フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« フライング単発 甲子夜話卷七十三 6 天狗界の噺 | トップページ | 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗遊石」 »

2023/12/13

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、流石にタイトルで想像出来るように、異様に長い特異点である(底本のここからで、三段組みで約七ページ弱もある)。実に八種の随筆から引用している。

 

 天狗【てんぐ】 〔閑田耕筆巻三〕本朝にていふ天狗は、唐土《もろこし》にて説なきことなれば、諸儒さまざま議論す。徂徠氏も天狗の説といふ著述あれども、決定《けちぢやう》の義なし。然るに先年『護法資治論』とて、水戸の儒士、義学を好める人の著せし書を見しに曰く、「世、天狗ナル者主ツカサドル災禍。是天狗星之類。地蔵経曰、天竜夜叉天狗土后等依レバ此排次、是一種鬼神也」[やぶちゃん注:訓点の送り仮名の一部が読みを含んでいるのはママ。]予<伴高蹊>この説によりて『地蔵経』を閲《けみ》せしにたがはず。畢竟(つまり)山鬼《さんき》の一種なり。天竺の言《げん》を伝へて、こなたにてもしかいふ成るべし。予相識る一老禅、少(わか)き時筑波山<茨城県筑波・真壁・新治《にひはり》にある山>に詣でんとて、同行《どうぎやう》共に三僧、椎尾(しひの)といふ山背より登りしに、半腹にて一道《いちだう》の暴風吹来り、これに競ひて谷を過《よぐ》る一僧、長(たけ)常に殊なるあり。緋衣を著たるが、袖は風に翩翻(ひるがへ)り、瞬目(つか)の間に吾来《きたり》しかたへ往《ゆ》きさりぬ。世に珍らしく足《あし》速(と)き人哉《かな》とばかり思ひて、あやしと迄は心つかざりしが、同行の僧一人、遅れしを待てども来らず。立帰りて見るに、巌《いはほ》の陰に打臥《うちふ》したり。これはいかにといへども、物に酔《ゑ》ひたるごとく真気《しんき》[やぶちゃん注:ここは「正気」(しょうき)に同じ。]なければ、せんかたなく両僧の肩に引かけて登り、本堂の前に至る時、堂守と思しき僧、これを見て、いとをしや、山人《さんじん》にあひ給へるやといひし時、始めて心つきて、先きに見しはこれ成るべし、吾は何とも心なくて過ぎしが、この僧は道に遅れたる間、この異形《いぎやう》に恐れけるならんとおぼえし。やうやうに助けて旅宿をもとめ休めけるが、明《あく》る日は事故なかりし。さて昨日の事は、いかにと問ひしかども、恐れしけ[やぶちゃん注:形容詞の名詞化したもの。或いは「恐れし気(け)」で「余りに恐ろしく感じた(こと)」の意であろう。]にや、つひにその由を語らで過ぎぬ。これ世にいふ天狗なるべし。堂守が僧の精心なきを見て、山人に逢ひ給へるならんといひしを思へば、この山にては常に有ることなるべしと語られし。また愛宕山、吉野山にても、人のとらるゝこと折々有り。引裂きて杉の枝にかけたるなども見し人あり。あるは数年《すねん》引つれられて後、故なく帰りたる話もあり。野狐にかどはかされしとは趣大いに異なり。不思議なるものなり。 〔同上〕淡海長命寺に普門坊といへる住侶《じゆうろ》[やぶちゃん注:住僧。]、その麓松が崎の巌上に百日荒行して、終《つひ》に生身《しやうしん》天狗に化《け》したりとて、その社即ち松が崎の上ミ本堂の裏面の山に有り。この僧の俗性は、この長命寺のむかひ牧といふ村にて、某氏忠兵衛といふ郷士の家より出《で》たりしが、化して後、一度《ひとたび》至り暇乞《いとまごひ》し、今よりは来らじと声ばかり聞えてされりとなん。今は百有余年前のことゝかや。今も年々某月日、この社の祭は彼《か》の忠兵衛の家より行ふとぞ。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここから当該部が正字で視認出来る。〔同上〕とあるのは、前の話に直に続く(次のページ)改行して独立立項された内容である。

「徂徠氏」の「天狗の説といふ著述」「徂徠先生天狗說」。物茂卿の撰になり、徂徠没後六年後の享保一九(一七三四)年跋の版本が、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで視認出来る。長いものではないが、これ、陰刻版で、私はまるっきり読む気が失せた。

「護法資治論」森尚謙(承応二(一六五三)年~享保六(一七二一)年)は儒者で水戸藩士。森家は代々医学を生業としたが、彼は儒学を志し、黒川道祐・松永昌易に学び、後、水戸藩邸に召されて、かの「大日本史」の編纂した。

「義学」道義に関わる学問。

「天狗星」(てんぐぼし/てんぐせい)は流星(ながれぼし)の一種で、特に落下の際、音響を発し、明るい光を出す巨大な流星を指す。

「土后」不詳。「大蔵経データベース」で「地蔵経」を見たが、この文字列はない。「一切経音義」・「続一切経音義」・「倶舍論頌疏抄」にのみ出る。思うに、これは仏教ではなく、中国の道教の女神「后土」(こうど)のことではないか? 道教の最高位の全ての土地を主宰する地母神で、大地山川、及び、陰陽と生育を司る墓所の守り神である。中国では「女」や「死」は「陰」に相当するから、「墓所」の神は女神となったものである。後、中国の「城隍神」や、本邦の「鎮守神」とともに、墓所が拡大されて土地神の一種に位置づけられた存在であり、それが仏教に集合され、本来の道教の神と区別するために「土后」と引っ繰り返したものかも知れない。

