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2023/12/27

只野真葛 むかしばなし (95)

 

一、九月廿日過(すぎ)、ひるより、

「雉子(きじ)を、うたん。」

とて、犬をつれて、山に入(いり)、とかくたづねれども、鳥も、なかりしに、やうやう七(ななつ)[やぶちゃん注:午後二時。]時分、一羽、見いだしたれど、それも、はでにして[やぶちゃん注:暴れて。]、河原(かはら)に、おちたり。

 犬は、つゞきて、崖を下りしが、人は、ゆかねば、まはりて行(ゆき)て見しに、鳥は見へず[やぶちゃん注:ママ。]。

「もし、河水にながれしや。」

と、とかく、もとむるとて、時刻うつり、木の根に腰かけ、やすらひ居(ゐ)たれば、かたはらにふしたる犬、空をあふぎて、しのび聲に、さけびたり【かならず、毛ものゝ、くる時、する事なり。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]

「もし、いたちなどの、いづるや。」

と見めぐらしに[やぶちゃん注:ママ。]、河上(かはかみ)より、人のくる影、見ヘたり[やぶちゃん注:ママ。]。

 河柳(かはやなぎ)の間より見れば、女なり。

『此かはらは、山中にて、人のかよはぬ所なり。木こりなどは、まれにも、かよヘど、女のくべき所、ならず。まして、暮かゝるに、いづちへか行べき。』

と、其さまを、よくみれば、十三ばかりの人のおほきさにて、手は懷(ふところ)へ入(いれ)、兩手とも、入(いれ)しかたち【袖とおぼしきものも見へず。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]、古手ぬぐひをかぶり、黑き布子をきて、茶色の帶を〆たり。柳や笹葉にさはりても、少しも、音もせず、足もうごかず、作付(つくりつけ)なる物を、おすやふ[やぶちゃん注:ママ。]なり。

 形は、人にて、人、ならず。

『まづ、ことばを、かけてみむ。』

と、おもひて、

「姊(あね)、どこひ[やぶちゃん注:ママ。]、行(ゆく)。」

と問へば、

「うふゝ。」

とかいふ樣に、こたへしが、かはづの聲に、似たり。

 しかも、

『七、八間わきの、やふなり。』[やぶちゃん注:「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。「やふ」はママ。或いは、「樣(やう)」ではなく、「藪」の濁点落ちかも知れない。]

と、おもひて、そのかたを見やれば、むかひの笹藪の中より、ちひさき狐、首(かうべ)をいだしてゐしが、其狐の、はたらくごとく、人形(ひとがた)も、はたらけば、

『扨は。是が、なすわざに、たがひなし。鐵砲をためてみんとも、見付(みつけ)やせん。』[やぶちゃん注:「ためて」片目を閉じて、狙いをつけて。]

と、あやぶまれて、やうやう外(そと)より、めぐらして、狐のかたへ、むけしに、むかふ見當は、はや、見へず。

『手とらば、いよいよ、くらくならん。』

と、おもひ、火ぶたをきれば、ひゞきと、ひとしく、狐も、人形も、なくなりたり。

 犬を、おこして、やりしに、一聲、鳴(なき)て、歸り來たりし。

 鼻面(はなづら)に、血、付たり。

『仕とめたる』

と、おもひて、笹を分(わけ)て見れば、年ふりし女狐(めぎつね)の、齒も、大方、かけて、二、三枚、有(ある)か、なし、とぞ。

「此あたりにて、人をばかすわるき狐、有(あり)しが、是より、人もばかされねば、是ならん。」

と所のもの、悅(よろこび)し、とぞ。

[やぶちゃん注:流れから、主人公は前に出た「八弥」である。それは、続く次の話で明らかに示される。]

 

 おなじ人、文化三年[やぶちゃん注:一八〇六年。]の秋、おぎしゝ打(うち)に出(いで)しに、

『人氣(ひとけ)なき山を、たづねん。』

と心ざせしに、道にて、「おぎ笛」をうしなひたり【「古事記」に、『天照大御神を、おぎ奉つる。』といふ事、有。「あらぬことを、おもしろげにかまへて、あざむく。」を、いふ。此笛も、ふるき名なるべし。】[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

[やぶちゃん注:「おぎしゝ」。「只野真葛 むかしばなし (86)」、「おぎ笛」を「荻」の葉で作った「猪」寄せの笛ととったのだが、お恥ずかしいことに、六年前に自分が電子化注した「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」で、

   *

「おき笛」「日本国語大辞典」によれば、宮城県仙台の例が挙がる方言で(原典の筆者只野真葛は仙台藩医の娘)、猟師が鳥獣を呼び寄せるために吹く笛とある。但し、原典(後掲)では「おぎ笛」と濁り、しかも『「古事記」に、天照大御神をおぎ奉つるといふ事有。あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむくをいふ。此笛もふるき名なるべし。』という全く別な名前由来が注されてある。しかし、この「あらぬことをおもしろげにかまへて、あざむく」意味の「おぐ」という動詞は私は知らない。或いは「招(を)く」で「招(まね)く」の謂いか。これなら、鷹匠言葉で「餌など鳥を招きよせる」という意味もあるから、最初の「おき笛」との酷似性が強まると言えるように私には思われる。さらにそれなら、今の「バード・ホイッスル」(鳥笛)との相似性も出てくる。

