらぬ人を客にとりて、ふつふつ、氣にいらず、
『いやよ、いやよ、』
と、おもふ故、いくら、ふりつけても、あきずにくる故、いつも、またせておく事なりしに、ある時、例のごとく、またせて置(おき)しに、かぶろ・新造も、あきて居(をら)ぬうち、いづくへ行(ゆき)しや、客、見へず成(なり)しこと有(あり)。
直衞は、
「顏をださずば、なるまひ[やぶちゃん注:ママ。]。」と、いやいや、座敷をのぞひ[やぶちゃん注:ママ。]て見れば、客は、なし。
内のものにきけど、誰(たれ)も、しる人、なし。
「大方、おかへり被ㇾ成ましたろう。」
と、みないふ故、その氣に成(なり)、
「ほんに、かへたか[やぶちゃん注:ママ。]。」
と聞(きき)ありくに、人々、
「歸りし。」
といふ故、大に悅(よろこび)、
「もし、誰(たれ)さんも、きなんしよ。うれしいことが有(ある)。いやな客人が歸つたとさ。」
とて、なかまをよび集(あつめ)、うまひものをとりよせて、おもひおもひ、食(くひ)ながら、其客のわるひ[やぶちゃん注:ママ。]ことを、くりかへし、思ひだし、思うひだし、語りて、胸をはらし居《を》る時、もはや、わるくち、いひつくせしを、聞(きき)すまし、後(うしろ)の戶棚を、
「さらり」
と明(あけ)て、孫兵衞、立(たち)いづれば、外(ほか)の女らは、にげて行(ゆき)、直衞は、赤面、消(きえ)いるおもひ、
『如何はせん。』
と無言にておると、孫兵衞は、大きに腹でも立(たち)そふ[やぶちゃん注:ママ。]な所を、さらにいかりの色、無(なく)、
「金にかはるゝつとめの身、わかい心に、すいた、しかぬは有(ある)うちのこと、一々、尤(もつとも)なり。我、仕かたのあしかりし。」
と、感心せしてい[やぶちゃん注:「體」。]にて、おとなしく歸りし、とぞ。[やぶちゃん注:以下は底本も改段落。]
直衞は、いよいよ、面目(めんぼ)くなく、
「いかに、つとめの身なればとて、あまりに、さがなき物いひを、きかれしこと。」
と、はぢ入(いり)て、
「とやせん、かくや、」
と、心も、すまず、案じわづらひ居《をり》たる所へ、孫兵衞は、仲人(なかうど)をこしらへて、いはするは、
「先刻は、段々、心中、のこらず聞(きき)とゞけたり。さほど、きらはるゝ孤身(ひとりみの)事、きれて、のぞみをかなへんことは、やすけれど、『客を、さがなくそしりしを聞付(ききつけ)られ、あいそつかして、來(こ)ぬ。』と評判せられては、外聞は、さておき、おや方(かた)の前へ、顏が、たつまじ。とにもかくにも、一度(ひとたび)なれそめしこと。是より、あらためて、しんみの客にして逢(あふ)心なら、聞(きき)しことは、他言せじ。」
と、いひやりしかば、
「わたりに、舟。」
と、よろこびて、其言(そのげん)にしたがひしより、實(まこと)に打(うち)とけし客と成(なり)て、終(つひ)にうけだされて、一生、つれそひ、數寄屋町居宅の河岸(かし)のかたに家居して有(あり)しが、工藤家へも、度々(たびたび)來り、あのかたへも、茶湯ふるまへ[やぶちゃん注:ママ。]に、度々、よびて有(あり)し。
孫兵衞といふぢゞ、見たりしが、いかにも、女のきらひそふな[やぶちゃん注:ママ。]人なりし【「しつくこい[やぶちゃん注:ママ。]ものには、しめらるゝ。」といふは、是なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]
[やぶちゃん注:「しつくこいものには、しめらるゝ。」「しつこい者には、占められる。」か。]