「排次」順序立(だ)て。

「山鬼」中国で山中に住むと想像された、山の主(あるじ)とされる神や精霊。

「筑波山」「茨城県筑波・真壁・新治にある山」現在、主峰は茨城県つくば市内。

「椎尾(しひの)」現在の桜川市真壁町(まかべちょう)椎尾(しいお:グーグル・マップ・データ航空写真)。筑波山北西の登山口で裾野から主峰直下の山腹まで広がっている。]

 〔猿著聞集巻一〕長門国㶚城(はぎ)<山口県萩市か>の水井折兼《みづいをりかね》、いときなきときより猟することを好み、つねに野山に遊びけり。とし十二三のころ、はぎよりは十七里ばかりもへだちて、三位山《さんみやま》といふ高き山あり。彼いひ[やぶちゃん注:「飯(いひ)」。]たづさへて此山にのぼり行くに、山がら・めじろの小鳥をうること面白ければ、なほ奥深く入りなましなど、語らひつれて登りける。やうやく時うつるほどに、腹いみじくすきたり。こゝにてたづさへもたりし袋を見るに、中には物なし。こはいづちにか落しけん、たづね見よとて、かしここゝうち見れども、あるべくもおぼえず。道のほどにて落したらば、今はけものにぞはまれたらまし。たづねうべきことかはとて、人々頭《かしら》かいなでをり、山いと深くいりたれば、家さへ遠く、今はひたすら飢《うゑ》にせまり、目くらむばかりなれば、歩みもやらで岩にしりうちかけて、かたみに顔をぞ見あはせたる。とばかりありて、ひとりの山伏の僧出できて、汝が輩《やから》、みだりにこの山に来たりて、吾《わが》たうの遊戯をさまたぐ、此故にこそかゝるからきめ見せつるなれ、とく山を下るべし、さながら飢て歩みがたくば、これ食べてゆけとて出《いだ》したるをみれば、先に失せつるかれいひなりければ、人々をのゝき恐れ、こはこはいかにと色さへ真青《まさを》になりもてゆきつ。今は腹すきたることも忘れて、いちあしだして逃げ下りぬ。そもいかなるものにかありけん。いと怪しかりき。

[やぶちゃん注:「猿著聞集」は既出既注だが、再掲すると、「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸後期の浮世絵師で戯作者でもあった岳亭春信が、号の一つ八島定岡(ていこう)で、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。標題は『折兼、山に獵して天狗にあひし事」。

「水井折兼」不詳。

「三位山」不詳。ただ、山口県萩市萩市三見(グーグル・マップ・データ航空写真)があり、海岸沿いながら、かなりの山間部が内陸にある。ここか。]

〔耳嚢巻六〕□□[やぶちゃん注:岩波文庫のカリフォルニア大学バークレー校版では『享保の頃』と出る。西暦一七一六年から一七三六年。]の頃、信州松本之領主の藩中に、高弐百石とつて、物頭を勤めたりし、萱野五郎太夫と云ふ有りし。武芸も相応に心懸け、少しは和漢の書にもたづさはりて、万事物堅く、されど常に我を慢ずる心有りけり。或年の正月、何か大半切桶を新たにゆひ、幾日の昼頃に出来候様にと、厳しく僕に言ひ付けたり。何になる事にやといぶかりながら、調《ととのへ》出来たりとて、新しき筵《むしろ》拾枚を調へ、餅米四斗入三俵を赤飯にこしらひ、十枚の筵を座敷へ敷かせ、かの半切桶をすゑ、その中へ右の赤飯を盛り入れ、日の暮を待《まち》て、その身は泳浴して服を改め、麻上下を著、家内を退け、無刀にてかの一間にとぢ籠れり。家内にては、若し乱心にやと気遣ひけれど、余事は言行ともに、少しも違ひたる事もなく、殊更に無刀の事なれば言ふに任せたり。その夜半頃と覚しきに、何さま人数《にんず》三四十人も来りしけはひ足音なりしが、さらに物言ふ声は聞えず。暁頃にはひつそりとなりて音もせず。兎角する内、夜も明ければ、何の音もなく静まりかへりて有りける故、こはごはに襖を少し明けて覗き見るに、物かげもなく、赤飯は一粒もなし。剰(あまつさ)へ五郎太夫も見えざれば、爰(ここ)かしこさがせども、更に行方しらず。家内大きにおどろき、同藩中に久米兵太夫と云へるは、五郎太夫の従弟違ひにて有りけるを、早速呼び寄せ、彼れこれと評議するに、いかゞともせんすべなし。しからば席も此儘にて目付へ届け、見分致候方と評議して、大目付目付方へ届けければ、早速両役立越、見分すれど何といふわけもしれず。その段有りのまゝに、領主へ訴へけり。常々出精に勤め貞実の者、不埒にて出奔といふにもあらず。また主人に対し立退きたると云ふにもあらねども、故なく行衛しれざる上は、是非もなき事なり。依《よつ》て家名は断絶、さりながら代々の旧功により、倅儀新規に呼出し、元の如くの食禄にて召仕はれしとなり。翌年正月、床の間に誰置くともなき書状一通有り。取て見れば、五郎太夫の手跡にて、何事も書かず。我等事当時愛宕山に住みて、宍戸シセンと申すなり、左様に心得べしと有りて、尚々書に、廿四日は必ず必ず酒を飲むまじく候と書きて有りしが、その後は何の替りたる事もなかりしとなり。その年領主は故有《ゆゑあり》て家名断絶せしなり。かの久米兵太夫も、その時浪人となり、その子兵太夫、青山家に仕へたり。その子兵太夫なる者の物語りなり。シセンの文字忘れたりと言ひし。当時正月廿四日禁酒すれば、火災を除くと言ふ事有り。この頃より初まりし事にや如何。

