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2024/01/31

「蘆江怪談集」 「怪談靑眉毛」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。]

 

 

     

 

 

         

 

 宮部(みやべ)三十郞(らう)は筆を下に置いて詠草(えいさう)を手にとつた。

「泣顏を隱(かく)せば行燈(あんどん)搔(か)き立てゝ――大分艶(えん)な場面になつたの」

「左樣、お手前には得意(とくい)の擅場(だんぢやう)ぢや、さあ、充分(じうぶん)色(いろ)つぽいワキをつけてもらひたいな」とうしろに手を突いて身體を反(そ)らしたのは高坂杢之)進(たかさかもくのしん)、柱にもたれてニコニコとしてゐるのが神村甚(かみむらじん八。

 何れも旗本(はたもと)の御次男(ごじなん)。

「よし、かういふ風に付けよう、――障子(しやうじ)にうつす影(かげ)の怖(こは)さよ――どうぢや」

「いや。少し怪談(くわいだん)じみて來たの」

「なるほどなるほど、泣顏(なきがほ)を隱せば行燈(あんどん)かき立てゝ、障子にうつす影(かげ)の怖(こは)さよ、か、よしよし、さて次は私の番(ばん)か」と高坂杢之進が頭を兩手に抱(かか)へ込(こ)んだ。

 其時、突然(とつぜん)、神村甚八が一膝乘(ひざの)り出して、

「怪談(くわいだん)で思ひ出したが、近々(きんきん)に百物語をやつて見ようではないか」と云(い)つた。

「百物語、うむ、それは面白(おもしろ)い、早速(さつそく)囘狀(くわいじやう)を𢌞すとしよう、何か趣向(しゆかう)をするかな」

「趣向は要(い)るまい、いつもの通りの百物語ぢや、只(たゞ)幽靈(いうれい)の掛地(かけぢ)ぐらゐは二三本あつてもよいの」[やぶちゃん注:「掛地」掛物。掛け軸。]

「幽靈の掛地なら臼井氏(うしゐし)の筆で描(か)いてもらつたらそれで濟(す)むわ」

「なるほど、臼井氏なら凄(すご)い繪(ゑ)を畫(か)いてくれるであらう」

 臼井といふのは國友(くにとも)と號して浮世繪(うきよゑ)のたしなみを持つ同じ旗本の次男仲間(じなんなかま)である。

「場所は何處(どこ)がよからうの」

「拙者(せつしや)の邸でもよいが、それでは女どもが集(あつ)めにくい、百物語ならば女が多勢(おほぜい)ゐなければどうも凄味(すごみ)が付かぬものぢや、水神(すゐじん)へ持ち出すとしようか」[やぶちゃん注:「水神(すゐじん)」「水」の音「スイ」は明治・大正・昭和初期頃までは、歴史的仮名遣を「すゐ」とするのが一般的であったが、その後、中国音韻の研究が進み、現在は「すい」でよいことが決定されている。なお、この「水神」は意味不詳。或いは、現在やや移動している隅田川神社(グーグル・マップ・データ)の鎮守の森を「水神の森」と呼んだから、この周辺にあったかも知れない茶屋等を指すか。識者の御教授を乞う。]

「なるほどそして堀(ほり)の連中を呼(よ)び上(あ)げるかな」[やぶちゃん注:「堀」吉原遊廓は新旧ともに堀で囲まれていた。]

 いつか百物語の催(もよ)ほしの下相談に移(うつ)つて、折角卷かけた歌仙(かせん)はもう藏(しま)ひ込(こ)まれて了つた。

 百物語の場所や日取、呼(よ)び集(あつ)める友だちの顏(かほ)ぶれなど、それぞれ申合せが濟(す)んだ時は、もう亥(ゐ)の上刻[やぶちゃん注:現在の午後九時から午後九時四十分比までを指す。]といふ刻限(こくげん)。

「さあこれで又一つ新規(しんき)な樂(たの)しみが出來たといふものだが、そのお庇(かげ)で折角(せつかく)卷(ま)きかけた歌仙は中止になつたの」

「なに歌仙(かせん)はこの儘(まゝ)にして置けば、いつでも卷(ま)けるわ、兎に角あらまし申合せも濟(す)んだから今夜は散會(さんくわい)としようではないか」

「なるほど、もうかれこれ四つ[やぶちゃん注:午後十時。]ぢや」と神村(かみむら)が先に腰(こし)を上げる、高坂も立上ると、阿部(あべ)[やぶちゃん注:ママ。「宮部」の誤記か誤植。]はまだ引止めたい顏(かほ)つきで、

「では拙者(せつしや)も風に吹かれがてら、其處までお見送(みおく)りをいたさうかな」小刀(せうたう)を一本さした儘(まゝ)でぶらりと靑葉(あをば)の月の下に立つた。

 宮部の邸は濱町河岸(はまちやうがし)、三人はその河岸通りを懷手(ふところで)で、尙(なほ)仕殘(しのこ)した話を續けながら兩國廣小路(りやうごくひろこうじ[やぶちゃん注:ママ。])へ出ようとする。

 兩國廣小路の見世物小屋(みせものごや)も、もうそろそろ人の散(ち)り際(ぎは)と見えて、點(とも)しつられた燈(あかり)が、齒(は)のぬけたやうに洩(も)りかけてゐる、その廣小路へかゝる一寸手前の橫町兩側は、町家の隱居所(いんきよじよ)や妾宅(せふたく)の立ちならんだ仕舞屋(しもたや)ぞろひの中に、只(たゞ)一軒二間間口[やぶちゃん注:「にけんまぐち」。約三・六四メートル。]の見世屋がある、元來(ぐわんらい)小(こ)ざつぱりとした荒物屋だが、とりわけ物淋(ものさび)しい橫町に只一軒の見世屋である爲めに一層(そう)際立(きはだ)つて見える。

 宮部三十郞は其處まで來ると、心圖(ふと)立止(たちど)まつて「御兩君(ごりやうくん)」と小聲で呼びかけた。

「あの荒物屋(あらものや)の見世先に坐(すは)つてゐる女を、何と見られる」

「なるほど、これは素晴(すばら)しい美人ぢや」

「美人(びじん)といふだけか」

「大分(だいぶ)凄味(すごみ)があるの、併しあの位のは一寸(ちよつと)稀(まれ)ぢや」

「少しつんと仕過(しす)ぎて居るの」

「それぢや、そのつんとしてゐるのが、何(なん)となく私に目ざはりで堪(たま)らない、私はあゝいふ女こそ間男(まをこと)をする女ぢやと思つて居る」

「間男をしさうな女といふのか、うむ、これはよい目(め)のつけどころぢや、私もさう思(おも)ふ」

「あれでもう娘(むすめ)ではないのか」

「なにあの家の女房(にようぼ)ぢや、邸(やしき)の仲間が何處かで聞いて來た話には、何でもあの店(みせ)の主人といふのは大工で、店は家内が手内職(てないしよく)に出してゐるのださうな、可愛い獨(ひと)り息子(むすこ)に日本一の美人を嫁(よめ)にしてやりたいといふのが日頃の望(のぞ)み、その日本一の美人といふ鑑定(めがね)に叶(かな)つて、つい一月ほど前に嫁入つて參(まゐ)つたのがあの女ぢや。あの女の親は辻駕籠(つぢかご[やぶちゃん注:ママ。])をかついでゐるさうぢやが、嫁(よめ)にとつて以來あの家の兩親(りやうしん)はそれが大自慢(おほじまん)であの通り、晝となく夜となく見世先(みせさき)へさらしづめにしてゐるのぢや」

「荒物屋繁昌(あらものやはんじやう)の爲めの看板女房ぢやな」

「いやさうとばかりは限(かぎ)らない、只自慢に見せびらかしてゐるといふ次第(しだい)さ、あの女の顏を始(はじ)めて見た時に、拙者(せつしや)は何といふ理由(りいう)なしに、間男をしさうな女ぢやと思つた、それ以來(いらい)この橫町を通(とほ)るのがいやでいやでたまらない、いやでたまらない癖(くせ)に、あの女の事が氣(き)になつて、ついつい、かうして此の橫町(よこちやう)を通つてはあの見世を覗(のぞ)き込(こ)む癖がついて了うた、これはどうした譯(わけ)か拙者自身(せつしやじしん)にも解(げ)せないで困つてゐるのぢや」

「貴公(きこう)、あの女に惚(ほ)れたのであらう」

「いや、其樣(そんあ)な事は神以(かみもつ)てない、只(たゞ)憎々(にくにく)しくてたまらないのぢや」

「はゝゝ、人の疝氣(せんき)を頭痛に病(や)むといふ事もあるが、餘りといへば筋(すぢ)ちがひの毛嫌(けぎら)ひぢや」[やぶちゃん注:「他人の疝氣を頭痛に病む」自分に何の関係もないことに、余計な心配をすること]の喩え。但し、諸辞書の使用例を見ると、昭和以降の事例のみなので、江戸時代のシークエンスで使用するのは違和感がある。]

「うむ、さう云はれても仕方がない、若(も)しあれが私の妹(いもうと)か何ぞであつたら、疾(とう)の昔に切り捨てゝ了つてゐるかも知(し)れぬ」

 宮部はかう云つてゐる間も氣をいらくさしてゐた、あとの二人は格別(かくべつ)氣(き)にも止(と)めず、

「兎(と)に角(かく)、美人は美人だが、たしかに愛嬌(あいけう)は乏(とぼ)しいの」と一口に云ひ切つて「では臼井氏の方は拙者手近で賴(たの)んで置く事にするが、水神(すゐじん)へはお手前から附込(つけこ)んで置いてもらひたい」

 「宜しい、承知した」と云つて、宮部は高坂、神村と別れて引返した。

 

         

 

 それから三日目の夜(よる)、宮部は仲間(ちうげん)の宅助(たくすけ)を連れて外出のかへりがけ例(れい)の橫町へさしかゝると、宅助が、

「若旦那樣、昨日か今日の中(うち)に、例のお玉(たま)の顏を御覽(ごらん)になりましたか」と聞く、

「そこの荒物屋の若女房(わかにようぼ)の顏が、どうかしたといふのか」

「ヘイ、ぢやまだ御覽になりませぬな、すつかり元服(げんぷく)をしましてな、水々と靑岱(まゆ)を引いて素晴(すばら)しい女房ぶりを造(つく)つて、相變(あひかは)らず見世先に坐(すは)つて居ります」

「あの女が元服をした、一層(そう)憎(にく)らしい顏であらう」

「いやどうも、世の中に美人は俺(お)れ一人といふ風な素振(そぶり)で、そつくりかへつて居ります」

 二人がこんな話をしてゐる間(うち)に、二人の身體(からだ)はこの荒物屋の前(まへ)へさしかゝつた。

 なるほど其のお玉(たま)は水々した靑眉毛(あをまゆげ)の元服姿で見世先に坐つてゐた。

「若旦那、憎(にく)らしい姿ぢやありませんか」

「うむ、いよいよ間男(まをとこ)をしさうな女ぢやの」

「何(なん)とかからかつてやりませうか」

「どうして、からかはうといふのぢや」

「何か買物(かひもの)をしながら、話しかけます」

「止(よ)せ止せ、碌(ろく)でもない事を」と云ひ捨てにして宮部は足(あし)を早(はや)めた。

「あの女め、若旦那(わかだんな)のお顏を見おぼえて了(しま)ひましたぜ、今お通りがかりに、會釋(ゑしやく)をして居りました」

「なに、會釋(ゑしやく)なぞするものか、其方(そのはう)の思ひなしでさう見えたのぢや」

「いゝえ、たしかに笑顏(えがほ[やぶちゃん注:ママ。])を造りました」

「どうでもよい、捨(す)て置(お)け捨て置け」

 宮部はいらいらしながら步(ある)いた。

 更(さら)に三四日經(た)つた雨の夜、仲間の宅助が、

「若旦那樣、臼井樣(うすゐさま)からお使(つか)ひでございます」と閾越(しきゐご)しに云ひ入れた。

「使ひの用(よう)は」

「ハイ、こゝにお手紙と、包(つゝ)みものが屆(とゞ)いて居ります。只若旦那樣へさし上(あ)げればよいと申(まを)しまして、使(つかひ)は直ぐに立ちかへりました」

「うむ、百物語に用ふる幽靈(いうれい)の繪(ゑ)であらう、包(つゝ)みの封(ふう)を切つて見やれ」と云ひながら宮部は手紙を讀(よ)みはじめた。

 宅助の手で解(と)かれた包みは假卷(かりまき)に仕立てた掛地(かけぢ)が一本。

「若旦那の仰(おつ)しやる通りでございます、掛けて見ませうか」と、獨(ひと)り合點(がてん)で長押(なげし)に火箸(ひばし)を挾(はさ)んで假卷を開(ひら)いた。

「やあ、これは物凄(ものすご)い」と宅助は身慄(みぶる)ひをして廊下(らうか)へ飛び退つた[やぶちゃん注:「しざつた」。]。

「うむ、國友としては天晴(あつぱ)れ上出來ぢや、今にも鬼火(おにび)が燃(も)え出しさうな幽靈ぢや」と云ひ云ひぢつと見る中に、宮部の目は掛地に吸(す)ひよせられるやうに、据(すわ)つて了(しま)つた。

「臼井樣の若旦那樣(わかだんなさま)がお描(か)きなされたのでござりますか」

「うむ」

「どうも凄(すご)いものでござりまするな」

「うむ」

「これは何にお使(つか)ひなさるのでござりまする、幽靈(いうれい)の繪など、迚(とて)もお邸の床(とこ)にお用ゐになるのはあんまり緣起(えんぎ)のよいものとは思はれませぬが」宮部はもう默(だま)つて了つて、只一心に繪(ゑ)に見入つてゐる。

「若旦那樣(わかだんなさま)、どうかなされましたか」

 宅助は怖氣立(おぢけた)ちながら、宮部(みやべ)の顏色を見い見い、怖(おそ)る怖る尋ねた。

「宅助、妙(めう)な事があるものぢやの」

「ヘイ」

「私は二三日前の晚(ばん)、不思議な夢(ゆめ)を見た」

「ヘイ」

「その夢の話を其方(そち)に話さう、馬鹿(ばか)げた事などと思はずに聞(き)いてくれ、その夢といふのはかうぢや、人通りの尠(すくな)い邸町(やしきまち)の眞晝間であつた、日かげ一つなくカラカラに照(て)りつけてゐる土塀(どべい)のかげに蠟細工(らふざいく)のやうな海棠(かいどう)の花が咲(さ)いてゐるところを、私は猩々(しやうじやう)のくせ舞(まひ)を謠(うた)ひながら通つてゐた、何處の町かは知らない、すると行く手に何やら、長々(ながなが)と橫(よこた)はつてゐるものがある、私は不審(ふしん)に思ひながら、ずつと側(そば)へ寄(よ)ると、それが若い女が一人、往來(わうらい)の眞中に寢(ね)そべつてゐるのぢや、はてこのやうなところで、酒(さけ)に醉(よ)つたのか、それとも病氣かと、引起してやる氣で女の寢姿(ねすがた)の前に立ちかゝつたが、はツと思つた、女は眞白(まつしろ)な右の肌(はだ)を惜(を)しげもなく帶際(おびぎは)かけて肌(はだ)ぬぎのやうになつてゐる、其の右の乳(ちゝ)の下あたりにづぶりと出刄庖丁(でばぼうちやう[やぶちゃん注:ママ。])が突きさしてあるのぢや」

「ヘイ、殺(ころ)されたのでございますか」

「さうぢや、それにしても誰(だ)れ一人氣が付かぬとは不思議(ふしぎ)な事ぢや」とこのやうな事を思(おも)ひながら私は屍骸(しがい)の顏を覗き込むと、さあ誰れやらに似(に)てゐると思つたが、どうしても思ひ出せない、ぬけるほど色の白い靑眉毛(あをまゆげ)の美人であるが、只一突に急所(きふしよ)を刳(えぐ)られて居るので、もう手當(てあて)の仕樣もない、切(せ)めては屍骸を片付(かたづけ)けてやらうかとしたが、それとても何處へ片付けてよいか判(わか)らず、つまらぬ掛り合ひになつて暇(ひま)をつぶされるのも馬鹿々々しいからと、見すごした儘(まゝ)通(とほ)り過(す)ぎた、これで夢(ゆめ)はさめた。

 醒(さ)めての後にも、ハテ妙(めう)な夢を見るものぢや、それにしても、あの女の顏(かほ)は誰れやらに似たと三日以來心にかゝるがどうしても思(おも)ひ出(だ)さぬ」

「ヘイ、それでどうなされました」

「其處で此(この)幽靈(いうれい)の顏ぢや、これが不思議にもあの夢の中の女の顏と生(い)き寫(うつ)しぢや、どう思ひ直しても同(おな)じ顏ぢや、これはどうしたわけであらう」

「ヘイ、まア一口にまぐれ當(あた)りといふのでございませうか、併(しか)し不思議(ふしぎ)な事でござりますねえ、さう仰(おつ)しやれば、若旦那樣まだ不思議な事(こと)がございます」

「不思議(ふしぎ)とは」

「今若旦那樣のお言葉(ことば)では、夢の中の女は、右の乳(ちゝ)の下を出刄で刳(えぐ)られてゐたと仰(おつ)しやいましたね」

「さうぢや」

「これを御覽(ごらん)なされませ、この繪(ゑ)の女も右の乳の下に血(ち)がにじんで居ります」

「うむ、なるほど、同じ場所(ばしよ)ぢやの、益々(ますます)不思議ぢや」

「若旦那樣、私はもう一つ不思議に思ふ事(こと)がございます」

「まだ不思議(ふしぎ)があるといふのか」

「ヘイ、若旦那樣はその夢の中の女に、見おぼえがあるが、何處(どこ)の誰(だ)れであつたか思ひ出せぬと仰しやいましたが、私はこの繪の女をあの荒物屋(あらものや)のお玉に似(に)てゐると思ひましたが、如何でございませう」

「此(こ)の繪(ゑ)がお玉(たま)に、なるほど、さういへば私も心付(こゝろづ)かなんだが、私の夢の中の女もお玉の顏に似て居(を)つたのぢや」

「臼井の若旦那樣があのお玉の似顏(にがほ)をお描(か)きなされたのでござりませうか」

「いや其樣事(そんなこと)はない、神村と高坂はあの女を見たが、臼井(うすゐ)には噂(うはさ)もした事がない、よしんばあの臼井がわざわざあの女の似顏にして此(こ)の繪を描(か)いたにしたところが、私の夢(ゆめ)にまで見させる事は出來(でき)まい」

「ヘイ、それは仰(おつ)しやる通りでございます、何にしても、かう物事がバタバタと打突(ぶつか)ると空恐(そらおそ)ろしいやうな氣(き)がいたしまするな」

「あの女に何か、間違(まちが)ひでもある知(し)らせではあるまいか」

「まさか、そんな事(こと)もございますまい」

「何にもせよ、私は氣もちが惡(わる)くなつて參つた、この繪を早う片付けてくれ」と宮部(みやべ)は目をふさいで立上(たちあが)つた。

 

          

 

 宮部は立上つてから緣先(えんさき)へ出た、沈丁(ちんいやう)の花の香が何處ともなく匂(にほ)ふ、其花の香を懷(なつ)かしんで、宮部は庭(には)へ下りた、もう雨は止(や)んでゐた。

「私は少し河岸通(かしどほ)りをぶらついて來るから、其間に座敷(ざしき)を片付けさしてくれ」と宅助(たくすけ)に云ひつけて、庭木戶(にはきと)を開けた。

「私、お伴(とも)いたしませうか」

「いやそれには及(およ)ばぬ」と云ひ捨てゝ外へ出たが、足はいつの間(ま)にか、例(れい)のお玉の見世(みせ)の橫丁へ出(で)た。

 見たくない見たくないと思(おも)ひながら、お玉の見世をちらと覗(のぞ)き込(こ)むと、丁度其時、仲間體(ちうげんてい)の男が見世先に腰(こし)をかけて、頻(しき)りに話し込んでゐる。

