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2024/01/31

「蘆江怪談集」 「怪談靑眉毛」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。]

 

 

     

 

 

         

 

 宮部(みやべ)三十郞(らう)は筆を下に置いて詠草(えいさう)を手にとつた。

「泣顏を隱(かく)せば行燈(あんどん)搔(か)き立てゝ――大分艶(えん)な場面になつたの」

「左樣、お手前には得意(とくい)の擅場(だんぢやう)ぢや、さあ、充分(じうぶん)色(いろ)つぽいワキをつけてもらひたいな」とうしろに手を突いて身體を反(そ)らしたのは高坂杢之)進(たかさかもくのしん)、柱にもたれてニコニコとしてゐるのが神村甚(かみむらじん八。

 何れも旗本(はたもと)の御次男(ごじなん)。

「よし、かういふ風に付けよう、――障子(しやうじ)にうつす影(かげ)の怖(こは)さよ――どうぢや」

「いや。少し怪談(くわいだん)じみて來たの」

「なるほどなるほど、泣顏(なきがほ)を隱せば行燈(あんどん)かき立てゝ、障子にうつす影(かげ)の怖(こは)さよ、か、よしよし、さて次は私の番(ばん)か」と高坂杢之進が頭を兩手に抱(かか)へ込(こ)んだ。

 其時、突然(とつぜん)、神村甚八が一膝乘(ひざの)り出して、

「怪談(くわいだん)で思ひ出したが、近々(きんきん)に百物語をやつて見ようではないか」と云(い)つた。

「百物語、うむ、それは面白(おもしろ)い、早速(さつそく)囘狀(くわいじやう)を𢌞すとしよう、何か趣向(しゆかう)をするかな」

「趣向は要(い)るまい、いつもの通りの百物語ぢや、只(たゞ)幽靈(いうれい)の掛地(かけぢ)ぐらゐは二三本あつてもよいの」[やぶちゃん注:「掛地」掛物。掛け軸。]

「幽靈の掛地なら臼井氏(うしゐし)の筆で描(か)いてもらつたらそれで濟(す)むわ」

「なるほど、臼井氏なら凄(すご)い繪(ゑ)を畫(か)いてくれるであらう」

 臼井といふのは國友(くにとも)と號して浮世繪(うきよゑ)のたしなみを持つ同じ旗本の次男仲間(じなんなかま)である。

「場所は何處(どこ)がよからうの」

「拙者(せつしや)の邸でもよいが、それでは女どもが集(あつ)めにくい、百物語ならば女が多勢(おほぜい)ゐなければどうも凄味(すごみ)が付かぬものぢや、水神(すゐじん)へ持ち出すとしようか」[やぶちゃん注:「水神(すゐじん)」「水」の音「スイ」は明治・大正・昭和初期頃までは、歴史的仮名遣を「すゐ」とするのが一般的であったが、その後、中国音韻の研究が進み、現在は「すい」でよいことが決定されている。なお、この「水神」は意味不詳。或いは、現在やや移動している隅田川神社(グーグル・マップ・データ)の鎮守の森を「水神の森」と呼んだから、この周辺にあったかも知れない茶屋等を指すか。識者の御教授を乞う。]

「なるほどそして堀(ほり)の連中を呼(よ)び上(あ)げるかな」[やぶちゃん注:「堀」吉原遊廓は新旧ともに堀で囲まれていた。]

 いつか百物語の催(もよ)ほしの下相談に移(うつ)つて、折角卷かけた歌仙(かせん)はもう藏(しま)ひ込(こ)まれて了つた。

 百物語の場所や日取、呼(よ)び集(あつ)める友だちの顏(かほ)ぶれなど、それぞれ申合せが濟(す)んだ時は、もう亥(ゐ)の上刻[やぶちゃん注:現在の午後九時から午後九時四十分比までを指す。]といふ刻限(こくげん)。

「さあこれで又一つ新規(しんき)な樂(たの)しみが出來たといふものだが、そのお庇(かげ)で折角(せつかく)卷(ま)きかけた歌仙は中止になつたの」

「なに歌仙(かせん)はこの儘(まゝ)にして置けば、いつでも卷(ま)けるわ、兎に角あらまし申合せも濟(す)んだから今夜は散會(さんくわい)としようではないか」

「なるほど、もうかれこれ四つ[やぶちゃん注:午後十時。]ぢや」と神村(かみむら)が先に腰(こし)を上げる、高坂も立上ると、阿部(あべ)[やぶちゃん注:ママ。「宮部」の誤記か誤植。]はまだ引止めたい顏(かほ)つきで、

「では拙者(せつしや)も風に吹かれがてら、其處までお見送(みおく)りをいたさうかな」小刀(せうたう)を一本さした儘(まゝ)でぶらりと靑葉(あをば)の月の下に立つた。

 宮部の邸は濱町河岸(はまちやうがし)、三人はその河岸通りを懷手(ふところで)で、尙(なほ)仕殘(しのこ)した話を續けながら兩國廣小路(りやうごくひろこうじ[やぶちゃん注:ママ。])へ出ようとする。

 兩國廣小路の見世物小屋(みせものごや)も、もうそろそろ人の散(ち)り際(ぎは)と見えて、點(とも)しつられた燈(あかり)が、齒(は)のぬけたやうに洩(も)りかけてゐる、その廣小路へかゝる一寸手前の橫町兩側は、町家の隱居所(いんきよじよ)や妾宅(せふたく)の立ちならんだ仕舞屋(しもたや)ぞろひの中に、只(たゞ)一軒二間間口[やぶちゃん注:「にけんまぐち」。約三・六四メートル。]の見世屋がある、元來(ぐわんらい)小(こ)ざつぱりとした荒物屋だが、とりわけ物淋(ものさび)しい橫町に只一軒の見世屋である爲めに一層(そう)際立(きはだ)つて見える。

 宮部三十郞は其處まで來ると、心圖(ふと)立止(たちど)まつて「御兩君(ごりやうくん)」と小聲で呼びかけた。

「あの荒物屋(あらものや)の見世先に坐(すは)つてゐる女を、何と見られる」

「なるほど、これは素晴(すばら)しい美人ぢや」

「美人(びじん)といふだけか」

「大分(だいぶ)凄味(すごみ)があるの、併しあの位のは一寸(ちよつと)稀(まれ)ぢや」

「少しつんと仕過(しす)ぎて居るの」

「それぢや、そのつんとしてゐるのが、何(なん)となく私に目ざはりで堪(たま)らない、私はあゝいふ女こそ間男(まをこと)をする女ぢやと思つて居る」

「間男をしさうな女といふのか、うむ、これはよい目(め)のつけどころぢや、私もさう思(おも)ふ」

「あれでもう娘(むすめ)ではないのか」

「なにあの家の女房(にようぼ)ぢや、邸(やしき)の仲間が何處かで聞いて來た話には、何でもあの店(みせ)の主人といふのは大工で、店は家内が手内職(てないしよく)に出してゐるのださうな、可愛い獨(ひと)り息子(むすこ)に日本一の美人を嫁(よめ)にしてやりたいといふのが日頃の望(のぞ)み、その日本一の美人といふ鑑定(めがね)に叶(かな)つて、つい一月ほど前に嫁入つて參(まゐ)つたのがあの女ぢや。あの女の親は辻駕籠(つぢかご[やぶちゃん注:ママ。])をかついでゐるさうぢやが、嫁(よめ)にとつて以來あの家の兩親(りやうしん)はそれが大自慢(おほじまん)であの通り、晝となく夜となく見世先(みせさき)へさらしづめにしてゐるのぢや」

「荒物屋繁昌(あらものやはんじやう)の爲めの看板女房ぢやな」

「いやさうとばかりは限(かぎ)らない、只自慢に見せびらかしてゐるといふ次第(しだい)さ、あの女の顏を始(はじ)めて見た時に、拙者(せつしや)は何といふ理由(りいう)なしに、間男をしさうな女ぢやと思つた、それ以來(いらい)この橫町を通(とほ)るのがいやでいやでたまらない、いやでたまらない癖(くせ)に、あの女の事が氣(き)になつて、ついつい、かうして此の橫町(よこちやう)を通つてはあの見世を覗(のぞ)き込(こ)む癖がついて了うた、これはどうした譯(わけ)か拙者自身(せつしやじしん)にも解(げ)せないで困つてゐるのぢや」

「貴公(きこう)、あの女に惚(ほ)れたのであらう」

「いや、其樣(そんあ)な事は神以(かみもつ)てない、只(たゞ)憎々(にくにく)しくてたまらないのぢや」

「はゝゝ、人の疝氣(せんき)を頭痛に病(や)むといふ事もあるが、餘りといへば筋(すぢ)ちがひの毛嫌(けぎら)ひぢや」[やぶちゃん注:「他人の疝氣を頭痛に病む」自分に何の関係もないことに、余計な心配をすること]の喩え。但し、諸辞書の使用例を見ると、昭和以降の事例のみなので、江戸時代のシークエンスで使用するのは違和感がある。]

「うむ、さう云はれても仕方がない、若(も)しあれが私の妹(いもうと)か何ぞであつたら、疾(とう)の昔に切り捨てゝ了つてゐるかも知(し)れぬ」

 宮部はかう云つてゐる間も氣をいらくさしてゐた、あとの二人は格別(かくべつ)氣(き)にも止(と)めず、

「兎(と)に角(かく)、美人は美人だが、たしかに愛嬌(あいけう)は乏(とぼ)しいの」と一口に云ひ切つて「では臼井氏の方は拙者手近で賴(たの)んで置く事にするが、水神(すゐじん)へはお手前から附込(つけこ)んで置いてもらひたい」

 「宜しい、承知した」と云つて、宮部は高坂、神村と別れて引返した。

 

         

 

 それから三日目の夜(よる)、宮部は仲間(ちうげん)の宅助(たくすけ)を連れて外出のかへりがけ例(れい)の橫町へさしかゝると、宅助が、

「若旦那樣、昨日か今日の中(うち)に、例のお玉(たま)の顏を御覽(ごらん)になりましたか」と聞く、

「そこの荒物屋の若女房(わかにようぼ)の顏が、どうかしたといふのか」

「ヘイ、ぢやまだ御覽になりませぬな、すつかり元服(げんぷく)をしましてな、水々と靑岱(まゆ)を引いて素晴(すばら)しい女房ぶりを造(つく)つて、相變(あひかは)らず見世先に坐(すは)つて居ります」

「あの女が元服をした、一層(そう)憎(にく)らしい顏であらう」

「いやどうも、世の中に美人は俺(お)れ一人といふ風な素振(そぶり)で、そつくりかへつて居ります」

 二人がこんな話をしてゐる間(うち)に、二人の身體(からだ)はこの荒物屋の前(まへ)へさしかゝつた。

 なるほど其のお玉(たま)は水々した靑眉毛(あをまゆげ)の元服姿で見世先に坐つてゐた。

「若旦那、憎(にく)らしい姿ぢやありませんか」

「うむ、いよいよ間男(まをとこ)をしさうな女ぢやの」

「何(なん)とかからかつてやりませうか」

「どうして、からかはうといふのぢや」

「何か買物(かひもの)をしながら、話しかけます」

「止(よ)せ止せ、碌(ろく)でもない事を」と云ひ捨てにして宮部は足(あし)を早(はや)めた。

「あの女め、若旦那(わかだんな)のお顏を見おぼえて了(しま)ひましたぜ、今お通りがかりに、會釋(ゑしやく)をして居りました」

「なに、會釋(ゑしやく)なぞするものか、其方(そのはう)の思ひなしでさう見えたのぢや」

「いゝえ、たしかに笑顏(えがほ[やぶちゃん注:ママ。])を造りました」

「どうでもよい、捨(す)て置(お)け捨て置け」

 宮部はいらいらしながら步(ある)いた。

 更(さら)に三四日經(た)つた雨の夜、仲間の宅助が、

「若旦那樣、臼井樣(うすゐさま)からお使(つか)ひでございます」と閾越(しきゐご)しに云ひ入れた。

「使ひの用(よう)は」

「ハイ、こゝにお手紙と、包(つゝ)みものが屆(とゞ)いて居ります。只若旦那樣へさし上(あ)げればよいと申(まを)しまして、使(つかひ)は直ぐに立ちかへりました」

「うむ、百物語に用ふる幽靈(いうれい)の繪(ゑ)であらう、包(つゝ)みの封(ふう)を切つて見やれ」と云ひながら宮部は手紙を讀(よ)みはじめた。

 宅助の手で解(と)かれた包みは假卷(かりまき)に仕立てた掛地(かけぢ)が一本。

「若旦那の仰(おつ)しやる通りでございます、掛けて見ませうか」と、獨(ひと)り合點(がてん)で長押(なげし)に火箸(ひばし)を挾(はさ)んで假卷を開(ひら)いた。

「やあ、これは物凄(ものすご)い」と宅助は身慄(みぶる)ひをして廊下(らうか)へ飛び退つた[やぶちゃん注:「しざつた」。]。

「うむ、國友としては天晴(あつぱ)れ上出來ぢや、今にも鬼火(おにび)が燃(も)え出しさうな幽靈ぢや」と云ひ云ひぢつと見る中に、宮部の目は掛地に吸(す)ひよせられるやうに、据(すわ)つて了(しま)つた。

「臼井樣の若旦那樣(わかだんなさま)がお描(か)きなされたのでござりますか」

「うむ」

「どうも凄(すご)いものでござりまするな」

「うむ」

「これは何にお使(つか)ひなさるのでござりまする、幽靈(いうれい)の繪など、迚(とて)もお邸の床(とこ)にお用ゐになるのはあんまり緣起(えんぎ)のよいものとは思はれませぬが」宮部はもう默(だま)つて了つて、只一心に繪(ゑ)に見入つてゐる。

「若旦那樣(わかだんなさま)、どうかなされましたか」

 宅助は怖氣立(おぢけた)ちながら、宮部(みやべ)の顏色を見い見い、怖(おそ)る怖る尋ねた。

「宅助、妙(めう)な事があるものぢやの」

「ヘイ」

「私は二三日前の晚(ばん)、不思議な夢(ゆめ)を見た」

「ヘイ」

「その夢の話を其方(そち)に話さう、馬鹿(ばか)げた事などと思はずに聞(き)いてくれ、その夢といふのはかうぢや、人通りの尠(すくな)い邸町(やしきまち)の眞晝間であつた、日かげ一つなくカラカラに照(て)りつけてゐる土塀(どべい)のかげに蠟細工(らふざいく)のやうな海棠(かいどう)の花が咲(さ)いてゐるところを、私は猩々(しやうじやう)のくせ舞(まひ)を謠(うた)ひながら通つてゐた、何處の町かは知らない、すると行く手に何やら、長々(ながなが)と橫(よこた)はつてゐるものがある、私は不審(ふしん)に思ひながら、ずつと側(そば)へ寄(よ)ると、それが若い女が一人、往來(わうらい)の眞中に寢(ね)そべつてゐるのぢや、はてこのやうなところで、酒(さけ)に醉(よ)つたのか、それとも病氣かと、引起してやる氣で女の寢姿(ねすがた)の前に立ちかゝつたが、はツと思つた、女は眞白(まつしろ)な右の肌(はだ)を惜(を)しげもなく帶際(おびぎは)かけて肌(はだ)ぬぎのやうになつてゐる、其の右の乳(ちゝ)の下あたりにづぶりと出刄庖丁(でばぼうちやう[やぶちゃん注:ママ。])が突きさしてあるのぢや」

「ヘイ、殺(ころ)されたのでございますか」

「さうぢや、それにしても誰(だ)れ一人氣が付かぬとは不思議(ふしぎ)な事ぢや」とこのやうな事を思(おも)ひながら私は屍骸(しがい)の顏を覗き込むと、さあ誰れやらに似(に)てゐると思つたが、どうしても思ひ出せない、ぬけるほど色の白い靑眉毛(あをまゆげ)の美人であるが、只一突に急所(きふしよ)を刳(えぐ)られて居るので、もう手當(てあて)の仕樣もない、切(せ)めては屍骸を片付(かたづけ)けてやらうかとしたが、それとても何處へ片付けてよいか判(わか)らず、つまらぬ掛り合ひになつて暇(ひま)をつぶされるのも馬鹿々々しいからと、見すごした儘(まゝ)通(とほ)り過(す)ぎた、これで夢(ゆめ)はさめた。

 醒(さ)めての後にも、ハテ妙(めう)な夢を見るものぢや、それにしても、あの女の顏(かほ)は誰れやらに似たと三日以來心にかゝるがどうしても思(おも)ひ出(だ)さぬ」

「ヘイ、それでどうなされました」

「其處で此(この)幽靈(いうれい)の顏ぢや、これが不思議にもあの夢の中の女の顏と生(い)き寫(うつ)しぢや、どう思ひ直しても同(おな)じ顏ぢや、これはどうしたわけであらう」

「ヘイ、まア一口にまぐれ當(あた)りといふのでございませうか、併(しか)し不思議(ふしぎ)な事でござりますねえ、さう仰(おつ)しやれば、若旦那樣まだ不思議な事(こと)がございます」

「不思議(ふしぎ)とは」

「今若旦那樣のお言葉(ことば)では、夢の中の女は、右の乳(ちゝ)の下を出刄で刳(えぐ)られてゐたと仰(おつ)しやいましたね」

「さうぢや」

「これを御覽(ごらん)なされませ、この繪(ゑ)の女も右の乳の下に血(ち)がにじんで居ります」

「うむ、なるほど、同じ場所(ばしよ)ぢやの、益々(ますます)不思議ぢや」

「若旦那樣、私はもう一つ不思議に思ふ事(こと)がございます」

「まだ不思議(ふしぎ)があるといふのか」

「ヘイ、若旦那樣はその夢の中の女に、見おぼえがあるが、何處(どこ)の誰(だ)れであつたか思ひ出せぬと仰しやいましたが、私はこの繪の女をあの荒物屋(あらものや)のお玉に似(に)てゐると思ひましたが、如何でございませう」

「此(こ)の繪(ゑ)がお玉(たま)に、なるほど、さういへば私も心付(こゝろづ)かなんだが、私の夢の中の女もお玉の顏に似て居(を)つたのぢや」

「臼井の若旦那樣があのお玉の似顏(にがほ)をお描(か)きなされたのでござりませうか」

「いや其樣事(そんなこと)はない、神村と高坂はあの女を見たが、臼井(うすゐ)には噂(うはさ)もした事がない、よしんばあの臼井がわざわざあの女の似顏にして此(こ)の繪を描(か)いたにしたところが、私の夢(ゆめ)にまで見させる事は出來(でき)まい」

「ヘイ、それは仰(おつ)しやる通りでございます、何にしても、かう物事がバタバタと打突(ぶつか)ると空恐(そらおそ)ろしいやうな氣(き)がいたしまするな」

「あの女に何か、間違(まちが)ひでもある知(し)らせではあるまいか」

「まさか、そんな事(こと)もございますまい」

「何にもせよ、私は氣もちが惡(わる)くなつて參つた、この繪を早う片付けてくれ」と宮部(みやべ)は目をふさいで立上(たちあが)つた。

 

          

 

 宮部は立上つてから緣先(えんさき)へ出た、沈丁(ちんいやう)の花の香が何處ともなく匂(にほ)ふ、其花の香を懷(なつ)かしんで、宮部は庭(には)へ下りた、もう雨は止(や)んでゐた。

「私は少し河岸通(かしどほ)りをぶらついて來るから、其間に座敷(ざしき)を片付けさしてくれ」と宅助(たくすけ)に云ひつけて、庭木戶(にはきと)を開けた。

「私、お伴(とも)いたしませうか」

「いやそれには及(およ)ばぬ」と云ひ捨てゝ外へ出たが、足はいつの間(ま)にか、例(れい)のお玉の見世(みせ)の橫丁へ出(で)た。

 見たくない見たくないと思(おも)ひながら、お玉の見世をちらと覗(のぞ)き込(こ)むと、丁度其時、仲間體(ちうげんてい)の男が見世先に腰(こし)をかけて、頻(しき)りに話し込んでゐる。

 お玉(たま)はいつもの通(とほ)り、つんと胸を反(そ)らして靑眉毛(あをまゆげ)をてらてらと光(ひか)らせながら、その仲間體の男に何かを手渡(てわた)した。

「ハテ、あの仲間(ちうげん)は」と宮部が一寸(ちよつと)眉(まゆ)をくもらせると、仲間の方にもそれが感(かん)じたらしい、宮部の方を振返(ふりかへ)つた、そして大急(おほいそ)ぎで立ち上つて、つかつかと宮部の側(そば)ヘ寄(よ)ると、

「これはこれは宮部の若旦那樣でございましたか、只今(たゞいま)お邸(やしき)までお邪魔(じやま)いたしました」といふ。

「あゝ、其方(そち)は臼井氏の御家來か」

「左樣(さやう)でございます、市助(いちすけ)めでございます、旦那樣はどちらへおいでゝございます」

「うむ、何處(どこ)といつて當(あて)もなくぶらついてゐるのぢや、其方(そち)はあれから今まであの見世(みせ)にゐたのか」

「ヘイ、つい話(はな)し込(こ)みまして」

「其方(そち)、あの家と懇意(こんい)ぢやと見えるの」

「いえ、懇意(こんい)といふわけではございませぬが、一寸(ちよつと)」

 市助は宮部の顏を見ながら、あとは言葉(ことば)を濁(にご)らして了つた、そして急(きふ)に思ひ出したやうに、

「では宮部樣、御免下(ごめんくだ)さりませ」と云ひ捨てに、頭だけは丁寧(ていねい)に下げて急ぎ足で歸(かへ)つて去(い)つた。

 宮部の心持(こゝろもち)は何となく穩(おだ)やかでない、もう橫丁(よこちやう)を廣小路の方へ出ぬけて了ひさうになつてゐる市助のあとを自分も追(お)ひかけようとしたが、さうもならず、只(たゞ)ふらふらと步いた、が、步く足に力がぬけた、何ともつかず廣小路(ひろこうぢ)に出かけた、が、まだ此の町に殘(のこ)つてゐる宵(よひ)のざはめきを見るのもいやな氣(き)で、すぐにうしろへ引返(ひきかへ)した。

「かういふ晚(ばん)は早くかへつて寢(ね)るとしよう」と呟(つぶ)やきながら、又しても例(れい)の橫丁ヘ戾つた。

 荒物屋(あらものや)では珍らしく、お玉の亭主(ていしゆ)が見世先に出てゐる、もう見世をしめるのか、お玉の亭主はそはそはと見世先の取片付をして立働(たちはた)らいてゐる、奧(おく)の方ではお玉の姑(しうとめ)であらう、白髮交(しらがまじ)りの老女が次の間に床(とこ)を展(の)べてゐる、舅もその奧(おく)で何か立働いてゐる樣子(やうす)であつたが、お玉ばかりは往來へ出て物靜(ものしづ)かな外の樣子を眺(なが)めたり、こぼれかゝるやうな初夏(しよか)の夜の星(ほし)を數へてゞもゐるやうな風情(ふぜい)。

 宮部はとりわけて苦(くる)しい思ひがした、多寡(たくわ)が荒物屋の嫁風情(よめふぜい)で、舅姑(しうとしうとめ)に立働らかせ、亭主に見世の取片付(とりかたづけ)を打任せて何といふ寬怠(くわんたい)[やぶちゃん注:「なおざり」に同じ。]さであらうと、いらいらした氣持になる、見(み)るのもいやと思ひながら、宮部(みやべ)は女の顏を睨(にら)みつけるやうにして、こゝの前を通(とほ)り過(す)ぎやう[やぶちゃん注:ママ。]とした。

 其時、女の目は宮部とばつたり出逢(であ)つた、穴(あな)のあくほど睨(にら)みつけてやる氣でゐた宮部の目は、いつか橫(よこ)へ反(そ)れてゐた、而(しか)も女は宮部の思ひなしか、目許(めもと)に笑(え[やぶちゃん注:ママ。])みを含(ふく)んで宮部をぢつと見ながら會釋(ゑしやく)したかと思はれる、宮部はたまらなくなつて、急(いそ)ぎ足に我家(わがや)へ馳(は)せ戾(もど)つた。

「あの女め、若旦那(わかだんな)の顏を見おぼえて了ひましたぜ」と宅助(たくすけ)が云つたが、今の樣子(やうす)ではさうらしくもある。

 あんな女に見おぼられたかと思ふと、腹立(はらだ)たしいほどの不愉快(ふゆくわい)さである。宮部は不機嫌(ふきげん)さうに我家に歸(かへ)つて、そこそこに床(とこ)へ入つた。

 憎(にく)らしい女め。

 癪(しやく)にさはる女め。

 薄暗い有明(ありあけ)の燈火(ともしび)を睨みつけながら、くりかへして思つた。

 が、不圖(ふと)氣(き)が付くと、俺(お)れは一體何の爲めにあの女の事がこれほど心(こゝろ)にかゝるのか、何の爲(た)めに腹立(はらだ)たしいのか、少しも判(わか)らない。

 判らない中(うち)から、今度は臼井の仲間市助を思ひ出した。

 市助(いちすけ)があの店へ可成(かな)り長い間、立よつてゐたのは、市助自身とあの女とが知合(しりあ)ひなのか、それとも只何かの買物(かひもの)だけに立よつたのか、とかういふ疑問(ぎもん)が起つて來る。

 途端(とたん)に、臼井の畫いた幽靈の繪(ゑ)がありありと有明行燈(ありあけあんどん)のかげに浮びよつて見えた[やぶちゃん注:「よつて」はママ。『ウェッジ文庫』版では、『上つて』で、本底本のそれは、誤植と断じてよいだろう。]。

 行燈には丁字(ちやうじ)が立つたか、パチパチと音がして、急に灯(あか)りが暗(くら)くなつた。[やぶちゃん注:「丁字(ちやうじ)が立つた」これは「丁子頭」(ちょうじがしら)が立つ]で「灯心の燃えさしの頭(かしら)に出来た塊り」を指す。形が丁子の果実に似ていることからの謂いである。なお、俗に「丁字頭を油の中に入れれば貨財を得る」と言い、「丁子が立つ」で、縁起担ぎの民俗があり、これは「茶柱が立つ」と同義である。]

 三十郞は半ば身體(からだ)を起して、行燈(あんどん)の灯をかき立てた。かき立てた機(はづ)みに今度は「泣(な)き顏(がほ)をかくさば行燈(あんどん)かき立てて、障子(しやうじ)にうつす影の怖さよ」といふ付句(つけく)が心の中に思ひ浮(うか)んで來た。

「臼井(うすゐ)とあの女とが知合であるのかも知(し)れない」

 不圖(ふと)かういふ心持が湧(わ)いて來た、その臼井の使で市助めもあの見世(みせ)へ立寄(たちよ)つたのだ、何か云ひさうにして、市助(いちすけ)が急ぎ足に慌(あはた)だしく驅(か)け去(さ)つたのもその爲めである。

「臼井とあの女が知合(しりあひ)であつたとすれば何であらう」

 今度はかう思ひ始(はじ)めた。

 が、考(かんがへ)へたところで、この解決(かいけつ)はいつまでもつきさうに思はれない。

「我れながら馬鹿(ばか)げた事だ、用もない事に心を惱(なや)ますには及ぶまい」と口の中で云つて苦笑(にがわら)ひをしながら寢(ね)ようとした、が目はいよいよ冴(さ)えるばかりである。

 

         

 

 翌日(よくじつ)になると又宅助が變(かは)つた報告を齎(もた)らした。

「若旦那樣、あの女はつい先頃(さきごろ)まで深川にゐた女ださうでございます」

「あの女とはお玉(たま)の事か」

「ヘイ、深川の梅本(うめもと)で一寸の間娘分(むすめぶん)になつてゐたのだと申しました」[やぶちゃん注:「梅本」深川に実在した料理茶屋。遊女や芸者を呼んで遊興の出来る揚茶屋を兼ねていた。]

「誰(だ)れがそのやうな事を申(まを)した」

「ヘイ、私どもの仲間(なかま)のものがさういふ噂(うはさ)をして居りましたが」[やぶちゃん注:「仲間(なかま)」のルビは絶妙。蘆江は、ここまで「中間(ちゆうげん)」を「仲間」と表記してきたから、意訳ルビとして多重して表現しているのである。]

「なるほどさう申せば、さういふ種類(しゆるゐ)の女にも見える。が、それにしては餘(あま)りに愛嬌(あいけう)がなさすぎるではないか」

「それでございます、その愛嬌(あいけう)がなさすぎる爲めに深川のつとめが勤(つと)まらず、あんな叩(たゝ)き大工風情(だいくふぜい)の女房(にようぼ)になつたのださうでございます、それにあの大工とあの女とは從兄妹同士(いとこどうし)で幼(をさな)い時からの許嫁ださうでございます」

「さうすると縹緻望(きりやうのぞ)みで探しあてた辻駕籠(つじかご)かきの娘といふのは噓(うそ)か」[やぶちゃん注:「縹緻」 顔だち・みめ・容姿。 「器量」の当て字。]

「若旦那樣(わかだんなさま)、よくおぼえておいでゞざいますな」

「はゝゝ、その位の事忘(わす)れはせぬわ」

「ヘイヘイ、その辻駕籠かきの娘といふのに間違(まちがひ)はありません。それから縹緻望(きりやうのぞ)みといふのにも噓はありません」

「でも從兄妹(いとこ)で許嫁(いひなづけ)ぢやと申すではないか」

「ヘイ、それがそのやうでございます、幼(をさな)い時(とき)からの許嫁ではございますが、女の方が男を嫌(きら)つていよいよ夫婦(ふうふ)にされやうといふ時、女は家出(いへで)をしたのださうでございます、家出をすると間もなく惡者(わるもの)に引かゝつて深川(ふかがは)へ賣られたのでございます、ところがあの通り何となく氣位(きぐらゐ)が高くて愛嬌(あいけう)がありませんので、梅本でも困つてゐましたさうで」

「その中(うち)に大工の方が手をまはして、その女を引取(ひきと)つたと申すのか」

「ヘイ、何(なに)しろ大工の家はあゝ見えてゐましても一寸(ちよつと)小金(こがね)を持つて居るさうで、それにあの伜(せがれ)がどうせ持つ女房(にようぼ)ならあの位の縹緻(きりやう)の女を女房にしたいと云ひくらして居りますので、早速(さつそく)手をまはして引取(ひきと)つたのでございます、まァ嫌(きら)はれて、許嫁(いひなづけ)を金で買(か)ひ戾(もど)したやうなものでございますな」

「それであの女め、あの通(とほ)りに我儘(わがまゝ)をしてゐるのぢやな」

「ヘイ、隨分(ずゐぶん)我儘(わがまゝ)をして居る樣子でございます」

「一體(たい)誰(だ)れにそのやうな話を聞いてまゐつた」

「え、なに、私たちの仲間(なかま)でよくお饒舌(しやべり)をいたしますので」

「さうか、臼井の宅(たく)の市助に聞いたのであらうな」

「ヘイ」

「さうであらう、どうぢや當(あた)つたか」

「ヘイ、若旦那樣、どうしてそれを御存(ごぞん)じでございます」

「なに、大抵(たいてい)は判(わか)つて居る、それにあの市助が、今なほ時々お玉(たま)の家へ立ちよることも知つて居る」

「へえ、それはどうも大した早耳(はやみみ)でございます、それほど御存(ごぞん)じなら、あの女のところへ臼井の若旦那樣がしげしげお通(かよ)ひになつた事も御存(ごぞん)じでございますな」

「うむ、其の事についてはあまり深(ふか)くは知らぬ、何しろ臼井が極(きは)めて内々にして居るでの」

「何でも臼井樣(うすゐさま)はあの女がつき出しの始めからお客(きやく)だつたさうにございます、それからずつと、大方每日よしんば間が離(はな)れたにしても三日目には必(かな)らずお通(かよ)ひになつたさうで、お互(たが)ひに大分深い馴染(なじみ)といふほど迄(まで)になつておいでださうでございます」

「臼井め、中々(なかなか)隅(すみ)に置けぬ奴(やつ)ぢや、我々をさし置いて拔驅(ぬけが)けの深川遊びをしてゐようとは思はなかつた」

「ヘイ、隨分(ずゐぶん)お堅(かた)い御樣子にお見受け申しますが、この道(みち)ばかりは別(べつ)でございます」

「なるほど、それであの幽靈(いうれい)の繪がお玉の似顏(にがほ)になつてゐる所謂(いはれ)も判(わか)つたわ」

「左樣(さやう)でござりまするな」

「あいつ、思(おも)ひ遂(と)げた女の事を忘(わす)れかねて、切(せ)めて繪筆に似顏などを描(か)いては思ひをまぎらしてゐるのであらう」

 宮部は目前の霞(かすみ)がすつかり晴(は)れたやうに思つた。

 

         

 

 臼井の描(か)いた幽靈の繪が水神(すゐじん)の離(はな)れの床にかゝつて蚊帳越(かやご)しに見える籠行燈(かごあんどん)の灯(あか)りが、幽靈の靑眉毛(あをまゆげ)をほんのりと見えさせる夜(よる)が來た。

 もう彼(か)れこれその夜も丑滿(うしみ)つに近からうと思ふ刻限(こくげん)である。

 寺島村の堤下(どてした)、見るかげもない茅屋(あばらや)から一人の侍(さむらひ)が四方を見まはしながら出て來た、そのうしろから女が一人追ひすがるやうにして寄(よ)り添(そ)つた。[やぶちゃん注:「寺島」「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。「寺島町」が確認出来る。現在の東向島で、隅田川神社の南東二キロ圏内に当たる。]

「どうでもお戾(もど)りなさらねばなりませぬか」

「うむ、もう怪談(くわいだん)も盡(つ)きた頃であらう、私の姿(すがた)が見えぬと判つて、そろそろ皆が騷(さわ)ぎ出す時分ぢや」

「このあとはいつお目(め)にかゝれる折(をり)もありませぬのに」

「さあ、何(なん)にしても邸(やしき)の親どもがやかましすぎるので儘(まゝ)にならぬ身の上、今夜だけは百物語(ものがたり)にかこつけて曉方(あけがた)までのひまが出てゐるので、漸(やうや)く其方(そち)に逢(あ)へたが、――なに、又何とかして折を造らう、その時は又(また)市助(いちすけ)をやつてたよりをする事にしよう」

「其の折(をり)の參るのを待(ま)つて居ります」

 二人は堤(つゝみ)に上つた。

「父(ちゝ)によろしく申してくれ」

「ハイ、あのやうなむさくるしい住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で、正しくは「すまひ」と読む。])へお連(つ)れ申して申譯(まをしわけ)がございません」

「何(なん)の、そのやうな事を心にかけるには及(およ)ばぬ事ぢや、其方(そち)が親なら私の親も同然ぢや」

「あれ勿體(もつたい)ない事を仰(おつ)しやります」

「ではお玉、此の夜更(よふけ)にあまり遠とほ」くへ出ては物騷(ぶつさう)ぢや、早く戾つてくれ」

「ハイ」

「さ、戾(もど)れと申すに」

「ハイ、あの臼井樣(うすゐさま)、もう一度お顏(かほ)をお見せ下さりませ」

「はゝゝ、死(し)に別(わか)れでもするやうぢやの」と云ひながら、二人は星(ほし)あかりの下に向ひあつて立つた。さうして抱(だ)き交(かは)して名殘(なごり)を惜(を)しんだ。

「いつそ此儘(このまゝ)、どこぞへ連れて退(の)いて下さいませ」

「私(わし)も幾度そのやうな事を思つたか知れぬ。が、私の身(み)には、家庭(かてい)といふものがつきまとつて居る、其方には年老(としと)つた父親がある、二人の思ふ儘(まゝ)にはどうしてもならぬのぢや」

「なぜ深川(ふかがは)にあの儘(まゝ)殘(のこ)つてゐる氣にならなかつたものか。と、それが口惜(くや)しうございます」

「さ、さ、それを云はれると、五十兩(りやう)とまとまつた金の使へぬ此身の腑甲斐(ふがひ)なさがかへすがへすも口惜(くや)しい、もう何もいふな、一年先か三年先か又(また)今夜(こんや)のやうな逢瀨(あふせ)を造るのを待つてゐてくれ、私も其方の似顏(にがほ)を畫いて切(せ)めてもの心遣(こゝろや)りにして居よう」

「ハイ、どうぞお身體(からだ)をお大事に」

「さあ早く戾(もど)つてくれ」

「ハイ」

「さあ、だんだん夜(よ)が更(ふ)ける、私が水神(すゐじん)をぬけ出た事が目立つたらよい事はあるまい、さあ戾つてくれ」

「ハイ」

 二人は思ひ切つて左右(さいう)に別(わか)れた、互ひに見かへり勝(がち)に二足三足と步いたが、男は心を强(つよ)く持(も)つて急(いそ)ぎ足(あし)になつた。

 丁度(ちやうど)その時、堤(つゝみ)の奧(おく)から一人の武士が見えた、二人の姿を星(ほし)かげにすかして見つけられたやうに立止まつた、その立止まつた場所(ばしよ)は女の戾(もど)らうとする道である。

 出あひがしらに女(をんな)ははつとした。

 相手の顏を見る事も出來ず、女は輕(かる)く會釋(ゑしやく)をして薄氣味惡(うすきみわる)く堤を下へ、前の茅屋(あばらや)の小道へ下らうとした。

「お玉待て」と武士は尖(とが)り聲で呼(よ)んだ。

 女はぎよつとしたが、聞(きこ)えぬ振(ふり)でうしろを向かなかつた。

「待て待て、今の男は誰(だ)れぢや」と又(また)呼(よ)びかけた。

「誰(だ)れであらうとお咎(とが)めを受ける所謂(いはれ)はありませぬ」と女はきつぱり云つて、權高[やぶちゃん注:「けんだか」。]に相手を睨みつけた。

「不義(ふぎ)もの」

「大きにお世話(せわ)です」と女はもう振向きもしなかつた。武士は齒(は)をくひしばつてゐたが、右手は刀(かたな)の柄(つか)にかゝつた、そして一足踏込(ふみこ)むと拳下りに斬り下げた。[やぶちゃん注:「拳下り」は「こぶしさがり」と読み、長刀や槍など長い武器を持って構える際、その先端が、手元より上がるようにすることを言う。]

 女の身體(からだ)はぐつとも云はず、朽木(くちき)を倒すやうに摚(だう)となつた。

[やぶちゃん注:「摚(だう)」歴史的仮名遣は「どう」で「どうど」が古い表記で、後に「どうと」となった。これは歌舞伎脚本のト書の用語で、通常は「どうとなる」の形で用いる。倒れるさまを表わす語である。

 なお、次の一行空けは底本通りである。]

 

 翌日の夕刻(ゆふこく)、國友を名乘る臼井金三郞の手許(てもと)へ宮部の仲間宅助が文筥(ふみばこ)を持つて來た、臼井が開けて見ると、前書(まへがき)も何もなしに、手紙は可成(かなり)急(いそ)いだらしい手許(てもと)で書いてあつた。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げで記されてある。ブログ・ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]

昨夜、寺島の堤下(どてした)、辻駕箭屋久兵衞方の前

で女を殺(ころ)したは拙者(せつしや)の仕業(し

わざ)に候。寺島の堤下まで拙者を導(みちび)き候

ものは貴殿(きでん)御揮毫(ごきごう)の幽靈の一

幅に候。かねて拙者あの女ほど憎(にく)い奴(や

つ)は世の中に又とあるまじく覺えて、高坂神村の兩

氏(りやうし)へも此事相洩(あひも)らし候事有之

候折から貴殿の幽靈の一幅、異樣(いやう)に心にか

ゝり、昨夜も屢々(しばしば)あの幅の前へ端坐(た

んざ)して、睨みつけ申候。其中(そのうち)彼(か)

の幽靈の繪(ゑ)ありありと拔(ぬ)け出(い)で候

まゝ、あとをつけ申しつゝ寺島村まで參り候。其折

(そのをり)あの女は一人の男と別れを惜(を)しみ

つゝ立(た)ち盡(つく)し居り候。其樣子を見るま

ゝに、只々(たゞたゞ)腹立(はらだ)たしさ譯もな

しにムラムラと胸(むね)に迫(せま)り只一刀に斬

(き)り捨て申候。今にして思へば、憎し憎しと思ひ

候拙者の心は、却(かへ)つて激(はげ)しき戀慕

(れんぼ)の裏(うら)に候ひしものかと感じられ候、

あの折の拙者は、法界妬氣(ほふかいとき)のつきつ

めたる亂心(らんしん)にて有之候べく候、斯(か)

く心づき候につけ、只々(たゞたゞ)御貴殿(ごきでん)

に申譯なさに只今切腹致して相果申候、遺髮(ゐはつ)

一束(たば)後の證據(しようこ)に差出(さしだ)し

申候。

              以  上

とあつて髻(たぶさ)が封(ふう)じ込(こ)めてあつた、そして自分の名の上には亂心者(らんしんもの)三十郞(らう)百拜(はい)とあり、宛名(あてな)には昨夜寺嶋村にて見しうしろ姿(すがた)の主(ぬし)へとあつた。

 臼井は只々(たゞたゞ)腕(うで)を拱(こまね)いて呆氣(あつけ)にとられてゐた。

[やぶちゃん注:「却(かへ)つて激(はげ)しき戀慕(れんぼ)の裏(うら)に候ひしものかと感じられ候」の「裏(うら)に候ひしものか」の箇所は、底本では、「裏(うら)に候いしものか」となっている。誤記か誤植と断じて、特異的に訂しておいた。

「法界妬氣(ほふかいとき)」自分には関係がないものを羨望したり、妬んだりすること。

本来は、主に、他人の恋愛に対してのことを言う場合に使う。「法界」は「全ての世界・宇宙万物」の意で仏教語である。

 本篇はなかなか読ませる怪奇談というか、一種の強迫神経症的悲劇である。最後のカタストロフは、多くの読者は予想出来難い点で、最終章で、断然、意外性を打ち出した作品である。]

2024/01/30

譚海 卷之六 甲州高麗郡なら田村無年貢の事 附尊純親王時鳥和歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「甲州高麗郡なら田村」及び「なちだ村」は正しくは「巨摩郡奈良田村」で、現在の山梨県南巨摩郡早川町(はやかわちょう)奈良田(ならだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北岳の南方の山間である。二十六の頃、晩秋、山仲間の友人と北岳登頂を目指したが、天候悪化のため、断念し、「奈良田の湯」に入り、山中の優しい老夫婦の民家に泊まったことがある(生憎、姓を覚えていない。「高木」だったかも知れない)。御主人は驚くほど背が高く、老妻ともに気品に満ちていた。私は貴人の末裔か、高位の落人のそれか、と思ったほどであった。また、生まれたばかりの猫がいっぱいいて、ほんに可愛かった。後半は「附」(つけたり)「尊純親王時鳥」(ほととぎす)「和歌の事」と読む。

 

○甲州高麗郡なちだ村に、「笹はしり」と云(いふ)峠、有(あり)。[やぶちゃん注:山梨県南巨摩郡早川町笹走(ささばしり)の内。]

 昔、東照宮、御通行の時、道、生繁(おいしげ)りて、わきがたかりしを、此所(ここ)の者共、御先立(ごせんだつ)をなし、道を、ひらき、通行ましませしかば、其御賞報(ごしやうほう)に、

「守護不入(ふいり)の地。」

に仰付(おほせつけ)られ、今に、一村十四里のほどは、無年貢にて、作り取(とり)の所、有(あり)。

 一村、皆、「高木」[やぶちゃん注:姓。]一黨(いつたう)ばかりにて、婚娵(こんしゆ)[やぶちゃん注:嫁入りと嫁取り。]も、他村にもとめず、其所(そこ)斗(ばかり)りにて婚姻する事也。

 是、則(すなはち)、後水尾院の八の宮諒純親王、左遷ありし地也。

 八宮の御歌(ぎよか)に、

  なけば聞(きき)きけば都の戀しきに

      此里過(すぎ)そ山ほとゝぎす

と、御詠ありしより、

「時鳥、今になかず。」

と云(いふ)。

 東照宮御墨付(おすみつき)、庄屋方に所持し、人柄も、いやしからぬもの也。

 一とせ、官(くわん)の事にて、此村に滯留せし人ありしに、

「旅館を、きよらかに、しつらひ、庄屋、その家に日夜、詰居(つめをり)て、高き所に坐し、諸事を世話いたし、甚(はなはだ)、丁寧成(なる)事也。高き所に居(を)るは、村のもの共(ども)、『新役に、もし、不調法あらんか。』とて目付(めつけ)する爲(ため)也。出立(しゆつたつ)の日、人足を、やとひて、貨錢を拂(はらひ)たるに、一向に申受(まふしうけ)ず、

『我等、無高(むだか)・無年貢の地に、年來(ねんらい)、住居(すまひ)し、せめて、かやうのせつ、御用相勤(あひつとめ)申べき事、本望(ほんもう)の至(いたり)也。』

とて、申うけざりしかば、

『さには、あらず。是を受(うけ)てくれぬ事にては、我等、身分にかゝり、甚(はなはだ)、迷惑する事也。』

と、しひて開說(かいせる)し、いひ合(あひ)ければ、やうやう、承引(しやういん)して、其荷物、村中、老若、不ㇾ殘(のこらず)出(いで)て、背負(せおひ)、又は、肩にかけなどして、暫時に、麓(ふもと)まで、運びとゞけて、賃錢を、いただき、

『公儀の御銀(ぎよぎん)なり。』

とて、殊の外、大切にするやうすにてありし。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「後水尾院の八の宮諒純親王」当該ウィキによれば、良純入道親王(慶長八(一六〇四)年~寛文九(一六六九)年)は、江戸『初期の皇族。後陽成天皇の第』八『皇子で』、『母は典侍庭田具子(権大納言庭田重具の娘)。当初は徳川家康の猶子として直輔親王と名乗った。知恩院初代門跡。通称は八宮』。『後陽成天皇の第八皇子として誕生』し、五『歳の時に知恩院門跡に治定されて同寺に入るが、出家は先送りされる。その後、慶長』一九(一六一四)年に『親王宣下を受けて直輔親王と名乗られ、翌元和元年』『に徳川家康の猶子となった』元和五年九月十七日(一六一九年十月二十四日)、十六『歳の時、満誉尊照を戒師として出家・得度を行って、良純と名乗る。ところが』寛永二十年十一月十一日(一六四三年十二月二十一日)に『突如』、『甲斐国天目山に配流される。理由としては』、『寺務を巡る大衆との対立、酒乱による乱行、江戸幕府の朝廷および寺院への介入を非難する言辞を行った』とか、或いは『待遇に不満、出家に不満等、諸説が伝わるが』、『飾り物である門跡の地位への不満と』、『江戸幕府からの圧迫に対する不満があったとする見方では一致している。後に甲府の興因寺(甲府市下積翠寺町)に移されて幽閉された』。万治二(一六五九)年、五十六歳の時、『勅許によって帰京するが、知恩院ではなく』、『泉涌寺に居住』し、『その後』、『北野で還俗して隠退生活を送った。後に以心庵と号す』。六十七『歳で没して泉涌寺に葬られ、専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正の諡号が贈られた』。明和五(一七六八)年の『百回忌に際し』、『名誉回復が図られて』、『改めて無礙光院宮良純大和尚の諡号が贈られた』とある。]

「蘆江怪談集」 「空き家さがし」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本「怪奇談集」の中で、初めての明治期(初期)物である。]

 

 

    空 家 さ が し

 

 

         

 

 十人の中、三人ぐらゐはチヨン髷(まげ)があつてまだ蝙蝠傘(かうもりがさ)といふものゝ珍(めづ)らしい時分の事、東京の山の手に一軒(けん)空家(あきや)があつた。

 五間(ま)ほどの家だが、その頃の事ゆゑ、家のまはりに餘裕(ゆとり)がたつぷりして隨分(ずゐぶん)住(す)み心のよささうに出來てはゐるが、少し古びてゐる爲めに一寸(ちよつと)借手(かりて)がなくて、約(およ)そ一月も表の門に借家札が斜(なゝ)めに貼(は)つたまゝで空(あ)いてゐた。

 ある秋の日の夕方(ゆふがた)、庭の中の紅葉が生垣(いけがき)の上から眞紅(まつか)になつて往來へ差し出でてゐる時分(じぶん)、美くしい二十五六の女が此家を借りに來た、大家(おほや)の内儀(ないぎ)に案内されて、家の中を一通(とほ)り見てまはると、

「大變(たいへん)結構(けつこう)なお家でございます、それでは明日(あす)にでも直(すぐ)に引越してまゐりますから。」と滿足した樣子でニコやかな顏(かほ)をした。

「お氣に召しましたか、何しろ古びて居りますから、何割(なんわり)も見劣(みおと)りはいたしますが家(うち)といたしましては、隨分(ずゐぶん)木口(きぐち)も調べてありますし、元々(もともと)貸家(かしや)だてに建(た)てたのではございませんものですからね、造作なども相當(さうたう)のものが入つて居りますつもりでございますよ、ハイ。」と大家(おほや)の内儀(おかみ)は中々お世辭(せじ)が好い、といふのはこの美人が、身なりも立派なり、殊(こと)には口もとに得(え)も云はれぬ愛嬌(あいけう)を持つてゐたのに引(ひ)かされたわけでもあるが、更(さら)に内儀の目を驚(おどろ)かしたのは美人の手に女持の蝙蝠傘(かうもりがさ)がもの珍らしく房房(ふさふさ)としてゐたためであつた。[やぶちゃん注:「木口(きぐち)も調べてあります」ここは使用材木の質を選び抜いて造ってあることを言う。「得(え)も云はれぬ」の「得」は不可能の呼応の副詞「え」に対する当て字である。]

 「では明日(あす)からどうぞお願ひ申します。」と美人(びじん)は大家の家へまはつて敷金(しききん)もすばすばと置いて立上らうとした。[やぶちゃん注:「すばすば」はママ。『ウェツジ文庫』では『すぱすぱ』(後半は踊り字「〱」)とある。但し、底本では、拡大してガンマ補正をかけみても、半濁点ではなく、濁点である。語の意味から『ウェツジ文庫』は誤植と断じて補正したものとは思う。私はとりあえずそのままにしておく。]

「ありがたうございます、なあにお入(はい)りになつてからでも宜(よろ)しうございますのに。」

「いゝえ、どうせ上(あ)げるものですから。」

「ではあの、受取(うけとり)をお持ち下さいまし、失禮(しつれい)でございますが、お名前は。」といふと、美人は一寸(ちよつと)考(かんが)へたあとで、

「あの吉村(よしむら)として置いて下さい。」と云つた。

 受取を渡しながら、「お家内(かない)はお幾人(いくにん)でございますか。」と内儀が聞くと、

「主人と二人きりでございます、それに女中ぐらゐは置(お)かなければならないと思(おも)ひますが。」

「まア、それはお靜(しづ)かで結構(けつこう)でございます。」

 と内儀(おかみ)が尙(な)ほつべこべお世辭を並べるのを聞(き)き捨(す)てに、美人はさつさと先(さき)に行つた。

 一日置いて翌々日(よくよくじつ)の朝、美人は人力車に一抱(かゝ)へほどの風呂敷包(ふろしきづゝみ)を自分の前へ載せて此の空家へやつて來た、大家の内儀がいそいそと出迎(でむか)へて空家の門(もん)を開けたが、

「おや、飛(と)んだ失禮をいたしました、餘り慌(あは)てたものでございますから、中の南京錠(なんきんぢやう)の鍵(かぎ)を忘れました、それに、昨日(きのふ)一日忙(いそ)がしかつたものでございますから、まだお宅(たく)のお掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])もいたしません、一寸(ちよつと)箒(ほうき[やぶちゃん注:ママ。])を取つて來ますから暫(しば)らくお待ち下さいまし。」と云(い)ひ譯澤山(わけだくさん)に、あたふたと引かへした。

 美人は門の前に一寸(ちよつと)立(た)つて、門内の紅葉(もみぢ)を、

「まア、よく紅葉(こうえふ)して綺麗(きれい)だこと。」と車夫(しやふ)に云つて見上げてゐたが、大家の内儀の來やうが遲(おそ)いので、開(あ)け放(はな)した門の中へ入つた、そして門の内側(うちがは)から、

「好い紅葉だ」などと、獨(ひと)り言(ごと)を云ふ聲が聞える、車夫(しやふ)も一緖(しよ)に中へ入らうと思つたが、車に積つ放しの包みを掻拂(かつぱら)はれる心配があつたので車の前を離(はな)れず、門の内外から、一言二言(ひとことふたこと)話(はなし)をしてゐたといふ。

 これから間(ま)もなく、美人は中へ入つて入口(いりぐち)の戶じまりをからりと開けたかと思はれたので、

「御新造(ごしんぞう)さん、開きましたか。」と云ひながら門の外から覗(のぞ)き込(こ)むと、

「あい、開(あ)いてゐますよ、あの内儀(おかみ)さん閉め忘れたと見えるね、その荷物(にもつ)を持つて入つて來ておくれ。」といふから、

「ハイ、畏(かし)こまりました、どうもそそつかしい内儀さんだ、お世辭(せじ)ばかり云ひやあがつて、呆(あき)れ返(かへ)つたそそかしやですね。」と云ひながら車夫(しやふ)は車から荷物を下して胸(むね)一杯(ぱい)にエツチラホツチラと引抱(ひつかゝ)へながら、門のくゞりをエンヤラエンヤラと入らうとする途端(とたん)に、奧の戶口の方で、

「キヤツ。」といふけたたましい聲(こゑ)が聞えた、そして、物の倒(たふ)れる音がどたり、あとはガタガタピシヤリ、と底(そこ)ひびきのする物音、

「おや、何だらう、御新造(ごしんざう)さん、どうかなさいましたか。」と車夫が聲(こゑ)をかけた時に、中では

「ウーム、ウーム。」と二聲聞えたが、あとはひつそりと靜(しづ)まりかへつた樣子(やうす)、

「私(わたし)あ驚(おどろ)きましたぜ、すぐにも飛び込まうと思つたんですが、何(なに)しろ、荷物を抱(かゝ)ヘてこの門のくぐりをウンサーウンサーと屈(くゞ)つてたところだものですから、中々思ふやうにや飛(と)び込(こ)めませんや、どうも此奴(こいつ)あ驚いたなあ。」

 間もなく大家の内儀や、近所(きんじよ)の人や、それからおまはりさんも例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た時、車夫(しやふ)は額(ひたひ)に汗(あせ)をにじませながら眞靑(まつさを)になつて申立てた。

 雨戶(あまど)を引ぱづされた空家の人目に押(おし)かぶさるやうになつて覗(のぞ)き込(こ)む人たちは玄關の土間に斜(はす)かけに倒(たふ)れた身體に雨戶を押かぶせられて死んだやうになつてゐる美人の姿(すがた)を氣(き)の毒(どく)さうに見て、しばらくは誰(だ)れも何とも云はなかつた。

[やぶちゃん注:「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)」ウィキの「警杖」(けいじょう)によれば、は明治七(一八七四)年に警視庁が創設され、巡査は「手棒」(三尺余り(九十一センチメートル程)の棍棒)を持ったとある。警部以上が刀を佩用したとあり、全ての警察官にサーベル佩用が許されたのは、明治一六(一八八三)年とある。「警杖を持つ警視隊」(明治一〇(一八七七)年描)の画像を見られたい。蘆江はここで、「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た」というのが髣髴する。なお、この「例の」という表現から、私は本話の中の時制は、明治八・九年から明治十五年までの閉区間であろうと踏んだ。]

 

      

 

 近所の醫者(いしや)へかつぎ込まれて、手當(てあて)を加へられたので、美人はどうやら息(いき)は吹(ふ)きかへしたが、口はまだ利(き)く事(こと)が出來なかつた。

 空家(あきや)の中へ入ると共に、何(なに)かに驚ろいて、打倒(うちたふ)れる、倒れた機(はづ)みに沓(くつ)ぬぎで脾腹(ひばら)を强く打つ、それで氣絕(きぜつ)をした上へ、手か頭かが觸(さわ[やぶちゃん注:ママ。])つて雨戶が倒れる、その雨戶のかけ金が美人の手首(てくび)を强く打つたので手首の動脈(どうみやく)が切れ、出血が激(はげ)しくて身體が一時に弱(よわ)つたのだといふ事までは判つた、雨戶も普通(ふつう)ならば倒れる筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はなかつたが、開けた機(はづ)みに溝(みぞ)を外(はづ)れたものらしい、これだけは判つたが、肝心(かんじん)の何に驚ろいたかゞ判(わか)らない。

 一時は車夫が嫌疑(けんぎ)を受けて役所へ引かれたが、放免(はうめん)になつた。

 其中に美人(びじん)が少しづつ物を云へるやうになつたので、お役人(やくにん)は美人のところへ駈(か)けつけて仔細(しさい)を聞いた、途切(とぎ)れ途切れに苦しい息(いき)の下から美人が答へたのは、

「あの家には幽靈(いうれい)が居ります、わたしが雨戶(あまど)をあけて中へ入りました時は、しんとしてゐて、物の音(おと)さへなかつたのですが、式臺(しきだい)をあがつて奧へ通らうとすると、私(わたし)の目の前にぼんやりと人の姿(すがた)が見えました、ハツと思つて見直(みなほ)すと、それは女の姿で私をぢつと睨(にら)みつけます、そ、その女は、その女は――」とかういふ風に話し始めたが、餘程(よほど)怖(おそ)ろしさが身にしみたものと見えてあとの言葉(ことば)は一言も云ひ得ず、又しても「ウーム」と呻(うな)つて氣絕(きぜつ)をした。

 おまはりさんも驚く、醫者(いしや)も驚いて早速(さつそく)手當(てあて)をしたが、もう其儘(そのまゝ)息(いき)は絕え果てて、到頭息を引きとつた。

 かかり合(あひ)では大變である、生憎(あひにく)大家(おほや)の内儀は空お世辭ばかりを云つてゐて、この美人が何處から引越して來る人か、亭主(ていしゆ)といふ人が何處にゐるのか、いつ來るのか、名前(なまへ)も吉村といふ名字(みやうじ)だけを聞(き)いてゐるだけで、何處へどう知らせる事も出來ない、止(や)むを得(え)ず、當座(たうざ)のあと始末一切をさせられ、誰(だ)れか身(み)よりの人の尋ねて來るのを待つより外に仕樣(しやう)はない事になつた。