[やぶちゃん注:私のものは底本違いで、「耳嚢 巻之十 天狗になりしといふ奇談の事」である。そちらを見られたい。]

 〔甲子夜話巻五十〕近頃予<松浦静山>が中《うち》に草庵と云ふ老医居《を》る。この七月十三日根岸<東京都台東区内>の方に往きて、上野の坊官吉川大蔵卿の母に値(あ)ひたるに、この人云ひしとて伝話《つたへばなし》す。その前日朝五時頃のことにて、御簞笥町《おたんすちやう》<東京都台東区内>と云ふ処、楽人東儀隼人佑《とうぎはやとのすけ》の隣に真言宗の千手院と云へる大なる寺あり。この地に大木の樅あるに、その樹杪《こずゑ》に人あり、枝間《しかん》に腰をかけ儼然たり。その体《てい》顔赤く鼻隆くして、世に天狗と謂ふ者の如し。視る人大いに驚きたりと。これ真《まこと》の天狗なるべし。視し人は鵜川内膳と云ふ人の婢僕始めて見出し、これより数人《すにん》見たりとぞ。〔同巻七十二〕我邸中の僕に、東上総泉郡(泉郡は夷隅郡の訛《なまり》)の農夫中崎村源左衛門、酉の五十三歳なるがあり。この男嘗(かつ)て天狗に連れ往《ゆ》かれたりと云ふ。その話せる大略は、七歳の時の祝ひに馬の模様染めたる著物《きもの》にて、氏神八幡宮に詣でたるに、その社の辺より山伏出で誘ひ去りぬ。行方知れざる故、八年を経て仏事せしに、往きさきにて前の山伏、汝の身は不浄になりたれば返すと云うて、相州大山にさし置きたり。それより里人見つけたるに腰の札あり。よく見れば国郡その名まで書きしるせり。因て宿送りにて帰家せり。然るに七歳のとき著たりし、馬[やぶちゃん注:馬の絵柄。]を染めたる著物少しも損ぜざりしと。これより三ケ年の間はその家に在りしが、十八歳のとき、嚮《さき》の山伏また来り云ふ。迎ひに来れり、伴ひ行くべしとて、背に負ひ目瞑(つむ)り居《ゐ》よとて、帯の如きものにて肩にかゝると覚えしが、風声の如く聞えて行きつゝ越中の立山に到れり。この処に大なる洞《ほら》ありて、加賀の白山に通ず。その中途に二十畳も鋪(し)きたらん居所《きよしよ》あり。こゝに僧山伏十一人連坐す。誘往《さそひゆ》きし山伏、名を権現と云ふ。またこの男を長福房と呼び、十一人の天狗、権現を上坐に置き、長福もその傍《かたはら》に坐せしむ。この時初めて乾菓子《ひがし》を食せりと。また十一人各〻口中に呪文を誦《じゆ》する体《てい》なりしが、頓《やが》て笙(しやう)篳篥(ひちりき)の声して皆々立更《かは》りて舞楽せり。

 かの権現の体は白髪にして、鬚長きこと膝に及ぶ。温和慈愛、天狗にてはなく僊人(せんにん)[やぶちゃん注:「仙人」に同じ。]なりと。かの男諸国を廻る中、奥の国は昔の大将の僊人となりし者多しと。また伴はれて鞍馬・貴船に往きしとき、千畳鋪に僧達多く坐し居たるに、参詣の諸人の志願を申すを、心中口内にあること、よく彼《か》の場には聞ゆ。因て天狗議す、某の願は事当れり、協(かな)へつかはすべし、某は笑ふべし、或ひは癡愚なりとて天狗大笑するもあり。また甚だ悲願なり、協ふべからずとて、何か口呪《こうじゆ》を誦すること有るもありと。また諸山に伴はれたるに、何方にても天狗出で来て、剱術を習ひ兵法を学ぶ。かの男も授習せしとぞ。また申楽《さるがく》・宴歌・酒客の席にも伴はれ往きしと。師天狗権現は、毎朝天下安全の禱(いの)りとて勤行せしと。また或時昔一谷の合戦の状《じやう》を見せんと云ふこと有りしときは、山頭《さんとう》に旌旗(はた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])返翻(ひるがへ)し、人馬の群走鯨波の声、その場の体《てい》、今《いま》如何《いかが》にも譬へん方なしと。妖術なるべし。<中略>また世に木葉天狗《このはてんぐ》と云ふ者あり。彼《かの》境《きやう》にてはハクラウと呼ぶ。この者は狼の年歴《としへ》たるがこれになるとぞ。定めし白毛生ぜし老物《おひもの》なるべければ、ハクラウは白狼なるべし。また十九歳の年、人界へ還すとて、天狗の部類を去る証拠状と兵法の巻軸《くわんぢく》二つを与へ、脇指を帯《おび》させ、袈裟を掛けて帰せしとぞ。始め魔界に入りしとき著ゐたりし馬の著服《ちやくふく》、并(ならび)に兵法の巻軸と前の証状と三品は、上総の氏神に奉納し、授けられし脇指と袈裟は今に所持せりと。予未だ見ず。また或日奉納せし巻物を社司竊(ひそ)かに披(ひら)き見しに、眼くらみ視ること協《かな》はず。因てそのまゝ納め置きしと。巻物は梵字にて書せりと。

