只野真葛 むかしばなし (107) 桑原家の思惑に〆の怨念再び / 源四郎死去後の顚末
桑原のをぢ樣、おば樣は、世上の人には、よく、したしみ、下人を、ふかくめぐみ、慈悲ふかき人達なりしが、〆が怨念のなすわざにや、只(ただ)、工藤家へ對してばかり、あくまで、をとしめ[やぶちゃん注:ママ。]、いやしめ、恥のうえにも迷惑を重(かさぬ)ることのみ、こしらへ、まふけて、
『こゝろよし。』
と、おもはれたりし。
其かたはしを、いはゞ、夏むき物の、味の、かはる時、外(そと)より、魚、もらひかさね、義理首尾に、つかふほどは、やりふさぎ、家内(いへうち)上下(うへした)、あくまで食(くひ)みてみても、又、もらひおけば、くさるし、
「犬にやらふか、工藤家へ、やらふか。」
といふほどの時ならでは、物を送られしこと、なし。
其もとを、しりては、何をもらひても、
「また、あまし物ならん。」
と、うき心の先達(さきだつ)て、うれしからず、うらみを、かくし、胸を、さすりて、こなたよりは、わざわざと、のべたる品にて禮をして、有(あり)し。
今の隆朝(りゆうてう)代(だい)と成(なり)ては、何のわけもなく、いや、ますますに、工藤家の、おとろへるをのみ、下心に、よろこびて有(あり)しならん。[やぶちゃん注:以下は底本でも改段落となっている。]
先年の類燒以後、源四郞、かんなん申(まふす)ばかりなく、やうやう、もとめし藪小路の家へ、いるやいなや、枕も、あがらぬ大病、終(つひ)に、はかなく成(なり)し後(のち)、日頃、
「いやしめを。」
と、しめられし桑原家へ、跡式《あとしき》のすみしは、つぶれしよりも、心うきことなりし。
隆朝は、若氣(わかげ)の一途に、
『我(わが)ものに、成(なり)し。』
と、おもふ心、すさみに、人のおもひなげかんことも、はからず、煙の中より、やうやうと、からくとりいだせし諸道具・家財・漬物等にいたるまで、「見たおし屋」を、よびて、直(ね)ぶみさせ、家内のものゝ見る前にて、金五十兩にうり拂(はらひ)しぞ、むざんなる。
書物は、のこらず、養子へとゆづりしをも、かくして、うり拂しと見へて[やぶちゃん注:ママ。]、この地の書物屋にさへ、父の印、おしたる書物、うりものに、いでしと聞(きき)しは、よく年のことなりし。
日頃、
『にくし、いまわし[やぶちゃん注:ママ。]。』
と、おもひし工藤家の品は、
「ちりも、我子に、手、ふれさせじ。」
と、わざと、いみきらひて、取(とり)ちらせしなるべし。
世に、名もたかき父の末(すゑ)の、見るがまに、かく成行(なりゆく)を、子の身として、いかで、無念と、おもはざるべき。
『哀れ、我身、宮づかへの御緣(ごえん)あらば、命のあらんかぎり、いたつきて、父の名ばかりは、世に、のこさましを。』
と、おもひ願ふこと、やむときなし。
[やぶちゃん注:「先年の類燒」江戸三大大火の一つである「文化の大火」。文化三年三月四日(一八〇六年四月二十二日)発生。
「隆朝」既注だが、再掲すると、真葛の母方の祖父で仙台藩医桑原隆朝如璋(りゅうちょうじょしょう 元禄一三(一七〇〇)年頃~安永四(一七七五)年:如璋は医号であろう。読みは推定)の後を継いだ、真葛の母「お遊」の弟である桑原隆朝純(じゅん)。既に注した通り、真葛の弟源四郎は父平助が病没(寛政一二(一八〇〇)年。享年六十七歳)した翌享和元(一八〇一)年に家督を継いで、同じく仙台藩番医となり、その翌年には近習を兼ねたが、父の死から七年後の文化四(一八〇七)年十二月六日に、未だ三十四の若さで過労からくる発病(推定)により、急死した。これによって、工藤家は跡継ぎが絶えたため、母方の従弟である桑原隆朝如則(じょそく:読みは推定)の次男で、まだ幼かった菅治が養子に入り、後に工藤周庵静卿(じょうけい:読みは推定)を名乗ることとなった(「跡式《あとしき》のすみし」はそれを指す)。男兄弟がいなくなったとはいえ、未婚の女子もある以上、婿養子という形の相続もあり得たが、桑原如則の思惑に押し切られる形で話が進んだという。如則は、また、ここに書かれている通り、工藤家の大切な家財道具や亡父平助の貴重な蔵書を、家人がいる前で、悉く、売り払ってしまったのである(以上はウィキの「只野真葛」に拠った)。]
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