「どうも此樣(こん)な馬鹿々々しい事はありやしない、おまけに肝心(かんじん)の家は、これから先、幽靈(いうれい)の出た家だの、何のつて難癖(なんくせ)はつけられるだらうし、困(こま)つた事が出來たものだ。」と大家夫婦は封印(ふういん)をして預(あづ)けられた荷物を睨(にら)めながら、愚痴(ぐち)をこぼした。

 尤(もつと)も封印をする前に包の中はおまはりさんの手で調べられた、重(おも)に美人の着がヘらしい着物であつたが、着物の間に手匣(てばこ)が一つ包み込まれてあつた、手匣の中は女の頭の道具(どうぐ[やぶちゃん注:ママ。])や指環類(ゆびわるゐ)でそれも格別(かくべつ)差(さし)あたりの手がかりにはならぬが、手紙が五六通あつた、差出人(さしだしにん)は皆大阪心齋橋筋、井筒屋方吉村竹次郞とあつて宛名(あてな)は橫濱市西戶部××番地堤(つゝみ)さく子樣とある。

「これは中々(なかなか)激(はげ)しいぞ。」と中を讀んだ警部(けいぶ)さんが苦笑(にがわら)ひをしたほど、中は色つぽい文句(もんく)ばかりで畢竟(ひちきやう)相愛(さうあい)の仲であるといふ事は十分讀みとられた。

 兎に角この手紙で、この美人(びじん)が堤(つゝみ)さく子といふ女で、橫濱の西戶部(にしとべ)から、ここヘ引越(ひつこ)して來ようとしたものであらうといふ事の推測(すいそく)だけはついたが、一寸(ちよつと)可笑(をか)しいのは大家へ出さした敷金(しききん)の受取(うけとり)に吉村樣と書かした事である。

「たとひ好(す)き合つた仲(なか)にしても、自分が引越すのだから堤(つゝみ)といふ名で家を借(か)りたらよささうなものだな。」とおまはりさんの一人が云ふと、

「いや、それは許嫁(いひなづけ)か何かの中で、何れ引越(ひつこ)し女房(にようぼ)といふ事にでもなるのではないか。」と他のおまはりさんが云(い)つた。

「論より證據(しようこ)橫濱(よこはま)の方へ調(しら)べに行つて見よう。」と一人がいふと、

「いや、それは既(すで)にちやんと橫濱へも大阪へも知(し)らせが出(だ)してあるのぢやから、何にもするには及(およ)ばん事ぢや。」と云つた。

 元より他殺(たさつ)でも何でもない、幽靈(いうれい)に脅(おびや)かされたといふのだから、つまり幽靈が下手人(げしゆにん)ではあるが、自靈に繩(なは)を打つわけにも行かない、橫濱と大阪からのたよりがあり次第、屍骸(しがい)と荷物をそれぞれ引渡(ひきわた)して了(しま)へばそれで萬事は解決(かいけつ)といふものだと、當時の警察だけに簡單(かんたん)に考へて、一同引取つて了(しま)つたのである。

 最も引上げる前(まへ)に、

「此家の幽靈(いうれい)といふものの正體(しやうたい)を調べて見んければならんな。」

「さうぢや、それが肝心かんじん」ぢや、若し空家(あきや)を利用して兇漢(きようかん)のやうなものが巢(す)を食つちよるといふ事もあるからなう。」

「おい、大家(おほや)、案内(あんない)をしてくれんか。」

 おまはりさんたちは六尺棒(しやくぼう)をつき立てて大家を促がした。

 大家さんは甚(はなは)だ迷惑(めいわく)さうに、

「どうぞ御自由に御見分下(ごけんぶんくだ)さいまし、決して異常(いじやう)のある家ではございません。」と立派(りつぱ)に云つたが、さて自分が先に立つてどうぞ此方(こちら)へとは云ひ切れない。

 おまはりさんたちも人間(にんげん)である以上薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いといふ事を知つてゐる。

「もう暗(くら)くなつちよるから、充分の檢べは出來んぢやらう、明日の朝早く來て檢ベたらどんなもんぢや。」と弱腰(よわごし)になつた人もあつたが、そんな事でおまはりさんの役目(やくめ)は濟(す)まされるものではない。

 押間答(おしもんだふ)の末、おまはりさん二人と大家とが各々(おのおの)提灯(ちやうちん)やかんてらを振りまはして一齊(せい)に入る事にした。

 日は暮(く)れ切(き)つてゐる上に、一月あまりも人氣(ひとけ)のない空家(あきや)の事、しんしんと浸(し)み入るやうな冷(つめ)たさが物凄(ものすご)いといへば物凄いのだが、間取(まど)りもよし、木口(きぐち)もしつかりした家だから、何處と云つて不審(ふしん)はない。

 提灯とカンテラを振りまはしく、わざと大聲(おほごゑ)をあげて家の中を見まはつてゐた三人は、

「何處にも何の不思議(ふしぎ)もない、これなら當り前の家ぢや、多分(たぶん)あの女は一人で入つたから、何かつまらん事に驚(おどろ)いて足を式臺(しきだい)から踏(ふ)み滑(すべ)らしたんぢやろ、何でもない何でもない。」と口々に云ひながら外へ出て來た、その癖(くせ)引上(ひきあ)げ際(ぎは)に大家に向つては、

「此後(こののち)ともにこの空家については注意(ちゆうい)をせんけれあいかんぞ、兎(と)に角(かく)、人一人殺した家ぢやからの。」と氣にかかるケチをつけて、大手(おほて)を振つて歸(かへ)つて行つたのである。

[やぶちゃん注:この章の警察官の台詞がリアルである。何がリアルかというと、薩摩弁を匂わせる台詞になっているからである。ウィキの「日本の警察官」によれば、明治四(一八七一)年、『東京府に邏卒(らそつ)』(明治初期の警察官の称。後、「巡査」と改称した)三千『人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった』が、『邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用された』のだが、『その内訳は薩摩藩出身者が』二千人で、『他が』千人で『あり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった』とあるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島の大隅半島の中央の岩川生まれであった。私の父は従兄妹(いとこ)同士であるため、私の四分の三は薩摩の血を引いている。にしても、この警官たちは、調べ方が杜撰だ。何より、荷物を運んだ車夫に、その荷を積み込んだ場所を車夫に師事させ、直にその場に連れて行き、転居元及びその周辺を探索するのが、まずすべき捜査であろう。

「橫濱市西戶部」現在の神奈川県横浜市西区西戸部町(にしとべちょう:グーグル・マップ・データ)。野毛山の北西部に当たる。]

 

         

 

 翌々日(よくよくじつ)まで橫濱からも大阪からもまだ報告(ほうこく)が來ないと見えて、警察(けいさつ)からは大家ヘ對して何の沙汰(さた)もない中に、一人の男が手鞄(てかばん)をさげて此の空家の前へ立つた。

 三十は越(こ)してゐるかも知れぬ、併(しか)し色白の目鼻だちのきつぱりとした中肉中背(ちうにくちうぜい)といふ恰好(かつかう)が、やうやう二十八九とほか見られぬ樣子(やうす)、空家の前へ立つて暫(しば)らく門の中の樣子を見まはしてゐたが、二三間先の荒物屋(あらものや)へ來て、

「×番地はあの空家(あきや)だけでございませうか。」と聞(き)いた。

「ハイ、あそこ一軒(けん)でございます。」

「それではきのふあたり、その家へ引越(ひつこ)して來た婦人がある筈(はづ)ですが御存じはありませんか。」と更(さら)に聞きなほした事から、此荒物屋では早速(さつそく)大家(おほや)さんへ此男を引渡(ひきわた)す事になつた。

「貴郞(あなた)は何と仰(おつ)やる方で、どちらからおいでになりました。」と大家はあべこべに聞(き)くと、

「ハイ私は吉村竹次郞(よしむらたてじらう)と申しまして大阪から只今(たゞいま)着(つ)きましたばかりで。」といふ。

「ああ、貴郞(あなた)が吉村さんですか、それでは貴郞のお尋(たづ)ねになる御婦人(ごふじん)は、堤さく子さんと仰(おつし)やる方(かた)ではありませんか。」

「ハイ、その通(とほ)りですが。」

「あ、さうでしたか。」と云ひかけると、大家(おほや)はすぐに家の者を警察(けんさつ)へ走(はし)らした。

 それから、吉村に向(むか)つて前々日からのありの儘(まゝ)をすつかり話した、吉村は只(たゞ)呆氣(あつけ)にとられて一言も物を言(い)へなくなつた。

 おまはりさんが飛(と)んで來た時分迄は、只おうおうと人目も恥(は)ぢず泣(な)き伏(ふ)してゐるばかり。

「泣(な)いて居つちや判(わか)らん、兎に角、君の尋ねる婦人は何の理由(りいう)もなしに頓死(とんし)したのぢやから、早速死體(したい)を引取つてあとの祭(まつ)りをしてやらなければいかん。」とおまはりが懇々(こんこん)說諭(せつゆ)すると、

「畏(かし)こまりました。」と云つて淚(なみだ)を拭(ぬぐ)つた。

 格別(かくべつ)、お上の手をかける事柄(ことがら)もないので、一通り女と男との關係などを聞(き)き訊(たゞ)しただけで、係官(かゝりくわん)は引上げたが、さく子の借りる家だけを當(あて)にして大阪から始(はじ)めて東京へ來たらしい吉村竹次郞といふ人物(じんぶつ)、打見たところに惡氣(わるげ)もあるらしくはなし、差當(さしあた)り身體を落ちつけるところもない樣子に、大家(おほや)は、いぢらしくなつて、

「あの家の敷金(しききん)はお預(あづ)かりしてあるのですから、一應(おう)あそこへお入りになつて、身體を落着(おちつ)けた上で、いろいろの手續(てつゞ)きをお濟(す)ましになつたら如何(いかゞ)です。」と云つてくれた。

「ハイ、ありがたうございますが、男手一人(をとこでひとり)ではどうする事も出來ません、それよりもあの家(うち)はあの儘おかへしする事にして、私は御近所に宿屋(やどや)でもありましたら宿をとる事にいたします。」

「なるほどそれも好(い)いでせう、甚(はなは)だ立入つた事をお伺(うかゞ)ひしますが、亡(なく)なつた方は貴所(あなた)の御つれあひでございますか。」

「左樣、只今(たゞいま)もおかかりの役人(やくにん)に申し上げました通り、あれは私の家内(かない)でございます。仔細(しさい)あつて一年ほど私は大阪へ出かけますると、あれは橫濱(よこはま)に住んで居りましたのでございましたが、今度(こんど)いよいよ東京で世帶(しよたい)を持つ事になりましたので、あれがあの家を探(さが)し當(あ)てて直ぐに引越して居るから、上京(じやうきやう)するやうにといふ知らせをよこしましたやうなわけで、大阪の仕事を片付(かたづ)けますと取るものも取りあへず參(まゐ)りましたのですが――」とここまではすらすらと云(い)つたが、又(また)込(こ)み上(あ)げて來る淚(なみだ)に、あとは言葉も消(け)されて了(しま)つた。

 吉村はその日の中に町内(ちやうない)に一軒(けん)ある下宿屋へ身體を落ちつけて、役所で假埋葬(かりまいさう)にしてある女の屍骸(しがい)を受けとると、一方に手續きをして置いた近所(きんじよ)の寺の墓地へ埋(う)め、包み物は自分の鞄と一まとめにした上、大家を始(はじ)め、世話(せわ)をやかした近所の人々ヘそれぞれ滯(とゞこほ)りのない心付(こゝろづけ)をして、

「いろいろお世話(せわ)さまになりました。」といふ一言(こと)を殘(のこ)すと、その儘何處へともなく立去(たちさ)つて了つた。

 例の紅葉(もみぢ)の枝のさし出た空家には改(あらた)めて貸家札(かしやふだ)が貼(は)られて次の住み手を待つ事になつた。

 この一騷(さわ)ぎを稀有(けう)な目付で見てゐた近所の人々が、時折、胡散(うさん)くささうに見ながら空家のまはりをうろついてゐたのも二三日の間の事、その後(ご)は何の不思議(ふしぎ)も異變(いへん)もないので、忽ちの間に忘(わす)れられて了(しま)つた。

 堤さく子が空家で死(し)んでから十日も經(た)つたある日、其次の借(か)り手(て)が出來て、此家の中を見る事になつた。

 それはさく子が此家に荷物(にもつ)を持ち込んだ時と同じやうに晴(は)れ切(き)つた靜(しづ)かな朝であつた。今度の借手は夫婦(ふうふ)づれの中老人で、矢張り大家の内儀(おかみ)がついて門をあけ、戶口をあけてやるのに續いて借り手の女房(にようぼ)が一足先へ入つた、そして式臺(しきだい)へ足を踏(ふ)みかけてずっと玄關(げんくわん)へ上つたかと思ふと、

「アツ。」とけたたましい聲(こゑ)を立てて振向(ふりむ)きざまに良人(をつと)へ縋(すが)りついた。

 大家の内儀(おかみ)はこの妻女のうしろに居たのだが、この聲を聞いたばかりで、度膽(どぎも)をぬかれて一散(さん)に外へ飛(と)び出(だ)して了つた。

「何だ何だ、どうしたのだ。」と良人(をつと)がいへば、

「外へ連(つ)れてつて下さい。」とばかりでガタガタ慄(ふる)ひをしてゐる、譯は判らぬながら、極端(きよくたん)に怯(おび)えてゐるので、良人(をつと)は女房を抱(だ)くやうにして外へ連れ出した。

「どうかなさいましたか。」と大家の内儀(おかみ)がおどおどした樣子(やうす)で問ひかけると、

「幽靈が幽靈が。。」と眞靑(まつさを)な顏をして立つてゐる空もない[やぶちゃん注:「そらもない」。「落ち着いた気分がしない・気が気でない」の意。]樣子、

「馬鹿な、幽靈などがゐるものか。」と良人(をつと)は云つたが、妻女の怯(おび)え方があまりに激(はげ)しいので、すぐにその場(ば)で破約(はやく)にしてどんどん引上げて了つた。

 一度ならず二度までもこんな事があつたので、大家でも不思議(ふしぎ)に思つた、が、今まで曾(かつ)て何事もなかつた家なので、結句(けつく)は何かの思ひちがひだらうといふ事で、今度(こんど)の事は大家夫婦の間だけの祕密(ひみつ)にして、知らぬ顏で捨(す)て置いた。

 併しこの借手(かりて)の夫婦(ふうふ)が、近所のすしやか何かへ立よつてこの話をしたものと見え、忽(たちま)ちの間に町内は怪物屋敷(ばけものやしき)といふ噂(うはさ)がそれからそれへと傳へられた。

 さあ翌日(よくじつ)からはいろいろな人が空家を見に來る、噂は噂を生(う)んで、中には、

「幽靈(いうれい)をたしかに見た。」

「俺(お)れも見た。」

「きのふは幽靈が門(もん)の中をふはふはと步いてゐた、血みどろの姿(すがた)であつた。」などと話はだんだん大袈裟(おほげさ)になりはじめた。

 

         

 

 此の町内(ちやうない)には柔道(じうどう[やぶちゃん注:ママ。])の道場があつた。この道場に集まる連中(れんじう)の中で、この噂(うはさ)を聞いた一人の靑年が、

「一つ我々の膽力(たんりよく)であの空家を探檢(たんけん)して見ようではないか。」と云ひ出した。

面白(おもしろ)い、早速(さつそく)決行(けつかう)しよう。」と血の氣多い强(つよ)がりの連中がすぐに大家へ交涉(かうせふ)して、門を開けさせる事にした。

 これは夜も十時頃(じごろ)の事である、五六人の靑年は手手(てんで)に得物(えもの)を持つたり、うしろ鉢卷(はちまき)をして稽古衣(けいこぎ)に白袴(しろはかま)の股(もゝ)だちをとるものもあり、大抵(たいてい)の幽靈は向ふから逃(に)げ出しさうな姿でどんどん押し出した。

 併(しか)しその家の前へ行くと急に引緊(ひきしま)つた顏つきをして、腰(こし)を浮かし、得物を握(にぎ)りしめながら、そろそろと門の中へ入(はい)つた。

「幽靈退治(いうれいたいぢ)は願(ねが)つてもない事ですが、なるたけ建具を壞(こは)して下さらんやうに」と大家は云つた。

 さて五六人が殘らず家の中へ入つて隅(すみ)から隅までを調べたが、何の變(かは)つた樣子もない、五六人は暫らく此家で坐(すは)り込(こ)んでゐたが、それでも鼠(ねずみ)の音(おと)さへ聞えなかつた。といふので張合(はりあひ)ぬけがして引上(ひきあ)げて來た。

「どうも馬鹿(ばか)々々しい、何の不思議もない。」

「第一幽靈などの出さうな家(うち)ぢやない、古(ふる)びてこそ居るが、住心(すみごゝろ)のよささうな立派な家で。」

「どうも女といふ奴(やつ)は臆病(おくびやう)でいかん。」

 口々に靑年(せいねん)たちは笑つた。が、始めに云ひ出した靑年は尙(な)ほ熱心(ねつしん)に考へてゐたが、

「諸君(しよくん)、我れ我れは幽靈探檢の方針(はうしん)をあやまつてゐた、先日のも、その前のも、眞晝間(まつぴるま)の出來事だ、而(しか)も朝の間の出來事だから、あそこの幽靈は晝間(ひるま)に限つて出るのかも知れないぞ、明日もう一度押しかけて見る事にしたらどうだ。」と提案(ていあん)した。一寸尤(もつと)もな思ひつきである、それではといふので翌日(よくじつ)午後二時頃又一同出かけて見た。併(しか)し何の變(かは)りもない。

「何(なん)の變りもないぢやないか。」

「うん、何でもない、併しもう一度やつて見よう、今度はあの變事(へんじ)のあつた時間(じかん)に入り込んで見る事にしよう。」と前(まへ)の靑年は又云つた、この靑年は大家の家とは遠緣(とほえん)に當る米屋の忰(せがれ)で、飛んだ幽靈沙汰(いふれいざた)で、大家が一方ならず迷惑(めいわく)してゐるのを救(すく)つてやらうといふ親切氣(しんせつぎ)を充分に持つてゐた。

 他(ほか)の靑年はすつかり氣乘(きの)りがしなくなつてはゐたが、この米屋の忰の熱心(ねつしん)にほだされて又次の目の朝(あさ)出(で)かける事にした。

「今(いま)丁度(ちやうど)八時半だ、大家に樣子(やうす)を聞いたら、大家でも成(な)るほどと云つてゐた、さう云へば堤(つゝみ)といふ婦人の倒(たふ)れたのも、次の借り手が驚ろいたのも丁度九時頃だつたさうだ、今からあの家に入り込んで、十二時頃まで戶(と)を閉(し)めたままで靜(しづ)かにしてゐたら、何か異變(いへん)があるかも知れない。」と云ひ云ひ例(れい)の空家へ出かけた。他の靑年も詮事(せうこと)なしに、米屋の忰(せがれ)について行つた。

 そつと戶を開(あ)けて、一人づゝ靜かに靜かに中へ入る、米屋の忰は充分(じうぶん[やぶちゃん注:ママ。])に注意をしながら、式臺ヘミシリと上(あが)り込(こ)む、それから玄關へずつと進(すゝ)む、進みながら奧(おく)をぢつと見込むと、ブルブルと身慄(みぶる)ひをして二足下つた、あとに續いてゐた靑年(せいねん)たちはどやどやと逃(に)げるが、米屋の忰(せがれ)は眞靑になりながらも足(あし)を宙(ちう)にして踏みとどまつて、棍棒(こんぼう)を持ち直した、それから充分にこれを振上げた上で、そつと又一足二足と進んだ。他の靑年は片唾(かたづ)を呑(の)んで米屋の忰の樣子(やうす)をぢつと見てゐる、家の中は薄暗(うすくら)がりであつた。

 米屋の忰は最初にブルブルと慄(ふる)へた場所まで進んだ時に、棍棒(こんぼう)を一うなりうならして、今にも打下(うちおろ)しさうにした。が、打下しはせず、棍棒の先(さき)を頭の上で鶺鴒(せきれい)の尾のやうにひよこひよこと振つて見た。それからそつと棍棒を下した、と同時(どうじ)に、

「アハヽヽヽヽ。」と破(わ)れかへるやうな笑ひ聲を立てた。

 充分(じうぶん)緊張(きんちやう)しきつたところへ出しぬけの笑(わら)ひ聲を出されたので、あとから續いてゐた靑年たちは却(かへ)つて驚いて、其儘其場に尻餅(しりもち)をついたものもある、跳(は)ねかへされるやうに外へ飛び出したものもあつた。

「何(なん)だつまらない、はゝゝ、こんな事か、さあ幽靈の正體(しやうたい)が判(わか)つた、さあ皆(みんな)ここヘ來たまへ。」と米屋の忰は昂然(かうぜん)として反身(そりみ)になつた。

 米屋の忰(せがれ)の樣子を見ると、皆が少しは安心(あんしん)してそろくそろと上つて來る。米屋の忰は奧(おく)の方を指さして、

「それ、向(むか)ふに人の姿(すがた)が見えるだらう、どうだ。」

 一人々々そつと顏をのばして見ると、なるほど朦朧(もうろう)として人の姿が此方(こつち)を向いて立つてゐる、それが見てゐる中に一人が二人になり三人になり四人になる。

「あれが幽靈(いうれい)の正體さ、よく心を落着けて見たまへ、自分(じぶん)の顏をいろいろに動かして見たまへ、さうすれば自然(しぜん)に幽靈の正體が判(わか)るから。」と云つた。

 靑年たちはいろいろに顏を動かして、そして一齊(せい)に笑ひ出した、幽靈と思つたのは自分たちの姿が奧(おく)の間の境(さかひ)にある硝子戶(がらすど)にうつつてゐるのであつた。

「何だつまらない、幽靈の正體見たり枯尾花(かれをばな)か、これぢや女がここに立てば女の姿が恨(うら)めしさうに寫(うつ)るにちがひない、はゝゝ。」と又笑つた。

「併し待ちたまへ。」と中の一人が云つた。

「あれはたしかに硝子(がらす)にうつる影(かげ)だが、昨日(きのふ)來(き)た時にはどうして見えなかつたのだらう、それが不思議(ふしぎ)だ。」といへば米屋の忰は、

「それこそ簡單(かんたん)な理由(りいう)さ、今は午前九時だ、お天道樣(てんたうさま)が東においでなさる、午後になればお天道樣は西(にし)にまはつて此家の中へ日がさし込(こ)む氣(き)づかひはない、若し午後になつてもあの影(かげ)がうつつたら、それこそ一大事だ。」

 これですつかり幽靈(いうれい)の正體は判つた。大家は喜んで威勢(ゐせい)よく貸家札を貼(は)り直(なほ)した。

 

        

 

 然(しか)し一旦(たん)けちのついた家は中々借手がない、かれこれ半月以上(はんつきいじやう)も空家(あきや)の儘で、見に來る人さへなかつた。

 大家もうんざりして此家の掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])さへせずに打棄(うつちや)つて置いたが、ある日木枯(こが)らしが吹(ふ)きすさんでやがて雨(あめ)をさそつて强(つよ)い强い吹(ふき)ぶりの日が三日つづいた。

 その吹降(ふきぶ)りが上ると、遉(さす)がに大家も自分の持家(もちや)だけは見まはらなければならぬ。

 雨の晴れ間を見て空家(あきや)の門をあけ、戶(と)を開けようとすると、じめじめとしてめつきり陰氣(いんき)になつた此家の奧(おく)の方(はう)で、鼠とは思はれぬ物の音がした。玄關(げんくわん)に聞耳(きゝみゝ)を立てて立止まつてゐると、猛獸(もうじう)などの呻(うな)るやうな聲が聞える。

「何だらう何だらう。」と大家はそろくそろ入らうとしたが、薄氣味惡(うすきみわる)さにどうしても入れなかつた。

 すぐに米屋(こめや)へ引かへして、

「源次郞(げんじらう)さんに一寸手を貸(か)してもらひたいが。」と町内の勇士(ゆうし)米屋(こめや)の忰を呼(よ)んだ。

「また變な物音(ものおと)がするつて、大方(おほかた)叔父(おぢ)さんの空耳(そらみゝ)だらう。」

「いや、たしかに物の音がしたんだ、一寸來て見ておくれ、幽靈退治(いうれいたいぢ)は、お前さんに限(かぎ)るんだから。」と引張(ひつぱ)るやうにして戾(もど)つて來た。

 源次郞は店(みせ)にあり合した米屋づかひの手かぎを持つて勢(いきほ)ひよく飛んで來た。足音を忍(しの)ばせながらだんだん聲のする方へ進むと、奧(おく)の三疊(でふ)へ來て了つた、六疊についてゐる押入(おしい)れ、そこから呻(うな)り聲は聞(きこ)えてゐる。

 大家と源次郞は息(いき)をこらして押入れに近づいた、押入れは開(あ)け放(はな)してあつた、その開け放した押入れの中を源次郞が覗(のぞ)き(こ)込むと、二尺直徑(しやくちよくけい)ぐらゐもある大きさの風呂敷包(ふろしきづゝみ)が一つ押入れの上段にコロリと置(お)いてある。

「大家さんのですか。」と源次郞が小聲(こごゑ)で聞くと、大家は目を丸(まる)くしながら首(くび)を振つた。

「泥棒(どろばう[やぶちゃん注:「泥坊」の場合はこれでよいので、当て字でよしとする。])の巢(す)にされたんぢやないか。」と又小聲で聞くと、大家は尻込(しりご)みをしはじめた。

 源次郞は風呂敷包みを引(ひき)よせて見る氣で、手をずつと押入(おしい)れの中へ伸(のば)しながら、よく見ると、風呂敷包の上には男の生首(なまくび)が一つ、ころりと乘つてゐる。

「アツ。」と云つて遉(さす)がの源次郞もこれには驚(おど)ろいた。大家も同時に生首に氣がついて打倒(ういちたふ)れると唐紙(からかみ)ヘトンと突當(つきあた)ると唐紙二本骨を折つて了つた。

 驚きながらも源次郞が、又立上ると、今度(こんど)は風呂敷包がムクムクと動(うご)いた。途端(とたん)に丸裸(まるはだか)も同然の男が押入(おしい)れからとんと飛び下りて、座敷中(ざしきぢう)をうろつきながら出口を探(さが)しはじめた樣子。

 かうなると源次郞は又(また)强(つよ)くなる、轉(ころ)げまはつてゐる男に飛びかかると柔道初段(じうどうしよだん[やぶちゃん注:ママ。])の腕前(うでまへ)を振つてこの男をとン[やぶちゃん注:ママ。違和感はない。]と投(な)げつけて、直ちに早繩(はやなは)を打つて了つた。

「さあ泥棒め、畜生(ちくしやう)、神妙(しんめう)にしろ、まごまごすると、この手鍵(てかぎ)が貴樣の胸に突(つ)き刺(さ)さるんだからさう思へ。」と源次郞は手鍵を縛(しば)られた男の鼻(はな)の先でゆすぶつて見せた。

 大家はすぐにがらがらと此(こ)の座敷(ざしき)の戶を開けた。

 雨上(あめあが)りの日光が此座敷一杯(ぱい)に入つたところで、大家が怖々(こわごわ)男の顏を覗(のぞ)き込むと、小首を傾(かし)げながら、

「此男は見た事があるやうだ。」と云(い)ひ出(だ)した。

「見た事がある、本當(ほたう)ですか。」

「うむ、確(たし)かに見た、ハテ何處で見たのだつたかな。」

「相濟(あひす)みません、出來る事なら私は此儘(このまゝ)殺(ころ)されたうございます。此家で死(し)ぬ事が出來れば私の本望(ほんもう[やぶちゃん注:ママ。])でございます。」と男は淚(なみだ)で顏一杯を濡(ぬ)らしながら云つた。

 その聲を聞くと大家は換手(かへで)を打つて、

「おゝ、お前(まへ)さんは吉村竹次郞とか云つた人だね、一體(たい)これはどうなすったのぢや。」と大家は始めて安心(あんしん)して、男の側近(そばちか)く顏をさしのばした。

 一人の女が偶然(ぐうぜん)空家(あきや)で死に、その女と夫婦になる筈(はづ)の男がつづいて來て、かうして隱(かく)れて住み込んでゐてここで死にたいといふ、若(わか)い源次郞にはこの吉村の心持が判(わか)るやうな氣がした。

「お前さんはお前さんのお神(かみ)さんの死んだ場所で死にたがつてゐるのか。」

 男は默(だま)つてうつむいてゐる。

「ねえ、さうだらう、かうなつたら仕方(しかた)がない、委(くは)しく話して下さい、又力になる筋(すぢ)がないとも限(かぎ)らないから。」と源次郞が云へば、

「ありがたうございます、御親切(ごしんせつ)に甘(あま)えて何も彼(か)も申し上げます。」と又(また)新(あたら)しい淚に咽(むせ)びながら、男は身の上話を始(はじ)めた。

 吉村とさく子とは幼(をさ)ない友達(ともだち)であった、そしてお互ひに相當(さうたう)の年になつたら夫婦になりませうといふ約束(やくそく)までしてゐた。ところが二人の間には深(ふか)い義理(ぎり)と恩(おん)とのある人が、二人の事を知らずにさく子を嫁(よめ)にもらひたいと云ひ出した。二人は二人の約束(やくそく)の事をその人に向(むか)つて話しそびれて默つてゐた。默(だま)つてゐる事は異存(いぞん)のない事として其人がさく子を嫁(よめ)にして了つた。

 其時さく子は自殺の覺悟(かくご)をした。けれども吉村はその自殺が結句(けつく)恩人(おんじん)に向つて面當(つらあ)てがましくなる事を覺(さと)つてさく子を止(と)めた、女を納得(なつとく)させ自分も諦(あき)らめて大阪ヘ行く事にした。間もなく二人の恩人は急病(きふびやう)で死んで了(しま)つた。吉村とさく子とはもう誰れに[やぶちゃん注:個人的には「たれに」と読みたい。]遠慮(ゑんりよ)もなく夫婦になれる身體(からだ)であつた。此の死んだ恩人(おんじん)以外(いぐわい)に義理も緣(えん)もつながるものは、二人の身の上になかつたのだから。

「恩人(おんじん)がなくなったわ、すぐに二人が一緖(しよ)になつたわではあまり義理を知(し)らないやうだ、それよりも我慢(がまん)の仕(し)ついでに、あと一年間はこれまで通(とほ)りに別れてゐよう、さうすれば、恩人の一周忌(しうき)の間だけ、身を愼(つゝ)しむ事が出來るのだから。」と吉村は云つた。さく子もそれに否(い)やをいふ事は出來ないほど、死んだ恩人に對(たい)する義理は深(ふか)かつた。

 かうして一旦(たん)橫濱(よこはま)へ戾(もど)つて來た吉村は、再び大阪心齋橋の奉公先(ほうこうさき)へ戾つた。

 さく子は早九月を過(す)ぎると良人の家を疊(たゝ)んで戶部へ引取(ひきと)つた。

 かうして一日を千年のやうな思(おも)ひでお互(たが)ひに待(ま)ちくらして一年間が過ぎると、女は一年前の約束通り二人の新(あた)らしい住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で、正しくは「すまひ」と読む。])を東京に探(さが)してこの空家を探し當て、すぐに大阪へ知(し)らしたので、吉村はとるものもとりあへず上京(じやうきやう)したのであつた。

 待(ま)ちかねた一年間、その一年間やつと濟(す)むかと思ふとあの始末(しまつ)になつたので、吉村は此世に生きる望(のぞ)みも何も彼(か)もなくなつたのだ。殊(こと)に女の手に殘された幾何(いくら)かの財產は、皆恩人の遺產(ゐさん)である。これをたよりにして自分一人が身(み)を立(た)てる氣にはなれなかつた。

「私はさく子の埋葬(まいさう)をすましますと、直ぐにさく子の手にあつた金はそつくり孤兒院(こじゐん)に寄附(きふ)して了ひました。そして身がら一本になつて一旦大阪へ戾(もど)りましたが、お恥(はづ)かしい事ですが、もう何をする勇氣(ゆうき)もありません。又ふらふらとかうして一週間前(しうかんまへ)に戾つて來ました。そして此家が戀(こひ)しさに惡(わる)い事と知りながら、あの押入れの中で暮(くら)して居りました。」と泣(な)いた。

「お前さん裸(はだか)ぢやないか。」と大家が覗き込むと、

「ハイ着物(きもの)は賣りつくしたり、破けたりしましたから剝(は)ぎすてたりして了(しま)ひました。けれども此頃の寒(さむ)さにどうする事も出來ませんから、さく子の持つてた風呂敷に身體(からだ)すつかり包(つゝ)んで、貴郞(あなた)が御覽(ごらん)になった通りに首だけ出してゐるのでございます。」と云つた。

「此男は斷食(だんじき)をして女と一緖(しよ)の家で死なうとしてゐるんだな。」と大家も源次郞も思(おも)つた。

 大家は哀(あは)れにも思ひ、此家で死なれては迷惑(めいわく)だとも思つて、自分の家ヘ一旦(たん)連(つ)れかへらうとしたが、吉村は飽(あ)くまでも辭退した。そして風呂敷を身體(からだ)にすつぽり卷きつけて、身すぼらしげに此の空家(あきや)を立ちのいた。

 

 さく子を埋(う)めた寺の墓地(ぼち)、而もさく子の墓の前で首を縊(くゝ)つて死んだ男があつたといふ事を米屋の忰と大家が聞(き)いたのは、その翌日(よくじつ)の事であつた。

[やぶちゃん注:十四年前、本篇を読んだ時、悪気(わるぎ)のある人は、一切出ない、この擬似怪談、読み終わって、何とも言えぬ哀れさを感じた。まず、怪奇談の中で、これほどリアルにそれを味わったのを思い出す。蘆江の名品である。

ブログ2,090,000アクセス突破記念 「蘆江怪談集」始動 / 表紙・裏表紙・背・「妖怪七首 ――序にかへて――」・「お岩伊右衞門」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で「蘆江怪談集」を電子化注を始動する。私の同「怪奇談集」及び「怪奇談集Ⅱ」では、江戸時代の怪奇談集のみを扱ってきたが、今回は初めて、近現代の怪奇談集となる。

 著者平山盧江(明治一五(一八八二)年~昭和二八(一九五三)年:パブリック・ドメイン)は小学館「日本大百科全書」に拠れば、『小説家、随筆家。神戸に生まれる。本名』は『壮太郎。実父田中正二は旧薩摩藩船御用さつま屋』七『世。実父没後、長崎の酒屋平山家に入った。東京府立四中(現戸山高校)を中退、満州』『で新聞記者を勤めた』後、『帰国し、『都新聞』『読売新聞』の花柳』『演芸記事を担当、花柳ものを得意とした。大正一五(一九二六)年、『長谷川伸らとともに第一次『大衆文芸』を創刊』、昭和六(一九三一)年に『に第二次『大衆文芸』を刊行』、『大衆文芸の振興に活躍した。小説』「唐人船」・「西南戦争」『などのほかに、随筆、また』、『都々逸(どどいつ)、小唄の作詞にも数多くの作品がある』とあった。

 底本は正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの同書の初版(昭和九(一九三四)年岡倉書房刊)(リンクは扉の標題ページ)を用いるが、加工データとして、所持する株式会社ウェッジ二〇〇九年発行の「蘆江怪談集」を使用させて戴く。ここに御礼申し上げる。『ウエッジ文庫』版が本底本と大きく異なるのは、ルビが大きくカットされていることである。本底本は、かなりルビが附されてあるが、総て採用し、( )で後に添えた。附け方から推理すると、これは、盧江が附したものと思う。異様に当たり前に読める漢字に、かくルビするのは、彼が新聞記者だった時代からの因果な癖だろうと、まずは考えるからである。それは、殆んど、底本の一行内にルビがない(全部がひらがな・カタカナの場合は除く)ことからの私の推定でもある。近代の新聞のルビは、一行の内に、ほぼ必ず、ルビが振られていたからである。或いは、蘆江は新聞小説を書いているように、ルビを確信犯的に振っているとさえ、私には思われるのである。但し、歴史的仮名遣の誤りがかなり多いが、これも上記の仕儀の影響だろう(明治中期以降は新聞の表記が既に口語表現化していたからである)。また、先行する箇所で振っていないのに、直後に振っているケースなども多い。しかし、後者は、ママ注記をすると、五月蠅いだけなので、やめた。また、「中」を「ちゆう」ではなく、「ちう」としたりする「ゆ」の脱落は、当時の文豪なども盛んに用いたので、誤りとはしなかった。なお、盧江の文章は、普通なら、句点にする箇所を、読点にしていることが多い。特に、直接話法の台詞では、その傾向が甚だしい。物によっては、会話文の最後には句点は打っていない(本「お岩伊右衞門」がそれ)。傍点「﹅」は太字に代えた。但し、踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので、正字或いは「々」に代えた。

 なお、本電子化注は、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが本見未明、2,090,000アクセスを突破した記念として始動する。【二〇二四年一月三十日 藪野直史】]

 

 

   蘆 江 怪 談 集

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館の補修により、原本の表紙その他は視認出来ない。そこで、画像検索をかけたところ、オークション・サイト「aucfan」のこちらで、初版のそれらの画像を確認することが出来たので、それを元にした(以下の裏表紙・背も同じ)。その写真では、水色の雨が降る中、右下方に、小田原提灯が中央を上に曲げて、その黄色い蛇腹のそこから火が燃え上がって、怪しく右方向に流れている絵が配されている。この火は背を抜けて裏表紙に及び、同じ雨の降る中、稍右手に及んで螺旋を描いて人魂のような怪火となっている。上記標題は手書きで、目次の末尾によって、この表紙絵も題字も蘆江自身の手になるものである。]

 

版 房 書 倉 岡          

 

[やぶちゃん注:以上は、裏表紙の下方に、ご覧の通り、右から左に記されてある。ポイントはごく小さい。]

 

 怪  談  集   平 山 蘆 江

 

[やぶちゃん注:背。頭の「蘆江」は、ない。先に言った怪火は「集」の字の少し下を上に弧を描いて横切っている。]

 

 

    妖

    怪

    七

    首

 

        序

        に

        か

        へ

        て

 

 

      このつらを張りかへましたと本當らしく

  狸

      うそを月夜の腹皷

 

      啼いてとほつた鴉の聲にだまされ

  狐

      ごころもよい月夜

 

      迷兒の迷兒の人魂ひとつ團扇

人   魂

      に打たれたほたる狩

 

      ゆきつもどりつらめしさうにつめたい

幽   靈

      月見る橋の上

 

      化けて出さうな番傘一つやけで

一本足の傘

      飮んでる屋臺見世

 

      もう來る時分と時計の針にうらみを

ろ く ろ 首

      言ってる待ちぼうけ

 

      無理と依怙地は二人のかたき三つ目は

三つ目入道

      うるさい人の口

 

              昭和九年孟蘭盆の夜

                   蘆  江  生

 

[やぶちゃん注:以上は底本の、ここと、ここ。「妖怪七首」及び「序にかへて」(ポイント落ち)は、実際には、ご覧の通り、横書で右から左に書かれてある。

 この後に、「蘆 江 怪 談 集  目  次」が続くが、これは、本文電子化の最後に配することとする。]

 

 

    お 岩 伊 右 衞 門

 

[やぶちゃん注:目次の後の見開き左の第一話の標題ページ。なお、かく見開きでは、右端に「怪  談  集」の柱があり、その下方(五字上げインデント)にノンブルが漢数字で記され、左端には当該本文の標題が柱とされ、同じく、下方に同前の仕儀が成されてある。

 以下、本文開始。]

 

       

 

 四谷左門殿町に田宮(たみや)又左衞門といふお先手組(さきてぐみ)の同心が居た。妻に早く死に別(わか)れて、お岩といふ娘と親一人子一人の暮し、外に親類(るゐ)も緣者もなく、賴みにする友人(いうじん)もないので、賴(たよ)るものは金より外にあるまいと、又左衞門娘を思ふあまりに、朝夕(あさゆふ)の暮しを詰(つ)めても、金を殘す事を考へてゐた。

「お父(とう)さま、先ほど秋山(きやま)さんの仲間とどこやらの仲間と、家(うち)の前でいやな話をして居(を)りました。侍が金を溜(た)めるのは卑しい心掛(こゝろがけ)ぢや、侍といふものは譬(たと)ひ其日の御飯が食べられずとも啣(くは)へ楊枝(ようじ[やぶちゃん注:ママ。)で威張(いば)つてゐねばならぬものぢや、それほど卑(いや)しい金だのに、其れを溜(た)めるさへあるに、貸付(かしつ)けて利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])をするとは言語同斷などと申して居りました、私は腹(はら)が立つてなりませぬ」とお岩(いは)が云つた。

 父は肌(はだ)ぬぎになつて、風通(かぜとほ)しのよいところで眼鏡をかけながら、頻(しき)りに内職の楊枝を削(けづ)つてゐたが、眼鏡(めがね)ごしに娘の顏を見て、

「何(なん)とでも云はして置くがよい、俺しは俺しの考(かんが)へでしてゐる事ぢや、お岩や、お前(まへ)はそのやうな事で腹を立てるが、今に思ひ當る事がある、餘人(よじん)は兎に角、私とお前との間には金(かね)がなくては何する事も出來(でき)まいぞ」と云つた。

 暑い暑い七月の末の事である、額(ひたひ)の汗を前垂(まへだ)れで拭きながら、お岩は、

「思ひ當(あた)る事とは何でございます」と聞く。

「外の事でもない、私も最早(もはや)定命を過ぎた、尤も五十一歲といへば、男の仕事盛(しごとざか)りぢやが私の身體は元來(ぐわんらい)弱い、其の弱い身體では明日が日に死なうも知れぬ、若し俺(わし)が死んだあとで、お前一人では誰れに賴(たの)むところもない、殊には女の事故(ことゆゑ)、私の跡目(あとめ)をついでお扶持を頂(いたゞ)く事も出來まい、いづれは婿養子(むこやうし)でもして置かねば俺は死んでも死に切れぬ譯(わけ)、さゝ、其の婿養子(むこやうし)とてもこんな貧乏同心のところへ緣なきものゝ來やう[やぶちゃん注:ママ。]筈(はず)がないから、今の中に金でも溜めて萬一の杖柱(つえばしら)にして置かねばならぬといふのぢや、お前(まへ)も少しは其の心掛(こゝろがけ)をするがよい」と云つた、萬事(ばんじ)此調子である。

 かういふ中で育(そだ)てられて來たお岩ゆゑ、自然又左衞門の心(こゝろ)が籠(こも)つて、物事につましい[やぶちゃん注:「儉(つま)しい。]事一通(とほ)りでない、紙屑は隣の家の前に落ちてゐても拾ひ集(あつ)めて置いて屑籠(くづかご)に入れる、臺所の仕事は打捨(うちす)てて置いても賃仕事(ちんしごと)をして單衣ものゝ仕掛を一針でも運(はこ)ばして置く、といふ風で、中々(なかなか)二十や二十一の女のやうではない。

 かうして親子(おやこ)が氣を揃へて内職(ないしよく)に精を出してゆくほどに、めきめきと身上(しんじやう)の繰(く)りまはしはよくなつて行つてゐる、近所(きんじよ)や同役の噂(うはさ)では、田宮の家の身上は夥(おびたゞ)しいものである、貸付けた金だけでも千兩からあるに相違(さうゐ)ないとさへ噂してゐた、全く其の位(くらゐ)のゆとりはあるに相違ない。

 親子がこんな話(はなし)をしてゐるところへ、勝手口(かつてぐち)から入つて來たのは近所に住んでゐる按摩(あんま)の宅悅である。

「おゝ宅悅(たくゑつ[やぶちゃん注:ママ])どのか、よう御座つた」と又左衞門が愛想(あいそ)よく迎へると、

「ハイ今朝、日影(ひかげ)の中に下谷まで參(まゐ)つて、二三軒利金(りきん)をとり集めて來ました、どうも早や、諸式(しよしき)が高くなつたからの、世間(せけん)が不景氣ぢやからのと勝手(かつて)な事を申しまして、思ふやうに利子(りし)を入れてくれませぬので弱ります」といひいひ帳面と引合せに、取集(とりあつ)めて來た貸金の利子を勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])し始めた。

[やぶちゃん注:「四谷左門殿町」(よつやさもんどのちやう)は現在の新宿区左門町(グーグル・マップ・データ)。]

 

      

 

 それを一々算盤(そろばん)で當(あた)つた上、又左衞門は定めた通りの日當(ちつとう)を宅悅(たくえつ)に渡してかう云つた。

「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」

 宅悅は一寸(ちよつと)いやな顏をしたが、

「ハイハイお庇樣(かげさま)で暮しが樂になりました、此節(このせつ)は夜仕事だけで、晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」

「いや何(なん)にしても金(かね)の事ぢや」

「ほんに金がなければ世渡(よわた)りは出來ませぬ、金と申せば、今日は耳寄(みゝよ)りの話(はなし)を聞きましたが」

「耳寄りとは嬉(うれ)しいの、何處かに好い貸口(かしぐち)でもあるかな」と又左衞門は始めて楊枝削(やうじけづ)りの手を止めて宅悅(たくえつ)の顏を見た、お岩(いは)もお針の手(て)を止めた。

「いや貸口(かしぐち)ではござりませぬ、豫(か)ねて御心配なされたお岩さんの婿(むこ)どのでござります」

「あゝ聟か、持參金(ぢさんきん)でも持つて來る口(くち)があるのかな」

「いえ、持參金(ぢさんきん)とてはありませぬが、立派な腕(うで)を持つた浪人(らうにん)ものでございます、年(とし)は三十一、中々の美男(びなん)でございまして、聟(むこ)に參つてよいとか申して居(を)りまする」

「立派(りつぱ)な腕とは劍術かの、劍術なら左程(さほど)なくてもよいが」

「いえ、劍術(けんじゆつ)などではござりませぬ、とても御考(おかんが)へ及びにはなれますまい、大工が旨(うま)いのでございます」

「大工、ウムそれは面白(おもしろ)い、それはよい出世の緖(いとぐ)ちぢや、早速話を運(はこ)んでもらつてもよささうぢや、が、兎に角一度(ど)逢(あ)つて見たいものぢや」

「さ其處[やぶちゃん注:「さ、そこで」。]で金(かね)と申すのでございます、この浪人(らうにん)をよく知つて居りますのは、私の懇意(こんい)なもので、小股(こまた)くゞりの又市(またいち)といふ男でございます、これに少(すこ)しばかり握らせて口を利(き)かせたら、此緣談(えんだん)は屹度(きつと)成り立ちませう」

「うむ、それはさうしてもよいが、幾何位(いくらくらゐ)握(にぎ)らせるのじや」

「なあに二分か三分も握(にぎ)らせてやればウンと云はしてくれませう、併(しか)し下谷から運(はこ)んで來るのでございますから、左樣(さやう)私に一兩お預(あづ)け下さいまし、屹度(きつと)物にして參ります」

「一兩、するとお前が二分とつて、又市とやらに二分(ぶ)やらうといふ譯か」[やぶちゃん注:ここは一分金の小粒での換算。一両は小粒一分金で、四枚で、一両になる。]

「いゝえ、其樣(さやう)にはとりません、兎に角さうなさいませ、お岩(いは)さん、それはそれは好(よ)い男でございますよ」と宅悅(たくえつ)はそゝのかすやうにお岩の顏を見た、お岩は遉(さす)がに赤い顏をして下を向(む)いた。

[やぶちゃん注:「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」ここから推定出来るのは、「晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」と宅悦は言っているので、宅悦は、又左衛門に夜話を語りにちょくちょく訪れ、語りの序でに彼の内職の楊枝削りを手伝っているのであろう。

「小股(こまた)くゞりの又市」「小股潜り」は「甘言を弄して人をたばかること」を指す言葉で、所謂、詐欺行為紛いの小悪上手(こわるじょうず)の意である。「又市」とあるが、宅悦同様の視覚障碍者で按摩のように見えるが、次の段の彼の様子と、悪手の仕込みなどを考えると、或いは、普段は盲目の按摩を演じて、その実、目明きという設定かも知れない。]

 

       

 

 宅悅は兎に角一兩の金を又左衞門に預(あづ)かつて、又下谷へ引きかへした、小股(こまた)くゞりの又市といふのは有名な口前(くちまへ)の旨い男である、これに一兩の金(かね)を見せ山分けといふ相談(さうだん)をして、引受けさせる事にした。

 又市は旨(うま)く行つたら、もう少し利分(りわけ)を貰はねばいやだと念(ねん)を押して置いて。

 浪人者(らうにんもの)といふのは又市の家の隣長家(となりながや)に住んでゐる伊右衞門といふ男である、其日(そのひ)のたつきを助ける爲に杉板(すぎいた)を切つて塵(ちり)とりを造つてゐたが、又市の顏を見ると、

「又市どの、珍(めづ)らしい、よく來てくれた、一番(ばん)昨日の勝負(しやうぶ)をつけようか」と云ふ。

「いや今日は將棋(しやうぎ)どころではない、お前樣の爲めに相談事(さうだんごと)で來たのぢや」

「ふむ私の相談事(さうだんごと)とは」

「外でもない、お前、聟(むこ)にゆく氣はまいか、金なら千兩ぐらゐの遊(あそ)び金がいつでもあつて、親類緣者(しんるゐえんじや)のかゝり合ひがなくて、父親(ちゝおや)一人子一人といふところぢや。それで娘は二十一、技倆(ぎりやう)がよくて人柄(ひとがら)がよいといふのだが、どうぢや、お前かいやだいふなら、他(ほか)の方で諸が進(すゝ)むかも知れない、父親(ちゝおや)はまだ五十一ぢやが、もう年中病身(びやうしん)の事ゆゑ、いつ死ぬか判(わか)らぬ、死ねばあとは千兩の現金を抱(だ)いて、跡式を讓つて貰(もら)つて、お扶持がもらへて、好い女房(にようぼ)を抱いて、まづ好(よ)い事づくめといふ次第(しだい)、芥とりの尻を叩いてなど居ないで、よく考へさつしやれ」[やぶちゃん注:「芥とり」「ごみとり」或いは「ちりとり」だが、前の地の文(作者の表現)で「塵(ちり)とり」としているのに対し、小股潜りの又市の焚きつける台詞としては、「ごみとり」の方が効果的であろう。]

「成るほど結構(けつかう)な話だ、もう少しよく聞かしてくれ」と伊右衞門は一膝(ひざ)のり出して聞(き)いた。

 又市(またいち)の話を一通り聞くと、伊右衞門は考へた、今の世に浪人(らうにん)が奉公先きを探(さが)すのは中々骨が折れる。併し同心(どうしん)を勤めてゐて、出世(しゆつせ)の蔓[やぶちゃん注:「つる」。]を探すのは、浪人(らうにん)でゐるよりも早からう、そこで入聟(いりむこ)といふものについて考(かんが)へて見ねばならぬが、入聟(いりむこ)が嫌な事は行つた先の縁者(えんじや)が多い為めだ、それがなくて親(おや)一人子一人、殊に親は間もなく死(し)ぬとすれば、死んだあとは夫婦か(ふうふ)かけ向ひ[やぶちゃん注:「差し向かひ」と同義。]、其處迄行くと入智も貰(もら)つた嫁も差別(さべつ)はなくなつて了ふ。これもよし、さて肝愼(かんじん)[やぶちゃん注:「愼」はママ。]の嫁だが、これからは父親一人娘一人(むすめひとり)とあれば、つまり若い時から父親の世話(せわ)を一人でしてゐるのだから万事に男の身のまはりの事は氣(き)が付(つ)いてくれるであらう、殊(こと)に同心をしてゐて金を溜(た)める位の父親なら、娘を仕付(しつ)ける上の心掛もよからう。行儀作法(ぎやうぎさほう[やぶちゃん注:ママ。])も正しからう、世帶(しよた)向の事も馴(な)れてゐて、娘から直ぐに世話女房に早變(はやがは)りをする資格もあらう。甘やかす母親(はゝおや)に早く分れた以上、着る物の贅澤(ぜいたく)をいふ道も知るまい、親一人子一人に馴(な)れてゐるのなら人懷(ひとなつ)こくて、良人(をつと)のいふ事もよく聞くであらう、とこれだけの判斷(はんだん)をした、又市は豫ねてから口前の旨(うま)い男だから又市の口から聞く事は當(あて)にならぬとせねばなるまい、只(たゞ)親(おや)一人子一人といふ口さへ違(たが)はねばそれでよい、これは考(かんが)へるまでもない。

「入智(いりむこ)承知(しようち)した。いつでもよいから先方の心を聞(き)いて貰(もら)ひたい」と云つた。

 餘り返事(へんじ)が早いので、又市は少し氣の毒(どく)な氣がした、これで二分とつて、尙ほ幾何(いくら)かの成功報酬を貰(もら)ふのは難有(ありがた)すぎるとも思つた。

「本當(ほんたう)かね、いよいよといふ際になつて否(い)やと云ふ事はあるまいの」

「どうしてどうして否(い)やどころか、望んでも行きたい、世話(せわ)して下されたら、お禮ぐらゐは幾分(いくぶん)して上げてもよい」

「貴郞(あなた)にまでお禮をいただいては濟(す)みませぬ、それでは早速(さつそく)運(はこ)びますから」と答ヘて置いて待(ま)たしてあつた宅悅に、

「どうも骨(ほね)を折らしたよ、傑(ゑら[やぶちゃん注:ママ。])い賴みで、仕方がなしに大骨折つて口說(くど)き落しては來たが、いやばやどうも、よほど禮金(れいきん)を貰(もら)はねばなるまい」と云つた。

 宅悅(たくえつ)は氣にも止めず、空々(そらぞら)しく默頭(うなづ)いて、

「いやさうであらうさうであらう、それで結局(けつきよく)よいといふ事になつたかの。」

「やつとの思ひで承知(しようち)をさしてやつた」

「それは御苦勞(ごくらう)、それでは又もや御氣の變らぬ中(うち)に、どしどし運ぶとしませう」と威勢(ゐせい)よく歸つて、

「いやどうも見れば見るほどよい聟(むこ)どのでござります、又市(またいち)が申しますには、當人聟に行く事は承知(しようち)して居りますが、此方樣(こちらさま)へ上る事まで承知させるには一寸(ちよつと)骨が折れます、實はその浪人(らうにん)と申すのが思ひの外手硬(てごは)くて、いやいや小糠(こぬか)三合持つたら聟には行くなと申す事がある、慮外(りよぐわい)なことを申すなと[やぶちゃん注:ママ。「ど」の誤記・誤植が疑われる。]、頭ごなしにきめつけて、偉い見幕(けんまく)だつたのを又市(またいち)と申すものがいろいろに宥(なだ)めて、やつとの事で承知(しようち)をさせたので御座いますから、私は構(かま)ひませんが、又市へ、もう少し色(いろ)をつけてやつて下さるまいか」といふ、

「ハヽヽヽ、いづれさう來るだらうと思うた、よしよし話さへ纏(まと)まつたのなら、其上で何(なん)とかしてやらう」

「何とかしてやるでは困(こま)ります、如何でございませうもう一兩(りやう)下(くだ)されませぬか、さうすれば、其れを二つに割(わ)つて二分は浪人衆(らうにんしう)のところへ手土產を買つて行き、二分は又市(またいち)と申すものにやりたいと思ひますが」

「又一兩(りやう)か、話がついてから手土產(てみやげ)を持つて行くにも及ぶまい」

「いえ、それが、その又市が前に參(まゐ)ります時に、自分の貰(もら)ひ分の中から、何か買(か)つてまゐつたのでございますから」

「ハヽヽまァ仕方(しかた)がない、ではこゝに一兩」と又左衞門(またざゑもん)が出してやる金を受取(うけと)ると、宅悅大喜びで、又これを半分は着腹(ちやくふく)、半分だけは又市に渡(わた)した。

 それは兎(と)に角(かく)、かういふ手順(てじゆん)で伊右衞門はお岩の聟になつて、又左衞門の家(うち)のものとなつた。

 

      

 

 宅悅の言葉の通り伊右衞門は中々好い男(をとこ)であつた、そして隨分(ずゐぶん)もの事が器用な方で、軒先(のきさき)に雨洩りがするといつては、一刻(とき)[やぶちゃん注:二時間。]ぐらゐの間に雨もりを直す、垣根が壞(こは)れたといつては修繕(しうぜん)するといふ風で、くすぼりかへつて居た田宮の家は伊右衞門(いゑもん)が來てからは、めきめきと晴(は)れやかになつて來た。

 お岩の喜(よろこ)びは勿論、又左衞門は一層(そう)喜(よろこ)んで此の分ならばと思つて、老年に付、聟養子伊右衞門に跡式を讓(ゆづ)つて隱居をしたいといふ願ひを上げた、それが間もなくお聞屆けになつて、又左衞門(またざゑもん)は例の貨付金の利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])ばかりにとりかゝる、伊右衞門は二代目で組頭伊藤の家へ出仕(いゆつし)をすると、伊藤の家(うち)では伊右衞門が大工の業[やぶちゃん注:「わざ」。]の器用(きよう)なのと、さつぱりした男振(をとこぶり)とに喜んで一にも田宮、二にも田宮(たみや)と、受けのよい事一通(とほ)りではない。

 此の通り萬事(ばんじ)に都合はよかつたが、一人張合(はりあひ)のないのは伊右衞門である、親(おや)一人子一人で育(そだ)つたお岩ならば、これこれであらうと、見當(けんたう)をつけてゐたのにも拘(かゝは)らず、事實は反對で、親子揃つて錢勘定好(ぜにかんじやうず[やぶちゃん注:ママ。])き、それに凝り始めると三度の食事の世話(せわ)さヘしてくれぬ有樣で、一向(かう)に家の中が面白くない、萬事(ばんじ)がやり放しに出來てゐるので、伊右衞門(いゑもん)としては、女房が出來てから、女房(にようぼ)と父親の世話(せわ)まで自分が燒かねばならぬほどのしだらなさゆゑ、是れでは寧(むし)ろ獨りで居た方がよかつたとさへ思ふ事(こと)ばかりである。が、現に固まつた緣を格別(かくべつ)の理由もなしに出てゆく譯にも行(ゆ)かず、殊(こと)には食べるに不自由はなくて濟(す)むので、何にしても我慢(がまん)をせねばならなかつた。[やぶちゃん注:「しだらなさ」「だらしなさ」に同じ。]

