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2023/12/23

只野真葛 むかしばなし (88)

 

[やぶちゃん注:以下は前の「87」に、ちらりと出た「八弥」の養父である橋本正左衛門の若き日の話。彼は、『日本庶民生活史料集成』版の中山栄子氏の注に『竜ケ崎の伊達陣屋に勤務した藩士で』、『不思議を好む性のため、狐にばかされた事のある人』とある。同内容の「奥州ばなし めいしん」の本文と私の注を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのも、それに準じたものである。

一、「名人」といふ一法あり。出家の災難に逢し時、身を遁(のが)るゝ爲の心がけに行ふ法なり。一世一度の難と思ふ時、實(まこと)に、其身にとりて、一度ならでは、きかぬことの、よし。

 ある和尙、此法をおこなふといふ事を、八弥養父、正左衞門、聞付(ききつけ)て、此人、わかき時は、奇なる事をこのみし故、頻りに習得(ならひえ)たくおもゑて[やぶちゃん注:ママ。]、和尙に親(し)たしくして、常に寢とまりして、其法をならわん事を願(ねがひ)しに、

「今、少し、心、定まらず。」

と、いひて敎(をしへ)ざりし、とぞ。

 其寺に、幼年よりつとめし小性(こしやう)[やぶちゃん注:「小姓」はこうも書いた。]有(あり)しが、是も、しきりに、

「その法を、ならひたし。」

と願しとぞ。

 あまり他事(たじ)なく願(ねがふ)ゆへ[やぶちゃん注:ママ。]、和尙、曰(いふ)は、

「さほど、しんせつに願ふ事、つたへるは、やすけれど、正左衞門も、あの如く習わん[やぶちゃん注:ママ。]と願(ねがふ)を、そこにばかり、をしへたりと聞(きか)ば、うらむべし。必ず、習(ならひ)しとは、他言すべからず。」

とて、傳へたりし、とぞ。

 正左衞門は、例の如く、執心の餘り、夜咄(よばなし)の後(のち)、とまりて有しが、十月末の事なり、音もなく、雪のふりて、よほど、つもりたりしを、誰(たれ)もしらで、寢たりしに、夜中比(ごろ)、

「ばつたり」

と、おほきなる音、したりし故、和尙は勿論、正左衞門も、とびおきて見しに、和尙の肌付衣(はだづきぎぬ)を、晝、洗(あらひ)て、棹に掛(かけ)て、干(ほし)たりしを、宵には、雪の降(ふら)ざりし故、とりも入(いれ)ざりしに、おほく、雪のかゝりたりしを、彼(かの)小性、目(め)も、ろくに醒(さめ)ずに、小用しにおきて、ふと、見つけ、

『大入道の立(たつ)て有(ある)は、是ぞ、一世一度の難ならん。』

と、此程、習ひし法をかけしに、新しき木綿肌着、さけたりし音にて有し、とぞ。

 小性は、面目なくて、たゞ、ひれ伏して、

「眞平御免被ㇾ下。」

と、わび居《ゐ》たり。

 和尙は、大きに立腹して、

「それ見よ。『心、定(さだま)らぬ内(うち)、ゆるしがたし。』と云(いひ)しは、是ぞ。にくき奴め哉《や》。多年、目、掛(かけ)てつかひしも、是切(これきり)ぞ。明朝、早々、立(たち)され。」

と暇(いとま)申渡し、正左衞門に向ひ、

「其許(そこもと)には、只、『愚僧が、法を、をしむ。』とのみ、思はるべし。あれぞ、手本なる。心の定まらぬ人にゆるすと、かくの如くの、けが出來(いでく)る故、ゆるし申さぬなり。必ず、うらみ給ふべからず。是は幼年よりめしつかひし者の、他事なく、ねがふ故、心もとなく思ひながら、ゆるせし事なり。我さへ、是にこりて、ゆるし難し。」

と、いひし、とぞ。

 其小性は、二度(ふたたび)行ひても、しるしなき法をかけて、早々、追い[やぶちゃん注:ママ。]だされしなり。

 正左衞門も、

『實(まこと)に、おそろし。』

と、おもゑし[やぶちゃん注:ママ。]、とぞ。

法といふものは、不思議のものなり。たゞ、となへ事したりばかりにて、棹と、單(ひと)への衣(ころも)、さけたるは、かへすがへす、あやしきこと。」

と、同人(どうにん)、度々、語(かたり)し、とぞ。

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