 また天狗何品《なんぴん》にても買ひ調ふる銭は、ハクラウども薪など採り売り代《しろ》なし、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]人に肩をかしなどして、その賃を取聚《とりあつ》め、この銭を以て弁ずるとぞ。天狗は酒を嗜むとぞ。 [やぶちゃん注:一字分の空白はママ。東洋文庫版にはなく、『ちくま文芸文庫』版にもないので、誤植(誤った字空け)であろうが、ここで話柄に変化が起こっており、東洋文庫版で改行してあるので、宵曲がわざと空けた可能性が高い。]また南部におそれ山と云ふ高山あり。この奥十八里にして天狗の祠あり、ぐひん堂と称す。(ぐひん合類集曰狗賓。俚俗所ㇾ言天狗一称[やぶちゃん注:「狗賓は、俚俗、言ふ所。『天狗』の一称たり。」。])此所に毎月下旬信州より善光寺の如来を招じ、この利益を頼んでハクラウの輩《やから》の三熱の苦を免《まぬか》れんことを祈る。その時は師天狗権現其余皆出迎ふ。如来来向《らいがう》のとき、矩火(たいまつ)白昼の如しと。また源左この魔界にありし中《うち》、菓子を一度食して常に食ふことなし。因《よつ》て両便《りやうべん》の通《つう》じもなしと。以上の説彼僕《かのしもべ》の云ふ所と雖も、虚偽疑ひなきに非ず。然《しか》れども話す所曽《かつ》て妄《まう》ならず、如何にも天地間、この如き妖魔の一界あると覚ゆ。

[やぶちゃん注:以上は事前に「フライング単発 甲子夜話卷七十三 6 天狗界の噺」として、例外的に、かなりの注にリキを入れて公開しておいた。なお、宵曲が「<中略>」とする箇所には、略した部分は、ない。逆に冒頭の欄外注部分が、ない。

〔黒甜瑣語四編ノ三〕むかし秋田雄猿部(をさるべ)の深山に、星霜とし久しき櫪木(くすのき[やぶちゃん注:ママ。後に出す活字本もママ。しかし、この単漢字・熟語は「くぬぎ」である。])の梢に、農民作之丞が尸(しかばね)とて倒(さか)しまにかゝりある事、幾年と云ふ事を知らず。いつの程にや、天狗にさらはれし者と云ふ。絶壁高山の岨(そば)[やぶちゃん注:崖。]より万仭(まんじん)の谿(たに)へ垂下りし物なるか、木客《ぼくかく/ぼくきやく》[やぶちゃん注:以下の「山樵」と同じく「木こり」のこと。]山樵《やまがつ》といへども、麓へは至りがたく、只遙かに望めるのみにて、それやはあらぬ、確かに人とは見ゆれど、十年二十年の事にもあらず。年代を経て腐爛(ふらん)せざるは人とも思はれずとて、後日はいぶかる者もなく、只旅人の話柄とはなれる。作之丞は秋田比内《ひない》の農民にて、その家も残りしが、或時昔しの作之丞とてかの家に立帰れり。彼が物語りに、我《われ》四十に近かりし頃、山深く爪木《つまき》[やぶちゃん注:「爪先で折り採った木」の意。薪にするための小枝。薪(たきぎ)。]こりしが、一人の大漢(《おほ》をのこ)来りて、一つ二つ物がたりの中、己れ過去を見たきや、未来を見たきやと云ふゆゑ、過ぎし事は物語りにも聞けるが、行末の事は命なければ見られずと思へば、一《ひ》トしほなつかしきのみと答ふるに、さらば今己《おのれ》が命を縮めて、八十年ののち再生せしめ、また三十年の寿命を与ふべし、さすれば百年ののちを快く見るべしと云ふ。面目の恐ろしき云はん方なし。我《われ》魂《たま》を消し詫言すといへども、已(すで)に宿業《しゆくごふ》のつゝまり[やぶちゃん注:「約(つづま)り」。]し身なれば、その罪を購《あがな》はしめんものをと、即座に我を縊(くく)りてその後は知らざりしが、過ぎし日眠りのはじめて醒めしごとく眼《まなこ》を開けば、かの大漢我傍《かたはら》にありて我《われ》仰《あふ》がしめ、惣身《そうみ》を按摩し、己れ今こそは許して帰すなり、梢の上の苦しみ、さぞ苦しかりつらんとて、道の指教(しるべ)せしが、その山を出《いづ》れば雄猿部の頂きなり。山の木立、里の住居も程かはりしやうなれど、我住みし里に間違ふべくもあらずと語れり。家人等も大に訝(いぶか)り、何とも実(まこと)しからねども、むかし天狗にさらはれし物語り、近きむらむらの往事《わうじ》を語るに、歴々として皆《みな》徴すべし[やぶちゃん注:はっきりと符合するべき内容であった。]。さてしもかの山の頂きを望めば、その尸見えず。さればぞ家の先祖とてみなみな敬ひしも、堅固の田舎人の心なるべし、これより三十年を過ぎて、正徳の末までながらへ、病ふの床に死せりと聞えしは、怪しき談話ならずや。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『○雄猿部(をさるべ)の尸(しかばね)』。