 あとの心配(しんぱい)がなくなつて見ると、もうがつかりしたものか、程(ほど)なく又左衞門はめきめき身體(からだ)が弱つて其の年の秋立(あきた)つ頃に眠るが如く死んで了(しま)つた。あとは夫婦かけ向ひ、女房(にようぼ)のお岩は相當の不伎倆(ぶぎりやう)ではあるが、伊右衞門は身についた緣(えん)と思つて、隨分大事にかけて情(じやう)のある夫婦ぐらしにならうと思ひ始(はじ)めた。

 すると、金貸(かねか)しをするほどの親の手に育(そだ)つたお岩である、今までは血を分けた父親(ちゝおや)が居たが、亭主となつた伊右衞門は、元々(もともと)赤の他人である。殊に美男(びなん)であつて見れば、いつ何時浮氣(うはき)などを起されて、自分(じぶん)の身は捨てられるかも知れぬ。捨(す)てられた時に、女の身として何よりも賴(たの)みになるのは金(かね)、これはかうしては居られぬ、もつともつと稼(かせ)いで、金を溜(た)めて置かねばなるまいと考へた。

 尤も父が死(し)んで後は、伊右衞門に其氣がないので金貸(かねか)しの方はすつかりと止(や)めて了つてある、良人が止(や)めたものを、女房が無理(むり)に始める譯にも行かぬので、ある時お岩は針仕事(はりしごと)の出來るを幸ひ、何處かのお邸(やしき)へお針に行く事にしようか、良人(をつと)は大方伊藤の家へ手傳(てつだ)ひにばかり行つてゐるので殆(ほと)んど年中留守(する)といつてもよい位、して見れば、自分一人が家に居たところで、何處かの邸(やしき)にお針に通(かよ)つたところで、格別の相違(さうゐ)はない、その事その事さうして今の中に金(かね)を溜(た)めて置きませうといふ事に心(こゝろ)づいた、ところでこれも宅悅(たくえつ)のお世話である。

「何處か、氣輕(きがる)な家はあるまいか」といふと、

「お安い御用(ごよう)、それならば問(と)ひ合(あは)して見ませう」

と引受(ひきう)くれ、やがて知らしてくれたのは、

「三番町の餘(あま)り大きくないお邸(やしき)でございますが、これは通ひでなく、先方へ住(す)み込(こ)んで貰ひたいと申(まを)すのでございます」といふ。

 伊右衞門にこの事(こと)を相談(さうだん)すると、

「いやそれは惡(わる)い、夫婦の口が過(す)ごせぬならば兎も角、かうして樂(らく)にやつてゐるのに、何も女房(にようぼ)までお針奉公(はりほうこう)をするには及ぶまい」と云ふ。

「お前は私の身(み)の上(うへ)を思はぬゆゑ、さういふ思ひやりのない事を仰(おつし)やるぢや、私に一人でも身よりのものがあればよし、何もない私(わたし)ゆゑ、若しお前に捨てられるやうな事(こと)でもあつたら、賴(たの)むものは金(かね)ばかりゆゑ、何でも今の中に、一生(しやう)遊(あそ)んで暮せるるだけの金を私が持つて居ねば心細(こゝろぼそ)いから、どうぞ當分(たうぶん)の内は私を稼(かせ)がして下され」と云ひ張つて承知しない。伊右衞門は途方(とはう)にくれもしたが、我女房ながら呆(あき)れ返(かへ)りもした。餘り疑(うたが)ひ深い考へやう、それほどに思ひ込んでゐるものを何(なん)と云つたところで仕方(しかた)はあるまいから、

「それではお前(まへ)の氣の濟むまでやつて見るさ」といふより外(ほか)なかつた。

 間もなく、お岩(いは)は三番町の邸(やしき)といふのへお針奉公(はりほうこう)に住み込んだ。

[やぶちゃん注:「三番町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「三番町」によれば、『旗本のうち、将軍を直接』、『警護するものを「大番組」と呼び、大番組の住所があったことから「番町」と呼ばれた』。三番町は『江戸期は「市ヶ谷御門内三番丁通」の通称』であったとされ、現在の『千代田区九段北三・四丁目、九段南三・四丁目』に相当するとあった。この附近である(グーグル・マップ・データ)。]

 

        

 

 女房(にようぼ)はありながら獨身(どくしん)同然の暮しをせねばならぬ伊右衞門は、我れながら馬鹿々々(ばかばか)しくなつて來た、いつそ此家(このうち)を出て了はうかと思つた事も度々ではあるが、伊右衞門とても行くべき家(うち)は持たない、まアまアこゝに居てお扶持(ふち)を貰つてさへ居れば、其日の暮しに不自由はない、あんな賴もしくない、金で固(かた)まつた女房など、居ると思へば腹(はら)が立つが、居ないと思へば何(なん)でもない、と思ひ返しては、非番(ひばん)で家にゐる時などは、近所の子供(こども)などを集めて呆けた[やぶちゃん注:「ほうけた」と訓じておく。]事を云つて暮してゐた。

 其の近所(きんじよ)の子供といふものゝ中に、九尺長家[やぶちゃん注:「ながや」。]の娘(むすめ)ではあるが、常盤津(ときはづ)の稽古(けいこ)をして、何れこの二三年には深川の藝者(げいしや)に出ようかと仕込(しこ)まれてゐるお花といふ子が居た、多勢(おほぜい)遊びに來る娘子供の中に、お花(はな)はとりわけ伊右衞門に馴(な)ついて

「叔父さん叔父さん」と云つては、伊右衞門が細工(さいく)ものをしてゐるところへやつて來て、木屑(きくづ)を積み上げたり、鉋屑(かんなくづ)で提灯の形を造(つく)つたりしてゐた。

 秋も大分(だいぶ)更(ふ)けた日の日向戀しい頃である、椽先(えんさき)に伊右衞門が長々とごろ寢(ね)をして、ものの本を讀んでゐるところへお花(はな)がやつて來た。

「花(はな)ちやんか、どうしたものぢや、今日は大層(たいそう)美くしう髮が結(ゆ)へて、美い[やぶちゃん注:「うつくしい」。]着物(きもの)を着てゐるではないか」

「あい、深川(ふかゞは)まで行つて來(き)ました」

「深川へ、八幡(まん)さまへお參(まゐ)りか」

「いえ、八幡(まん)さまへもお參りしましたが、今度來月(らいげつ)から私が行きます家に、母樣と話(はなし)をしに行つたのでございます」

「來月から此方(こつち)には居なくなるのか」

「あい、羽織衆(はをりしう)に仕込んで貰(もら)ひますの」[やぶちゃん注:「羽織衆」は「羽織藝者」で、江戸深川の芸者の称。深川芸者は客席に羽織を着て出たところから言う。「辰巳藝者」「羽織」とも称した。]

「むゝ、それは名殘惜(なごりを)しい、羽織になつたらさぞ男(をとこ)をたぶらかすであらうの」

「いえ何だか存じませんが、好い着物(きもの)を着て、好な[やぶちゃん注:「すきない」。]三味線(みせん)[やぶちゃん注:「しやみせん」或いは「さみせん」。]を彈いて遊(あそ)びますといふ事です。」

「はゝゝ、それに違(ちが)ひない、併し、さうなつたら叔父(をぢ)さんとこへも遊びには來(こ)られなくなるの」

「いゝえ、それも遊(あそ)びに參りますわ」

「いや、さうは行(ゆ)くまい」

「何故(なぜ)でございます」

「道が遠いもの、迚(とて)もお花坊一人では來られまいし、來る暇(ひま)もあるまい」

「それなら私(わたし)は、もう深川へ行くのを止(や)めにしませうか」

「いや止(や)めるには及ばぬ」などゝ他愛(たあい)もない話をして居るところへ、裏口(うらぐち)から、

「今日(こんにち)は」と入つて來たのは莨屋茂助(たばこやもすけ)といふ莨賣りである。

「や、ま花坊(はなぼう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])、大層(たいそう)美くしうなつて、田宮の叔父さんに可愛(かあい)がられて貰(もら)ひに來なすつたかな」

「あい」

「はゝゝ、あいは恐(おそ)れ入つたの」と伊右衞門と顏を見合(みあは)せて笑(わら)つたが、

「いや、それよりは、田宮さま、私(わたし)今から番町の方まで參りますが、御新造(ごしんざう)に御用はありませんかの」といふ。

「いや別(べつ)に用はない、が、今度はいつ頃戾(もど)つて來るかと聞いて居(ゐ)た、と云つて置いてくれ」

「ハイ畏(かし)こまりました、そして莨の御用(ごよう)はござりませぬか」

「さうさの、少(すこ)し貰つて置かうか、花坊(はなぼう)、あそこの棚(たな)にある莨の入れものを出して、あの叔父さんにつめて貰(もら)つてくれぬか」

「あいあい」と姿(すがた)は相當に大きい方だが、仇氣(あだけ)ない返事をして立上つた。[やぶちゃん注:「仇氣(あだけ)ない」ここは、「妙に勿体ぶったところがなく、素直に。」の意であろう。]

 

       

 

 莨屋(たばこや)茂肋が田宮へ來たのはお晝近(ひるちか)い頃であつたが、莨を賣りながら、まはり廻(まは)つて三番町へ來た頃は、もう秋(あき)の日の暮れ易(やす)く、一つ小袖に薄(うす)ら寒さをおぼえる頃であつた。

 お岩の上つてゐる小旗本(こはたもと)の勝手口へ廻つて、

「お針(はり)さんはおいでゞございますか」と聞(き)くと、直ぐに出て來たのがお岩(いは)であつた。

「茂助(もすけ)さんか、何ぞ傳言(ことづて)でも聞いて來たのかえ」

「ハイ、別に傳言(ことづけ)といふではございません、今度お戾(もど)りなさるのは、大方いつ頃かと聞(き)いておいてくれとの事でござりました」

「今度(こんど)戾(もど)るのを、あゝさうかえ、其れは今からきめる事もなるまいが、何(いづ)れ十日ほど經(た)つたらと云つて置(お)いて下され、家に何か變(かは)つた事はありませぬかえ」

「ハイ、少(すこ)しもおかはりなく、いつものやうに、お花(はな)さんを相手に、安氣(あんき)さうにして居られました」[やぶちゃん注:「安氣(あんき)さうにして」のんびりと気軽な感じで。]

「お花(はな)さんとは」とお岩は險(けは)しい目つきをした、お花の家はお岩が番(ばん)町へ來てから引越して來たので、お岩(いは)はお花が何だか知(し)らなかつた。

 それを莨屋茂助(たばこやもすけ)が十四五の小娘ですと平たく云へば左程(さほど)でもなかつたのだが、

「御新造(ごしんざう)さん、もうお忘れですか、あのそれ近い中に藝者(げいしや)に出ようとしてゐる、あの奇麗(きれい)な可愛い子です」と云つたので、お岩(いは)はカツとなつた。

「藝者(げいしや)になる子、其れがいつもいつも遊(あそ)びに來てゐますのか」

「はい、いつも來(き)てゐますよ、大層伊右衞門さんに馴(なつ)いて、一日に一度お宅(たく)へ上らねば、忘れものをしたやうだとさへ申します」

「えツ、其れほど繁々(しげしげ)來て居るのですか」と云ふ聲が怖(おそ)ろしいほど癇(かん)ばしつて居たので、茂助(もすけ)は始(はじ)めて氣がついた。飛んだ事を云つて了つた、さては間違(まちが)ひをされたのかと、

「いえ、御新造(ごしんざう)さん、お花ぼうと云つても、まだやつと十四か十五の小娘(こむすめ)でございますよ」と云つたがもう間(ま)に合(あ)はない。

「薄情(はくじやう)もの奴[やぶちゃん注:「め」。]、私が一寸留守(るす)の間に、もう其の樣なものを引(ひき)ずり込んで、えゝ、どうしてくれよう」と呆氣(あつけ)にとられる茂助を突飛(つきと)ばして勝手口からプイと出(で)た。

 途端(とたん)、

「お岩や、お岩や」と奧から人の呼ぶ聲(こゑ)がする、其の聲が耳に入ると、遉(さす)がに、それを聞き流(なが)しにしておくわけには行かなかつた。先へ二足(あし)、あとへ一足といふ風にして迷(まよ)つてゐたが、奥の呼び聲はいよいよ高(たか)いので、不承々々(ふしやうぶしよう)に立戾つた。戾りしなにも助(もすけ)をぐつと睨(にら)んで何か云ひたさうに唇をぶるぶると慄(ふる)はしたが、併し何にも聲は出なかつた。

 茂助は只(たゞ)もう這々の體[やぶちゃん注:「はうはうのてい」。]で逃(に)げ歸(かへ)つた。

 

       

 

 其晚(そのばん)、一通りの用を濟(す)ますと、お岩は邸の奧樣(おくさま)の前へ出て、

「甚だ相濟(あひす)みませんが、今晚一寸宿許(やどもと)まで行つて參りたいと思ひますが、おゆるし下(くだ)さいませうか」と云つた。

 邸でもお岩を亭主持(ていしゆもち)と知つてゐるので、快(こゝろよ)く

「あゝ別(べつ)に用もありませんからゆつくり行つておいでなさい、家(うち)へゆくのなら、も少し早(はや)く行けばよかつたものを、兎(と)に角(かく)、この暗さに一人では物騷(ぶさう)ゆゑ、三平に一緖(しよ)に行つて貰ふ事にしなされ」と云つてくれる。が、

「いえ、近(ちか)いところでございますゆゑ、つい駈(か)けて參りますれば」といふのを、奧樣(おくさま)は三平を呼んですぐにお岩(いは)を送(おく)つて行つてやるやうにと云つた、

 お岩はお氣の毒でございます、お暇を缺(か)せまして濟みませんと繰(く)り返(かへ)し繰り返し出て行つた。そして三平と暗(くら)い暗い、土手三番町を四谷御門(ごもん)橫へ出る間にも、すみませんすみませんと云(い)つてゐた、その間は當(あた)り前のお岩であつたが、四谷御門を出て、濠(ほり)の側の藪(やぶ)だゝみへかからうとした時、改まつた調子(てうし)で、[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]

「三平(ぺい)さん、男といふものは少し別(わか)れてゐれば、もう女房(にようぼ)の事なんぞは、忘れて了ふものでせうか」と云ひ出(だ)した。

「妙な尋(たづ)ねものぢやな、一體何故(なぜ)其のやうな事を聞(き)きなさる」

「何故(なぜ)でもない、只男の心持(こゝろもち)を聞きたいだけなのでござんす」

「何の事か知(し)らんが、少しぐらゐ別(わか)れて居たところで女房を忘(わす)れる事があるものかね」

「三平さん、本當(ほんたう)の事を云つて下(くだ)され」

「本當(ほんたう)の事を云つてるのではないか、決して女房(にようぼ)を忘れるやうな事はありはしない」

「いゝえ、さうではない、忘(わす)れるに違ひはござんせん、お前は男(をとこ)ゆゑ、あの人でなしの肩(かた)をお持ちになるに相違(さうゐ)ない、屹度(きつと)さうぢや」

「いや、其樣(さやう)な事はない」

「いゝえ、さうぢやさうぢやさうぢや」と立(た)てつゞけに云つたかと思ふと、お岩は見付(みつけ)の石垣に額を押(お)しあてゝ啜(すゝ)り上げながら泣(な)いた。

 仲間(ちうげん)の三平は當惑(たうわく)しながら、始めは一言二言宥(なが)めにかゝつたが、お岩は身(み)もだえをして泣き聲(ごゑ)を上げた。

 三平は呆氣(あつけ)にとられたが、面倒(めんだふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])になつたと見えて、

「お岩さん、其樣(そん)なところで泣いてばかり居ては身體(からだ)が冷えるによつて、早(はや)く行かう、さあ私が一緖(しよ)に行つて、若しお前の御亭主(ごていしゆ)に不審な事があつたら、よくよく問(と)ひ訊(たゞ)して見るゆゑ、往來中で泣く事(こと)はお止めになされ、さあ、早(はや)く行かう」と肩(かた)に手をかけた。

 お岩はその手を搖(ゆ)り落(おと)して、身もだえしたが、三平が面倒(めんだふ)がつて、手をとつて引立(ひきた)てようとすると、それを振(ふ)り切つて、三平の袖(そで)の下をくゞりぬけながら、見付外の藪(やぶ)だゝみへ駈け込んだ。

「お岩さんお岩さん、無暗(むやみ)に駈け出しては危(あぶ)ない、濠へ落(お)ちると危ない」と云ひ云うひ追かけると、

「落(お)ちて死ねば本望(ほんまう)ぢや、打棄つて[やぶちゃん注:「うつちやつて」と訓じておく。]置いておくんなさい、私(わたし)はもう伊右衞門どのに捨(す)てられたのぢや、歸(かへ)る家もありはしない、いつそ濠(ほり)へでも落ちて死んだがましぢや」と云ふ聲が半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五〇メートル。]ほども先で聞こえたが、四邊(あたり)の暗さと藪(やぶ)だゝみの茂みとで、身體は何處にあるか判(わか)らなかつた。

「お岩さん、其樣事(そんなこと)ばかり云つてないで、私が困(こま)るから困るから」と三平がお岩の聲(こゑ)をたよりに追かける時には、もうお岩は返事(へんじ)も何もしなかつた。

 三平は「お岩(いは)さんお岩さん」と云ひ云ひ其處ら中(ぢう)をかけまはつたが、何處へ駈(か)け込(こ)んで了つたものか、更に行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])は知れなかつた。

 約(およ)そ半時も探したが、遂にお岩のゐどころは判(わか)らなかつた、三平は悄々(しほしほ)として邸へ戾(もど)つて見たが、お岩は戾(もど)つてゐなかつたらしいので、又其の足で左門町(さもんちやう)まで行つて見た。

 左門町の田宮(たみや)はもうぴつたり戶が閉(しま)つてゐたが起して聞くと、伊右衞門はびつくりして始終(しじう[やぶちゃん注:ママ。])を聞いた。それから今一まはり見付外(みつけそと)を探したが、遂にお岩の姿は何處(どこ)にも見えなかつた。

 翌日(よくじつ)になつても、別に濠(ほり)の中からお岩らしい死骸が浮び上つたといふ噂さへなかつた。

 全く行方は知れなくなつたのである。[やぶちゃん注:行頭の一字空けは底本では、ない。誤植と断じて特異的に訂した。]

 三日ほど經(た)つた或る星の影(かげ)さへ見えぬ夜、四谷見付を通る人の目(め)に、藪(やぶ)だゝみの上で、繪にかいた鬼女(きぢよ)のやうな顏がありありと見えたので、其人は氣絕(きぜつ)をするばかりに驚(おどろ)いて、手近の藥屋(くすりや)灰吹屋へ飛(と)び込(こ)んで、

「助(たす)けてくれ」と云つたといふ。

 これを手始めに、四谷見付で女の幽靈(いうれい)が出るといふ噂(うわさ)が立ち始めた。

 伊右衞門が風邪引(かぜひき)ともつかず、氣病みでもなくて大熱の往來(わうらい)するのに苦しみ始めたのは更(さら)に半月經(た)つてからの事(こと)であつたといふ。

[やぶちゃん注:「四谷見付」江戸城四谷見附跡(グーグル・マップ・データ)。

 本篇は、所謂、「四谷怪談」物(当該ウィキ参照。本篇も「小説」のリストに挙がっている)であるが、従来の、いかにも創作見え見えの恨みの経緯と、波状的な怪奇てんこ盛り現象を主軸にした「四谷怪談」物とは、全く異なった実説的小説として語られ、無理のない事実経過が淡々と語られ(ルビが五月蠅いが)、底本では、最後の「七」のコーダの七行にのみ、怪異が記される。私はとても好感が持てる作品である。安っぽい当今の「お化け屋敷」的「四谷怪談」は、私は、昔も今も、大嫌いである。

2024/01/29

譚海 卷之六 越後國くびきおちや蒲原郡等冬月風俗幷信州うすひ峠雪の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「くびき」は本文に出る通り、旧「頸城」郡で、郡域は当該ウィキを見られたい。「おちや」はママ。現在の新潟県小地谷市(おぢやし:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「蒲原郡」は新潟の旧郡。郡域は当該ウィキを見られたい。「幷」は「ならびに」。]

 

○越後國、頸城(くびき)・おじや・蒲原郡(かんばらのこほり)の民家は、ゐろり、五間四方ほどづつ、有(あり)。

 夫(それ)ヘ、大木を、丸のまゝ、伐(きり)て、薪(たきぎ)となし、用ゆ。

 雪中などには、夜中も、はだかにて、其ゐろりの灰の中へ寢(ね)、ふし、する故、夜具の類(たぐひ)、一切、いらず、すはだかにて、寝るゆゑ、男女とも背の皮は、皆、灰黑也。

 又、信州うすひ峠[やぶちゃん注:ママ。碓氷峠。]の邊にては、雪のふかく積(つもり)たるときは、山上より、雪、なだれ落(おつ)る、それを所の者は「ぞれ」といひて、はなはだ、恐(おそる)る事也。

 雪の「ぞれ」、山上の石を包(つつん)で落(おつ)る故、人にあたるときは、打殺(うちころ)され死する也。牛馬も、是に當れば、死する事を、まぬかれず。

 出羽の國にては、是を「なで」と云(いひ)、「ぞれ」は信州の方言也。

 又、天氣よき日、雪後(せつご)に、坂本(さかもと)にとまりて、うすひ峠をこえん、とせしかば、宿の亭主、堅くとゞめて、

「いまだ、輕井澤より、今朝(けさ)、來(きた)る人、なし。かならず、とうげ、こえがたかるべし。晝まで待合(まちあひ)給ひて、こえ來る人あらば、行(ゆき)給ふべ。」

と、いひけれど、

「かほど、快晴なる天氣の、何とて、いかやうの事、ある。」

とて、しひて[やぶちゃん注:ママ。]、出立(しゆつたつ)しければ、

「さらば、先(まづ)、おはして御覽ずべし。乍ㇾ去(さりながら)、けふは、越給ふ事、難かるべし。」

と云(いふ)。

 不審ながら、駕籠に乘(のり)て出(いで)けるに、峠ちかくなりて、風もなく、快晴なるに、四山(しざん)の雪を、吹(ふき)たてて、行人(ゆくひと)の眼口(めくち)に入(いり)、行先は、霧のたなびきたる如く、一向に前後を忘却して、一寸も、進みがたし。かごの者も、

「此吹雪(ふぶき)にては、峠にいたらば、死(しす)べし。」

とて、行(ゆか)ざれば、ぜひなく、もとのやどりに歸(かへり)たるに、亭主、

「さればこそ。」

とて、そこに一宿して、翌日、ゆるやかに立(たち)て、人の行來(ゆきき)あるに付(つい)て、峠を、こえける。

「かく、風もなく、快晴なるに、峠は、雪を吹立(ふきたつ)る事、暴風の如くなるは、更に心得がたき事なれども、是も、快晴の日は、地下の晴氣(せいき)、昇(のぼ)る故、其氣に吹(ふか)れて、雪を、ふき立(たて)、風の如く、かく、有(ある)事也。冬は、地中、暖氣せまれば、時々、如ㇾ此(かくのごとき)事、あるもの也。」

と、ところの人の、物がたりぬ、とぞ。

譚海 卷之六 肥前長崎渡海の事 附大坂川口出船つとに過たる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 「目錄」標題は「肥前長崎渡海の事 附(つけたり)大坂川口出船『つと』に過(すぎ)たる事」と読む。但し、本文では「つて」という名になっている。また、「過」は「遭」の誤記のようにも思われ、或いは、「を過(よぎり)たる」辺りの方がしっくりくる。因みに、この「つて」は本文を読む限り、「潮目」(しほめ(しおめ))のことと推定される。

 

○長崎へ船にて行(ゆき)たる人の物語せしは、

……洋中は、いか程、風浪あれども、船は、汐道(しほみち)を行(ゆく)事故、難船する事、なし。洋中(わだなか)に、汐のさし引(ひき)する道、一筋、別に、わかれて、あり。渡海の船は其盬[やぶちゃん注:底本に補正傍注があり、『(汐)』とする。]に乘じて、渡るゆゑ、たとひ、風、有(あり)て、浪、打(うち)かくる時も、此盬[やぶちゃん注:同前。]の流るゝ勢ひに、浪、おされて、船に波のうちかくる事、なし。洋中にては、波と、汐と、つねに、さからふ故、却(かへつ)て、わたりやすき也。

 又、風はげしくて、海上に船をすゝむる時、「かた碇(いかり)」とて、船のへさきへ、碇壹(ひと)つ、おろす也。夫(それ)にて、危ければ、又、一つ、へ[やぶちゃん注:舳先(へさき)。]の左右へ、おろす。是を「諸碇(もろいかり)」と云(いふ)。

 されど、碇を、ヘのかたへ、如ㇾ此(かくのごとく)おろせば、船の尻[やぶちゃん注:船尾。艫(とも)。]、殊外(ことのほか)、ふれて、船中にありて、甚(はなはだ)、安心ならず。

 氣弱き人は、嘔吐する事、儘(まま)、有(あり)。

 其時、とものかたへも、碇を、かくれば、船の尻・頭、たひらかに成(なり)て、ふれる事なし。

 去(さり)ながら、へのかたと、とものかたへ、碇をかくる事は、甚、危(あやう)き事にして、船頭、決してせざる事也。

 たまたま、船の尻・頭へ、碇をかくる事あれども、只、たばこ、一、二ふくのむほど、かけて、やがて、ともの碇をば、引(ひき)あぐる也。

 これ、船中に、甚、こまりたる人、あれば、

「それを、休(やすらは)ん。」

とて、暫時する事にて、萬全の事には、いかほど、船の尻、ふれても、ともヘ碇をば、かけぬが能(よき)也。

 その故は、波にて、船の、ふれるに、尻・頭へ、碇をかけて、久しくあれば、自然(おのづ)と、波にて、碇綱(いかりづな)を、すりきる。

 綱、きると、勢ひに、ひかれて、船、とんぼがへり打(うつ)て、うつぶけに、かへる故、尻・頭へ碇をおろす事は、船頭、甚、嫌ふ事也。

 波のあらき時は、おろしたる碇綱、船に、すりあふて、火が出る也。

 それゆゑ、船頭、間斷なく、いかり綱へ、水をかくる事也。

 船頭は、始終、船のへさきにありて、坐(ざ)して、磁石盤を守り居(を)る也。

 同時(おなじきとき)、大坂川口を乘出(のりいだ)す時、「つて」といふものに逢(あひ)たり。是は、海上に、一筋、ほそく、雲のたなびきたるを見て、船頭、

「『つて』が、來(きた)るべし。竪(たて)に、うけよ。」

とて、急ぎ、船を乘直(のりなほ)したるに、間もなく、沖より、大山の如く成(なる)浪がしら、うねり、ちかづく。

 其色、眞黑にして、いかにもおそろしきさまなるが、船のへにあたる時は、船、すぢかひに、是(これ)を、うけて、とものかたへ、船中の人、たふれ、あつまる樣也。

 船を、此浪、過(すぎ)て、とものかたを、もちあぐるときは、又、船、さかさまになるやうにて、船、海の底へ入(いる)様(やう)に、おどろきさわぐを、船頭、かたく、制して、無言にする也。

 此時、驚き騷けば[やぶちゃん注:ママ。]、船、ゆれて、くつがへり、沒する事、とぞ。

 又、此浪を、船の橫に受(うく)る時は、忽(たちまち)、船、つきかえされ、くつがへるやうになる。

 「つて」のきたる時には、兎角、船を竪(たて)にして受(うく)るやうにする事也。

 其波の過(すぎ)たる跡は、海上、甚、靜(しづか)にして、何の障(さはり)もなく、渡海せらるゝ也。

 此日、殊に、天氣よく、晴(はれ)たれば、出船せし事なるに、如ㇾ此の、あやしき波に逢(あひ)たるは、いかなる事ともしれず。

 思ふに、天地の氣の凝(こり)たるが、息を吹出(ふきいだ)すやうなる時、有(ある)事成(なる)べし。

 川口は、殊に、洋中(わだなか)にもあらず、漸(やうやう)、岸を乘離(のりはなる)るほどの所にして、かやうの事あるは、海上の事、さらに、はかりがたき事多き事也。――

とぞ。

譚海 卷之六 松平土佐守殿東海道往來大井川かち渡りの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○松平土佐守殿、東海道往來、大井川をば、いつも、かち渡りにして、家人、供をする也。土佐守殿は駕籠にて、臺にのり越らるゝ。

 家人は皆、紅の衣裝を著て、かちにて、かごに引(ひき)そひ、わたる事也。

 前年、大井川、洪水にて、土佐守殿、川岸に逗留の節、

「川水、よほど落(おち)たる。」

よし、風聞に付(つき)、家人某、馬にて、大井川をわたり、向ひへ上りて、水の樣子を見分致(みわけいいたし)、又、馬に乘(のり)て、もとの所へ歸り、上(あが)りて、言上(ごんじやう)せしかば、皆人(みなひと)、川水の漲(みなぎ)る所を、馬にて、かく、往來せし事、達者のほどを感じけるに、土佐守殿、以の外、不興にて、しばらく、此家人、勘當(かんだう)有(あり)し、とぞ。

 夫(それ)は、

「川の口、いまだ明(あか)ざるに[やぶちゃん注:「川留め」が解除されていないのに。]、いかに馬術巧者なりとても、往來せし事、いかゞ也。且(かつ)は、自分の馬藝を衒(てら)ふに似て、をこがまし。」

とて、御叱り有(あり)し、と聞ゆ。

 すべて土州の家中は、馬を騎(の)る事を嗜(たしなみ)て、各(おのおの)、馬上達者也。

 土州の城は、海へ差出(さしいで)たる所なるに、其國にては、いつも、六月には、家中のもの、海へ馬に騎(のり)て打入(うちいり)、終日(ひねもす)遊びて納涼する事、常の業(わざ)也。

 かゝれば、大井川を、往來、洪水にわたしたるも、さるべき事也と、いへり。

[やぶちゃん注:「松平土佐守」これは、底本後注によって、土佐藩第十代藩主で、近代の政治家三条実美の外祖父であった山内豊策(やまうちとよかず)。藩主在任は寛政元(一七八九)年から文化五(一八〇八)年(隠居)までであるから、その閉区間での出来事となる。

「大井川かち渡り」ご存知とは思うが、当該ウィキによれば、江戸時代、大井川は架橋は、おろか、『渡し船も厳禁とされ、大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には』、『川札を買い、馬や人足を利用して』、『輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた』。『このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」』『と詠われた』。『もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である』とあった。駕籠を渡す様子は、同ウィキの葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「東海道金谷の不二」で偲ばれる。]

甲子夜話卷之八 19 御老中安藤對馬守、雅趣ある事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

8―19

 林子(りんし)、云(いふ)。

「辛未(しんび/かのとひつじ)歲(どし)、西上(さいじゃう)の時、江州の野路村(のぢむら)に至りたれば、道傍に、僅(わづか)ばかりの池の如きものあるを、嚮導者(きやうだうしや)、ゆび指(さし)て、

『これぞ、野路玉川(のぢたまがは)の遣蹟なり。』

と云。

 水畔に、萩、一、二株ありければ、

『何物ぞ。わざと、これを植(うゑ)けるにや。』

と思ひけるに、磐城平侯【安藤對馬守。其時、加判[やぶちゃん注:ここでは「老中」の別称。]、勤(つとめ)らる。】の、先年、上京の路次(ろし)、こゝに至りしとき、萩の無(なか)りければ、村長(むらをさ)に、

『この名所に萩を植ぬことやある。』

と申されしかば、それより、村長の植しなり。」

と云。

 微事(びじ)なれども、風流の話なり。

 この侯、京地巡見に、祇園町、通行(つうかう)のとき、左右の茶店にて、紅粉(こうふん)を粧(よそほ)ひたる少女の、世に云(いふ)「祇園豆腐」を拍子をして切るを、駕籠を駐(と)めて、ゆるゆる、觀られし、となり。

 例(ためし)、老職の、かゝることせられしこと、無りしが、其地の名物と云へば、かくあるも、

「中々、得體(えたい)なり。」[やぶちゃん注:「なかなかに、その自然な御心(みこころ)の判るお方だ。」の意であろう。]

と、人々、評しけり。

 常に、淨瑠璃を好み、間暇(かんか)のときは、奥女中に、三線(さんせん)、ひかせて、聞く計(ばかり)にて、遂に三線を手にとりたることも無く、戲‘たはむれ)にも、その文句など、謠(うた)はれしことは、無(なか)りし、となり。

 又、古畫(こぐわ)を好み、よき畫(ゑ)を購求(こうきう)すれば、畫工に毫髮(がうはつ)も[やぶちゃん注:「毫毛」に同じ。少しも。]違(たが)はぬやうに寫させて、

「都下は、火變(くわへん)、多し。」

とて、眞物(しんもつ)は封地へ送り、摸本(もほん)を留め置き、日々に引(ひき)かへ掛けて詠(なが)めし、となり。

 此侯、溫厚和平にて、赫々(かくかく)の功業もなけれども、すべて此頃の人は、さしたる節(せつ)ならねども、見所(みどころ)は、ありけり。

■やぶちゃんの呟き

「老中安藤對馬守」美濃国加納藩第三代藩主・陸奥国磐城平藩初代藩主にして、寺社奉行・若年寄・老中を歴任した安藤信成。官位は従四位下・対馬守。侍従。対馬守系安藤家六代当主であった。老中在職は寛政五(一七九三)年八月二十四日から、没した文化七(一八一〇)年五月十四日まで。享年六十八。

「林子」お馴染みのお友達、林述斎。

「辛未歲」文化八(一八一一)年。

「江州の野路村」滋賀県草津市野路(のじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「野路玉川の遣蹟」歌枕。現在、ここに「野路玉川古跡」として伝えられてある。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~歌枕★探訪~」の「野路の玉川(滋賀県草津市)」に簡単な解説と、小さな公園のように整備された現在の様子を見ることが出来る。

「祇園豆腐」当該ウィキによれば、『江戸時代、京都の八坂神社(祇園神社)門前の』二『軒の茶屋で売られた田楽豆腐の料理である』。『祇園神社の楼門の前、東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された。これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名された。各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった』。『豆腐を薄く平たく切り』、二『本の串を刺し、火にかけて表裏両面を少し焼き、味噌たれで煮て、上に麩粉を点じたものである。花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある』とあった。私も京都の料亭で食したことがある。

甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-18 高倉宰相家傳唐櫃(からびつ)のこと幷(ならびに)

 予、去年、衣紋のことにて、高倉家に入門したり。

 今春、官家の御用にて、宰相殿、出府せられしかば、その旅館に往(ゆき)て逢ふ。

 居間の側(かたはら)に、大(おほき)なる櫃(ひつ)あり。

 紺地、大和錦の覆(おほひ)を、かけたり。

 予、これを問(とひ)ければ、

「こは、豐臣太閤のとき、某(それがし)が祖先、往來せしに、裝束を入れし唐櫃なり。これ、乃(すなはち)、當時の物なり。」

と云(いは)れしかば、近寄(ちかより)て、細視(さいし)せしに、尋常の唐櫃よりは、大きく、桐紋を蒔繪(まきゑ)にしたり。其大さなど、大抵、覺えしを、下に圖したり。

 白布(しらぬの)の緖(を)は、櫃を結び、棒、以て、かつぐ料(れう)。今、旅行には、「わく」を構へ、武家の具足櫃(ぎそくびつ)の如くして、持(もた)せらるなど、云はれし。

 面白き古物(こぶつ)なり。

 

Hitu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、左上の箱の底の受け箱の左上に、

「中ノ底ハ

 格子ナリ」

右の隅の脇に、

「此所フチアリ」

右の底の脇に、

「此所和忘レタリ」

とあるので、図では素板であるが、何か細工が施されたあったのかも知れない。

手前の角のやや左寄りに、

此所ニ如此スカシアリ

とある。「丸菱」様の抜き型を指す。

櫃本体の左上部外に、

「三尺二三寸ホド」

とあり、以下、時計回りに、

「二尺九寸バカリ」

「此処高サ足迠二尺一寸余」

「緒コノ

  アタリニ

  タグリテ

   見エタリ」

手前上部に、

「此所ニモ

 金具に桐ノ紋アリタリ」

とある(この「桐ノ紋」を拡大して描いたのが、左下の図。次のキャプション参照)。

櫃の手前下部に、

「金具」

左端に櫃の上部左に、

「此辺アリタルカ忘レタリ」

同下方に、

「此紋後ニ出セル桐ノ紋

ナリ其外マ見エザリシ

 故覺エズ」

である。なお、この形の桐紋は、「五七桐」を全体的にデフォルメして、輪郭のみで描いたもので、豊臣筆吉が使用した一つとして知られ、特に「太閤桐」と呼ばれるものである。]

 

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相家」藤原北家藤原長良の子孫にあたる従二位参議高倉永季を祖とする公家。高倉の家名は、邸宅が京都の高倉にあったことによる。代々、朝廷の装束を担当し、「衣紋道」を家職とした。参照した当該ウィキによれば、家紋は「笹竜胆」で、主な本拠地は、現在の京都市左京区永観堂町(グーグル・マップ・データ)であったとする。

2024/01/28

甲子夜話卷之八 17 佐竹氏の墳墓

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-17

 橋場、總泉寺の佐竹氏の墳墓を見るに、兆域(てうゐき)[やぶちゃん注:墓所。]の外總門(そとさうもん)ありて、其内に、代々の墓あり。

 皆、土を封じて、墳とし、高(たかさ)四尺計(ばかり)、長(ながさ)九尺に過ぐ。

 周りに、石を疊(たた)み、其上に、芝を植ゆ。

 墳の前面に墓表を竪(た)つ。形、尋常のごとし。趺石(だいいし)も、常に、異ならず。

 面(おもて)に其法號を刻す。

 先塋(せんえい)[やぶちゃん注:先祖代々の墓。]、みな、かくの如くにして、相列(あひれつ)す。

 因(よつ)て、寺僧に、其(その)棺制(くわんせい)を問へば、

「臥棺(ぐわかん)なり。」

と云(いふ)。

 又、土に入(いる)るの深淺を問へば、

「殊に、深し。」

と答ふ。

 是、佐竹氏の葬(さう)は唐山(たうざん)の禮に據(よ)るか。

 又、吾古(がこ)の令に因りたるか。

■やぶちゃんの呟き

「佐竹氏」秋田藩佐竹氏。以下の「總泉寺」が江戸での菩提寺であった。

「橋場、總泉寺」東京都台東区橋場一丁目附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、現在は移転している。個人サイト「東京探索日誌」の「橋場―総泉寺の跡」が、恐ろしく詳しいので、参照されたいが、そこに『総泉寺は、愛宕の青松寺・高輪の泉岳寺とともに、江戸における曹洞宗を代表する寺院であった(『江戸名所図会』など)。橋場の西側半分を占める広い寺域だったようだ。しかし』、『関東大震災で全壊し、板橋区の小豆沢』(あずさわ)『に移転』したとある。ここ

「吾古の令」「自身の家系の古くからの仕来たり」の意か。

甲子夜話卷之八 16 沙茶碗といふものゝの圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-16

 「沙茶碗(すなぢやわん)」と云(いひ)て、越後國、寺泊と云(いふ)處の海底より、出(いづ)。

 形、圖の如し。

 

Sunajyawan

 

 大(おほい)さ、徑(わたり)四寸ばかり、かう臺(だい)、高さ五步、底に、孔あり、三步にたらず。沙をかためて、其うすきこと、五厘にたらず。

「これを得(うる)には、海底に潛入(もぐりいり)て取る。」

と云ふ。

 造化自然の器(うつは)なり。

 されど、體質(たいしつ)、もと、沙なれば、輭(やはらか)にして、損じ易し。享和改元の頃、或人、もち來(きたり)て、予に示す。

 又、佐渡國(さどのくに)にも、此物、ありて、形、小(ちいさ)し。

「『うにの巢』と云ふ。」

と。

 しかれば、海膽(うに)のするところか。

 奇品なり。

■やぶちゃんの呟き

 これは「砂茶碗」(すなじゃわん)で、静山の言うようなウニの形成するものではなく、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科 Naticidae に属する巻貝のタマガイ類の卵囊(らんのう)である。本邦の砂浜海岸で、潜水せずとも、容易に見かけるそれは、概ね、タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ亜種ツメタガイ Glossaulax didyma のそれである。当該ウィキの、この画像を参照されたい。タマガイ科の、その形成機序については、サイト「カラパイア」の「浜辺に砂でできた謎の円盤状の物体が!海岸版ミステリーサークルの正体は?」が詳しく、画像も多いので、是非、見られたい。……ああ! もう十二年以上、ビーチ・コーミングもしていないなぁ…………

甲子夜話卷之八 15 養老瀧の景勝

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 本篇は前の「甲子夜話卷之八 13 養老酒の事」の関連続篇である。漢文部の訓点不全はママ。]

 

 前の「養老酒」の條に、その瀧のことを引(ひき)たるが、後(のち)に、親(したし)く彼(かの)處に往(ゆき)たる人に、其地のありさまを聞(きく)に、

「まづ、この瀧の處に到るには、兩山の間、左右、大石(だいせき)、群立(ぐんりつ)し、谿水(たにみづ)、曲流の道を、數町、入りて、飛泉の處なり。

 瀑水、絕壁を直下すること、十四丈[やぶちゃん注:四十二・四二メートル。]、幅は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ほども有(あら)ん。

 信(まこと)に素練(すねり)を曳(ひく)が如し。

 また、其降流の下、所謂、瀧つぼまで行(ゆき)て觀らるゝなり。

 濆沫(ふんまつ)、四方に散じて、霏雪(ひせつ)[やぶちゃん注:絶え間なく降る雪。]とひとしく、其聲、轟雷(がうらい)の如く、數町に聞ふ。」

と。

「又、其瀧の、四、五町、こなたの丘陵に、一社あり。

『天神を祀る。』

と云(いふ)。この社地の中に、泉あり。「菊水の井」と云(いふ)。然(しかれ)ども、人力にて穿(うがち)たる井(ゐ)にあらずして、天然の淸泉に、四邊に石をたゝみたるなり。方二間もあるべし。

『此泉、古(いにしへ)の「養老泉」なり。』

と云(いふ)と也。

 近年、建(たて)たる碑、其泉の傍(かたはら)に在り。

 土人も、かくすれば、「瀧」と「泉」と違(たが)へるにや。

 「續紀」の文に『美泉。』とありて、「飛泉」となければ、此泉なるも、知るべからず。然ども、『多度山(たどさん)の美泉を覽(みる)。』とあれば、山上より落(おつ)る水と聞(きこ)ゆ。かの社地の泉(いづみ)は、山上に非ざれば、又、不審なり。

 又、『就而飮-。』とあり、『令シテ美濃醴泉。』などあれば、かの「菊水の井」なるや。

 愚意には、「菊水の井」は「掬水」を訛(なま)り、「泉」の語を略して「井」とのみ言傳(いひつたへ)し歟。其碑文を左に錄す。これは「瀧」と「泉」と兩處を合せ言(いふ)とも覺ゆ。尙、人の考を挨(まつ)のみ。」

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]

  濃州養老泉碑銘   備藩侍讀近藤篤識

元正御極、王道平々、問疾苦、閔ㇾ物ㇾ天。當耆之郡、多度之山、天降嘉瑞、地出奇泉。淸潔可ㇾ食、養而不ㇾ窮。人受其福。王明之功、一飮一浴、不ㇾ老不ㇾ死。衰耄再、※癃可ㇾ起。有ㇾ本如ㇾ是。萬古混々、君子。鑑戒堪タリㇾ存ルニ。陵谷變遷。湮晦是懼。於ㇾ是ㇾ碑、以識ルス其所

 乾隆五十年歲乙巳正月吉旦 吳超程赤城書

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「罷」。]

■やぶちゃんの呟き

 どこまでが、「親く彼處に往たる人」の言であるかが、判然としない。林述斎の引用などでは、その直接話法だけの場合も、ないことはないが、私は、静山の記述方法では、通常は、自身の感想や意見を添えるのが、普通であるので、私は、当初、「愚意」以下の漢文前の箇所のみを、静山の考えたこととしようとしたのだが、静山が自分の意見を「愚意」と謙遜表現したものを、今までは、一度も見たことがない。近藤篤(後注参照)の作った漢文の前に、それを挟むというのも、どうも受け難かった。従って、以上は、最後まで、この「親く彼處に往たる人」の見解とすべきであると断じた。

「こなたの丘陵に、一社あり」「天神を祀る」「と云」「菊水霊泉」の東直近にある養老神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。ここの祭神には菅原道真が含まれてある。この境内に、本来の「菊水泉」が別にある。

「濃州養老泉碑銘」を以下で訓読する(但し、静山の振った訓点には必ずしも捉われなかった)が、この「備藩侍讀近藤篤」とは、儒者で備前岡山藩の藩校教授を勤めた近藤西涯(せいがい 享保八(一七二三)年~文化四(一八〇七)年)の本名。河口静斎に朱子学を、文雄(もんのう)に音韻学を学び、詩もよくした。古学派が有力な同藩内で、果敢に朱子学を唱えた。享年八十五歳。著作に「韻鏡発蘊」・「西涯館詩集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。本篇が書かれた文政五(一八二一)年は、亡くなって十四年が経っている。而して、この近藤が記した「養老の泉碑銘」は養老の霊泉のどこかに、まだ、残っているはずであると私は考えている(グーグル・マップのサイド・パネルで幾つかの場所を探してみたが、見当たらなかったのは残念である。ご存知の方はご一報あれ!)。何故なら、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、三浦千春著「美濃竒觀」の「下」巻のここに、『〇養老山碑七基あり』とあって、その『養老泉碑銘』の第一に、『備藩侍讀』『近藤篤 識』とあって、ここには、以上の碑文の全文が載るからである。さらに、「ヤフオク!」のここに、「中国古拓本 備藩侍讀近藤篤 呉超 程赤城 乾隆五十年 麋城 煙漁老屋」(中国古拓本はママ。お笑いである)として、この石碑を拓本したものが、売りに出されてあるからでもある。因みに、漢文の本文を読んで、「乾隆」云々とあるのを不審に思った方も多かろうが、そこには最後に、『乾隆五十年ハ我天明五年』(西暦一七八五年)『なり。程赤城ハ浙江の乍浦といふ所の人にてそのころ年々長崎へ耒』(きた)『る商沽』(商人)『なりきを西遊旅談に見えたり』とあることで、氷解する。恐らく、書道をよくした人物なのであろう。

   *

 「濃州養老の泉」碑銘   備藩の侍讀(じどく)近藤篤(とく)識(しき)す

元正の御極(おほんきわみ)、王道、平々、民の疾苦(しつく)を問ひ、物を閔(あはれ)み、天に則(のつと)る。當耆(たき)の郡(こほり)、多度の山、天(てん)、嘉瑞(かずい)を降らし、地、奇(くす)しき泉を出だす。淸潔にして、食(く)ふべく、養ひて、窮(きは)まらず。人、其の福を受く。王明(わうめい)の功、一飮一浴、老(お)いせず、死せず。衰耄(すいもう)、再び盛んに、※癃、起こすべし。本(もと)に有りて、是(かく)のごとし。萬古(ばんこ)混々(このこん)、君子は、是れ、取るなり。鑑戒(かんかい)、存(ぞん)ずるに堪(た)へたり。陵谷(りやうこく)は變遷す。湮晦(いんくわい)、是れ、懼(おそ)る。是れに於いて、碑を建て、以つて、其の所を識(し)るす。

 乾隆五十年の歲(とし)の次り[やぶちゃん注:静山の送りがなに従うが、読みも意味不明。]乙巳(いつし/きのとみ)正月の吉旦 吳超の程赤城(ていせきじやう)書(しよ)す

   *

・「元正」元正(げんしょう)天皇(在位:霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年)。女帝。

・「當耆の郡」養老郡養老町が含まれた旧多芸郡(たぎぐん)の上古の呼称。

・「※癃」(「※」=「疒」の中に「罷」)で、所持する「廣漢和辭典」にも載らず、読みどころか、意味も判らない。但し、「癃」は「背中が盛り上がって曲がる病」の意ではあるから、二字で老人性の骨壊死や骨変形症の類いであろう。読みは一応、「ひりゆう(ひりゅう)」としておく。

・「鑑戒」「戒めとすべき手本。

・「混々」尽きることがなくして。

・「湮晦」「堙晦」とも書く。「湮」は「隠れる」、「晦」は「暗い」の意で、「うずもれ、隠れること・姿や才能をくらますこと」の意。ここは「死」の意か。

甲子夜話卷之八 14 駱駝來る事幷圖 + フライング 甲子夜話卷之九 24 兩國橋畔にて駱駝の造物を見する事 + フライング 甲子夜話卷之五十六 17 上古駱駝來

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 今回は、後に出る駱駝話二話をフライングで電子化し、都合、三話を合せておいた。前の二話の挿絵は底本の『東洋文庫』版のそれをOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]

 

8―14 駱駝(らくだ)來(きた)る事幷(ならびに)

 去年、蘭舶(らんぱく)、駱駝を載(のせ)て、崎[やぶちゃん注:長崎]に來(きたる)る。

 夫(それ)より、

「此獸(けもの)、東都に來(きた)るべしや。」

など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず。

 先年、某侯の邸(やしき)に集會せしとき、畫工某(なにがし)、その圖を、予に示す。

 今、舊紙の中より見出したれば、左にしるす。

 

Rakida1

 

 圖に小記を添(そへ)て曰(いはく)、

「享和三癸亥(みづのとゐ)七月、長崎沖へ、渡來のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乘組の船、積乘(つみの)せ候馬の圖なり。前足は三節のよし、爪(つめ)迄は、毛の内になり。『高さ、九尺、長さ、三間。』と云(いふ)。その船、交易を請(うけ)たるが、『禁制の國なれば。』とて、允(ゆる)されずして、還(かへ)されけり。」

 これ、正しく「駱駝」なるべし。此度(このたび)にて、再度の渡來なり。

■やぶちゃんの呟き

 駱駝の来日は、「アドミュージアム東京」の『第3回「駱駝(らくだ)が江戸にやって来た!」』という記事がよい。この図から、これは哺乳綱鯨偶蹄目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus bactrianu であることが判る。同種の野生個体は中国北西部とモンゴルにのみ分布する。紀元前二〇〇〇年頃には既に家畜化されていたとされる。敦煌に旅行した際に乗ったが、どうもラクダと私は性が合わない感じだった。

「去年」文政四(一八二一)年。来日は六月。但し、この時来たのは、前記リンク先によれば、これは『アラビア産の』ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius(同種は北アフリカと西アジア、及び、「アフリカの角」と呼ばれる地域、則ち、スーダン・エチオピア・ソマリアに分布していた。但し、既に、それらの原生地においての野生個体群は、残念ながら、消滅している)で、静山は、「此獸、東都に來るべしや。」「など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず」とあるが、実際には、このラクダ、時を経て、江戸に来ている。『牡と牝のつがいで長崎港に渡来し』、『長崎を振り出しに、九州、四国、和歌山、大坂、京都と各地を巡業しながら、木曽街道を経て』、『江戸に着いたのが』、三『年後のことで』あったからである。『らくだは牡』八『歳、牝』『歳とされ、見世物興行始まって以来の珍獣はいたるところでもてはやされ』、『道中も終始一緒で』、『仲睦まじく、見物するだけで夫婦和合のご利益もあるとされ』たとあり、『川添裕氏の著書』「江戸の見世物」(岩波新書)』(私も所持する)『によると、「ラクダの両国広小路での入場料は』一人三十二文『と高価であったが、日に』五千『人を超えることもあった。日延べを繰り返し、ついには』、『半年以上の超ロングラン』となり、『空前の巨大興行収入は』実に二『千両にもなった。見世物小屋の周辺で売られた品々も錦絵はじめラクダグッズも多彩だった」とあり』、『その人気ぶりは』、『流行り歌にまでなっ』た。その「ラクダ節」が紹介されており、『♪今度遠つ国からお江戸へはるばる夫婦で下りイ、あの両国で大根喰っちゃ遊んでまた、こいつア又、らくだろう♪』とある。

「享和三癸亥七月」グレゴリオ暦では旧暦七月(大の月)は一八〇三年八月十七日から九月十五日まで。

「高さ、九尺」約二・七三メートル。フタコブラクダでは、瘤までの体高は一・九〇から二・五〇メートルとされるので、大型の方である。

「長さ三間」五・四五メートル。これは、何らかの誤伝か、単位換算の誤りで、長過ぎる。通常、同種の体長は二・二〇から三・五〇センチメートルである。

 

   *

 

9-24 兩國橋畔にて駱駝の造物(つくりもの)を見する事

 この三月、兩國橋を渡(わたら)んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに、看版を出(いだ)す。

 駱駝の貌(かほ)なり。

 又、板刻(はんこく)して、其狀(そのかたち)を刷印(すりいん)して、賣る。曰(いはく)、

「亞剌比亞國(あらびあこく)中(うち)、墨加(めか)之產にして、丈(たけ)九尺五寸、長さ一丈五尺、足、三つに折るゝ。」

 予、乃(すなはち)、人をもて、問(とは)しむるに、答ふ。

「これは、去年(こぞ)、長崎に渡來の駱駝の體(てい)にして、眞物(しんもつ)は、やがて、御當地に來(きた)るなり。」

と言(いひ)たり。

 因(よつ)て、明日(みやうにち)、人を遣(つかは)し、視(み)せ使(し)むるに、作り物にて有(あり)けるが、その狀(かたち)を圖して歸る。

 

Rakida2

 

[やぶちゃん注:キャプションがあり、右臀部の上方に、

『總』(さう)『乄』(して=じて)『毛』

『薄赤』

とあり、頭頸部の後ろに、指示線を添えて、

『此処』

  『白毛』

とし、左下方の頸部の中央やや上に指示線を添えて、

『此アタリ黃毛』

とある。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

 圖を視(みる)に、恐(おそら)くは、眞(しん)を摸(も)して造るもの、ならじ。「漢書(かんじよ)」、「西域傳」の師古の註に所ㇾ云(いふところ)は、

『脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。』

 然るに、この駝(だ)、形には、「肉鞍隆高」の體(てい)もなく、その形も、板刻の所ㇾ云(いふところ)と合はず。前册に駝のことを云しが、それ、是ならん。

■やぶちゃんの呟き

 ここで静山は不審を漏らすが、フタコブラクダとヒトコブラクダの二種がいることを知らないのだから、仕方がない。

「三月」文政五年三月。グレゴリオ暦一八二二年四月二十二日から五月二十日相当。

「墨加」サウジアラビアにあるイスラム教の生地メッカ。

「丈九尺五寸」二・八七メートル。ヒトコブラクダの成獣の肩高は、一・八〇から二・四〇メートルであるから、やや高めの謂いである。

「長さ一丈五尺」四・五五メートル。ヒトコブラクダの成獣の体長三・五〇メートルであるから、これはドンブリで長過ぎる。まあ、客寄せにはありがちな誇大広告である。

「足、三つに折るゝ」股関節と膝関節及び踝の関節を折りたたむと、かく表現するのは、違和感はない。

『「西域傳」の師古の註』これは「漢書」(後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。全百巻。最終成立は紀元後八二年)の「西域傳」で、唐の訓詁学者で「漢書」学者でもあった顔師古(五八一年~六四五年)による優れた注を指す。

「脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。」(訓点不全はママ)自然流で訓読を試みる。

   ※

脊(せ)の上(うへ)、肉、鞍(くら)のごとく、隆(たか)くして、高きこと、封(ふう)ぜる土(つち)のごとし。俗に「封牛(ふうぎう)」と呼ぶ。或いは曰はく、「駝(だ)の狀(かたち)、馬に似て、頭(かしら)、羊に似たり。長き項(うなじ)、垂れ耳(みみ)にして、蒼(あを)・褐(かつ)・黃(わう)・紫(むらさき)の數色(すしよく)、有り。

   ※

「垂れ耳」というのは、砂嵐に耐えられるように、睫毛や耳の中の毛が発達していることから、見かけ上そう見えたのであろう。実際には、ヒトコブラクダもフタコブラクダも「垂れ耳」ではない。

 

   *

 

56―17 上古駱駝來(きたる)

 前に駱駝の來れることを云(いひ)き。

 今は、都下の口實(こうじつ)とせり。

 享和には、人、不ㇾ見(みず)。この度(たび)は、普(あまね)く見て、

「珍(めづら)し。」

とす。

 然(しかる)に、このほど、燕席[やぶちゃん注:「宴会の席・酒宴の席」の意の一般名詞。]にて、或人、云ふ。

「上古、この獸(けもの)、吾邦に來(きた)ること、あり。」

と。

 因(よつ)て、「國史」を閱(えつす)るに、云(いは)く、

『推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。』

と見ゆ。至ㇾ今(いまにいたるに)、一千二百二十六年なれば、世人、珍とするも、尤(もつとも)なり。

 又、「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり。

■やぶちゃんの呟き

「口實」よく口にする言葉。かのヒトコブラクダの興行は、それほど、人気を博したのである。

「享和」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日に改元し、享和四年二月十一日(グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日)に「文化」に改元。その後が「文政」。

「推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。」「日本書紀」の記載。以下に訓読する。

   ※

推古天皇の七年、秋九月癸亥(みづのとゐ)朔(ついたち)、百濟(くだら)、駱駝(らくだ)一疋、驢(うさぎうま)一疋、羊二頭、白雉(しらきぎす)二隻(さう)を、貢(みつぎ)す。

   ※

この内、「駱駝」は中国経由で入手したフタコブラクダと思われる。「驢(うさぎうま)」は哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ亜種ロバ Equus africanus asinus である。これが、驢馬(ロバ)の最古の来日記録とされている。「白雉」は鳥綱キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノと推定される。

