フライング単発 甲子夜話卷卷五十一 13 貧醫思はず侯第に招かる事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。
但し、この話、実は、柴田宵曲の「妖異博物館」の巻頭第一話「化物振舞」の私の注で、一度、『東洋文庫』版の体裁のままにベタで全篇通し一段で、恣意的正字表現で電子化している。但し、注は附していない。
本篇は、比較的長く、展開が甚だ面白いので、完全に零から仕切り直し、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えて読み易くし、さらに、可能な限り、注を、文中、或いは、段落末に附した。]
51―13 貧醫(ひんい)思はず侯第(こうだい)に招かる事
予、少年の頃、久昌(きうしやう)夫人の御側(おそば)にて聞(きき)たりしを、よく記憶してあれば、玆(ここ)に書(かき)つく。
[やぶちゃん注:「久昌(きうしやう)夫人」静山の祖母で養母に当たる静山の祖父松浦誠信(まつらさねのぶ 正徳二(一七一二)年~安永八(一七七九)年)の正室となった「宮川とめ」、後に「久昌院」を名乗った人物である。静山の実父松浦政信は清(静山)が生まれた宝暦一〇(一七六〇)年から十一年後の明和八(一七七一)年八月、家督を継がずに早逝したため、長男ではあったが、側室の子であった清は(正室には子がなかった)、それまで「松浦」姓を名乗れずに「松山」姓を称していたものを、同年十月二十七日に祖父誠信の命で養嗣子となったのであった。四年後の安永四(一七七五)年二月十六日、祖父(養父)の隠居により、家督を相続、肥前国平戸藩第九代藩主となった。]
芝高輪の片町に、貧窶(ひんる)の醫、住めり。誰(たれ)問ふ人もなく、夫婦と藥箱(くすりばこ)のみ在(あり)て、僕(しもべ)とても無きほどなり。
[やぶちゃん注:「貧窶」非常に貧しいこと。「ひんく・ひんろう」とも読む。]
然(しか)るに、一日、訪者あり。
妻、乃(すなはち)、出(いで)たるに、
「家内に病者あり。來診せらるべし。」
と曰ふ。
妻。不審に思(おもひ)て見るに、身ぎれいなる人の、帶刀して、武家と見ゆ。因(よつ)て、夫に告ぐ。
醫、出て、
「某(それがし)、固(もと)より醫業と雖ども、治療のほど、覺束(おぼつか)なし。他(ほか)に求められよ。」
と辭す。
士、曰(いはく)、
「然らず。必ず、來らるべし、」
と。
醫、固辭すれども、聽かず。
乃(すなはち)、麁服(そふく)のまゝ隨はんとす。
[やぶちゃん注:「麁服」粗末な服。]
見るに、駕(かご)を率(したが)へ、僕從、數人(すにん)あり。
妻、愈々、疑(うたがひ)て、
「藥箱を攜(たづさへ)る人、なし。」
と、以ㇾ實(じつをもつて)て、辭す。
士、曰、
「さらば、從者に持(もた)しめん。」
迚(とて)、藥箱を持して、醫を駕に乘せ行く。
妻、更に疑はしく、跡より見ゐたるに、行(ゆく)こと半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]もや有(あら)んと覺しき頃、駕の上より、繩を、かけ、蛛手(くもで)・十文字に、からげたり。
妻、思(おもふ)に、
『極(きはめ)て、盜賊ならん。去れども、身に一錢の貯(たくはへ)なく、弊衣・竹刀(しなひ)、何をか爲(な)すらん。』
と思へども、女一人のことなれば、爲(なす)べきやうもなく、 唯、かなしみ憂(うれへ)て、獨り、音づれを待暮(まちくら)しぬ。
