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2023/12/06

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「茶碗屋敷」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 茶碗屋敷【ちゃわんやしき】 〔思出草紙巻七〕『陰徳録』といへる書に、陰徳をなして陽報の有りし事あまたしるして、後の鏡とすれども、たまたま人の為に忠ある志をなしても、我は顔に慢じ、人にも語りて誉められん事をおもひ、また陰徳と思ふ事をなし得ても、陽報あらんやと心に待つの類ひ多し。これ何ぞ天の理にかなふべきや。この事は至つて難き事なるべし。遠からぬ頃ほひ、熊本の家中、国元より勤番し来《きた》る足軽あり。至つて実儀あつき者にて、仏道にかたむき信心浅からず。朝夕の勤めとなし、拝する本尊一体安置なしたしとて、兼ねて常々願ひ居《をり》たりしが、ある時、表長屋自分の住居《すまひ》なす部屋の窓より外を詠(なが)めて居たるに、古金《ふるがね》を買ひて渡世となすもの、笊(ざる)ふりかたげて通るを見れば、長さ弐尺ばかりの阿弥陀の木仏、いかにも本古仏《ほんふるぼとけ》と見えて、古道具の中に交へて入れ置きしかば、足軽大いに悦び、直《ただち》に乞ひなして弐百文に買取り、水にて洗ひ清め、部屋の角(すみ)に安置なしつゝ、香花《かうげ》を供へ礼拝して、看経《かんきん》の本尊となしたりしが、何卒修覆し箔を置《おき》て、荘厳《しやうごん》美麗に致し度《たく》心がけ、仏師の方へ持参し、その事を相談せんとて、右の木像を棚よりおろして、風呂敷につゝまんとせしが、誤まちて取落したるが、台座われて顚倒なしたるに、台座の下をゑり抜きし所より紙つゝみ落ちたり。足軽あやしんでひらき見るに、古金《こきん》三拾両小判にてありしかば、大におどろき且は歎じて、この本尊の売主を聞出《ききいだ》し返すべし、これ極めて先祖よりこの金を入れ置きしとも知らずして売りしと見えたり。その元を聞きて、是非々々返し与へんものをとて、同勤同住の面々へ深くかくして、その金子《きんす》を秘し納め置きて、このほど買取りし元《もとの》金買《かねがひ》の通るやと心懸け、朝夕窓の内より詠めつゝ、他行《たぎやう》往来の途中にても、右の商人《あきんど》に行逢《ゆきあ》ひしまゝ足軽が曰く、先頃汝より買ひ取りし仏像は、いづくより買ひ来りたるぞ。商人これを聞て、大きに心得違ひしていはく、随分々々確かなる所より買ひ取りたる品なり、いさゝか盗みしもの等にはあらず、気遣ひし給ふまじ。足軽笑つて曰く、全く左様の事にあらず、外に訳のある事なれば、その先方へ案内なしてくれよ、これは酒代にせよとて、鳥目を取らせぬれば、かの男いかなる事かといぶかしき思ひながら、然《さ》れば御しらせ申すべしとて、足軽をつれ立ちて、麻布<東京都港区内>古川といへる所に至り、ひなびたる家居《いへゐ》まばらの賤《しづ》が家に案内《あない》なしたるに、足軽大きに悦び、一礼を述べて渠《かれ》を返し、内に入《いり》て見るに、いかにもさびしき住居にて、朝夕の煙りもたえ間がちなる風情なり。主人は浪人と見えて、夫婦ならびに坐せり。足軽は先づ知人になりたる上は、事訳《ことのわけ》の始終を述べて、尊像の台座に入れ有りし金子を返して、請取り給へと差出《さしいだ》しければ、亭主の曰く、さてさて世には正直不思議の方も有るものかな、われら事は西国方《さいごくがた》に生れて、さる国の主《あるじ》の譜代の家来なりしが、讒者(ざんしや)の為に運つたなく浪人となり、それより江戸に出《いで》たる所に、する事なす事水のあわ[やぶちゃん注:ママ。後掲する活字本も同じ。]となり、両人の子は病死なし、よくよく微運の我々夫婦、国元の親類縁者も絶えはて、広き世界にこの身の上を置く所さへなき難渋、その上三ケ年の長病《ながやまひ》にて、何くれとなす事知らず、依《よつ》ていかんともする事なき悲しさ、日々に暮し方もさしつかへ、持伝へたる諸道具も売代《うりしろ》なして、米にかへ薪《まき》に替へて、露の命をたすかりぬるは、誠にはかなき我等が身のなるはて[やぶちゃん注:「成る果て」(活字本は『成はて』)で名詞で閉じているものと思われる。]、この程売りし弥陀如来も、先祖より持伝へたる持仏堂の本尊なり、然るに計らずもその本尊の台座の下より封金の出《いで》しこそ、極めて先祖の入れ置きしなるべし、不思議にもその元《もと》[やぶちゃん注:「そのもと」は「そこもと」に同じ。活字本は『其許』で、これなら私は普通に「そこもと」と読める。宵曲の拠ったものは、巻末にある「引用書目一覧」から、同じものと断定出来ることから、思うに宵曲が校訂して書き変えた際に、以下に出る「其元」と同じに処理をして統一したものだろうと思われる。「そのもと」の読みは私は嫌いなので、後も「そこもと」と読んでおいた。]