「推古天皇の七年」ユリウス暦五九九年。

「至ㇾ今、一千二百二十六年」機械計算では、数えで文政七(一八二五)年相当。

『「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり』「和名鈔」は「和名類聚鈔(「抄」ともする)」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。その、「卷十一」の国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚鈔」全二十巻の「第十一卷」から「第二十卷」(正宗敦夫編纂校訂・一九五四年風間書房刊)のここに(訓読し、読み・記号・句読点を推定で打った)、

   ※

駱駞(らくだ) 「本草」に云はく、『駱駞【「洛」・「陁」の二音。「良久太乃宇末(らくだのうま)」。】「周書」に云はく、「𩧐駝(らくだ)【「駝」は、即ち、「駞」の字なり。「𩧐」の音は「卓」。亦(また)、「駞」に作る。は、即ち、「駱駞」なり。】、肉の鞍(くら)有りて、能く重きを負ひて、遠くへ致す者なり。

   *

とあった。

2024/01/27

甲子夜話卷之八 13 養老酒の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。「續日本紀」の不全・不審の訓点は総てママである。

 

 久(ひさし)く懇(ねんごろ)しける某(なにがし)なるもの、酒一器を携來(たづさへきたり)て、贈る。予、視るに、

「養老麓高田 養老酒 酒家八十郞造」

と題す。

 某、云ふ。

「大垣の戶田侯に、しるべありて、此頃、濃州より取寄(とりよせ)たり。『養老の瀧水』にて釀(かもし)たるなり。」

と。

 予、試飮(こころみの)むに、醇酒なり。

 某、又、曰(いはく)、

「養老瀧は、數丈(すじやう)直下の流(ながれ)にして、其冷なること、寒氷(かんひやう)の如し。高田は地名、酒家(しゆか)は彼(かの)瀧の邊(ほとり)にあり。」

と。

 今、都下に「養老酒」と稱するものは、似もせざる麁品(そひん)なり。

 「續日本紀」「元正紀」、養老元年九月丁未、天皇行-幸ス美濃國。丙辰當耆多度山美泉。十一月癸丑、天皇臨ㇾ軒詔シテ。朕以今年九月、到美濃不破行宮、留連スルコト數日。因當耆郡多度美泉、自フニ手面皮膚如ㇾ滑ルガ。亦洗フニ痛處ㇾ不除愈。在朕之躬其驗アリ。又就而飮-スル者、或白髮反ㇾ黑、或頽髮更、或闇目如シトㇾ明ナルガ。自餘痼疾皆平愈。符瑞書曰。醴泉者美泉ナリ。可以テ養一ㇾ。蓋水之精ナレバ也。寔ルニ美泉卽合ヘリ大瑞。朕雖ㇾ痛ㇾ虛天貺。可天下。改靈龜三年養老元年。十二月丁亥、令シテム下二美濃國、立春シテ醴泉而貢於京都、爲醴酒也。

 これ、養老の瀧水を以て、釀する權輿(こんよ)とすべし。

■やぶちゃんの呟き

「大垣の戶田侯」信濃松本藩第七代藩主にして戸田松平家第十二代当主松平光年(みつつら)である。

「養老麓高田」現在の岐阜県養老郡養老町(ようろうちょう)高田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「養老の瀧水」岐阜県養老郡養老町養老公園にある名水「菊水泉」の水。上流に「養老の滝」がある。

「續日本紀」の訓読を試みる。訓点は不全・不審なので、必ずしも従っていない箇所もある。なお、参考に国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』第三の「續日本紀」(武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の当該箇所を参考にした。途中を飛ばしてあるので、そこは、概ね、改行したが、静山の底本とは異なる者の可能性もあり、表現上、それが出来なかった箇所も多い。

   *

 「續日本紀(しよくにほんぎ)」の「元正紀(げんしやうき)」に、

養老元年九月丁未(ひのとひつじ)、天皇(てんわう)、美濃國(みねのくに)に行幸(みゆき)す。

丙辰(ひのえたつ)、當耆(たぎ)の郡(こほり)の多度山(たどやま)の美泉に幸(みゆき)す。

十一月(しもつき)の癸丑(みづのとうし)に、天皇、軒臨(のぞみ)まして、詔(みことのり)して曰く、

「朕(われ)、今年(ことし)の九月(ながつき)を以(も)て、美濃國(みののくに)の不破(ふは)の行宮(かりみや)に到り、留連(とどまり)すること、數日(すにち)なりき。因りて、當耆の郡、多度の山の美泉を覽(み)て、自(みづか)ら、手と面(おも)とを盥(あら)ふに、皮膚(はだ)、滑(すべ)るがごとし。亦、痛き處(ところ)を洗ふに、除-愈(い)えずといふこと、無し。朕(わが)躬(み)に在りて、其の驗(しるし)あり。又、就(つ)きて、之れを飮み、浴(ゆあみ)するを、或いは、白髮、黑に反(かへ)り、或いは、頽髮(たいはつ)、更に生(しやう)じ、或いは、闇目(あむもく)明(あきらか)なるがごとし。自餘(じよ)の痼疾(こしつ)咸(ことごと)く、皆、平愈す。「符瑞書(ふずゐしよ)」に曰はく、『醴泉(らいせん)は美泉なり。以(も)て、老(おい)を養ふべし。』と。蓋(けだ)し、水(みづ)の精(しやう)なればなり。寔(まこと)に、惟(おもひみ)るに、美泉は、卽ち、大瑞(だいずゐ)に合へり。朕(われ)、痛(いた)むと雖(いへど)も、虛を、何ぞ天貺(てんきやう)に違(たが)はん。大(おほい)に天下(てんが)に赦(しや)すべし。靈龜(りやうき)三年を改めて、養老元年と爲(な)す。」

と。

十二月(すはす)丁亥(ひのとゐ)、美濃國に令(めい)じて、立春の曉(あかつき)に、醴泉(らいせん)を挹(くみ)して、京都に貢(かう)し、醴酒(らいしゆ)と爲(な)さしむなり。

   *

この「元正」元正(げんしょう)天皇(在位:霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年)は女帝である。

甲子夜話卷之八 12 細川氏、松平遠州、家紋を取かゆる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8―12

 肥後の支侯、細川能登守【利庸。】に、「櫻花」を家紋とすることを問(とひ)しに、

「こは、昔、松平遠江守が家紋と取替たり。」

と云(いふ)。

「其故(ゆゑ)、詳(つまびらか)ならざれども、彼(かの)家にも、其ことを傳ふ、と聞(きく)。」

と答(こたへ)き。

 又、此とき、話(かた)りしは、

「『九曜星』の紋は、豐臣秀吉の與(あづか)る所、『桐』の紋は、朝廷より賜り、『二引輛(ふたつひきりやう)』の紋は、足利公方より賜(たまはり)て、今、吾紋とするものは、皆、實(まこと)の家紋に、あらず。家紋は『松皮菱(まつかはびし)』なれど、今は還(かへつ)て、用ひず。然(しかれ)ども、古き兵器等には、たまたま、遺(のこ)るもの、あり。」

となり。

 すべて、家紋のこと、その出所を知(しら)ざること、多(おほき)者なれば、しるす。

■やぶちゃんの呟き

「細川氏」「肥後の支侯、細川能登守【利庸。】」肥後新田藩第六代藩主細川利庸(としつね 宝暦四(一七五四)年~文化二(一八〇五)年)。本執筆時は、既に没している。細川家の肥後細川家の家紋は「細川九曜」だが、細川京兆家のものは「松笠菱(細川向かい松)」である(ウィキの「細川氏」に画像有り)。ここでは「松皮菱」と言っているが、これはサイト「家紋のいろは」のこれで、全然、違うものであり、そこの「使用家」には「細川」は入っていない。されば、これは、利庸が誤った言ったか、静山の聞き違いである可能性が高いと私は考える。

「松平遠州」「松平遠江守」信濃国飯山藩第二代藩主・遠江国掛川藩主・摂津国尼崎藩主となった松平忠喬(ただたか 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のこと。桜井松平家第十代当主で、同家の家紋は「山桜」であった。

甲子夜話卷之八 11 國々氣候殊なる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8―11 國々氣候殊(こと)なる事

 大洲侯に邂逅(かいこう)せしとき、國々の寒暑の談に及び、我、平戶の氣候を、かたり、

「扨(さて)、豫州も、海、近ければ、夏も涼しかるべし。」

と言(いひ)しに、侯の臣、堀尾四郞次、其坐にありて、曰(い)ふ。

「曾て、しからず。暑(あつさ)、至(いたつ)て甚し。盛暑に至りては、途行(みちゆき)するに、炎氣、黃白色を、なし、空中に散流(さんりう)し、人目を遮り、前行(まへゆく)十步なる人は、殆ど、見へ分(わか)たず。其蒸熱(じやうねつ)、堪(たへ)がたし。加如ㇾ斯(かくのごとき)なれば、途行するもの、靑傘【涼傘(りやうさん)[やぶちゃん注:日傘。]也。靑傘は豫州の方言。】を用(もちひ)ざれば、凌(しのぎ)がたし。然るに、近頃、靑傘をさすこと、停止(ちやうじ)せられしかば、暑行(しよかう)、尤(もつとも)難儀なり。」

と語りぬ。

 國々によりて、暑氣の厚薄(こうはく)もある中に、豫州は、殊更に、甚しく異なること也。

■やぶちゃんの呟き

「大洲侯」伊予国大洲藩の第九代藩主加藤泰候(やすとき 宝暦一〇(一七六〇)年~天明七(一七八七)年)であろう。彼は静山と生年が同じである。過去形で記しており、昔の記憶で記したものととっておく。但し、第十代藩主加藤泰済(やすずみ)、或いは、第十一代藩主加藤泰幹の可能性もなくはない。実際に、同一人物かどうかは判らないが、泰幹の代の文政一一(一八二八)年の同藩の史料に、『堀尾四郞治』なる名を見出せるからである。

甲子夜話卷之八 10 權家への贈遺、古人は鄙劣ならざる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-10 權家への贈遺(ざうい)、古人は鄙劣(ひれつ)ならざる事

 前人《ぜんじん》[やぶちゃん注:ここは「昔の人」の意でとっておく。]、又、云(いふ)。

「昔とても、權勢(けんせい)の人へは、贈遺もあれど、近來(ちかごろ)の如き鄙劣[やぶちゃん注:「卑劣」に同じ。]なることは、無きことなり。今、姬路の酒井家、もと、前橋を領して、大老、勤られしとき、仙臺より、大筒二十挺(ちやう)、贈りし。」

とぞ。

「一挺を、車一輛に載る重さなりし。」

となり。

「今、その筒、江戶と姬路に、半(なかば)づつ藏す、と聞く。その時、鍋島家よりは、伊萬里燒の鱠皿(なますざら)・燒物皿・菓子皿・猪口(ちよく)・小皿等、凡(およそ)、膳具に陶器にて用ゆべき程の物を、千人前にして、送りし。」

となり。

「只今、尋常の客に、掛合(かけあひ)の膳を供するとき、やはり、その陶器を用ゆ。多くは敗損せしが、三ケ一(さんがいち)は、尙、殘れり。」

となり。

「又、高崎侯の祖【諱、輝貞。松平右京大夫。】、元祿中、殊更、御眷注を被(こうむ)られしかば、人々の奔走もありしが、一日(いちじつ)、加賀侯、訪問にて、面話(めんわ)のとき、

『何ぞ進上と存ずれども、事缺(ことかく)るべきにも無(なけ)れば、空しく打過(うちすぎ)ぬ。「馬を好まれ候。」と承りぬれば、國製(くにのせい)の鐙(あぶみ)にても進じ候半歟(さふらはんか)。』

などゝの物語なりしかば、

『厚意、忝(かたじけ)き。』

の旨、挨拶、あり。

 加侯、歸邸の後(のち)、使者を以て、鐙、百掛、贈られけり。

『折角の厚情なれば。』

迚(とて)、厩に繫げる馬百疋に、鞍、置(おか)せ、其鐙を掛け、使者に付(つけ)て、卽時に、加邸へ牽(ひか)せ、

『此通り、用ひ、忝(かたじけなき)。』

旨(むね)の謝詞(しやし)ありし。」

となり。

 此頃の風儀は、信(まこと)に感じ入(いり)たる事、ならずや。贈る人も、受(うく)る人も、孰(いづ)れを、いづれとも、云(いひ)がたし。

■やぶちゃんの呟き

「贈遺」人に物を贈ること。

甲子夜話卷之八 9 飯田侯【堀大和守。】、憲廟拜領の御麻上下幷佐野肥後守が祖先の上下

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 なお、この前の「甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥雷獸の食物」で、既にフライング・カップリンング単発で公開してある。]

 

8-9 飯田侯【堀大和守。】、憲廟拜領の御麻上下(かみしも)幷(ならびに)佐野肥後守が祖先の上下

 林子、云ふ。

「飯田侯堀大和守が家に、憲廟より、拜賜の御麻上下あり。曩日(なうじつ)[やぶちゃん注:昔。]、請(こひ)て拜瞻(はいせん)せしに、肩の巾(はば)は、至(いたつ)て狹く、袴腰(はかまごし)の木を、一幅の麻にて包み、腰ぎはより、幾重も捻(ねぢ)りて、其先(そのさき)、左右を、細く疊みて、紐とせり。

 後、佐野肥後守に話せば、

『その祖先、伏見討死(うちじに)より、三代目に當れる人の着せし上下を藏せるが、その製、同じこと。』

と、なり。さすれば、昔は尊卑とも、皆、如ㇾ此(かくのごとき)製なりと、見ゆ。」

「捻りたる所、見苦し。」

など云(いふ)より、今の形に變りたるなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「飯田侯【堀大和守。】信濃飯田藩第十代藩主にして、「伺い譜代」として幕閣に連なり、老中にまで登りつめた堀親寚(ちかしげ 天明六(一七八六)年~嘉永元(一八四九)年)。当該ウィキを参照されたい。

「憲廟」第四代将軍徳川家綱。

「袴腰の木」。袴の後ろの腰にあたる部分を「袴腰」と呼び、男子用のものでは、中に長方形で上の削げた厚紙、或いは、薄い木の板を入れて仕立てる。

「拜瞻」謹んで見せていただくこと。

「佐野肥後守」旗本佐野康貞なる人物と思われる。「甲子夜話卷之二 11 佐野肥後守發句の事」に登場している。

甲子夜話卷之八 7 蜷川氏の家紋

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 なお、この前の「甲子夜話卷之八 6 或老侯、隅田川にて龍まきに逢ふ事」は、既にフライング単発で公開してある。]

 

8-7

 御側(おそば)を勤(つとむ)る蜷川相模守が長子、大和守【親常。】とて、新番頭(しんばんがしら)なるは、予、久(ひさし)く知人なり。

 此家は、足利將軍時代を經たる舊家なり。其家紋、

 

Gausihasi1

 

如ㇾ此(かくのごと)し。

 其物を審(つまびらか)にせざれば、一日(あるひ)、逢(あひ)しとき、問(とひ)けるに、

「合子箸(ガウシハシ)なり。」

と答(こたへ)たり。

 「合子」は今の「飯椀(めしわん)」なり。これに箸を添(そへ)たる象(かたち)なり。

 後(のち)に、古き諸家紋帳を見るに、

 

Gausihasi2

 

如ㇾ此、見えて、「合子箸、蜷河。」とありき。

■やぶちゃんの呟き

画像は、底本の『東洋文庫』版からOCRで取り込み、トリミング補正した。

「蜷川氏」当該ウィキを見られたいが、そこに、この「親常」の父親文について、寛政八(一七九六)年に『将軍継嗣であった徳川家慶附属の御側御用取次となり、順次加増を受けて』五千『石の大身旗本となった。親文以後も』、『幕府要職を歴任し、明治維新に至った』とあった。サイト「戦国大名研究」の「蜷川氏」に、ここで静山が示した二種の家紋が載り、詳しい蜷川氏の先祖からの前史が詳しい。

譚海 卷之六 三州瀧山淸涼院年始鏡餅獻上の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前の二篇、

「譚海 卷之六 長州にて石を焚薪にかふる事 附四國弘法大師利生の事」

及び

「譚海 卷之六 武州越ケ谷金剛寺二犬の事」

は、既にフライング公開してある。]

 

○三河國、瀧山淸凉院(さうざんせいりやうゐん)といふに、東照宮御靈屋(みたまや)、有(あり)。

 それへ、關東より、每年始(はじめ)、鏡餅を猷ぜらるゝ事、恆例也。

 いつも、師走十七日、白米を折櫃(おりびつ)に入(いれ)、御賄(おんまかない)の役人、付(つき)そひて、東海道を出立(いでたち)、三州へ持參致し、淸凉院の瀧にて、此白米を、かしぎ、寺僧、鏡餅に調(ちやう)じて年始に備へ、十七日迄ありて、十八日に、右の鏡餠を撤(てつ)し、又、折槪櫃に納(いれ)て、役人、警固して、江戶へ送り奉るを、關東にて御頂戴ある事也。

「彼(かの)寺に、瀧、有(ある)故、『瀧山』といへる。」

よしを、物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「三河國、瀧山淸凉院といふに、東照宮、御靈屋、有」底本の後注に、『愛知県額田郡旧常磐村の滝山寺(そうざんじ)。天台の寺院で、徳川家康の信仰厚く、その霊祠がある。寛永年中重修して、天台別院とした』とある。現在は合併変更で、愛知県岡崎市滝町(たきちょう)山籠(やまごもり)になった。瀧山寺はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、同寺の北東直近に滝山(たきさん)東照宮がある。

「折櫃」檜の薄板を折り曲げて作った容納具。全形は、四角形・六角形・円形・楕円形などさまざまで、檜の葉を敷いて、菓子・肴(さかな)などを盛り、四隅に作り花などを立てて、飾りとした。音変化で「をりうづ(おりうず)」とも呼ぶ。]

譚海 卷之六 三州萬歲留守居の事 附(つけたり)萬歲江戶年始諸侯人參上の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○三河國より萬歲に出る留守の間(あひだ)は、其身上(しんしやう)を賄(まかなひ)するもの、さだまりて、有(あり)。

 年々、まかなひをして、二月初(はじめ)、江戶より、萬歲、終りて後(のち)、その賄の料(れう)を、はじめ、諸(もろもろ)拂(はらひ)もする事也。

 それゆゑ、萬歲に出(いづ)るものの住居(すまひ)する村は、年貢も、每年二月、上納する事也。

 萬歲主領[やぶちゃん注:底本には「主」の補正傍注して、『首』とある。]、江戶の御城へ、まゐるものなどは、每年、乘掛馬(のりかけうま)にて出府する也。

 御城へ登り、萬歲、相濟(あひすみ)て、黃金二枚・米拾俵、賜はるよし也。

 其外、諸大名へ參る萬歲、夫々(それぞれ)に、其屋敷より、賜はるもの、年々、夥敷(おびただしき)事也。

 有馬侯などへ參る萬歲は、表門より、出入(でいり)す。表門に向ひて、つゞみをならせば、恆例にて、門番、門をひらき入(いる)る也。

 やがて、有馬殿、御逢被ㇾ成(なされ)、萬歲勤(つとむ)る事、相かはらず、年々、然(しか)り。

 萬歲の旅宿は、品川に有(あり)て、每日、江戶中にて、もらひ來る鏡餅を、萬歲、うりはらふ。それを、貫目にかけて、かふもの有(あり)。

 其邊に住居する貪窮なるものは、萬歲の餅を、かふて、正月中、くらふ事也。

[やぶちゃん注:「三州萬歲」愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能。特に、伝承地名により、「別所万歳」(安城市)・「森下万歳」(西尾市)とも呼ばれる。両万歳については、参照したウィキの「三河萬歳」が詳しいので、見られたい。

「貫目にかけて、かふ」というのは、一貫目単位での意味ではなく、「地位や肩書などに拘って豪勢に買う」の意であろう。豊洲の本鮪初競りみたようなもんだろう。]

譚海 卷之六 藝州嚴島明神祭禮の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○安藝の城下、廣島より宮島の間、殊の外、難所にて、四十八坂あり。

 それゆゑ、西國の諸大名、參勤交代に陸を御越(おこし)あるも、おほかた、此間は、乘船して通行ある事也。

 又、宮島に、春・秋、二ケ度(にかど)の大市(おほいち)有(あり)。十日あまり、市、立(たつ)事にて、近國の人まで、こぞりてあつまる事にて、大坂よりも、「濱芝居」のもの、此市の内は、宮島へ行(ゆき)て、芝居をするほどの事也。

 殊の外、繁昌なる事也。

 宮島は、一切(いつさい)、田地なき所なれども、宮島の社家、千軒、寺、千軒、町屋、千軒あるが、此市にて、一年中の渡世になるほどの事也。

 嚴島明神の託宣に、

「もし、此市にて、宮島、渡世成(なり)がたくば、薪(たきぎ)千駄、萱(かや)千駄、あたふべし。それにても、事ゆかずば、田千反、畑千反、あたふべし。猶、それにて事たらずば、我山に朱砂あり。是を掘(ほり)とりて、渡世すべき。」

よし、の給ふ事と、いひ傳ふ。

「大かた、此市も、明神のはじめさせ給ふ事ゆゑ、にぎはひ、繁昌する事、比類なき事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「朱砂」水銀と硫黄とからなる鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出する。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料とされる。漢方では、消炎・鎮静薬などに用いる。「丹砂」「辰砂」とも呼ぶ。但し、厳島でそれが産出するという記事は、ネット上では確認出来なかった。]

譚海 卷之六 まむしを燒てくらふ事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○まむしを、とらへて、燒(やき)てくふに、殊外(ことのほか)、かうばしきもの也。

 まむしを燒(やく)にほひを、いたち、すくものと、しられて、ある人、野にて、まむしをとらへて、やきたるに、鼬(いたち)、夥敷(おびただしく)あつまりたるよしを、物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「まむし」有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科 Crotalinae(ここにはハブ類が含まれる)マムシ属 Gloydius のマムシ類。本邦産種はマムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii と(但し、本種は中国・朝鮮半島にも棲息する)、一九九四年に対馬固有種の独立種として分割されたツシママムシ Gloydius tsusimaensisの二種のみであるが、中国にはマムシ属だけでも複数種が棲息する(中文ウィキの「亞洲蝮屬」(アジアマムシ属)を参照されたい)。また、「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ)」(マムシ)他の項も参考となるので見られたい。生憎、私はマムシをかくして食ったことはない。食ってみたい。

「いたち」「鼬」博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたいが、そこにも「本草綱目」から引いて、『虺(まむし)を制す』と出る。]

譚海 卷之六 江戶中橋金丸藏人隱德の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○江戶、中橋[やぶちゃん注:底本に訂正傍注があり、「京橋」の誤りとする。]に、金丸藏人(くらうど)といふ浪人、有(あり)。

 諸事多藝なる人にて、殊に鑓(やり)の名人なれば、弟子あまたあり、八十四歲までありて、死(しし)たり。

 その子の某(なにがし)成(なる)人、又、篤實なる生質(たち)にて、殊に、人をあはれむ心、ふかくありしが、六十歲斗りの時、深川邊へ、一日(いちじつ)あそびありきたるに、途中にて、ふと、勢州桑名の人に行連(ゆきつ)れ、終日(ひねもす)、物語して、つれだちしに、某、桑名の人にいひけるは、

「今日(けふ)、しばらく同道いたし、終日、心安くかたらひ申(まふす)に付(つき)て、存寄(ぞんじより)たるに、そこ許(もと)は、何か、心中に苦勞せらるゝ事、あるやうに存(ぞんじ)られ、とかく、はなしの言語(ことば)のはしばしも、力なく、おもしろからぬ體(てい)に見え候。いかなる事にや。」

と、いひければ、桑名の人、

「さればに候、御尋(おたづね)に付(つき)、つゝまず、御物語(おんものがたり)いたし候。我等事、此度(このたび)、江戶へ、くだり居(をり)候間、よしなきものに誘引せられ、遊里へ、はまり候て、心の外に、金子、つかひはたし、殊の外、難儀致候。このせつ、金子三兩ほど無ㇾ之候ては、在所へ歸り候事も相成(あひなり)がたく、一命にも及(および)候難儀有ㇾ之候に付(つき)、自然(おのづ)と、其(その)氣ざし、たえず、御自分樣、御目にも、咎(とが)められ候ほどの事に相見え候事。」

と申せしかば、某、甚だ、氣のどくに存じ、

「さてさて、了簡にも及ばざる事なれども、一日同道致(いたし)、御心易(おこころやすく)相成、かやうの御物語も承り、何とも笑止なる事に候間、先(まづ)、いづれにも、今晚、拙者方へ御同道申べし。其上にて、何とか工夫も有(ある)べし。」

といへば、桑名の人も、恭[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じだが(左ページ上段十行目最下)、何かおかしい感じが私にはする。思うに、「忝」(かたじけなく)の誤記であろう。]覺えて、それより同道して京橋のやどりへ來り、一宿させ、懇(ねんごろ)にもてなし、某、何とか、才覺したりけん、金子三兩、相調(あひととのへ)、翌日、桑名の人に、あたへければ、

「おもひがけぬ事にて再生の御恩也。」

とて、殊の外、悅(よろこび)、立(たち)わかれける。

 其後(そののち)、一兩年、過(すぎ)て、某、親の弟子兩人と、同道にて、下人壹人、召連(めしつ)れ、上下(うへした)四人にて、伊勢參宮せしが、歸路に、桑名にいたり、

「船にのらん。」

と、せしに、先年、江戶にて、金子三兩、調へ遣(つかは)したる男に、風(ふ)と、船乘場(ふなのりば)にて出逢(いであひ)、たがひに、大よろこび、しばらく、物がたりして、

「いそぎの船なれば、乘(のり)申さん。」

と別(わかれ)を告(つげ)ければ、此男、

「かく、珍敷(めづらしき)所にて御目にかゝり、殊に、再生の御恩を得し事、晝夜、相(あひ)わすれ不ㇾ申。何とぞ、しばらく、拙者宿へ御立寄下され。せめて、しばらく、御休息ありて、今日、御逗留ありて、明日、船に乘(のり)下さるべし。」

と、わりなく[やぶちゃん注:むやみやたらに。]申せしかば、もだしがたく、其男と打連、宿へ行(ゆき)て、一宿せしに、亭主も、隨分、酒食をとゝのへ、いんぎんを盡して、もてなしけり。

 然(しか)るに、昨日(きのふ)、乘(のり)おくれし船、七里の海中にて、にはかに、風、起り、波、あれて、船、あへなく、くつがへりたれば、船中の人、殘らず、溺死せし、とぞ。

 某の子、桑名の人に逢(あひ)、無理に、宿へ、いざなはれ、船にのりおくれし故に、溺死の禍(わざはひ)を、まぬかれたる事、ふしぎ成事也。

「是、しかしながら、陰德の報(むくい)なるべし。」

と、人々、いひあへる、とぞ。

[やぶちゃん注:この同類の話、私の怪奇談に枚挙に遑がない。取り敢えず、「耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事」をリンクさせておく。]

譚海 卷之六 泉州水馬觀音に福を借る事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○泉州、水馬屋(みづまや)觀世音へは、大坂より、六里あり。

「觀世昔は、稻荷明神の本地(ほんぢ)にまします。」

とて、二月初午には、參詣する人、あまたなり。

「此觀音に、福をかる事。」

とて、觀音の散錢を借(かり)て、もて歸り、あきなひなどするに、かならず、德ぶん、つく事なり。

 それゆゑに、觀昔に詣(まふで)て、錢、借る人、おほし。

 この錢、たとへば、二百錢、かりまゐらすれば、かへす時、倍して、四百せんにて、返す事也。

 むかし、大坂の人、

「觀音の錢、二百錢かりて、商賣のもとでとなせしが、大(おほき)に、德、つきて、八千貫の利を得候。」

よし、ものがたりぬ。

「その事は、かしこの記にも、しるしあり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「泉州、水馬屋觀世音」底本後注に、『大阪府下貝塚市水間の水間寺』(みづまでら)『の観世音堂。水間観音の福銭のことは、西鶴の「日本永代蔵」にも見えている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「日本永代藏」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版(和田万吉校訂・昭和七(一九三二)年刊)の「卷之一」の巻頭の『初午(はつうま)は乘(のつ)てくる仕合(しあはせ)』の中に記されてあるのが、視認出来る。]

譚海 卷之六 公卿園池殿鯉魚狂歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○堂上、園池殿(そのいけどの)、碁を好(このま)せらるゝにより、いつも、川井某といふ町人、御相手にて、まゐりけり。

 一日(あるひ)、川井、まゐりたるが、不快になりて、雜掌の部屋へ入(いり)、臥(ふし)て居《ゐ》たるに、をりふし、鍼醫、參ければ、園池殿、

「よき折也。川井、療治してもらふべし。」

とて、鍼治ありけり。

 その後(のち)、川井、謝禮のため、鯉、二喉(ふたくち)、とゝのへ、右の醫師へおくりけるを、醫師、

『あまり、めづらしきものゆゑ、わたくしにたべ候も、をしき事。』

と、おもひて、やがて、園池殿へ、まゐらせけるを、園池どの、又、川井へ、つかはされければ、川井、そのこゝろを得て、あるとき、醫師に逢(あひ)たるに、

「さてさて、先日は、『御禮のため、せめて、召(めさ)るゝやうに。』とて、わざわざ、鯉、とゝのへて迄(まで)し候を、むなしく、よそヘ、おくられぬる事、わたくし、ぞんずるやうにも無ㇾ之、ざん念なる事。」

と申(まふし)ければ、毉師、赤面におよび、園池殿へ、まゐりて、川井が右のものがたり、申上ければ、わらはせ賜ひて、硯、引(ひき)よせて、書(かき)給ひぬる狂歌、とぞ。

  はりさきで釣にし鯉を園池へ

    はなてばもとの川井にぞ行(ゆく)

[やぶちゃん注:この話、人名表記に異同があるが、全く同じ内容のものが、「耳囊 卷之二 公家衆狂歌の事」にある。そちらで注もしてあるので、参照されたい。]

譚海 卷之六 江戶御本丸溜りの間鍵井伊家預りの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○御本丸「溜(たまり)の間(ま)」、鍵(かぎ)は、井伊掃部頭殿、御預りにて、井伊家の留守居の下役、每朝・暮、登城して、開閉を勤(つとむ)る也。

 又、御城近火(ちかび)には、井伊家玄關前には、軍陣の道具を指置(さしおき)、公方樣、御立退(おたちのき)あれば、そのまゝ、御供の用意のために備へらるゝ、とぞ。

 都(すべ)て、井伊家、甲州の浪人を付置(つきおか)れしより、軍事に、うけはりたる家にて、掃部頭殿、道中往來のせつも、大井川こえらるゝときは、掃部頭殿ばかり、れん臺にて、その餘、家來は、大身といへども、みなみな、かちわたりにて、主人の駕(かご)につきそひ、川中といへども、行列を、みださず、わたらるゝ事といへり。

 尤(もつとも)、川ごしのもの、壹人づつは、したがへらるゝといへども、

「殊に、なんぎなる事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「溜りの間」大名詰所の一つとして江戸城内黒書院に附属する部屋。]

譚海 卷之六 甲州身延山幷南部由來の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○南部は、元來、甲州の在名也。

 新羅三郞義光より、十四代の孫、南部六郞實長といふ人、鎌倉の時にあたりて、日蓮上人に値遇(ちぐう)し、信仰のあまり、居所(きよしよ)を上人に施與(せよ)して、寺、建立せり。

 是、今の身延山の地也。

 其後、實長の子孫、奧州に移居(いきよ)して、東邊(とうへん)の地を押領(わうりやう)し、卽(すなはち)、甲州の地名を稱して、住す。

 今の、南部侯、此也。

 さて、實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり。

 此ゆゑによりて、今も、身延山住持、代がはりのときは、南部殿より、賀使(がし)を立(たて)らる。その使に、ゆかるゝ人は、奧州、南部・津輕さかひの城(しろ)、八戶(はちのへ)彌六郞とて、南部家の一門にて、一萬三千石領する人、いつも發足(ほつそく)[やぶちゃん注:賀使として遠い奥羽の南部を出立すること。]ある事、とぞ。

[やぶちゃん注:「南部は、元來、甲州の在名也」山梨県の最南端の南巨摩郡南部町(なんぶちょう:グーグル・マップ・データ)。ここに書かれてある、奥羽の最奥の「南部藩」との関係性は、「南部町」公式サイトのこちらの「歴史」の項にも(太字下線は私が附した)、『本町の歴史は古く、天神堂遺跡(てんじんどういせき)に代表されるように』、『遠く先史土器時代から集落が形成されていた』。『鎌倉期には』、『源頼朝』『に従い』、『戦功のあった南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)が南部を与えられ』、『この地を領し』、『その後』、『奥州に移り』、『糖部五郡(現代の青森』・『岩手の一部)の広大な地を与えられ』、『南部藩を築いている』と、はっきり書かれてある(なお、『近世』、南部『町は河内領』『に属していた』ともあるので、注意が必要)。

「南部六郞實長」底本の後注で、この人物は南部三郎光行の子であった『南部実光』(本文の「實長」は実光の弟なので注意が必要。但し、この実長も日蓮の有力壇越として知られ、日蓮を身延山に誘ったのは、実光ではなく、この実長であったようであるから、以上の記載の方が真実を語っている(後注参照)。当該ウィキを見られたい)『は日蓮の身延山開基に力を致すところ大であった』とあった。しかし、ウィキの「南部実光」を見ても、日蓮も身延山も書かれてはいない。而して、ウィキの身延山の「久遠寺」を見ると(太字は私が附した)、文永一一(一二七四)年、『甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)』(☜)『が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き』、『西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した』とあるのである。

「實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり」これは誤りである。日蓮宗総本山身延山久遠寺の二世は日向であるが、当該ウィキによれば、『生まれは、安房国男金』、『もしくは上総国藻原』、『と諸説ある』とあるが、彼が「実光」或いは「実長」の子とする記載は、ない。

譚海 卷之六 江戶本所さかさゐの渡猿𢌞し侍と口論の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 標題の「さ」は接尾語で方向を表わし、「江戸本所の方の」の意であろう。「かさゐの渡」(わたし)は「葛西」等とも書き、現在の国道七号の下にある「逆井橋」(さかいばし)附近にあった「逆井の渡し」である。]

 

○寬政四年の冬[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九二年十一月十四日から一七九三年二月十日。]、本所六つ目のかさい[やぶちゃん注:葛西。]のわたし舟の中にて、猿𢌞しと、さむらひと、同じく乘合(のりあひ)たるに、いかゞしたりけん、此猿、侍の腕をしたゝか、かきやりぬ。

 侍、いきどほり、はらたてて、

「猿を、もらひて、うち殺(ころす)べし。」

と、いひければ、船中の人々、こぞりて佗(わび)つゝ[やぶちゃん注:ママ。底本では補正傍注があり、『(詫)』とする。]、

「畜生の事なれば、堪忍し給へ。」

と、こしらへ[やぶちゃん注:現在は使用頻度が低いが、中世以降、「話しをして納得させる」ことを意味する。]けれど、さむらひ、さらに承引せず。

 船、已に、岸に着‘つき)て、みなみな、陸ヘ上りぬるに、侍、

「ひらに、猿を受取(うけとる)べし。さなくば、おのれともに、ゆるさじ。」

とて、猿𢌞しに取(とり)かゝりて、はなたず。

 猿𢌞も、とかく詫けれど、了簡せざるに仕(しまわし)わびて、

「さらば。是非なし。猿を進ずべし。」

とて、猿𢌞し、かたへに、猿をおろして猿にいひけるは、

「我、かく汝によりて、年來(としごろ)渡世せし事なるが、おもひよらず、かゝるあやまちを仕出(しいだ)して、なんじを、まゐらすべき也。汝が、こゝろから、命を斷(たつ)事、不便(ふびん)、さらにいふべきやうなけれども、今は、かひなき事也。よく心得て、死すべし。」

と、つぶつぶと[やぶちゃん注:こまごまと。]、猿に、いひきかせて、

「扨(さて)。猿をまゐらすべし。」

とて、猿𢌞しの法にまかせて、綱をきり、侍に、わたしぬ。

 猿𢌞し、猿をはなつときには綱をきる寸尺の法(はう)有(ある)事、とぞ。

「かく、汝にわかるべしとは、おもひもかけぬ事。」

と、猿𢌞し、泣々(なくなく)、綱、きりて、侍にわたしければ、侍、猿の綱、ひきとると、そのまゝ、この猿、侍の喉(のど)へ、くらひ付(つき)て、はなさず。

 深く、くひ入(いり)ければ、のどぶえを、くひとりて、侍は、あへなく、息、絕(たえ)たり。

「あれは、あれは、」

と、見る人、おどろき、さわぐまぎれに、猿は、やがて、川水の深みへ、身をなげ、をどり入(いり)て死(し)したる、とか。

 是も哀(あはれ)なる事に、なん。

譚海 卷之六 信州山中熊の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○信濃國、山中(さんちゆう)にて、熊、小共(こども)、二、三疋、引連(ひきつれ)、出(いで)て求ㇾ食(しよくをもとめ)ける。

 親熊、大(だい)なる磐石(ばんじやく)をもて、あげて、其下に有(あり)ける蟻(あり)を、子どもの熊に、あさり、くはせけるに、獵師、はるかに、是を見やりて、鐵炮を打(うち)かけしが、打損じて、熊にあたらず。

 されども。親熊、此ひゞきにおどろきて、おもはず、かの、もてあげける石を、とりはづしぬるに、あやまたず、子熊ども、此磐石に、おされて、みな、死(しし)たり。

 さるとき、親熊、はなはだ、怒り、をどりあがりて、そこら、にらまへ[やぶちゃん注:「睨みつけて」の意か。]、もとめけれども、獵師、ふかく、かくれて見えざりければ、熊、終(つひ)に獵師をもとめえず、やゝかなたこなた、もとめかねて、熊せんかたなき體(てい)にて、もとの所へ立かえりしが、やがて、又、その磐石、もてあげて、子熊の死たる上にかさなり、磐石、わが身に、おとしかけて、我も、子熊と共に、死(しし)ける、とぞ。

「異類なれ共、子をおもふ心は、淺からざりける。」

と、後(のち)に、獵師、物語(ものがたり)て、慚愧(ざんき)しけるとぞ。

譚海 卷之六 筑紫めかり神事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○筑紫、「めかりの神事」は、每年、除夜也。

 その夜は、近鄕のうらうら、みな、火をうちけして、ひそみをる也。

 「めかりの事」、終(をはり)ぬれば、社頭にて、はじめて、火を點(とも)す。

「此火の光を、合圖にして、近村の浦々、みな、火を擧(あぐ)事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「めかりの神事」「和布刈神事」(めかりのしんじ)。福岡県北九州市門司区和布刈に鎮座する和布刈神社で、旧暦十二月晦日から元旦の未明にかけて執り行われる特殊な神事。関門海峡を隔てた対岸に鎮座する住吉神社でも、同日同時刻に同神事を行う。深夜午前一時から午前三時頃の干潮時に、神職三人が正装し、鎌と松明を持って海中に入り、和布(わかめ)を刈り取って、神前に供える。この和布は「万病に効く」と伝えられ、朝廷にも献上した。神功皇后がいわゆる「三韓征伐」のために、この附近を航海中、安曇磯良神(あずみいそらのかみ)が海中より献上した如意珠(にょいじゅ)を使って、目出度く三韓を征したが、これは皇后が磯良神から「潮干(しおひる)・潮満(しおみつ)の法」を学んだ遺風を伝えるのが、この神事であるとされる。元旦、最初の神供として、土地所産の供物を採取・御供する民俗社会的意義がある(小学館「日本大百科全書」を参考にした)。私は、「霧の旗」を皮切りに、小六から中学生にかけて、殆んどの松本清張の推理小説を読破したが、その「時間の習俗」(写真トリックで、今、考えると、頗るショボい)で、初めて、この行事を知ったのを思い出す。グーグル画像検索「和布刈神事」をリンクさせておく。]

譚海 卷之六 尾張野間の内海義朝々臣墓幷陶家の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○尾張國、野間・うつみは、兩地をあはせて、いふ事也。

 みな、南海邊(なんかいへん)にある在地にて、野間は五ケ村、うつみは八拾一ケ村あり。

 拾壹萬石收納の地にて、甚だ廣き所也。

 志摩・鳥羽浦へつゞきて、伊勢へも、五里にちかし、といふ。

 東海道よりは、池鯉鮒(ちりふ)より、入(いる)順路也。

 うつみに、左馬頭義朝の墓あり。

 義朝の墓を眞中にて、左右に、鎌田兵衞正淸と、織田三七郞殿、墓あり。

 鎌田の墓に、義朝のはかを並(ならべ)てある事、そのいはれ、知れがたし。いづれも、後世の造立とみゆるよし也。

 江戶へいだす、水甁(すいびやう)[やぶちゃん注:水や酒などを入れておく瓶。「すいびん」「すいへい」と読んでも構わない。]など、燒(やく)陶家(とうか)など、おほく、はんじやうなる地也、とぞ。

[やぶちゃん注:「野間」愛知県知多郡美浜町(みはまちょう)野間。「平治の乱」で敗れた源義朝は、東国へ落ちのびる途次、家臣で乳兄弟の鎌田政清の舅(しゅうと)にして、年来の源家に従っていた長田忠致(おさだただむね)と、その子景致のもとに身を寄せた。ウィキの「源義朝」によれば、『しかし』、『恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて』『殺害された』。『享年』三十八であった。『政清も酒を呑まされ』、『殺害された』(享年は義朝に同じ。当該ウィキに、野間大坊の彼の墓(妻と一緒)の写真がある)。『京を脱出して』わずか三『日後の事であった』。「愚管抄」によれば、『長田父子の陰謀を察知した義朝が』、『政清に自らの首を打つよう命じ、斬首された後に政清は自害したとされる。年が明けた正月』九『日、両者の首は獄門にかけられた』。『伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓は』(ここ)『その終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の伝承にちなんで多数の木刀が供えられている』(グーグル画像検索「源義朝の墓」をリンクさせておく)。『また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある』とある。私は、そこを訪れたことがある。

「内海」「うつみ」野間に南東で接する愛知県知多郡南知多町(みなみちたちょう)内海

「池鯉鮒」愛知県中央部の知立市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代は東海道五十三次の岡崎と鳴海の間の「池鯉鮒(ちりふ)宿」として発展し、また、三河木綿の集産地としても栄えた。現在は名古屋市近郊のベッド・タウンである。

「織田三七郞」織田信長の三男織田信孝(永祿元(一五五八)年~天正一一(一五八三)年)。伊勢神戸(かんべ)氏の養子となった。「本能寺の変」後、豊臣秀吉と結び、美濃岐阜城主となったが、後、柴田勝家らと結んで、兄信雄・秀吉を倒そうとしたが、敗れて、長良川を下って、尾張国知多郡野間の内海大御堂寺(愛知県美浜町野間大坊)に逃げたが、そこの安養院で自刃した。享年二十六。当該ウィキ同所にある墓の写真がある。]

2024/01/26

譚海 卷之六 備前高島人家五軒の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○備前國高嶋といふ所は、家、五軒ならで、住居成(なり)がたき掟(おきて)なり。古來よりの由緖ある事、とぞ。

 その家、殊の外、大厦(たいか)にて、その家の内に合住(あひずみ)して居(を)るもの、はなはだ、おほけれども、表立(おもてだつて)は、只、五軒なり。

 その人の生まれつき、かしらの體(てい)、ことごとく、平かにして、むかひ見たるときは、おしならしたるやうに、ひらなるかしら、すべてこの村の人の性質(たち)なり、とぞ。

[やぶちゃん注:この短い話、この五軒単位のそれや、そこに住む住人らが、頭が平板であるというのは、思うに、そこで親族による、近親婚が繰り返し行われていたことによる、遺伝的な頭部変形が生じているようにしか思われない。

「備前高島」岡山県岡山市中区のこの附近(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之六 井伊家士元里淸兵衞詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、標題であるが、底本では、姓の「元里」の「里」の下に『(奈)』と編者の補正注が入っている。]

 

○天和の頃、伊掃部頭殿家中に、名里[やぶちゃん注:同じく「名」の右に『(奈)』と編者の補正傍注が入っている。]淸兵衞といふもの有(あり)。

 歌よみにて、あるとき、

  都出(いで)し花の袂の露ながら

       月をぞやどすしら川の關

 掃部頭殿、此歌を聞召(ききめさ)れ、

「淸兵衞、奧州へ往(ゆき)たる事もなくして、かゝる歌をよむ、僞(いつはり)おほき事。」

とて、しばらく遠慮申付られし、とぞ。

 かばかりの事をも、今は聞(きき)とがむる主人もあらず、いと、やさしき事なり、と。

 又、淸兵衞、

「京都嶋原、出口(でぐち)の柳にて、よめる歌。」

とて、

  見かへるも見かはすかたもあらばこそ

       わかれに月のくまなきはうし

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。

「伊掃部頭殿」幕府大老で近江彦根藩第五代及び第八代藩主であった井伊直興(なおおき)。

「京都嶋原『出口(でぐち)の柳』」京都島原遊郭の大門口に植えられていた柳。]

譚海 卷之六 江戶深川土橋遊女詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○「隱遊女(かくれいうぢよ)」を召(めし)とられて、新吉原に下さるゝ事、昔は、生涯、奴(ど/つぶね)の事にてありしに、享保中、大岡越前守殿、町御奉行、勤(つとめ)給ひし時、奴に成(なり)たる遊女のよめる歌、

  はてしなきうき世のはしにすみた川

    ながれの末をいつまでか汲(くむ)

越前守殿、此歌に感ぜられて、夫(それ)より、「かくし遊女」、吉原へくだし置(おか)る事、三ケ年の年限に定(さだめ)られける、とぞ。

[やぶちゃん注:「享保中、大岡越前守殿、町御奉行、勤給ひし時」かの大岡忠相は、享保二年二月三日(一七一七年三月十五日)に普請奉行から江戸南町奉行に異動し、「越前守」を名乗って、元文元年八月十二日(一七三六年九月十六日)に南町奉行から寺社奉行に異動している。享保は享保二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元しているから、その閉区間となる。]

譚海 卷之六 江戶深川土橋遊女詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○深川土橋(つちはし)とかやいへる所に、身を賣りたる女、年をへて後(のち)、度々、主人に暇(いとま)を乞(こひ)て、

「諸國行脚に出(いで)たき。」

よしを願(ねがひ)しが、餘り、度々に及びしかば、主人も、あはれがりて、給金を損(そん)にして、願(ねがひ)の如く、暇やりければ、此女、いと、うれしくおもひて、やがて、

「立出(たちいづ)る。」

とて、

「讀(よみ)たる歌。」

とて、人の、かたりし。

  またも世にかへらん事はあらがねの

       旅路の土とならんこの身は

「歌のさまは、あやしけれど、心の思ふ所をのべけるは、殊勝なること。」

と、いひあへりける。

[やぶちゃん注:底本では、歌の上の句の初五の「またも世」の右に『(ふるさと)』訂正注を附してある。

「深川土橋」現在の東京都江東区富岡の、この永代寺門前附近にあった地名。

「損して」「チャラにして」。給金は支払わない代わりに、暇を出してやったのである。

「あらがねの」「あり難(がた)き事」に、チャラにしために年季明けにはなったものの「金がない」に掛けたものであろう。]

譚海 卷之六 松平相摸守治道朝臣室詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前の二条の

「譚海 卷之六 遠州櫻ケ池大蛇の事」

と、

「同國秋葉山權現の御事」

は、ともに既にフライング公開している。]

 

〇松平相模守治道朝臣の室は、松平陸奥守重村朝臣の女にて、母堂は近衞殿御養女なれば、和歌の道をも、常に好(すか)れたるが、殊に容色、美艷なりしかば、婚姻はじめより、夫妻、甚だ、むつまじく、妾媵(しやうよう/めかけ)のたぐひも、絕(たえ)て置(おか)れざりしゆゑ、相模守殿在所、因州へ下られける時は、達(たつ)て陪妾(ばいしやう)のものを、内室より勸られけれども、同意なくて、下向ありしに、一とせ、内室、懷胎せられけるまゝ、又、夜の伽(とぎ)に妾を置(おか)るべき事をすゝめられしかど、同じく承引なかりしを、甚(はなはだ)氣のどくに思はれ、内室、里邸(りてい)へ逗留に越され、其母堂、相談にて、召仕の中(うち)、勝(すぐれ)たる容儀の女を拵(こしら)へ、里邸より、强(しい)て勤(つとめ)られ、妾(めかけ)にせられしに、相模守殿、始(はじめ)は、なづみの色も薄かりしが、日を追(おつ)て、此妾を、專(もつぱら)、寵(ちよう)せられ、すでに在所へも召述(めしのべ)られけるほどの事也。扨、内室、出產有(あり)、月日ヘて、相模守殿、參府ありしかども、ひたすら、この妾をのみ、愛せられて、一向、内室の閨へは、入(い)らるゝ事、なかりしゆゑ、後々は、

「けしかる事。」

に、人口(じんこう)にも、いひ侍る。

 元來、内室より勤(つとめ)なされし事なれば、せんかたなき事にて、ありし。

 内室も、產後の氣味にや、腫氣(はれき)[やぶちゃん注:身体の浮腫(むく)みであろう。]、わづらひて、其上、種々のものおもひも、かさなりしにや、段々、病(やまひ)つのり、終(つひ)に、寬政四年の夏、卒去(そつきよ)有(あり)。

 誰々も、

『あへなき事。』[やぶちゃん注:どうしようもない。がっかりだ。]

に、おもへど、かひなくて、後(あと)のわざ、取(とり)まかなひなどするに、臥蓐(がじよく)[やぶちゃん注:病床の寝具。]を取(とり)のけ見れば、其下に、一首の歌を、内室手跡にて、書(かき)殘されたる、ありけり。

  むすびてもかひなき物を玉のをの

     行末ながくなど契(ちぎり)けん

是を見付たるにつけて、

「一入(ひとしほ)、あはれなる事。」

に、人、語り傳へたる、とぞ。

[やぶちゃん注:「松平相模守治道朝臣」底本の竹内利美氏の後注に、『鳥取藩主池田治道』(明和五(一七六八)年~寛政一〇(一七九八)年)。『明和三年生』(ママ)。『天明三』(一七八四)『年襲封、相模守となった。その室が』本篇の「松平陸奥守重村朝臣」『仙台藩主伊達重村の女』(むすめ)『で、彼女の母は近衛准后内前の養女なのだというのである。しかし、近衛氏養女は父重村の正室で、彼女の生母は安田氏と、「寛政重修諸家譜」にはしるしてある』とある。当該ウィキにも、正室生姫(「いくひめ」と読んでおく)は伊達重村の娘とあり、寛政二(一七九〇)年、『正室・生姫と婚姻する。寛政』四『年』、『生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず』、『鳥取藩江戸藩邸で死去した。この長女・弥姫は薩摩藩主』『島津斉興の正室となり』、『島津斉彬の生母となった』とある。

「里邸」普通は、公卿が内裏に対して市中に持った私邸を指すが、ここは妻の養父母の屋敷を指している。]

譚海 卷之六 京都町人おはん・長右衛門を殺害せし盜人刑せられし事(おはん長右衛門心中物語實說)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前条の「勢州二見浦津浪の事」は、既にフライング公開している。

 標題の「殺害」は古式に「せつがい」と読んでおく。]

 

○今年、京都より歸鄕せし人の物語せしは、

「そのかみ、京都にて、おはん・長右衞門とて、『心中淨るり』に作りて、もてはやせしは、誠には、心中にて死(しし)たるには、あらず。

 長右衞門といふ商人(あきんど)あり。有德なるものにて、鄰家に『おはん』といへる娘ありけるを、幼稚より可愛がりて、娘の如くせしが、ふと、出來心にて、渠(かれ)と密通せしに、おはん、すでに懷姙せしかば、その身は、四十に及び、おはんは、十六、七歲のもの、殊に長右衞門は、妻子もある身のうヘの事ゆゑ、かたがた、外聞を、いとひて、長右衞門、おはんを召(めし)つれ、ひそかに出奔して、攝州のかたに赴(おもむか)んとして、桂川のわたりにかゝりけるに、長右衞門、金子貳百兩、懷中して居《をり》たるを、わたし守、ひそかにしりて、渡守、兩人いひあはせて、長右衞門・おはん兩人を殺害(せつがい)し、金子を奪取(うばひとり)たるを、かく、心中のやうに、いひふれたる事也。

 然して後(のち)、此わたし守、金子を両人にて、わかちとり、各(おのおの)、京都へ出(いで)、商賣をかせぎけるに、幸(さち)ありて、相應の身帶[やぶちゃん注:「身體」に同じ。]になりて居《ゐ》たりしを、しる人、さらになかりしに、壹人の渡守、病氣にて、臨終におよぶとき、その子供、壹人を、まねきて、ひそかに始終を、ものがたりして、兩人、商賣にかゝりたる時、互ひに、

『子孫にいたるまで、もし、いつれ[やぶちゃん注:ママ。「いづれ」。]にも不如意に成(なり)たらば、合力(かうりよく)みつぎ、つかはすべき約束なる。』

よし、かたりて、死(しし)たり。

 其後(のち)、此子ども、甚(はなはだ)不行跡(ふぎやうせき)にて、親のゆづりあたへし所帶、ほどなく、放埒(はうらつ)につかひ崩し、朝夕のけぶりも、たてかぬるほどに成(なり)しとき、親の遺言を、おもひ出して、同類の渡守、紙商賣して、有德にくらすもののかたへ行(ゆき)て、遺言の次第を、ひそかに、のべて、無心いひければ、紙屋も止事(やみこと)を得ず、少々の金子、合力せしに、又、この子ども、放埒に、つかひはたして紙屋へ行(ゆき)、無心いふ事、數ケ度(すかど)に及び、もはや、紙屋にても、あひしらひあしく、合力も、つかはしくれざるほどにいたりしを、此子ども、いきどほりを、ふくみて、公儀へ、右の次第、訴へせしかば、紙屋は、早速、召(めし)とられ、その子供をも、併(あはせ)て、町中ひきまはし、梟首にせられける。

 あさましき事也。

 長右衞門を殺せし年より、此年まで、三拾八年ありて、盜人(ぬすつと)、露顯せし。」

と、かたりぬ、

 天罰、のかれざる事、恐るべし。

[やぶちゃん注:「今年」寛政七(一七九五)年。

「『心中淨るり』に作りて、もてはやせし」は私の好きな浄瑠璃の世話物(恐らく、三度は見ている)「桂川連理栅(かつらがはれんりのしがらみ)。菅専助作の二段物。安永五(一七七六)年、大坂北堀江座で初演。先立つ十五年前の宝暦一一(一七六一)年、京都の桂川に十四、五の娘と、五十男の死体が流れついた巷説を元に脚色した文楽。信濃屋の娘お半と、隣家の四十男の帯屋長右衛門とが、伊勢参りの石部の宿での契りから、お半は懐妊、二人が桂川で心中する筋である。

「三拾八年」不審。数えとしても、三十五年前である。]

譚海 卷之六 讚岐風土の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○讚岐は暖(あたたか)なる事、江戶に倍せり。重陽(ちようやう)[やぶちゃん注:旧暦九月九日。既に季秋である。]に、綿入、着用しがたし。只、袖口にばかり、綿を入(いれ)て袷(あはせ)にて用(もちふ)る也。

 霜月中(ちゆう)に、梅花、開落(かいらく)す。正月には、菜の花など、みな、ひらけり。

 讚岐に「佛生山」といふ有(あり)、水戶讚岐守殿、靈屋(みたまや)有(あり)。

 そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)。

 高松の城下より、八嶋へ、壹里、有。八嶋には南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺也[やぶちゃん注:底本に編者傍注があり、『有カ』とする。]。殊の外、景色よき所也。

 その山の周圖には、平家の公達(きんだち)の石塔、あまた、あり。近來(ちかごろ)、佐藤次信[やぶちゃん注:底本に「次」に編者傍注があり、『(繼)』とある。]の石塔、幷(ならび)に、石碑の文など、領主より、えらみ立(たて)られける、とぞ。

 八嶋の海濱、卽(すなはち)、東の方は「壇の浦」なり。西の方は「むれ」といふ。「だんのうら」に、那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり。盬(しほ)[やぶちゃん注:「潮」。]のひるときは、見ゆる。潮、きたれば、かくるゝなり。

 八嶋寺のうしろは、毛氈(もうせん)を敷(しき)たるやうに、草、みじかく、たひらかに、よき地也。こゝにのぼりて見れば、高松の城、目下に見ゆ。

 その北の海邊に、さし出(いで)たる岩あり、「獅子の靈岩石」といふ奇石なり。

 又、丸龜より「だんの浦」へは、七里あり。

 崇德院の御跡(みあと)を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有。

 又、「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有。

 さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山(ごけんざん)」・「象頭山(ざうづさん)」・「飯(いひ)の山」などいふもの也。

 「飯の山」は富士山に似たり。西行上人の歌とて、

   さぬきにてふじとやこれをいひの山

       朝げのけぶりたゝぬ日もなし

と、いひ傳へたりとぞ。

 又、さぬきに「彌谷(いやだに)」といふ寺、有。山中にて、石に、皆、佛像を、ゑり付(つけ)てあり。その奧の山の絕頂の岩に、おびたゞしく、梵字、ほりて有。人力のおよぶわざに見えず。その石屛風を立(たて)たる如き、見物なり。

 寺は、山の八分めにあり、梵字のある所は夫(それ)より絕頂までに有。

[やぶちゃん注:「佛生山」「水戶讚岐守殿、靈屋有」香川県高松市仏生山町(ぶっしょうざんちょう)にある讃岐国高松藩藩主松平家の墓所(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。「般若台」(はんにゃだい)と呼ぶ。「そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)」とあるが、現存するのかどうかは、不明。一般人の墓地と一緒になっているとあるから、写真不可とも思えないが、ネット上には、木像群の写真は、ない。