醫者は、側(かたは)らより、駕の牖(まど)[やぶちゃん注:連子(れんじ)窓。格子窓。]を、堅く、塞(ふさぎ)て、内より窺ふこと、能はざれば、何づくへ往(ゆく)とも知らざれど、高下迂曲(かうげうきよく)[やぶちゃん注:上下にわざと揺らして遠回りすること。]せるほど、凡(およそ)十餘町も有るらんと覺しく、
『何方(いづかた)につれ行くか。』
と、案じ悶(もだへ)たるが、程なく、駕を止めたると覺しきに、傍人、曰く、
「爰(ここ)にて候。出(いで)たまへ。」
迚(とて)、戶を開きたるゆゑ、見たるに、大造(たいさう)なる家作の玄關に、駕を橫たへたり。
醫、案外なれば、還(かへつ)て駭(おどろ)きたれども、爲方(せんかた)なく出たるに、その左右より、内の方にも、數人(すにん)幷居(ならびゐ)て、案内(あない)の人と行(ゆく)ほどに、幾間(いくま)も通りて、書院と覺しき處にて、
「爰に待(まち)ゐられよ。」
と、その人は、退入(のきいり)たり。
夫(それ)より、孤坐(こざ)してゐるに、良(やや)久(ひさしく)ありても、人、來らず。
『何(い)かに。』
と思ふに、人聲(ひとごゑ)も聞こへざる處ゆゑ、
『若(もし)や、何(いか)なる憂きめにや、遇ふらん。』
と思ふに、向(むかふ)より、七、八歲も有らんと覺しき小兒(しやうに)、茶臺を捧(ささげ)て來(きた)る。
近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に、眼(まなこ)、一つ、あり。
醫、胸、とゞろき、
『果して、此所は化物屋鋪(やしき)ならん。』
と思ふ中(うち)、この怪も入りて、また長(た)け、七、八尺も有らん大(だい)の總角(あげまき)の、美服なる羽織・袴を着、烟草盂(たばこぼん)を目八分(ぶ)んに持來(もちきた)る。
[やぶちゃん注:「目八分」物を差し出す際、両手で目の高さより少し低くして捧げ持つこと。ここでは大男だから、物理的にはそうなるのであるが、この言いは、通常、「傲慢な態度で人に接する・ 人を見下す」の意が含まれ、ここもそれを狙っている。]
醫、愈々、怖れ、
『怪窟(くわいくつ)、はや、脫する所あらじ。逃出(にげいで)んとするも、行く先を知らず。兎(と)や爲(せ)ん、角(かく)やせん、』
と、思𢌞(おもひめぐ)らすに、遙(はるか)に向(むかふ)を見れば、容顏端麗なる婦(ふ)の、神仙と覺しく、十二ひとへに緋袴(ひばかま)きて、
「すらりすらり」
と過(すぐ)る體(てい)、醫、心に、
『是れ、此家の妖王(えうわう)ならん。然れども、かれ、近依らざれば、一時の難は免れたり。』
と思ふ間(あひだ)に、程なくして、一人、繼上下(つぎかみしも)を着たる人、出來て、
「御待遠(おまちどほ)なるべし、いざ、案内申すべし。」
と云(いふ)。
[やぶちゃん注:「繼上下」肩衣と袴を、それぞれ、別の生地で仕立てた江戸時代の武士の略儀の公服。元文(一七三六年~一七四一年)末頃から平日の登城にも着用した(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]
醫、こはごは、從行(したがひゆく)に、又、間(ま)かずありて、襖を障(へだ)て、人聲、喧(かまびす)し。
人、云(いはく)、
「これ、病者の臥所(ふしど)なり。」
とて、襖を開きたれば、その内には、酒宴の體(てい)にて、諸客群飮して、獻酬、頻(しきり)なり。
醫、こゝに到ると、一客の曰、
「初見の人、いざ、一盃を呈せん。」
迚(とて)、醫に、さす。
醫も仰天して固辭するを、又、餘人、寄(より)て强勸(がうくわん)す。
醫、辭すること能はず、乃(すなはち)、酒盃を受く。
時に妓樂(ぎがく)、坐に滿(みち)て、弦歌、涌(わく)が如く、俳優、周旋して、舞曲、眼(まなこ)に遮る。