「秋田雄猿部(をさるべ)」不詳。但し、これを川名ととるなら、小猿部川(おさるべがわ:グーグル・マップ・データ)がある。秋田県北部の竜ヶ森を源として、北秋田市七日市(なぬかいち)を貫流し、北秋田市市街で米代川に合流する一級河川である。

「櫪木」「くすのき」なら、クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora であるが、「くぬぎ」では、ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima で全然、樹種が異なる。巨木であるから、遙かに前者が相応しくはある。

「正徳の末」正徳六年六月二十二日(グレゴリオ暦一七一六年八月九日) に享保に改元している。後に「三十年を過ぎて」とあるから、作之丞の驚異の生還は貞享三(一六八六)年頃になる。]

〔譚海巻五 〕下野国日光山は、天狗常に住みて恐ろしき処なり。一年ある浪人、知音ありて山中の院に寄宿し居けるが、一夜院内の人々集りて碁を打ちたるに、この浪人しきりに勝ちほこりて、皆手に合ふものなかりしかば、浪人心おごりて、この院中に我にせんさせてうたんと云ふ人はあらじなど自讃しける時、かたへの僧、左様なる事ここにてはいはぬ事なり、鼻の高き人有りて、やゝもすればからきめ見する事多しと、制しける詞に合せて、明り障子を隔てて庭のかたにからびたる声して、ここに聞て居るぞといひつる声せしかば、浪人顔の色も菜のごとくになりて、ものいはず碁盤ごいしけかきはらひねて、翌日あくるを待ちあへずして、急ぎ下山して走り去りぬとぞ。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之五 下野日光山房にて碁を自慢せし人の事」を参照。]

 〔四不語録巻一〕元禄二年[やぶちゃん注:一六八九年。]の夏のころ、加州の住人井沢何某は主君藤村氏の供をして、武州江戸に相詰めけるが、或夜寅刻<午前四時>ばかりに、ふと起き出て明り障子を開き縁に出る。側《そば》に臥し居《をり》ける傍輩これを見て、けしからぬ出《で》やう哉《かな》、定めて大小の用事を調へて帰らんと相待つ処に、曙に及べども帰らざる故、さればこそ不審(いぶかしき)事と思ひて、戸の外へ出てこれを尋ぬれども見えず。いまだ門を開《ひら》かざる中《うち》なれば、他所《よそ》へは行くまじとて、その屋敷の中、残る隈なく捜し求むれども居らず。それより十八日を過ぎて、夜半にあらけなく門を扣《たた》く。誰なるらんと開けば、かの井沢氏なり。杖をつきて痛く羸(つか)れたる体《てい》なり。人々驚き先づ内へ呼び入れ、このほどのありさまを問ふに物を云はず。忙然とあきれ居《ゐ》たり。やうやく粥などすゝめて二三日を経たれば、人心地付きて物語りせしは、去《いん》ぬる夜《よ》戸を開けて出《いで》たれば、その形山伏の如くなる者来て、いざこの方へと倡(いざ)なひしほどに、我にもあらず打つれ行くに、空をかけるともなく地を走るともおぼえず。或時は富士・浅間の嶽に登り、或は葛城・高天(たかま)の山を越え、その外日本中の高山魔所、残る方なく打廻り、下野《しもつけ》宇津宮<栃木県宇都宮市>に来り暫く休むと思ひしに、かの山伏行方なく失せぬ。これまではうかうかと馳行(あせあり)きて、われかの気色(けしき)にもあらざりしが、心地付きたるやうにて、そのわたりし爰《ここ》かしこ見廻す処に、修行者一人来れり。彼に向ひこゝは何処《いづこ》なると問へば、下野宇津宮と答ふ。そこにて右のありさまを語りて、江戸への郷導(みちしるべ)を教へたまへといへば、これより江戸へは遙々《はるばる》なり、我幸ひ江戸へ趣くほどに相伴《あひともな》ひ申さん、いかく[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』もそのままだが、原本を確認出来ないので何とも言えないが、これ、「いたく」の底本の誤記か誤植ではあるまいか?]困《こう》じたる体《てい》なり、この杖を突くべしとて、七角の杖を渡す。これをつきてより草臥(くたびれ)も直る心地して、程なく江戸に著く。この屋敷の辺り迄送り届けしと見えしが、その僧かきけちて失せぬ。それより後は覚えずと云ふ。いと妖しき事なり。定めて天狗の業《わざ》ならん。かの修行者もまた天狗なるべし。その七角の杖を予も目のあたり見しが、手ぎはなる細工、凡夫の作とは見えず。世には四角六角八角なるはこれ多し。七角なるも珍しき事なり。その頃瘧疾(おこり)<わらわやみ>[やぶちゃん注:マラリア。]有る者、この杖をいたゞけば大形(おほかた)治せずと云ふことなし。さて翌年の夏、同じ藤村氏の臣に米田何某は、年久しく耳病を煩ひて、この節《せつ》ひしと聾(みみしひ)たり。或日頻(しき)りに睡りを催しける故、少しまどろみける夢に、死して年久しき亡父来りて、汝が聾たる事、草葉の陰にても我《わが》苦しみとなれり、この度これを井沢氏にまじなはせ、まじなふ時に小刀を持《もち》て向ふべし、少しも危ぶみ疑ふべからずと、告げて去るとおもへば驚きぬ[やぶちゃん注:目が覚めた。]。あらたなる夢想とはおもへど、井沢氏がまじなひをすると云ふ事もいまだしらず。その上聾て年久しき耳なれば、今更癒ゆべきかと疑ひて打過ぎぬるに、その夜もまた亡父告げて、必ず平治すべし、夢[やぶちゃん注:副詞「努・勤」で「決して」の意の「ゆめ」の当て字。]うたがふ事なかれと云ふ。両度の夢想黙止《もだし》がたくて、夜《よ》の明くるを待ちて急ぎ井沢氏所へ行き、耳のことを語りて、如何治すべき歟と云へば、井沢厭当(まじなひ)して治(ぢ)すべしとて座を立ち、次の間ヘ行き、小刀を持ち出《いで》つ。米田氏これを見て、少しも夢の事を語らざるに、小刀を持ち出しこと、夢想と符節を合せたるがごとくなれば、いよいよ憑(たのも)しく思ひて、これにまじなはするに、何やらん耳に向つて呪《じゆ》を唱へ、文字を書くと思ヘば、一身を空へ引《ひつ》たてるやうに覚えしが、その儘《まま》雞《とり》の鳴声耳に入りし故、若し鳥の雛《ひな》やあると尋ねしに、側に居たる者、いかにも次の間に雛を籠に入れて置きしが、只今啼きつるに、さては御耳の通じたるか、まことにまじなひの験《しるし》有る事、奇代の事哉《かな》と云ひしに、その詞も残りなく聞えければ、米田氏大きに悦びて家に帰りしなり。つぶれて数年《すねん》経たるに一時に痊(いえ)し事、諸人これを驚嘆して、その頃世間の一つ咄となれり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。にしても、大いに不審なのは、後半の「さて翌年の夏、同じ藤村氏の臣に米田何某は、年久しく耳病を煩ひて、この節《せつ》ひしと聾(みみしひ)たり。……」以下の話柄、宵曲さんよ! これ、どこが天狗と関係があるんや? ないやんけ! ええ加減に引くな! 阿呆たれガ!