「八嶋」「南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺」これは、南面山千光院屋島寺の誤り。ここに現存する。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の解説によれば、『天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ』、五『度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝』五(七五三)年に『苦難のすえ』、『鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で』、『山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち』、『和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し』、『初代住職になった』。弘仁六(八一五)年、『弘法大師は嵯峨天皇』『の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている』とあった。

「佐藤次信」(繼信)「の石塔」「石碑の文」佐藤継信(久安六(一一五〇)年?/保元三(一一五八)年?~元暦二(一一八五)年)は源義経の家臣。「源平盛衰記」では「義経四天王」に数えられている。「狐忠信」で知られる佐藤忠信の兄で、奥州藤原氏の家臣佐藤基治の子。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、その「嗣信最後」の項には、「平家物語」巻第十一「嗣信最後」での『継信の最期の様子』が、以下のように略述されてある。「屋島の戦い」に『おいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は』、『弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り』、『手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが』、『心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは』、『元より』、『期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です』。」『と答えて亡くなった。義経は』、『鎧の袖を顔に押し当て』、『さめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒』(たゆうぐろ)『という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた』とある。この「石塔」(墓)と「石碑の文」は、ここに現存する。サイド・パネルの画像を見られたい。なお、本来の墓は、馬(そこでは「太夫黒」とする)とともにここ(香川県高松市牟礼町(むれちょう)牟礼)にある。

「壇の浦」長門の平家滅亡の「壇ノ浦」とは別。紛らわしいので、私は「屋島檀の浦」と呼ぶべきであると思っている。ここ。現在は浦の奥部分が干拓されてしまっており、往時の面影はない。

『那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり』「與市」は後代の琵琶曲の語り物その他での表記にはある。正しくは「與一」である。「扇の的」はここで、那須与一が馬を乗りこして矢を放った岩礁は「源平合戦の駒立岩」はここ。正直、干拓されて、ショボ過ぎる。実際の射た距離は約七十五~七十七メートルとされるが、以上の場所は五十五メートル弱しかない。

「高松の城」ここ

「獅子の靈岩石」「獅子の霊巌展望台」附近だが、サイト「Tripadvisor」の「獅子の霊巌石の標識と展望台」skyt2831さんの投稿に、『展望台の』「れいがん茶屋」『の基礎となっている岩体です。石の標識はあるものの、岩体自体は、展望台から降りることができず、周辺から形状も見ることができないため、どのようなものか見ることができません。なお、展望台からは、屋島で有名なかわら投げをすることができます』とあった。そこにある画像を見るに、確かに、「獅子靈岩」と彫られたものらしき石柱はある。

「丸龜」香川県丸亀市

『崇德院の御跡を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有』この「白鳥明神」は「白峰明神」の誤りであろう。現在の香川県坂出市西庄町(にしのしょうちょう)弥蘇場(やそば)にある。少なくとも、現在は丸亀市内ではない崇徳院の関連地を複数ドットした地図を掲げておく丸亀市内には崇徳関連跡は、全く、ない。

『「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有』思うに、正式に行宮(あんぐう)として檀ノ浦に置かれたそれは、現在の安徳天皇社附近である。それ以前に、一時期、置かれた初期の行宮は、檀ノ浦の湾奥のここに総門跡がある。

『さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山」・「象頭山」・「飯の山」などいふもの也』「五嶽」は本文が誤魔化しているように、名数がよく判らない。「ひなたGPS」で「象頭山」をポイントしておいた。「五岳山」が善通寺市内にあるが、ここに出る三つの山とは一致しない。最初の「五劍山」が五つのっピークを持つ「五岳山」であろうと推定はするが、どうも調べる気にならない。どうぞ、ご勝手に五つ数えて下さい。

「飯の山」飯野山。確かに「富士山に似た」かなり綺麗なコニーデだ。

「西行上人の歌」「さぬきにてふじとやこれをいひの山朝げのけぶりたゝぬ日もなし」整序すると、

   *

 讚岐にはこれをや富士といひの山

  朝げの煙(けぶり)たやぬ日ぞなき

   *

伝承の域を出ない。「山家集」にはない。こちらの「西行の歌伝説」には、『巡検使鈴木氏』の『歌に同様の歌あり』とあった。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の『西行の歌と伝えられる「讃岐にはこれをば富士といいの山 朝げ煙たたぬ日はなし」の初出などについて<飯野山(讃岐富士)・西行・玉藻集>』の質問に対する答えに、「讃岐名所歌集」(赤松景福著・高松・上田書店・一九二八年刊)の「第十三 飯山」の項に『飯山はイヒノヤマといふ。綾歌郡坂元村にあり。海抜二百四十四尺、平野間に突立し四面より之を望むに端麗なり。昔より讃岐富士の称あり。此山は登覧を労せず、西讃途上よく眺めらるる。玉藻集六。

  さぬきにはこれをやふじといひの山朝けの煙たゝぬ日ぞなき

此歌西行法師四国修行之時歌とあり。全讃史十二、名勝志。飯の山(川津二村坂元に跨れり)国の中央に有て其の形富士山に似たり。讃岐富士と云。巡検使鈴木氏歌「讃岐には是をや富士と飯の山朝けの煙立たぬ日はなし」とあり。(結句何れにてもよし)西行山家集には此歌見えず。幕府代替毎に来讃せし巡検使姓名を見るに鈴木はなし。但し延享三年(家重)寛政元年(家斉)両度の人不明なり。或は其内か。』とあった。

『さぬきに「偏谷」といふ寺、有』香川県三豊(みとよ)市三野町(みのちょう)にある真言宗善通寺派大本山剣五山 (けんござん)千手院弥谷寺(いやだにじ)。公式サイトのこちらによれば、『奥之院 獅子之岩屋』として、『大師堂の堂内奥にあり、岩屋の入口が獅子の咆吼に見える事から獅子之岩屋と呼ばれ、難儀をはらい』、『身心を清浄にしてくれるといわれています』。『奥之院本尊は厄除大師、両脇に母君・父君、岩肌に摩崖仏が修行僧(伝・空海)により刻まれています』とあり、『願掛け地蔵(お水まつり)』として、『弥谷山では、水場の洞窟が神仏の世界(須弥山)への入口として信仰されたといわれ、修行僧により刻まれた磨崖仏や修行の洞窟が今も山内にまつられています』とあって、小さな写真が挙げられてあるが、そこにはっきりと梵字の刻印が確認出来る。]

譚海 卷之六 播州大阪羽州へ海路の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○播州大坂より、羽州土崎湊(とさみなと)まで、北𢌞りせし人のいひしは、

「海路五百六拾里也。北廻りの船は、みな、讚岐の金毘羅權現へ參詣する也。

 扨(さて)、安藝の竹原に船をよせて、鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也。

 夫(それ)より、長門下の關にかゝり、北海に、おもむく。

 さぬきまでは、磁石を申酉[やぶちゃん注:東北東。]と取(とり)、下の關へは戌亥[やぶちゃん注:北西。]と取、北海に成(なり)ては、全く、丑寅[やぶちゃん注:東北。]と取て行(ゆく)也。

 長州までは、島々の間(あひだ)を乘(のる)事、常の事也。

 北海に成ては、島、甚(はなはだ)すくなし。

 隱岐の國を見る計(ばかり)にて、靑島を目あてに乘(のり)、佐渡をめあてにして、出羽へ着(つく)也。

 北海には、潮(しほ)のわく處、所々にあり、潮汐のさし引(ひく)に、たぐへず[やぶちゃん注:一致することなく。]、常に、わく事にて、其所(そこ)を乘過(のりすぐ)る時は、船の鳴(なる)事、殊の外、おひたゞしき音也。潮のわく所は、壹町[やぶちゃん注:百九メートル。]か、二、三町を限りて、わづかの間(あひだ)也。

 北海は、すべて、海より、陸地は、ひくし。殊の外、海は高きやうに覺ゆるなり。海上を乘(のる)船ば[やぶちゃん注:ママ。底本にはママ注記はない。国立国会図書館デジタルコレクションの底本不詳(但し、国立国会図書館蔵本に概ね従っているらしい)の大正六(一九一七)年国書刊行会刊本でも同じである。しかし、「ば」では躓く。「は」の誤記であろう。]、各自、勝手に乘(のる)事にて、一所に漕(こぎ)つるゝ事は、なき也。[やぶちゃん注:二隻以上の廻船が並びあっていることがあっても、それぞれの船は独自に航海し、伴走・併走することはないということであろう。]

 海上にては、風にまかせ、船を乘るゆゑ、風にむかへは[やぶちゃん注:ママ。こここそ「ば」であるべきところであろう。]、船を、跡先に、まはして、風にまかせてのるゆゑ、おほくは眞直(まつすぐ)に、のる事、なし。常に斜(ななめ)にのる也。

 海舶の船頭には「水先(みづさき)」と云(いふ)者、給金、殊に多く取(とる)也。晝夜、船の先に居《をり》て梶を取(とり)、帆の上げおろしを指圖する也。よく海上に馴(なれ)て、島・洲(す)・崎・海の淺深(せんしん)を知(しり)たるゆゑ、みな、此(この)「水先」の指揮に任(にん)ずる也[やぶちゃん注:任(まか)すのである。]。

 船の梶は、船のさきより、へ[やぶちゃん注:ママ。不審。船尾は「艫・舳」(とも)で「へ」とは呼ばない。]まで、とほりたる長き木を通して、それに梶を付(つけ)て取扱ふゆゑ、船のさきに居《をり》て、梶をつかはるゝ樣(やう)にせし也。

 日の出・日の入(いり)ほど、船中にて、おもしろき事はなし。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「羽州土崎湊」現在の青森県五所川原市十三古中道(じゅうさんふるなかみち)に十三湊遺跡がある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「北𢌞り」ウィキの「北前船」に詳しいが、生憎、航路地図がない。サイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に載るものを私は参照して、次注を附した。

「五百六拾里」二千百八十四キロメートル。当時の航路に即して地図上で北廻り海路の距離を測ったが、確かに二千キロになんなんとするものであった。

「讚岐の金毘羅權現」香川県仲多度郡琴平町(ことひらちょう)にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、十九世紀中頃以降は、特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師・船員など海事関係者の崇敬を集めている。

「安藝の竹原」広島市竹原市

「鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也」前記のサイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に『諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました』とあった。

「磁石」方位磁針。羅針盤。ネットのQ&Aの回答によれば、十一世紀にシルク・ロードを経て西方から中国に伝わった。本邦に伝来した時期は正確には判っていないが、当時の日本と中国大陸間の商人の往来を考えると、左程、時を置かずに、日本に伝わった可能性が高いとある。但し、日本では、暫くは航海に使われた形跡がない。恐らくは、造船技術が発展せず、欧州などのように遠洋航海が、なかなか出来るようにならなかったので、需要がなかったためと考えられる。本邦で羅針盤が積極的に使用され始めたのは、江戸時代、まさに北前船が現われて、日本海の沖を、少しだけ、遠洋航海するようになってからであった、とあった。

「靑島」この場合は、固有名詞としての島の名ではなく、そこここの樹木の茂った無人島、或いは、岩礁の大きなものを指すように思われる。当初、現在、韓国が実効支配している竹島を考えたが、同島が「青島」と呼ばれていた事実を確認出来なかったので、それとはしない。しかし、中国地方の北で直北へ航路が遷移しそうになる際には、竹島が航海のズレの目標とはなろう。

「潮のわく處」これは北からの寒流である「リマン海流」と南からの暖流鵜島海流がぶつかる部分を指していよう。日本海の北と南の二ヶ所で、両海流はせめぎ合う潮目を成すからである。]

2024/01/25

譚海 卷之六 猿樂謠放下僧實說の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○天正の比(ころ)、牧野左衞門といふ人は、下野(しもつけ)の國那須郡(なすのごほり)牧野の莊(しやう)の主(あるじ)にて、牧野の館主と稱せしが、沒落して武州忍(おし)の城主成田下總守(しのふさのかみ)に寄食せしが、下總守は小田原の北條の幕下に屬し、成田の烏山の城へ移りけるとき、牧野左衞門も伴(ともなひ)て行(ゆき)たるが、天正三年、牧野左衞門、箱根の溫泉に入湯せし砌(みぎり)、そこにて戶根の信俊といふものと口論して、左衞門は討れける。

 左衞門の子供、二人有(あり)、兄を賴寬と云(いひ)て、山伏にて有(あり)けるが、弟の小次郞賴明と云(いふ)者、親の讐(かたき)を復(ふく)せんため、兄の賴寬と供に、放下僧(はうかそう)となりて、所々を經廻(へまわ)し、伊豆の三嶋にて、戶根の信俊に逢(あひ)て、親のかたき、うちたり。

 是、世にいふ「放下僧(はうかざう)」のうたひの實說也。

 扨(さて)、

「親の讐を復せし事、ひとへに、藏王權現へ祈誓せし加護也ける。」

よしにて、兄弟共に、又、山伏になりて、今に聖護院宮(しやうごゐんみや)の支配にて、行事といふ役僧にて有(あり)、其(その)下野國牧野の館(たち)の跡をば、寺になして、「牧野山三學院」と號して、今、猶、舊跡、殘りたるといふ。

[やぶちゃん注:「天正」一五七三年(ユリウス暦)から一五九三年(グレゴリオ暦)まで。

「下野の國那須郡牧野の莊」現在、牧野の地名がないが、旧那須郡は栃木県北東部の広域であるので、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)に存在した。而して、後注する牧野家について調べるうちに、栃木県那須烏山市金井にある「牧野山三學院」歴代墓地があることが確認出来た浄土宗善念寺が後裔と判った。

「武州忍の城主成田下總守」成田長泰(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)。忍城(おしじょう)は埼玉県行田市本丸にあった。

「成田の烏山の城」長泰の子の成田長忠(泰親)が入った、現在の栃木県那須烏山市城山にあった烏山城

「天正三年」ユリウス暦一五七五年。

「放下僧」僧形で放下(ほうか:田楽から転化した大道芸で、品玉(しなだま:手玉や短刀を空中に投げて巧みに受け止めるもの)・輪鼓(りゅうご:空中で回す独楽(こま)芸)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などを謡ったもの。室町中期に発生し、明治以後には名称は絶えたが、その一部は寄席芸・民俗芸能として今日に伝わる)を演じた大道芸人。

「放下僧のうたひ」ここの場合は能の曲目「放下僧」(ほうかぞう)を指す。四番目物。現在物。作者不明。宮増(みやます)作ともいう。シテは牧野小次郎の兄。牧野小次郎(ツレ)の父が口論の結果、殺害されたので、小次郎は禅門に入っていた兄の僧(シテ)を訪れて説得し、敵討(かたきうち)を計画する。敵の利根信俊(とねののぶとし)(ワキ)が瀬戸の三島に参詣に出たので、兄弟は大道芸人の放下僧(放下)になりすまして信俊に近づき、言葉おもしろく禅問答を交わしたりして取り入り、道中の供を許される。そして「曲舞」(くせまい)・「太鼓踊」・「小歌」などのさまざまの芸を演じて見せ(「クセ」・「羯鼓」・「小歌」)、すきをうかがって、望みを果たす。能「望月」(もちづき)と同じく、敵討の手段という形で芸尽しを見せる能。禅問答の部分も一種の話芸として「芸尽し」の一環をなす。クセ・羯鼓と続いたあとの、俗に「小歌」と称する部分は,他の能にない特殊な作曲形式だが、狂言でいう小歌節ではない(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。小原隆夫のサイト内の「放下僧(ほうかぞう)」のページが、解説・本文ともに充実している。

「聖護院」現在、京都市左京区にある本山修験宗の大本山。四世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入ってより、宮門跡となり、室町時代から、天台宗修験道の山伏を統轄した。]

譚海 卷之六 備前より藝州海路おんどの迫門の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○備前の沖より、安藝(あき)へ船路(ふなぢ)の際に、「おんどの迫門(せと)」と云(いふ)所有(あり)。備前の陸つゞきの山を、きりわりて、五十町、たゞちに安藝へ、かよふやうに、かまへたるにて、大船の通行、さまたげず、といふ。

 是は、昔、平相淸盛、嚴嶋(いつくしま)參詣の爲に開(ひらき)たる道とて、中々、人力のなすべぎわざとも見えず、大莊(たいさう)なる興行なり。

 此道なければ、沖をまはるときは、三里にとほき道なるを、五十町、内海(うちうみ)を通行するゆゑ、今にいたつて、船人共、相國の德を口碑にする事とぞ。

[やぶちゃん注:「おんどの迫門」「音戶の瀨戶」は広島県呉市にある本州陸側と倉橋島の間に存在する海峡。当該ウィキによれば、『この瀬戸とは、海峡を意味する』もので、『ほぼ南北に伸びる海峡で南北方向約』一キロメートル、『幅は北口で約』二百『メートル、南口の狭いところで約』八十『メートル』である。『瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路であり、平清盛が開削したという伝説や』、『風光明媚な観光地として知られている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は行ったことはないが、ラドンがソニック・ブームで壊したことは知ってるぜ。

「五十町」五・五四五キロメートル。]

譚海 卷之六 房總行程幷七里法花・今井釜の神・きさらづ石像五百羅漢等の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○房總、陸地、江戶より「きさら津」へ、陸は十八里、船にては十三里、それより、陸行(りくかう)にて、「かなふ山」へ四里、「關」へ二里半、「小塚」へ二里、是、嶽州の中央なり。是迄は、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]有(あり)。

 「小塚」より、南邊(みなみあたり)、濱路に成(なり)て、逆旅、なし。

 同所、「長さの栅(さく)」ヘは、「かなふ山」より、「砂村」・「まへ原」・「濱荻」といふ村をへて、「甘津」といふへ、分れて至るなり。

 南うらの道路は「淸すみ」・「小みなと」などへ出(いづ)る。

 是より東に「七里法華」と云(いふ)有(あり)、みな、日蓮宗のみ住所(すむところ)の村にて、六部(ろくぶ)のものなど過(すぎ)ても、その跡を箒(はふき)にて、はくごとくに、いみきらふ風俗也。

 又、「きさらづ」よりも外(そと)に、南海へゆく道路あり、此濱路、あひだあひだに、宿、まじりてあり。「小濱」・「幡澤」・「人見」・「大塚」・「ふつ津」・「八はた」・「天神山」・「今井村」・「ひやくし」、此(この)「百子(ひやくし)」は、はんじやうの町なり。「ふつ津」は、あら海の際(きは)なり。

 「今井村」に「釜の神」と云(いふ)あり、大(だい)なる鐵の釜のふた也。わたり、六尺ばかり、厚さ、五寸七分ほどにて、ふたつにわれてあるを、神にまつりたる也。むかし海中にありしときは、海、あれて、漁獵なかりしかば、取あげて鎭守とせる、とぞ。

 此へんより、日本寺の羅漢へ、ちかし。近來の製にて、石にて五百羅漢をゑりて、山中に充滿せり。みな、岩石をかたどり、洞口(ほらぐち)にえりたるなどにて、みな、丈(じやう)よのもの也、とぞ。

[やぶちゃん注:「きさら津」現在の千葉県木更津市(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「かなふ山」千葉県君津市にある鹿野山(かのうざん)。標高三百七十九メートル。旧上総国(千葉県中南部)の最高峰。

「關」千葉県富津市関

「小塚」千葉県鴨川市金束(こづか)であろう。

「嶽州」房州の山岳地帯の意か。

「長さの栅(さく)」これは現在の県道三十四号の長狭(ながさ)街道のことか。

「砂村」不詳。以下の順列から、前原の南方の海岸にある千葉県鴨川市磯村ではなかろうか。

「まへ原」千葉県鴨川市前原

「濱荻」千葉県鴨川市浜荻(はまおぎ)。

「甘津」千葉県鴨川市天津(あまつ)。

「淸すみ」千葉県鴨川市清澄(きよすみ)。

「小みなと」千葉県鴨川市小湊

「七里法華」小学館「日本国語大辞典」によれば、「七里ごとに法華の寺がある」の意で、千葉県の大網白里(おおあみしらさと)市や、東北で接する東金市附近には、極めて日蓮宗の信者が多いことを言う語で、単に「七里」とも言う、とあった。

「六部」は「六十六部」の略。本来は全国六十六か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に専ら、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称「回国行者」とも称した。本邦独特のもので、その始まりは聖武天皇(在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)の御代からとも、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)の法華経書写を始めとするとも、もっと後の鎌倉初期ともされて定かではない。恐らくは鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿の着物に同色の手甲・脚絆・甲掛(こうがけ:足の甲に掛けて日光や埃を避ける布)・股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」を参考にした)。後には巡礼姿で米銭を請い歩くのを目的とした乞食も、かく呼んだ。「法華経」崇拝ではあるが、元々は真言宗系から派生したものであるため、日蓮宗徒は排斥するのである。そのそも日蓮宗はファンダメンタルな傾向が強く、中でも、最も過激な不受不施派(「不受」は他宗の信者や未信者から供養・施物を受けないことで、「不施」は他宗の僧に布施供養をしないことを指す)は江戸時代も禁教であった。

「小濱」千葉県木更津市小浜(こばま)。

「幡澤」千葉県木更津市畑沢(はたざわ)であろう。

「人見」千葉県君津市人見

「大塚」不詳。君津市には大塚山があるが、順列からは、南東に片寄り過ぎになる。

「ふつ津」千葉県富津市の市街地。

「八はた」千葉県君津市八幡(やわた)。

「天神山」千葉県富津市海良(かいら)にある天神山城跡附近か。

「今井村」「釜の神」一の順列が大きく北へ変わるが、現在の千葉県袖ケ浦市今井にある神明神社ではないか? この神社は現在も「湯立神事」が行われており、境内に置かれた大きな釜に湯を沸かし、そこへ隈笹を浸して、参詣者に振りかけ、疫病退散を祈願している。作者の津村は、実際に自身で踏破して書いた記事は少ない。本篇も聴書に基づくものであろうと思われ、こうした齟齬があっても、私は不審ではない。

「ひやくし」「百子」不詳。識者の御教授を乞う。

「日本寺」千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)元名(もとな)にある曹洞宗乾坤山(けんこんざん)日本寺にある県指定名勝である「東海千五百羅漢」がある。]

譚海 卷之六 明朝慈聖大后佛法歸依の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「目錄」の標題中の「大后」はママ。]

 

○明の慈聖太后は、佛法、信仰にて、此ごろ、其自畫讚の魚藍觀音(ぎよらんかんのん)をみたりしに、畫法、氣韻とも備(そなへ)たる事なり。

 其讚は、

「大士應跡普濟基生、串錦就市飄然浪行、聖世廣運※能石流通、以綜國祚億萬斯齡。」

とあり。[やぶちゃん注:「※」は「𣃕」の(へん)の(くさかんむり)の下を「單」に代えた字。]

 石本(せきほん)[やぶちゃん注:石摺りの拓本。]にもせし事と見えたり。

 此太后、唐山に殘りある嵯峨釋迦の本像をも、金箔に、だみられたるよし、「帝京景物略」といふ書にも見えたり。

[やぶちゃん注:この一条、「讚」も読めず、「唐山に殘りある嵯峨釋迦」も判らないので、ろくな注が全く出来ない。悪しからず。

「慈聖太后」明の隆慶帝の妃嬪で万暦帝の母であった孝定太后(一五四六年~一六一四年)。姓は李氏。一五六七年に皇貴妃に封じられ、万暦帝が即位すると、慈聖皇太后と尊称された。財貨を喜び、仏教を尊崇した、と当該ウィキにある。

「魚藍觀音」当該ウィキによれば、『三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。中国で生まれた観音の一つで、同じ三十三観音のひとつである馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされる』。『唐の時代、魚を扱う美女がおり』、「観音経」・「金剛経」・「法華経」を『暗誦する者を探し、めでたくこの』三『つの経典を暗誦する者と結婚したが』、『まもなく没してしまった。この女性は』「法華経」を『広めるために現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された』。『形象は、一面二臂で魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがある。日本ではあまり単独で信仰されることはないが、東京都港区の魚籃寺、三重県津市の初馬寺、千葉県松戸市の万満寺、滋賀県長浜市木之本町古橋(旧鶏足寺)、長崎県平戸市生月町(生月観音)などにある』とあった。

「だみられたる」「だみ」は「だむ」「彩む」で「彩色する・いろどる」の他に、「金箔や銀箔をはる」の意がある。

「帝京景物略」劉侗(りゅうどう)と于奕正(うえきせい)によって編纂された書で、主に明代の北京の地理・寺院・自然・習俗などを録したもの。一六三五年(明の崇禎八年)の冬に刊行された。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に板本があるが、前記の通りで、調べる気にならない。]

譚海 卷之六 京都祇園住人大雅堂唐畫の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「唐畫」は「からゑ」。]

 

○京師に大雅堂といふ唐畫師(からゑし)、有(あり)。祇園茶店の女「ゆり」が娘の「らん」と云(いふ)が夫なり。

 家(いへ)、畫(ゑ)を、妻にも敎へて、唐畫を書(かき)習ける故、「玉蘭」と號するは、此(この)「らん」が事也。

 一年、黃檗山書院の畫、西湖の景を、大雅堂にかゝせけるに、あらゆる華本の西湖の圖をあつめて、眞を模し書(かき)たるゆゑ、筆蹟、華人にをとらず、一木一石までも、見つべき事なり、とぞ。

 さて、

「そのふすまの裏へ、何ぞ畫を。」

と、このみけるに、「五百羅漢の圖」を書(かく)べく思ひて、當時の博識にも談合せしに、

「只、平生(へいぜい)、枯得[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「感得」か。]したるまゝを、そのまゝに書(かき)たるが、よろしかるベし。」

と、了簡、定りて後(のち)、筆を下(おろ)しける。

 羅漢二百人は雲中飛行(うんちゆうひぎやう)の體(てい)、又、二百人は陸行(りくかう)の體、又、百人は水をわたる所を書(かき)たり。

 人物、すべて、豆の如く、四枚のふすまに、五百の羅漢、書縮(かきちぢ)めたる事、甚以(はなはだもつえて)奇特(きどく)なり。

「此書院襖(ふすま)の畫、大雅堂家、生涯の快筆也。」

と自讃せし、とぞ。

 大雅堂は、俗名、荒木周平といへり。

 此夫婦、和歌をも、かたの如く、詠ぜしゆゑ、冷泉前(さきの)大納言爲村卿、御門弟を願(ねがひ)しに、許容ありて、はじめて、彼(かの)家へ夫婚參謁(さんえつ)せし時、周平は木綿の淺黃布子(あさぎぬのこ)を着し、妻も賤(しづ)の女(め)のやう體(てい)にて參りたるを、めづらしき事に彼(かの)卿も思召けるといへり。

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之三 荒木周平の畫の事」も参照されたい。

「大雅堂」江戸中期の文人画家池大雅(享保八(一七二三)年~五(一七七六)年)。京都の町人として生まれた。姓は池野。号は他に九霞・九霞山樵・霞樵・玉梅・三岳道者など、頗る多い。堂号は待賈堂(たいかどう)・大雅堂・袖亀堂など。父池野嘉左衛門(かざえもん)は、京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別し、教育熱心な母の手で育てられた。数え年七歳の時、早くも宇治万福寺十二世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)から、その能書を褒められるなど、「神童」と評判を得た。絵は初め、「八種画譜」などの中国木版画譜を通じて、独学し、十五歳の頃には、扇絵(おうぎえ)を描いて、生計の足しとするなどした。やがて、中国の明・清の新しい画法、特に「南宗(なんしゅう)画法」に傾倒して、同好の士と、本格的な研鑽を積み、大和郡山藩の文人画家柳沢淇園(きえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになった。二十六歳の時、江戸から東北地方に遊んで、得意とする指頭画(しとうが:筆ではなく、自身の指先や爪を使って描くこと)に評判をとり、帰洛後、さらに北陸地方を遊歴、二十八歳の寛延三(一七五〇)年には、紀州藩に、文人画の大家祇園南海を訪れるなど、たび重なる遠遊で、自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉を持ち、人格を陶冶した。二十九歳の時には白隠慧鶴(えかく)に参禅してもいる。この頃、祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)[やぶちゃん注:本篇の「らん」は後に示す号からの誤り。]と結婚、真葛ヶ原に草庵を結んだ。舶載された中国の画論・画譜、また、真偽取り混ぜた中国画蹟を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法に、殊に啓発されながらも、独自の作風を確立した大雅は、三十代以降、新興の「文人画(南画)派」の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものではなく、桃山以来の障屏画(しょうへいが)を始め、土佐派や琳派などの日本の装飾画法、更には、新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容・総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や、明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊な空間把握を、その良き特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した「陸奥奇勝圖卷」や「兒島灣眞景圖」、中国的主題による「山水人物圖襖(ふすま)』(国宝・高野山遍照光院)や「樓閣山水圖(岳陽樓・酔翁亭圖)屛風」(国宝・東京国立博物館)、「瀟湘勝槪圖屛風」などの障屏画、さらに、文人画家の本領を発揮した「十便帖」(じゅうべんじょう)(与謝蕪村の「十宜帖(じゅうぎじょう)」と合わせて国宝。このセットは私も甚だ偏愛するものである)、「東山淸音帖(瀟湘八景圖扇面畫帖)」(とうざんせいいんじょう)などの小品と、さまざまな主題や、形式からなる、品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史に、一際、光彩を放つものとして、評価が高い。また、篆刻家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)と、特に親密に交友し、白山・立山・富士山の三霊山を踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(「三岳紀行」)。門下に木村蒹葭堂・青木夙夜・野呂介石・桑山玉洲らを出し、さらに後進の多くに、直接・間接の影響を与えて、日本南画の興隆に大きく貢献した。なお、妻の町(まち)は玉瀾(享保一三(一七二八)年~天明三・四(一七八四~一七八五)年)と号し(本文の「玉蘭」は誤りか、別表記)、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「冷泉前大納言爲村卿」公卿で歌人の冷泉為村(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)。正二位・権大納言。上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされている。歌人としてのみならず、茶の湯も嗜み、自作の茶杓や竹花入などが現存している。当該ウィキによれば、『石野広通・小沢蘆庵・屋代弘賢など、多数の門人を擁した。父為久が徳川吉宗の厚遇を得ていた関係から、武家に多くの門人がいた』ともある。]

譚海 卷之六 宇治黃檗山佛師范道生が事 / 卷之六~始動(ルーティン仕儀)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 

 譚 海 卷の六

 

〇隱元禪師、來朝の時、范道生(はんだうせい)といふ佛師を具せられたり。

 此道生、字(あざな)は「石甫」といひ、又、「印官」とも稱せり。

 禪師、宇治黃檗山(わうばくざん)建立の時、彼(かの)寺の諸佛像は、みな、此(この)范道生の造(つくり)たる、とぞ。

 木像・塑像、或(あるい)は、紙にて張立(はりたて)たるもあり。

 神彩(しんさい)、生動(せいどう)するが如く、殊に奇工也。

 當時、本邦の佛師、皆、范道生が弟子に成(なり)て、其業(そのわざ)を習傳(ならひつた)ふる事とせし、とぞ。

 されども、道生、歸國の念、頻(しきり)にして、諸佛造立の後(のち)、本尊計(ばかり)は、其雛形も、くろみたるまゝにて、自(みづから)造(つくる)に及ばず、歸國せし、とぞ。

 其跡にて、弟子の諸佛師、雛形にもとづきて、本尊をば、造(つくり)たり。

 本尊は、丈六の釋迦にて、名工のもくろみたるゆゑ、諸像にかはらず、妙、巧(たくみ)を具したる事、とぞ。

 檗山にては、「印官」と稱すれば、小僧までも、よく知りて、口實(くじつ)にする事也。

 范道生、畫(ゑ)も奇品なるものにて、その書(かき)たるを見たりしに、本邦の草畫(さうが)の如く、人物、殊に奇怪成(なる)もの也。

 京師に唐畫(からゑ)をかけるもの共も、常に檗山にあそびて、范道生が造(つくり)たる像を觀諦(くわんてい)して、その氣韻を寫す事とせし、とぞ。

[やぶちゃん注:「隱元禪師」(文禄元(一五九二)年~延宝元(一六七三)年)は明の僧。福州の人。承応三(一六五四)年、来日。山城宇治に黄檗山万福寺を開いた日本黄檗宗の開祖。所謂、「黄檗文化」を移入し、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えた。語録「普照国師広録」などがある。

「范道生」(一六三七年~一六七〇年)は明末に生まれた清代の仏師。日本に渡来し、萬福寺などで仏像彫刻する傍ら、画もよくした。字を石甫、通称を印官と称した。福建省泉州府晋江県安海の出身。参照した当該ウィキによれば、『官に仕え』、『印官の職にあったことで印官范道生と呼ばれた』。万治三(一六六〇)年に、明の渡来僧『蘊謙戒琬』(うんけんかいわん)の『招きに応じて』、『長崎に渡来し』、『福済寺に寓居して仏像を彫った。寛文』三(一六六三)年、『隠元隆琦に請われ』、『萬福寺に上り、弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作』し、『また』、『隠元の彫像をチーク材で製作している。仏像彫刻の』傍ら、『道釈人物図などを好んで画いた。寛文』五(一六六五)年、父の『賛公』の七十歳の賀を『祝うため』、『長崎にから便船に乗って広南に帰省』した。寛文一〇(一六七〇)年(既に明は滅んでいた)に『再来日したが、長崎奉行所は入国を許可せず、木庵性瑫』(しょうとう 一六一一年~ 一六八四年:明の渡来僧。黄檗山の隠元の法席を継いだ)が、『図南や瑞峰を使いに出して調停したが』、『不調に終わる。同年』十一月二日、『船中で吐血し』、『病没』した。『享年』三十六。長崎の『崇福寺に葬られた』とある。

「草畫」略筆の絵画。水墨、淡彩で、礬水(どうさ:明礬(みょうばん)を溶かした水に、膠(にかわ)を混ぜた液。墨や絵の具などが滲むのを防ぐために紙・絹などに塗る。「陶砂」とも書く)をひかない紙に書く。特に南画に多い。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「和野の怪事」 / 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」~完遂

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 本篇を以って柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の本文は終わっている。昨年の八月十日の始動だから五ヶ月余りかかった。読者には御礼申し上げる。

 

 和野の怪事【わののかいじ】 〔北国奇談巡杖記巻三〕同国<越後>弥彦《やひこ》より一里北に、和野村<新潟県西浦原郡内>といへる小邑《こむら》あり。爰に権七といヘるものの家にてありけるが、これは神無月<旧暦十月>廿日あまり、素雪《そせつ》ふりうづみて寒気つのり、いろりに語らひ、夕暮より雑炊《ざうすい》をこしらへ、節(ほどよ)く煮えるまゝ攪擾《かきまわ》さんとしけるに、俄かに屋上鳴動して、顒山(ぎやうさん)なる手を伸《の》べ、かの杓子を奪ひとり、鍋ともに引上げてけり。家内のものども消えかへる心地して、わなゝき恐れ、倒れつるもあり、逃《にぐ》るもあり。さるほどに一村寄集りて、区々に評議し、家内へいらんとするに、砂石いづくともなく投げいだして、手足に疵をかうむり、頭にあたることしきりにして、暫時に砂石庭中をうづむ。雪中のことなれば、あたりには礫《つぶて》のあるべきやうもなかりしに、あやしき侃言(あやまち)をなし侍る。半時ばかり屋上鳴動して止《やみ》ぬる故に、強勇の若ものども進みうかがふに、もとのごとく空しき虚鍋(からなべ)炉上にありけり。その翌晩に、また茶を焚《たき》て汲《く》まんとするを、前夜のごとく鳴り出《いづ》るゆゑ、兼ねて逃げ仕度《じたく》せしゆゑ、こゝろえて走り出《いで》ける。また翌日も試むるに、以前のごとくなれば、終《つひ》に虚屋(あきや)となして、みなみな他に出《いで》けるに、何の煩ひもなし。いかなることにや。いまだ不審に侍ると、ある人語らひ侍る。

[やぶちゃん注:天狗の石礫に類似するが、実際に砂石によって怪我を受けており、さらに飲食物が食い荒らされてあることから、冬場の困窮期なれば、賤民の仕業になる擬似怪談と思われる。

「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める(左ページ二行目から)。標題は『○和野の怪事』。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「生(はえ)ぬきの地蔵」』の引用元の次の項に当たる。その条から『越後國之部』となっている。

「越後」「弥彦より一里北」「和野村」「新潟県西浦原郡内」現在、「和野」の地名は見当たらない。しかし、弥彦神社大鳥居位置から北北東に一里行った位置に、新潟県新潟市西蒲区和納(わのう)がある(グーグル・マップ・データ)ので、ここに比定する。]

 

[やぶちゃん後記:この後、「引用書目一覧表」となる。散々、各話でオリジナルに解説してきたので、電子化する積りはない。但し、中には、宵曲の底本としたものとは、異なる底本であることもある。表の中では、五十音の単音毎(ごと)に一行空けが施されてあるが、『ちくま文芸文庫』の改題版「奇異異聞辞典」では、それがない。試みに、底本を『ちくま文芸文庫』のものと子細に比較してみたところ、底本では、「か行」(上記リンク先下段)に(字空けは再現していない)、

   *

海 録│山崎美成│文政~天保│国書刊行会本

   *

の一条が抜けていることが判った。因みに、一覧に掲げられた引用書は(同一作者の続篇等も一つと数えている)、「海録」を加えて、全百七種に及ぶ。

 次いで、奥付の前のページからページ逆方向で「索引」がある。これは、項目は総てで、それ以外に『文中のもので特に重要と思われるものも摘出』してあり、怪奇談好きには、使い勝手がよいものである。

 最後は奥付(「索引」の左ページ)。完全電子化は省略するが、上段の右に張られた版権所有紙に朱の「柴田」の認印があり、その左端に、『編者略歴』と標題して

   *

 明治三十年東京生まれ。
著書に「蕉門の人々」「子規
居士」「子規居士の周囲」
「古句を観る」などがある。

   *

とある。この内、「蕉門の人々」と「子規居士」は私のカテゴリ「柴田宵曲」で既にオリジナル電子化注を終わっている。因みに、私が今後、手掛けようと考えているものは、「古句を観る」である。以下(年月日に漢数字は底本では半角。編者名には珍しくルビがある)、

   *

初版発行 昭和二十六年一月三十一日

             定価八八〇円

  編 者 柴 田 宵 曲

   *

以下、発行者・印刷所・製本所、そして発行所住所と株式会社『東京堂』(電話・振替番号附き)とある。

 また、奥付の下方に太い横罫が引かれて、その下に、太字で(字空けは正確には再現していない)、

   *

 随 筆 辞 典 奇 編    ©1961

   *

とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鰐退治」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 

 鰐退治【わにたいじ】 〔梅翁随筆巻一〕志摩鳥羽より二里ほど辰巳[やぶちゃん注:南東。]の方にあたり、浦村といふ所あり。当所富士権現の境内は、風景無双の所なりといへども、海道筋ならねば、その名さへしるもの多からず。若しこの辺に遊ぶ人あらば尋ね行きて、その絶景を詠(なが)むべし。この村のものに浅六といふもの有り。大坂に所用有りて行き、江戸廻船の便船にて帰るとて、熊野浦へかゝりし時、海中に船すわりて、いかにすれども少しも動かず。これは鰐の見入りたるなるべし、銘々一品《ひとしな》づつ海へなげ入れ、鰐のその品をのみたるもの入水《じゆすい》すれば、残るものどもつゝがなく著船すべしとて、銘々投入れこゝろみるに、浅六が投げたる品をのみければ、是非なく海中へ飛入りける。さりながらこのまゝにて死《しな》んもあまり本意《ほい》なければとて、脇ざしを抜き持ちて入りけるを、鰐一口に吞みける時、腹の中にて切先《きつさき》の当りし所を幸ひ、力にまかせて切破れば、難なく鰐の横腹を切り抜きける。鰐はこの疵にて死したり。浅六もはじめのまれたる時、鰐の牙歯《きば》刃《やいば》の如くなるにて、所々破れければ、手足動かずして、これも海中に死しけるとなり。

[やぶちゃん注:「鰐」サメ・フカの類。

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○鰐を仕留し事』。

「志摩鳥羽より二里ほど辰巳の方にあたり、浦村といふ所あり」現在の三重県鳥羽市浦村町(うらむらちょう:グーグル・マップ・データ)。因みに、この東に接する三重県鳥羽市石鏡町(いじかちょう)は初代一九五四「ゴジラ」の「大戸島」の撮影地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の浜の北のピークが、始めてゴジラが上半身を出現させる場所で、中央の浜が去った後の砂の上のゴジラの足跡を見下ろすシーンのそれである。私は一九五四「ゴジラ」のフリークであり、サイトのホーム・ページに置いてある「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」で判る通り、これを高等学校の総合学習等で講義した。当該稿による授業実子は、過去、高校生対象に三度、中華人民共和国南京大学の二〇〇〇年度日本語科三年生に、一度、行っている。未見の方は、是非、どうぞ。本論考は、正規の学術論文にも引用されたことがある。

「当所富士権現の境内」浦村町内の神社は、現在は、ここにある浦神社(グーグル・マップ・データ)しか見当たらない。「ひなたGPS」の戦前の地図も、現行の国土地理院図でも同じく、ここにしか神社記号はない。前者のサイド・パネルの画像を見るに、「境内は、風景無双の所」と言えるかどうか、ちょっと疑問ではある。]

2024/01/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鷲と狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 遂に最終の「わ」に入った。

 

 鷲と狸【わしとたぬき】 〔譚海巻十〕日光山にある房の庭に、年へたる松一樹、谷へさし出てあるが、その松へ鳥の来てとまる度に、いつも鳥ねむるやうにしては、しばし有りて谷へはたとおつる事毎度たえず。年久しく見馴れたる事にて、不思議なる事にいひあふ事なりしに、或時鷲一羽飛び来りて、この松にとまりたりしが、例の如くこの鷲ねむるやうに見えしが、はたして谷ヘ落ちたり。さて谷底にておびたゞしくさわぎ、ひしめく音すれば、いかなる事と人々よりてのぞきたり。その谷の深ければ何事もみえず、おそろしきにくはしくものぞかず居たるに、やがてこの鷲羽ばたきをして、谷より飛び出でたるを見れば、大なる古狸を両手につかみて、雲をしのぎて飛びさりける。これより後、この松に鳥のとまる事あれども、ねむる事もせず、谷ヘ落る事も止みたり。かゝればこの谷に彼狸住みて、年頃鳥をばかして取り食ひける事なりしに、鷲にはかなはずして、つひに取りさられぬるにこそと、そこの人いひけるとぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷十 下野國日光山狸鷲につかまれたる事(フライング公開)」を作成しておいたので、そちらを参照されたい。]

譚海 卷之十 下野國日光山狸鷲につかまれたる事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 日光山にある房の庭に、年へたる松一樹、谷へ、さし出てあるが、その松へ、鳥の來てとまる度(たび)に、いつも、鳥、ねむるやうにしては、しばし有りて、谷へ、

「はた」

と、おつる事、每度、たえず。

 年久しく見馴(みな)れたる事にて、

「不思議成(なる)事。」

に、いひあふ事成(なり)しに、或時、鷲、一羽、飛(とび)來りて、此松に、とまりたりしが、例の如く、此鷲、ねむるやうに見えしが、はたして、谷ヘ、落ちたり。

 さて、谷底にて、おびたゞしくさわぎ、ひしめく音すれば、

「いかなる事。」

と、人々、よりて、のぞきたり。

 その谷の、深ければ、何事も、みえず。

 おそろしきに、くはしくも、のぞかず居(をり)たるに、やがて、此鷲、羽ばたきをして、谷より、飛出(とびいで)たるを、見れば、大(だい)なる古狸(ふるだぬき)を、兩手に、つかみて、雲を、しのぎて、飛(とび)さりける。

 是より後(のち)、この松に、鳥のとまる事あれども、ねむる事もせず、谷ヘ落(おつ)る事も、止みたり。

 かゝれば、

「此谷に、彼(かの)狸、住(すみ)て、年頃、鳥をばかして、取食(とりく)ひける事なりしに、鷲には、かなはずして、つひに、取(とり)さられぬるにこそ。」

と、そこの人、いひけるとぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鷲と猿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 遂に最終の「わ」に入った。

 

   

 

 鷲と猿【わしとさる】 〔醍醐随筆〕飛驒の奥山に入りて狩するに、猿の数々なきさわぎぬる。いかなる故ぞと見居《みをり》たれば、むかふの大木の梢にすみける鷲が猿の子を攫《つか》みとりてさきくらふなる。親猿やありけむ、殊にすぐれてもだえかなしみけるが、かの大木の葉かげよりねらひよりて上るに音もせず。友猿四五十つゞきけり。先がけの猿とびかゝり、鷲の足にとりつけば、四五十の猿声をあげてひたひたと取りつく。足にも翅《はね》にも蟻のごとくつきたれば、鷲も多力のとりなれども、こらへず地へ落ちけり。つたかづらといふものを手々《てんで》にもちて、一まきづつまきてとびのく。すべて百ばかりの猿にまかれて、鷲はすこしもうごかず。俵もののごとくになりぬ。猿ども谷々へかへり行きたれば、狩人これを拾ひとりて人々にみせける。親猿いかばかりかなしくて身のをき所もなきまゝに、かゝるはかり事をやなしつらん。我業とする狩も、この鷲にたがふことなしとて、それより狩をやめけると、不破翁飛驒国に客遊せしとき、その人のかたるをきゝけるとぞ。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る。右ページの上段(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「路上の姫君」 / 「ろ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ろ」の部は終わっている。後は「わ」の部のみで、全四話である。]

 

 路上の姫君【ろじょうのひめぎみ】 〔梅翁随筆巻四〕午のとし聖堂御普請はじまりて、御仕法《おつかいはふ》改まり、御目見《おめみえ》以上の惣領・厄介御教育あらんがため、学問所その外所々に御取立あり。寄宿いたしてなりとも、通ひてなりとも、勝手次第に修行さしつかへなきやうにとの御趣意にて、間数《まかず》多く相成るに付きて、湯嶋本郷辺<東京都文京区内>の武家町家御用地に上り、この時より本郷通り曲りて通る道筋となれり。大成殿御建立によりて、所々人歩(にんぷ)多く集りけるにや、普請に本郷より出る仕事、少くとも五六人連にてまゐりける。道に板〆(《いた》じめ)[やぶちゃん注:「板締め」染色法の一つ。文様を彫った薄板二枚の間に縮緬その他の絹織物を挟んで固く締め、文様を白く染め抜いたもの。「纐纈(こうけち)」・「夾纈」(きょうけち)の類。「いたじめしぼり」とも呼ぶ。]緋縮緬《ひちりめん》の大振袖の下著《したぎ》に、しごき帯をして、その上に八丈嶋の小袖をかいどり[やぶちゃん注:「搔取」。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げること。]のごとく著たる十七八ばかりの娘、垢付きたる木綿ものの所々破れて、わたの出《いで》たるを著たる五十頃の親仁、手を引《ひき》て来《きた》るに行逢《ゆきあ》ひしに、かの娘このものどもを見て、たすけよかしと涙を流していふ。容色すぐれてつまはづれ[やぶちゃん注:「褄(爪)外れ」。立ち居振る舞い。]尋常にして、誠にいやしからざる体《てい》なれば、そのよしを尋ぬるに、親仁のこゝろ得ぬ挨拶なれば、仕事師の親分、いづれその姿にては見ぐるし、我方へ来りて支度すべしとて、無理に我かたへともなひかへり、先づ娘によごれし足を洗はせけるに、仕付けぬ体《てい》にて、しかも手拭を土辺《どべ》[やぶちゃん注:地べた。]へなげすてるゆゑ、いかにととへば下をぬぐひて不浄なりといふ。その体《てい》空気(うつけ)とは見えねども、身形(みなり)じだらくにして、帯をも一人にては締め兼(かね)るやうすなり。この娘を親分預るべしといへども、親仁同心せず。既に高声になりて、打てよたゝけよといふを、家主聞き付けて中へわけ入りて、親仁を家主方へ預け、かの女の様子を問ふに、名をさへ知らぬゆゑ勾引(かどはかし)たるべしと、大勢立ちかゝり申すに、親仁言句《ごんく》も出ず、早々逃げうせけり。それより娘に宿所《しゆくしよ》、親の名など問ふに、兎角泣き居てものをもいはず。その夕かた人品《じんぴん》よき町人来りて、かの娘は出入屋敷《でいりやしき》の人なれば、貰ひうけたきよし申せども、最初の親仁かたよりの廻しものならんとて取合はず。しかるにその夜《よる》重立《おもだ》ちし役人ともいふべき侍《さふらひ》きたりて、われら屋敷の奥を勤むる女、この方《かた》に居《を》るよし、受取に参りたりといふ。その体《てい》しかるべき人品なれば、則ち娘に引合せしに、かの娘この侍を見て、はじめて安堵せしやうにて、もの語りする体《てい》、主従のごとくなり。この侍は浜町<東京都中央区日本橋浜町>のさる屋敷の家来なれば、則ちわたし遣はしければ、何かの礼として樽代五十金おくりけるとなり。或人の話に、この侯は乱舞をこのみて、度々能《のう》はやし有りて、下谷<台東区内>よりまゐる笛吹《ふえふき》の美少年ありしが、いかゞの訳にや、姫君としのび逢ひけるが、近ごろ折あしくて見えがたきを歎き、れんぼのあまり腰もとを連れて出奔し、道に迷ひて有りしとなり。この屋敷奥向と表との境に竹藪あり。篠竹あつくしげりて、路次《ろし》たえたるが如しといへども、これを潜《くぐ》り出れば、直《ぢき》に表へ出《いづ》るゆゑ、此処より若侍ども通ひて、奥の女中と密通すること数年《すねん》なり。役人どもはしらずや有りけん。覚束なし。今度《このたび》姫君もこれより忍び出《いで》て、美少年のもとを尋ねかねて、かの親仁にとらへられしなるべし。

[やぶちゃん注:私は、この手のお姫さまお忍び「ローマの休日」式の奇談が、好きだ。例えば、私が古文の授業用に作ったサイト版「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の『【第二夜】「妖しい少女」~存在しない不可思議な少女は都会の雑踏の闇に忽然と姿を消した!』の話、決定版はブログ版の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事』のそれなんか、下手な創作奇談なんぞより、遙かに面白いぞ!!!