醫生も、岩木(いはき)に非ざれば、稍(やや)、歡情を生じ、相俱(あひとも)に傾承(かたむけうけ)、時を移し、遂に、酩酊沈睡して坐に臥す。
夫(それ)より、醫の宅には、夫(をつと)のことを思へども、甲斐なければ、寡坐(かざ)して夜闌(よふけ)に到れども、消息、なし。
『定(さだめ)し、賊害に遭(あひ)たらん。』
と、寐(いね)もやらで居(をり)たるに、鷄聲狗吠(けいせいくはい)、曉を報ずる頃、戶を敲く者、あり。
妻、あやしみて、立出たるに、赤鬼・靑鬼と、駕を舁(かい)て立てり。
妻、大(おほき)に駭(おどろ)き、卽(すなはち)、魂(たま)も消(きえ)んとせしが、命は惜)をし)ければ、内に逃入(にげい)りたり。
されども、流石(さすが)、夫のことの捨(すて)がたく、暫しして、戶隙(とすき)より覘(うかがひ)たるに、鬼はゝや亡去(うせさり)て、駕のみ、在り。
又、先の藥箱も、故(もと)の如く、屋中(をくうち)に入れ置(おき)たり。
夜もはや、東方(とうはう)白(びやく)に及べば、立寄(たちより)て、駕を開(あけ)たるに、夫は丸裸にて、身には褌(ふんどし)あるのみ。
妻、
『死せり。』
と伺ふに、熟睡して、鼾息(いびき)、雷(かみなり)の如し。
妻は、あきれて、曰、
「『地獄に墜(おち)たるか』と爲(な)れば、左(さ)もなく、『盜難に遭(あひ)たるか』と爲れば、醺氣(くんき)、甚し。『狐狸に欺れたるか』と爲れば、傍(かたはら)に大なる包(つつみ)あり。」
發(ひらき)て見れば、始め、着ゐたりし弊衣の外に、新衣をうち襲(かさね)て、襦袢・紙入れ等迄、皆、具して有りたり。
然れども、夫の醉(ゑひ)、覺(さめ)ざれば、姑(しばら)く扶(たすけ)いれ、明朝、やゝ醒(さめ)たるゆゑ、妻、事の次第を問(とふ)に、有(あり)し如く語れり。
妻も亦、その後(あと)のことを語り合(あひ)て、相互に不審、晴れず。
この事、遂に、近邊の傳話(つたへばなし)となり、誰(たれ)知らざる者も無きほどなりしが、誰(たれ)云(いふ)ともなく、
「是は、松平南海の徒然(つれづれ)を慰めらるゝの戲(たはむれ)にして、斯(かく)ぞ爲(せ)られし。」
と、なん。
この時、彼(かの)老侯の居られし莊(さう)は、大崎とか云(いひ)て、高輪(たかなは)、遠からざる所なる故(ゆゑ)なり。
又、一目の童子は、その頃、彼(か)の封邑(ふういふ)雲州にて產せし片(かた)わなる小兒なりし、と。
又、八尺の總角は、世に傳へたる「釋迦ヶ嶽」と云(いひ)し角力人(すまふにん)にて、亦、領邑(りやういふ)に出(いで)し力士なり。
又、神仙と覺しき婦は、「瀨川菊之丞」と呼(よび)し俳優にして、その頃、侯の目をかけられし者なりし、とぞ。
[やぶちゃん注:「松平南海」出雲国松江藩六代藩主松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居(明和四(一七六七)年十一月に財政窮乏の責任を取って、次男治郷(不昧)に家督を譲った。隠居時は四十三歳)後、十年程して名乗った法号。当該ウィキによれば、『隠居してからの宗衍は奇行を繰り返したため、以下のように奇行にまつわる逸話が多い』とし、『家臣に命じて』、『色白の美しい肌の女を連れて来させては、その女性の背中に花模様の刺青を彫らせて薄い白色の着物を着せた。着物からうっすらと透けて浮き上がってくる背中の刺青を見て喜んだといわれる。刺青を入れられた女性は「文身(いれずみ)侍女」と呼ばれて江戸の評判になったが、年をとって肌が弛んでくると宗衍は興味を失い、この侍女を家臣に与えようとした。しかし誰も応じず、仕方なく』一千『両を与えるからと』命じても、『誰も応じなかったという』。