 お玉(たま)はいつもの通(とほ)り、つんと胸を反(そ)らして靑眉毛(あをまゆげ)をてらてらと光(ひか)らせながら、その仲間體の男に何かを手渡(てわた)した。

「ハテ、あの仲間(ちうげん)は」と宮部が一寸(ちよつと)眉(まゆ)をくもらせると、仲間の方にもそれが感(かん)じたらしい、宮部の方を振返(ふりかへ)つた、そして大急(おほいそ)ぎで立ち上つて、つかつかと宮部の側(そば)ヘ寄(よ)ると、

「これはこれは宮部の若旦那樣でございましたか、只今(たゞいま)お邸(やしき)までお邪魔(じやま)いたしました」といふ。

「あゝ、其方(そち)は臼井氏の御家來か」

「左樣(さやう)でございます、市助(いちすけ)めでございます、旦那樣はどちらへおいでゝございます」

「うむ、何處(どこ)といつて當(あて)もなくぶらついてゐるのぢや、其方(そち)はあれから今まであの見世(みせ)にゐたのか」

「ヘイ、つい話(はな)し込(こ)みまして」

「其方(そち)、あの家と懇意(こんい)ぢやと見えるの」

「いえ、懇意(こんい)といふわけではございませぬが、一寸(ちよつと)」

 市助は宮部の顏を見ながら、あとは言葉(ことば)を濁(にご)らして了つた、そして急(きふ)に思ひ出したやうに、

「では宮部樣、御免下(ごめんくだ)さりませ」と云ひ捨てに、頭だけは丁寧(ていねい)に下げて急ぎ足で歸(かへ)つて去(い)つた。

 宮部の心持(こゝろもち)は何となく穩(おだ)やかでない、もう橫丁(よこちやう)を廣小路の方へ出ぬけて了ひさうになつてゐる市助のあとを自分も追(お)ひかけようとしたが、さうもならず、只(たゞ)ふらふらと步いた、が、步く足に力がぬけた、何ともつかず廣小路(ひろこうぢ)に出かけた、が、まだ此の町に殘(のこ)つてゐる宵(よひ)のざはめきを見るのもいやな氣(き)で、すぐにうしろへ引返(ひきかへ)した。

「かういふ晚(ばん)は早くかへつて寢(ね)るとしよう」と呟(つぶ)やきながら、又しても例(れい)の橫丁ヘ戾つた。

 荒物屋(あらものや)では珍らしく、お玉の亭主(ていしゆ)が見世先に出てゐる、もう見世をしめるのか、お玉の亭主はそはそはと見世先の取片付をして立働(たちはた)らいてゐる、奧(おく)の方ではお玉の姑(しうとめ)であらう、白髮交(しらがまじ)りの老女が次の間に床(とこ)を展(の)べてゐる、舅もその奧(おく)で何か立働いてゐる樣子(やうす)であつたが、お玉ばかりは往來へ出て物靜(ものしづ)かな外の樣子を眺(なが)めたり、こぼれかゝるやうな初夏(しよか)の夜の星(ほし)を數へてゞもゐるやうな風情(ふぜい)。

 宮部はとりわけて苦(くる)しい思ひがした、多寡(たくわ)が荒物屋の嫁風情(よめふぜい)で、舅姑(しうとしうとめ)に立働らかせ、亭主に見世の取片付(とりかたづけ)を打任せて何といふ寬怠(くわんたい)[やぶちゃん注:「なおざり」に同じ。]さであらうと、いらいらした氣持になる、見(み)るのもいやと思ひながら、宮部(みやべ)は女の顏を睨(にら)みつけるやうにして、こゝの前を通(とほ)り過(す)ぎやう[やぶちゃん注:ママ。]とした。

 其時、女の目は宮部とばつたり出逢(であ)つた、穴(あな)のあくほど睨(にら)みつけてやる氣でゐた宮部の目は、いつか橫(よこ)へ反(そ)れてゐた、而(しか)も女は宮部の思ひなしか、目許(めもと)に笑(え[やぶちゃん注:ママ。])みを含(ふく)んで宮部をぢつと見ながら會釋(ゑしやく)したかと思はれる、宮部はたまらなくなつて、急(いそ)ぎ足に我家(わがや)へ馳(は)せ戾(もど)つた。

「あの女め、若旦那(わかだんな)の顏を見おぼえて了ひましたぜ」と宅助(たくすけ)が云つたが、今の樣子(やうす)ではさうらしくもある。

 あんな女に見おぼられたかと思ふと、腹立(はらだ)たしいほどの不愉快(ふゆくわい)さである。宮部は不機嫌(ふきげん)さうに我家に歸(かへ)つて、そこそこに床(とこ)へ入つた。

 憎(にく)らしい女め。

 癪(しやく)にさはる女め。

 薄暗い有明(ありあけ)の燈火(ともしび)を睨みつけながら、くりかへして思つた。

 が、不圖(ふと)氣(き)が付くと、俺(お)れは一體何の爲めにあの女の事がこれほど心(こゝろ)にかゝるのか、何の爲(た)めに腹立(はらだ)たしいのか、少しも判(わか)らない。

 判らない中(うち)から、今度は臼井の仲間市助を思ひ出した。

 市助(いちすけ)があの店へ可成(かな)り長い間、立よつてゐたのは、市助自身とあの女とが知合(しりあ)ひなのか、それとも只何かの買物(かひもの)だけに立よつたのか、とかういふ疑問(ぎもん)が起つて來る。

 途端(とたん)に、臼井の畫いた幽靈の繪(ゑ)がありありと有明行燈(ありあけあんどん)のかげに浮びよつて見えた[やぶちゃん注:「よつて」はママ。『ウェッジ文庫』版では、『上つて』で、本底本のそれは、誤植と断じてよいだろう。]。

 行燈には丁字(ちやうじ)が立つたか、パチパチと音がして、急に灯(あか)りが暗(くら)くなつた。[やぶちゃん注:「丁字(ちやうじ)が立つた」これは「丁子頭」(ちょうじがしら)が立つ]で「灯心の燃えさしの頭(かしら)に出来た塊り」を指す。形が丁子の果実に似ていることからの謂いである。なお、俗に「丁字頭を油の中に入れれば貨財を得る」と言い、「丁子が立つ」で、縁起担ぎの民俗があり、これは「茶柱が立つ」と同義である。]

 三十郞は半ば身體(からだ)を起して、行燈(あんどん)の灯をかき立てた。かき立てた機(はづ)みに今度は「泣(な)き顏(がほ)をかくさば行燈(あんどん)かき立てて、障子(しやうじ)にうつす影の怖さよ」といふ付句(つけく)が心の中に思ひ浮(うか)んで來た。

「臼井(うすゐ)とあの女とが知合であるのかも知(し)れない」

 不圖(ふと)かういふ心持が湧(わ)いて來た、その臼井の使で市助めもあの見世(みせ)へ立寄(たちよ)つたのだ、何か云ひさうにして、市助(いちすけ)が急ぎ足に慌(あはた)だしく驅(か)け去(さ)つたのもその爲めである。

「臼井とあの女が知合(しりあひ)であつたとすれば何であらう」

 今度はかう思ひ始(はじ)めた。

 が、考(かんがへ)へたところで、この解決(かいけつ)はいつまでもつきさうに思はれない。

「我れながら馬鹿(ばか)げた事だ、用もない事に心を惱(なや)ますには及ぶまい」と口の中で云つて苦笑(にがわら)ひをしながら寢(ね)ようとした、が目はいよいよ冴(さ)えるばかりである。

 

         

 

 翌日(よくじつ)になると又宅助が變(かは)つた報告を齎(もた)らした。

「若旦那樣、あの女はつい先頃(さきごろ)まで深川にゐた女ださうでございます」

「あの女とはお玉(たま)の事か」

「ヘイ、深川の梅本(うめもと)で一寸の間娘分(むすめぶん)になつてゐたのだと申しました」[やぶちゃん注:「梅本」深川に実在した料理茶屋。遊女や芸者を呼んで遊興の出来る揚茶屋を兼ねていた。]

「誰(だ)れがそのやうな事を申(まを)した」

「ヘイ、私どもの仲間(なかま)のものがさういふ噂(うはさ)をして居りましたが」[やぶちゃん注:「仲間(なかま)」のルビは絶妙。蘆江は、ここまで「中間(ちゆうげん)」を「仲間」と表記してきたから、意訳ルビとして多重して表現しているのである。]

「なるほどさう申せば、さういふ種類(しゆるゐ)の女にも見える。が、それにしては餘(あま)りに愛嬌(あいけう)がなさすぎるではないか」

「それでございます、その愛嬌(あいけう)がなさすぎる爲めに深川のつとめが勤(つと)まらず、あんな叩(たゝ)き大工風情(だいくふぜい)の女房(にようぼ)になつたのださうでございます、それにあの大工とあの女とは從兄妹同士(いとこどうし)で幼(をさな)い時からの許嫁ださうでございます」

「さうすると縹緻望(きりやうのぞ)みで探しあてた辻駕籠(つじかご)かきの娘といふのは噓(うそ)か」[やぶちゃん注:「縹緻」 顔だち・みめ・容姿。 「器量」の当て字。]

「若旦那樣(わかだんなさま)、よくおぼえておいでゞざいますな」

「はゝゝ、その位の事忘(わす)れはせぬわ」

「ヘイヘイ、その辻駕籠かきの娘といふのに間違(まちがひ)はありません。それから縹緻望(きりやうのぞ)みといふのにも噓はありません」

「でも從兄妹(いとこ)で許嫁(いひなづけ)ぢやと申すではないか」

「ヘイ、それがそのやうでございます、幼(をさな)い時(とき)からの許嫁ではございますが、女の方が男を嫌(きら)つていよいよ夫婦(ふうふ)にされやうといふ時、女は家出(いへで)をしたのださうでございます、家出をすると間もなく惡者(わるもの)に引かゝつて深川(ふかがは)へ賣られたのでございます、ところがあの通り何となく氣位(きぐらゐ)が高くて愛嬌(あいけう)がありませんので、梅本でも困つてゐましたさうで」

「その中(うち)に大工の方が手をまはして、その女を引取(ひきと)つたと申すのか」

「ヘイ、何(なに)しろ大工の家はあゝ見えてゐましても一寸(ちよつと)小金(こがね)を持つて居るさうで、それにあの伜(せがれ)がどうせ持つ女房(にようぼ)ならあの位の縹緻(きりやう)の女を女房にしたいと云ひくらして居りますので、早速(さつそく)手をまはして引取(ひきと)つたのでございます、まァ嫌(きら)はれて、許嫁(いひなづけ)を金で買(か)ひ戾(もど)したやうなものでございますな」

「それであの女め、あの通(とほ)りに我儘(わがまゝ)をしてゐるのぢやな」

「ヘイ、隨分(ずゐぶん)我儘(わがまゝ)をして居る樣子でございます」

「一體(たい)誰(だ)れにそのやうな話を聞いてまゐつた」

「え、なに、私たちの仲間(なかま)でよくお饒舌(しやべり)をいたしますので」

「さうか、臼井の宅(たく)の市助に聞いたのであらうな」

「ヘイ」

「さうであらう、どうぢや當(あた)つたか」

「ヘイ、若旦那樣、どうしてそれを御存(ごぞん)じでございます」

「なに、大抵(たいてい)は判(わか)つて居る、それにあの市助が、今なほ時々お玉(たま)の家へ立ちよることも知つて居る」

「へえ、それはどうも大した早耳(はやみみ)でございます、それほど御存(ごぞん)じなら、あの女のところへ臼井の若旦那樣がしげしげお通(かよ)ひになつた事も御存(ごぞん)じでございますな」

「うむ、其の事についてはあまり深(ふか)くは知らぬ、何しろ臼井が極(きは)めて内々にして居るでの」

「何でも臼井樣(うすゐさま)はあの女がつき出しの始めからお客(きやく)だつたさうにございます、それからずつと、大方每日よしんば間が離(はな)れたにしても三日目には必(かな)らずお通(かよ)ひになつたさうで、お互(たが)ひに大分深い馴染(なじみ)といふほど迄(まで)になつておいでださうでございます」

「臼井め、中々(なかなか)隅(すみ)に置けぬ奴(やつ)ぢや、我々をさし置いて拔驅(ぬけが)けの深川遊びをしてゐようとは思はなかつた」

「ヘイ、隨分(ずゐぶん)お堅(かた)い御樣子にお見受け申しますが、この道(みち)ばかりは別(べつ)でございます」

「なるほど、それであの幽靈(いうれい)の繪がお玉の似顏(にがほ)になつてゐる所謂(いはれ)も判(わか)つたわ」

「左樣(さやう)でござりまするな」

「あいつ、思(おも)ひ遂(と)げた女の事を忘(わす)れかねて、切(せ)めて繪筆に似顏などを描(か)いては思ひをまぎらしてゐるのであらう」

 宮部は目前の霞(かすみ)がすつかり晴(は)れたやうに思つた。

 

         

 

 臼井の描(か)いた幽靈の繪が水神(すゐじん)の離(はな)れの床にかゝつて蚊帳越(かやご)しに見える籠行燈(かごあんどん)の灯(あか)りが、幽靈の靑眉毛(あをまゆげ)をほんのりと見えさせる夜(よる)が來た。

 もう彼(か)れこれその夜も丑滿(うしみ)つに近からうと思ふ刻限(こくげん)である。

 寺島村の堤下(どてした)、見るかげもない茅屋(あばらや)から一人の侍(さむらひ)が四方を見まはしながら出て來た、そのうしろから女が一人追ひすがるやうにして寄(よ)り添(そ)つた。[やぶちゃん注:「寺島」「ひなたGPS」の戦前の地図を見られたい。「寺島町」が確認出来る。現在の東向島で、隅田川神社の南東二キロ圏内に当たる。]

「どうでもお戾(もど)りなさらねばなりませぬか」

「うむ、もう怪談(くわいだん)も盡(つ)きた頃であらう、私の姿(すがた)が見えぬと判つて、そろそろ皆が騷(さわ)ぎ出す時分ぢや」

「このあとはいつお目(め)にかゝれる折(をり)もありませぬのに」

「さあ、何(なん)にしても邸(やしき)の親どもがやかましすぎるので儘(まゝ)にならぬ身の上、今夜だけは百物語(ものがたり)にかこつけて曉方(あけがた)までのひまが出てゐるので、漸(やうや)く其方(そち)に逢(あ)へたが、――なに、又何とかして折を造らう、その時は又(また)市助(いちすけ)をやつてたよりをする事にしよう」

「其の折(をり)の參るのを待(ま)つて居ります」

 二人は堤(つゝみ)に上つた。

「父(ちゝ)によろしく申してくれ」

「ハイ、あのやうなむさくるしい住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で、正しくは「すまひ」と読む。])へお連(つ)れ申して申譯(まをしわけ)がございません」

「何(なん)の、そのやうな事を心にかけるには及(およ)ばぬ事ぢや、其方(そち)が親なら私の親も同然ぢや」

「あれ勿體(もつたい)ない事を仰(おつ)しやります」

「ではお玉、此の夜更(よふけ)にあまり遠とほ」くへ出ては物騷(ぶつさう)ぢや、早く戾つてくれ」

「ハイ」

「さ、戾(もど)れと申すに」

「ハイ、あの臼井樣(うすゐさま)、もう一度お顏(かほ)をお見せ下さりませ」

「はゝゝ、死(し)に別(わか)れでもするやうぢやの」と云ひながら、二人は星(ほし)あかりの下に向ひあつて立つた。さうして抱(だ)き交(かは)して名殘(なごり)を惜(を)しんだ。

「いつそ此儘(このまゝ)、どこぞへ連れて退(の)いて下さいませ」

「私(わし)も幾度そのやうな事を思つたか知れぬ。が、私の身(み)には、家庭(かてい)といふものがつきまとつて居る、其方には年老(としと)つた父親がある、二人の思ふ儘(まゝ)にはどうしてもならぬのぢや」

「なぜ深川(ふかがは)にあの儘(まゝ)殘(のこ)つてゐる氣にならなかつたものか。と、それが口惜(くや)しうございます」

「さ、さ、それを云はれると、五十兩(りやう)とまとまつた金の使へぬ此身の腑甲斐(ふがひ)なさがかへすがへすも口惜(くや)しい、もう何もいふな、一年先か三年先か又(また)今夜(こんや)のやうな逢瀨(あふせ)を造るのを待つてゐてくれ、私も其方の似顏(にがほ)を畫いて切(せ)めてもの心遣(こゝろや)りにして居よう」

「ハイ、どうぞお身體(からだ)をお大事に」

「さあ早く戾(もど)つてくれ」

「ハイ」

「さあ、だんだん夜(よ)が更(ふ)ける、私が水神(すゐじん)をぬけ出た事が目立つたらよい事はあるまい、さあ戾つてくれ」

「ハイ」

 二人は思ひ切つて左右(さいう)に別(わか)れた、互ひに見かへり勝(がち)に二足三足と步いたが、男は心を强(つよ)く持(も)つて急(いそ)ぎ足(あし)になつた。

 丁度(ちやうど)その時、堤(つゝみ)の奧(おく)から一人の武士が見えた、二人の姿を星(ほし)かげにすかして見つけられたやうに立止まつた、その立止まつた場所(ばしよ)は女の戾(もど)らうとする道である。

 出あひがしらに女(をんな)ははつとした。

 相手の顏を見る事も出來ず、女は輕(かる)く會釋(ゑしやく)をして薄氣味惡(うすきみわる)く堤を下へ、前の茅屋(あばらや)の小道へ下らうとした。

「お玉待て」と武士は尖(とが)り聲で呼(よ)んだ。

 女はぎよつとしたが、聞(きこ)えぬ振(ふり)でうしろを向かなかつた。

「待て待て、今の男は誰(だ)れぢや」と又(また)呼(よ)びかけた。

「誰(だ)れであらうとお咎(とが)めを受ける所謂(いはれ)はありませぬ」と女はきつぱり云つて、權高[やぶちゃん注:「けんだか」。]に相手を睨みつけた。

「不義(ふぎ)もの」

「大きにお世話(せわ)です」と女はもう振向きもしなかつた。武士は齒(は)をくひしばつてゐたが、右手は刀(かたな)の柄(つか)にかゝつた、そして一足踏込(ふみこ)むと拳下りに斬り下げた。[やぶちゃん注:「拳下り」は「こぶしさがり」と読み、長刀や槍など長い武器を持って構える際、その先端が、手元より上がるようにすることを言う。]

 女の身體(からだ)はぐつとも云はず、朽木(くちき)を倒すやうに摚(だう)となつた。

[やぶちゃん注:「摚(だう)」歴史的仮名遣は「どう」で「どうど」が古い表記で、後に「どうと」となった。これは歌舞伎脚本のト書の用語で、通常は「どうとなる」の形で用いる。倒れるさまを表わす語である。

 なお、次の一行空けは底本通りである。]

 

 翌日の夕刻(ゆふこく)、國友を名乘る臼井金三郞の手許(てもと)へ宮部の仲間宅助が文筥(ふみばこ)を持つて來た、臼井が開けて見ると、前書(まへがき)も何もなしに、手紙は可成(かなり)急(いそ)いだらしい手許(てもと)で書いてあつた。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げで記されてある。ブログ・ブラウザの不具合を考えて、一行字数を減じた。]