〔卯花園漫録巻二〕天狗と云ふ者は□[やぶちゃん注:欠字だが、後注で示す活字本では、『星』とある。既に以前に述べたが、強く輝く流れ星を「天狗星」と呼ぶ。]の名にあり。また獾《くわん》と云ふ獣の異名を天狗と号(なづ)く。日本にて云ふ所の天狗といふ者は格別なり。然れども唐土《もろこし》にも、日本に云ふ天狗に似たる事あり。李綽《りしやく》が『尚書故実』にいふ。蜀の国にてある寺に法事ありしに、男女群集せしに、何国《いづく》より来りけん、鵰鶚(ちようがく)<くまたか>のごとくなる者飛び来りて、十歳ばかりなる小児を摑み飛び去りぬ。人々周章《しうしやう》すれども為(な)すべきやうなく、両親の歎き何に喩へんものなし。然るに其後十日程経て、かのとられたる小児、その寺の高塔の上に来り居れり。人々歓びて梯(はしご)をかけ卸《おろ》しけるに、魂《たましひ》抜けたるやうにて正気なし。二三日過ぎて漸《やうや》う人心地付きたり。その時人々何国へ行きたりやと問ふに、小児の曰く、かの法事の砌《みぎり》、忽ち飛天夜叉《ひてんやしや》のごとくなる者来りて、我に面白きもの見すべしとて誘ひて、毎日吾を連れて歩行(あるく)に、その面白き事云はん方なし。また種々の珍味を与へ、諸国山川の景色、一々に数千里をあるき見し事、誠に面白かりしと語りしとなん。これ日本の天狗と云ふ者に似たり。『述異記』に見えし山都《さんと》、また『幽明録』に云ふ木容[やぶちゃん注:後注を参照されたいが、これは引用原本の「木客(もつかく)」の誤記と断ずるものである。]などいふもの、その形も言語もまつたく人のごとく、手足の爪《つめ》鳥のごとし。常に山深く巌《いはほ》けはしき所などに住み、よく変化《へんげ》してその形を見る事希なり。これ等世に云ふ天狗に似たり。日本にても栄術太郎《えいじゆつたらう》、金毘羅妙儀《こんぴらみやうぎ》などを天狗なりといふ。中華にも紫虚・碧霞・真武帝などいひて、その山々の神霊《しんれい》の名とする類ひにて、人に害をなす天狗とは別なるべし。

[やぶちゃん注:「卯花園漫録」読みは現代仮名遣で「うのはなぞのまんろく」或いは「ぼうかえんまんろく」。作者は江戸の故実家であった石上宣続(いそのかみのぶつぐ)で文化文政期の人(詳細事績不詳)。同書は史伝・故実・言語その他の起源・沿革を記した随筆で、『文政六年』(一八二三年)『夏日』と記す序がある。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。

「鵰鶚」「くまたか」底本では「鶚」は「グリフウィキ」のこれだが、これは「鶚」の異体字で、『ちくま文芸文庫』では『鶚』とあるので、それで示した。

「獾と云ふ獣の異名を天狗と号(なづ)く」食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属アジアアナグマ Meles leucurus(ユーラシア大陸中部(中央部を除く)に広く分布)の異名。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獾(くわん) (同じくアナグマ)」を参照されたい。

「李綽が『尚書故実』」唐代の李綽(?~八六二年:詳細事績不詳)が書いたもの。「唐書」の「芸文志」では、史部雑伝記類に入れ、「直齋書録解題」や「郡齋読書志」では小説家類に分類されており、芸術についての話柄などに興味深い記事が見られる。別名を「尚書談録」とも言う。

「鵰鶚(ちようがく)」「くまたか」タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis 。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」を参照。