   *

と明らかに記していた。なお、以下に出る「鹿」も、私は総て、「しし」と読み、「猪」「鹿」を包括した意で採っておく。

 せん方なければ、かの養父忠太夫より、ゆづられし「ひめどう」を取いだし、ふきしに、澤底にて、女の、わらふ聲、はるかに聞えしを、

『「きのことり」に來りし女ならん。』

と、おもひて有(あり)しに、やうやう、ふきかけしを、鹿(しし)を、近づけんとて、吹(ふき)かけし笛をきゝてちかき澤にて、女の笑聲せしほどに、鹿は、おどろきて、にげさりたり。

[やぶちゃん注:「ひめどう」これも、今回、「宮古市北上山地民俗資料館」公式サイトのこちら(「山村生産用具コレクション」の「狩猟・漁労用具」)の「キジおぎ おぎ笛」で、『鹿の骨製の笛で、雄用が正方形に近く、雌用が長方形である』とあって、『資料番号:E-1-37』・『詳細図:e1-37f』・『作図者:安藤稀環子』とあるこの画像を見ることが出来た。これによって、前注と合わせると、「おぎ」は「招ぎ」の可能性が高く、「キジ」は鳥獣を代表する(里近くでも容易に捕獲出来る点ですこぶるポピュラーである)「雉」と考えてよいだろう。而して、想像していた可憐な形ではない、マタギ系を感じさせる道具であることも判明した。

『外(そと)に、よりくる鹿もや。』

と、しきりに笛をふけば、其たびたびに、わらふこと、しばしばなり。

 終(つひ)に、萱(かや)、かき分(わけ)て、

「さらさら」

と、のぼりくるもの、有(あり)。

『又、いにし年の狐のたぐひには、あらずや。』

と、よく見しに、さらに化(け)したる物ならず。

 「おぎ笛」を、よろこびたるさまにて、右の手を、いたゞきに、あげ、左の手を、むな前(まへ)に、つけて、こなたを、見やりて、こゝろよげに、わらへるつらつき、赤きこと、猩猩緋(しやうじやうひ)のごとく、かしらの髮は、つき毛馬(げうま)の尾のごとし。

[やぶちゃん注:「つき毛馬」葦毛(葦の芽生えの時の青白の色に因み言う馬の毛色名。栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の原毛色に後天的に白色毛が発生してくるもの)で、やや赤みを帯びて見えるの馬。由来は鴾(つき:ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon の古くからの異名)の羽色を連想させるところから。]

 朝日に、うつりて、ひかりかゞやき、惣身(そうみ)の毛は、くちば色にて、豆(まめ)がらを付(つけ)たるごとく、ぬけいでゝ、さがれる物、ひまなく、付(つき)たり。

 見事なる奇獸なり【鐵砲をとりまわすとて、少し、かたちの見えしにや、毛物、おどろきて、】。[やぶちゃん注:底本に『原頭註』とある。]。

 落(おち)、さかさにかへりて、にげ行(ゆく)所を、背の四ツ合(あひ)を、ねらひ打(うち)し。

 鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底(さわぞこ)に入(いり)しが、なく聲、小女(しやうじよ)に、たがふこと、なし。やゝひさしく、くるひて、聲もたへしが、其からは、故有(ゆえあり)て手に入るに、あまたの年は、へぬれども、名笛(めいてき)のしるし、有けるぞ、ふしぎなる。

[やぶちゃん注:この最後のシークエンス、私は、何だか、妙に心穏やかではいられない。ここにくるまで、八弥は一貫して、「女の」「笑」「ふ聲」とし、「狐のたぐひには、あらずや」と疑うも、「よく見しに、さらに化(け)したる物ならず」と否定して、人形(ひとがた)で少女の姿であることを言明している。顔や頭髪が強い赤い色を呈していること、「惣身」に朽葉色の毛に覆われて、ぼそぼそと抜けたそれを、「ひまなく」ぶら下げているというのは、「山姫」・「山女」のように特異的ではあるが、としても、これは、どうみても、ヒトの少女に違いない。ところが、それを、打ち殺す直前では「見事なる奇獸なり」「毛物」と言い変え、「にげ行所を、背の四ツ合を、ねらひ打」ったのである。ところが、「鐵砲の音と、ひとしく、おめき、さけび、澤底に」転落した後も、その「なく聲」は「小女に、たがふこと、なし」と言っているではないか? 何故、八弥は、その獲物=奇獣を回収しなかったのだ? それは、この子は、事実、山中に住んでいた少女であったからではなかったか? 口減らしや、何らかの身体的・精神的疾患を持った少女の捨て子、ペドフィリアにかどわかされたが、その男が死んだか、そこから逃げた、少女だったのではなかったか? 八弥は、姿こそ異様だが、人間の少女と実は認識したからこそ、「ヤバい」と感じ、放置して、逃げ帰ってきたのではないか? その後悔を、真葛に怪奇談の妖怪の山姫・山女の少女として語り変えることで、自身の道義的責任(殺人罪)を逃げているとしか、私には読めないのである。そうすると、「86」の最後に出る『「養子覺左衞門に、讓る。」とて、「此笛は、しかじかの事、有(あり)て、吹(ふけ)ば、化物の、よりくる笛なり。必ず、用(もちふ)べからず。」と、いひし、とぞ【後、覺左衞門ふきし時も、あやしき毛物、より來りし。】』とあるのも、何やらん、この後の少女殺人を回避する目的のみえみえの伏線のようにしか、私には思われない気もするのである。

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