昨夜、寺島の堤下(どてした)、辻駕箭屋久兵衞方の前

で女を殺(ころ)したは拙者(せつしや)の仕業(し

わざ)に候。寺島の堤下まで拙者を導(みちび)き候

ものは貴殿(きでん)御揮毫(ごきごう)の幽靈の一

幅に候。かねて拙者あの女ほど憎(にく)い奴(や

つ)は世の中に又とあるまじく覺えて、高坂神村の兩

氏(りやうし)へも此事相洩(あひも)らし候事有之

候折から貴殿の幽靈の一幅、異樣(いやう)に心にか

ゝり、昨夜も屢々(しばしば)あの幅の前へ端坐(た

んざ)して、睨みつけ申候。其中(そのうち)彼(か)

の幽靈の繪(ゑ)ありありと拔(ぬ)け出(い)で候

まゝ、あとをつけ申しつゝ寺島村まで參り候。其折

(そのをり)あの女は一人の男と別れを惜(を)しみ

つゝ立(た)ち盡(つく)し居り候。其樣子を見るま

ゝに、只々(たゞたゞ)腹立(はらだ)たしさ譯もな

しにムラムラと胸(むね)に迫(せま)り只一刀に斬

(き)り捨て申候。今にして思へば、憎し憎しと思ひ

候拙者の心は、却(かへ)つて激(はげ)しき戀慕

(れんぼ)の裏(うら)に候ひしものかと感じられ候、

あの折の拙者は、法界妬氣(ほふかいとき)のつきつ

めたる亂心(らんしん)にて有之候べく候、斯(か)

く心づき候につけ、只々(たゞたゞ)御貴殿(ごきでん)

に申譯なさに只今切腹致して相果申候、遺髮(ゐはつ)

一束(たば)後の證據(しようこ)に差出(さしだ)し

申候。

              以  上

とあつて髻(たぶさ)が封(ふう)じ込(こ)めてあつた、そして自分の名の上には亂心者(らんしんもの)三十郞(らう)百拜(はい)とあり、宛名(あてな)には昨夜寺嶋村にて見しうしろ姿(すがた)の主(ぬし)へとあつた。

 臼井は只々(たゞたゞ)腕(うで)を拱(こまね)いて呆氣(あつけ)にとられてゐた。

[やぶちゃん注:「却(かへ)つて激(はげ)しき戀慕(れんぼ)の裏(うら)に候ひしものかと感じられ候」の「裏(うら)に候ひしものか」の箇所は、底本では、「裏(うら)に候いしものか」となっている。誤記か誤植と断じて、特異的に訂しておいた。

「法界妬氣(ほふかいとき)」自分には関係がないものを羨望したり、妬んだりすること。

本来は、主に、他人の恋愛に対してのことを言う場合に使う。「法界」は「全ての世界・宇宙万物」の意で仏教語である。

 本篇はなかなか読ませる怪奇談というか、一種の強迫神経症的悲劇である。最後のカタストロフは、多くの読者は予想出来難い点で、最終章で、断然、意外性を打ち出した作品である。]

2024/01/30

譚海 卷之六 甲州高麗郡なら田村無年貢の事 附尊純親王時鳥和歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「甲州高麗郡なら田村」及び「なちだ村」は正しくは「巨摩郡奈良田村」で、現在の山梨県南巨摩郡早川町(はやかわちょう)奈良田(ならだ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。北岳の南方の山間である。二十六の頃、晩秋、山仲間の友人と北岳登頂を目指したが、天候悪化のため、断念し、「奈良田の湯」に入り、山中の優しい老夫婦の民家に泊まったことがある(生憎、姓を覚えていない。「高木」だったかも知れない)。御主人は驚くほど背が高く、老妻ともに気品に満ちていた。私は貴人の末裔か、高位の落人のそれか、と思ったほどであった。また、生まれたばかりの猫がいっぱいいて、ほんに可愛かった。後半は「附」(つけたり)「尊純親王時鳥」(ほととぎす)「和歌の事」と読む。

 

○甲州高麗郡なちだ村に、「笹はしり」と云(いふ)峠、有(あり)。[やぶちゃん注:山梨県南巨摩郡早川町笹走(ささばしり)の内。]

 昔、東照宮、御通行の時、道、生繁(おいしげ)りて、わきがたかりしを、此所(ここ)の者共、御先立(ごせんだつ)をなし、道を、ひらき、通行ましませしかば、其御賞報(ごしやうほう)に、

「守護不入(ふいり)の地。」

に仰付(おほせつけ)られ、今に、一村十四里のほどは、無年貢にて、作り取(とり)の所、有(あり)。

 一村、皆、「高木」[やぶちゃん注:姓。]一黨(いつたう)ばかりにて、婚娵(こんしゆ)[やぶちゃん注:嫁入りと嫁取り。]も、他村にもとめず、其所(そこ)斗(ばかり)りにて婚姻する事也。

 是、則(すなはち)、後水尾院の八の宮諒純親王、左遷ありし地也。

 八宮の御歌(ぎよか)に、

  なけば聞(きき)きけば都の戀しきに

      此里過(すぎ)そ山ほとゝぎす

と、御詠ありしより、

「時鳥、今になかず。」

と云(いふ)。

 東照宮御墨付(おすみつき)、庄屋方に所持し、人柄も、いやしからぬもの也。

 一とせ、官(くわん)の事にて、此村に滯留せし人ありしに、

「旅館を、きよらかに、しつらひ、庄屋、その家に日夜、詰居(つめをり)て、高き所に坐し、諸事を世話いたし、甚(はなはだ)、丁寧成(なる)事也。高き所に居(を)るは、村のもの共(ども)、『新役に、もし、不調法あらんか。』とて目付(めつけ)する爲(ため)也。出立(しゆつたつ)の日、人足を、やとひて、貨錢を拂(はらひ)たるに、一向に申受(まふしうけ)ず、

『我等、無高(むだか)・無年貢の地に、年來(ねんらい)、住居(すまひ)し、せめて、かやうのせつ、御用相勤(あひつとめ)申べき事、本望(ほんもう)の至(いたり)也。』

とて、申うけざりしかば、

『さには、あらず。是を受(うけ)てくれぬ事にては、我等、身分にかゝり、甚(はなはだ)、迷惑する事也。』

と、しひて開說(かいせる)し、いひ合(あひ)ければ、やうやう、承引(しやういん)して、其荷物、村中、老若、不ㇾ殘(のこらず)出(いで)て、背負(せおひ)、又は、肩にかけなどして、暫時に、麓(ふもと)まで、運びとゞけて、賃錢を、いただき、

『公儀の御銀(ぎよぎん)なり。』

とて、殊の外、大切にするやうすにてありし。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「後水尾院の八の宮諒純親王」当該ウィキによれば、良純入道親王(慶長八(一六〇四)年~寛文九(一六六九)年)は、江戸『初期の皇族。後陽成天皇の第』八『皇子で』、『母は典侍庭田具子(権大納言庭田重具の娘)。当初は徳川家康の猶子として直輔親王と名乗った。知恩院初代門跡。通称は八宮』。『後陽成天皇の第八皇子として誕生』し、五『歳の時に知恩院門跡に治定されて同寺に入るが、出家は先送りされる。その後、慶長』一九(一六一四)年に『親王宣下を受けて直輔親王と名乗られ、翌元和元年』『に徳川家康の猶子となった』元和五年九月十七日(一六一九年十月二十四日)、十六『歳の時、満誉尊照を戒師として出家・得度を行って、良純と名乗る。ところが』寛永二十年十一月十一日(一六四三年十二月二十一日)に『突如』、『甲斐国天目山に配流される。理由としては』、『寺務を巡る大衆との対立、酒乱による乱行、江戸幕府の朝廷および寺院への介入を非難する言辞を行った』とか、或いは『待遇に不満、出家に不満等、諸説が伝わるが』、『飾り物である門跡の地位への不満と』、『江戸幕府からの圧迫に対する不満があったとする見方では一致している。後に甲府の興因寺(甲府市下積翠寺町)に移されて幽閉された』。万治二(一六五九)年、五十六歳の時、『勅許によって帰京するが、知恩院ではなく』、『泉涌寺に居住』し、『その後』、『北野で還俗して隠退生活を送った。後に以心庵と号す』。六十七『歳で没して泉涌寺に葬られ、専蓮社行誉心阿自在良尚大僧正の諡号が贈られた』。明和五(一七六八)年の『百回忌に際し』、『名誉回復が図られて』、『改めて無礙光院宮良純大和尚の諡号が贈られた』とある。]

「蘆江怪談集」 「空き家さがし」

[やぶちゃん注:本書書誌・底本・凡例は初回を参照されたい。本篇の底本本文の開始位置はここ。本「怪奇談集」の中で、初めての明治期(初期)物である。]

 

 

    空 家 さ が し

 

 

         

 

 十人の中、三人ぐらゐはチヨン髷(まげ)があつてまだ蝙蝠傘(かうもりがさ)といふものゝ珍(めづ)らしい時分の事、東京の山の手に一軒(けん)空家(あきや)があつた。

 五間(ま)ほどの家だが、その頃の事ゆゑ、家のまはりに餘裕(ゆとり)がたつぷりして隨分(ずゐぶん)住(す)み心のよささうに出來てはゐるが、少し古びてゐる爲めに一寸(ちよつと)借手(かりて)がなくて、約(およ)そ一月も表の門に借家札が斜(なゝ)めに貼(は)つたまゝで空(あ)いてゐた。

 ある秋の日の夕方(ゆふがた)、庭の中の紅葉が生垣(いけがき)の上から眞紅(まつか)になつて往來へ差し出でてゐる時分(じぶん)、美くしい二十五六の女が此家を借りに來た、大家(おほや)の内儀(ないぎ)に案内されて、家の中を一通(とほ)り見てまはると、

「大變(たいへん)結構(けつこう)なお家でございます、それでは明日(あす)にでも直(すぐ)に引越してまゐりますから。」と滿足した樣子でニコやかな顏(かほ)をした。

「お氣に召しましたか、何しろ古びて居りますから、何割(なんわり)も見劣(みおと)りはいたしますが家(うち)といたしましては、隨分(ずゐぶん)木口(きぐち)も調べてありますし、元々(もともと)貸家(かしや)だてに建(た)てたのではございませんものですからね、造作なども相當(さうたう)のものが入つて居りますつもりでございますよ、ハイ。」と大家(おほや)の内儀(おかみ)は中々お世辭(せじ)が好い、といふのはこの美人が、身なりも立派なり、殊(こと)には口もとに得(え)も云はれぬ愛嬌(あいけう)を持つてゐたのに引(ひ)かされたわけでもあるが、更(さら)に内儀の目を驚(おどろ)かしたのは美人の手に女持の蝙蝠傘(かうもりがさ)がもの珍らしく房房(ふさふさ)としてゐたためであつた。[やぶちゃん注:「木口(きぐち)も調べてあります」ここは使用材木の質を選び抜いて造ってあることを言う。「得(え)も云はれぬ」の「得」は不可能の呼応の副詞「え」に対する当て字である。]

 「では明日(あす)からどうぞお願ひ申します。」と美人(びじん)は大家の家へまはつて敷金(しききん)もすばすばと置いて立上らうとした。[やぶちゃん注:「すばすば」はママ。『ウェツジ文庫』では『すぱすぱ』(後半は踊り字「〱」)とある。但し、底本では、拡大してガンマ補正をかけみても、半濁点ではなく、濁点である。語の意味から『ウェツジ文庫』は誤植と断じて補正したものとは思う。私はとりあえずそのままにしておく。]

「ありがたうございます、なあにお入(はい)りになつてからでも宜(よろ)しうございますのに。」

「いゝえ、どうせ上(あ)げるものですから。」

「ではあの、受取(うけとり)をお持ち下さいまし、失禮(しつれい)でございますが、お名前は。」といふと、美人は一寸(ちよつと)考(かんが)へたあとで、

「あの吉村(よしむら)として置いて下さい。」と云つた。

 受取を渡しながら、「お家内(かない)はお幾人(いくにん)でございますか。」と内儀が聞くと、

「主人と二人きりでございます、それに女中ぐらゐは置(お)かなければならないと思(おも)ひますが。」

「まア、それはお靜(しづ)かで結構(けつこう)でございます。」

 と内儀(おかみ)が尙(な)ほつべこべお世辭を並べるのを聞(き)き捨(す)てに、美人はさつさと先(さき)に行つた。

 一日置いて翌々日(よくよくじつ)の朝、美人は人力車に一抱(かゝ)へほどの風呂敷包(ふろしきづゝみ)を自分の前へ載せて此の空家へやつて來た、大家の内儀がいそいそと出迎(でむか)へて空家の門(もん)を開けたが、

「おや、飛(と)んだ失禮をいたしました、餘り慌(あは)てたものでございますから、中の南京錠(なんきんぢやう)の鍵(かぎ)を忘れました、それに、昨日(きのふ)一日忙(いそ)がしかつたものでございますから、まだお宅(たく)のお掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])もいたしません、一寸(ちよつと)箒(ほうき[やぶちゃん注:ママ。])を取つて來ますから暫(しば)らくお待ち下さいまし。」と云(い)ひ譯澤山(わけだくさん)に、あたふたと引かへした。

 美人は門の前に一寸(ちよつと)立(た)つて、門内の紅葉(もみぢ)を、

「まア、よく紅葉(こうえふ)して綺麗(きれい)だこと。」と車夫(しやふ)に云つて見上げてゐたが、大家の内儀の來やうが遲(おそ)いので、開(あ)け放(はな)した門の中へ入つた、そして門の内側(うちがは)から、

「好い紅葉だ」などと、獨(ひと)り言(ごと)を云ふ聲が聞える、車夫(しやふ)も一緖(しよ)に中へ入らうと思つたが、車に積つ放しの包みを掻拂(かつぱら)はれる心配があつたので車の前を離(はな)れず、門の内外から、一言二言(ひとことふたこと)話(はなし)をしてゐたといふ。

 これから間(ま)もなく、美人は中へ入つて入口(いりぐち)の戶じまりをからりと開けたかと思はれたので、

「御新造(ごしんぞう)さん、開きましたか。」と云ひながら門の外から覗(のぞ)き込(こ)むと、

「あい、開(あ)いてゐますよ、あの内儀(おかみ)さん閉め忘れたと見えるね、その荷物(にもつ)を持つて入つて來ておくれ。」といふから、

「ハイ、畏(かし)こまりました、どうもそそつかしい内儀さんだ、お世辭(せじ)ばかり云ひやあがつて、呆(あき)れ返(かへ)つたそそかしやですね。」と云ひながら車夫(しやふ)は車から荷物を下して胸(むね)一杯(ぱい)にエツチラホツチラと引抱(ひつかゝ)へながら、門のくゞりをエンヤラエンヤラと入らうとする途端(とたん)に、奧の戶口の方で、

「キヤツ。」といふけたたましい聲(こゑ)が聞えた、そして、物の倒(たふ)れる音がどたり、あとはガタガタピシヤリ、と底(そこ)ひびきのする物音、

「おや、何だらう、御新造(ごしんざう)さん、どうかなさいましたか。」と車夫が聲(こゑ)をかけた時に、中では

「ウーム、ウーム。」と二聲聞えたが、あとはひつそりと靜(しづ)まりかへつた樣子(やうす)、

「私(わたし)あ驚(おどろ)きましたぜ、すぐにも飛び込まうと思つたんですが、何(なに)しろ、荷物を抱(かゝ)ヘてこの門のくぐりをウンサーウンサーと屈(くゞ)つてたところだものですから、中々思ふやうにや飛(と)び込(こ)めませんや、どうも此奴(こいつ)あ驚いたなあ。」

 間もなく大家の内儀や、近所(きんじよ)の人や、それからおまはりさんも例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た時、車夫(しやふ)は額(ひたひ)に汗(あせ)をにじませながら眞靑(まつさを)になつて申立てた。

 雨戶(あまど)を引ぱづされた空家の人目に押(おし)かぶさるやうになつて覗(のぞ)き込(こ)む人たちは玄關の土間に斜(はす)かけに倒(たふ)れた身體に雨戶を押かぶせられて死んだやうになつてゐる美人の姿(すがた)を氣(き)の毒(どく)さうに見て、しばらくは誰(だ)れも何とも云はなかつた。

[やぶちゃん注:「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)」ウィキの「警杖」(けいじょう)によれば、は明治七(一八七四)年に警視庁が創設され、巡査は「手棒」(三尺余り(九十一センチメートル程)の棍棒)を持ったとある。警部以上が刀を佩用したとあり、全ての警察官にサーベル佩用が許されたのは、明治一六(一八八三)年とある。「警杖を持つ警視隊」(明治一〇(一八七七)年描)の画像を見られたい。蘆江はここで、「例(れい)の六尺棒(しやくぼう)を腋(た)ばさんでやつて來た」というのが髣髴する。なお、この「例の」という表現から、私は本話の中の時制は、明治八・九年から明治十五年までの閉区間であろうと踏んだ。]

 

      

 

 近所の醫者(いしや)へかつぎ込まれて、手當(てあて)を加へられたので、美人はどうやら息(いき)は吹(ふ)きかへしたが、口はまだ利(き)く事(こと)が出來なかつた。

 空家(あきや)の中へ入ると共に、何(なに)かに驚ろいて、打倒(うちたふ)れる、倒れた機(はづ)みに沓(くつ)ぬぎで脾腹(ひばら)を强く打つ、それで氣絕(きぜつ)をした上へ、手か頭かが觸(さわ[やぶちゃん注:ママ。])つて雨戶が倒れる、その雨戶のかけ金が美人の手首(てくび)を强く打つたので手首の動脈(どうみやく)が切れ、出血が激(はげ)しくて身體が一時に弱(よわ)つたのだといふ事までは判つた、雨戶も普通(ふつう)ならば倒れる筈(はづ[やぶちゃん注:ママ。])はなかつたが、開けた機(はづ)みに溝(みぞ)を外(はづ)れたものらしい、これだけは判つたが、肝心(かんじん)の何に驚ろいたかゞ判(わか)らない。

 一時は車夫が嫌疑(けんぎ)を受けて役所へ引かれたが、放免(はうめん)になつた。

 其中に美人(びじん)が少しづつ物を云へるやうになつたので、お役人(やくにん)は美人のところへ駈(か)けつけて仔細(しさい)を聞いた、途切(とぎ)れ途切れに苦しい息(いき)の下から美人が答へたのは、

「あの家には幽靈(いうれい)が居ります、わたしが雨戶(あまど)をあけて中へ入りました時は、しんとしてゐて、物の音(おと)さへなかつたのですが、式臺(しきだい)をあがつて奧へ通らうとすると、私(わたし)の目の前にぼんやりと人の姿(すがた)が見えました、ハツと思つて見直(みなほ)すと、それは女の姿で私をぢつと睨(にら)みつけます、そ、その女は、その女は――」とかういふ風に話し始めたが、餘程(よほど)怖(おそ)ろしさが身にしみたものと見えてあとの言葉(ことば)は一言も云ひ得ず、又しても「ウーム」と呻(うな)つて氣絕(きぜつ)をした。

 おまはりさんも驚く、醫者(いしや)も驚いて早速(さつそく)手當(てあて)をしたが、もう其儘(そのまゝ)息(いき)は絕え果てて、到頭息を引きとつた。

 かかり合(あひ)では大變である、生憎(あひにく)大家(おほや)の内儀は空お世辭ばかりを云つてゐて、この美人が何處から引越して來る人か、亭主(ていしゆ)といふ人が何處にゐるのか、いつ來るのか、名前(なまへ)も吉村といふ名字(みやうじ)だけを聞(き)いてゐるだけで、何處へどう知らせる事も出來ない、止(や)むを得(え)ず、當座(たうざ)のあと始末一切をさせられ、誰(だ)れか身(み)よりの人の尋ねて來るのを待つより外に仕樣(しやう)はない事になつた。

「どうも此樣(こん)な馬鹿々々しい事はありやしない、おまけに肝心(かんじん)の家は、これから先、幽靈(いうれい)の出た家だの、何のつて難癖(なんくせ)はつけられるだらうし、困(こま)つた事が出來たものだ。」と大家夫婦は封印(ふういん)をして預(あづ)けられた荷物を睨(にら)めながら、愚痴(ぐち)をこぼした。