「飛天夜叉」サイト「妖怪条件検索」(このサイトは、ものによっては、水木しげる氏の著作本文を、私の認識では、引用許容を越えて電子化しておられ、時に水木氏の画像も取り込んであって、著作権に触れてしまうのではないかと私は危ぶんでいるのだが、公開されてかなり経つが、今も公開されてある)の「飛天夜叉」のページには、水木氏の本篇の訳文と解説があり、そこに『一説によると、〈飛天夜叉〉というのは、形はこうもりに似て、頭は驢馬、翼はムシロを広げたように大きいという』。『ある男が、この〈飛天夜叉〉が瓜畑で瓜に食らいついているのを目撃したことがあったが、その余りにも恐ろしい形相に恐怖感を覚え、腰を抜かさんばかりに逃げ帰ったという』。『ふつう〈夜叉〉というと、里に現れる鬼のような妖怪だが、この〈夜叉〉は翼をもち、飛べることから《飛天》という言葉がついたのであろう』(以上は「水木しげるの中国妖怪事典」のものの本篇の訳文の前文部分を私がカットしたもの)。『中国で〈夜叉〉といえば、凶悪で獰猛にして疾風迅雷、鋭い牙や爪をもって人を食い殺す恐ろしい悪鬼である。この〈夜叉〉がさらに能力を増し、空を自在に飛行するようになったものが〈飛天夜叉〉とよばれる。〈飛天夜叉〉はその長けた能力から、悪鬼の頂点に位置するものとも考えられた。〈僵尸(きょうし)〉なども、長い時を経ると〈飛天夜叉〉に変じ、雷以外では倒せなくなるといわれている』(「僵尸」は、一時、香港映画で流行った「キョンシー」のことである。リンク先は当該ウィキ)。『もっとも、〈夜叉〉は悪鬼の類の総称として使われることも多く、人々は、空を飛ぶ悪鬼がいれば「あれは〈飛天夜叉〉だ。」と、ある意味で勝手に決めつけてきたようである』。澤田瑞穂著の「中国の伝承と説話」(著者は私の偏愛する中国文学者である)『によれば』、「水木しげるの中国妖怪事典」の話は「太平広記」巻第三百五十六の「章仇兼瓊」を「尚書故実」から『引用して紹介しているもののようである』。『また、瓜畑でこうもりに似た〈飛天夜叉〉を見たという話は、宋代の』「夷堅志」の「甲志巻十九」の『「飛天夜叉」にある。時の丞相の夫人である郭氏の甥、郭大という者が真夏の月夜に見たもので、彼が後日に神祠に入ると、このときの〈飛天夜叉〉の壁画があったという』。『明代の』「獪園」にも『「飛天女夜叉」の条があり、ここでは一陣の怪風とともに〈女夜叉〉が輿入れ途上にあった花嫁をさらい、代わりに自分が輿に乗り込んでいる。そのことに誰も気づかずに婚礼が行われ、初夜が明けるが昼になっても新郎新婦が起きてこないので中を覗くと、そこにはざんばら髪に裸の化け物が血塗れになりながら骨をかじっているのが見えた。新郎の体は、すでに足先を残すのみである。一家のものが驚き騒ぐと、ふたたび一陣の旋風が吹き、化け物は異形に変じて跳び出していった。花嫁は山中の洞穴から救出されたが、やはり茫然とした様子で、さらわれて以降のことは覚えていなかったという』とある。

「述異記」南朝梁の官吏で文人の任昉(じんぼう)が撰したとされている山川等の地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集めた小説集だが、偽書説もある。全二巻。

「山都」元来、「山都」は直ぐ後に出る「手足の爪鳥のごとし。常に山深く巌けはしき所などに住み、よく変化してその形を見る事希なり」とある「木容」(「木客」(もっかく)の誤記である)等と同じく、中国の奥地の異民族・少数民族を指していた語であるが、中華思想の中で、彼らが、皆、モンスターとして妖怪化されてしまったものと思しい。詳しくは、私の「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」(最近、再改訂した)の「山都」・「木客」の項を参照されたい。]

「幽明録」「世説新語」の撰者として知られる劉義慶(四〇三年~四四四年:南朝宋の皇族で臨川康王。武帝劉裕は彼の伯父)の志怪小説集。散逸したが、後代のかなりの諸本の採録によって残った。

「栄術太郎」サイト「ピクシブ百科事典」の「愛宕太郎坊」(あたごたろうぼう)に、『日本八天狗の一。愛宕山太郎坊、栄術太郎とも。単に「太郎坊」と呼ばれることも多い。日本全国の天狗を取りまとめる惣領ともされる。愛宕山を拠点とする大天狗であり、ここに由来する愛宕権現信仰に絡む形で信仰の対象となっている』。「天狗経」に『説かれる四十八天狗の一人でもある。ちなみに、同じく四十八天狗の一人である富士山陀羅尼坊は「富士山太郎坊(冨士太郎)」という別名もある』。『現在の京都の愛宕山では「愛宕太郎坊」表記の看板が立てられている』。『猪に騎乗し、錫杖を持つ鳥面の天狗として描写される。この姿は愛宕権現の本地である勝軍地蔵にも似ている』。『愛宕権現は勝軍地蔵と同じ姿でも描写され、白馬のほかに猪に騎乗する例がある』。『愛宕権現(勝軍地蔵)には翼がなく、人間の顔をしており、愛宕太郎坊天狗との区別は容易である』。「今昔物語集」では、『天竺(インド)の天狗の代表である日羅、中国の天狗の代表である是界と共に役小角の前に現れている』、『愛宕神社の奥の院にあたる「若宮」に祀られ、若宮太郎坊権現とも呼ばれた。愛宕権現を伊弉冊と同体とする説をとなえる「愛宕山両社 太々百味略縁起」では太郎坊は軻遇突智と同体とされ、本地仏は阿弥陀如来としている』とある。