『江戸の赤坂にある藩邸の一室に、天井から襖まで』、『妖怪や』、『お化けの絵を描いた化け物部屋を造り、暑い夏の日は一日中そこにいた。見聞集』「江戸塵拾」や「当代江戸百化物」でも、奇癖の持ち主として『「雲州松江の藩主松平出羽守」の名前が挙がっている』。『参会者が全員、裸で茶を飲む裸茶会を開催している』。「赤蝦夷風説考」『などの著書で知られる医師』で『経世家(経済学者)であ』った『工藤平助』(私の好きな只野真葛の父)『との交流の話が残る』とあり、無論、本篇も、『松平南海が退屈を紛らわすために長身力士の釋迦ヶ嶽雲右エ門を化物に扮装させて、芝高輪(現・高輪)の貧乏医者をからかった旨の記述がある』と記す。
「彼老侯の居られし莊は、大崎とか云て、高輪、遠からざる所なる故なり」サイト「江戸マップ」の「江戸切絵図」の「芝高輪辺絵図」を見られたい。左端の方に「大崎村」の表示があり、そのすぐ下方に「松平出羽守」とあるのが、それ。ここの北は現在の品川区立御殿山小学校の一部で、その東北直近が現在の高輪であるから、南海の屋敷から最大でも三キロと離れていないものと思われる。というか、「高下迂曲」という表現から見ると、この医師の家は、案外、ごく近くだったのではないかと私は考えている。
「一目の童子は、その頃、彼の封邑雲州にて產せし片わなる小兒なりし」サイクロプス症候群(単眼症)の子どもであるが、同症候群は、脳の形成異常を伴う重症の奇形で、殆んどが死産、若しくは、出生直後に死亡し、長くても一年以内に死亡するようである。手塚治虫の「ブラック・ジャック」の「魔女裁判」で単眼症の少年が登場するが、ああいうことは一寸考え難い気がする。
『「釋迦ヶ嶽」と云し角力人にて、亦、領邑に出し力士なり』釋迦が嶽雲右衞門(寛延二(一七四九)年~安永四(一七七五)年)は出雲国能義郡(現在の島根県安来市)生まれ。当該ウィキによれば、身長二メートル二十六センチメートル、体重百七十二キログラムで、『江戸相撲では並外れた超大型の力士で』、『実力も高いことで知られている。しかし従来から病人であるためか』、『顔色が悪く、眼の中が澱んでいたという』。現役中の二十七歳で若死にしているが、『釈迦の命日と同じであり、四股名と併せて奇妙な巡り合わせと評判になった』。なお、安永二(一七七三)年には、『後桜町天皇から召されて関白殿上人らの居並ぶ中で拝謁して土俵入りを披露し、褒美として天皇の冠に附ける緒』二『本が与えられた。それは聞いた主君の出羽守(松平治郷)』(松平不昧。第十代松江藩主)『から召されて』、二『本の緒を目にした出羽守は驚きつつ喜び、側近に申し付けて小さな神棚を設けて緒を祀った。釋迦ヶ嶽が死去した時、神棚が激しい音を立てて揺れたため、出羽守は気味悪く思って出雲大社に奉納したと伝わっている』とある。
「瀨川菊之丞」三代目瀬川菊之丞(宝暦元(一七五一)年~文化七(一八一〇)年)化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。瀬川富三郎として安永三(一七七四)年春の市村座での「二代目菊之丞一周忌追善」として「百千鳥娘道成寺」(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となり、同年十一月の市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名している。「釋迦ヶ嶽」と「瀨川菊之丞」は、私の「只野真葛 むかしばなし (80)」でも記されてある。]
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