 尤(もつと)も封印をする前に包の中はおまはりさんの手で調べられた、重(おも)に美人の着がヘらしい着物であつたが、着物の間に手匣(てばこ)が一つ包み込まれてあつた、手匣の中は女の頭の道具(どうぐ[やぶちゃん注:ママ。])や指環類(ゆびわるゐ)でそれも格別(かくべつ)差(さし)あたりの手がかりにはならぬが、手紙が五六通あつた、差出人(さしだしにん)は皆大阪心齋橋筋、井筒屋方吉村竹次郞とあつて宛名(あてな)は橫濱市西戶部××番地堤(つゝみ)さく子樣とある。

「これは中々(なかなか)激(はげ)しいぞ。」と中を讀んだ警部(けいぶ)さんが苦笑(にがわら)ひをしたほど、中は色つぽい文句(もんく)ばかりで畢竟(ひちきやう)相愛(さうあい)の仲であるといふ事は十分讀みとられた。

 兎に角この手紙で、この美人(びじん)が堤(つゝみ)さく子といふ女で、橫濱の西戶部(にしとべ)から、ここヘ引越(ひつこ)して來ようとしたものであらうといふ事の推測(すいそく)だけはついたが、一寸(ちよつと)可笑(をか)しいのは大家へ出さした敷金(しききん)の受取(うけとり)に吉村樣と書かした事である。

「たとひ好(す)き合つた仲(なか)にしても、自分が引越すのだから堤(つゝみ)といふ名で家を借(か)りたらよささうなものだな。」とおまはりさんの一人が云ふと、

「いや、それは許嫁(いひなづけ)か何かの中で、何れ引越(ひつこ)し女房(にようぼ)といふ事にでもなるのではないか。」と他のおまはりさんが云(い)つた。

「論より證據(しようこ)橫濱(よこはま)の方へ調(しら)べに行つて見よう。」と一人がいふと、

「いや、それは既(すで)にちやんと橫濱へも大阪へも知(し)らせが出(だ)してあるのぢやから、何にもするには及(およ)ばん事ぢや。」と云つた。

 元より他殺(たさつ)でも何でもない、幽靈(いうれい)に脅(おびや)かされたといふのだから、つまり幽靈が下手人(げしゆにん)ではあるが、自靈に繩(なは)を打つわけにも行かない、橫濱と大阪からのたよりがあり次第、屍骸(しがい)と荷物をそれぞれ引渡(ひきわた)して了(しま)へばそれで萬事は解決(かいけつ)といふものだと、當時の警察だけに簡單(かんたん)に考へて、一同引取つて了(しま)つたのである。

 最も引上げる前(まへ)に、

「此家の幽靈(いうれい)といふものの正體(しやうたい)を調べて見んければならんな。」

「さうぢや、それが肝心かんじん」ぢや、若し空家(あきや)を利用して兇漢(きようかん)のやうなものが巢(す)を食つちよるといふ事もあるからなう。」

「おい、大家(おほや)、案内(あんない)をしてくれんか。」

 おまはりさんたちは六尺棒(しやくぼう)をつき立てて大家を促がした。

 大家さんは甚(はなは)だ迷惑(めいわく)さうに、

「どうぞ御自由に御見分下(ごけんぶんくだ)さいまし、決して異常(いじやう)のある家ではございません。」と立派(りつぱ)に云つたが、さて自分が先に立つてどうぞ此方(こちら)へとは云ひ切れない。

 おまはりさんたちも人間(にんげん)である以上薄氣味(うすきみ)の惡(わる)いといふ事を知つてゐる。

「もう暗(くら)くなつちよるから、充分の檢べは出來んぢやらう、明日の朝早く來て檢ベたらどんなもんぢや。」と弱腰(よわごし)になつた人もあつたが、そんな事でおまはりさんの役目(やくめ)は濟(す)まされるものではない。

 押間答(おしもんだふ)の末、おまはりさん二人と大家とが各々(おのおの)提灯(ちやうちん)やかんてらを振りまはして一齊(せい)に入る事にした。

 日は暮(く)れ切(き)つてゐる上に、一月あまりも人氣(ひとけ)のない空家(あきや)の事、しんしんと浸(し)み入るやうな冷(つめ)たさが物凄(ものすご)いといへば物凄いのだが、間取(まど)りもよし、木口(きぐち)もしつかりした家だから、何處と云つて不審(ふしん)はない。

 提灯とカンテラを振りまはしく、わざと大聲(おほごゑ)をあげて家の中を見まはつてゐた三人は、

「何處にも何の不思議(ふしぎ)もない、これなら當り前の家ぢや、多分(たぶん)あの女は一人で入つたから、何かつまらん事に驚(おどろ)いて足を式臺(しきだい)から踏(ふ)み滑(すべ)らしたんぢやろ、何でもない何でもない。」と口々に云ひながら外へ出て來た、その癖(くせ)引上(ひきあ)げ際(ぎは)に大家に向つては、

「此後(こののち)ともにこの空家については注意(ちゆうい)をせんけれあいかんぞ、兎(と)に角(かく)、人一人殺した家ぢやからの。」と氣にかかるケチをつけて、大手(おほて)を振つて歸(かへ)つて行つたのである。

[やぶちゃん注:この章の警察官の台詞がリアルである。何がリアルかというと、薩摩弁を匂わせる台詞になっているからである。ウィキの「日本の警察官」によれば、明治四(一八七一)年、『東京府に邏卒(らそつ)』(明治初期の警察官の称。後、「巡査」と改称した)三千『人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった』が、『邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用された』のだが、『その内訳は薩摩藩出身者が』二千人で、『他が』千人で『あり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった』とあるからである。因みに、私の亡き母は鹿児島の大隅半島の中央の岩川生まれであった。私の父は従兄妹(いとこ)同士であるため、私の四分の三は薩摩の血を引いている。にしても、この警官たちは、調べ方が杜撰だ。何より、荷物を運んだ車夫に、その荷を積み込んだ場所を車夫に師事させ、直にその場に連れて行き、転居元及びその周辺を探索するのが、まずすべき捜査であろう。

「橫濱市西戶部」現在の神奈川県横浜市西区西戸部町(にしとべちょう:グーグル・マップ・データ)。野毛山の北西部に当たる。]

 

         

 

 翌々日(よくよくじつ)まで橫濱からも大阪からもまだ報告(ほうこく)が來ないと見えて、警察(けいさつ)からは大家ヘ對して何の沙汰(さた)もない中に、一人の男が手鞄(てかばん)をさげて此の空家の前へ立つた。

 三十は越(こ)してゐるかも知れぬ、併(しか)し色白の目鼻だちのきつぱりとした中肉中背(ちうにくちうぜい)といふ恰好(かつかう)が、やうやう二十八九とほか見られぬ樣子(やうす)、空家の前へ立つて暫(しば)らく門の中の樣子を見まはしてゐたが、二三間先の荒物屋(あらものや)へ來て、

「×番地はあの空家(あきや)だけでございませうか。」と聞(き)いた。

「ハイ、あそこ一軒(けん)でございます。」

「それではきのふあたり、その家へ引越(ひつこ)して來た婦人がある筈(はづ)ですが御存じはありませんか。」と更(さら)に聞きなほした事から、此荒物屋では早速(さつそく)大家(おほや)さんへ此男を引渡(ひきわた)す事になつた。

「貴郞(あなた)は何と仰(おつ)やる方で、どちらからおいでになりました。」と大家はあべこべに聞(き)くと、

「ハイ私は吉村竹次郞(よしむらたてじらう)と申しまして大阪から只今(たゞいま)着(つ)きましたばかりで。」といふ。

「ああ、貴郞(あなた)が吉村さんですか、それでは貴郞のお尋(たづ)ねになる御婦人(ごふじん)は、堤さく子さんと仰(おつし)やる方(かた)ではありませんか。」

「ハイ、その通(とほ)りですが。」

「あ、さうでしたか。」と云ひかけると、大家(おほや)はすぐに家の者を警察(けんさつ)へ走(はし)らした。

 それから、吉村に向(むか)つて前々日からのありの儘(まゝ)をすつかり話した、吉村は只(たゞ)呆氣(あつけ)にとられて一言も物を言(い)へなくなつた。

 おまはりさんが飛(と)んで來た時分迄は、只おうおうと人目も恥(は)ぢず泣(な)き伏(ふ)してゐるばかり。

「泣(な)いて居つちや判(わか)らん、兎に角、君の尋ねる婦人は何の理由(りいう)もなしに頓死(とんし)したのぢやから、早速死體(したい)を引取つてあとの祭(まつ)りをしてやらなければいかん。」とおまはりが懇々(こんこん)說諭(せつゆ)すると、

「畏(かし)こまりました。」と云つて淚(なみだ)を拭(ぬぐ)つた。

 格別(かくべつ)、お上の手をかける事柄(ことがら)もないので、一通り女と男との關係などを聞(き)き訊(たゞ)しただけで、係官(かゝりくわん)は引上げたが、さく子の借りる家だけを當(あて)にして大阪から始(はじ)めて東京へ來たらしい吉村竹次郞といふ人物(じんぶつ)、打見たところに惡氣(わるげ)もあるらしくはなし、差當(さしあた)り身體を落ちつけるところもない樣子に、大家(おほや)は、いぢらしくなつて、

「あの家の敷金(しききん)はお預(あづ)かりしてあるのですから、一應(おう)あそこへお入りになつて、身體を落着(おちつ)けた上で、いろいろの手續(てつゞ)きをお濟(す)ましになつたら如何(いかゞ)です。」と云つてくれた。

「ハイ、ありがたうございますが、男手一人(をとこでひとり)ではどうする事も出來ません、それよりもあの家(うち)はあの儘おかへしする事にして、私は御近所に宿屋(やどや)でもありましたら宿をとる事にいたします。」

「なるほどそれも好(い)いでせう、甚(はなは)だ立入つた事をお伺(うかゞ)ひしますが、亡(なく)なつた方は貴所(あなた)の御つれあひでございますか。」

「左樣、只今(たゞいま)もおかかりの役人(やくにん)に申し上げました通り、あれは私の家内(かない)でございます。仔細(しさい)あつて一年ほど私は大阪へ出かけますると、あれは橫濱(よこはま)に住んで居りましたのでございましたが、今度(こんど)いよいよ東京で世帶(しよたい)を持つ事になりましたので、あれがあの家を探(さが)し當(あ)てて直ぐに引越して居るから、上京(じやうきやう)するやうにといふ知らせをよこしましたやうなわけで、大阪の仕事を片付(かたづ)けますと取るものも取りあへず參(まゐ)りましたのですが――」とここまではすらすらと云(い)つたが、又(また)込(こ)み上(あ)げて來る淚(なみだ)に、あとは言葉も消(け)されて了(しま)つた。

 吉村はその日の中に町内(ちやうない)に一軒(けん)ある下宿屋へ身體を落ちつけて、役所で假埋葬(かりまいさう)にしてある女の屍骸(しがい)を受けとると、一方に手續きをして置いた近所(きんじよ)の寺の墓地へ埋(う)め、包み物は自分の鞄と一まとめにした上、大家を始(はじ)め、世話(せわ)をやかした近所の人々ヘそれぞれ滯(とゞこほ)りのない心付(こゝろづけ)をして、

「いろいろお世話(せわ)さまになりました。」といふ一言(こと)を殘(のこ)すと、その儘何處へともなく立去(たちさ)つて了つた。

 例の紅葉(もみぢ)の枝のさし出た空家には改(あらた)めて貸家札(かしやふだ)が貼(は)られて次の住み手を待つ事になつた。

 この一騷(さわ)ぎを稀有(けう)な目付で見てゐた近所の人々が、時折、胡散(うさん)くささうに見ながら空家のまはりをうろついてゐたのも二三日の間の事、その後(ご)は何の不思議(ふしぎ)も異變(いへん)もないので、忽ちの間に忘(わす)れられて了(しま)つた。

 堤さく子が空家で死(し)んでから十日も經(た)つたある日、其次の借(か)り手(て)が出來て、此家の中を見る事になつた。

 それはさく子が此家に荷物(にもつ)を持ち込んだ時と同じやうに晴(は)れ切(き)つた靜(しづ)かな朝であつた。今度の借手は夫婦(ふうふ)づれの中老人で、矢張り大家の内儀(おかみ)がついて門をあけ、戶口をあけてやるのに續いて借り手の女房(にようぼ)が一足先へ入つた、そして式臺(しきだい)へ足を踏(ふ)みかけてずっと玄關(げんくわん)へ上つたかと思ふと、

「アツ。」とけたたましい聲(こゑ)を立てて振向(ふりむ)きざまに良人(をつと)へ縋(すが)りついた。

 大家の内儀(おかみ)はこの妻女のうしろに居たのだが、この聲を聞いたばかりで、度膽(どぎも)をぬかれて一散(さん)に外へ飛(と)び出(だ)して了つた。

「何だ何だ、どうしたのだ。」と良人(をつと)がいへば、

「外へ連(つ)れてつて下さい。」とばかりでガタガタ慄(ふる)ひをしてゐる、譯は判らぬながら、極端(きよくたん)に怯(おび)えてゐるので、良人(をつと)は女房を抱(だ)くやうにして外へ連れ出した。

「どうかなさいましたか。」と大家の内儀(おかみ)がおどおどした樣子(やうす)で問ひかけると、

「幽靈が幽靈が。。」と眞靑(まつさを)な顏をして立つてゐる空もない[やぶちゃん注:「そらもない」。「落ち着いた気分がしない・気が気でない」の意。]樣子、

「馬鹿な、幽靈などがゐるものか。」と良人(をつと)は云つたが、妻女の怯(おび)え方があまりに激(はげ)しいので、すぐにその場(ば)で破約(はやく)にしてどんどん引上げて了つた。

 一度ならず二度までもこんな事があつたので、大家でも不思議(ふしぎ)に思つた、が、今まで曾(かつ)て何事もなかつた家なので、結句(けつく)は何かの思ひちがひだらうといふ事で、今度(こんど)の事は大家夫婦の間だけの祕密(ひみつ)にして、知らぬ顏で捨(す)て置いた。

 併しこの借手(かりて)の夫婦(ふうふ)が、近所のすしやか何かへ立よつてこの話をしたものと見え、忽(たちま)ちの間に町内は怪物屋敷(ばけものやしき)といふ噂(うはさ)がそれからそれへと傳へられた。

 さあ翌日(よくじつ)からはいろいろな人が空家を見に來る、噂は噂を生(う)んで、中には、

「幽靈(いうれい)をたしかに見た。」

「俺(お)れも見た。」

「きのふは幽靈が門(もん)の中をふはふはと步いてゐた、血みどろの姿(すがた)であつた。」などと話はだんだん大袈裟(おほげさ)になりはじめた。

 

         

 

 此の町内(ちやうない)には柔道(じうどう[やぶちゃん注:ママ。])の道場があつた。この道場に集まる連中(れんじう)の中で、この噂(うはさ)を聞いた一人の靑年が、

「一つ我々の膽力(たんりよく)であの空家を探檢(たんけん)して見ようではないか。」と云ひ出した。

面白(おもしろ)い、早速(さつそく)決行(けつかう)しよう。」と血の氣多い强(つよ)がりの連中がすぐに大家へ交涉(かうせふ)して、門を開けさせる事にした。

 これは夜も十時頃(じごろ)の事である、五六人の靑年は手手(てんで)に得物(えもの)を持つたり、うしろ鉢卷(はちまき)をして稽古衣(けいこぎ)に白袴(しろはかま)の股(もゝ)だちをとるものもあり、大抵(たいてい)の幽靈は向ふから逃(に)げ出しさうな姿でどんどん押し出した。

 併(しか)しその家の前へ行くと急に引緊(ひきしま)つた顏つきをして、腰(こし)を浮かし、得物を握(にぎ)りしめながら、そろそろと門の中へ入(はい)つた。

「幽靈退治(いうれいたいぢ)は願(ねが)つてもない事ですが、なるたけ建具を壞(こは)して下さらんやうに」と大家は云つた。

 さて五六人が殘らず家の中へ入つて隅(すみ)から隅までを調べたが、何の變(かは)つた樣子もない、五六人は暫らく此家で坐(すは)り込(こ)んでゐたが、それでも鼠(ねずみ)の音(おと)さへ聞えなかつた。といふので張合(はりあひ)ぬけがして引上(ひきあ)げて來た。

「どうも馬鹿(ばか)々々しい、何の不思議もない。」

「第一幽靈などの出さうな家(うち)ぢやない、古(ふる)びてこそ居るが、住心(すみごゝろ)のよささうな立派な家で。」

「どうも女といふ奴(やつ)は臆病(おくびやう)でいかん。」

 口々に靑年(せいねん)たちは笑つた。が、始めに云ひ出した靑年は尙(な)ほ熱心(ねつしん)に考へてゐたが、

「諸君(しよくん)、我れ我れは幽靈探檢の方針(はうしん)をあやまつてゐた、先日のも、その前のも、眞晝間(まつぴるま)の出來事だ、而(しか)も朝の間の出來事だから、あそこの幽靈は晝間(ひるま)に限つて出るのかも知れないぞ、明日もう一度押しかけて見る事にしたらどうだ。」と提案(ていあん)した。一寸尤(もつと)もな思ひつきである、それではといふので翌日(よくじつ)午後二時頃又一同出かけて見た。併(しか)し何の變(かは)りもない。

「何(なん)の變りもないぢやないか。」

「うん、何でもない、併しもう一度やつて見よう、今度はあの變事(へんじ)のあつた時間(じかん)に入り込んで見る事にしよう。」と前(まへ)の靑年は又云つた、この靑年は大家の家とは遠緣(とほえん)に當る米屋の忰(せがれ)で、飛んだ幽靈沙汰(いふれいざた)で、大家が一方ならず迷惑(めいわく)してゐるのを救(すく)つてやらうといふ親切氣(しんせつぎ)を充分に持つてゐた。

 他(ほか)の靑年はすつかり氣乘(きの)りがしなくなつてはゐたが、この米屋の忰の熱心(ねつしん)にほだされて又次の目の朝(あさ)出(で)かける事にした。

「今(いま)丁度(ちやうど)八時半だ、大家に樣子(やうす)を聞いたら、大家でも成(な)るほどと云つてゐた、さう云へば堤(つゝみ)といふ婦人の倒(たふ)れたのも、次の借り手が驚ろいたのも丁度九時頃だつたさうだ、今からあの家に入り込んで、十二時頃まで戶(と)を閉(し)めたままで靜(しづ)かにしてゐたら、何か異變(いへん)があるかも知れない。」と云ひ云ひ例(れい)の空家へ出かけた。他の靑年も詮事(せうこと)なしに、米屋の忰(せがれ)について行つた。

 そつと戶を開(あ)けて、一人づゝ靜かに靜かに中へ入る、米屋の忰は充分(じうぶん[やぶちゃん注:ママ。])に注意をしながら、式臺ヘミシリと上(あが)り込(こ)む、それから玄關へずつと進(すゝ)む、進みながら奧(おく)をぢつと見込むと、ブルブルと身慄(みぶる)ひをして二足下つた、あとに續いてゐた靑年(せいねん)たちはどやどやと逃(に)げるが、米屋の忰(せがれ)は眞靑になりながらも足(あし)を宙(ちう)にして踏みとどまつて、棍棒(こんぼう)を持ち直した、それから充分にこれを振上げた上で、そつと又一足二足と進んだ。他の靑年は片唾(かたづ)を呑(の)んで米屋の忰の樣子(やうす)をぢつと見てゐる、家の中は薄暗(うすくら)がりであつた。

