只野真葛 むかしばなし (110) 三吉鬼
一、秋田に、「三吉鬼(さんきちおに)」といふもの有(あり)。
人里へ出(いで)そめしは、いく年(とし)先(さき)のことにや、しらず。
いではじめには、見なれぬ男の、酒屋へ、いりて、酒を、おほく、のみて、さらに、あたひをつぐのはずして、いで行(ゆき)しを、むたひに、酒代(さかだい)を、はたれば、かならず、わざわひに逢ことなりし故、おそれて、心よく、ふるまひしもの有(あり)しに、其夜中に、酒代、十倍ほどのたき木を、門に、つみおきし、とぞ。
それより、いづかたにても、『其男ならん。』と、おもへば、あくまで、酒を、のませしに、かならず、夜中に、かわり[やぶちゃん注:ママ。]の物を、つみおきしを、誰云(たれいふ)となく「三吉鬼」とよびて、後には、
「いづくの山の大松(だいまつ)を、この庭中(にはなか)ヘ、うつしくれよ。」
と願(ねがひ)かけて、酒だるを、さゝげおけば、酒は、なくなりて、一夜のうちに松の木を、庭にうゑおき、大名なども、人力にうごかしかたき品を、酒をいだして、ねがへば、心のごとく、はこぶことにて、人家の重寶なりし故、
「三吉鬼、三吉鬼、」
と、いひはやせしに、此文化年中より三、四十年前より、たへて[やぶちゃん注:ママ。]、そのもの、人里にいでず成(なり)しとぞ。
いかゞせしや、ふしぎのことなりし。
[やぶちゃん注:「三吉鬼」当該ウィキが存在する。真葛の本記事も紹介されているので、全文を引く。『三吉鬼(さんきちおに)は秋田県に伝わる正体不明の妖怪。江戸時代の女流文学者・只野真葛の著書』「むかしばなし」に『記述がある』。『三吉神(鬼)の最も古い記録は、只野真葛や菅江真澄のものがある。江戸女流文学者の只野真葛が著した』「むかしばなし」では、『三吉鬼は「見知らぬ男」と言われている。酒屋で酒を飲んで、そのまま出ていこうとするが、そこで男に酒代を請求すると必ず災いに遭い、酒を捧げると酒代十杯ほどの薪が門に積み上がっている。それからは、その男』とおぼしい男に、『酒をあくまで飲ませれば』、『必ず』、『夜中に代わりの物が積み上がっているので、誰が言うと無く「三吉鬼」と呼んだ。後には』、『どこかの山の大松をこの庭に移してくれと願をかけて酒樽をささげると』、『酒は無くなり』、『一夜のうちに松の木が庭に植えられている。大名も人力で動かせない品を酒を出して願うと、願いに従って運ぶ』。「三吉鬼、三吉鬼、」と『もてはやしたが、文化年中より三~四十年前より』、『絶えてその者は人里に出なくなってしまった』。『菅江真澄は』「月酒遠呂智泥」(つきのおろちね:文化九(一八一二)年七月筆)で、『ある年仙北郡のなる外大伴村(外小友村)で相撲取りをして世を渡っている若者が、太平山に登り』。『三吉神に酒や粢を供えることで力士は力を得ているとしている』。『三吉神の力の神としての性格がうかがえる。一方』、『「三吉」の所在を尋ねられた籠舎』(ろうしゃ:牢屋。)『にいた人々が「神仙であるからどことも定まっていない」と答えていることにも注目すると、太平山村近の人々は三吉神が神仙であると認識していることになる。太平山三吉神社に保存されている棟札にも「仙人三吉権現」』(元禄四(一六九一)年)『と記されていることから、三吉神は』本来は『仙人と考えられていたと推測できる』。『そのように人々にもてはやされていた三吉鬼だが、文化年中より』三十~四十『年ほど前からは』、『人里に現れることはなくなったという』。『こうした三吉鬼の伝承には』、『秋田の太平山に伝わる鬼神・三吉様の信仰が背景にあるといわれ』、『太平山三吉神社の三吉霊神が人間の姿で人前に現れたときには』「三吉鬼」の『名で呼ばれたとする説もある』とある。太平山三吉神社はここ(グーグル・マップ・データ)。]
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