の手に入りしは、天よりさづかり給ふといふものなり、我等方《かた》に幾年か安置せる折からは、その金の顕れざるは天のなす事にして、我運の尽きたる所なり、然れば申請《まうしう》くべき筋なしとて押返すを、足軽のいはく、いやいやさにあらず、この金子、不思議に手に入りし上に、只今までの持主を尋ねても知れざる時は是非もなし、眼前其元《そこもと》の先祖たくはへ金《きん》を入れ置かれしと見ゆるを、この方へ取らば賊に等しかるべし、是非に納め給へ。浪人決して請取らず申しけるは、我に天より与へざる金をいかでか猥(みだ)りにこれを取らんや、貴公へ天より授けられたるなり、それを我申請けたる時は、これ天に背くなり。足軽が曰く、貴公の金なれば是非々々返さんとて、大いに争ひてやまず。後には声高になりしかば、家主おどろいてはせ来り、何事にて候やと尋ねけるに、足軽答へて、ありし事の始終を物語りぬれば、家主大いに感心して、やゝうち傾《かたぶ》き考へて後《のち》に申しけるは、御両人、清潔のみさを正しき事尤も至極せり、爰に某《それがし》了簡あり、この事に応ぜらるべしとて、浪人に向つて曰く、その元[やぶちゃん注:活字本『其元』。]の御詞《おことば》も一理ありといへども、この事元来知らざる事なれども、元はその元[やぶちゃん注:同前。]の金子なり、然《しか》るに爰許《ここもと》にて受納し難きとある事も、またこれ御もつともなり、依てこの金は先づ請取られ、外《ほか》に持伝へられし品あらば、代りとして送らるべしと教道《きやうだう》し、また足軽に向ひ申しけるは、今聞かるゝ通りに、取扱かひたる間、その元[やぶちゃん注:同前。]へ謝礼として御亭主より代物品《かはりのぶつぴん》を請取られて、双方申分なく済《すま》し給へ。両人これを聞き、漸々《やうやう》得心して、その旨に任せける。時に浪人の曰く、恥かしき事なれども、打続きおば[やぶちゃん注:恐らく「尾羽」であろう。]打《うち》からしたる長《なが》浪人にて、伝来の器物調度残りなく売代(うりしろ)なしたり。然し先祖より持伝へし古茶碗壱ツあり、これは世に珍らしき品なりとて、我父たるもの、幼少の折から申せしかと覚えしが、茶の道を知らざる我等売り残してあり。これを参らせんとて取出《とりいだ》し与へけるは、いかにも古き茶の湯者《もの》の取扱ふべき形ちの茶碗なり。足軽も家主が口入れにて茶碗を請取り、猶またこれを縁として、この末《すゑ》懇意になすべしなど云ひて立分れ帰りけるが、人にも語らず、心中にのみ納めて光陰を送れり。かの貰ひ得たる茶碗、美麗にも見えざれば、常々渋茶のみぬる器《うつは》として朝夕に所持し、かたはらを放さず。ある時茶道坊主《ちやだうばうず》、これを見かけて、その茶碗かせよと乞ひ受け持ち帰り、凡《ぼん》ならざる器なれば、目利者《めききしや》に見《みせ》たるに、希(ま)れなる井戸茶碗なり。このあたひ金百両に買ふべしといふにぞ、茶道坊主大いにおどろき吹聴《ふいちやう》に及びし事、家《けの》老中の耳に入りて、足軽風情にてかゝる名器を所持なす事、必定盗み取りしものならんとて、かの足軽を呼寄せ、糺明《きうめい》に及べる間、足軽今はつゝむ所なく、始終残らず申述《まうしの》べたるにぞ、この事よく糺《ただ》したる上に、大守の聞《ぶん》に達しける。大守大に感じ、下賤のものには珍らしくその性《せい》美なるものなりとあつて、右の茶碗の代金百両足軽へ遣《つかは》し、五十石加増なして侍分《さぶらひぶん》に取立《とりたて》となれり。その姓名聞きしかど忘れたり。この事専ら風談あつて、あまねく世に広まれり。これ陰徳陽報たるべし。その頃、高名《かうみやう》天《あめ》が下にとゞろき、岸に登れる朝日のごとく威光かゞやき渡る田沼主殿頭《とものかみ》、此事を聞き、殿中にて細川家に対し申しけるは、足下《そこもと》には井戸茶碗を御所持のよし、拝見致し度《たき》との事ゆゑ、細川早速持たせ遣しける。田沼暫く借用の仕《つかまつ》りたしとて留置《とめお》き、日数《ひかず》も程経るといへども戻さず。なほざりに打過《うちすご》したりしに、細川が家老の中《うち》、智謀すぐれし者ありて申しけるは、かの茶わん催促には及ばず。致方《いたしかた》こそあれとて、同席相談して、大守へも申聞《まうしき》けたる[やぶちゃん注:一応、そう読みをおいたが、こんな言い方はあまり馴染みがない。]上にて、願書認《したた》めて公儀へさし出《いだ》す。その文に、屋敷手ぜまに付、家中のものさし置候場所にさしつかへ難渋仕る間、何卒神田橋御門外の明地《あきち》拝領仕り度候と書して、田沼御用番の節、差出して厚く頼みけるに、田沼先達ての茶碗懇望にて有りし事と、段々厚く願ひぬる事といひ、その願ひ取上げて評議に及びしとかや。元来この地面は、御城内火除《ひよけ》の場所にて、已(すで)に先年水野氏拝領なし、家作《かさく》して住居となせど、また返上して明地となりたり。依(より)て中々容易に拝領地となすべき場所ならねども、その節威光つよき田沼なれば、いかゞ上向《うへむき》を取結《とりむす》びぬるか、願ひの通り仰付けられて、右の明地を拝領せり。依てこの訳《わけ》知りたるものは、この屋敷を茶碗屋敷といへり。<『近世珍談集』にこの話がある。ただし阿弥陀像にあらずして大黒天像、卅両にあらずして弐百両なり>[やぶちゃん注:どうでもいいことだが、この宵曲の附記、第二文が古文ぽいのは何でやねん?]