 米屋の忰は最初にブルブルと慄(ふる)へた場所まで進んだ時に、棍棒(こんぼう)を一うなりうならして、今にも打下(うちおろ)しさうにした。が、打下しはせず、棍棒の先(さき)を頭の上で鶺鴒(せきれい)の尾のやうにひよこひよこと振つて見た。それからそつと棍棒を下した、と同時(どうじ)に、

「アハヽヽヽヽ。」と破(わ)れかへるやうな笑ひ聲を立てた。

 充分(じうぶん)緊張(きんちやう)しきつたところへ出しぬけの笑(わら)ひ聲を出されたので、あとから續いてゐた靑年たちは却(かへ)つて驚いて、其儘其場に尻餅(しりもち)をついたものもある、跳(は)ねかへされるやうに外へ飛び出したものもあつた。

「何(なん)だつまらない、はゝゝ、こんな事か、さあ幽靈の正體(しやうたい)が判(わか)つた、さあ皆(みんな)ここヘ來たまへ。」と米屋の忰は昂然(かうぜん)として反身(そりみ)になつた。

 米屋の忰(せがれ)の樣子を見ると、皆が少しは安心(あんしん)してそろくそろと上つて來る。米屋の忰は奧(おく)の方を指さして、

「それ、向(むか)ふに人の姿(すがた)が見えるだらう、どうだ。」

 一人々々そつと顏をのばして見ると、なるほど朦朧(もうろう)として人の姿が此方(こつち)を向いて立つてゐる、それが見てゐる中に一人が二人になり三人になり四人になる。

「あれが幽靈(いうれい)の正體さ、よく心を落着けて見たまへ、自分(じぶん)の顏をいろいろに動かして見たまへ、さうすれば自然(しぜん)に幽靈の正體が判(わか)るから。」と云つた。

 靑年たちはいろいろに顏を動かして、そして一齊(せい)に笑ひ出した、幽靈と思つたのは自分たちの姿が奧(おく)の間の境(さかひ)にある硝子戶(がらすど)にうつつてゐるのであつた。

「何だつまらない、幽靈の正體見たり枯尾花(かれをばな)か、これぢや女がここに立てば女の姿が恨(うら)めしさうに寫(うつ)るにちがひない、はゝゝ。」と又笑つた。

「併し待ちたまへ。」と中の一人が云つた。

「あれはたしかに硝子(がらす)にうつる影(かげ)だが、昨日(きのふ)來(き)た時にはどうして見えなかつたのだらう、それが不思議(ふしぎ)だ。」といへば米屋の忰は、

「それこそ簡單(かんたん)な理由(りいう)さ、今は午前九時だ、お天道樣(てんたうさま)が東においでなさる、午後になればお天道樣は西(にし)にまはつて此家の中へ日がさし込(こ)む氣(き)づかひはない、若し午後になつてもあの影(かげ)がうつつたら、それこそ一大事だ。」

 これですつかり幽靈(いうれい)の正體は判つた。大家は喜んで威勢(ゐせい)よく貸家札を貼(は)り直(なほ)した。

 

        

 

 然(しか)し一旦(たん)けちのついた家は中々借手がない、かれこれ半月以上(はんつきいじやう)も空家(あきや)の儘で、見に來る人さへなかつた。

 大家もうんざりして此家の掃除(そうじ[やぶちゃん注:ママ。])さへせずに打棄(うつちや)つて置いたが、ある日木枯(こが)らしが吹(ふ)きすさんでやがて雨(あめ)をさそつて强(つよ)い强い吹(ふき)ぶりの日が三日つづいた。

 その吹降(ふきぶ)りが上ると、遉(さす)がに大家も自分の持家(もちや)だけは見まはらなければならぬ。

 雨の晴れ間を見て空家(あきや)の門をあけ、戶(と)を開けようとすると、じめじめとしてめつきり陰氣(いんき)になつた此家の奧(おく)の方(はう)で、鼠とは思はれぬ物の音がした。玄關(げんくわん)に聞耳(きゝみゝ)を立てて立止まつてゐると、猛獸(もうじう)などの呻(うな)るやうな聲が聞える。

「何だらう何だらう。」と大家はそろくそろ入らうとしたが、薄氣味惡(うすきみわる)さにどうしても入れなかつた。

 すぐに米屋(こめや)へ引かへして、

「源次郞(げんじらう)さんに一寸手を貸(か)してもらひたいが。」と町内の勇士(ゆうし)米屋(こめや)の忰を呼(よ)んだ。

「また變な物音(ものおと)がするつて、大方(おほかた)叔父(おぢ)さんの空耳(そらみゝ)だらう。」

「いや、たしかに物の音がしたんだ、一寸來て見ておくれ、幽靈退治(いうれいたいぢ)は、お前さんに限(かぎ)るんだから。」と引張(ひつぱ)るやうにして戾(もど)つて來た。

 源次郞は店(みせ)にあり合した米屋づかひの手かぎを持つて勢(いきほ)ひよく飛んで來た。足音を忍(しの)ばせながらだんだん聲のする方へ進むと、奧(おく)の三疊(でふ)へ來て了つた、六疊についてゐる押入(おしい)れ、そこから呻(うな)り聲は聞(きこ)えてゐる。

 大家と源次郞は息(いき)をこらして押入れに近づいた、押入れは開(あ)け放(はな)してあつた、その開け放した押入れの中を源次郞が覗(のぞ)き(こ)込むと、二尺直徑(しやくちよくけい)ぐらゐもある大きさの風呂敷包(ふろしきづゝみ)が一つ押入れの上段にコロリと置(お)いてある。

「大家さんのですか。」と源次郞が小聲(こごゑ)で聞くと、大家は目を丸(まる)くしながら首(くび)を振つた。

「泥棒(どろばう[やぶちゃん注:「泥坊」の場合はこれでよいので、当て字でよしとする。])の巢(す)にされたんぢやないか。」と又小聲で聞くと、大家は尻込(しりご)みをしはじめた。

 源次郞は風呂敷包みを引(ひき)よせて見る氣で、手をずつと押入(おしい)れの中へ伸(のば)しながら、よく見ると、風呂敷包の上には男の生首(なまくび)が一つ、ころりと乘つてゐる。

「アツ。」と云つて遉(さす)がの源次郞もこれには驚(おど)ろいた。大家も同時に生首に氣がついて打倒(ういちたふ)れると唐紙(からかみ)ヘトンと突當(つきあた)ると唐紙二本骨を折つて了つた。

 驚きながらも源次郞が、又立上ると、今度(こんど)は風呂敷包がムクムクと動(うご)いた。途端(とたん)に丸裸(まるはだか)も同然の男が押入(おしい)れからとんと飛び下りて、座敷中(ざしきぢう)をうろつきながら出口を探(さが)しはじめた樣子。

 かうなると源次郞は又(また)强(つよ)くなる、轉(ころ)げまはつてゐる男に飛びかかると柔道初段(じうどうしよだん[やぶちゃん注:ママ。])の腕前(うでまへ)を振つてこの男をとン[やぶちゃん注:ママ。違和感はない。]と投(な)げつけて、直ちに早繩(はやなは)を打つて了つた。

「さあ泥棒め、畜生(ちくしやう)、神妙(しんめう)にしろ、まごまごすると、この手鍵(てかぎ)が貴樣の胸に突(つ)き刺(さ)さるんだからさう思へ。」と源次郞は手鍵を縛(しば)られた男の鼻(はな)の先でゆすぶつて見せた。

 大家はすぐにがらがらと此(こ)の座敷(ざしき)の戶を開けた。

 雨上(あめあが)りの日光が此座敷一杯(ぱい)に入つたところで、大家が怖々(こわごわ)男の顏を覗(のぞ)き込むと、小首を傾(かし)げながら、

「此男は見た事があるやうだ。」と云(い)ひ出(だ)した。

「見た事がある、本當(ほたう)ですか。」

「うむ、確(たし)かに見た、ハテ何處で見たのだつたかな。」

「相濟(あひす)みません、出來る事なら私は此儘(このまゝ)殺(ころ)されたうございます。此家で死(し)ぬ事が出來れば私の本望(ほんもう[やぶちゃん注:ママ。])でございます。」と男は淚(なみだ)で顏一杯を濡(ぬ)らしながら云つた。

 その聲を聞くと大家は換手(かへで)を打つて、

「おゝ、お前(まへ)さんは吉村竹次郞とか云つた人だね、一體(たい)これはどうなすったのぢや。」と大家は始めて安心(あんしん)して、男の側近(そばちか)く顏をさしのばした。

 一人の女が偶然(ぐうぜん)空家(あきや)で死に、その女と夫婦になる筈(はづ)の男がつづいて來て、かうして隱(かく)れて住み込んでゐてここで死にたいといふ、若(わか)い源次郞にはこの吉村の心持が判(わか)るやうな氣がした。

「お前さんはお前さんのお神(かみ)さんの死んだ場所で死にたがつてゐるのか。」

 男は默(だま)つてうつむいてゐる。

「ねえ、さうだらう、かうなつたら仕方(しかた)がない、委(くは)しく話して下さい、又力になる筋(すぢ)がないとも限(かぎ)らないから。」と源次郞が云へば、

「ありがたうございます、御親切(ごしんせつ)に甘(あま)えて何も彼(か)も申し上げます。」と又(また)新(あたら)しい淚に咽(むせ)びながら、男は身の上話を始(はじ)めた。

 吉村とさく子とは幼(をさ)ない友達(ともだち)であった、そしてお互ひに相當(さうたう)の年になつたら夫婦になりませうといふ約束(やくそく)までしてゐた。ところが二人の間には深(ふか)い義理(ぎり)と恩(おん)とのある人が、二人の事を知らずにさく子を嫁(よめ)にもらひたいと云ひ出した。二人は二人の約束(やくそく)の事をその人に向(むか)つて話しそびれて默つてゐた。默(だま)つてゐる事は異存(いぞん)のない事として其人がさく子を嫁(よめ)にして了つた。

 其時さく子は自殺の覺悟(かくご)をした。けれども吉村はその自殺が結句(けつく)恩人(おんじん)に向つて面當(つらあ)てがましくなる事を覺(さと)つてさく子を止(と)めた、女を納得(なつとく)させ自分も諦(あき)らめて大阪ヘ行く事にした。間もなく二人の恩人は急病(きふびやう)で死んで了(しま)つた。吉村とさく子とはもう誰れに[やぶちゃん注:個人的には「たれに」と読みたい。]遠慮(ゑんりよ)もなく夫婦になれる身體(からだ)であつた。此の死んだ恩人(おんじん)以外(いぐわい)に義理も緣(えん)もつながるものは、二人の身の上になかつたのだから。

「恩人(おんじん)がなくなったわ、すぐに二人が一緖(しよ)になつたわではあまり義理を知(し)らないやうだ、それよりも我慢(がまん)の仕(し)ついでに、あと一年間はこれまで通(とほ)りに別れてゐよう、さうすれば、恩人の一周忌(しうき)の間だけ、身を愼(つゝ)しむ事が出來るのだから。」と吉村は云つた。さく子もそれに否(い)やをいふ事は出來ないほど、死んだ恩人に對(たい)する義理は深(ふか)かつた。

 かうして一旦(たん)橫濱(よこはま)へ戾(もど)つて來た吉村は、再び大阪心齋橋の奉公先(ほうこうさき)へ戾つた。

 さく子は早九月を過(す)ぎると良人の家を疊(たゝ)んで戶部へ引取(ひきと)つた。

 かうして一日を千年のやうな思(おも)ひでお互(たが)ひに待(ま)ちくらして一年間が過ぎると、女は一年前の約束通り二人の新(あた)らしい住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。この「居」は当て字で、正しくは「すまひ」と読む。])を東京に探(さが)してこの空家を探し當て、すぐに大阪へ知(し)らしたので、吉村はとるものもとりあへず上京(じやうきやう)したのであつた。

 待(ま)ちかねた一年間、その一年間やつと濟(す)むかと思ふとあの始末(しまつ)になつたので、吉村は此世に生きる望(のぞ)みも何も彼(か)もなくなつたのだ。殊(こと)に女の手に殘された幾何(いくら)かの財產は、皆恩人の遺產(ゐさん)である。これをたよりにして自分一人が身(み)を立(た)てる氣にはなれなかつた。

「私はさく子の埋葬(まいさう)をすましますと、直ぐにさく子の手にあつた金はそつくり孤兒院(こじゐん)に寄附(きふ)して了ひました。そして身がら一本になつて一旦大阪へ戾(もど)りましたが、お恥(はづ)かしい事ですが、もう何をする勇氣(ゆうき)もありません。又ふらふらとかうして一週間前(しうかんまへ)に戾つて來ました。そして此家が戀(こひ)しさに惡(わる)い事と知りながら、あの押入れの中で暮(くら)して居りました。」と泣(な)いた。

「お前さん裸(はだか)ぢやないか。」と大家が覗き込むと、

「ハイ着物(きもの)は賣りつくしたり、破けたりしましたから剝(は)ぎすてたりして了(しま)ひました。けれども此頃の寒(さむ)さにどうする事も出來ませんから、さく子の持つてた風呂敷に身體(からだ)すつかり包(つゝ)んで、貴郞(あなた)が御覽(ごらん)になった通りに首だけ出してゐるのでございます。」と云つた。

「此男は斷食(だんじき)をして女と一緖(しよ)の家で死なうとしてゐるんだな。」と大家も源次郞も思(おも)つた。

 大家は哀(あは)れにも思ひ、此家で死なれては迷惑(めいわく)だとも思つて、自分の家ヘ一旦(たん)連(つ)れかへらうとしたが、吉村は飽(あ)くまでも辭退した。そして風呂敷を身體(からだ)にすつぽり卷きつけて、身すぼらしげに此の空家(あきや)を立ちのいた。

 

 さく子を埋(う)めた寺の墓地(ぼち)、而もさく子の墓の前で首を縊(くゝ)つて死んだ男があつたといふ事を米屋の忰と大家が聞(き)いたのは、その翌日(よくじつ)の事であつた。

[やぶちゃん注:十四年前、本篇を読んだ時、悪気(わるぎ)のある人は、一切出ない、この擬似怪談、読み終わって、何とも言えぬ哀れさを感じた。まず、怪奇談の中で、これほどリアルにそれを味わったのを思い出す。蘆江の名品である。

ブログ2,090,000アクセス突破記念 「蘆江怪談集」始動 / 表紙・裏表紙・背・「妖怪七首 ――序にかへて――」・「お岩伊右衞門」

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「怪奇談集Ⅱ」で「蘆江怪談集」を電子化注を始動する。私の同「怪奇談集」及び「怪奇談集Ⅱ」では、江戸時代の怪奇談集のみを扱ってきたが、今回は初めて、近現代の怪奇談集となる。

 著者平山盧江(明治一五(一八八二)年~昭和二八(一九五三)年:パブリック・ドメイン)は小学館「日本大百科全書」に拠れば、『小説家、随筆家。神戸に生まれる。本名』は『壮太郎。実父田中正二は旧薩摩藩船御用さつま屋』七『世。実父没後、長崎の酒屋平山家に入った。東京府立四中(現戸山高校)を中退、満州』『で新聞記者を勤めた』後、『帰国し、『都新聞』『読売新聞』の花柳』『演芸記事を担当、花柳ものを得意とした。大正一五(一九二六)年、『長谷川伸らとともに第一次『大衆文芸』を創刊』、昭和六(一九三一)年に『に第二次『大衆文芸』を刊行』、『大衆文芸の振興に活躍した。小説』「唐人船」・「西南戦争」『などのほかに、随筆、また』、『都々逸(どどいつ)、小唄の作詞にも数多くの作品がある』とあった。

 底本は正字正仮名の国立国会図書館デジタルコレクションの同書の初版(昭和九(一九三四)年岡倉書房刊)(リンクは扉の標題ページ)を用いるが、加工データとして、所持する株式会社ウェッジ二〇〇九年発行の「蘆江怪談集」を使用させて戴く。ここに御礼申し上げる。『ウエッジ文庫』版が本底本と大きく異なるのは、ルビが大きくカットされていることである。本底本は、かなりルビが附されてあるが、総て採用し、( )で後に添えた。附け方から推理すると、これは、盧江が附したものと思う。異様に当たり前に読める漢字に、かくルビするのは、彼が新聞記者だった時代からの因果な癖だろうと、まずは考えるからである。それは、殆んど、底本の一行内にルビがない(全部がひらがな・カタカナの場合は除く)ことからの私の推定でもある。近代の新聞のルビは、一行の内に、ほぼ必ず、ルビが振られていたからである。或いは、蘆江は新聞小説を書いているように、ルビを確信犯的に振っているとさえ、私には思われるのである。但し、歴史的仮名遣の誤りがかなり多いが、これも上記の仕儀の影響だろう(明治中期以降は新聞の表記が既に口語表現化していたからである)。また、先行する箇所で振っていないのに、直後に振っているケースなども多い。しかし、後者は、ママ注記をすると、五月蠅いだけなので、やめた。また、「中」を「ちゆう」ではなく、「ちう」としたりする「ゆ」の脱落は、当時の文豪なども盛んに用いたので、誤りとはしなかった。なお、盧江の文章は、普通なら、句点にする箇所を、読点にしていることが多い。特に、直接話法の台詞では、その傾向が甚だしい。物によっては、会話文の最後には句点は打っていない(本「お岩伊右衞門」がそれ)。傍点「﹅」は太字に代えた。但し、踊り字「〱」「〲」は生理的に厭なので、正字或いは「々」に代えた。

 なお、本電子化注は、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の二〇〇五年七月六日)、本ブログが本見未明、2,090,000アクセスを突破した記念として始動する。【二〇二四年一月三十日 藪野直史】]

 

 

   蘆 江 怪 談 集

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館の補修により、原本の表紙その他は視認出来ない。そこで、画像検索をかけたところ、オークション・サイト「aucfan」のこちらで、初版のそれらの画像を確認することが出来たので、それを元にした(以下の裏表紙・背も同じ)。その写真では、水色の雨が降る中、右下方に、小田原提灯が中央を上に曲げて、その黄色い蛇腹のそこから火が燃え上がって、怪しく右方向に流れている絵が配されている。この火は背を抜けて裏表紙に及び、同じ雨の降る中、稍右手に及んで螺旋を描いて人魂のような怪火となっている。上記標題は手書きで、目次の末尾によって、この表紙絵も題字も蘆江自身の手になるものである。]

 

版 房 書 倉 岡          

 

[やぶちゃん注:以上は、裏表紙の下方に、ご覧の通り、右から左に記されてある。ポイントはごく小さい。]

 

 怪  談  集   平 山 蘆 江

 

[やぶちゃん注:背。頭の「蘆江」は、ない。先に言った怪火は「集」の字の少し下を上に弧を描いて横切っている。]

 

 

    妖

    怪

    七

    首

 

        序

        に

        か

        へ

        て

 

 

      このつらを張りかへましたと本當らしく

  狸

      うそを月夜の腹皷

 

      啼いてとほつた鴉の聲にだまされ

  狐

      ごころもよい月夜

 

      迷兒の迷兒の人魂ひとつ團扇

人   魂

      に打たれたほたる狩

 

      ゆきつもどりつらめしさうにつめたい

幽   靈

      月見る橋の上

 

      化けて出さうな番傘一つやけで

一本足の傘

      飮んでる屋臺見世

 

      もう來る時分と時計の針にうらみを

ろ く ろ 首

      言ってる待ちぼうけ

 

      無理と依怙地は二人のかたき三つ目は

三つ目入道

      うるさい人の口

 

              昭和九年孟蘭盆の夜

                   蘆  江  生

 

[やぶちゃん注:以上は底本の、ここと、ここ。「妖怪七首」及び「序にかへて」(ポイント落ち)は、実際には、ご覧の通り、横書で右から左に書かれてある。

 この後に、「蘆 江 怪 談 集  目  次」が続くが、これは、本文電子化の最後に配することとする。]

 