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○聖堂御造營の事』。

「聖堂御普請はじまりて」湯島聖堂、及び、それに並置された幕府直轄の「昌平坂学問所」(「昌平黌」(しょうへいこう))のこと。ウィキの「湯島聖堂」によれば、元禄三(一六九〇)年、『林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた』翌元禄四年二月七日に『神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している』。『大成院の建物は、当初』、『朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後』、『度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて』、『再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後』、『寛政異学の禁により』、『聖堂の役目も見直され』、寛政九(一七九七)年には、『林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる』。『「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また』、二『年後の』寛政一一(一七九九)年(本話の時制)には、長年、『荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は』一万二千坪から、一万六『千坪余りとなり、大成殿の建物も』、『水戸の孔子廟に』倣い、『創建時の』二・五『倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた』。『ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後』、明治四(一八七一)年に『後進の昌平学校は閉鎖された。教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして』明治三年、『太政官布告により東京府中学が』、『この地を仮校舎として設置された』。『昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置された』。『また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「轆轤首」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は、大人気の轆轤首であることから、五話と、ややや長い。一字空けで、連続してしまっているが、注が附け難いので、特異的に改行して、注を挟んである。]

 

 轆轤首【ろくろくび】 〔甲子夜話巻八〕先年能勢伊予守訪ひ来て話せし中に、世に轆轤首と謂ふもの、実に有りとて語れり。末家能勢十次郎の弟を源蔵と云ふ。かれ性強直、拳法を西尾七兵衛に学ぶ。七兵衛は御番衆にして十次郎の婚家なり。源蔵師且親戚を以て常に彼の家に留宿す。七兵衛の家に一婢あり。人ろくろくびなりといへり。源蔵あやしみて、家人にその事を問ふに違はず。因て源蔵その実を視んと欲し、二三輩と俱に夜その家にいたる。家人かの婢の寝るを待ちてこれを告ぐ。源蔵往きて視るに、婢こゝろよく寝て覚めず。已に夜半を過れども、未だ異なることなし。やゝありて婢の胸のあたりより、僅かに気をいだすこと、寒晨に現る口気の如し。須臾にしてやゝ盛に甑煙の如く、肩より上は見えぬばかりなり。視る者大いに怪しむ。時に桁上の欄間を見れば、彼の婢の頭欄間にありて睡る。その状梟首の如し。視る者驚駭して動くおとにて、婢転臥すれば、煙気もまた消え失せ、頭は故の如く、婢尚よくいねて寤めず。就て視れども異なる所なしと。源蔵虚妄を言ふものにあらず、実談なるべしとなり。また世の人云ふ、轆轤首はその人の咽に必ず紫筋ありと。源蔵の云ふところを聞くに、この婢容貌常人に異なる所なし。但面色青ざめたり。またこの婢の斯の如くを以て、七兵衛暇をあたへぬ。時に婢泣いて曰く、某奉公に縁なくして、仕ふる所すべてその期を終へず、皆半にして此の如く、今また然り、願はくば期を完うせんと乞ひしかど、彼の怪あるを以て聴入れず。遂に出しぬ。彼の婢は己が身のかくの如きは露しらぬこととぞ。奇異のことも有るものなり。予<松浦静山>年頃轆轤首と云ふもののことを訝しく思ひたるに、この実事を聞きぬ。これ唐に飛頭蛮と謂ふものなり。

[やぶちゃん注:ルーティンで事前に公開しておいた「甲子夜話卷之八 5 轆轤首の話」を見られたい。]

〔閑田耕筆巻二〕世に轆轤首といふは、一種の奇病とす。あるひは是を飛頭蛮に混じて、数丈の間に徘徊するなどもいふを、俳諧師の遊蕩一音[やぶちゃん注:読み不詳。取り敢えず「ひとね」と訓じておく。]といへる男、正しく見たる話あり。その若き時、江戸新吉原にして一妓容貌美なる者を見て、即ち相接し、朝に帰るさ、友人のもとへ立より、この美貌を撰み得て接することを誇りしに、集ひたる二三の少年ども、皆掌を拍《う》ちて笑ふ。なぞといへば、子《し》しらずや、それはろくろ首の名有り、何の怪しきこともなかりしやといふ。一音初めは戯言なりと思ひてあらがひしかども、友人皆、その聞くことの遅きを嘲りて止まねば、さらば急に実否を見はてんといひて、またその席より引かへしてかしこにいたる。かの渡部《わたなべ》ノ綱が羅城門に趣きし心地なりけんと思ふもをかし。さて遊び戯れ、あまりに酔ひて、一ト夜よく寝(いね)て、明はてぬるに、かくながら帰りては、友人のためにいふべき詞なしと思ひて、またその日もそこに暮し、この夜は先(さき)の夜に懲りて、酔ひたるふりながら、露ばかりもねぶらず窺ひしに、妓は馴れてやゝ心解けしにやあらん、熟(うま)く眠りぬ。夜半過《すぐ》るころほひ、一音眼を開て見れば、その首、枕を離るゝこと一尺ばかりにして垂れたるに、心得ながらもおどろきてかけ出、われしらず大声をたてたれば、不寝《ねず》の番する男とみに来りて、一音が口をふたぎ、この客(まらうど)はおそはれ給へり、皆おはしませとわめきて、紛らはしたれば、かれこれの妓ども起出て、彼の妓は退《しりぞ》けて後《のち》、酒を勧め夜を明し、さて朝になりて家主より、こと更に盛膳《せいぜん》を出《いだ》し、人をもてひそかにいへらく、もしあやしと思《おぼ》すこともあらめど、必ず口に出し給ふことなからんを、深くねぎまゐらす、あしき名とりては、吾家《わがや》大かたならぬ愁《うれひ》に侍りと、ねもごろにいひしとぞ。おのれこの形状に思ふに、轆轤の名のごとく、頸の皮の屈伸する生質《たち》にて、心ゆるぶ時は伸ぶるなり。病《やまひ》にはあらじ。もとより飛頭蛮の話のごとく、数丈廷びて押下(なげし)に登るなどやうのことは、あるまじきことなり。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]

〔蕉斎筆記〕浄国寺先住増上寺の寮に居られし時、或夜人の首と覚しきもの、胸のあたりに来《きた》ると覚えしゆゑ、そのまゝ取りて抛《な》げられしが、行《ゆき》かたしれずなりにけり。翌朝に至り下総より抱へ置き候下人、不快の由にて起きざる故、自身には飯も炊き給(たべ)られけるに、昼時分になり下人漸《やうや》く起出でたり。和尚に向ひ願ひけるは、私へ御暇《おいとま》下さるべしと申しければ、不審に思ひ尋ねられけるに、下人申しけるは、御恥かしき事には候へども、夜前《やぜん》御部屋へ首は参り申さずや。成程首と覚しきもの、胸のあたりへ来りける故、抛付けたり、それより行方しれずなりぬ。その事にて候、私は下総の者にて抜首《ぬけくび》疾(やまひ)御坐候、きのふ手火鉢《てひばち》へ水入れやう遅きとて御叱りなされ候に、あれ程には御叱りに及ばざる事なりと思ひし故、夜前抜首になり御部やへ参り候、都(すべ)て腹立つ事あれば、いかに慎みても夜中に抜出申候、最早御勤めも相成申さずとて、暇を乞ひ帰りけるとなん。下総国はこの病あまたありとぞ。和尚の直咄《ぢきばなし》なり。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段五行目から次のコマまで)で視認出来る。最後にある絶対が一字下げの、否定的附記、及び、それに反論する「附箋」(筆者でない別人のそれと推定される)の一節が、カットされてある。以下に電子化しておく。

   *

私に云、此事虛說なるべし、誠の首拔出て行べきやうなし、可ㇾ信事にあらず、

〔附箋〕轆轤抔とて、五雜爼等にも書載せあれば、强ち虛說とも言ひがたし。

   *

この「五雜爼」は「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上から、中国で電子化されたものが見当たらず、刊本は所持しないので、当該部は判らない。早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあるが、探すのが面倒なので、やらない。悪しからず。]

〔耳袋巻五〕宝暦の頃、神田佐柄木町<東京都千代田区内か>の裏店に、細元手に貸本をなして世渡りせし者有りけるが、不思議の幸ひを得し事ありしとや。その頃遠州気賀最寄りに有徳なる百姓有りしが、田地も六十石余所持して、男女の僕も少からず、一人の娘有りしが、容顔また類なく、二八の頃も程過ぎて、所々へ聟の相談をなしけるに、年を重ねて調はざる故、父母も大いに歎き、格禄薄き家よりなりとも聟を取らんと、種々辛労すれど、彼娘は轆轤首なりといふ説、近郷近村に風聞して、誰ありてうけがふ者なし。彼娘の飛頭蛮なる事、父母も知らず、その身へ尋ねけれどいさゝか覚えなけれど、邂逅(たまさか)に山川を見廻る夢を見し事あれば、かゝる時我首の抜出《ぬけいづ》るやと言ひて、誰《たれ》見たる者もなけれども、一犬影に吠ゆるの類《たぐひ》にて、その村は更なり、近郷近村迄もこの評判故、聟に来る者なく、富饒《ふねう》の家の断絶を父母も歎き悲しみしが、伯父なる者江戸表へ年々商ひに出しが、かゝる養子は江戸をこそ尋ねてみんとて、或年江戸表へ出て、旅宿にて色々人にも咄し、養子を心掛けしに、誰有りて養子に成るべきと言ふ者なし。旅宿の徒然《つれづれ》に呼びし貸本屋を見るに、年の頃取廻しも気に入りたれば、かゝる事あり、承知なれば直《ただち》に同道して聟にせんと進めければ、かの若者聞きて、我等はかく貧しき暮しをなし、親族とても貧なれば支度も出来ずと言ひければ、支度は我々よきに取賄《とりまかな》はん間《あひだ》参るべしと進めける故、禄も相応にて娘の容儀もよく、支度のいらざるといへるには、外に訳こそあるべしと切《せつ》に尋ねけれど、何にても外に仔細なし、只轆轤首というて人の評判なせるなりとの事ゆゑ、轆轤首といふもの有るべき事にあらず、仮令《たとひ》轆轤首なりとて恐るべき事にもあらず、我等聟になるべしと言ひければ、伯父なる者大いに悦びて、さあらば早々同道なすべしと申しけれど、貧しけれども親族もあれば、一通り咄しての上挨拶なすべしとて、かの貸本屋は我家に帰りしが、色々考へみれば、流石に若き者の事ゆゑ、末々如何有らんと迷ひを生じ、兼ねて心安くせし森伊勢屋といへる古著屋の番頭へ語りければ、それは何の了簡か有るべき、送ろ首といふ事あるべき事にもあらず、たとひその病《やまひ》ありとも、何か恐るゝにたらんや、今後かの貸本屋をなして生涯を送らん事のはかなさよと、色々進めければ、かの若者も心決して、弥〻行かんと挨拶に及びければ、かの伯父なる者大いに悦びて、衣類・脇差・駄荷《だに》其外、大造《たいさう》に支度《したく》をなして、かの若者を伴ひけるが、養父母も殊の外悦び、娘の身の上を語りて歎きける故、かゝる事有るべきにあらず、よしありとて我等聟になる上は何か苦しかるべきと答へける故、両親娘も殊の外欣びて、まことに客(まらうど)の如くとゞろめける由。素より右娘、轆轤首らしき怪しき事いさゝかなく、夫婦めでたく栄えしかど、またも疑ひや有りけん、何分江戸表へ差越さず、これのみに難儀する由、森伊勢屋の番頭が許へ申越しけるが、年も十とせ程過ぎて、江戸表へ下りて、今は男女の子共も出来ける故にや、江戸出もゆるし侍るゆゑ罷り越したりと、かの森伊勢屋へも来りて、昔の事をも語りしと、右番頭予<根岸鎮衛>が許へ来り、森本翁へ咄しける。森本翁もその頃佐柄木町に住居して、右の貸本屋も覚え居たりと物語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」を参照されたい。]

〔北窻瑣談巻四〕越前国敦賀、原仁右衛門といへるは、余<橘春暉>が多年格別懇意の人なり。この人、用の事ありて、数月《すげつ》京へ登り居《ゐ》し留守の事なりしが、その妻千代といへるが、二歳になる岩助といふ小児を養育し、下婢《はしため》一人召遣ひ居《をり》けるに、主人旅行の留守なれば、外に男子もなければ淋しとて、また一人廿六七歳ばかりなる下婢をやとひ、留守を守り居けり。寛政元年酉十月[やぶちゃん注:一七八九年十一月十七日から十二月十六日。]の事なりし。夜更けてかの下女、殊の外にうめきければ、妻も目覚めて、持病に痰強き下女なれば、また痰や発(おこ)れる、尋ねばやと思ひしに、枕もとに有りける有明《ありあk》の燈火(ともしび)消え居《ゐ》ければ、小児を懐(ふところ)に抱《いだ》きながら起出《おきいで》て、燧《ひうち》をうち、有明の燈火を点じ、下女がいねたる次の間の障子を開きたるに、下女が枕もとの小屛風の下に、何か丸きもの動きて見えければ、何やらんと有明の燈火をふり向け見るに、下女が首《くび》引結髪(ひつくくりがみ)のまゝにて、屛風の下に引添《ひつそ》ひ、一二尺づつ屛風へ登り付《つき》ては落ち、登り付ては落ちする程に、妻も見るより胆《きも》消え魂《たましひ》飛んで、気絶もすべく覚えしが、小児を抱き居《をり》ければ、驚かん事を恐れ、右の手に小児をかゝへ、左りの手に有明の燈火をさげて、その儘に居《ゐ》すわり、暫くは物も言はで有りけるが、かの首毎度《まいど》屛風へ登り付ては落ち落ちして、つひに屛風を越えて内に入り、また下女がうめきおそはる声聞えし。妻は下女をも起し得ずして、その儘に障子引《ひつ》たて、また我閨《わがねや》に入りて、夜《よ》明《あく》るまで目も合はず。蒲団を引被《ひつかづ》き居《ゐ》て、夜明《よのあく》るを待ちかねて、里方《さおかた》の大坂屋へ人して、急《きふ》に兄の長三郎を呼び、しかじかの事をかたり、何となく他《た》の事に寄せて下女にいとまやりぬ。この下女、仁右衛門留守中ばかりやとひたる事にて、近き町の者なりければ、世上の評説を恐れて、この事深く秘し、今一人の初めより居《ゐ》る下女へも聞かしめず。唯京に居ける夫仁右衛門へ、この事告げ来《きた》るついでに、余が多年親しき事なれば、文(ふみ)して委しく申来れり。後《のち》にその妻も京に登り住みければ、余も直《ぢき》に猶委しく聞けり。夢幻(ゆめまぼろし)などの事にてはなく、正しく轆轤首を見けるも、いと奇怪の事なりける。余、この事を後《のち》につくづく考ふるに、妖怪にてはなく、病《やまひ》の然《しか》らしむる事なるべし。痰多き人は、陽気頭上にこずみ[やぶちゃん注:一つ所に凝り固まって。]、その気、形を結んで首より上に出《いづ》るなるべし。その人の寝《いね》たるを見ば、正真《しやうしん》の首はその儘、身に付《つき》て有るべし。離魂病《りこんびやう》の類《たぐひ》なるべし。かの下女は鋲風の内に寝《いね》たる事なれば、首は身に付き居りしや無かりしや、見ざりしと妻女語りき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(右ページ四行目から)。

「離魂病」現在で言うドッペルゲンガー(Doppelgänger)を他者が見ること。]

甲子夜話卷之八 5 轆轤首の話

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-5

 先年、能勢(のせ)伊豫守、訪來(たづねきたり)て話せし中に、

「世に『轆轤首(ろくろくび)』と謂ふもの、實(まこと)に有り。」

とて、語れり。

「末家(まつけ)、能勢十次郞の弟を、源藏、と云(いふ)。かれ、性(せい)、强直(がうちよく)、拳法を西尾七兵衞に學ぶ。七兵衞は御番衆にして、十次郞の婚家なり。源藏、師、且(かつ)、親戚を以て、常に彼《かの》家に留宿す。

 七兵衞の家に一婢あり。人、

『ろくろくびなり。』

と、いへり。

 源藏、あやしみて、家人に其ことを問(とふ)に、違(たが)はず。

 因(よつ)て、源藏、其實(そのじつ)を視(み)んと欲し、二、三輩と俱に、夜、其家に、いたる。

 家人、かの婢の寢(しん)を待(まち)て、これを告ぐ。

 源藏、往(ゆき)て視るに、婢、こゝろよく寐(いね)て覺(さめ)ず。已に夜半に過(すぎ)れども、未だ異なること、なし。

 やゝありて、婢の胸のあたりより、僅(わづか)に、氣を、いだすこと、寒晨(さむきあさ)に現(あらはる)る口氣(こうき)の如し。

 須臾(しゆゆ)にして、やゝ盛(さかん)に甑煙(そうえん)[やぶちゃん注:「甑」(こしき=蒸し器)から登る蒸気。]の如く、肩より上は、見へぬばかりなり。

 視(みる)者、大(おほい)に怪(あやし)む。

 時に、桁上(けたうへ)の欄間(らんま)を見れば、彼(かの)婢の頭(かしら)、欄間にありて、睡(ねぶ)る。其狀(かたち)、梟首(けうしゆ)の如し。

 視者、驚駭(きやうがい)して動くおとにて、婢、轉臥(ねがへり)すれば、煙氣も、また、消(きえ)うせ、頭は、故の如く、婢、尙、よくいねて、寤(さめ)ず。

 就(つい)て[やぶちゃん注:そばに寄ってしっかりと。]視れども、異(ことな)る所、なし。」

と。

「源藏、虛妄を言ふ者にあらず。實談なるべし。」

と、なり。

 又、世の人、云ふ。

「轆轤首は、其人の咽(のど)に、必ず、紫筋(むらさきのすぢ)あり。」

と。

「源藏の所ㇾ云を聞(きく)に、

『この婢、容貌、常人に異なる所、なし。但(ただし)、面色、靑ざめたり。又、此婢、如ㇾ斯(かくのごと)きを以て、七兵衞、暇(いとま)を、あたへぬ。時に、婢、泣(なき)て曰、

「某(それがし)、奉公に緣なくして、仕(つかゆ)る所、すべて、其(その)期を終(をへ)ず、皆、半(なかば)にして如ㇾ此。今、又、然り。願(ねがはく)は、期を完(まつた)ふ[やぶちゃん注:「ふ」はママ。]せん。」

と乞(こひ)しかど、彼(かの)怪あるを以て、聽入(ききい)れず、遂(つひ)に出(いだ)しぬ。

 彼(かの)婢は、己が身の、かくの如きは、露(つゆ)しらぬこと、とぞ。

 奇異のことも有(ある)ものなり。

 予、年頃(としごろ)、「轆轤首」と云ふものゝことを訝(いぶかし)く思(おもひたるに、この實事を聞(きき)ぬ。

 これ、唐(もろこし)に「飛頭蠻(ひとうばん)」と謂(いふ)ものなり。

■やぶちゃんの呟き

「能勢伊豫守」ウィキの「能勢氏」によれば、『江戸時代、能勢氏は数家に分かれ、それぞれ旗本として存続した。能勢本家は地黄陣屋を拠点として』、四千『石の交代寄合として幕末に至った。また、幕末期には庶家を含め一族は』十四『家を数え、総知行高は』一『万』三『千石を数えたとされる。現在、能勢氏の菩提寺である清普寺の境内に一族の墓所がある』とある内の一人であろう。

「轆轤首」私の怪奇談でも枚挙に遑がないほどあるが、何より、本邦の「轆轤首」を世界的に有名にしたのは、小泉八雲をおいて他にはない。私の「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」を見られたい。無論、宵曲の「妖異博物館」には、「轆轤首」がある。

「婢の胸のあたりより、僅に、氣を、いだすこと、寒晨に現る口氣の如し。須臾にして、やゝ盛に甑煙の如く、肩より上は、見へぬばかりなり」この部分は(後の欄間の首は幻覚でしかないと私は退ける)、やや不思議な事実ではあるが、或いは、彼女は何らかの疾患を持っており、(例えば、結核)なのかも知れない。夜間に、胸部から上が発熱しているのやも知れぬ。下女部屋は、暗く、暖房もないから、上気したそれが、煙のように見えてもおかしくはないと思う。

「轆轤首は、其人の咽に、必ず、紫筋あり。」これも本邦の轆轤首になるという女で、しばしば言及されてある(「紅い筯」とも言う)。単に、首の皺が目立つだけで、極めて理不尽な差別に過ぎない。そうした擬似轆轤首譚の中でも、ハッピー・エンドのそれが、「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」である。是非、読まれたい。

「飛頭蠻」は轆轤首の本家本元である中国の妖怪。但し、近世の創出になるメジャーな首が延びるタイプではなく、八雲のそれと同じで、首のみが分離して飛行(ひぎょう)する型である。正確には、身体と首(頭部)の間には、糸状の連結部があるものが多い。私の『「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」』を見られたい。

甲子夜話卷之八 4 麒祥院所藏牧溪の畫

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 壬午(みづのえうま)の春、天祥寺に詣(まうで)たるとき、南道老和尙の話(はなせ)しは、

「湯嶋の麟祥院に、牧溪(もつけい)の畫(ゑがき)し寒山拾得、豐干禪師の大幅あり。其畫、中ばかり、戶一枚の大さもやあらん。此國を彼(かの)院より、水戸侯に呈して、金五百鐐(りやう)[やぶちゃん注:「鐐」は良質の銀を指すが、ここは「兩」に同じであろう。]に購(あがなひ)せられしとなり。何なるものか視たく欲(ほし)き也。又、聞く、この圖の始(はじめ)は、滕益道(とうえきだう)と云(いへ)る書家、臘月[やぶちゃん注:十二月の異名。]に持來(もちきたり)て、南道の師なる雄峯和尙に售(うら)んと謀る。時窮陰にて、峯も、金、乏(とぼし)きを以て、これを麟祥院に轉送す。これ其畫なり。」

と云。

 其本(そのもと)、何れより出(いで)たるか。

■やぶちゃんの呟き

「壬午」文政五(一八二二)年だが、「臘月」(十二月の異名)は既に一八二三年一月から二月相当。

「天祥寺」現在の東京都墨田区吾妻橋にある臨済宗妙心寺派向東山(こうとうざん)天祥寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。当該ウィキによれば、寛永元(一六二四)年に『創建された。現在の台東区にある海禅寺が兼帯する寺院として建てられ、当初の名称は「嶺松院」であった』。元禄六(一六九三)年、静山の高祖父『平戸藩』第四代『藩主松浦鎮信』(しげのぶ)が、『海禅寺より』、『嶺松院を譲り受け』、優れた禅僧として知られる『盤珪国師を中興とした』。正徳六(一七一六)年、静山の曽祖父の第六代藩主松浦篤信(あつのぶ)の時、『近くに松嶺寺という寺号が類似する寺があり』、『紛らわしいため、鎮信の戒名「天祥院殿慶厳徳祐大居士」』『から、「天祥寺」に改名した』とある。

「湯嶋の麟祥院」臨済宗妙心寺派天澤院麟祥院

「牧溪」(生没年未詳)宋末元初の禅僧画家。法諱は法常。杭州西湖の六通寺の開山となったが、宰相賈似道(かじどう)を非難して追われ、紹興に逃げた。画は龍虎・猿鶴・山水・人物など、あらゆる画題をよくし、多くは水墨で、甘蔗の搾り滓や藁筆を用いて描いた。中国ではあまり高く評価されていないが、本邦では、室町以降、「和尚絵」と呼ばれ、珍重されてきた。代表作は大徳寺蔵「観音猿鶴図三幅」。

「寒山拾得」唐代の寒山と拾得の二人の詩僧。寒山が経巻を開き、拾得が箒を持つ図は、禅画の画題として頓に知られる。

「豐干禪師」(生没年未詳)唐代の僧。天台山国清寺にいたと伝えられ、寒山・拾得の二士を養い、後世、併せて三聖と呼ばれる。

甲子夜話卷之八 3 狐、禽類もばかす事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 邸隣(やしきどなり)に住(すめ)る人の曰(いはく)、

「某(それがし)幼少のとき、上野山下の根岸に住す。其とき、山より、老狐、出(いで)て、能(よく)馴れ、後(のち)は、食を與(あたふ)れば、屋中に入(いり)て人傍(ひとのかたはら)に在(あり)て、食ふ。

 この狐、人のみに非ず、禽類(きんるゐ)をも、ばかす、と覺へ[やぶちゃん注:ママ。]て、一日(あるひ)、烏、來て、樹抄(こづえ)に在り。かの狐、其樹を囘(めぐ)れば、烏、飛去ること、能(あた)はず。

 狐、樹下に居(ゐ)て、頭(かしら)を搖(ゆら)せば、烏も、樹上に在(あり)て、亦、

頭を搖す。

 一切、狐の爲すが如くせり。」

 然(しか)れば、血氣あるものは、飛走(ひさう)の類(たぐゐ)も惑(まどは)すものと見へたり。

■やぶちゃんの呟き

「邸」静山の隠居所は松浦藩下屋敷で本所にあった。

甲子夜話卷之八 2 雷を畏るゝの甚だしき人の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 世に雷(かみなり)を畏るゝ者多き中に、最(もつとも)甚しきを聞(きけ)り。

 葵章(あふひじるし)の貴族なりとよ。

 雷を防ぐ爲に、別に居室を設(まう)く。

 其制、廣さ十席餘を鋪(し)く。上に樓を構へ、樓と下室(したべや)との間の梁下に、布幔(ぬのひきまく)を張(はり)て天井とし、其下に、板にて、天井を造り、其下に又、綿布(めんぷ)の幔(まく)を張(はり)て、又、天井とす。

 これは雷は陽剛(やうがう)のものなれば、陰柔(いんじう)の物にて堪(たゆ)るが爲に、かく設くるとなり。

 かくあらば、もはや、止(とどむ)るべきを、樓屋(らうをく)の瓦下《かはらした》と天井板の間にも、又、綿を多く籠(こめ)て防(ふせぎ)とす。

 最(もつとも)可ㇾ笑(わらふべき)は、樓下の室の中央に屛風を圍繞(ゐねう)し、其中に、主人、在(あり)て、屛中は被衾(よぎ)の類(たぐゐ)を以て主人の身を透間なく塡(うめ)て、屛外には近習の諸士ども周圍して並居(なみを)ることなり、とぞ。

 これ、妄說にあらず、或人、目擊の語を記す。物を懼るゝも限(かぎり)あるべきことなり。かゝる擧動にて、不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:「不慮」に同じ。]の時、矢石の中へ出らるべきにや。

 武門の人には、餘りなることとぞ、思はるれ。

甲子夜話卷之八 1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷其圖を獻ずる事(ルーティン)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 

8-1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷(ならびに)其圖を獻ずる事

 藤堂高虎は、卑賤より武功を積(つみ)て興(おこり)し人なれば、武事は練達にて、就ㇾ中(かなんづく)、城築、功者なれば、京二條の御城御取立のとき、臺廟、其繩張を高虎に仰付られたり。

 高虎、因て、其圖を作り、手傳(てづたへ)に其臣某を【名、忘(わする)。これ亦、武事達練の士なり。】爲(なし)たるが、一圖は、全備、精巧を極(きはめ)たり。

 別に又、一圖を添ふ。これは、粗にして、尋常の制なり。

 臣某曰(いはく)、

「粗なる者は、上呈に及べからず。」

と。

 高虎曰、

「不ㇾ然(しからず)。精粗の御判斷は上にあるべし。上にて決せらるゝ者、卽ち、御繩張なり。我が繩張には非ず。御城は上(かみ)の御城なり。我等の繩を以て爲(なす)べからず。」

とて、二圖ともに、上(あぐ)る。

 臺廟、果(はたし)て、其精なる方を以て、命ぜらる。

 高虎、因(よつ)て、「臺廟の御繩張」としけり、とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「藤堂高虎」(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)は安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国の人。藤堂藩初代藩主。三十二万石。浅井長政・羽柴秀長に仕え、軍功を立て、後、秀吉に招かれ、その死後、家康につき、「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で活躍した。当該ウィキによれば、『秀忠が二条城を改修する際に』(寛永元(一六二四)年。徳川家光が将軍に、秀忠が大御所となった年から始まった)、『高虎に城の設計図の提出を求めた。これを受けて高虎は』二『枚の設計図を献上した。秀忠はなぜ』二『枚の設計図を提出したのか、と高虎に尋ねると「案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合』、『私に従ったことになる。しかし』、『二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる」と申した。高虎はあくまで二条城は将軍が自身で選び抜いた案によって改築した物だとするために』、二『枚の設計図を献上したのである。これは将軍である秀忠を尊重するための行いであった』。『秀忠も高虎を信頼し、御三家を交えての歓談などで』、『しばしば高虎を招いている。高虎が亡くなる』四『ヶ月前の登城では、土井利勝を使いにやらせ、秀忠自身が三の丸まで出迎え、眼病の高虎が渡りやすいように廊下の曲がりを正す命令を出している。別れの際には「(廊下を)この通り良くしたので、明日もぜひ登城せよ」との言葉をかけて見送っている。高虎はこの厚意に感動し、涙を流している』とあった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牢抜自首」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 牢抜自首【ろうぬけじしゅ】 〔翁草巻六十六〕元文三四年[やぶちゃん注:一七三八~一七四〇年。]頃、京師囚獄舎修理覆《しゆりふく》の事有り。右普請中本牢に在る処の囚人を、切支丹牢請けなし牢揚り屋へ、それぐに配分して、当分入替る。請けなし牢へ入候囚人の内に、文七と云ふ盗賊有り。彼者傍《かたはら》の囚人共へ密かに申けるは、この牢は様子有りて抜けらるゝなり、吾その術を以て先づ抜出《ぬけいで》ん、面々が科《とが》の軽重を自ら考へて、命にかゝる程の大科《おほとが》の者は、我に従ふべし、運を天に任せて仕課(《し》おほ)せば幸甚ならん、若し仕損ずれども、所詮命は無き物なれば、仮令《たとひ》この上再犯の科を重ぬるとも、斬らる之より上の事はなし、而れば徒《いたづ》らに刑を待たんは云甲斐なし、また命に拘らざる程の小科《しやうとが》の輩《やから》は、憖(なまじ)ひに抜《ぬけ》たてをして仕損じなば、本科《もととが》よりもその科重り、斬らるまじき身が斬らるべし、これ大いなる無分別なり、左様の族(やから)は跡に止《とどま》りて、相当の仕置を待つがよし、但《ただし》かく密事を明すからは、この企てを注進するか、または声ばし立てなば立所に蹴殺《けころ》すべし、相構へてこの企ての妨げをなすことなかれと云ふ。残りの奴原《やつばら》之を聞きて、一々もつともなり、偖(さて)また汝は如何なる術有りて、この企てをなすや。文七が云ふ。吾は元銀山のゲザイ[やぶちゃん注:「下在・下財・外在」で、 鉱山の坑夫を指す語。]なり、故に土を穿つことに妙を得たり、この牢へ移りし始めより、右の術心に浮みたり、その訳はこの牢には中に少し土間あり、これこそ天の与へと思ひしなり、万(よろ)づ我にまかせよと云ふ。皆々文七が言《げん》を信ず。さて銘々が科を自ら測るに、半三郎・庄八その外二人、文七共に五人は遁れ難き大科なれば、これ等は示し合せて弥〻《いよいよ》出《いづ》るに究《きは》む。その余の者どもは、軽科《かろきとが》故《ゆゑ》跡に残るに決し、猶も文七堅く言を番(つが)ひて[やぶちゃん注:同心堅固をいい含め。]、それよりひそひそと支度して、雨の夜をまつ。時しも皐月下旬、梅雨降りしきり、目さすも知らぬ暗き夜に、文七進んで件《くだん》の土間を掘りかくる。(古き大釘を引ぬき、それを以てほりしと云ふ)牢中の土間なれば、古来築き固めて磐石《ばんじやく》を彫る如しと雖も、さすが霖雨《りんう》の潤ひに、地の少しうみたるを[やぶちゃん注:比喩的な「膿み」か。湿気を含んで柔らかくなっているのを。]便りに、段々と掘り広げて、竟《つひ》に我身の摺出《すりいづ》る程に、ひらたき穴を掘り課《はた》せぬれども、牢屋構への内外には、番人ども半時毎に拍子木を打廻り、殊に短夜の最中なれば、兎角する間には拍子木の音喧《かまびす》しく、中々抜出《ぬけいで》ん透間も無かりけれども、僅かの間《ま》を考へて、文七真先に潜り出で、残る者どもを一人宛(づつ)、その穴へ首突込《つつこ》ませ、首だに通れば跡は自由なりとて、文七外《そと》に在りて一人宛、首筋を捕へて引ずり出し、五人出揃ふと否《いな》、堀の構への際《きは》にある拷問場の柱へ飛付き、一はねはねて塀に取著き、易々と塀を乗超えて、散《ち》り散《ぢ》りに行衛無く逃げ失せぬ。粤(こゝ)に同類の内、庄八倩々(つらつら)思案しけるは、斯く迄仕課せぬれども、定めて草を分けて捜されなん、さすれば竟には天の網遁れ難し、とても遁れざる命を一向今思ひ究めて、速かに注進せば、その褒賞に命を助かるべきも計られず、所詮裏返《うらがへ》らばや[やぶちゃん注:裏切ってしまおう。]と独りうなづきて、余の者と別れ、直《ただち》に町奉行向井伊賀守役所へ馳せ来り、御注進の者にて候と呼《よば》はる。その刻限丑三つ<午前三時>の頃なれば、門番寝耳に水にこれを聞付け、窓より様子を窺ふに、その様《さま》在牢の者と見え、大童《おほわらは》なる怪しき物の体《てい》、門前にうづくまり居る故、有増(あらまし)を尋ね糺して、急に当番の与力へ達す。与力早速先づ庄八を捕へさせ、様子を聞糺して、伊賀守へ告る。仍《よつ》て夜陰ながら牢屋修覆掛りの与力木村勝右衛門を呼寄せ、それぞれの手当を致させ、その夜直ぐに目付役の同心どもに、悲田院の者ども(京都の非人頭の名なり。斯様の類《たぐゐ》の公役を勤む。在所は洛束南禅寺の入口にあり。その下小屋《しもごや》は四方に散在して、その所々に小屋頭《こやがしら》あり。悲田院と称する所以は、往古悲田院、施薬院とて、窮人の病者を養ふ両院あり。中古よりこの事廃れて、施薬院は名ばかりにて、施薬は相止み、当時は医師の称号となり、禁裏惣門中立売御門《なかだちうりごもん》の傍に住す。悲田院は東山泉涌寺に引かれて、寺中の一院となる。今非人頭《ひにんがしら》どもの居所《きよしよ》、その旧地なり)を付けて八方へ遣はし、近国へ追々触れ流して、これを捜し求む。而るに文七今一人は播磨か、摂津かにて捜し出《いだ》し、同心目付、これを召捕りて帰る。半三郎今一人は、色々捜せども竟に行衛しれず。庄八は注進の功に依《よつ》て助命せられ、文七今一人は重科故に一等刑重くなり獄門に行はる。掛りの役人、木村勝右衛門事、牢屋内の土間に心付かず、囚人を入替候不念に仍《よ》り、暫く遠慮致し、且つ拷問場も塀際に在りしを、右の以後引直され候事。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 ここに記する所は庄八が白状の趣を以てこれを記す。

[やぶちゃん注:この話、まず、事実である(後注参照)。しかし、どうも、私は、如何にも裏切り不快な感じが拭えない。

「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂七(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『牢拔の者の事』。

「町奉行向井伊賀守」本書の著者神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~ 寛政七(一七九五)年)は、当該ウィキによれば、『元文年間には内裏造営の時向井伊賀守組与力として本殿係を務めた。延享』三年十二月(グレゴリオ暦では既に一七四七年一月から二月に相当する)には、稀代の盗賊の首領『日本左衛門』の『手下中村左膳を江戸に護送する任務に関わった。後に目付に昇進した』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浪人と狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 浪人と狸【ろうにんとたぬき】 〔煙霞綺談巻四〕戸田流の兵法(ひやうはふ)の達人に、富永金左衛門と云ふ浪人有り。江都(えど)西久保(にしのくぼ)榎坂の上<東京都港区に>住《ぢゆう》しけるが、この借宅《かりたく》へ何かはしらず、夜々《よるよる》来つて悩ましける程に、富永心に思ふは、渠(かれ)人間にてはあらじ、いかさま狐狸の所為ならんと心得て、比(ころ)は寛永十一年亥正月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一六三四年二月十三日。]の夜《よ》の事とかや。常の寝所《ねどころ》には己《おの》が臥したるごとく拵へ、その身は片隅に待ち居たる。あやまたず五更[やぶちゃん注:季節によって相違し、ここは初

春であるから、午前三時頃から午前五時頃までに相当する。]に及ぶころになりて、戸のあく音もなくて来るものを見れば、両眼星の如く、その形何とも見え分かぬ形粧(ぎやうさう)すさまじき体《てい》なり。かの寝姿の上を飛んづ馳(はね)つ狂ふを、得たりやと斫《き》りければ手ごたへす。化物深手を負うて、竹《たけ》巣(す)の子(こ)の下へ逃ぐる所を追かけて斬りければ、難なく二の太刀にて仕留め、心(むな)もとへ深々と脇指(わきざし)を突立《つつた》て、灯を挑(かか)げて見れば、幾年歴(へ)たるともしれざる古狸なり。化物を仕留めたりとの高声に、近所驚き、家主《やぬし》等馳せあつまり、始終を尋ねて、家主相借家《あひがしや》の者ども、流石御侍かなと口々に誉めけるに、家主がいふやうは、貴客この家へ来らざる已前、この狸住せし故か、二ケ月と住する者なし、この上は化物の根を絶《たや》して心安きなんと悦びける。さて富永興に乗じてや、翌十六日の朝、入口に狸をぶらさげ、諸人に見せけるほどに、往返《わうへん》の諸人詳集《ぐんじゆ》して評するを聞くに、このどさくさと騒がしき市中《しちゆう》に狸の住むべきや、これは必定椛町(かうぢまち)<東京都千代田区内>より買求めて人を惑はす謀(はかりごと)なるべしと、口々に悪口《あくこう》しけるゆゑに、辰の刻<午前八時>には内へ取入れけり。この事批判、過半は虚(うそ)のやうに、世間に取沙汰ありければ、却りて富永を唱《とな》へられ、近付(ちかづき)知音《ちいん》にも逢ひがたくや思ひけん、住所《しゆうしよ》をかへて彼方此方《かなたこなた》と迷ひあるき、後《のち》には行方しらずなりにけり。そのころよくこの人を知つたる人のいふには、常に兵法高慢しけるゆゑに魔のさしたるものとなん。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。原本の「目錄」では、本篇は『〇戶田流劒(りうけん)術』。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「老狐僧に変わる」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 老狐僧に変わる【ろうこそうにかわる】 〔提醒紀談巻二〕下総国飯沼郷の弘経寺は、浄土宗の叢林なり。相伝ふ。昔時《むかし》輪下《りんか》[やぶちゃん注:本来は、仏教で法を広めることを車輪が回ることに喩えたもの、「法輪」の意だが、ここは「寺」の意。]に一人《ひとり》の僧ありて論議をよくす。ある日、人々寄集りて相撲《すまふ》をとりて遊び戯れけり。かの僧もその場にありて撲《とり》けるに、頗《すこぶる》る力《ちから》ありて数十人《すじふにん》を投伏《なげふ》せけり。その事終りて、困憊《こんばい[やぶちゃん注:後に示す板本では『くたびれ』と振ってある。]》ことさらに甚しければ、我《わが》部屋に入《い》り、鎖《とざ》して熟睡したり。その隣の部屋に住める僧の牗(まど)よりこれを覘《うかが》ふに、毛もまだらに衰へたる老狐なりければ、驚きあやしみて、その所を去《さり》て人にも語らでありしが、かの僧、怪しまるゝことを知りて、すなはち隣の僧に謂《いつ》ていへるは、吾は実《まこと》に人にあらず。今日労れ寝《いね》て料《はか》らず吾《わが》形を覘ひ見らるゝことの愧《はづ》かしさよ。もはやこの所を辞し去るべしと云ふ。隣の僧、ねんごろにこれを留《とど》むれども聞入れず。やがて急ぎ方丈に至りて、上人に謁し別れを告ぐ。且つ啓《まう》して云ふ、吾に通力《つうりき》あり。今別れにのぞみて、何卒拙《つた》き技《わざ》をいたし、洪庇《こうひ》[やぶちゃん注:受けた教えのおかげ。]の万一《ばんいつ》を謝せんと思ふなり。上人の見んことを欲《ほつ》するもの、何《なに》にてやあらんと云ふ。上人曰く、吾常に見んことを願ふものは、唯阿弥陀仏来迎の相《さう》のみ、これをば能くせんや否やとありければ、対《こた》へて云ふ、よく致さん、然《しか》れども来迎の相を現ずる時にあたりて、上人かならずしも粛《つつし》み敬《うやま》ひて拝することなかれ、若《も》しさやうなき時は、吾即時に死するなりといヘば、上人諾《だく》せられしかば、鐘を撃ち鳴らして、衆《おほ》く人を集めて見せしむ。暫くして紫雲たなびき、西方より弥陀仏、観音、勢至の二菩薩、および無量《むりやう》の聖衆《しやうじゆ》列《つら》なりて、虚空《こくう》に光明《くわうみやう》かゞやき、花《はな》降り音楽聞え、そのありさまいと尊《たふと》く、殊妙《しゆめう》たとへんかたなく、言《ことば》にものべ難かりしかば、上人も衆人もおのおの覚えず、奇異渇仰《きいかつがう》の思ひをなし、仏名《ぶつみやう》を唱へ伏し拝みければ、あらゆる来迎の相《さう》忽ちに消失《きえう》せて、かの僧もそのまゝに死したり。されば上人、ふかく歎き悲しみけれども、さらにかひなし。人々よりて彼僧をあつく葬《はうぶ》り、石を立てたりとかや。今尚その地に存すと云ふ。(蕉窓漫筆)<この話『十訓抄』に基づくが如し>

[やぶちゃん注:「提醒紀談」山崎美成の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本全巻が視認でき、当該部は、ここと、ここである。前の『老狐蛻菴』の後に当たる。標題は『老狐(らうこ)僧(そう)に變(へん)ず』。ほぼ総ルビなので、積極的にそれを参考にした。

「下総国飯沼郷の弘経寺」私の「譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事」を見られたいが、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。原本の「下總國」は「下野國」の誤りである。さらに、リンク先では、狐が化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる(ただ、狐とする江戸期の随筆や怪奇談集があることはある)。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「伯蔵主」』も参照されたい。

「蕉窓漫筆」冲黙義海(宝暦五年(一七五五)一月一〇日。騰蓮社空誉。冲黙は字(あざな)。初め、増上寺山内蟠龍窟・瓜連(うりづら)常福寺・増上寺に掛錫し、寛保四(一七四四)年に岩槻浄国寺二十二世となり、寛延三(一七五〇)年。太田大光院三十四世に転住した。享保一五(一七三〇)年に華厳宗鳳潭󠄂(ほうたん)が著した「念仏往生明導箚」(ねんぶつおうじょうみょうどうさつ)二巻に対し、翌十六年に「蓮宗禦寇編」(れんしゅうぎょこうへん)二巻を著して、反論。さらに翌十七年に鳳潭󠄂が「蓮宗禦寇編雪鵝箋(せつがせん)を著して反駁したのに対し、同年秋に「雪鵝箋断非」一巻を著して再反論している。宗義だけでなく。三衣法服に対しての造詣も深く、江戸中期の浄土宗を代表する学僧である。著書に「無量寿経浄影疏選要記」(二巻)・「論註輔正記」十二巻・「遊心安楽道私記」二巻・「仏像幖幟義箋註」三巻・「仏像幖幟義図説」二巻や、本随筆「蕉窓漫筆」三巻など多数ある(「WEB版新纂浄土宗大辞典」の同人の記載に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に死後に刊行された板本(京都・明和四(一七六七)年刊)があり、その「卷之二」の「老狐變」がそれ。ここと、ここで、視認出来る(全漢文訓点附き)。但し、ここにはない、最後に添えられた(左丁に拠梅中央以下)「毱多尊者」(うばきくたそんじや)の「魔王波旬」の対話の話がある。

「この話『十訓抄』に基づくが如し」昨日から探しているのだが、どの話か、判らない。時間を食うばかりなので、諦めた。識者の御教授を切に乞うものである。

2024/01/23

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「老狐蛻菴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 老狐蛻菴【ろうこぜいあん】 〔提醒紀談巻二〕蛻菴といふもの、その初め飛驒国参議秀綱に事《つか》へたり。秀綱滅亡してより、信濃国諏訪<長野県諏訪>に来り筮仕(ぜいし)[やぶちゃん注:初めての仕官を求めること。「筮」(占いに使う竹を細く削った棒)とあるのは、古代中国で、初めて仕官する際、その吉凶を占ったことに基づく。]を求む。その頃、千野《ちの》兵庫と云ふは、諏訪の一族なり。蛻菴を招きて家に居《を》らしむ。これ天正十三年の事なり。その後、兵庫身まかりてその嫡子、家を嗣ぎ父の職を襲《おそひ》て、名も兵庫と称す。彼《かの》蛻菴、穎異《えいい》[やぶちゃん注:人に抜きん出て聡(さと)く勝れていること。]たる性質にて、勤仕《きんし》怠らざれば、家内《かない》こぞりてたのもしくぞ思ひける。蛻菴ある時、仮寝《うたたね》しけるを、人ありて何となくひそかに伺ひけるに、老狐にてありしかば、その人うち驚きつゝやがて兵庫に告げたり。蛻菴これを覚り、兵庫に見《まみ》えて去らんことを請ふに、兵庫云ふ、妨《さまたげ》なし、汝弐心《ふたごころ》なく勤めて、吾《わが》家事を助くること、嘗て悦ぶところなり。何ぞ人と人にあらざるとの差別《しやべつ》あらんやとて、そのまゝにうち過ぎぬ。しかれども蛻菴は遂にそこを立去りて、岐岨《きそ》[やぶちゃん注:「木曾」に同じ。]に来り、興福寺といふ精舎《てら》に詣《いた》り、桂岳師《けいがくし》といふ和尚に身をよせたり。師これに僧衣をあたへ、一室をかまへてをらしめ、副司《ふくす》の役をつとめしむ。ここに居《を》ること年あまた経にければ、師も彼が立ふるまひにつけて、やうやうその人にあらざるを知りて、愈〻《いよいよ》ねんごろにあつかひけり。さて師、所用ありて蛻菴をして飛驒国なる安国寺へ、使《つかひ》につかはしけるが、その道すがら日和田村《ひわだむら》といふ地を経て、ある田舎に宿りけり。その舎《いへ》あるじが持てる不思議の鳥銃《てつぱう》あり。そは名人国友が造るところにして、これをためて望み見れば[やぶちゃん注:「その鉄砲の筒穴を通して対象を覗き見たならば」ということを言っている。]、妖魔その形をあらはすといへり。その夜《よ》蛻菴は、たまたま囲炉裏のほとりに何心なく坐し居《ゐ》けるを、主人、かの管《つつ》をためて望みけるに、老狐の僧衣《そうい》を著《き》たるにてありければ、一発にこれを斃《たふ》すに、果して狐にてぞありけるとなり。この蛻菴が書写する般若心経、その地に伝へて今に在り。それを摹刻《もこく》[やぶちゃん注:書道で、書蹟を石や木に模写して彫りつけ、保存・鑑賞・学書用の書蹟「法帖」を制作すること。]したるを予へ<山崎美成>に贈る人あり。その筆勢の古雅なる、実《まこと》に千年外《ぐわい》の写経に異なることなし。その帖の末に、この記事を載せたり。

[やぶちゃん注:「提醒紀談」山崎美成の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本全巻が視認でき、当該部は、ここと、ここここである。標題は『老狐蛻菴』。ほぼ総ルビなので、積極的にそれを参考にした。

「飛驒国参議秀綱」(?~  天正一三(一五八五)年)戦国から安土桃山にかけての武将で飛騨松倉城当主にして、姉小路氏(三木氏)の後継者。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。

「千野兵庫」不詳。後裔らしき同名の人物がおり、信濃高島藩家老を務めている。

「岐岨」「興福寺」「桂岳師」の三つで調べたところ、長野県木曽郡木曽町にある臨済宗妙心寺派萬松山興禅寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることが判った。「木曽三大寺」の一つ。当該ウィキによれば、『境内には『安国寺のきつね小僧』という伝説・昔話にまつわる、蛻庵(ぜいあん)稲荷が祀られている』とある。「飛騨高山こくふ観光協会」公式サイト内の「安国寺のきつね小僧」も読まれたい。

「飛驒国なる安国寺」岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派太平山安国寺

「日和田村」岐阜県高山市高根町(たかねまち)日和田(ひわだ)。

「蛻菴が書写する般若心経、その地に伝へて今に在り」「北さん堂雑記パート2」の『和本明和9年序陰刻「蛻庵心経(木曽興禅寺心経)」狐小僧』で、現物を視認出来る。しっかりした崩しのない優れたものである。是非、見られたい。明和九年は一七七二年で、明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日) に安永に改元している。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「霊毎日来る」(「れ」の部はこの一篇のみ)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 「れ」の部は、本篇一篇のみである。「霊」で始める怪奇談なら、いくらもある。宵曲は疲れちまったか、出版社の既定の総ページ数の歯止めがあったか、まあ、しかし、何だかな、って感じはするわね。

 さても、残りは、十篇、となった。

 

   

 

 霊毎日来る【れいまいにちきたる】 〔中陵漫録巻一〕羽州米沢の町田弥五四郎、常に弥陀を信じて、毎日善勝寺に往く。帰る時にその住持に逢ひて、時節の茶話を為す。老ゆるに至つて床に伏す事両月に及ぶも、毎日来て弥陀を拝して帰る。住持思ふに、なんとして一音《いちいん》の便りを為さゞるやと疑ひし間に、昨日死したりとて住持に知らしむ。住持云く、昨日も来て堂に登つて弥陀を拝して帰りしに、何様《いかやう》にて死したりやと云ふ。皆云く、両月の間も床に伏しけるが、遂に老病にて死したりと云へば、住持始めてその霊にて毎日来《きた》る事を知る。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る(左ページの標題『〇町田の靈』がそれ)。

「羽州米沢」「善勝寺」山形県米沢市大町にある浄土真宗大谷派児玉山善勝寺(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「両頭の亀」 / 「り」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「り」の部は終わっている。]

 

 両頭の亀【りょうとうのかめ】 〔一話一言巻四十八〕延宝五年肥前国唐津領のうち、相の木村の山の井にて水くみける下女、柄杓にのりて上《のぼ》りけるを見れば両頭の亀なり。その長《たけ》一寸八分、幅一寸、首左右へ相ならびてつく。唐津よりは右の村へ道のり五里これあり。その亀を城主大久保加賀守より差上げらる。則ち上覧これありてその翌日亀死す。誠に上覧の日まで存命のほどふしぎなり。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は『○兩頭龜』である。

「延宝五年」一六七七年。徳川家綱の治世。

「肥前国唐津領のうち、相の木村」現在の佐賀県唐津市相知町(おうちちょう;グーグル・マップ・データ)ではないかと私は疑っている。「五里」とあるが、これは南畝が東国の「小道」(六町が一里)で示したのもので、三・二七キロメートル。唐津に最も近い相知町大野までは、まさにこの距離で到達するからである。

「大久保加賀守」肥前国唐津藩二代藩主で老中ともなった大久保忠朝(ただとも)。彼は寛文一〇(一六七〇)年、養父忠職(ただもと)の卒去に伴い、同年六月十三日に唐津藩主となって、まさに、この延宝五(一六七七)年七月二十五日には、幕府老中となって、加賀守に遷任されている。少なくとも、彼にとっては相頭の亀は吉兆だったとも言えるだろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猟師怪に遭う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猟師怪に遭う【りょうしかいにあう】 〔閑田次筆巻四〕この筆記を草する時、山崎の者、ことのついでにかたらく、宝寺の下に住みける猟師、鉄炮甚だ上手にて、飛鳥《ひてう》をもよくうち落せしが、後《のち》其丘村[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』も同じだが、どうも躓いた。後掲する活字本を見たら、『其近村』となっていて、納得した。宵曲の誤字か、誤植である。]山家《やまが》といふへ移り住みて、一朝猪をねらひて山へ入りしに、おもほえず容顔美麗の女にあヘり。所がらあやしけれども従ひゆくに、小倉明神とまうす社をめぐる。おのれも共にめぐりしに、彼女屹(き)と見おこせ睨みたるを見れば、眼五ツになりたり。驚きて走り帰り、この後殺生を止め、農業をつとむ。されども従来の罪によりてや、ほどなく足腰不ㇾ起。子は二人有りしも、一人は早世し、一人は白癩《しろこ》にて、あさましき者なりといへり。常に見聞くに、鳥屋には支離(かたは)もの多く、あるひは終《をはり》をよくせざるもの多し。さるべき道理なり。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。直前に鷲に攫われて養育された人の話があり、それを受けて、冒頭に「鷲の因《ちなみ》に思ひ出たることあり」とあるのがカットされてある。

「山崎」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「宝寺」同地にある真言宗智山派宝積寺(ほうしゃくじ)。山号は天王山だが、古くは補陀洛山であった。天王山の中腹にある。

「山家」不詳。但し、次注の小倉神社のある地域の旧称(通称)であろう。

「小倉明神」小倉神社。山入りのトバ口である。宝積寺の北一キロ半。

「白癩《しろこ》」このルビは上記活字本にある。「びやくらい」(びゃくらい)でハンセン病の症状の内、皮膚が白くなる病態の患者を指す古い謂いである。私の『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の私の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』への注を必ず見られたい。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜の画」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜の画【りゅうのえ】 〔黒甜瑣語巻三[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版では『一編ノ三』に補正されてある。]〕宝暦己卯<九年>に我藩洪水して、下中嶋の住居の人家のこらずおし流され、人数多《あまた》死せり。中嶋流れと云ひて世の物語りに残れり。北郭(きたのまる)の厨吏《ちうり》某も中嶋にて流されし家なり。彼が家の物語に、このとし東都神田𭐏(どて)<東京都千代田区内>にて雲竜の一軸を買ひ得たり。烟煤《えんばい》に混《こん》じ破壊せし旧物《ふるもの》にして、名印(ないん)もなく中に一枚の書付添《そへ》たり。その書に云へるは、この圃竜は吉山の筆にして、住吉宝殿の什物たり、標装して再び宝殿へ納むべし、俗家に置かば水難の崇りに逢ふと伝へしと記して、これも名印なし。麁物《そもつ》[やぶちゃん注:「粗末な物」。]なれば誰《たれ》も見る人もなかりしに、厨吏行きかゝり、吉山は兆殿司(てうでんす)の字(あざな)と云ふ事、ふと思ひ当り、青蚨《せいふ》七十穴に買ひて帰り、人にも見せ我も熟視するに、竜の眼光恐ろしき事云ふべからず。帰郷の節携へ下りしが、この年かの水難に遇へり。一軸を箱入《はこいり》にして明識の人に訊《と》はんと思ひ、古鏡の奩(そとへ)[やぶちゃん注:箱。]に入りし物と結《ゆ》ひ付けて置きしが、諸物と共に流れて行衛なくなりしに、程経て湊浜《みなとはま》にて拾ひとりしと云ふ沙汰を聞きしゆゑ、尋ね行きしに、四五日以前大坂の者に懇望せられ買ひとられしが、その者今は居らずとて空しく立帰れり。遠客具眼にて買得たりとは見えたれども、事実も詳かにせずして人の物にせしぞ、不分事《ねなきこと》[やぶちゃん注:以下の活字本のルビ。「根拠のない理不尽な行い」の意であろう。]と語り合ヘりとなん。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『中島流』。

「宝暦己卯」「九年」一七五九年。

「下中嶋」秋田県大仙市下鴬野下中嶋(グーグル・マップ・データ)。見るからに二つの川の合流点で、洪水被害に襲われるのも納得される。

「北郭(きたのまる)」旧角館城の北の一画。

「厨吏」厨(台所)の担当役人。

「東都神田𭐏(どて)」「東京都千代田区内」神田川に沿った「柳原土手」のことであろう。「吟醸の館」チームのサイト「落語の舞台を歩く」の「柳原土手地図」が、江戸切絵図と現在の地図が対比視認出来るので、見られたい。

「吉山」南北朝後半から室町前・中期の臨済宗の画僧山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年)であろう。

「住吉宝殿」大阪の住吉大社であろう。

「青蚨」本来は「昆虫のカゲロウの異名」とする。また、「銭」の異称。小学館「日本国語大辞典」の「補注」によれば、虫のカゲロウの『母子の血を取って』、『それぞれを銭の面に塗り、その片方を使えば、残った片方を慕って飛ぶように還ってくるという』「捜神記」の巻十三に載る『故事から転じて』、『銭貨のことをいうとされる。挙例の「壒嚢鈔」』(あいのうしょう:室町時代中期に編纂された辞典。全七巻)には『「然を銭の名とすることは、此虫能く多くの子を生む。爰以て世俗取て、此虫を塗レ銭、則ち其の銭多く生レ子と云へり。故に祝レ銭を青蚨と云也。又子母銭共云也」とあり、また、かげろうのように銭貨のはかないことをたとえたとする考えもある』とある。「穴」は穴開き銭の数詞。

「湊浜」不詳だが、河川の流れと「浜」から、秋田市の雄物川河口附近か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜と琵琶」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜と琵琶【しゅうとびわ】 〔黒甜瑣語二編ノ五〕中むかしの頃まで東都の行程に、山ノ上より大石田越(おほいしだごえ)と云ふをなして、二本松または郡山などへ出でし事、折としてありと云ふ。予<人見寧>が友館生の親なる人、ある年この大石田<山形県北村山郡内>を通りし時、森の明神とやらん祭りとて、遠近《をちこち》参り(いた)詣る人多し。いかなる神を祭りしやと云ふに、土老の云へる、むかし米沢より爰へ通る琵琶法師あり。山中にて或老人に行逢ひしが、背負ひし琵琶を見て一曲聞かんと望むゆゑ、法師も草臥《くたび》れて息つかんほど、道のほとりの岩ほに坐して、地神経《ぢしんきやう》[やぶちゃん注:屋敷神の一種である地神(じがみ)を祭る経文。年末に各戸を回って竈祓(かまどばらえ)をする盲目の僧などが唱えた。]を弾じ聞かす。老人感に堪へずやありけん、またこのみて三四曲を弾ぜしむ。弾じ闋(をは)りければ老人の云へる、余りおもしろく聞きなせし謝礼に、一言申すべき事あり、今宵大石田を通らるゝとも舎(やど)り給ふなと云ふに、法師いかなる仔細の候にやと聞けば、老人の云へる、我は向ひの洞《ほら》に年久しく住めるものなるが、今宵しもこの洞を抜けんには、必ず山崩れ谷うづみて大石田の村も頽(なだ)れ崩るべし、しかしこの事かまへてく人に語り給ふな、若し語りなば御身も安穏《あんのん》ならじとて立ち別れけり。法師おもふやう、我はいやしき盲人の身なれば、この世にありても甲斐なし、余多《あまた》の人の命におよぶ事を聞きて、救はるゝ事ならば告げでやはあるべきとて、急ぎてこの村へ来り、事のやうを委しく物語けるに、村中大いに胆を潰し、さればぞかねてしも聞きつる、洞の中には大なる蟒蛇(うはばみ)ありて、人を害せし事を聞きしが、竜に位して天昇するなるべし、どうで死する我々が命、さらばこの方《はう》より取(とり)かけ平(たひ)らぐべしとて、そこら村々より人数多《あまた》雇ひてかの洞穴へ至り、洞の口へ焚草(やきくさ)を山のごとく積み上げ、洞の声を合せて火をさしければ、折しも山嵐《やまあらし》吹《ふき》しき、そこら一面に焼《やけ》ひろごりたれば、竜は定めて焼たりなん。蕉雨子[やぶちゃん注:出羽国久保田藩の藩士で国学者であった作者人見寧の号。]思へらく、竜にして豢(やしな)はるべきは真竜にあらず、かゝる凡庸卑下の法師の撥音(ばちおと)に感じ大事を語りし、これも真竜に非《あら》ざめり。さてかの盲人は村中救はでやあるべきとて、唐櫃ヘ隠し三重四重に掩ひて出で行きしが、帰りて見ればむざんや、この法師からだは段々(きたきた)に裂かれて死にけり。一郷の命の親とて、それより明神に祭れりと云ひ伝へしが、幾としほど前の事にや。けふこそその法師の死せし日なりと語りしとなん。

[やぶちゃん注:ここで改行になっているのはママ。引用原本では続ている。序でなので、ここで注する。

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『玉林寺の琵琶(には)』。この話、「山形県大石田町」公式サイトの「おおいしだものがたり 第四十二話 盲(めくら)の琵琶法師(びわほうし)が大石田を救った伝説について」で現代語に訳して、紹介されてあり、その後に、『この伝説は、故大林東京大学教授』大林太良氏に『よれば「遊歴の芸人たちがそのお得意先の地域社会に、単なる芸の売買という以上の深いつながりをもっていたことを示して」おり、「極端な場合には、一身を犠牲にしても、その地域社会のためになろうとし、また地域社会のほうでも、この命の親の琵琶法師を明神として祀って恩に報いた」とその意義を解釈しています』。『現在、この伝説にある「森の明神」の所在は不明で、この伝説そのものも語り継がれていません。今から』二百『年以上前の本から、大石田にこのような興味深い伝説があったことがわかります』とあった。

「山ノ上より大石田越(おほいしだごえ)と云ふをなして、二本松または郡山などへ出でし事、折としてあり」「山ノ上」不詳だが、以下の大石田より、北・北東・北西に位置するであろうことを考えると、名の共時的な点から、東北にある現在の山形県最上郡最上町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の辺りを指す語ではあるまいか? 「大石田」山形県北村山郡大石田町。「二本松」福島県二本松市。「郡山」福島県郡山市。]

 秋田大館《おほだて》の辺り独鈷村《とつこむら》<現在の秋田県大館市内>大日堂にも一つの物語りあり。延享の頃、一人の盲人この堂へ通夜せしが、いづくともなく一人の叟《おきな》来り、あれこれ物語り中《うち》、御坊は琵琶を弾き給ふやと云ふに、やつがれ若かりし時は少しく業(わざ)くれ[やぶちゃん注:余技としてすること。手慰み。]にかきならす事を好みしと云ふに、老人の云く、ほとり近き鳳凰の麓の寺にむかし此所を知りし浅利の君(世に『浅利物語』あり、卑人の塗抹にして、むかし横手の守堡たりし小野寺氏の事を記せし『小野寺興廃記』などに似たり)の弄《もてあそ》び給ひし琵琶あり、さいつ頃までは折としてその雅曲を聞きしが、家亡び人逝きてより、絶えて清音を聞かず、四つの緒《を》今に恙《つつが》なければ、とり来りて参らせんとて立出でしが、程なく携へ来りしを、終夜《よもすがら》かきならし聞かせけるに、老人歓び、我も近き頃ほど遠く去るなり、今宵思はざるこの曲を聞きて、百年の幽懐《いうくわい》[やぶちゃん注:心の深い思い。]を開けりとて、琵琶を盲人に与へて去れり。一ト月ほど経(すぎ)て小田瀬の川崩れ、蟄竜の天昇せしと云ひしも、かゝる事にやあらん。盲人の事は知らず、琵琶は今にこの堂にのこれり。鳳凰山玉林寺は浅利家累代の香刹(てら)なり。この琵琶むかしはこの寺にありしや。

[やぶちゃん注:「秋田大館の辺り独鈷村」現在の秋田県大館市比内町(ひないまち)独鈷

「小田瀬の川」不詳。独鈷を貫流する川は「犀川」とある。

「浅利の君」戦国時代の出羽国比内郡を支配した国人浅利則頼(?~天文一九(一五五〇)年)のこと。当該ウィキによれば、『甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷』『に拠った浅利氏の庶流』。『智勇文武音曲に優れた人物で、特に琵琶を愛した』(☜)。『十狐城を本拠地として比内浅利氏の勢力拡大を目指し』、『比内郡における一大勢力とした。現在の二ツ井町荷上場館平城から上津野までを席巻し』、『各地の国人を併合した。独鈷城』(☜)・『笹館城・花岡城・扇田長岡城を主力とし、西の守りには娘婿・牛欄を八木橋城に配置して守りを固めた』とあるから間違いない。

「浅利物語」書名は国立国会図書館デジタルコレクションの検索で見出だせはする。筆者が評価していないので、調べる気はない。

「横手の守堡たりし小野寺氏の事を記せし『小野寺興廃記』」不詳。ネット上のPDFの幾つかに名は出るが、「似たり」だから、これ、調べる気にならない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜燈」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、この篇は、五つの話の引用になっており、やや長いので、各話は一字空けで続いているのだが、特異的に改行して、注を挟んだ。]

 