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○茶碗屋敷の事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから正規表現で視認出来る。

「陰徳録」不詳。識者の御教授を乞う。

「井戸茶碗」高麗(こうらい)茶碗の一つ。濁白色の土に、淡い卵色の釉(うわぐすり)のかかっているもの。室町以後、茶人に愛用された。その名称の由来については諸説があって定まらず、「大井戸」・「古井戸」・「青井戸」・「井戸脇」など、その種類も多い(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「田沼主殿頭」田沼意次。当該ウィキによれば、明和四(一七六七)年に御側御用取次から側用人へと出世し、明和六(一七六九)年には侍従に上り、老中格になっている。安永元(一七七二)年には、現在の静岡県内の相良(さがら)藩五万七千石の大名に取り立てられ、老中を兼任した。因みに、彼は『側用人から老中になった初めての人物』である。しかし、天明六(一七八六)年八月二十五日、将軍家治が死去した。『死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間』『に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる。意次は』八月二十七日、『老中を辞任させられ、雁間詰に降格』、同年閏十月五日には『家治時代の加増分の』二『万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と』、『江戸屋敷の明け渡しも命じられた』。『その後、意次は蟄居を命じられ』、二『度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた』八『万両のうちの』一万三千両と、『塩・味噌を備蓄用との名目で没収された』、『長男の意知はすでに暗殺され、他の』三『人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥下村』一『万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった』。『その』二『年後にあたる』天明八(一七八八)年六月二十四日、『江戸で死去した。享年』七十であった。

「近世珍談集」作者・書誌不詳。僅か三篇のみから成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第二十二(三田村鳶魚・校訂/随筆同好会編/昭和四(一九二九)年米山堂刊)でここから視認出来る。標題は『神田橋御門外細川侯茶碗屋舗の謂れの事』である。こちらは、漢文脈部分がかなり多い。]

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