 

    お 岩 伊 右 衞 門

 

[やぶちゃん注:目次の後の見開き左の第一話の標題ページ。なお、かく見開きでは、右端に「怪  談  集」の柱があり、その下方(五字上げインデント)にノンブルが漢数字で記され、左端には当該本文の標題が柱とされ、同じく、下方に同前の仕儀が成されてある。

 以下、本文開始。]

 

       

 

 四谷左門殿町に田宮(たみや)又左衞門といふお先手組(さきてぐみ)の同心が居た。妻に早く死に別(わか)れて、お岩といふ娘と親一人子一人の暮し、外に親類も緣者もなく、賴みにする友人(いうじん)もないので、賴(たよ)るものは金より外にあるまいと、又左衞門娘を思ふあまりに、朝夕(あさゆふ)の暮しを詰(つ)めても、金を殘す事を考へてゐた。

「お父(とう)さま、先ほど秋山(きやま)さんの仲間とどこやらの仲間と、家(うち)の前でいやな話をして居(を)りました。侍が金を溜(た)めるのは卑しい心掛(こゝろがけ)ぢや、侍といふものは譬(たと)ひ其日の御飯が食べられずとも啣(くは)へ楊枝(ようじ[やぶちゃん注:ママ。)で威張(いば)つてゐねばならぬものぢや、それほど卑(いや)しい金だのに、其れを溜(た)めるさへあるに、貸付(かしつ)けて利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])をするとは言語同斷などと申して居りました、私は腹(はら)が立つてなりませぬ」とお岩(いは)が云つた。

 父は肌(はだ)ぬぎになつて、風通(かぜとほ)しのよいところで眼鏡をかけながら、頻(しき)りに内職の楊枝を削(けづ)つてゐたが、眼鏡(めがね)ごしに娘の顏を見て、

「何(なん)とでも云はして置くがよい、俺しは俺しの考(かんが)へでしてゐる事ぢや、お岩や、お前(まへ)はそのやうな事で腹を立てるが、今に思ひ當る事がある、餘人(よじん)は兎に角、私とお前との間には金(かね)がなくては何する事も出來(でき)まいぞ」と云つた。

 暑い暑い七月の末の事である、額(ひたひ)の汗を前垂(まへだ)れで拭きながら、お岩は、

「思ひ當(あた)る事とは何でございます」と聞く。

「外の事でもない、私も最早(もはや)定命を過ぎた、尤も五十一歲といへば、男の仕事盛(しごとざか)りぢやが私の身體は元來(ぐわんらい)弱い、其の弱い身體では明日が日に死なうも知れぬ、若し俺(わし)が死んだあとで、お前一人では誰れに賴(たの)むところもない、殊には女の事故(ことゆゑ)、私の跡目(あとめ)をついでお扶持を頂(いたゞ)く事も出來まい、いづれは婿養子(むこやうし)でもして置かねば俺は死んでも死に切れぬ譯(わけ)、さゝ、其の婿養子(むこやうし)とてもこんな貧乏同心のところへ緣なきものゝ來やう[やぶちゃん注:ママ。]筈(はず)がないから、今の中に金でも溜めて萬一の杖柱(つえばしら)にして置かねばならぬといふのぢや、お前(まへ)も少しは其の心掛(こゝろがけ)をするがよい」と云つた、萬事(ばんじ)此調子である。

 かういふ中で育(そだ)てられて來たお岩ゆゑ、自然又左衞門の心(こゝろ)が籠(こも)つて、物事につましい[やぶちゃん注:「儉(つま)しい。]事一通(とほ)りでない、紙屑は隣の家の前に落ちてゐても拾ひ集(あつ)めて置いて屑籠(くづかご)に入れる、臺所の仕事は打捨(うちす)てて置いても賃仕事(ちんしごと)をして單衣ものゝ仕掛を一針でも運(はこ)ばして置く、といふ風で、中々(なかなか)二十や二十一の女のやうではない。

 かうして親子(おやこ)が氣を揃へて内職(ないしよく)に精を出してゆくほどに、めきめきと身上(しんじやう)の繰(く)りまはしはよくなつて行つてゐる、近所(きんじよ)や同役の噂(うはさ)では、田宮の家の身上は夥(おびたゞ)しいものである、貸付けた金だけでも千兩からあるに相違(さうゐ)ないとさへ噂してゐた、全く其の位(くらゐ)のゆとりはあるに相違ない。

 親子がこんな話(はなし)をしてゐるところへ、勝手口(かつてぐち)から入つて來たのは近所に住んでゐる按摩(あんま)の宅悅である。

「おゝ宅悅(たくゑつ[やぶちゃん注:ママ])どのか、よう御座つた」と又左衞門が愛想(あいそ)よく迎へると、

「ハイ今朝、日影(ひかげ)の中に下谷まで參(まゐ)つて、二三軒利金(りきん)をとり集めて來ました、どうも早や、諸式(しよしき)が高くなつたからの、世間(せけん)が不景氣ぢやからのと勝手(かつて)な事を申しまして、思ふやうに利子(りし)を入れてくれませぬので弱ります」といひいひ帳面と引合せに、取集(とりあつ)めて來た貸金の利子を勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])し始めた。

[やぶちゃん注:「四谷左門殿町」(よつやさもんどのちやう)は現在の新宿区左門町(グーグル・マップ・データ)。]

 

      

 

 それを一々算盤(そろばん)で當(あた)つた上、又左衞門は定めた通りの日當(ちつとう)を宅悅(たくえつ)に渡してかう云つた。

「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」

 宅悅は一寸(ちよつと)いやな顏をしたが、

「ハイハイお庇樣(かげさま)で暮しが樂になりました、此節(このせつ)は夜仕事だけで、晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」

「いや何(なん)にしても金(かね)の事ぢや」

「ほんに金がなければ世渡(よわた)りは出來ませぬ、金と申せば、今日は耳寄(みゝよ)りの話(はなし)を聞きましたが」

「耳寄りとは嬉(うれ)しいの、何處かに好い貸口(かしぐち)でもあるかな」と又左衞門は始めて楊枝削(やうじけづ)りの手を止めて宅悅(たくえつ)の顏を見た、お岩(いは)もお針の手(て)を止めた。

「いや貸口(かしぐち)ではござりませぬ、豫(か)ねて御心配なされたお岩さんの婿(むこ)どのでござります」

「あゝ聟か、持參金(ぢさんきん)でも持つて來る口(くち)があるのかな」

「いえ、持參金(ぢさんきん)とてはありませぬが、立派な腕(うで)を持つた浪人(らうにん)ものでございます、年(とし)は三十一、中々の美男(びなん)でございまして、聟(むこ)に參つてよいとか申して居(を)りまする」

「立派(りつぱ)な腕とは劍術かの、劍術なら左程(さほど)なくてもよいが」

「いえ、劍術(けんじゆつ)などではござりませぬ、とても御考(おかんが)へ及びにはなれますまい、大工が旨(うま)いのでございます」

「大工、ウムそれは面白(おもしろ)い、それはよい出世の緖(いとぐ)ちぢや、早速話を運(はこ)んでもらつてもよささうぢや、が、兎に角一度(ど)逢(あ)つて見たいものぢや」

「さ其處[やぶちゃん注:「さ、そこで」。]で金(かね)と申すのでございます、この浪人(らうにん)をよく知つて居りますのは、私の懇意(こんい)なもので、小股(こまた)くゞりの又市(またいち)といふ男でございます、これに少(すこ)しばかり握らせて口を利(き)かせたら、此緣談(えんだん)は屹度(きつと)成り立ちませう」

「うむ、それはさうしてもよいが、幾何位(いくらくらゐ)握(にぎ)らせるのじや」

「なあに二分か三分も握(にぎ)らせてやればウンと云はしてくれませう、併(しか)し下谷から運(はこ)んで來るのでございますから、左樣(さやう)私に一兩お預(あづ)け下さいまし、屹度(きつと)物にして參ります」

「一兩、するとお前が二分とつて、又市とやらに二分(ぶ)やらうといふ譯か」[やぶちゃん注:ここは一分金の小粒での換算。一両は小粒一分金で、四枚で、一両になる。]

「いゝえ、其樣(さやう)にはとりません、兎に角さうなさいませ、お岩(いは)さん、それはそれは好(よ)い男でございますよ」と宅悅(たくえつ)はそゝのかすやうにお岩の顏を見た、お岩は遉(さす)がに赤い顏をして下を向(む)いた。

[やぶちゃん注:「宅悅(たくえつ)どの、お前は本業の按摩で摑(つか)み上げる金より、俺の利金(りきん)の日當をとり上げる方が、餘程(よほど)多からう」ここから推定出来るのは、「晝のお出入(でいり)は皆お斷して居ります位で」と宅悦は言っているので、宅悦は、又左衛門に夜話を語りにちょくちょく訪れ、語りの序でに彼の内職の楊枝削りを手伝っているのであろう。

「小股(こまた)くゞりの又市」「小股潜り」は「甘言を弄して人をたばかること」を指す言葉で、所謂、詐欺行為紛いの小悪上手(こわるじょうず)の意である。「又市」とあるが、宅悦同様の視覚障碍者で按摩のように見えるが、次の段の彼の様子と、悪手の仕込みなどを考えると、或いは、普段は盲目の按摩を演じて、その実、目明きという設定かも知れない。]

 

       

 

 宅悅は兎に角一兩の金を又左衞門に預(あづ)かつて、又下谷へ引きかへした、小股(こまた)くゞりの又市といふのは有名な口前(くちまへ)の旨い男である、これに一兩の金(かね)を見せ山分けといふ相談(さうだん)をして、引受けさせる事にした。

 又市は旨(うま)く行つたら、もう少し利分(りわけ)を貰はねばいやだと念(ねん)を押して置いて。

 浪人者(らうにんもの)といふのは又市の家の隣長家(となりながや)に住んでゐる伊右衞門といふ男である、其日(そのひ)のたつきを助ける爲に杉板(すぎいた)を切つて塵(ちり)とりを造つてゐたが、又市の顏を見ると、

「又市どの、珍(めづ)らしい、よく來てくれた、一番(ばん)昨日の勝負(しやうぶ)をつけようか」と云ふ。

「いや今日は將棋(しやうぎ)どころではない、お前樣の爲めに相談事(さうだんごと)で來たのぢや」

「ふむ私の相談事(さうだんごと)とは」

「外でもない、お前、聟(むこ)にゆく氣はまいか、金なら千兩ぐらゐの遊(あそ)び金がいつでもあつて、親類緣者(しんるいえんじや)のかゝり合ひがなくて、父親(ちゝおや)一人子一人といふところぢや。それで娘は二十一、技倆(ぎりやう)がよくて人柄(ひとがら)がよいといふのだが、どうぢや、お前かいやだいふなら、他(ほか)の方で諸が進(すゝ)むかも知れない、父親(ちゝおや)はまだ五十一ぢやが、もう年中病身(びやうしん)の事ゆゑ、いつ死ぬか判(わか)らぬ、死ねばあとは千兩の現金を抱(だ)いて、跡式を讓つて貰(もら)つて、お扶持がもらへて、好い女房(にようぼ)を抱いて、まづ好(よ)い事づくめといふ次第(しだい)、芥とりの尻を叩いてなど居ないで、よく考へさつしやれ」[やぶちゃん注:「芥とり」「ごみとり」或いは「ちりとり」だが、前の地の文(作者の表現)で「塵(ちり)とり」としているのに対し、小股潜りの又市の焚きつける台詞としては、「ごみとり」の方が効果的であろう。]

「成るほど結構(けつかう)な話だ、もう少しよく聞かしてくれ」と伊右衞門は一膝(ひざ)のり出して聞(き)いた。

 又市(またいち)の話を一通り聞くと、伊右衞門は考へた、今の世に浪人(らうにん)が奉公先きを探(さが)すのは中々骨が折れる。併し同心(どうしん)を勤めてゐて、出世(しゆつせ)の蔓[やぶちゃん注:「つる」。]を探すのは、浪人(らうにん)でゐるよりも早からう、そこで入聟(いりむこ)といふものについて考(かんが)へて見ねばならぬが、入聟(いりむこ)が嫌な事は行つた先の縁者(えんじや)が多い為めだ、それがなくて親(おや)一人子一人、殊に親は間もなく死(し)ぬとすれば、死んだあとは夫婦か(ふうふ)かけ向ひ[やぶちゃん注:「差し向かひ」と同義。]、其處迄行くと入智も貰(もら)つた嫁も差別(さべつ)はなくなつて了ふ。これもよし、さて肝愼(かんじん)[やぶちゃん注:「愼」はママ。]の嫁だが、これからは父親一人娘一人(むすめひとり)とあれば、つまり若い時から父親の世話(せわ)を一人でしてゐるのだから万事に男の身のまはりの事は氣(き)が付(つ)いてくれるであらう、殊(こと)に同心をしてゐて金を溜(た)める位の父親なら、娘を仕付(しつ)ける上の心掛もよからう。行儀作法(ぎやうぎさほう[やぶちゃん注:ママ。])も正しからう、世帶(しよた)向の事も馴(な)れてゐて、娘から直ぐに世話女房に早變(はやがは)りをする資格もあらう。甘やかす母親(はゝおや)に早く分れた以上、着る物の贅澤(ぜいたく)をいふ道も知るまい、親一人子一人に馴(な)れてゐるのなら人懷(ひとなつ)こくて、良人(をつと)のいふ事もよく聞くであらう、とこれだけの判斷(はんだん)をした、又市は豫ねてから口前の旨(うま)い男だから又市の口から聞く事は當(あて)にならぬとせねばなるまい、只(たゞ)親(おや)一人子一人といふ口さへ違(たが)はねばそれでよい、これは考(かんが)へるまでもない。

「入智(いりむこ)承知(しようち)した。いつでもよいから先方の心を聞(き)いて貰(もら)ひたい」と云つた。

 餘り返事(へんじ)が早いので、又市は少し氣の毒(どく)な氣がした、これで二分とつて、尙ほ幾何(いくら)かの成功報酬を貰(もら)ふのは難有(ありがた)すぎるとも思つた。

「本當(ほんたう)かね、いよいよといふ際になつて否(い)やと云ふ事はあるまいの」

「どうしてどうして否(い)やどころか、望んでも行きたい、世話(せわ)して下されたら、お禮ぐらゐは幾分(いくぶん)して上げてもよい」

「貴郞(あなた)にまでお禮をいただいては濟(す)みませぬ、それでは早速(さつそく)運(はこ)びますから」と答ヘて置いて待(ま)たしてあつた宅悅に、

「どうも骨(ほね)を折らしたよ、傑(ゑら[やぶちゃん注:ママ。])い賴みで、仕方がなしに大骨折つて口說(くど)き落しては來たが、いやばやどうも、よほど禮金(れいきん)を貰(もら)はねばなるまい」と云つた。

 宅悅(たくえつ)は氣にも止めず、空々(そらぞら)しく默頭(うなづ)いて、

「いやさうであらうさうであらう、それで結局(けつきよく)よいといふ事になつたかの。」

「やつとの思ひで承知(しようち)をさしてやつた」

「それは御苦勞(ごくらう)、それでは又もや御氣の變らぬ中(うち)に、どしどし運ぶとしませう」と威勢(ゐせい)よく歸つて、

「いやどうも見れば見るほどよい聟(むこ)どのでござります、又市(またいち)が申しますには、當人聟に行く事は承知(しようち)して居りますが、此方樣(こちらさま)へ上る事まで承知させるには一寸(ちよつと)骨が折れます、實はその浪人(らうにん)と申すのが思ひの外手硬(てごは)くて、いやいや小糠(こぬか)三合持つたら聟には行くなと申す事がある、慮外(りよぐわい)なことを申すなと[やぶちゃん注:ママ。「ど」の誤記・誤植が疑われる。]、頭ごなしにきめつけて、偉い見幕(けんまく)だつたのを又市(またいち)と申すものがいろいろに宥(なだ)めて、やつとの事で承知(しようち)をさせたので御座いますから、私は構(かま)ひませんが、又市へ、もう少し色(いろ)をつけてやつて下さるまいか」といふ、

「ハヽヽヽ、いづれさう來るだらうと思うた、よしよし話さへ纏(まと)まつたのなら、其上で何(なん)とかしてやらう」

「何とかしてやるでは困(こま)ります、如何でございませうもう一兩(りやう)下(くだ)されませぬか、さうすれば、其れを二つに割(わ)つて二分は浪人衆(らうにんしう)のところへ手土產を買つて行き、二分は又市(またいち)と申すものにやりたいと思ひますが」

「又一兩(りやう)か、話がついてから手土產(てみやげ)を持つて行くにも及ぶまい」

「いえ、それが、その又市が前に參(まゐ)ります時に、自分の貰(もら)ひ分の中から、何か買(か)つてまゐつたのでございますから」

「ハヽヽまァ仕方(しかた)がない、ではこゝに一兩」と又左衞門(またざゑもん)が出してやる金を受取(うけと)ると、宅悅大喜びで、又これを半分は着腹(ちやくふく)、半分だけは又市に渡(わた)した。

 それは兎(と)に角(かく)、かういふ手順(てじゆん)で伊右衞門はお岩の聟になつて、又左衞門の家(うち)のものとなつた。

 

      

 

 宅悅の言葉の通り伊右衞門は中々好い男(をとこ)であつた、そして隨分(ずゐぶん)もの事が器用な方で、軒先(のきさき)に雨洩りがするといつては、一刻(とき)[やぶちゃん注:二時間。]ぐらゐの間に雨もりを直す、垣根が壞(こは)れたといつては修繕(しうぜん)するといふ風で、くすぼりかへつて居た田宮の家は伊右衞門(いゑもん)が來てからは、めきめきと晴(は)れやかになつて來た。

 お岩の喜(よろこ)びは勿論、又左衞門は一層(そう)喜(よろこ)んで此の分ならばと思つて、老年に付、聟養子伊右衞門に跡式を讓(ゆづ)つて隱居をしたいといふ願ひを上げた、それが間もなくお聞屆けになつて、又左衞門(またざゑもん)は例の貨付金の利子の勘定(かんじやう[やぶちゃん注:ママ。])ばかりにとりかゝる、伊右衞門は二代目で組頭伊藤の家へ出仕(いゆつし)をすると、伊藤の家(うち)では伊右衞門が大工の業[やぶちゃん注:「わざ」。]の器用(きよう)なのと、さつぱりした男振(をとこぶり)とに喜んで一にも田宮、二にも田宮(たみや)と、受けのよい事一通(とほ)りではない。

 此の通り萬事(ばんじ)に都合はよかつたが、一人張合(はりあひ)のないのは伊右衞門である、親(おや)一人子一人で育(そだ)つたお岩ならば、これこれであらうと、見當(けんたう)をつけてゐたのにも拘(かゝは)らず、事實は反對で、親子揃つて錢勘定好(ぜにかんじやうず[やぶちゃん注:ママ。])き、それに凝り始めると三度の食事の世話(せわ)さヘしてくれぬ有樣で、一向(かう)に家の中が面白くない、萬事(ばんじ)がやり放しに出來てゐるので、伊右衞門(いゑもん)としては、女房が出來てから、女房(にようぼ)と父親の世話(せわ)まで自分が燒かねばならぬほどのしだらなさゆゑ、是れでは寧(むし)ろ獨りで居た方がよかつたとさへ思ふ事(こと)ばかりである。が、現に固まつた緣を格別(かくべつ)の理由もなしに出てゆく譯にも行(ゆ)かず、殊(こと)には食べるに不自由はなくて濟(す)むので、何にしても我慢(がまん)をせねばならなかつた。[やぶちゃん注:「しだらなさ」「だらしなさ」に同じ。]