 竜燈【りゅうとう】 〔天野政徳随筆巻一〕同人<岡野義和>の話に、その年<天保七年>六月三日小川村長《おがはむらをさ》(名は長蔵)をあないにて、兼ねてきゝし閼伽井が嶽の竜燈を見んとて、その村を出て三四里ゆく。こゝは奥州岩城にて、閼伽井嶽《あかゐだけ》と呼ぶ山なり。この山上に水精山《すいしやうざん》常福寺といふあり。本尊薬師を安置す。この堂のかたはらにさゝやかなる四阿(あづまや)有り。それより見わたすに、東方四五里を隔て海有り。竜燈は海面より出現なすといへば、あからめもせず守り居るに、黄昏過《たそがれすぎ》かの海面より登る所、花火といふ物の玉などの如く、一丈ばかりあがりつらむと思へば、大きさ挑灯程になりて見ゆ。火の色は赤けれども、たゞ霧のうちに有るが如く、朧々《ろうろう》として定かならず。この閼伽井嶽(あかゐ《だけ》)の麓に夏井川《なつゐがは》といふあり。その水縁を求めて静かにこの薬師の峯をさして来《きた》る。さきに出《いで》し竜燈三四町[やぶちゃん注:三百二十七~四百三十六メートル。]も行きぬれば、また跡より出《いづ》る事、始めの如し。出る時は必ず二ツづつ並びて出る。されど道にて一ツは消えて、一つのみ来るも有り。消えざれば二つ並びて来るも有り。この山杉多ければ、麓の杉の梢まで来るも有り。道にて二つともに消ゆるも有り。はては薬師の堂まで来るよしいへど、そは見えずとかたりぬ。この夜は竜燈七ツ八ツ出たり。その夜によりて数の多少はあれど、暑寒共に出ざる夜はなし。それより常福寺にやどりて、寺僧に竜燈の事を尋ねけれど、昔よりさまざまの説をいへど取るにたらず。何ゆゑともしれがたしといひぬ。この並びに山あれど、外《ほか》の山よりはこの竜燈少しも見えずといふ。こは義和まさしく見ての話なり。一奇談といふべし。

[やぶちゃん注:個人ブログ「いわき民話さんぽ」の「閼伽井嶽の龍燈伝説  その1   いわき市」で大須賀筠軒(いんけん)著「磐城誌料歳時民俗記」(明治二五(一八九二)年脱稿)の引用電子化が読め、「その2」もあって、そこでは、江戸時代の地理学者長久保赤水(享保二(一七一七)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)の自らの体験談が電子化されている(漢文)。後者は「天野政徳随筆」より古い本「龍燈」の実録である。なお、龍燈については、当該ウィキもあるが(本篇が紹介されてある)、まんず、私の南方熊楠の「龍燈に就て」(サイト版PDF一括縦書版)の右に出るものはあるまい。ブログ・カテゴリ「南方熊楠」の三分割版でも読める。

「天野政徳随筆」本書では初出。天野政徳(天明四(一七八四)年~文久元(一八六一)年)は本所南割下水横町に住んだ旗本(五百石)で歌人。通称は図書。江戸の国学者・歌人であった大石千引(ちびき)の門人。和歌の他、画や印刻にも長じたとされる。「天野政徳随筆」は考証随筆。歌文集「草縁集」などがあるが。著作はあまり伝わらず、伝も不明な点が多い(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第四巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正規表現で視認出来る(右ページ五行目以降)。標題は『〇龍 燈』。

「岡野義和」前の条の話者で、作者天野政徳の弟子と出る幕府の役人。前話は『〇伏猪床』も、実は、同じ小川村近くの幕府領の山林が舞台である。「伏猪床」は「ふしゐどこ」か。猪が自分で作った寝床の意だが、恐らく、猪の「ぬた場」であろう。

「小川村」福島県いわき市小川町地区(リンク先は夏井川左岸の広域を占める北側の小川町上小川。グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「閼伽井が嶽」「水精山常福寺」初出部にルビがなく、後に出る「閼伽井嶽」の「閼伽井」のみにルビが振られてあるのはママ。ここ。常福寺は真言宗智山派の寺院で、赤井嶽薬師の別名で知られる。

「夏井川」閼伽井嶽と水精山常福寺(下方に入れておいた)の北方のここ。]

〔諸国里人談巻三〕丹後国与謝郡天橋立<京都府宮津市内>に、毎月十六日夜半のころ、丑寅[やぶちゃん注:東北。]の沖より竜燈現じ、文珠堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを竜灯の松といふ。また正五九月[やぶちゃん注:正月と五月と九月。]の十六日の夜に、空より一燈くだる。これを天燈といふなり。また一火あり。これを伊勢の御燈といふ。

 土佐国幡多郡蹉跎岬《さだみさき》(高知より西三十里)[やぶちゃん注:現在の足摺岬の古い呼称。]蹉跎明神に、天燈竜燈あり。天にひとつの燈見ゆれば、同時に海中より竜燈現ずるなり。

 周防国野上庄熊野権現に、毎年十二月晦日丑の刻<午前二時>に竜燈現ず。また西の方五里がほどに竜が口といふ山より、矢を射るごとく飛び来《きた》る神火あり。里人、これを拝して越年す。

 相摸国鎌倉<神奈川県鎌倉市>光明寺の沖に、毎年十夜の内一両度竜燈現ず。はるかの海上、雲にうつりて見ゆるなり。

[やぶちゃん注:以上は実際には、総てが、独立項である。最初のものから並置すると、「諸國里人談卷之三 橋立龍」で、次は「諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈」(但し、寺名の由緒を語る後半分をカットしてある)、「諸國里人談卷之三 野上龍燈」、最後が、「諸國里人談卷之三 光明寺龍燈」である。それぞれ見られたい。]

〔奥州波奈志〕橋本正左衛門りうが崎の役人をつとめしころ、少々上の用金を廻し旅行のこと有りしに、東通りの道中にて四倉と云ふ所に著き、人歩(にんぷ)[やぶちゃん注:「人夫」。「人足」に同じ。]をつぎかへしに滞りて出《いで》ず。このあたりものさわがしきこと有りと聞きて、一寸も早くこの宿を行きぬけんと、いらだちてさいそくせしに、日も暮れかゝりしを、いそぎの用事といひたて、夜通しに人歩を云付けしかば、かご人足ばかり出たりしを、正左衛門かごにて先ヘ行き、養子ハ弥にめくばせして、用金入れたる荷物をさあらぬていにて残し置き、少しも早く追付き来れと云付けて立たりしに、八弥そのとし十八歳なりし。大事の荷物あづかり、心づかひいふばかりなし。宿にては物さわがしきをりふし、夜通しに荷廻しはしごくあやふし、ひらに一宿有りて明日早く出立あれかし、おそれて人歩も出がたしといはれて、いといと気もまどへど、よし途中にてこと有りとも、おめおめおぢ恐れて一宿しては、養父に云訳なしと心をはりて、荷物に腰をかけて人歩をひたすらにせっきしに、四ツ頃に漸く出《いで》し馬かたは十二三の小女両人なりし。まさかの時は足手まとひぞと思ふには、有《あり》かひもなく心ぼそけれど、ぜひにおよばず引立《ひつた》て行きしに、その物さわがしきと云ふは、今行きかゝる海辺、うしろは黒岩そびえたる大山、前は大海にて人家たえたる中程のいは穴に、とうぞく両三人かくれゐて、昼だにも壱人旅のものをとらへ、衣類身の廻りをはぎとりて、からを海になげ入れしほどに、人通り絶えしをりにぞ有りしと、まご[やぶちゃん注:「馬子」。]どものかたるを聞きて、いよいよ心もこゝろならぬに、はるか遠き海中より、さしわたし壱尺余りなる火の王の如き光あらはれ、くらき夜なるに足本(あしもと)の小貝まであらはに見えたり。はつとおどろき、あれは何ぞと馬子にとへば、こゝはりうとうのあがる所と申しますから、大方それでござりませうと答へて、はじめて見していなり。ことわりや十二三の小女、いかで深夜にかゝる荒磯をこすべき。八弥もおそろしとは思ひつれど、さらぬだに二人の小女ふるふふるふ馬引きゆくを、おぢさせじと気丈にかまへてひかせ行く。盗人の住むと云ふいは穴ちかくなりたらば聞かせよといひ置きしに、小声にてこのあたりぞとつげしかば、何ものにもあれ、出で来らばたゞ一打に切りさけんと、つばもとをくつろげて、心をくばり行き過ぐるに、小女云ふ。こよひはるすでござりませう、あかりがみえませぬと云ひしか。留守とみせてもふと出でくるやとゆだんせざりしが、盗人のうんやつよかりけん、頭もきられざりき。海中の光は三度迄みたりしとぞ。八ツ半<午前三時>過に先の宿にいたりしに、正左衛門は用金残して若き者に預け置き、ものさわがしと聞ていねもやられず。門に立ちてまちゐしが、遠く来りしかげをみるより、やれ八弥、不難にて来りしか、よしなき夜通しゝて大くをまうけしぞやとて悦びしとぞ。海のりやうをするもののはなしに、世に竜とうと云ひふらす物、実は火にあらず、至つてこまかなる羽蟲の身に蛍の如く光有るものの多く集れば、何となくほの如く見なさるゝものなり、夏の末秋にかゝりてことにおほし、時有りておほくまとまりて、高き木のうら、または堂の軒端などにかゝるを火の如くみゆる故、人竜燈と名付けしものなり、つくしのしらぬ火もこれなり、水上に生る虫[やぶちゃん注:先の正字との混在はママ。]にて蛍の類なり、沖に舟をかけてしづまりをれば、まぢかくもつどひくれど、いきふきかくればたちまち散てみえずなるなり、さればかならずこの日には竜とうあがるといふ夜も、大風吹き又は雨ふりなどすればあがらずと聞くを、この夜四くらにてみし光はこれとは異なり。いづれふしぎの光にぞ有りし。

[やぶちゃん注:私の只野真葛「奥州ばなし 四倉龍燈 / 龍燈のこと (二篇)」を見られたいが、同じ、真葛の「むかしばなし (92)」にも同内容の話が載る。]

〔四不語録巻一〕能登国富木の大福寺は、高津の観音と云ふ。山号は金竜山と云ふなり。昔より今に至るまで、毎月十七日の夜、竜燈上るなり。三ケ所より上るなり。今以て見たる者数多し。彼村の百姓室屋弥右衛門と云ふ者の弟何某、松が下と酒見との間に池有り。その辺にかけもちをするなり。然る処に十七日の夜の六つ半<午後七時>時分に、その池以ての外鳴るなり。池の辺《ほとり》に灯火見ゆるなり。その時さてはかの竜燈にてこれ有るべきと、薦(こも)をかぶりかくれて見る所に、十五六歳ばかりなるいつくしき童子、蠟燭のやうなる物を持《もち》て居《を》るなり。しばらく有りて火消ゆる様に見えて、その儘挑灯のごとくになる。蠟燭を挑灯の内へ入れさまに、くらくなる様《さま》の心地するとなり。谷峯を人の行歩《ぎやうほ》する如く越えて、大福寺山へあがり、半時たらず有りて、また右のごとくにして帰る。この時もまた池の中鳴りて、底へ入りたると見えし由語りけるを、聞きたる人の物語りにて爰に記す。延宝の中比の事なり。

[やぶちゃん注:「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「能登国富木の大福寺は、高津の観音と云ふ。山号は金竜山と云ふ」この名の寺は現存しない。石川県羽咋郡志賀町大福寺として地名で残る。思うに、現在の同地区にある高爪神社の別当寺ではなかったかと推測した。すると、「石川県神社庁」公式サイト内の「髙爪神社」(梯子高(「髙」)表記)に、『高爪山は、山容の美しさから、能登富士と呼ばれて』おり、『その頂上に高爪神社の奥宮が鎮座してい』る。『土地の人々は、「岳(だけ)」とか「岳山(だけやま・高く大きな山の意)」と呼んで崇拝してきた。おそらく、原始頃から、神体山として仰がれていたと思われる。やがて、農耕生活が始まり、大福寺・酒見川流域の野の民は農耕神として、また、浦の民からは航海神(近海航路の目標となって、加賀・越前沖からも姿見される。)として、農・漁民など幅広い信仰に支えられていた。こうした周辺住民の素朴な信仰の対象だった高爪山も、仏教の流入によって複雑なものに変わっていった。神社由緒書に寄れば、『往古は、内宮・外宮・末社八あり、内宮を六社宮と称し、日本武尊・菊理比叱他四柱の神を祀り、外宮を高爪神社と称し、串稲田姫命・事代主命・日本武尊の三柱の神を祀るものにして、七院あり』と記し、『持統皇(』十七『世紀)内外宮を国家安康の祈願所と定め、文武帝特に尊信せられ、大宝』三(七〇三)年六月、『『正一位真蘇坊洞ケ岳大明神の勅宣を賜る』と伝えている。最盛期には、数』十『人の神官・僧官が分立して、山麓に寺坊を建て』(☜)、『六柱の神(高爪大明神・気多大明神・白山妙理権現・伊須留岐権現・若王子・八幡大菩薩)を初め、山頂の祭祀を執り行った。そして、これを管理支配したのが、蓮華光院大福寺』(☜)『で、いわゆる神仏習合の時代が長く続くのである。しかし、明治』二(一八六九)『年、寺院を廃絶して神社だけの今日の姿になった』(☜「神仏分離令」発布の翌年)『のである。一方、前田利家をはじめ、歴代の藩主の崇敬が厚く、社殿の造営や社領の寄進などを行った御印物が現存している。特に』、(☞)『利家が十一面観音を安置して以来、高爪神社は観音堂としての信仰をあつめ、能登国』三十三『番観音霊所の第』二十六『番の札所として、今も観音講の信者の参詣が行われ、時々、御詠歌の合唱が杜から流れて来るのである』(☜)。『附記』:『当神社には、国指定の重要文化財『懸仏(かけぼとけ)六面』がある。鎌倉時代初期』(文永一二・建治元(一二七五)年)『のもので、かつては六社宮の本地仏である。木造彩画で他に類を見ない形式だといわれ、正統な絵師が描いたものである。前記六社の神名をはじめ、年記・願主が銘記されているので、高爪信仰を語る重要な文化財である』とあり、珍しく神社でありながら、観音信仰が現に生きていることが判明した。

「松が下と酒見」孰れの地名も「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、見当たらない。]

〔裏見寒話追加〕積翠寺山《せきすいじさん》の上の火、この山は府の北にあたる。夜陰はこの半腹に鞠の如き灯見ゆる。里俗これを竜火と云ふ。この火出れば三日を過ぎずして必ず雨降るといふ。

[やぶちゃん注:「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの『○積翠寺山の上の火』(本篇はそれを本文に入れ込んであるが、別本によるからであろう)。

「積翠寺山」山梨県甲府市上積翠町、舞鶴城後背の谷の最奥、にある臨済宗妙心寺派万松山積翠寺。武田信玄はここに建造された要害山城で誕生したとされ、境内には産湯を汲んだとされる井戸である「産湯天神」があることで知られる。ここにある温泉に泊まったことがある。]

2024/01/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜頭」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜頭【りゅうとう】 〔塩尻巻四十八〕遠江国天竜川<静岡県西南を流れる川>の西頓(やが)て河下に、頭陀寺とて薬師を安んずる密院あり。この寺に竜の首とて、いと大きなるされかうべあり。(先年江戸ヘ持来て見せし)竜の故事さまざまいへり。天竜川の称もこの竜頭より起れる名と云々。京師建仁寺に鬼の首とて、凡そ一尺ばかりの髑髏侍りし。これは由縁もたしかならず。故に前の住職の僧、よからぬ物とて人に取らせられしと都の僧かたりし。今はいづくにかありや。すべて諸寺の蔵に奇怪の物多し。世人あやしきを好むのみ。 〔閑田耕筆巻一〕水戸宍戸(ししど)(苗氏にも有りて、完と書くは誤りなり。肉と同字にて、国訓しゝといふなり)といふ所に、稲田姫を祭れる小祠あり。この辺の崖(きし)崩れたるを修《をさ》めんとするに、あたる物あり。何ならんと掘りてみれば、大なる甕(かめ)のごとし。かの鋤にふれて欠けたる所を取あげ見れば大なる歯骨なり。猶この甕のごときもの、限りもしられず、歯も随ひて数あり。官の検《しらべ》を得て、この歯を奉りしが、一枚の重サ三貫五百目[やぶちゃん注:十三キロ百二十五グラム。]なり。彼《か》の甕のごときは、竜頭に決す。猶掘ラ[やぶちゃん注:ママ。]ば全体顕《あらは》るべけれど、益なしとてやみぬ。伝説なければ由縁はしらねども、稲田姫を祭れるも、もしくはこの竜の妖を鎮めんがため、八股(やまた)の蛇(おろち[やぶちゃん注:ママ。])の故事をおもへるにやと、かしこに仕官せし人かたりぬ。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ上段後ろから六行目)から正字で当該部を視認出来る。

「頭陀寺」静岡県浜松市南区頭陀寺町にある高野山真言宗頭陀寺(ずだじ:グーグル・マップ・データ)。

「竜の首」現存しない模様である。人造物だろう。

「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここ(左ページ冒頭)で当該部が正字で視認出来る。

「水戸宍戸(ししど)」「稲田姫を祭れる小祠あり」不詳。茨城県笠間市大田町に宍戸があるが、この地区には、稲田姫を祀る神社は見当たらない。気になるとすれば、北方向にある飛龍神社であるが、稲田姫は祭神ではない。友部駅近くに「小祠」があるが、祭神は確認出来ない。遙か西北になるが、茨城県笠間市稲田にある稲田神社が名にし負う神社ではあるが、よく判らない。龍の首を神宝とする現存する神社は、この周辺には、ない。しかし、古くからよく参考にさせて頂いている龍の最強サイト「龍鱗」の「稲田姫神社の大蛇 茨城県笠間市」に興味深い伝承と解説があった。

   《引用開始》

稲田姫神社は式内の古社だが、その森には大蛇が住んでいたという。昔、ある坊さんが立ち寄り、貧しく供えるものがないので、一心に読経をしてお参りした。そして、休んでまた道を行くと、大風が出て黒雲が覆い、沢山の化け物どもが追いかけてきた。それでまた一心にお経を唱えると、化け物は消え、坊さんは助かった。

坊さんは鹿島神社に行くと、お経をあげ、稲田社で斯様なことがあったのはなぜか、悪い神のたたりだろうか、と神前で問うた。すると夢に鹿島の神がたくさんの神々を連れて現れ、取り調べてみようといい、神兵が稲田に飛ぶと、白髪の老人を連れてきた。

鹿島の神は、老人に、人々を守る仕事をしないで脅かすとは何事か、と老人・[やぶちゃん注:ママ。「が」「は」か。]稲田の神を詰問した。すると老人は、数百年生き、神通力をもった大蛇に神社を奪われ、自分は木の根に住んでいる始末であると訴え、この度の怪異もその大蛇の仕業であると申し述べた。

鹿島の神はこれを聞くとただちに五千の神兵を行かせ、大蛇を討ち取らせた。戻った神兵が持ってきた白蛇の首は、四、五メートルもあり、角は鋭く、耳は箕のように大きかった。

目覚めた坊さんが、急ぎ笠間に戻ると、稲田神社は焼けて灰になっていた。村人に聞くと、昨夜急に大嵐がおこり、雷の音に弓矢の音や叫び声が混じり、黒雲が火を吹くと神社はたちまちに燃えたのだ、と語った。そのあとには、五、六メートルもある首のない大蛇の死体が転がっていたという。

   《引用終了》

以上は、『笠間文化財愛護協会』の「笠間市の昔ばなし」『(筑波書林)より要約』とある。而してサイト主は、『『続お伽婢子』から、とあるので、近世にはこのように語られていたのかもしれない。もとより奇稻田姫を祀るはずの稲田神社だが(「稲田姫の大蛇退治」など)、ここでは神は白髪の老翁になっている。近世あたり』、『稲田神社は相当荒廃していたというが、伝も不明瞭になっていたのだろうか』。『それでも、やはり蛇と縁の深い社だというイメージはあったのだろう。話の上では邪な大蛇であるばかりだが、地主が蛇だという所でままこのようにも語られるものではある』。『水戸の御老侯(は、実際に稲田神社の荒廃を嘆いて旗幟を寄進しているのだが)が例によって、神殿の扉を開けようとしたところ、扉に手が挟まり抜けなくなった、などという話もあるが、これをやったのも大蛇のほうかもしれない』とあった。「龍の首」ではなく、「首のない龍の死体」という反転内容であること、近世には、かなり稲田神社が荒廃していたという記載から「小祠」が納得はされる。

「大なる歯骨」やや重さが過剰だが、恐らくは、軟骨魚綱ネズミザメ目Otodontidae 科(或いはネズミザメ科 Lamnidae)オトドゥス Otodus 属或いはカルカロクレス又はホホジロザメ属 Carcharodonムカシオオホホジロザメ Otodus megalodon 或いは Carcharodon megalodon で、約二千三百万年前から三百六十万年前の前期中新世から鮮新世にかけて生息していた絶滅種のサメの歯である。ウィキの「メガロドン」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜石【りゅうせき】 〔折々草夏の部〕大和の国上品寺《じやうほんじ》とふ里に行きて遊びて侍るに、この主《あるじ》物語りしき。主の従兄弟は同国高取《たかとり》といふ城下《きもと》に、土佐といふ所に侍り。久しく訪れざりしかば如何にと思ひて、水無月望(もち)ばかりに、いと暑き頃なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出でて往きける。道は三里ばかりなれば、明けむとする頃は参り著《つ》くべしと思ひて行くに、其所へは今五丁《いつところ》[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ばかりにて、やうやう東《ひんがし》の空白みたるに、いと疾くも来りぬ。少し休らはゞやと思へど、この辺は皆《みな》野らにて、芝生の露いと深く、直居《ひたを》りに居《を》りかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出でて、行きて腰かけむと思へど、蚋(ぶと)などや多からむに、此所《ここ》へ持《も》て来むとて、手を打ちかけて引くに、見しよりはいと軽《かろ》らかに侍る。大さは二尺《ふたさか》ばかりにて、鈍色《にびいろ》せる石なり。これを道の真中《まなか》にすゑて、清らを好む癖の侍るに、手拭《たなごひ》のいと新しくて持ちたるをその上に打敷《うちし》きて、さて腰かけたれば、この石撓《たは》む様《さま》にて、衾《ふすま》などを畳み上げて、その上に居《を》るばかりに覚えたり。奇《く》しき事とは思へど、心がらにや侍りけんと、事もなく居りて、火打袋《ひうちぶくろ》を取出《とうで》て火を鑽《き》りおこし、下部《しもべ》にも煙草食《たう》べさせなどし、稲どもの快げに青み立ちたるを打見やりて暫時《しばし》ある間に、朝日のいと紅《あか》くさし上る。いざ歩まむとて立ちで、道二町《ふたところ》ばかり行くに、汗のしとゞに流れて唯暑くおぼえけり。清水に立寄りて顔など洗ひ侍るに、何となく臭き香《か》の堪へがたくしけるを、何ぞと思へば、かの手拭《たなごひ》にいたく染《し》みたる香なり。何に似たるかをりぞと思ふに、小蛇《をろち》[やぶちゃん注:後掲する所持するものでは、単に『蛇(オロチ)』(「オ」はママ)とある。]の香にて、それが上《うへ》にえも言はず臭き香の添ひたるなり。此(こ)はけしからぬ事かな、かの石の上に彼《かれ》[やぶちゃん注:蛇。]が居り侍りけむ名残《なごり》なり。さて洗ひ落さむと思ひて、清水に打漬(《うち》ひ)ぢて[やぶちゃん注:浸しては、ごしごしと。]洗へども中々に去らず。水に入りては猶臭き香の募りて、頭《かしら》にも通るべく覚えけるに、手拭《たなごひ》は捨て遣《や》りける。さて手も体も物の移りたる、堪へがたければ早く行きて湯浴《ゆあみ》せんと、急ぎて従兄弟《いとこ》の許(がり)行きつけば、皆《みな》集会《まどゐ》して朝食《あさげ》にかあらむ物食《たう》べて侍るが、主の曰く、久しく見えたまはざりし、かゝる暑き時に暁かけて来たまはせで、かく日の盛りには何しに出でおはしたると聞ゆ。この男聞きて、寅の時にいでて唯今麓にて夜の明けてさむらへ、主《ぬし》達も今、朝食《あさげ》参るならずやと言へば、家の内の人みな笑ひて、何所《いづこ》にか午睡《ひるい》して寝《ね》おびれたまへるならむ、空は未《ひつじ》の頭《かしら》[やぶちゃん注:午後一時頃。]にてさむらへ、けふは昼飯《ひるいひ》の遅くて、只今食《たう》べ候ふと言ふに、少し怪しくなりて空を見れば、日ざしも実《げ》に然り。また暑き事も朝の程ならず。下部を見れば、これも唯怪しく思へる顔附にて、道にも何も程過《すご》すばかりの事はしたまはず。火を鑽りて煙草二吸《ふたす》ひばかりして侍るのみなりと申すに、主《ぬし》どもがそれは彼《か》のにて侍らむ、山の麓には良からぬ狐《きつ》の折々さる業《わざ》して侍る事のあるにと言へば、いな狐とも覚えず。かうかうなむ侍る事のありて、その香のいまだ去らず侍るに甚(いた)く悩めり、湯浴《ゆあみ》せばやと言へば、主打驚きて、それは悪しきめに遭ひたまへり、かの石は竜石《りゆうせき》とて、この辺《わたり》には構へて侍り、その化物は何に侍るとも知らねど、必ず小蛇《をろち》の香のし侍るを以て、所の者は竜《りゆう》の化けて侍るなりとて、それをば竜石とは申すなり、これに触れたる人は、疫病《えたしやみ》[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及ぶ者多し、御心《みこころ》は如何《いかに》に侍ると言ふに、忽ちに身の熱(ほとぼり)来て[やぶちゃん注:発熱を起こし。]、頭《かしら》も痛くいと苦しくなりし程に、従兄弟は薬師(くすし)なりければ、心得て侍りとて良き薬を俄かに煎(に)させて、また体《からだ》の香のとまりたるをば、洗ふ薬を以て拭《のご》はせなどしけり。この家に斯《か》く病臥《やみふし》してあらむも如何《いか》に侍れば、帰りて妻子《めこ》どもに看護(みと)らせむとて、その日の夕つかた、籠《かご》に乗りて呻きながら帰るべくす。また主《あるじ》の曰く、かの休みたまふ所にて見させよ、必ずその石は侍るまじきにと聞ゆるに、下部ども心得て、かの石は道の真中に取出《とうで》て侍りけるとて、行きかゝりて見れども更に無し、人の取退(とりの)けしにやと遠近《をちこち》見れども、もとより石一つなき所なれば、有るべきにもあらず。さては化けたるなりけり。己《おのれ》は下部だけに地《つち》に居《を》りて侍れば、石には触れざりけるとて、幸(さち)[やぶちゃん注:後掲する所持本では、ルビは『サイハヒ』(ママ)となっている。]得たる面附《つらつき》して帰りにけり。かの男は葉月ばかりまで甚《いた》く病(わづら)ひて、やうやう癒え果てぬと。さて後は子供等《わ》にも誰《たれ》にも、山に往きては心得なく石にな腰かけそと、教へ侍りきと聞えし。

[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○龍石といふ事』である。私は「新日本古典文学大系」版(同作の校注は高田衛。一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、標題も『龍石をいふ条』で、各所に表記上の異同があるが、読みが、かなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多いが、時に歴史的仮名遣に誤りがある。というか、恐らくは当時の口語表現のそのままともとれる)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。綾足は漢字の読みに独特の拘(こだわ)りがあるのだが、宵曲はそれをかなり無視しており、ちょっと残念である。以下、「新日本古典文学大系」版を参考に注を附す。

「大和の国上品寺」現在の橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「同国高取といふ城下に、土佐といふ所」奈良県高市郡高取町上土佐下土佐附近。高取城があり、植村氏の二万五千石の居城があり、その大手口の総門が、上土佐の南東に接する同町の下小島(しもこしま)にあった。

「水無月望(もち)ばかり」旧暦七月十五日頃。年次が不詳なため、グレゴリオ暦では提示出来ない。

「寅の時に出でて往きける」歩きが基本の江戸時代には、暁方の早出は当たり前であった。

「直居りに居りかねたれば」高田氏の注に、『地べたに坐るところがなかったので』とある。

「見かう見する」あちらことらを見ること。

「蚋(ぶと)」双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeブユの類。関東では「ブヨ」、関西では「ブト」と呼ぶ。六年住んだ富山が「ブト」だった。当該ウィキによれば、『カやアブと同じく、メスだけが吸血するが、それらと違い』、『吸血の際は皮膚を噛み切』って『吸血するので、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れる。その際に唾液腺から毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(アレルギー等、体質に大きく関係するが)患部が通常の』二、三『倍ほどに赤く膨れ上がり』、『激しい痒みや疼痛、発熱の症状が』一~二『週間』ほど『現れる(ブユ刺咬症、ブユ刺症)。体質や咬まれた部位により腫れが』一『ヵ月以上ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと』、『完治まで数年に及ぶことすらある。多く吸血されるなどした場合は』、『リンパ管炎やリンパ節炎を併発したり』、『呼吸困難などで重篤状態に陥ることもある』とある。高二の時、親友と夏にテントを担いで能登半島を一周した時、海辺でキャンプすると、大攻撃を受けた。また、始めてワンダーフォーゲル部の顧問になって、丹沢を一泊で縦走して蛭ヶ岳へ行った際、私の生徒たちもさんざん刺された。私はそれでも予後がよかったが、女生徒の数人は、二ヶ月近く、黝ずんだ瘢痕が消えず、可哀そうだったのをよく覚えている。

「鈍色」濃い灰色のこと。平安時代には、灰色一般の名称であったが、後に「灰色」・「鼠色」にその座を取って代わられた。高田氏の注では、『本来は橡(つるばみ)で染めた濃い鼠色をいう』とあった。「橡」はブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima の異名。実(どんぐり)や樹皮を用いる。

「衾」掛け布団。時に野宿の可能性があり、江戸時代の長旅では、携帯していた。

「小蛇の香」恐らくは、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora であろう。きゃつを捕まえると、独特な臭いを出すことがある。これはアオダイショウの尻尾の付根にある総排泄口附近にある「臭腺」から出るもので、褐色の液体で、非常に臭い。これはただ臭いだけで、毒があるわけではない。まさに「青大将」で青臭い他で喩えることが出来ない独特な匂いである。私は蛇好きで、幼稚園の頃は、毎日のように大泉学園の弁天池や、その周囲の廃田圃できゃつらを素手で捕っては、首に巻いたり、友だちが捕ったものと、「どっちが長い?」と比べっこするほど、蛇耐性が高かったから、この臭いは、よく覚えている。しかし、不思議に、私は臭いとは思わなかった。不思議である。

「頭にも通るべく覚えける」頭痛がするほどの悪臭であることを言う。

「物の移りたる」高田氏の注に、この「物」は『臭気のみでなく、何か得体のしれないものが染みつく感じ』を言うとある。

「許(がり)」接尾語で、人を表す名詞・代名詞に付いて「~のもとに・~の所へ」の意。

「集会《まどひ》して」円座して。

「寝おびれ」寝ぼけることを指す。

「彼《か》の」高田氏は『不詳。「かの」という妖異か。または、例のものの意か』と注しておられる。

「竜石」高田氏は『不詳』とする。所持する木内石亭「雲根志」に「龍石」はあるが、kれは国立国会図書館デジタルコレクションのこれで、硯から龍が昇天した話であって、本話とは親和性がない。似たような話も、私の知る限りでは、同書には、ない。

「この辺には構へて侍り」「人が来るのを待ち構えております」。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜光寺村岩屋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜光寺村岩屋【りゅうこうじむらいわや】 〔譚海巻四〕下総成田不動尊の近きあたりに竜光寺と云ふ村有り。それに四つの井、三つの岩やといふ物あり。この井にて一村飢渇に及ぶ事なし。岩屋は二つならびて、大なる塚の裾に有り。一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有り。岩屋の入口の大さ壱間に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石の如きを、二つをもて扉とせり。岩屋の内、皆大なる石をあつめて組たてたるものなり。その石にみな種々の貝のから付きてあり。この石いづれも壱間に壱尺四五寸の厚さの石どもなり。岩屋の内六七間に五六間も有り、高さも壱丈四五尺ほどづつなり。この村辺にすべてかやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壮大なるものを造りたる事にや、由緒しれがたし。村の者は隠里とてそのかみ人住める所にて、よき調度などあまた持ちたり、人の客などありてねぎたる時は、うつはなどかしたり、今もそれをかへさでもちつたへたるものありといへり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之四 下總國成田石の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「流言」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 流言【りゅうげん】 〔反古のうらがき巻一 〕文政の中年、さる屋敷より病人を釣台にのせて持出し事ありしに、何者申出しけん、この辺に死人を釣台にのせて、人なき所に捨る者あり、人々用心し玉へといひけること、市谷柳町<東京都新宿区内>より初まりしよし。江戸中大体一面に行渡り、本所・浜町・麻布・青山へん迄、皆屋敷々々に番人を出し、高張り挑燈にて守りしに、二三日にして止みけるとなん。その後一二年過ぎて秋の末つかた、月殊に明らかなりし夜、予<鈴木桃野>門外に出で、舎弟と俱に月を賞し居《をり》しに、四ツ頃と思ふ頃、向うより高声に語りて来る人あり。音羽と書きたる永挑燈《えいちやうちん》をともし、とびの者体《てい》なる人二人なり。その語に、世には残忍なる人も有る者かな、あの女の首はいづこにて切りたるか、前だれに包みたれば、賤しきものの妻にても有るべし、切りたるは定めてその夫なるべし、間男などの出入(でいり)と覚えたり、今捨てんとして咎められ、また持去りしが、何れへか捨つべし、その時は迷惑なる者なりといふ話なり。予これを聞きて呼留め、何(いづ)こにての事と問へば、さては未だ知り玉はずや、こゝより遠からず、市ケ谷焼餅坂上なり、夜深けて門外に立ち玉ふは、定めてその捨首の番人かと思ひしに、さにてあらざりけり、こゝより先は皆家々に門外に出で番をするぞかしといひて、打連れてさりけり。予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣申付け、よく番をさせ置き、入りて眠りたりしが、兎角心にかかる上に、辻番所に高声に右の物語りなどするが、耳に入りて寝られず。立出で見れば、最早九ツ半時<午前一時>の拍子木を打ち、番所の話を聞けば、組合より申付けられたれば眠る事能はず、さればとていつはつべき番とも覚えず、もし油断して捨首にてもある時は、申分に辞《ことば》なし、如何にせましといひあへり。予も余りにはてしなき事なれば、最早程も久し、捨首あらば是非なし、先づ休むべしと申渡し、入りて寝けり。明る日あたりを聞くに、口惜しや、あざむかれぬといひてやみけり。この訛言も小石川巣鴨へん、本郷より浅草・千住・王子在などの方に広がりて、北の方いづこ迄かしらねども、大いにおどろきさわぎたるよし。予親しく聞きたれども、誰にも告げざれば、このあたりは却つてしる人なし。音羽といへる挑燈なれば、これへかへりかへり申触れたるか、その先迄申伝へたるなるべし。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 訛言」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜穴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜穴【りゅうけつ】 〔諸国里人談巻四〕信州安曇郡の山中嶋々といふ里の山岸、水神の社の下に大きなる穴あり。その裾を梓川(善光寺の犀川の水上なり)と云ふ大河流れたり。この川水派(わか)れてこの穴に入り、水末いづこといふ事をしらず。

 里俗に云ふ、近世強盛のものあつて、その奥をはかり見んと、炬火を以て水の涸れたる時、この穴に入りて、凡そ三町ばかりも行きたるに、しきりに腥き風ふき来て松明を消したり。何となく怖ろしかりければ、逃げる心にして立帰りけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之四 龍穴」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は全部で八話から構成されており(ここが底本の冒頭)、やや長い。各々の単話は、改行なしで示されてあるが、改行し、それぞれの、その切れ目で注を挿入した。]

 

     

 

 竜【りゅう】 〔甲子夜話巻十一〕明和元年大火の後、堀和州の臣川手九郎兵衛と云ふ人、その君の庫の焼残りしに庇《ひさし》を掛けて、勤番ながら住居《すまふ》なり。その頃大風雨せしこと有りしに、夜中燈燭も吹消したれば、燧箱《ひうちばこ》をさがすとて戸外を視れば、小挑灯の如き火二つ雙《なら》んで邸《やしき》北の方より来たり。この深夜且《かつ》風雨はげしきに、人来《きた》るべきやうもなしと怪しく思ひながら火を打ち居《をり》たるに、頓(やが)てその前を行過《ゆきすぐ》る時、見れば火一つなり。いよいよ不審に思ふ内、そのあとに松の大木を横たへたる如きもの、地上四尺余を行く。その大木と見ゆるものの中より、石火の如き光時々発したり。その通行の際は別《べつし》て風雨烈しくありき。かゝれば先きに雙灯《さうとう》と見えしは両眼、近くなれば一方ばかり見ゆるより一つとなり、大木はその躬《み》にして竜ならんと云ひしと。また同じ時下谷煉塀《ねりべい》小路の御徒押林善太夫の子善十郎、年十六なるが、屋上に登り雨漏を防ぎゐたるに、これも空中に小挑灯の如き雙火の飛行するを見たるとなり。彼の竜の空中を行きしときならん。奥州荘内藩の某語りしと聞く。その人かの藩の城下に居《をり》しとき、迅雷烈風雨せしが、夏のことゆゑほどなく晴れたり。このとき家辺を往来するもの、何か噪り[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じだが、読めない。後掲リンクする『東洋文庫』版原本では、『噪く』で「さわがしく」と読める。「り」の宵曲の誤記或いは初版及び改版の誤植であろう。]言ふゆゑ、出《いで》て空を仰ぎ見たれば、長《た》け二丈余もあらん虵形《じやけい》の頭《かしら》に黒き髪長く生下《おひさが》り、両角《りやうづの》は見えざれど、絵に描《ゑが》く竜の如くなるが蜿蜒《ゑんえん》す。視るもの言ふには、今や地に落ち来たらん。さあらば何ごとをか引出さんと、人々懼れ合ひたり。この時鳥海山の方《かた》より一条《いちでふ》薄黒き雲あしはやく来りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとゞくと等しく、一天墨の如くなりて大雨《だいう》傾盆《けいぼん》す。暫くしてまた晴れたり。そのときは虵形も見えざりしと云ふ。如ㇾ此きもの洋人の著書(書名ヨンストンス)見えし[やぶちゃん注:ママ。「に見えし」の脱字か誤植。]。また仙波喜多院の側に小池あり。一年旱《ひでり》して雩(あまごひ)せしとき、その池中より一条の水気起騰《おこりのぼ》りて、遂に一天に覆ひ、大雨そゝぎ、大木三十六株捲倒《まきたふ》せしことあり。所謂たつまきならん。その竜を観んとて、野村与兵衛と云ふ小普請衆、天をよく視居《みをり》たれど、ただ颱風《たいふう》旋転《せんてん》して竜のかたちは少しも見ずと予<松浦静山>に語れり。

[やぶちゃん注:本篇は事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事」として電子化注しておいた。]

〔異説まちまち巻二〕松浦氏妻は、おやまと名をいひしなり。おやまの姉かたられしは、羽州酒田にての事なりしに、夏の事にや、晴天の中天に竜の頭のみ見えけり。牛のかしらのごとくにてありしが、目のひかりすさまじかりし。若《も》し下へ下《くだ》るとて、みなみな出《いで》ておひけれども、只そのまゝの体《てい》にて居たりしが、段々四方より雲出て、竜のきはへよりよりして、雲につかみかくれけるとなり。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る(右ページ中央やや右寄りから)。

「松浦氏妻」長蘿堂氏のサイト「ろんがいび」内の田中光郎氏の『「和田烏江『異説まちまち』と赤穂事件」によれば、本書の作者和田烏江(正路)は『和田庄太夫と』称したが、『和田家の先祖についてはあまり書くことがなかったらしいが、母方の松浦氏についてはある程度』、『情報がある。高祖父は松浦石見とて尼子家の浪人、大坂で書を教えていたという』。『曾祖父は松浦金太夫といい、馬にまたがって足が地に着くほどの大男』で、『祖父は松浦長左衛門であるが、これは高力氏から養子に入ったらしい』。『藤兵衛という外伯父は承応元年』(一六五二)『生まれの由』で、『寛文』二『年』(一六六二)『生まれの母が庄内に育っていることから見れば、松浦氏は庄内藩士だったのであろう』とあることから、母方の親族であることは、判った。]

〔同上〕姫路にて、夏の事なるに、土用干をしけるに、空曇り夕立のすべき景気なるゆゑ、干たるもの共、みな取入れけるに、屋敷の裏の畠《はた》の内に、赤くひらめくもの見えけるをみつけて、急ぎて仕廻(しまふ)とて毛せんを取落しけると思ひて、畠のかたヘ一人ゆきけるに、ひつかりとするやうに見えけるまゝ見けるに、毛せんと見えたるは紅《くれなゐ》の舌にて、光りたるは眼のひかりにて有りける。かのもの驚きて、物も覚えずかけいりてたふれたり。しかるうちに雨風おびたゞしく、夕立冷(すさま)じき事なりし。畠の脇へ出《いで》て竜の天上しけるなり。よくよく強き風にて、雨戸共吹きはづしけるが、皆塀《へい》ぎはへ吹付けて、不ㇾ残立掛《たてか》けて有りけるとなり。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの前の記事の次に続いてある。]

〔斉諧俗談巻五〕『和漢三才図会』に云ふ。或人、船に乗りて近江国琵琶湖<滋賀県内>を過る。北浜といふ所にて暫く納涼す。時に一尺ばかりの小蛇、游ぎ来り、蘆の上にて廻舞して、また水上を游ぐ事十歩ばかり、また蘆の上へ上る事、はじめの如し。斯の如くする事、数遍におよぶ毎に、漸々に長くなり、既に一丈余におよぶ。しかるにたちまち黒雲おほひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)の降る事、車軸に似て、天に升《のぼ》りて纔かにその尾を見る。終に大虚(おほぞら)に入りて後《のち》晴天となると云ふ。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。殆んど総てが引用の堆積物で、これもそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(標題は『○龍升ㇾ天(りやうてんにのぼる)』)で当該部を正字で視認出来る。左ページに挿絵がある。所持する吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して、以下に掲げる。

 

Saikaizokudanbiwakoryu

 

なお、引用元の正規表現版は、私のサイト版『「和漢三才圖會」卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類』(昨年、リニューアルした)の冒頭の「龍」総論の中に出るので、参照されたいが、杜撰で、途中の一部をカットしているため、以下に引用する。漢字表記は所持する当時の板本原本のママ。一部は私が句読点、及び、読みと、送り仮名の補助(意味補塡を含む)を行っている。

   *

 凡そ龍蛇は皆、紆行(うかう)して、四足有る者は、龍の屬たり。手足無き者は、蛇の屬と爲す。然るも、龍蛇、本(も)と、一類たり。春夏、龍の天に昇るを見れば、徃徃(わうわう)にして、之れ、有り。或人、舩に乘り、琶湖(みづうみ:琵琶湖。)を過(よぎ)る。北濵に着きて、少-頃(しばら)く納凉す。時に、尺ばかりの小蛇有りて、游(をよ)ぎ來り、蘆の梢に上(のぼ)り、廻舞(くわいぶ)して、下りて、水上を游ぶこと、十歩ばかり、復た、還り、蘆の梢に上ること、初めのごとし。數次、漸く長じて、丈ばかりに爲る。蓋し此れ、外天(げてん)の行法か、是に於て、黑雲掩(おほ)ひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)降ること、車軸に似て、龍、天に昇る。纔(わづ)かに尾を見る(のみ)。遂に太虛に入りて、晴天と爲る。

   *]

〔蕉斎筆記〕絵にかける竜と云ふもの、その形見たるものなけれども、この昔二十年跡の事にて、十河《そがう》何某といふ者、奥山氏へ仕へ江戸往来せしに、木曽の落合へ泊りけるに、五月頃の事にや、宿屋の座敷より見けるに、その頃田植時分にて、夥しく早乙女ども田を植ゑけるに、二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]程も間のありける時に、何となく薄曇りけるが、野辺の男女蟻の這ふやうに皆々連立ち帰れり。亭主にその事を尋ねけるに、それは竜の天上するにて候、追付《おつつけ》け夕立いたし申すべし、雨戸を閉ぢて外を見まじきとて、俄かに蒼朮《さうじゆつ》を買ひふすべ立てけるゆゑ、真くろにして蹲《うづくま》り居《を》るに、右十河と外に一人、あまり見たくおもひ、雨戸を一寸ばかり明け外を見けるに、俄かに諸方とも真黒になり、雨夥しく風吹き来り、その雲を舞ひ揚げけるが、折々稲光りしけるに、芋蟲の様なるもの、光りにつれて顕れける。また頭と覚しき所は、海老のあたまのやうなるもの顕れけるとなり。その後雷鳴になり夕立夥しく、誠にうつすがごとくとなり。暫時に照上《はれあが》り快晴になりけり。誠に不思議なる事なり。雲中に顕れたるは、いかにも絵にかける竜の如しとなん。その頃雨風の時分、子供一人舞ひ揚げられ即死し、旅人一人は松の木へ取付き居て、笠を吹上げられ、危き命を助かりけるとなん。落合辺には度々竜の天上することありて、曾て珍しからざるよし。

 また青雨《せいう》咄しけるに、この前京都に逗留せし頃、東寺の近所畠の中より煙の根に高く揚りけるが、人々竜の天上するなりと申しけるが、その烟段々天へ上《のぼ》りけるに、少しばかりの雲空にありて、その煙雲へとゞくと見えけるが、直に大夕立になりけるとなり。その後畠へ行き見るに、五六間[やぶちゃん注:約九~十一メートル。]ばかりの間穿ち、畑物枯れ居《をり》けるよし。土中に蟄《ちつ》せしが一時に発昇《はつしよう》せしなるべし。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段五行目から次のコマまで)で視認出来る。

「木曽の落合」中山道の落合宿(グーグル・マップ・データ)

「蒼朮」(そうじゅつ)」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。しかし、ここで何故、それなのかは、判然としない。

〔奇異珍事録〕前にいへる京都御普請、翌《あく》る亥年八月頃は、半ば御出来《ごしゆつたい》にて、同月十一日には太田播磨守にも見廻られし。その時下賀茂の辺に火事有りと騒ぎ立ちけるまゝ見し所に煙りにあらず、雲の立登るなり。然しその中に火の子のごとき物ひらめき吹き散る。その日は朝より薄曇りたるが、件《くだん》の雲の登りて曇りの天に至ると見えしが、水のうづまくごとくして雷鳴する事両三声、誠に竜の画《ゑ》の雲にことならず。すさまじき気色にて、大粒の雨も降り出で、風も起りたれども、雲一天におよばず。登りたる所ばかりなりし。兎や角する内、火事にはあらず。竜の天上するなりと人告げたり。その雲の中、竜の容《かたち》の如く晴間も見え、または色々替りたる雲にてあざやかに見えし。竜の巻く時は必らずそのごとき物なるよし、加藤文麗子にも咄し有りき。程なく件の雲も山の方へをさまり、夕方は天静かになりたり。昔より語り伝ふは、竜の天上するを見し者、かならず青雲に至るとなり。その時見しは、

 太田播磨守 京町奉行より小普請奉行、その後御勘定奉行にて卒す。

 吉川三郎右衛門 御勘定組頭より御本丸御表御門番の頭。

 木室庄左衛門 御徒目附より小普請方、夫より御広敷番の頭。

 安井甚左衛門 御勘定より清水郡奉行。

 吉江治郎左衛門 支配勘定より小普請方改役、夫より小普請方。

 右各〻転役して堅固に勤む。さあらばかの竜の上りたりを見しも、よき前表ならめ。その竜は砂川藪屋敷と云ふより出たる竜のよし。始め火の子のごとく見えしはそのあたり草畑なり、それを巻きしにより、葉吹き落つるにて有りし。砂川ゑびすと云ふ茶屋にて委しく聞けり。

[やぶちゃん注:目撃者の名の下の、その後の昇進の説明部分は、底本ではポイント落ちである。これらの人物は注する気はない。悪しからず「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(標題『○見龍』)で視認出来る。

「前にいへる京都御普請」ここの『〇質知』を指す。そこに『明和三戌年』とクレジットがある。

「翌る亥年八月頃」明和四年丁亥。旧暦八月は、グレゴリオ暦では一七六七年八月二十四日から九月二十二日相当。]

〔耳囊巻二〕寛政五辰八月廿五日の事なる由、駒込富士境内に護摩堂あり。浅間の社、その外寺よりは少しはなれけるに、右堂へ年若き僧至りて、香花など始末なして、不動尊を祈念なしけるに、頻りに不動は申すに及ばず、こんがら精高十二天、各々動きけるゆゑ、甚だ物凄くなりて、早く堂を立出でしに、右堂の脇に大木の松有りしが、一本の処、二本同じ様に連なり寄りて立てるゆゑ、怖ろしき儘、本堂の前に至り、遠くこれを見しに、一本の松は段々上へ上る様に見えし。先にほのほを燃出て、見るも中々恐ろしかりしに、黒雲立おほひ、右地をはなるゝと見しに、怖ろしき物音して、大雨頻りにふり出《いで》しとや。暫く過ぎ、雨はれて、彼所を見しに、堂も一丈程地中へおち入りけると、その所のもの来りて語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之九 駒込富士境内昇龍の事」を参照されたい。]

〔宮川舎漫筆巻五〕竜昇天につき珍らしき一奇談あり。頃は寛政年の事なりしが、小日向大曲(おほまがり)にて竜昇天せしが、爰に一ツの奇談あり。昇天の前に、ひとりの老僧ありて、小日向近辺の家々に至り申置く趣は、私儀心付きし義御座候儘、御心得の為申上候、近き内風雨有るべし、その節、近辺より竜昇天なすべし、その折は御他出は猶更、御小児等御心付けなさるべき旨、申捨《まふしす》てにして廻りし処、小日向大曲西頰(にしがは)にて、さる御旗本にて上橋某、この口上を聞き、そのものをとゞめ座敷へ通し、土橋氏罷り出で、御口上の趣、御深切の段忝《かたじけな》く候、さてその竜昇天の儀は、何《いづ》れより御聞伝へに候やと問ふ。右の僧が曰く、この儀は拙僧年来《としごろ》ためし見候儀にて、斯(かく)晴天打続き、俄かに風雨の節は竜昇天まゝ有ㇾ之候故、御心得のため申上候までの義にて候よし、いかにも怪しき事ども有ㇾ之、土橋氏いはく、さてさていぶかしき義にて候、若しや貴僧昇天の事にては無ㇾ之やといへば、僧暫く無言なりしが、御察しの通り拙僧昇天いたし候といふ。土橋氏、さらば昇天の日はいつ頃にやと問ひしに、さればにて候、昇天の時至れども、いまだ水なし、右ゆゑ風雨を待居《まちゐ》るよし答ふ。土橋氏がいはく、その儀は心得がたし、見らるゝ通り小日向の流《ながれ》は水ならずやといへば、あれは流水にて、我水にあらずして用ひ難し、天水は自然の水にして、我水もおなじ。土橋氏またいふ。若し水入用ならば進ずべしといへば、彼もの大いに歓び、水少しにても給はらば、直《すぐ》にも昇天、心のまゝのよし申す。さらば此硯の水を進ずべしとて、神酒陶(みきどくり)に入れて出《いだ》せば、彼者歓び、この水にて昇天いたし候、しるしをば御目に懸け申すべしと、厚く礼を述べ、立帰りしかど、外の者どもは狂人なりとおもひ居たりし処、二三日過ぎて俄かに晴天かき曇り、魔風《まふう》一時に吹き来り、大雷大風雨、その冷(すさま)じき事いはん方なし。さては先日の僧昇天なる歟、あら恐ろしと各〻潛《ひそ》み居《ゐ》たりしが、だんだんと風も凪《な》ぎ、雨もはれ、始めて生きたる心地して、あたりを見れば、ふしぎなるかな、雨の跡、草木《くさき》をはじめ皆墨水《すみみづ》にて有りしとかや。アヽ奇ならずやと土橋氏、同役長崎氏へ噺《はな》されしを、その子なる文理子《ぶんりし》、予<宮川政運>に語りぬ。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『靈石(れいせき)を祀(まつ)る天瑆(てんせい)と號(がうす)龍昇天(りゆうせうてん[やぶちゃん注:ママ。])の事』の後半部。一部の読みを参考にした(但し、ルビは歴史的仮名遣の誤りが多い)。なお、この前部分の「靈石」は結末で「龍石」とあり人物によって推定され、『若し同し事なれば若(もし)時至り龍など昇天大風雨あらば近邊の憂ひなるべしといへり』で終わっており、連関はある。電子化する気はないので、各自、見られたい。]

2024/01/21

フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

11―14 眞龍(しんりゆう)を見し事

 明和元年大火の後(のち)、堀和州の臣、川手九郞兵衞と云ふ人、その君(くん)の庫(くら)の燒殘(やけのこ)りしに、庇(ひさし)を掛けて、勤番ながら[やぶちゃん注:「~のようにして」の意。]、住居(すまふ)なり。

 その頃、大風雨せしこと有りしに、夜中、燈燭も吹消(ふきけ)したれば、

「燧箱(ひうちばこ)を、さがす。」

とて、戶外(こがい)を視れば、小挑燈(こぢやうちん)の如き火、二つ、雙(なら)んで、邸(やしき)北の方より來たり。

『この深夜、且(かつ)、風雨はげしきに、人來(きた)るべきやうも、なし。』

と、怪しく思ひながら、火を打ち居(をり)たるに、頓(やが)て、その前を、行過(ゆきすぐ)る時、見れば、火、一つなり。

 いよいよ、不審に思ふ内、そのあとに、松の大木を橫たへたる如きもの、地上、四尺餘(あまり)を行く。その大木と見ゆるものの中(うち)より、石火(せきくわ)の如き光、時々、發したり。

 その通行の際は、別(べつし)て、風雨、烈しくありき。

「かゝれば、先きに雙燈(さうとう)と見えしは、兩眼(りやうがん)、近くなれば、一方ばかり見ゆるより、一つとなり、大木は、その躬(み)にして龍ならん。」

と云(いひ)し、と。

 また、同じ時、下谷煉塀(ねりべい)小路の御徒押(おかちおさへ)[やぶちゃん注:将軍の御成りに徒歩で供奉し、行列を監督する職名。]林善太夫の子善十郞、年十六なるが、屋上に登り雨漏(あまもり)を防ぎゐたるに、これも、

「空中に、小挑燈の如き雙火の飛行(ひぎやう)するを見たる。」

となり。彼の龍の空中を行きしときならん。

 奧州莊内藩の某、語りしと聞く。その人、かの藩の城下に居(をり)しとき、迅雷烈風雨せしが、夏のことゆゑ、ほどなく晴れたり。このとき、家邊を往來するもの、何か噪(さわがし)く、言ふゆゑ、出(いで)て、空を仰ぎ見たれば、長(た)け二丈餘もあらん、虵形(じやけい)の頭(かしら)に、黑き髮、長く生下(おひさが)り、兩角(りやうづの)は見えざれど、繪に描(ゑが)く龍の如くなるが、蜿蜒(ゑんえん)す。視るもの、言ふには、

「今や地に落ち來たらん。さあらば、何ごとをか、引出(ひきいだ)さん。」

と、人々、懼れ合ひたり。

 この時、鳥海山の方(かた)より、一條(いちでふ)、薄黑き雲、あしはやく來りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとゞく、と等しく、一天、墨の如くなりて、大雨(だいう)、傾盆(けいぼん)す。

 暫(しばらく)して、また、晴(はれ)たり。

「そのときは、虵形も見えざりし。」

と云ふ。

 如ㇾ此(かくのごと)きもの、洋人の著書【書名「ヨンストンス」。】に見えし。

 また、仙波(せんば)喜多院の側(かたはら)に、小池、あり。一年(ひととせ)、旱(ひでり)して、雩(あまごひ)せしとき、其池中より、一條の水氣、起騰(おこりのぼ)りて、遂に、一天に覆ひ、大雨そゝぎ、大木三十六株、捲倒(まきたふ)せしことあり。

 所謂、「たつまき」ならん。其龍を、

「觀ん。」

とて、野村與兵衞と云ふ小普請衆、

「天をよく視居(みをり)たれど、たゞ、颱風(たいふう)、旋轉(せんてん)して、龍のかたちは、少しも見ず。」

と、予に語れり。

■やぶちゃんの呟き

「明和元年大火」不詳。明和元年には江戸に関しては「大火」はないと思う。或いは、これ、「明和九年」の誤記、或いは、判読の誤りかも知れない。「元」と「九」は崩し方が悪いと、判別がつかないことがあるからである。

「ヨンストンス」漢字表記では「勇斯東私」。ヨーン・ヨンストン(一六〇三年~一六七五年)。ポーランド生まれのスコットランド人(父の代にポーランドに移住)。ドイツでの教育を受けた後、スコットランドのセント・アンドリューズ大学で学士号・修士号を得(専攻は神学・スコラ哲学・ヘブライ学)、一時、ポーランドへ戻ったが、ケンブリッジ大学で植物学と医学を学び、フランクフルトやライデンでも研鑽を積んだ。一六三四年にライデン大学・ケンブリッジ大学から医学・哲学博士号を得た。ポーランドの大貴族レシチンスキ家に近侍し、同家の公子の海外遊学に同行し、帰国後はレシュノ(ドイツ名「リサ」)でレシチンスキ家に仕えた(ヨンストンの死後、同家のスタニスラウはスエーデン支配下のポーランド王となっている。ここまで「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆」の藤倉玄晴氏の記載に拠る)。後に出る「禽獸蟲魚の譜」、“Historia naturalis animalium,1650-53”(「鳥獣虫魚図譜」「動物図説」などとも訳される。同書は将軍吉宗も所蔵していた)を始めとする図入り博物書を刊行したが、このオランダ語訳が江戸期の日本にも輸入され、本邦本草学の発展に寄与した(ここは主に荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説に拠った)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷糞」 / 「ら」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ら」の部は終わっている。残すところは、「り」・「れ」・「ろ」・「わ」の四部のみである。今まで通り、本電子化に集中することが可能ならば、遅くとも、今月の末には、完遂出来そうである。

 

 雷糞【らいふん】 〔月堂見聞集巻九〕去る六月十二日<享保二年>夕立の節、大津へ雷落つ。その家の内に麝香《じやかう》の臍《へそ》の如き物あり。その香《か》馥郁《ふくいく》たり。或人の云ふ。この事所々に有り。雷糞と号する物には、薬種に用ひて功能ある由なり。大津の落ちたるは何物ぞ。その真偽詳《つまびらか》ならず。雷の落ちたる跡に必ずかたまりたるものありとなり。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「蟻が池の蛇」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 第一」(大正元(一九一二)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(左ページ下段五行目から)。