「金毘羅妙儀」「金毘羅」と「妙儀」であろう。「金毘羅」はサンスクリット語の「クンビーラ」の音漢訳。「宮毘羅」(くびら)とも書き、「威如王」「蛟龍」(こうりょう)と漢訳される。薬師如来の神力を持ち、衆生を守護する十二神将の一つで、また般若守護十六善神の随一ともされる。香川県琴平町の象頭山(ぞうずさん)の金刀比羅宮(ことひらぐう)に勧請され、海上の安全を守る海神として祭られている。元来の祭神である大物主神は、その垂迹として「金毘羅大権現」と称され。多くの信仰を集めて金毘羅参詣も盛んに行われた。「妙儀」は、妙義大権現のことで、群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置する「日本三大奇景」の一つとされる、私の好きな妙義山は、古代から続く山岳信仰の対象であり、その中腹に鎮座する妙義神社は妙義山東側の白雲山を神体とする。

「紫虚」紫虚上人は「三国志演義」に登場する架空の人物。当該ウィキによれば、『益州の錦屏山に住み、人の生死や貴賎を見通すことが出来ると言われていた』。同作の第六十二回で、『劉備が益州に侵攻した際、それに応戦するため劉璋配下の劉璝(りゅうかい)や張任らは』五『万の兵を率いて雒城に向かったが、その途中に紫虚上人の下を訪れ占いを請うた』。『上人は「左龍と右鳳、飛んで西川に入る。雛鳳」(すうほう)『地に墜ち、臥龍天にのぼる。一得一失、天数まさに然るべし(左龍右鳳飛入西川 雛鳳墜地臥龍升天 一得一失天數當然 見機而作勿喪九泉)」と述べ、龐統』(すうとう)『の死と、諸葛亮の益州平定を予言したという。当惑した劉璝達は自分達の命運についての占いを求めたが、「定まった命運を聞いても仕方があるまい」と上人は応じず、彼等にとって満足のいく回答はついに得られなかった』とあり、見るからに、山中の神通力を持った天狗様(よう)の異人である。

「碧霞」中国に於ける山岳崇拝の一中心地である、山東省泰山で祀られた女神。宋の皇帝真宗が泰山で封禅(ほうぜん)の儀を挙行した折り、山頂の池で手を洗うと、池の中から女神の石像が浮かび上がったので、これを「碧霞宮」とし、泰山の絶頂に祀ったという。その出自については諸説が伝えられ、泰山の主神「泰山府君」の娘、或いは、孫であるとか、黄帝が泰山に派遣した七名の仙女のうちの一人であるなどとされる。また、「碧霞元君」は子授けの霊験あらたかな女神として知られ、子のない婦人は争そって泰山に参詣したが、その人気は、主神「泰山府君」を凌駕したとされている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「真武帝」所謂、北の星宿の神格化した玄武の名。「玄天上帝」とも称する。宋代には避諱のため、「真武」と改名されている。清代には北極佑聖真君に封じられている。当該ウィキによれば、『亀蛇合体像の形をとる。脚の長い亀に蛇が巻き付いた形で描かれたり、尾が蛇となっている場合などもある。ただし玄天上帝としては黒服の男性に描かれる』。『古代中国において、亀は「長寿と不死」の象徴、蛇は「生殖と繁殖」の象徴で、後漢末の魏伯陽は「周易参同契」で、玄武の亀と蛇の合わさった姿を、「玄武は亀蛇、共に寄り添い、もって牡牝となし、後につがいとなる」と、陰陽が合わさる様子に例えている』。『「玄武」の本来の表記は(発音は同じ)「玄冥」(「冥」は「陰」を意味し、玄武は「太陰神」とされた)であり、(北方の神である)玄武は、(北にある)冥界と現世を往来して、冥界にて(亀卜=亀甲占いの)神託を受け、現世にその答えを持ち帰ることが出来ると信じられた。玄武は、暗闇を司』る。『「玄武」の「武」は、玄武の「武神」としての神性に由来し、後漢の蔡邕は「北方の玄武、甲殻類の長である」と述べ、北宋の洪興祖は「武という亀蛇は、北方にいる。故に玄と言う。身体には鱗と甲羅があり故に武という」と述べた。玄武の武神としての神性は、信仰を得られず、唐宋以降には伝わらなかった』。『中国天文学では、周天を天の赤道帯に沿って』四『分割した』一『つで、北方七宿の総称。北方七宿の形をつなげて蛇のからみついた亀の姿に象った』。『中国神話』では、『白虎、青竜、朱雀とともに四神という形で一組にされ、西を白虎、東を青龍、南を朱雀と、それぞれが各一方を分担して守護するものされる。玄武は北方の守護を司』『るが、玄武と北方との結び付きは、五行説が中央に黄色、北方に黒、東方に青、西方に白、南方に赤と五色を割り当てたことに由来しており、四神の信仰は五行説の影響を受けながら』、『戦国時代ごろに成立したと考えられている。その後、四神の信仰は中国の中のみならず、古代の朝鮮や日本にも伝わった』とある。あんまり、天狗とは似ていないがなぁ。]

« フライング単発 甲子夜話卷七十三 6 天狗界の噺 | トップページ | 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「天狗遊石」 »