 あとの心配(しんぱい)がなくなつて見ると、もうがつかりしたものか、程(ほど)なく又左衞門はめきめき身體(からだ)が弱つて其の年の秋立(あきた)つ頃に眠るが如く死んで了(しま)つた。あとは夫婦かけ向ひ、女房(にようぼ)のお岩は相當の不伎倆(ぶぎりやう)ではあるが、伊右衞門は身についた緣(えん)と思つて、隨分大事にかけて情(じやう)のある夫婦ぐらしにならうと思ひ始(はじ)めた。

 すると、金貸(かねか)しをするほどの親の手に育(そだ)つたお岩である、今までは血を分けた父親(ちゝおや)が居たが、亭主となつた伊右衞門は、元々(もともと)赤の他人である。殊に美男(びなん)であつて見れば、いつ何時浮氣(うはき)などを起されて、自分(じぶん)の身は捨てられるかも知れぬ。捨(す)てられた時に、女の身として何よりも賴(たの)みになるのは金(かね)、これはかうしては居られぬ、もつともつと稼(かせ)いで、金を溜(た)めて置かねばなるまいと考へた。

 尤も父が死(し)んで後は、伊右衞門に其氣がないので金貸(かねか)しの方はすつかりと止(や)めて了つてある、良人が止(や)めたものを、女房が無理(むり)に始める譯にも行かぬので、ある時お岩は針仕事(はりしごと)の出來るを幸ひ、何處かのお邸(やしき)へお針に行く事にしようか、良人(をつと)は大方伊藤の家へ手傳(てつだ)ひにばかり行つてゐるので殆(ほと)んど年中留守(する)といつてもよい位、して見れば、自分一人が家に居たところで、何處かの邸(やしき)にお針に通(かよ)つたところで、格別の相違(さうゐ)はない、その事その事さうして今の中に金(かね)を溜(た)めて置きませうといふ事に心(こゝろ)づいた、ところでこれも宅悅(たくえつ)のお世話である。

「何處か、氣輕(きがる)な家はあるまいか」といふと、

「お安い御用(ごよう)、それならば問(と)ひ合(あは)して見ませう」

と引受(ひきう)くれ、やがて知らしてくれたのは、

「三番町の餘(あま)り大きくないお邸(やしき)でございますが、これは通ひでなく、先方へ住(す)み込(こ)んで貰ひたいと申(まを)すのでございます」といふ。

 伊右衞門にこの事(こと)を相談(さうだん)すると、

「いやそれは惡(わる)い、夫婦の口が過(す)ごせぬならば兎も角、かうして樂(らく)にやつてゐるのに、何も女房(にようぼ)までお針奉公(はりほうこう)をするには及ぶまい」と云ふ。

「お前は私の身(み)の上(うへ)を思はぬゆゑ、さういふ思ひやりのない事を仰(おつし)やるぢや、私に一人でも身よりのものがあればよし、何もない私(わたし)ゆゑ、若しお前に捨てられるやうな事(こと)でもあつたら、賴(たの)むものは金(かね)ばかりゆゑ、何でも今の中に、一生(しやう)遊(あそ)んで暮せるるだけの金を私が持つて居ねば心細(こゝろぼそ)いから、どうぞ當分(たうぶん)の内は私を稼(かせ)がして下され」と云ひ張つて承知しない。伊右衞門は途方(とはう)にくれもしたが、我女房ながら呆(あき)れ返(かへ)りもした。餘り疑(うたが)ひ深い考へやう、それほどに思ひ込んでゐるものを何(なん)と云つたところで仕方(しかた)はあるまいから、

「それではお前(まへ)の氣の濟むまでやつて見るさ」といふより外(ほか)なかつた。

 間もなく、お岩(いは)は三番町の邸(やしき)といふのへお針奉公(はりほうこう)に住み込んだ。

[やぶちゃん注:「三番町」しばしばお世話になるサイト「江戸の町巡り」の「三番町」によれば、『旗本のうち、将軍を直接』、『警護するものを「大番組」と呼び、大番組の住所があったことから「番町」と呼ばれた』。三番町は『江戸期は「市ヶ谷御門内三番丁通」の通称』であったとされ、現在の『千代田区九段北三・四丁目、九段南三・四丁目』に相当するとあった。この附近である(グーグル・マップ・データ)。]

 

        

 

 女房(にようぼ)はありながら獨身(どくしん)同然の暮しをせねばならぬ伊右衞門は、我れながら馬鹿々々(ばかばか)しくなつて來た、いつそ此家(このうち)を出て了はうかと思つた事も度々ではあるが、伊右衞門とても行くべき家(うち)は持たない、まアまアこゝに居てお扶持(ふち)を貰つてさへ居れば、其日の暮しに不自由はない、あんな賴もしくない、金で固(かた)まつた女房など、居ると思へば腹(はら)が立つが、居ないと思へば何(なん)でもない、と思ひ返しては、非番(ひばん)で家にゐる時などは、近所の子供(こども)などを集めて呆けた[やぶちゃん注:「ほうけた」と訓じておく。]事を云つて暮してゐた。

 其の近所(きんじよ)の子供といふものゝ中に、九尺長家[やぶちゃん注:「ながや」。]の娘(むすめ)ではあるが、常盤津(ときはづ)の稽古(けいこ)をして、何れこの二三年には深川の藝者(げいしや)に出ようかと仕込(しこ)まれてゐるお花といふ子が居た、多勢(おほぜい)遊びに來る娘子供の中に、お花(はな)はとりわけ伊右衞門に馴(な)ついて

「叔父さん叔父さん」と云つては、伊右衞門が細工(さいく)ものをしてゐるところへやつて來て、木屑(きくづ)を積み上げたり、鉋屑(かんなくづ)で提灯の形を造(つく)つたりしてゐた。

 秋も大分(だいぶ)更(ふ)けた日の日向戀しい頃である、椽先(えんさき)に伊右衞門が長々とごろ寢(ね)をして、ものの本を讀んでゐるところへお花(はな)がやつて來た。

「花(はな)ちやんか、どうしたものぢや、今日は大層(たいそう)美くしう髮が結(ゆ)へて、美い[やぶちゃん注:「うつくしい」。]着物(きもの)を着てゐるではないか」

「あい、深川(ふかゞは)まで行つて來(き)ました」

「深川へ、八幡(まん)さまへお參(まゐ)りか」

「いえ、八幡(まん)さまへもお參りしましたが、今度來月(らいげつ)から私が行きます家に、母樣と話(はなし)をしに行つたのでございます」

「來月から此方(こつち)には居なくなるのか」

「あい、羽織衆(はをりしう)に仕込んで貰(もら)ひますの」[やぶちゃん注:「羽織衆」は「羽織藝者」で、江戸深川の芸者の称。深川芸者は客席に羽織を着て出たところから言う。「辰巳藝者」「羽織」とも称した。]

「むゝ、それは名殘惜(なごりを)しい、羽織になつたらさぞ男(をとこ)をたぶらかすであらうの」

「いえ何だか存じませんが、好い着物(きもの)を着て、好な[やぶちゃん注:「すきない」。]三味線(みせん)[やぶちゃん注:「しやみせん」或いは「さみせん」。]を彈いて遊(あそ)びますといふ事です。」

「はゝゝ、それに違(ちが)ひない、併し、さうなつたら叔父(をぢ)さんとこへも遊びには來(こ)られなくなるの」

「いゝえ、それも遊(あそ)びに參りますわ」

「いや、さうは行(ゆ)くまい」

「何故(なぜ)でございます」

「道が遠いもの、迚(とて)もお花坊一人では來られまいし、來る暇(ひま)もあるまい」

「それなら私(わたし)は、もう深川へ行くのを止(や)めにしませうか」

「いや止(や)めるには及ばぬ」などゝ他愛(たあい)もない話をして居るところへ、裏口(うらぐち)から、

「今日(こんにち)は」と入つて來たのは莨屋茂助(たばこやもすけ)といふ莨賣りである。

「や、ま花坊(はなぼう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])、大層(たいそう)美くしうなつて、田宮の叔父さんに可愛(かあい)がられて貰(もら)ひに來なすつたかな」

「あい」

「はゝゝ、あいは恐(おそ)れ入つたの」と伊右衞門と顏を見合(みあは)せて笑(わら)つたが、

「いや、それよりは、田宮さま、私(わたし)今から番町の方まで參りますが、御新造(ごしんざう)に御用はありませんかの」といふ。

「いや別(べつ)に用はない、が、今度はいつ頃戾(もど)つて來るかと聞いて居(ゐ)た、と云つて置いてくれ」

「ハイ畏(かし)こまりました、そして莨の御用(ごよう)はござりませぬか」

「さうさの、少(すこ)し貰つて置かうか、花坊(はなぼう)、あそこの棚(たな)にある莨の入れものを出して、あの叔父さんにつめて貰(もら)つてくれぬか」

「あいあい」と姿(すがた)は相當に大きい方だが、仇氣(あだけ)ない返事をして立上つた。[やぶちゃん注:「仇氣(あだけ)ない」ここは、「妙に勿体ぶったところがなく、素直に。」の意であろう。]

 

       

 

 莨屋(たばこや)茂肋が田宮へ來たのはお晝近(ひるちか)い頃であつたが、莨を賣りながら、まはり廻(まは)つて三番町へ來た頃は、もう秋(あき)の日の暮れ易(やす)く、一つ小袖に薄(うす)ら寒さをおぼえる頃であつた。

 お岩の上つてゐる小旗本(こはたもと)の勝手口へ廻つて、

「お針(はり)さんはおいでゞございますか」と聞(き)くと、直ぐに出て來たのがお岩(いは)であつた。

「茂助(もすけ)さんか、何ぞ傳言(ことづて)でも聞いて來たのかえ」

「ハイ、別に傳言(ことづけ)といふではございません、今度お戾(もど)りなさるのは、大方いつ頃かと聞(き)いておいてくれとの事でござりました」

「今度(こんど)戾(もど)るのを、あゝさうかえ、其れは今からきめる事もなるまいが、何(いづ)れ十日ほど經(た)つたらと云つて置(お)いて下され、家に何か變(かは)つた事はありませぬかえ」

「ハイ、少(すこ)しもおかはりなく、いつものやうに、お花(はな)さんを相手に、安氣(あんき)さうにして居られました」[やぶちゃん注:「安氣(あんき)さうにして」のんびりと気軽な感じで。]

「お花(はな)さんとは」とお岩は險(けは)しい目つきをした、お花の家はお岩が番(ばん)町へ來てから引越して來たので、お岩(いは)はお花が何だか知(し)らなかつた。

 それを莨屋茂助(たばこやもすけ)が十四五の小娘ですと平たく云へば左程(さほど)でもなかつたのだが、

「御新造(ごしんざう)さん、もうお忘れですか、あのそれ近い中に藝者(げいしや)に出ようとしてゐる、あの奇麗(きれい)な可愛い子です」と云つたので、お岩(いは)はカツとなつた。

「藝者(げいしや)になる子、其れがいつもいつも遊(あそ)びに來てゐますのか」

「はい、いつも來(き)てゐますよ、大層伊右衞門さんに馴(なつ)いて、一日に一度お宅(たく)へ上らねば、忘れものをしたやうだとさへ申します」

「えツ、其れほど繁々(しげしげ)來て居るのですか」と云ふ聲が怖(おそ)ろしいほど癇(かん)ばしつて居たので、茂助(もすけ)は始(はじ)めて氣がついた。飛んだ事を云つて了つた、さては間違(まちが)ひをされたのかと、

「いえ、御新造(ごしんざう)さん、お花ぼうと云つても、まだやつと十四か十五の小娘(こむすめ)でございますよ」と云つたがもう間(ま)に合(あ)はない。

「薄情(はくじやう)もの奴[やぶちゃん注:「め」。]、私が一寸留守(るす)の間に、もう其の樣なものを引(ひき)ずり込んで、えゝ、どうしてくれよう」と呆氣(あつけ)にとられる茂助を突飛(つきと)ばして勝手口からプイと出(で)た。

 途端(とたん)、

「お岩や、お岩や」と奧から人の呼ぶ聲(こゑ)がする、其の聲が耳に入ると、遉(さす)がに、それを聞き流(なが)しにしておくわけには行かなかつた。先へ二足(あし)、あとへ一足といふ風にして迷(まよ)つてゐたが、奥の呼び聲はいよいよ高(たか)いので、不承々々(ふしやうぶしよう)に立戾つた。戾りしなにも助(もすけ)をぐつと睨(にら)んで何か云ひたさうに唇をぶるぶると慄(ふる)はしたが、併し何にも聲は出なかつた。

 茂助は只(たゞ)もう這々の體[やぶちゃん注:「はうはうのてい」。]で逃(に)げ歸(かへ)つた。

 

       

 

 其晚(そのばん)、一通りの用を濟(す)ますと、お岩は邸の奧樣(おくさま)の前へ出て、

「甚だ相濟(あひす)みませんが、今晚一寸宿許(やどもと)まで行つて參りたいと思ひますが、おゆるし下(くだ)さいませうか」と云つた。

 邸でもお岩を亭主持(ていしゆもち)と知つてゐるので、快(こゝろよ)く

「あゝ別(べつ)に用もありませんからゆつくり行つておいでなさい、家(うち)へゆくのなら、も少し早(はや)く行けばよかつたものを、兎(と)に角(かく)、この暗さに一人では物騷(ぶさう)ゆゑ、三平に一緖(しよ)に行つて貰ふ事にしなされ」と云つてくれる。が、

「いえ、近(ちか)いところでございますゆゑ、つい駈(か)けて參りますれば」といふのを、奧樣(おくさま)は三平を呼んですぐにお岩(いは)を送(おく)つて行つてやるやうにと云つた、

 お岩はお氣の毒でございます、お暇を缺(か)せまして濟みませんと繰(く)り返(かへ)し繰り返し出て行つた。そして三平と暗(くら)い暗い、土手三番町を四谷御門(ごもん)橫へ出る間にも、すみませんすみませんと云(い)つてゐた、その間は當(あた)り前のお岩であつたが、四谷御門を出て、濠(ほり)の側の藪(やぶ)だゝみへかからうとした時、改まつた調子(てうし)で、[やぶちゃん注:「藪(やぶ)だゝみ」藪が幾重にも重なって茂っている所。]

「三平(ぺい)さん、男といふものは少し別(わか)れてゐれば、もう女房(にようぼ)の事なんぞは、忘れて了ふものでせうか」と云ひ出(だ)した。

「妙な尋(たづ)ねものぢやな、一體何故(なぜ)其のやうな事を聞(き)きなさる」

「何故(なぜ)でもない、只男の心持(こゝろもち)を聞きたいだけなのでござんす」

「何の事か知(し)らんが、少しぐらゐ別(わか)れて居たところで女房を忘(わす)れる事があるものかね」

「三平さん、本當(ほんたう)の事を云つて下(くだ)され」

「本當(ほんたう)の事を云つてるのではないか、決して女房(にようぼ)を忘れるやうな事はありはしない」

「いゝえ、さうではない、忘(わす)れるに違ひはござんせん、お前は男(をとこ)ゆゑ、あの人でなしの肩(かた)をお持ちになるに相違(さうゐ)ない、屹度(きつと)さうぢや」

「いや、其樣(さやう)な事はない」

「いゝえ、さうぢやさうぢやさうぢや」と立(た)てつゞけに云つたかと思ふと、お岩は見付(みつけ)の石垣に額を押(お)しあてゝ啜(すゝ)り上げながら泣(な)いた。

 仲間(ちうげん)の三平は當惑(たうわく)しながら、始めは一言二言宥(なが)めにかゝつたが、お岩は身(み)もだえをして泣き聲(ごゑ)を上げた。

 三平は呆氣(あつけ)にとられたが、面倒(めんだふ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])になつたと見えて、

「お岩さん、其樣(そん)なところで泣いてばかり居ては身體(からだ)が冷えるによつて、早(はや)く行かう、さあ私が一緖(しよ)に行つて、若しお前の御亭主(ごていしゆ)に不審な事があつたら、よくよく問(と)ひ訊(たゞ)して見るゆゑ、往來中で泣く事(こと)はお止めになされ、さあ、早(はや)く行かう」と肩(かた)に手をかけた。

 お岩はその手を搖(ゆ)り落(おと)して、身もだえしたが、三平が面倒(めんだふ)がつて、手をとつて引立(ひきた)てようとすると、それを振(ふ)り切つて、三平の袖(そで)の下をくゞりぬけながら、見付外の藪(やぶ)だゝみへ駈け込んだ。

「お岩さんお岩さん、無暗(むやみ)に駈け出しては危(あぶ)ない、濠へ落(お)ちると危ない」と云ひ云うひ追かけると、

「落(お)ちて死ねば本望(ほんまう)ぢや、打棄つて[やぶちゃん注:「うつちやつて」と訓じておく。]置いておくんなさい、私(わたし)はもう伊右衞門どのに捨(す)てられたのぢや、歸(かへ)る家もありはしない、いつそ濠(ほり)へでも落ちて死んだがましぢや」と云ふ聲が半町(はんちやう)[やぶちゃん注:五十四・五〇メートル。]ほども先で聞こえたが、四邊(あたり)の暗さと藪(やぶ)だゝみの茂みとで、身體は何處にあるか判(わか)らなかつた。

「お岩さん、其樣事(そんなこと)ばかり云つてないで、私が困(こま)るから困るから」と三平がお岩の聲(こゑ)をたよりに追かける時には、もうお岩は返事(へんじ)も何もしなかつた。

 三平は「お岩(いは)さんお岩さん」と云ひ云ひ其處ら中(ぢう)をかけまはつたが、何處へ駈(か)け込(こ)んで了つたものか、更に行方(ゆくゑ[やぶちゃん注:ママ。])は知れなかつた。

 約(およ)そ半時も探したが、遂にお岩のゐどころは判(わか)らなかつた、三平は悄々(しほしほ)として邸へ戾(もど)つて見たが、お岩は戾(もど)つてゐなかつたらしいので、又其の足で左門町(さもんちやう)まで行つて見た。

 左門町の田宮(たみや)はもうぴつたり戶が閉(しま)つてゐたが起して聞くと、伊右衞門はびつくりして始終(しじう[やぶちゃん注:ママ。])を聞いた。それから今一まはり見付外(みつけそと)を探したが、遂にお岩の姿は何處(どこ)にも見えなかつた。

 翌日(よくじつ)になつても、別に濠(ほり)の中からお岩らしい死骸が浮び上つたといふ噂さへなかつた。

 全く行方は知れなくなつたのである。[やぶちゃん注:行頭の一字空けは底本では、ない。誤植と断じて特異的に訂した。]

 三日ほど經(た)つた或る星の影(かげ)さへ見えぬ夜、四谷見付を通る人の目(め)に、藪(やぶ)だゝみの上で、繪にかいた鬼女(きぢよ)のやうな顏がありありと見えたので、其人は氣絕(きぜつ)をするばかりに驚(おどろ)いて、手近の藥屋(くすりや)灰吹屋へ飛(と)び込(こ)んで、

「助(たす)けてくれ」と云つたといふ。

 これを手始めに、四谷見付で女の幽靈(いうれい)が出るといふ噂(うわさ)が立ち始めた。

 伊右衞門が風邪引(かぜひき)ともつかず、氣病みでもなくて大熱の往來(わうらい)するのに苦しみ始めたのは更(さら)に半月經(た)つてからの事(こと)であつたといふ。

[やぶちゃん注:「四谷見付」江戸城四谷見附跡(グーグル・マップ・データ)。

 本篇は、所謂、「四谷怪談」物(当該ウィキ参照。本篇も「小説」のリストに挙がっている)であるが、従来の、いかにも創作見え見えの恨みの経緯と、波状的な怪奇てんこ盛り現象を主軸にした「四谷怪談」物とは、全く異なった実説的小説として語られ、無理のない事実経過が淡々と語られ(ルビが五月蠅いが)、底本では、最後の「七」のコーダの七行にのみ、怪異が記される。私はとても好感が持てる作品である。安っぽい当今の「お化け屋敷」的「四谷怪談」は、私は、昔も今も、大嫌いである。