「六月十二日」「享保二年」グレゴリオ暦一七一七年七月二十日相当。

「麝香の臍」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「雷糞」そのような名の漢方生薬は存在しないと思う。思うに、雷撃を受けた箇所のあった特殊な鉱物、或いは、動植物が、電撃によって化学的に変成して、そのような芳香物質に変じたものではなかろうか? そのような物質が存在するか、どうか、私は不学にして知らないが。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と蜥蜴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と蜥蜴【らいととかげ】 〔四不語録巻四〕篠崎何某《なにがし》越前大野の山入《やまいり》を行きけるに、向うの方よりその長さ二尺ばかりなる蜥蜴走り出て、榾柮(きりかぶ)の上にのぼる。何某これを見て、世に多き蜥蜴よりは大きに、形もいさゝかかはれると思ひ、立寄りてみむとしければ、そのあたりに山人《やまうど》四五人も居たりしが、いづれも制して、これは雷(かみなり)なり、立寄《たちより》て害にあひ給ふなとゞめけり。何某これを聞きて、神鳴とは心得がたしといへば、山人答へて、この生類《しやうるゐ》此《かく》の如く走り出で、榾柮にのぼり四方を見渡す事しばらくあれば、忽ち黒雲下り雷鳴暴雨す、されどもこの蟲竜の如く天上するとも見えず、また雷雨せざる事もあるなり、若し人あつてこの蟲を駭《おおろ》かせば、大きに雷鳴して震《ふる》ひ殺さるゝ者これ多し、さるによりてこのもの出《いづ》ると、何《いづ》れも立退《たちの》きてかまはざるなりと云ふ。何某いへらく、我今大野の宿まで行かんと思ふ、押付《おつつけ》け雷雨に遇ふべきかと訝《いぶか》れば、今しばらく間《ま》あるべし。道をいそぎ給はゞ大野まで遇ひ給はじと云ふ。何某道を急ぐ。大野の宿に著き、我心ざしたる家へ入るとそのまゝ迅雷驟雨《じんらいしうう》せりと。かの篠崎氏の物語りをまのあたり聞《きき》て、こゝに記す。

[やぶちゃん注:「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「越前大野」現在の福井県大野市(グーグル・マップ・データ航空写真)。大野市市街と、北の勝野市市街地を除くと、周囲の殆んどは、山間部である。

「蜥蜴」龍蛇類の近縁とされたので(私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」の「蜥蜴」の項を参照されたい)、雷を自由に操れる龍との親和性があると言える。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と鶴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と鶴【らいとつる】 〔甲子夜話巻十〕奇事にも似たることあるものなり。水戸の老故の中山備州(信敬)は予<松浦静山>嘗て屢〻懇会せり。一日語る。一年封邑に往きしとき、正月元日天晴れて殊に融和なるに、俄かに雷鳴一声して即ち震し、居城の本丸に墜ちたり。時に鶴空中に翔り居たると覚えて、雷に撃たれてこれまた城に落つ。時人皆以て凶兆とす。備州性豪壮、これを憂とせず。その年終に不祥のことなしと云ふ。また何れの年か、林祭酒の釆地この近方なるが、これも元日天快朗なるに、雷一声して震し、田中に集りし鶴三羽を撃殺す。二羽は粉韲《ふんさい》[やぶちゃん注:「粉碎」に同じ。]し、一は片翼を損壊して死す。その地官の捉飼場《とらへかひば》[やぶちゃん注:鷹狩の鷹の飼養・訓練に使用された鷹場。]ことゆゑ、故を以て村長より鷹坊の長に告ぐ。官吏来りて検察す。林氏の臣民皆不吉として喜ばず。林氏もまた豪壮漢なれば、少しも意に芥蔕《かいたい》[やぶちゃん注:「芥」は「芥子(からし)粒」、「蔕」は「小さな刺(とげ)の意で、「胸の痞(つか)え。僅かな心の蟠(わだかま)り」の意。或いは「極めて僅かなこと」。]せず。然るにその冬格式を進め、且家禄を加増せられし慶びありしとなり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十 23 凶兆信ず可からざる事」を電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷十 23 凶兆信ず可からざる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

10-23

 奇事にも、似たること、あるものなり。

 水戶の老故の中山備州【信敬。】は、予、嘗て、屢々、懇會(こんくわい)せり。

 一日(あるひ)、語る。

「一年(ひととせ)、封邑(ふういう)に往(ゆき)しとき、正月元日、天、晴(はれ)て、殊に融和(ゆうわ)なるに、俄(にはか)に、雷鳴一聲して、卽(すなはち)、震(しん)し、居城の本丸に墜(おち)たり。時に、鶴、空中に翔(かけ)り居(ゐ)たると覺えて、雷に擊(うた)れて、これ亦、城に落つ。時、人皆(ひとみな)、以て、『凶兆。』とす。備州、性、豪壯、これを憂(うれひ)とせず。其年、終(つひ)に不祥のことなし。」

と云(いふ)。

 また、何(いづ)れの年か、林祭酒の釆地、この近方(きんほう)なるが、これも元日、天、快朗なるに、雷一聲して、震し、田中(たなか)に集(あつまり)し鶴、三羽を、擊殺す。

 二羽は粉韲(ふんさい)[やぶちゃん注:「粉碎」に同じ。]し、一(いつ)は片翼(かたつばさ)を損壞して、死す。

 その地、官(くわん)の「捉飼場(とらへかひば)」[やぶちゃん注:鷹狩の鷹の飼養・訓練に使用された鷹場。]の故(ゆゑ)を以て、村長(むらをさ)より、鷹坊(たかばう)の長(をさ)に告ぐ。官吏、來りて、檢察す。

 林氏(りんし)の臣民、皆、

「不吉。」

として、喜ばず。

 林氏も亦、豪壯漢(がうさうかん)なれば、少しも、意に芥蔕(かいたい)[やぶちゃん注:「芥」は「芥子(からし)粒」、「蔕」は「小さな刺(とげ)の意で、「胸の痞(つか)え。僅かな心の蟠(わだかま)り」の意。或いは「極めて僅かなこと」。]せず。

 然(しか)るに、其冬、格式を進め、且、家祿を加增せられし慶びありし、となり。

■やぶちゃんの呟き

「水戶の老故の中山備州【信敬。】」中山信敬(のぶたか 明和元(一七六五)年~文正三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で、水戸藩附家老にして中山家十代。参照した当該ウィキによれば、『常陸太田藩・松岡藩の当主。水戸藩附家老・中山家』十『代』。第』五『代水戸藩主・徳川宗翰の九男で、第』六『代藩主・徳川治保の弟である。母は三宅氏。正室は中山政信の娘。子は中山信情(三男)、娘(米津政懿継々室)、娘(中山直有正室)、娘(山口直温室)。官位は従五位下、備前守、備中守。通称は大膳。初名は信徳』。明和八(一七七一)年、八『歳のときに先代・中山政信の臨終の席で』、『その娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した』。安永八年十二月十六日(既にグレゴリオ暦では一七八〇年一月)、『備前守に叙任する。その後、年月不詳ながら、備中守に遷任する』。文政二(一八一九)年、『病気(中風)をきっかけに』、『家督を三男の信情に譲って隠居することを命じられ、藩政をしりぞく。一貫斎と号したが、翌年』、『没した』。『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても』、『大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には、『太田村から』、『かつての松岡に知行替えをした。地位向上運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』文化一三(一八一九)年一月から、『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』、『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって家格向上に努めた』とある。

「林祭酒」お馴染みの林述斎。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と馬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と馬【らいとうま】 〔梅翁随筆巻二〕巳年雷度々にて、しかも一ツ二ツつよくなる時は、きはめて落《おつ》るなり。鳴る日として落ちずといふ事なし。七月六日八時《やつどき》[やぶちゃん注:午後二時。]過《すぎ》より大雷大雨にて、七時《ななつどき》[やぶちゃん注:午後四時。]過には雨やみて空晴れたり。少しの内なりといへども、牛込わら店《だな》光照寺、三番町松野孫太夫、田安坂下鍋嶋伊予守、麹町八丁目<東京都千代田区内>伊勢屋八郎兵衛方へも落ちたりといふ。これ等はその証明らかなる所なり。その外市谷・小石川・小日向・駒込辺など、所々へ落ちたりといふ。この日番町辺より王子すぢへ乗廻しに出、大塚波ぎは不動の辺へ帰りし時、護国寺の境内へかみなり落ちしやうすなり。そのひゞき至つてつよく、頭の上におちかゝりたるがごとし。それにおどろき馬は飛ぶともなく走るともなくして、かたはらなる古道具屋のみせへかけあがり、かざり置きたる諸道具皿鉢類、みぢんに蹈《ふ》みくだきけり。この内にては雷の落ちたりとこゝろ得て、耳をふたぎうつぶしになりて居《をり》ける。横目にすかし見れば、いまだ見世に駈けまはり居るやうす故、猶平伏してくはばらくはばらというて居る。乗《のる》人は拍子よく鴨居を潛りしと見えて、そのまゝ乗り居たるゆゑ、一さんにのり出《いだ》し、鞭をうつてその場をはづし帰りける。後《のち》にそのさたを聞くに、家内のいふ。我かたへ雷落ち、そのさまを見るに、さながら馬のごとし、兼ねて聞きおよぶ絵などにて見たる形にはあらず、諸道具も多く損じたれど、怪我のなきを仏神の御助けなりと喜こびけるとなり。その後も度々つよく雷有りし。その頃より雷除玉《かみなりよけだま》といふもの大いに流行(はやり)て、麻布長坂にうるを正真なりとて、みなみな所持したり。これを掌中に握り居れば、雷そのあたりへ落ることなく、また鳴る時格別遠く聞えてこらへよしなど申しふらし、児女など尊《たうと》びけり。<『耳囊巻三』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○雷除握り玉の事』。こういう徹頭徹尾おちゃらかしの擬似怪談笑話は大嫌いで、嫌悪さえ感ずる。原著者の傍観者的人格にお里が知れるというものだ。宵曲はその面白さを狙ったのだろうが、私なら、採らないな。

「巳年」同「卷之二」の冒頭の記事が『寬政七卯年六月』とあることから、これは寛政九年丁巳であることが判る。その「七月六日」はグレゴリオ暦一七九七年七月二十九日相当である。

「牛込わら店光照寺」現在の東京都新宿区袋町の樹王山正覚院光照寺(以下同じ)。以下、地名注はする価値がないので、一部を除き、やらない。

「大塚波ぎは不動」「波切不動」の誤記。東京都文京区大塚にある日蓮宗大法山本伝寺のこと。「護国寺」はその西直近にある。

「麻布長坂」港区麻布永坂町(ながさかちょう)附近であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷獣」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 雷獣【らいじゅう】 〔甲子夜話巻八〕この二月十五日の朝、俄かに雷雨したるが、鳥越袋町<東京都台東区浅草鳥越>に雷落ちたり。処は丹羽小左衛門と云ふ人(千石)の屋敷の門と云ふ。その時門番の者見居たるに、一火団地へ墜るとひとしく雲降り来て、火団はその中に入りて雲に昇れり。その後に獣残り居たるを、門番六尺棒にて打ちたるに、獣走りにげ門続きの長屋にゆき、またその次の長屋に走り込しを、それに住める者、有合ふ者にて抛打に為たれば、獣その男の頰をかきさき逃失せたり。因て毒気に中りたるか、この男はそのまゝ引臥したりと。また始め雷落ちたるとき、かの獣六七も有りたると覚えしと門番人云ひけるが、猫より大きく、払林狗《ふつりんく》[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて腹白しと。震墜の門柱に爪痕あり。この事を聞き、行人群集して、常々静かなる袋町も忽ち一時の喧噪を為しとなり。その屋敷は同姓勢州が隣にて、僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は別て雨強く、門内敷石の上に水たゝへたるに、火光映じて門内一面に火団飛び走るかと見えしに、激声も烈しかりしかば、番士三人不ㇾ覺うつ伏になり、外向に居し者は顔に物の中る如く覚え、半時ばかりは心地悪くありたると、勢州の家人物語せり。 〔同巻十一〕谷文晁《たにぶんてう》の云ひしと又伝《またづて》に聞く。雷の落ちたるとき、その気に犯されたる者は、癈忘《はいばう》して遂に痴となり、医薬験《しるし》なき者多し。然るに玉蜀黍《たうもろこし》の実を服すれば忽ち愈ゆ。或年高松侯の厩に震して馬うたれ死す。中間は乃《すなは》ち癈忘して痴となる。侯の画工石膓と云ふものは、文晁の門人なり。来りてこれを晁に告ぐ。晁因て玉蜀黍を細剉《さいさ》[やぶちゃん注:細かく砕くこと。]して与ふるに、一服にして立どころに平愈す。また彼《かの》晁本郷に雷獣を畜ふものありと聞き、その貌《すがた》を真写《しんしや》せんとして彼《か》しこに抵(いた)り就《つき》て写す。時に畜主《かひぬし》に問ふ。この獣を養ふこと何年ぞ。答ふ、二三年に及ぶ。また問ふ、何をか食せしむ。答ふ、好んで蜀黍《もろこし》を喰ふと。晁この言を不思議として人に伝ふ。いかにも理外のことなり。 〔北窻瑣談巻四〕下野国烏山《からすやま》<栃木県那須郡烏山>の辺に雷獣といふものあり。その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居《みゐ》るに、夕立の雲興り来る時、その雲にも獣の乗らるべき雲と乗りがたき雲有るを、雷獣よく見わけて、乗らるべき雲来《きた》れば、忽ち雲中に飛入《とびいり》て去る。このもの雲に入れば、必ず雷《らい》鳴るにもあらず。唯雷になるとのみ云ひ伝へたり。またその辺《あたり》にては、春の頃雪をわけて、この雷獣を猟《か》る事なり。何故《なにゆゑ》といふに、雪多き国ゆゑに、冬作(ふゆさく)はなしがたく、春になりて山畑《やまばた》に芋を種(うう)る事なるに、この雷獣、芋種《いもだね》を掘り喰《くら》ふ事甚だしきゆゑ、百姓にくみて猟る事とぞ。これ漢土の書には、雷鼠《らいそ》と書きたりと、塘雨《たうう》語りし。〈『閑田次筆巻三』に雷獣の事がある〉

[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話」の二話は、カップリングして事前に「フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物」で、ガッツりと読みと割注を入れて電子化しておいた。また、「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(右ページ後ろから四行目以降)。

「下野国烏山」「栃木県那須郡烏山」この辺り(グーグル・マップ・データ)。

「その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居る」こりゃ、もう、最初のリンク先で言ったニホンアナグマでしょう!

「これ漢土の書には、雷鼠と書きたり」とあるが、「漢籍リポジトリ」で調べたが、中国で「雷獸」を「雷鼠」と称した記載は見当たらない。「雷鼠」があったのは、「百癡禪師語錄卷第五」(嗣法門人超宣等編)の以下の一件のみである。

   *

嘉興金粟山廣慧禪寺語錄」隱野長老請上堂三十九年前無雲萬里天三十九年後一步強一步政當三十九袖破露出手廣慧室內添籌金粟山頭點首驀然一喝迅如雷鼠怪狐妖沒處走諸禪流還會否會則道我賣弄風騷不會道我簸揚家醜家醜風騷只自知年年初度在斯時常愛畫樑紫燕呢喃語也有對對啣花水際飛擊拂子下座。

   *

これは比喩で使用されているだけで、「雷鼠」の実体は不明である。中国語ウィキ版の「雷兽(妖怪)」は、その全文が、日本語版の中国語訳に過ぎず、「根据《山海经》记载,在中国神话中有一夔,其叫声如雷,故有指日本雷兽的传说是起源于此的。」とあるのは、日本語版「雷獣」で、『中国神話には夔(き)という妖怪がおり、中国最古の地理書といわれる『山海経』には、夔の吠え声は雷の轟きのようだとの記述があるが、この夔が日本における雷獣伝承の起源になったとの説もあるほか』、『山梨県笛吹市の山梨岡神社に伝来する夔神像のように』、『在来の道祖神や山の神に対する信仰が夔神に結びついて成立した民俗も見られる』とあるのを、無批判に抄録訳しただけのものであって、中国で独自に考察されたものではない。ウィキの「夔」によれば(下線太字は私が附した)、『元は殷代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に夔鳳鏡といった銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる』。「山海経」の『第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという』。『山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている』。十『年に一度(現在では』七『年に一度)』四月四日に『開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている』。『また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、夔神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている』とある。因みに、中国語版ウィキ「夔」は、やはり、日本語版に比べて、別な考証はなく、独自記載も乏しい。

「塘雨」百井塘雨(ももいとおう)。『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』の冒頭注を参照されたい。彼がそう書いているという書は見出せなかった。「語りし」だから、直談なのであろうが、前注の通りで、信がおけない。塘雨は、多分に、博覧強記を気取る傾向がある人物である。

「閑田次筆」「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから二行目以降)で正規表現で視認出来る。次のコマに奇体な「雷獸」の図がある(私の知っている「雷獸」の図の中では、最もグロテスクである。ただ、記事が甚だ短く、別書からの引用図に過ぎないので、信用出来ないと宵曲は考えて採用しなかったものとは思う。個人的には、ぶっ飛んだ雷獣図として、看過出来ないものであり、以前から、電子化したいと思っていたので、以下に画像とともに上記底本で電子化しておくこととする。図は吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して添えた。

   *

〇僧玉屑東國行脚の記をあづま貝となづくその中に雷獸をとりたることをかきて其圖を出されたるは狸に類すしかるに此ごろある人のしめせる所左のごとし。虛實はしらずといへどもいとたしかなることゝ其人のいへるまゝこゝに圖をあぐ。

 

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キャプションは、『享和元年五月十日比藝州九日市里』『塩竃へ落-入死雷獣の圖大サ曲が尺一尺四五寸』である。「享和元年五月十日」はグレゴリオ暦一八〇一年六月二十日。ニホンアナグマは四月頃まで冬眠するので、出現に違和感はなく、同種の体長は四十~六十センチメートル程度で合致する。「藝州九日市里塩竃」は思うに、現在の広島県庄原市西本町で行われる「しょうばら九日市」(くんちいち:今から四百四十年前に物々交換で始まった市)を地名として取り違え、同広島藩の諸郡では塩田が盛んであったを、「庄原(しやうばら)」と「塩竃(しほがま)」とを、玉屑が聴き違えたものかとも思われる。

「玉屑」(ぎょくせつ 宝暦二(一七五二)年~文政九(一八二六)年)は熊本出身の浄土真宗僧で、俳人としても活躍した。栗本氏。別号は無夜庵(むやあん)。僧名は観応。幾つかの寺の住職を歴任し、示寂は加古川光念寺。俳諧は青蘿に師事し、青蘿の没後、「栗の本」を継承した。淡路から栗本庵のある加古川に移住し、師の芭蕉顕彰を引き継ぎ、各地に芭蕉句碑を建立し、記念の集を編んでいる。また、青蘿に引き続き、二条家俳諧宗匠も務めた。「あづまがひ」は寛政一二(一八〇〇)年刊の、寛政六~七年の行脚をもとにした紀行集で、芭蕉の足跡、及び、名所旧跡・伝説逸話を綴ったもの。外題「景遊勝覧 阿都満珂比」で全五巻。当該部は「巻之五」で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここと、ここ(図。確かに如何にもホンドタヌキかニホンアナグマらしく見える。図の右手に描かれている犬らしきものと比較されたい)、ここで視認出来る。

2024/01/20

フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、雷撃奇怪談として親和性があり、「雷獸」で繋がり、巻数の近さから、確信犯で前記事を明らかに意識しているものと思われるので、特異的にカップリングして示すこととした。「雷震」は「らいしん」で「落雷」のこと。注は「雷獸」を除き、割注にした。]

 

8-8 鳥越(とりごえ)袋町(ふくろまち/ちやう)に雷震せし時の事

 この二月十五日の朝、俄かに、雷雨したるが、鳥越袋町に雷《かみなり》落ちたり。處は丹羽小左衞門と云(い)ふ人【千石。】の屋敷の門と云ふ。

[やぶちゃん注:「鳥越袋町」「丹羽小左衞門と云ふ人」「の屋敷の門」これは、現在の台東区鳥越一丁目と西の二丁目の間の道(グーグル・マップ・データ)に落雷したことが判った。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」で、まず拡大して、現在の「鳥越一・二丁目」を探し、見つけたら、少し、ズーム・アウトすると、切絵図に戻る。そこにまさに上から横書で「丹羽老次郎」の屋敷が見える。しかも、実は、この直ぐ北直近が、「松浦壹岐守」とあるのが判るだろう(これはまだ静山(清)の名で書かれてあるのである)。ここは、まさに松浦藩上屋敷なのである(隠居後の静山は本所の同藩下屋敷にいる)。則ち、静山にとっては、勝手知ったる場所なのであり、それだけに興味津々なわけなのである。

 其時、門番の者、見居(みをり)たるに、一火團(いちくわだん)、地へ墜(おつ)るとひとしく、雲、降(くだ)り來(きたつ)て、火團は、その中に入りて、雲に昇れり。

 その後(あと)に、獸(けもの)、殘り居(をり)たるを、門番、六尺棒にて、打(うち)たるに、獸、走(はしり)にげ、門續きの長屋にゆき、又、その次の長屋に走込(かしりこみ)しを、それに住める者、有合ふもの[やぶちゃん注:手直にあった棒のようなものか。]にて、抛打(なげうち)に爲(し)たれば、獸、その男の頰を、かきさき[やぶちゃん注:「搔き裂き」。]、逃失(にげう)せたり。

 因(よつ)て、毒氣(どくけ)に中(あた)りたるか、此男は、そのまゝ打臥(うちふし)たり、と。

 又、

「始め、雷、落(おち)たるとき、かの獸、六、七も有(あり)たると覺えし。」

と、門番人(もんばんにん)云(いひ)けるが、

「猫より大きく、拂林狗(ふつりんく)[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて、腹、白し。」

と。

 震墜(しんつい)の[やぶちゃん注:落雷が直撃した。]門柱(もんちゆう)に、爪痕、あり。

 この事を聞(きき)、行人(かうじん)、群集して、常々、靜かなる袋町も、忽ち、一時《いちじ》の喧噪を爲(なせ)し、となり。

 その屋敷は、同姓勢州が鄰(となり)にて、[やぶちゃん注:「同姓勢州」今一度、先の「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」を見て頂きたい。「丹羽」の屋敷の南端の東の一部が接している屋敷に、「松浦勝太郎」とあるのである。ここに間違いあるまい。]

「僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は、別(べつし)て、雨、强く、門内、敷石の上に、水、たゝへたるに、火光、映じて、門内一面に、火團、飛走(とびはしる)かと見えしに、激聲(げきせい)[やぶちゃん注:雷撃の際の大音響。]も烈(はげ)しかりしかば、番士三人、不ㇾ覺(おぼえず)、うつ伏(ぶせ)になり、外向(そとむき)に居(をり)し者は、顏に物の中(あた)る如く覺え、半時(はんとき)ばかりは、心地、惡(あし)くありたる。」

と、勢州の家人、物語せり。[やぶちゃん注:「顏に物の中る如く覺え」空中放電した雷電の一部による強い静電気を顔面に受けたものか、或いは、放電現象によって、オゾンなどの刺激物質が発生したものかも知れない。十三年前、高校の山岳部の顧問をしていた時、八ヶ岳で激しい雷雨に遭ったが、一人の部員が、かなり近くに落ちた際、「先生! 確かに顏にビリビリきました!」と叫んだのを忘れない。]

   *

11―15 雷火傷(らいくわしよう)を治(ぢす)る藥(くすり)幷(ならびに)雷獸の食物(くひもの)

「谷文晁(たにぶんてう)の云ひし。」

と、又傳(またづて)に聞く。

[やぶちゃん注:「谷文晁」(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)は画家で奥絵師。ウィキの「谷文晁」によれば、二十六歳で『田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した』。三十歳の時、『田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり』、『定信が隠居する』文化九(一八一二)年まで『定信付として仕えた。寛政五(一七九三)年には定信の江戸湾巡航に随行し』、「公余探勝図」を『制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った』とある。静山とは同時代人で、交流があった文人である。]

 雷の落ちたるとき、其氣に犯されたる者は、癈忘(はいばう)して、遂に痴(ち)となり、醫藥、驗(しるし)なきもの、多し。

 然(しかる)に、玉蜀黍(たうもろこし)の實を服すれば、忽(たちまち)、愈(いゆ)。

[やぶちゃん注:乾したトウモロコシ(イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea mays )をぶら下げておくと、雷除けになると信じられていた。大の雷嫌いだった泉鏡花は、家屋の天井に何本もぶら下げていたことは頓に知られる。]

 或(ある)年、高松侯の厩(うまや)に、震して、馬、うたれ死す。

 中間(ちゆうげん)は、乃(すなは)ち、癈忘して痴となる。

 侯の畫工石腸(せきちやう)と云(いふ)ものは、文晁の門人なり。來りて、これを晁、に告ぐ。

 晁、因(よつ)て、玉蜀黍を細剉(さいさ)[やぶちゃん注:細かく碎くこと。]して與ふるに、一服にして立(たち)どころに平愈す。又、後(のち)、晁、

「本鄕に、雷獸を畜ふもの、あり。」

と聞き、

「其貌(すがた)を眞寫(しんしや)せん。」

として、彼(か)しこに抵(いた)り、就(つき)て、寫(うつ)す。

 時に、畜主(かひぬし)に問ふ。

「此獸を養ふこと、何年ぞ。」

 答ふ。

「二、三年に及ぶ。」

 又、問ふ。

「何をか、食せしむ。」

 答ふ。

「好んで、蜀黍(もろこし)を喰ふ。」

と。[やぶちゃん注:「蜀黍」現行、狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolorを指すが(原産地は熱帯アフリカであるが、本邦には、室町時代に中国を経由して伝来してはいた)、この場合は、トウモロコシの異名。]

 晁、この言を不思議として、人に傳ふ。

 いかにも理外のことなり。

■やぶちゃんの呟き

「雷獸」の正体については、私の「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」の私の注を参照されたい。それ以外のモデル動物になりそうなのは、ニホンアナグマ辺りか。同種は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を見られたい。また、先行する静山の記事に「甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事」があり、その記事の感触では、食用になるのだから、アナグマに分があるようには見える。当該ウィキには、幾つも絵が載るが、私の正体追及の食指を動かすものは、ない。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「呼出し山」 / 「よ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って、「よ」の部は終わっている。]

 

 呼出し山【よびだしやま】 〔耳囊巻六〕上野の楽人に東儀右裔といへる悴、今年六歳なりしが、甚だ発明にて、両親の寵愛殊に勝れしが、文化十一年の初午の日に、何れへ行きしや、行衛不ㇾ知故、鉦太鼓にて所々を捜しけれども、しるしなし。或人の云へるは、八王子に呼出し山といへる山あり。これへ右体《みぎてい》神隠しの類《たぐひ》を祈念すれば、出《いで》ずといふ事なしと語りし故、早速右山へ参りて、その子の名を呼びて尋ねけれども、何のしるしなし。旅宿に泊りし夜の夢に、老翁来りて、汝子別条なし、来《きた》る幾日爾《なんぢ》が家《いへ》最寄《もより》にて、老僧の山伏に可ㇾ逢、それを止めて尋ねみよと言ひし故、その日を待ちしに、果して老僧に逢ひける故、爾々《しかじか》のわけをかたり聞きしに、随分別条なし、未だ四五日は帰るまじ、幾日頃帰るべしといひしが、果してその日恙なく戻りしとなり。

[やぶちゃん注:私のでは、底本違いで、「耳囊 卷之十 呼出し山の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜著物言う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜著物言う【よぎものをいう】 〔半日閑話巻十三〕この頃の訛言《くわげん》[やぶちゃん注:戯言(たわごと)。]に、中野の辺の者、夜著を求めてかつぎて臥したるに、夜半に夜著声を出して、暑乎寒乎(あついかさむいか)と問ふ。その人おそれていそぎ旧主に返すといふ。石の言ひしは『春秋伝』に見えたれど、夜著のものいふ例《ためし》しを聞かず。桃園の桃にものいはぬも愧ぢよかし。

[やぶちゃん注:この話は、小泉八雲が紹介したことで、世界的に人口に膾炙する「鳥取の蒲団」として知られる古い民話中の哀しい怪談の変形に過ぎない。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (九)』(原文附き)を見られたい。私は、始めて小学三年の時に読んだ八雲の怪談集で、目頭が熱くなったのを忘れない。ウィキの「鳥取のふとんの話」もある。

「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○中野の訛言』であるが、冒頭の以下の一文がカットされてある。

   *

三月、此頃中野の先關といふ處の地にうなる聲有とて人皆云傳ふ。

   *

この「中野の先關」の「先關」或いは「先」(さき)にある「關」という地名かとも思われるが、「ひなたGPS」の戦前の地図で確認したが、近代以降の地名としては、孰れも残っていない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜著の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜著の怪【よぎのかい】 〔耳袋巻五〕これも牛込辺<東京都新宿区内>の町家の軽き者の母、夏になりて夜具を質入れせしを、冬来りて取出し、著て臥りしに、右※(よぎ)[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]を著し一睡なせば、祖母々々暖かなるやと声をなしける故、大きに驚きて質屋へ至り、しかじかの事なり、仔細も有るべきと尋ねければ、右襖は未だ質に取り候まゝにて、蔵に入れ置き、これ迄人に貸すべき様もなければ、質屋に於て何も仔細なし、手前に得(とく)と詮議しみ給へと言ひし故、子共または心安き者にも語りて、色々心障りの事も有りやと考へけれど別儀なし。かの婆ふと思出せしは、右質物請出《うけだ》せし頃、表へ修験(しゆげん)一人来りて手の内を乞ひしが、用事取込み、その上乞ひ様《やう》も無礼なれば、手の隙《ひま》なきと答へて等閑《なほざり》に過ぎし事あり、これ等も恨むべき趣意と思はれずと語りければ、老人の言へるは、全くそれなるべし、かの修験は又来《きた》るべきなり[やぶちゃん注:私のものでは『來るべき也』で、私は「也」を疑問の「や」で読んだ。そうでないと、どうも躓く。]。日毎にこの辺を徘徊なす由答へければ、重ねて来らば少しの手の内を施し、茶などふるまひ、心よく挨拶して帰し給へと教へける間、翌日果して右山伏通りけるを、かの婆呼込みて、この間は取込み候事ありて、あらあらしく断りしが免《ゆる》し給へ、茶にてもたべ給へと念頃に言うて、手の内を施しければ、この程はあらあらしき答へ故、手の内をも乞はざりしが、さてさて一面しては人の心は知れざると、四方山の物語りして立出でぬ。その後はかの※の怪も絶えてなかりしとや。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳囊 卷之五 修驗忿恚執着の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖を斬る」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖を斬る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 妖を斬る【ようをきる】 〔耳囊巻二〕芸州の藩中に、名も聞きしが忘れたり。至つて剛勇の男ありしが、近ごろ主人の供して、広嶋へ到り、その頃交替の住居、程近になかりしが、至極都合宜《よろし》き屋鋪明き居たりしゆゑ、右屋敷に住《すま》はん事をのぞみしが、右は妖怪ありて住《すむ》人に災ひありと、人々止めしかど、何条《なんでふ》さる事あらんとて、乞ひ請けて住居せしが、その夜《よ》家なりなどして物凄きことども有りしが、事ともせずしてありしが、江戸に住みける同家中の伯父来りて、対面なしけるが、右伯父は在所へ供せし事も聞かず、全く怪物ならんと思ひしに、かの伯父申しけるは、この住居は人々忌み憚りて住居するものなし、押して住《すま》はば為《ため》あしかるべしと異見なしけるを、我等主人へ申立《まふしたて》て、住居するうへは、為あしかるべき謂れなしと答へけるに、かの伯父大きに怒りて何か申し罵りけるが、その様《さま》いかにも疑はしく、全く怪異に紛れなければ、抜打《ぬきうち》にきり倒し、妖怪を仕留めけると下人を呼びて、その死骸を改むるに、怪物にもあらず、やはり伯父の死骸なれば、大きに驚き、所詮存命叶ひ難し、腹切らんと覚悟極めけれど、所詮死すべきに決する上はと、猶また刀を抜きて、かの伯父の死骸の首打落し、尚切り刻まんとせしに、かの死骸忽然と消え失せぬ。さればこそ妖怪なれと、猶まくらとりいねんとせしに、さもやせがれて怖ろしげなる老人出《いで》て、さてさて御身は勇気さかんなる人なり、我久しくこの家に住みて、これ迄多く住み来《きた》る者を驚かし、我永住となせしが、御身の如き剛勇の人に逢ひて、今住み果てんことかたし、これより我は此所を立退く間、永く住居なし給へと、いひて消えぬる由。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳囊 卷之九 妖も剛勇に伏する事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 洋人邪法【ようじんじゃほう】 〔黒甜瑣語三編ノ三〕西洋人本国の皮帛《ひはく》を以て臝婦(はだかをんな)を製す。長短人のごとし。これを匣中《はこなか》に秘し、旅途幽亭無聊《ゆうていぶりやう》の時、匣より出《いだ》し捧げ上げ気を吹けば、忽然として肥沢通鉢《ひたくつうはつ》、真《まこと》の人のごとし。抱きて裳中に擁《やう》すに、雙手交頸《さうしゆかうけい》、両脚勾欄《りやうきやくこうらん》、己《おの》が意のごとし。これを出路美人《しゆつろびじん》と号(なづ)く。一軀《いつく》の価《あたい》銀一流と。一流は十二両を云ふと『曠園雑誌』に検せり[やぶちゃん注:「しるせり」と読むか。]。本邦の吾妻形《あづまがた》なるべし。西洋人の狡計淫欲なる、譬《たとへ》を取るに者なし。或年東都本石町<東京都日本橋本石町>長崎屋へ来りし者、滞留中疾《やまひ》ありて打ちふしけるが、主《あるじ》の妻に乞ひて娘の髪すぢ三四根を貰ひ、薬剤へ調せんと云ふに、妻怪しみ、密かに這子(ほうこ)人形の髪を毟(むし)り、娘の髪なりとて遣はしけるが、その夜《よ》人静まりて、かの這子人形ひたひた歩みして西洋人の寝所に行く。妻見て亭主をゆり起し、その物語りをなせしとなん。これこの家の娘美人にてあれば、西洋人これに懸想して、髪茎(かみすぢ)を以て呪(まじな)ひよする邪法を修《しゆ》せしとかや。泥塑(にんぎやう)の活物(いきもの)ならざるさへかくのごとし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『〇吾妻像』。「像」は「がた」と読むのであろう。

「肥沢通鉢」「肥沢」は「つやがあってふとっている」こと。「通鉢」は頭部が備わっていることか。

「雙手交頸」上記リンク先の活字本では、「交頸」に左ルビ(意味添えの際によく行われる)『ひつたり』とある。全体で「両の腕も、ともに、しっかりと装備されてある。」の意か。

「両脚勾欄」両の足もあって、「左右に開脚したり、交差させたりすることも出来る。」の意か。

「曠園雑誌」/清の呉陳琰の著になる中国の民間信仰などの異聞を記した小説集。全二巻。康煕四二(一七〇三)年の序がある。

「本邦の吾妻形」女性生殖器の外陰部の形に作り、男子の自慰に用いる淫具。なお、ここに出るような本格的に女性の前身を真似た、日本人が見た最初の「ダッチワイフ」は、当該ウィキによれば、『英語の Dutch wife(字義的には「オランダ人の妻」の意)は、アジアで使われている、竹や籐で編まれた筒状の抱き枕(竹夫人)を指す』(これは、暑い日に片腕や片足をこれに乗せて寝ることで涼をとる。普通の寝具の一つであり、基本発想及び用法も淫具では全くない。アジアに広く見られ、嘗ては、日本でも使われていた)。さて、等身大型の『ランダムハウスによれば、語の起源は』一八七五~一八八〇『年頃という。その理由は、本国に妻を残してオランダ領インドネシアで取引していたオランダ人商人の境遇に由来すると想像され』ている。『英米では、日本でいうダッチワイフは sex doll と呼び、これを Dutch wife と呼ぶことはまずない』。『性的な使用目的の人形が日本で「ダッチワイフ」と呼ばれだした事情は定かではない。日本のメディアでは』、一九五八『年頃からダッチワイフとの表現が見られる様になり』、一九六七『年頃にはかなり一般にも定着していたとみられる』とある)というべきか。十八歳以上のみ閲覧可のサイト「otona laove」の「ラブドールの歴史」によれば、『十六世紀にフランス人(dame de voyage)とスペイン人(dama de viaje)の船員によって作成され、長い航海中に孤立していました。これらのマスターベーション人形は、多くの場合、縫い付けられた布や古着で作られ、今日のダッチワイフの直接の前身で』、『その後、蘭学時代にオランダ人がこれらの人形の一部を日本人に販売し、日本では「ダッチワイフ」という用語が今でもダッチワイフを指すために使用されることがあ』るとある。]

「東都本石町」「東京都日本橋本石町」(にほんばしほんごくちょう)「長崎屋」ウィキの「長崎屋源右衛門」によれば、彼は、『江戸日本橋に存在した薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前で』、『この商家は、日本橋本石町三丁目』(現在の中央区日本橋室町四丁目二番地相当)『の角地に店を構えていた』。『江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった』。また、『この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた』。『カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の』一『つとなっていた。身分は町人であるため』、『江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった』。『カピタン一行の滞在中に』、『この商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている』(『「葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋」早稲田大学図書館』がリンクされてある)。『幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちは』、『あまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の』一『つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる』。『カピタンの江戸参府は年』一『回行われるのが通例であったが、寛政』二(一七九〇)年『以降は』四~五年に一『回となり、参府の無い年には』、『カピタンの代わりに通詞が出府した。この商家はカピタン参府と通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客を受け入れていなかった』。『旅宿として使われた建物には、一部に西洋風の内装、調度品が採り入れられていた』。昭和二一(一九四六)年に『運輸省が発行した』「日本ホテル略史」は、『この商家についての記述から始まっている』。また、安政五(一八五八)年十月には、この商家に対し、『「蕃書売捌所(ばんしょうりさばきしょ)」』が『命ぜられ、長崎からの輸入蘭書の販売を行う』ようになった。『また』、『町年寄の樽屋藤左衛門の記録によれば、同年より』、『「西洋銃」の「入札払」いもしていた』とある。以下、「沿革」の項もあるが、長くなるので、リンク先を見られたい。]

2024/01/19

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖怪話声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 妖怪話声【ようかいはなしごえ】 〔四不語録巻五〕加州金沢<石川県金沢市>に新保(しんぽ)何某と云ふ人あり。公用に付きて在江戸なり。留守には老母一人残れり、その隣に明《あき》屋敷あり。屋鋪守の家、纔(わづ)かなる茅屋《ばうをく》一つ片隅にあるのみなり。然る所に或秋の夜更けて、大勢あつまりて物語りをなして、夜明に及ぶ事毎夜なり。その集り所、茅屋のあるあたりにてはこれなく、新保が屋鋪堺の塀の腰なり。二三夜はその分にいたし置きつれども、毎夜の事なり、殊に新保は江戸留守にて、女原《をんなばら》[やぶちゃん注:「原」は複数の人を示す接尾語。中古から中世にかけては、かなり広範囲に用いられているが、その後は、限られた数種の語に付いて用いられる。初期の「殿ばら」などを除けば、同輩以下、寧ろ、軽蔑した場合に使われる。]のみ居る事なれば、何角(なにか)気遣はしければ、隣の屋敷守の方《かた》へ使《つかひ》を立て、毎夜の人集め無用なりと、老母方より申しつかはしければ、屋敷守大いに駭《おどろ》き、いさゝかも人あつめは仕らざる由申しこせども、夜《よ》もの語りやまず。よくよく聞くに人の物語りの如く、その詞《ことば》たしかならず。大形《おほかた》は狐狸(こり)の類(たぐ)ひの業《わざ》ならんかと心付き、新保方の女《をんな》童部(わらんべ)ども、大きに畏れまどひて、一門一家の内より人をかりよせて、夜とともに伽をいたしけり。新保氏の伯父に関野何某と云ふ人有り。来りて一夜伽をいたす。宵より右の物語りする屛腰の此方《こなた》、小筵《こむしろ》を敷き置き、とくよりそこに坐して、今や今やと相待つ所に、夜半過《すぐ》るまで物語りの音聞えず。さては我等来り居《を》る事を知りて、今夜は物語りをもせぬものならん、もはや帰るべしと、関野氏立たんとしたれば、物語りの音聞えけり。そのまゝ坐してこれを聞くに、人ならば六七人ばかりの体《てい》と相《あひ》聞ゆ。なるほど閑《のど》かに面白さうなる咄し声なり。耳をそばだててよくよく聞けども、そのいふ言葉一つも分り聞えず。暁まで物語りして、何れも暇乞ひして別るゝ体なり。その行所《ゆくところ》、門の方《かた》へは行かずして、四方へわかるゝやうにきこゆ。さては門外より来る者どもにはあらで、その屋敷中《うち》に住むものどもの仕業ならんかとぞ思はる。右の関野氏は予<浅香山井>がゆかりある中《なか》なれば、まのあたりその物語りを聞きしまゝ爰に記す。後に聞けば二十日ばかりこの如くあつて、その後《のち》は音なくなりしとぞ。かやうの凶事ありし故か、新保氏ほどなく病死、子なくして養子せられて家督を継ぎたるに、これもまた早世しぬ。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊問答」 / 「ゆ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「ゆ」の部は終わっている。]

 

 夢茶屋【ゆめぢゃや】 〔黒甜瑣語三編ノ一〕渤海の李旦古木深蓬《しんはう》の中に南柯社《なんかしや》を卜《ぼく》し、客を引《ひき》て睡らしむるに一枕《いつちん》を与ふ。寝《しん》に就くもの、夢に湖水遠水の間《かん》に至り、仙都広寒《せんとくわうかん》の辺《ほとり》に遊ぶと云へり。去りし安永のはじめ、東都に夢茶屋あり。道者(さきだち)客を引きて玄関より入る。一ト間《ひとま》一ト間苑囿(ゑんいう)[やぶちゃん注:「苑」は「園」に同じで「草木を植えるところ」、「囿」は「禽獣を飼うところ」の意で、「草木を植え、鳥や獣などを飼っているところ。」を指す。]の構へをなし、それより楼《たかどの》に上るに、爰にも泉水仮山《せんすいかさん》の景を像《かたど》り、船《ふな》わたしあり、船守《ふなもり》銭を匈(もと)む。竹籬柴門《ちくりさいもん》の傍《かたはら》には競粧《きやうしやう》の冶女《やぢよ》[やぶちゃん注:美女。]を出《いだ》し、淡鰻畢羅《たんまんひつら》[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]を售《う》らしむ。また下へ降れば、竹樹の亭には華書の娯(たのしみ)みをなす客あり、涼風の院には蛮触《ばんしよく》を争ふ人あり、上《のぼ》るに下《くだ》るに糸竹《しちく》の間《ま》あり、舞曲の亭あり、終日《ひねもす》遊ばんもまた妨げず。赤飯に足をとめられ、花香に心を時めかし、遊ぶ者の囊中を叩かしむ。最後にほの暗き廡廊《ぶらう》[やぶちゃん注:主な建物を、囲み、廻らす回廊のこと。]の下を伝ひ行く事一町ばかり、段々昏《くら》くなりて、先輩の帯にとり付《つき》て向うの明りへ出《いづ》れば、はじめ入りし玄関の脇口なり。やうやう二三町の方位の宅地なれども、工事(しかけ)結構にて一里の余も行きしやうに思ひしとぞ。後には風流奢侈《しやし》の亭とならんとて、程なく停廃せられしゆゑ、世には多くも知られざりしが、或人の至り見しを聞けり。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『夢茶鄽』。「鄽」は「店」に同じ。音なら「テン」だが、ここは本文に従い、「ゆめちやや」と読んでおく。

「渤海の李旦」李氏朝鮮の第八代国王睿宗(えいそう/イェジョン 在位:一四六八年~一四六九年(没年:享年十九歳))。

「広寒」「廣寒宮」。月の都にあるとされた宮殿。広寒府。月宮殿。

「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。

「夢茶屋」出合茶屋の一種で浅草と上野にあった。国立国会図書館デジタルコレクションの三田村鳶魚著「江戶の女」(『江戶ばなし』第三冊/一九五六年青蛙房刊)の『安永の夢茶屋』を見られたい。戦後の出版だが、正字正仮名で書かれてある。

「蛮触を争ふ」「蠻觸(ばんしよく)の爭(あらそ)ひ(戰(たたか)ひ)」。「莊子」の「則陽篇 第二十五」の中の「有於蝸之左角觸氏。有於蝸之右角蠻氏。時相與爭ㇾ地而戰。伏尸數萬。」(蝸(かたつむり)の左の角(つの)に國する者、有り、觸氏(しよくし)と曰(い)ふ。蝸の右の角に國する者、有り、蠻氏と曰ふ。時に相ひ與(とも)に地を爭ひて戰ふ。伏尸(ふくし)、數萬(すまん)。)による故事成句。「小さい料簡から互いにつまらないことで争うこと」の喩え。「蝸牛角上の争い」に同じ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊問答」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊問答【ゆうれいもんどう】 〔閑田耕筆巻一〕江戸某の檀林に一僧の霊有り。学力《がくりき》ある住僧あれば、必ず出《いで》て見ゆ。一代の和尚、夜本堂に登らんとする時、これにあひて商量す。心法《しいほふ》性《せい》元《もと》浄シ、妄念何によりてか生ずと有りしに、霊にらみて、腐小僧《くされこぞう》めがといひし。和尚心よからざりしが、ほどなく隠居せられしとぞ。むつかしき霊といふべし。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。前条の幽霊話を受けて、冒頭にある『幽靈のついでに思ひ出しことは』という枕がカットされている。前話のメインは音戸の瀬戸で著者伴蒿蹊自身が体験した舟幽霊譚で、本書で「舟幽霊」で既出である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊の筆跡」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊の筆跡【ゆうれいのひっせき】 〔怪談老の杖巻一〕泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ処あり。此処を開きし人は、『難波戦記』に載せし吉田九右衛門といふ者なり。今も代々九右衛門とて大庄屋なり。その始祖は鳥捕氏《ととりうぢ》にて、上古より綿々と打続き、南朝の時は南源左衛門尉と称し、代々歴々なり。この一族に玉井忠山といへる隠士あり。殊の外の異人にて詩作など好み、紀三井寺の住職など詩の友なり。五十余の年、廻国の志しにて国を出《いで》、東武へも来りて、予<平秩東作>も知る人になりしが、つゝがなく国々をめぐりて故郷へ帰り、間もなく重病をうけて終りける。死後間もなき事なるが、近郷の庄屋六郎左衛門といふ者の家へ来れり。平生にかはる事なく案内を乞ひて、忠山なり御見舞申すと云ひ入れければ、六郎左衛門聞きて、その意を得ぬ事かな、忠山はこの程死なれたりときゝて、知りたる中《なか》に野辺の送りまで出《いで》あうたる人慥《たし》かにあり、人たがひなるべしと、玄関へ出むかひてみれば、ちがひなき忠山なり。紬(つむぎ)のひとへものに小紋の麻の羽織を著《き》、間口をさし、法体《ほふてい》の姿世に在りしときにかはる事なし。六郎左衛門を見て、久しう御座るとにつこりと笑ふ体《てい》、六郎左衛門も気情《きじやう》なるすくやか者なれど、こればかりは衿《えり》もとぞつとしたるが、子細ぞあらんとまづ書院へ伴ひ、茶を出せばとりてのむ事平生の如く、杯《さかづき》を出しければ、酒は給《た》べ申さずとて何もくはず。どこやら影もうすく、あいさつも間《ま》ぬけたり。主人いふ様《やう》、そこには御大病ときゝて、いかばかり案じたり、まづ御快気体《てい》大慶に存じ候といひければ、このときうち笑ひて、それは貴殿のあいさつとも覚えず、某《それがし》が死したる事は存じなるべ、この世の命数尽きて黄泉《よみ》の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生《ぞんしやう》の姿をあらはしまみえ申すなり、一族どもの中にも、こゝろのすわりたる者なければ、おそれをのゝきて事を記するに足らず、そこにはこゝろたくましく、理《り》にくらからぬ人なれば申すなり、我が死たる跡式の事は、かきおきの通り取計らひくれたればおもふ事なし、しかし戒名に二字こゝろに叶はぬ字あり、菩提処《ぼだいしよ》の住持にたのみかき替へ給はるべしと、いとこまごまといふにぞ、不思議とはおもひけれど、死して後も尋ね来《きた》る朋友の誠《まこと》こそうれしけれと、なつかしくてこはきこゝろはなかりしが、さてその文字は、そこもと望みにてもありやといひければ、いかにも望みあり、紙筆をと乞ひて、忠山といへる下の二字を、亨安となほして給へと、亨安の二字をかきてさし置きぬ。文字の大きさは五分程あり。勝手にてはみな恐れあひて出《いづ》るものなし。暫くもの語りして、いとま申すとて出で行きぬ。六郎左衛門送り出でければ、いつもの通り門を出でて行きしが、見送らんとてあとより出しに、はや形はなかりけり。さつそく尾崎へ持ち行きて一家衆と談じ、石碑のおもてをきりなほしけり。忠山能書にて余人の学ぶべき筆にあらず。手跡うたがひなければ、みな人奇怪のおもひをなしぬ。右の手跡は六郎左衛門家に秘蔵して、幽霊の手跡とて伝へぬ。江戸ヘ来りしは五六年已前の事にて、汐留の観音の寺にとまりをれりといひし。忠山のおとこ半七といふものあり。四ツ谷鮫がはしにたばこうりて今も存命なり。うたがはしき人は行きて尋ぬべし。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之一 幽靈の筆跡」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊の心得違い」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊の心得違い【ゆうれいのこころえちがい】 〔耳囊巻五〕駒込辺<東京都文京・北・豊島区内>の医師にて、予<根岸鎮衛>が許へ来《きた》る与住など懇意なりしが、信州辺の者にもありけるか、軽井沢とかの食売(めしもりをんな)女を妻に成してくらしけるが、容儀うるはしきにもあらず、いかなる訳にて妻とせしかと疑ひける由。しかるに同じ在所の者、娘を壱人召連れ、身上《しんしゃう》も相応にもありけん、かの医者の許に来りて、さる大名の奥へ、右の娘を部屋子に遣し、追ては奉公も致させ候積りなれども、江戸表ゆかりの者多けれど、町家よりは医者の宿なれば格好も宜しとて、ひたすら頼みける故、医者もうけがひて、宿になりしに、かの娘煩ひ付きて、医者の許へ下《さが》り居《をり》しに、療治に心を尽すのみならず、快きに随ひて、かの娘と密通なしけるを、妻なる女、深く妬《ねた》み恨みけれど、元来食売女なしける身故、ゆかりの者もなく、見捨られば[やぶちゃん注:ママ。原本も同じ。]いかにせんと思ひける。或日家出して失せぬ。驚きて所々尋ねければ、両国川へ身を投げんとせし処を、取押へ連れ帰りて、いかなる心得違ひなりやと、或ひは叱り諫めけるが、五六日過ぎて二階へ上り、夫の脇差にて咽を貫ぬき果てぬ。せん方なく野辺送りしけるが、何となく其所にも住み憂くて、跡を売居《うりすゑ》にして他所《よそ》へ移りしに、右跡の家を、座頭買得て来りしが、金子二三十両も出して、普請造作《ざうさ》して引移りぬ。ある夜、女房眼を覚し目九しに、屛風の上へ色青ざめし女、両手をかけて内を覗く故、驚き夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て取用ひず、新《あたらし》きの処へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申すなりと叱り、とりあへぬに、両三日続きて同様なれば、かの妻堪へがたく、夫へかたり、いかになさんと歎きし故、同店《おなじたな》のものへかたりしに、この家はかゝる事もあらん、かくくの事にて、先の店主(たなぬし)の医師の妻、自殺せしと語りける故、座頭の坊も怖ろしくやなりけん、早く其処を引払ひて転宅せしとや。霊魂の心残りあるとも、かの医者の転宅せし先へは行くべき事なるに、訳もしらぬ座頭の許へ出で、その人をくるしむる事、霊鬼にも心得違ひなるもあるなりと語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「耳囊 卷之六 執心の說間違と思ふ事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「游魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 游魂【ゆうこん】 〔海西漫録〕予<鶴峯戊申>住吉にもしばらく住みし事あり。そのほど鄰家なる或人の妻の、予が後妻に語れる事あり。それは後妻かの人にあひて、しばらく見え給はざりしが、いかゞおはしましつるといへば、かの人、わらはは昨々日《をとつひ》の朝より大坂へまかり侍り、さきほど帰り侍りしなり、大坂の妹なる人、久しく煩ひて侍りつるに、つひに烟となり侍りつるなり、さても不思議なる事こそ候へ、十年ばかりもさきの事にや、妹の秘蔵したる簪《かんざし》の失せ侍りつれば、売卜《ばいぼく》にうらなはせなどして、年久しく尋ね侍りしが、終に見えざりければ、人に盗まれたるにやあらん、いかにせんとて過《すご》し来《きた》るに、おとつ日の暁《あかつき》、わらはが夢に妹来りて告げけるやう、姉さまよ、久しきあとに失ひつる簪こそ、土蔵の二階なる三番の簞笥の最下の引出しの底に、紙に包みて侍れ、この簪は姉さまにかたみにさしあげ侍り、早く来まして取り給へといふほどに、いそがはしく門をたゝく人あり、これに夢さめて、人を喚び起して門開かすれば、妹のなき人となりたる事をしらせ来れるにぞ有りける、せきあへぬ涙を袖につヽみ、俄かに大坂にまかり、はふむりの事営みつる後、親族の人々に、しかじかの夢見たるよし語りければ、そは誠ともおもはれず、されど物はためしなれば、試みにさがして見給へといふに、女どもと土蔵に入り、たんすを開きけるに、夢に見つるが如く、最下の引出しの底に紙に包みてぞ有りける、されば夢の告げの如く持ちかへり侍りしなりとて、その簪をも出して見せけるとなん。白石先生の『鬼神論』に、またある人の遠き国にゆくが、むかし我妻の心見んとて、その金《きん》の簪をとりて、壁の中にかくせし事のありしを、事にまぎれてかくともいはで出立ち、他国にて病におかされて、死ぬべきに臨みて、供に具したる男にこの事を告げけり。古郷にとゞまりたる妻、夫の行方をおもひつゞけて、只ひとり立ちしに、忽ちに大空の中にして、人の声するをあやしときくに、まさしき我夫の声なり。みづから既に死し侍りぬ、日ごろは見えざりし簪、誠は我かくせしなり、我死せし事、誠と思ひ給はざらんには、いづこの壁の中を見給へかし、これを印(しるし)としるべしとぞいひける。うつゝなき事と思ひしかど、教へのまゝにそこの壁の中を見るに、誠にかんざしありけり。妻は天をあふいでなく。やがてなき跡の事など営みてけり。いく程なくて夫は病愈えて帰り来りけれど、妻は死したる人の魂の帰り来りけると、大いにおどろきまどひけり。これ等のごときは、また游魂の人をあざむきて、かゝる振舞したるなりとぞ云ひつたへ侍る。(程子並びに東坡の書に見ゆ。宋の事なり。游魂はうかれ行く鬼《き》なりとや)と見えたり。 〔耳袋巻五〕これも中山氏にて召使ひし小侍、甚だ発明にて、主人も殊の外憐愍《れんびん》して召使ひしが、寛政七年の暮、流行の疱瘡を患ひて身まかりしを、主人その外殊の外に不便《ふびん》がり、厚く弔ひ遣はしける由。然るに中山の許へ心安かりける男、昌平橋<東京都千代田区内>を通りしに、かの小侍が死せし事も知らざりしが、はたと行き合ひて、如何主人には御変りもなきやと尋ねければ、相応の挨拶して立別れける。中山の許へ至りて尋ねしに、遙かに日を隔てて相果てし事を語りけるに驚きて、我等一人に候はゞ見損じも有るべしと、召連れし僕《しもべ》にも尋ねけるに、これもかの小侍はよく覚えて相違なきよし語り、共に驚きけるとなり。

[やぶちゃん注:前者の「海西漫録」(かいせいまんろく)は国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 天明八(一七八八)年~安政六(一八五九)年)の随筆。彼は豊後国臼杵(現在の大分県臼杵)に八坂神社神主鶴峯宜綱の子として生まれ、江戸で没した。著作は多く、中でも「語學新書」はオランダ語文法書に倣って当時の日本語の文法を編纂したもので、近代的国語文法書の嚆矢とされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は『○游魂有ㇾ知』である。後者は、私の「耳囊 卷之五 遊魂をまのあたり見し事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「誘拐異聞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 誘拐異聞【ゆうかいいぶん】 〔梅翁随筆〕麹町三丁目<東京都千代区内>谷《たに》日下部(くさかべ)権左衛門の侍、巳七月下旬部屋に休み居《ゐ》けるに、夜中名を呼びて戸を厳しく敲くものあり。何人なるやと尋ぬれば、その答へはせで、しきりに呼ぶゆゑ、そ こきみあしく出《いで》もやらず、物をもいはず居《をり》ければ、その後《のち》音もせず。寝入らんとする時、また 来りて戸をたゝく事ゆゑ、いよいよ息をころして居《ゐ》ければ、この度はすつとはひりたり。見れば大の山臥(やまぶし)なり。近寄る所を物をもいはず、脇ざしにて鞘ながら払ひければ、そのまゝ出《いで》さりぬ。またもや来ると怖ろしく、夜のあくるを待ちかねたり。夜あけて後《のち》傍輩どもへこのよし咄 しければ、大いにうなされたるなるべしと、みなみな笑ひぬ。その夕方この侍、座敷の戸を〆(しめ)に行きてより行衛しれず。不審におもひ近辺尋ねけれども見えず。早速宿へ申遣はし、欠落《かけおち》せしかとも推量すれども、