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2023/12/23

只野真葛 むかしばなし (92)

 

一、正左衞門、龍が崎の御役人をつとめし頃、少々、御用金を廻し行(ゆく)に、いつも東通りの道中、すきにて有(あり)し故、その通りにかゝるに、折ふし、道中、物さはがしきこと有しかば、

「いよいよ、荷物、大切にし、少しも、はやく、其宿を通りぬけん。」

と、夜どほふし[やぶちゃん注:ママ。「夜通し」。]仕(し)て[やぶちゃん注:後で出るが、荷を運ぶために馬子を使っているので「仕」なのである。]行(ゆく)に、四ツ倉に着(つき)たりしが、其身は駕(かご)にて先へ行(ゆき)、八弥(はちや)[やぶちゃん注:前に出た正左衛門の養子。]を荷廻しにして、あとにのこせしに、人步(にんぷ)、滯(とどこほり)て、いでず、日も暮(くれ)、夜も五ツになれども、出ず。

「ぜひ、ぜひ。」

と催促すれども、宿(しゆく)にては、

「今晚は、何卒、御とまり被ㇾ下。」

と、いへども、其荷つゞらは、御用金、入(いる)を、わざと、粗末にとりあつかひて、心を付(つけ)てまわし行(ゆく)ことなれば、養父は、先へ行しに、あとには、いかにも、とゞまりがたく、

「たとへ、夜が明(あくる)るまでも、人足を、まちて、立(たて)。」

とて、荷物に、こしかけ、催促しきりにせしかば、四ツ頃に、漸(やうやう)出(いで)しは、十二、三の小女、兩人なり。[やぶちゃん注:宿次ぎの付き添いの雇い人が少女二人というのは、八弥ならずとも、空いた口が塞がらぬわ!]

 八彌は、そのとし、十八才なり。

『まさかの時は、足手まとひよ。』

と、おもふには、なきよりも、心ぼそし。

 せんかたなければ、引(ひつ)たて行(ゆく)に、その物さはがしきといふは、

今、行(ゆく)海邊、

「人家なき所の眞中頃(まんなかごろ)の岩穴に、ぬす人、兩三人、かくれすんで、晝も、壱人(ひとり)行(ゆく)人をば、とらへ、衣類を、はぎて、からをば、海にいれる。」

ことのよし、馬子共(まごども)のかたるを聞き、

『絕體絕命。』

と、心も、こゝろならぬに、浪の打(うつ)にまかせて、まか[やぶちゃん注:底本に右にママ注記し、本文直後に『(はるか)』と補注する。]うみ中(なか)に、さしわたし、壱尺餘りなる火の玉のごとき光、あらはれて、くらき夜なるに、足もとの小貝まで、あらわに見へたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何(な)ぞ。」

と、馬子に、とへば、

「此所は龍燈(りゆうとう)の上(のぼ)る所と申(まふし)ますから、大かた龍燈でござりませう。」

と、いひしが、誠にふしぎの光なりし、とぞ。

「ぬす人のすむ岩屋の前へきたら、しらせろ。」

と、いひおきしが、

『「爰(ここ)ぞ、其所(そこ)。」と聞(きき)し時は、何ものにもあれ、出(いで)きたらば、只、一打(ひとうち)にきりたほさん。』

と、鍔元《つばもと》を、くつろげて、心をくばり行過(ゆきすぎ)しが、ぬす人の運や、つよかりけん、音もせざりし、とぞ。

「其ひかりは、三度《みたび》まで、見たりし。」

とぞ。

 いたく、夜ふけて、先(さき)の宿(しゆく)にいたりしかば、正左衞門は、寢(いね)もやられず、門に立(たち)て待居(まちをり)たりしが、遠く來(きた)る音を聞(きき)て、

「やれ、八弥、無難にて、きたりしや。よしなき夜通ふし仕(つかへ)て、大勞をも、ふけしぞや。」

とて、悅(よろこび)しとぞ。

 海漁(うみりやう)をするもののはなしに、

「世に『龍燈』といひふらすもの、實(じつ)は火にあらず、至(いたつ)て、こまかなる羽蟲(はむし)の身に螢などのごとく、光(ひかり)有(ある)一種なり。餘り、ちひさくて壱など有(あり)ては、光も見へ[やぶちゃん注:ママ。]ねど、おほくよれば、おのづから白く見ゆるものなり。つよく雨のふる夜、風の吹(ふく)時などは、ちりて、まとまらず。夏の末より秋にかゝりて、おほく、水上(すいじやう)に生(うま)る蟲にて、あつまりしを遠く見れば、火のごとく、見ゆるものなり。高き木末、堂の軒ばなどにかゝるは、みな此蟲のまとまりたるにて、奇とするに、たらず。沖に舟をかけて、音もせで、をれば、まぢかくもあつまりくるを、少しにても、息、ふきかくれば、たちまち、ちりて、見へず成(なる)。」

と、いふを、此夜、見たりしは、それとはことなり、いづれ、あやしき光なりし。

[やぶちゃん注:この話は、「奥州ばなし」にも、「四倉龍燈 / 龍燈のこと(二篇)」で載る。この発光生物については、そちらの私の注で考証してあるので、参照されたい。また、本格的「龍燈」考証は、私の『南方熊楠「龍燈に就て」(「南方隨筆」底本正規表現版・全オリジナル注附・一括縦書ルビ化PDF版・2.9MB・51頁)』をどうぞ。

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