2024/01/29

譚海 卷之六 越後國くびきおちや蒲原郡等冬月風俗幷信州うすひ峠雪の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「くびき」は本文に出る通り、旧「頸城」郡で、郡域は当該ウィキを見られたい。「おちや」はママ。現在の新潟県小地谷市(おぢやし:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「蒲原郡」は新潟の旧郡。郡域は当該ウィキを見られたい。「幷」は「ならびに」。]

 

○越後國、頸城(くびき)・おじや・蒲原郡(かんばらのこほり)の民家は、ゐろり、五間四方ほどづつ、有(あり)。

 夫(それ)ヘ、大木を、丸のまゝ、伐(きり)て、薪(たきぎ)となし、用ゆ。

 雪中などには、夜中も、はだかにて、其ゐろりの灰の中へ寢(ね)、ふし、する故、夜具の類(たぐひ)、一切、いらず、すはだかにて、寝るゆゑ、男女とも背の皮は、皆、灰黑也。

 又、信州うすひ峠[やぶちゃん注:ママ。碓氷峠。]の邊にては、雪のふかく積(つもり)たるときは、山上より、雪、なだれ落(おつ)る、それを所の者は「ぞれ」といひて、はなはだ、恐(おそる)る事也。

 雪の「ぞれ」、山上の石を包(つつん)で落(おつ)る故、人にあたるときは、打殺(うちころ)され死する也。牛馬も、是に當れば、死する事を、まぬかれず。

 出羽の國にては、是を「なで」と云(いひ)、「ぞれ」は信州の方言也。

 又、天氣よき日、雪後(せつご)に、坂本(さかもと)にとまりて、うすひ峠をこえん、とせしかば、宿の亭主、堅くとゞめて、

「いまだ、輕井澤より、今朝(けさ)、來(きた)る人、なし。かならず、とうげ、こえがたかるべし。晝まで待合(まちあひ)給ひて、こえ來る人あらば、行(ゆき)給ふべ。」

と、いひけれど、

「かほど、快晴なる天氣の、何とて、いかやうの事、ある。」

とて、しひて[やぶちゃん注:ママ。]、出立(しゆつたつ)しければ、

「さらば、先(まづ)、おはして御覽ずべし。乍ㇾ去(さりながら)、けふは、越給ふ事、難かるべし。」

と云(いふ)。

 不審ながら、駕籠に乘(のり)て出(いで)けるに、峠ちかくなりて、風もなく、快晴なるに、四山(しざん)の雪を、吹(ふき)たてて、行人(ゆくひと)の眼口(めくち)に入(いり)、行先は、霧のたなびきたる如く、一向に前後を忘却して、一寸も、進みがたし。かごの者も、

「此吹雪(ふぶき)にては、峠にいたらば、死(しす)べし。」

とて、行(ゆか)ざれば、ぜひなく、もとのやどりに歸(かへり)たるに、亭主、

「さればこそ。」

とて、そこに一宿して、翌日、ゆるやかに立(たち)て、人の行來(ゆきき)あるに付(つい)て、峠を、こえける。

「かく、風もなく、快晴なるに、峠は、雪を吹立(ふきたつ)る事、暴風の如くなるは、更に心得がたき事なれども、是も、快晴の日は、地下の晴氣(せいき)、昇(のぼ)る故、其氣に吹(ふか)れて、雪を、ふき立(たて)、風の如く、かく、有(ある)事也。冬は、地中、暖氣せまれば、時々、如ㇾ此(かくのごとき)事、あるもの也。」

と、ところの人の、物がたりぬ、とぞ。

譚海 卷之六 肥前長崎渡海の事 附大坂川口出船つとに過たる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 「目錄」標題は「肥前長崎渡海の事 附(つけたり)大坂川口出船『つと』に過(すぎ)たる事」と読む。但し、本文では「つて」という名になっている。また、「過」は「遭」の誤記のようにも思われ、或いは、「を過(よぎり)たる」辺りの方がしっくりくる。因みに、この「つて」は本文を読む限り、「潮目」(しほめ(しおめ))のことと推定される。

 

○長崎へ船にて行(ゆき)たる人の物語せしは、

……洋中は、いか程、風浪あれども、船は、汐道(しほみち)を行(ゆく)事故、難船する事、なし。洋中(わだなか)に、汐のさし引(ひき)する道、一筋、別に、わかれて、あり。渡海の船は其盬[やぶちゃん注:底本に補正傍注があり、『(汐)』とする。]に乘じて、渡るゆゑ、たとひ、風、有(あり)て、浪、打(うち)かくる時も、此盬[やぶちゃん注:同前。]の流るゝ勢ひに、浪、おされて、船に波のうちかくる事、なし。洋中にては、波と、汐と、つねに、さからふ故、却(かへつ)て、わたりやすき也。

 又、風はげしくて、海上に船をすゝむる時、「かた碇(いかり)」とて、船のへさきへ、碇壹(ひと)つ、おろす也。夫(それ)にて、危ければ、又、一つ、へ[やぶちゃん注:舳先(へさき)。]の左右へ、おろす。是を「諸碇(もろいかり)」と云(いふ)。

 されど、碇を、ヘのかたへ、如ㇾ此(かくのごとく)おろせば、船の尻[やぶちゃん注:船尾。艫(とも)。]、殊外(ことのほか)、ふれて、船中にありて、甚(はなはだ)、安心ならず。

 氣弱き人は、嘔吐する事、儘(まま)、有(あり)。

 其時、とものかたへも、碇を、かくれば、船の尻・頭、たひらかに成(なり)て、ふれる事なし。

 去(さり)ながら、へのかたと、とものかたへ、碇をかくる事は、甚、危(あやう)き事にして、船頭、決してせざる事也。

 たまたま、船の尻・頭へ、碇をかくる事あれども、只、たばこ、一、二ふくのむほど、かけて、やがて、ともの碇をば、引(ひき)あぐる也。

 これ、船中に、甚、こまりたる人、あれば、

「それを、休(やすらは)ん。」

とて、暫時する事にて、萬全の事には、いかほど、船の尻、ふれても、ともヘ碇をば、かけぬが能(よき)也。

 その故は、波にて、船の、ふれるに、尻・頭へ、碇をかけて、久しくあれば、自然(おのづ)と、波にて、碇綱(いかりづな)を、すりきる。

 綱、きると、勢ひに、ひかれて、船、とんぼがへり打(うつ)て、うつぶけに、かへる故、尻・頭へ碇をおろす事は、船頭、甚、嫌ふ事也。

 波のあらき時は、おろしたる碇綱、船に、すりあふて、火が出る也。

 それゆゑ、船頭、間斷なく、いかり綱へ、水をかくる事也。

 船頭は、始終、船のへさきにありて、坐(ざ)して、磁石盤を守り居(を)る也。

 同時(おなじきとき)、大坂川口を乘出(のりいだ)す時、「つて」といふものに逢(あひ)たり。是は、海上に、一筋、ほそく、雲のたなびきたるを見て、船頭、

「『つて』が、來(きた)るべし。竪(たて)に、うけよ。」

とて、急ぎ、船を乘直(のりなほ)したるに、間もなく、沖より、大山の如く成(なる)浪がしら、うねり、ちかづく。

 其色、眞黑にして、いかにもおそろしきさまなるが、船のへにあたる時は、船、すぢかひに、是(これ)を、うけて、とものかたへ、船中の人、たふれ、あつまる樣也。

 船を、此浪、過(すぎ)て、とものかたを、もちあぐるときは、又、船、さかさまになるやうにて、船、海の底へ入(いる)様(やう)に、おどろきさわぐを、船頭、かたく、制して、無言にする也。

 此時、驚き騷けば[やぶちゃん注:ママ。]、船、ゆれて、くつがへり、沒する事、とぞ。

 又、此浪を、船の橫に受(うく)る時は、忽(たちまち)、船、つきかえされ、くつがへるやうになる。

 「つて」のきたる時には、兎角、船を竪(たて)にして受(うく)るやうにする事也。

 其波の過(すぎ)たる跡は、海上、甚、靜(しづか)にして、何の障(さはり)もなく、渡海せらるゝ也。

 此日、殊に、天氣よく、晴(はれ)たれば、出船せし事なるに、如ㇾ此の、あやしき波に逢(あひ)たるは、いかなる事ともしれず。

 思ふに、天地の氣の凝(こり)たるが、息を吹出(ふきいだ)すやうなる時、有(ある)事成(なる)べし。

 川口は、殊に、洋中(わだなか)にもあらず、漸(やうやう)、岸を乘離(のりはなる)るほどの所にして、かやうの事あるは、海上の事、さらに、はかりがたき事多き事也。――

とぞ。

譚海 卷之六 松平土佐守殿東海道往來大井川かち渡りの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○松平土佐守殿、東海道往來、大井川をば、いつも、かち渡りにして、家人、供をする也。土佐守殿は駕籠にて、臺にのり越らるゝ。

 家人は皆、紅の衣裝を著て、かちにて、かごに引(ひき)そひ、わたる事也。

 前年、大井川、洪水にて、土佐守殿、川岸に逗留の節、

「川水、よほど落(おち)たる。」

よし、風聞に付(つき)、家人某、馬にて、大井川をわたり、向ひへ上りて、水の樣子を見分致(みわけいいたし)、又、馬に乘(のり)て、もとの所へ歸り、上(あが)りて、言上(ごんじやう)せしかば、皆人(みなひと)、川水の漲(みなぎ)る所を、馬にて、かく、往來せし事、達者のほどを感じけるに、土佐守殿、以の外、不興にて、しばらく、此家人、勘當(かんだう)有(あり)し、とぞ。

 夫(それ)は、

「川の口、いまだ明(あか)ざるに[やぶちゃん注:「川留め」が解除されていないのに。]、いかに馬術巧者なりとても、往來せし事、いかゞ也。且(かつ)は、自分の馬藝を衒(てら)ふに似て、をこがまし。」

とて、御叱り有(あり)し、と聞ゆ。

 すべて土州の家中は、馬を騎(の)る事を嗜(たしなみ)て、各(おのおの)、馬上達者也。

 土州の城は、海へ差出(さしいで)たる所なるに、其國にては、いつも、六月には、家中のもの、海へ馬に騎(のり)て打入(うちいり)、終日(ひねもす)遊びて納涼する事、常の業(わざ)也。

 かゝれば、大井川を、往來、洪水にわたしたるも、さるべき事也と、いへり。

[やぶちゃん注:「松平土佐守」これは、底本後注によって、土佐藩第十代藩主で、近代の政治家三条実美の外祖父であった山内豊策(やまうちとよかず)。藩主在任は寛政元(一七八九)年から文化五(一八〇八)年(隠居)までであるから、その閉区間での出来事となる。

「大井川かち渡り」ご存知とは思うが、当該ウィキによれば、江戸時代、大井川は架橋は、おろか、『渡し船も厳禁とされ、大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には』、『川札を買い、馬や人足を利用して』、『輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた』。『このため、大井川は東海道屈指の難所とされ、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」』『と詠われた』。『もちろん、これは難所・大井川を渡る苦労を表現した言葉である』とあった。駕籠を渡す様子は、同ウィキの葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「東海道金谷の不二」で偲ばれる。]

甲子夜話卷之八 19 御老中安藤對馬守、雅趣ある事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

8―19

 林子(りんし)、云(いふ)。

「辛未(しんび/かのとひつじ)歲(どし)、西上(さいじゃう)の時、江州の野路村(のぢむら)に至りたれば、道傍に、僅(わづか)ばかりの池の如きものあるを、嚮導者(きやうだうしや)、ゆび指(さし)て、

『これぞ、野路玉川(のぢたまがは)の遣蹟なり。』

と云。

 水畔に、萩、一、二株ありければ、

『何物ぞ。わざと、これを植(うゑ)けるにや。』

と思ひけるに、磐城平侯【安藤對馬守。其時、加判[やぶちゃん注:ここでは「老中」の別称。]、勤(つとめ)らる。】の、先年、上京の路次(ろし)、こゝに至りしとき、萩の無(なか)りければ、村長(むらをさ)に、

『この名所に萩を植ぬことやある。』

と申されしかば、それより、村長の植しなり。」

と云。

 微事(びじ)なれども、風流の話なり。

 この侯、京地巡見に、祇園町、通行(つうかう)のとき、左右の茶店にて、紅粉(こうふん)を粧(よそほ)ひたる少女の、世に云(いふ)「祇園豆腐」を拍子をして切るを、駕籠を駐(と)めて、ゆるゆる、觀られし、となり。

 例(ためし)、老職の、かゝることせられしこと、無りしが、其地の名物と云へば、かくあるも、

「中々、得體(えたい)なり。」[やぶちゃん注:「なかなかに、その自然な御心(みこころ)の判るお方だ。」の意であろう。]

と、人々、評しけり。

 常に、淨瑠璃を好み、間暇(かんか)のときは、奥女中に、三線(さんせん)、ひかせて、聞く計(ばかり)にて、遂に三線を手にとりたることも無く、戲‘たはむれ)にも、その文句など、謠(うた)はれしことは、無(なか)りし、となり。

 又、古畫(こぐわ)を好み、よき畫(ゑ)を購求(こうきう)すれば、畫工に毫髮(がうはつ)も[やぶちゃん注:「毫毛」に同じ。少しも。]違(たが)はぬやうに寫させて、

「都下は、火變(くわへん)、多し。」

とて、眞物(しんもつ)は封地へ送り、摸本(もほん)を留め置き、日々に引(ひき)かへ掛けて詠(なが)めし、となり。

 此侯、溫厚和平にて、赫々(かくかく)の功業もなけれども、すべて此頃の人は、さしたる節(せつ)ならねども、見所(みどころ)は、ありけり。

■やぶちゃんの呟き

「老中安藤對馬守」美濃国加納藩第三代藩主・陸奥国磐城平藩初代藩主にして、寺社奉行・若年寄・老中を歴任した安藤信成。官位は従四位下・対馬守。侍従。対馬守系安藤家六代当主であった。老中在職は寛政五(一七九三)年八月二十四日から、没した文化七(一八一〇)年五月十四日まで。享年六十八。

「林子」お馴染みのお友達、林述斎。

「辛未歲」文化八(一八一一)年。

「江州の野路村」滋賀県草津市野路(のじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「野路玉川の遣蹟」歌枕。現在、ここに「野路玉川古跡」として伝えられてある。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~歌枕★探訪~」の「野路の玉川(滋賀県草津市)」に簡単な解説と、小さな公園のように整備された現在の様子を見ることが出来る。

「祇園豆腐」当該ウィキによれば、『江戸時代、京都の八坂神社(祇園神社)門前の』二『軒の茶屋で売られた田楽豆腐の料理である』。『祇園神社の楼門の前、東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された。これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名された。各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった』。『豆腐を薄く平たく切り』、二『本の串を刺し、火にかけて表裏両面を少し焼き、味噌たれで煮て、上に麩粉を点じたものである。花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある』とあった。私も京都の料亭で食したことがある。

甲子夜話卷之八 18 高倉宰相家傳唐櫃のこと幷圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-18 高倉宰相家傳唐櫃(からびつ)のこと幷(ならびに)

 予、去年、衣紋のことにて、高倉家に入門したり。

 今春、官家の御用にて、宰相殿、出府せられしかば、その旅館に往(ゆき)て逢ふ。

 居間の側(かたはら)に、大(おほき)なる櫃(ひつ)あり。

 紺地、大和錦の覆(おほひ)を、かけたり。

 予、これを問(とひ)ければ、

「こは、豐臣太閤のとき、某(それがし)が祖先、往來せしに、裝束を入れし唐櫃なり。これ、乃(すなはち)、當時の物なり。」

と云(いは)れしかば、近寄(ちかより)て、細視(さいし)せしに、尋常の唐櫃よりは、大きく、桐紋を蒔繪(まきゑ)にしたり。其大さなど、大抵、覺えしを、下に圖したり。

 白布(しらぬの)の緖(を)は、櫃を結び、棒、以て、かつぐ料(れう)。今、旅行には、「わく」を構へ、武家の具足櫃(ぎそくびつ)の如くして、持(もた)せらるなど、云はれし。

 面白き古物(こぶつ)なり。

 

Hitu

 

[やぶちゃん注:キャプションは、左上の箱の底の受け箱の左上に、

「中ノ底ハ

 格子ナリ」

右の隅の脇に、

「此所フチアリ」

右の底の脇に、

「此所和忘レタリ」

とあるので、図では素板であるが、何か細工が施されたあったのかも知れない。

手前の角のやや左寄りに、

此所ニ如此スカシアリ

とある。「丸菱」様の抜き型を指す。

櫃本体の左上部外に、

「三尺二三寸ホド」

とあり、以下、時計回りに、

「二尺九寸バカリ」

「此処高サ足迠二尺一寸余」

「緒コノ

  アタリニ

  タグリテ

   見エタリ」

手前上部に、

「此所ニモ

 金具に桐ノ紋アリタリ」

とある(この「桐ノ紋」を拡大して描いたのが、左下の図。次のキャプション参照)。

櫃の手前下部に、

「金具」

左端に櫃の上部左に、

「此辺アリタルカ忘レタリ」

同下方に、

「此紋後ニ出セル桐ノ紋

ナリ其外マ見エザリシ

 故覺エズ」

である。なお、この形の桐紋は、「五七桐」を全体的にデフォルメして、輪郭のみで描いたもので、豊臣筆吉が使用した一つとして知られ、特に「太閤桐」と呼ばれるものである。]

 

■やぶちゃんの呟き

「高倉宰相家」藤原北家藤原長良の子孫にあたる従二位参議高倉永季を祖とする公家。高倉の家名は、邸宅が京都の高倉にあったことによる。代々、朝廷の装束を担当し、「衣紋道」を家職とした。参照した当該ウィキによれば、家紋は「笹竜胆」で、主な本拠地は、現在の京都市左京区永観堂町(グーグル・マップ・データ)であったとする。

2024/01/28

甲子夜話卷之八 17 佐竹氏の墳墓

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-17

 橋場、總泉寺の佐竹氏の墳墓を見るに、兆域(てうゐき)[やぶちゃん注:墓所。]の外總門(そとさうもん)ありて、其内に、代々の墓あり。

 皆、土を封じて、墳とし、高(たかさ)四尺計(ばかり)、長(ながさ)九尺に過ぐ。

 周りに、石を疊(たた)み、其上に、芝を植ゆ。

 墳の前面に墓表を竪(た)つ。形、尋常のごとし。趺石(だいいし)も、常に、異ならず。

 面(おもて)に其法號を刻す。

 先塋(せんえい)[やぶちゃん注:先祖代々の墓。]、みな、かくの如くにして、相列(あひれつ)す。

 因(よつ)て、寺僧に、其(その)棺制(くわんせい)を問へば、

「臥棺(ぐわかん)なり。」

と云(いふ)。

 又、土に入(いる)るの深淺を問へば、

「殊に、深し。」

と答ふ。

 是、佐竹氏の葬(さう)は唐山(たうざん)の禮に據(よ)るか。

 又、吾古(がこ)の令に因りたるか。

■やぶちゃんの呟き

「佐竹氏」秋田藩佐竹氏。以下の「總泉寺」が江戸での菩提寺であった。

「橋場、總泉寺」東京都台東区橋場一丁目附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、現在は移転している。個人サイト「東京探索日誌」の「橋場―総泉寺の跡」が、恐ろしく詳しいので、参照されたいが、そこに『総泉寺は、愛宕の青松寺・高輪の泉岳寺とともに、江戸における曹洞宗を代表する寺院であった(『江戸名所図会』など)。橋場の西側半分を占める広い寺域だったようだ。しかし』、『関東大震災で全壊し、板橋区の小豆沢』(あずさわ)『に移転』したとある。ここ

「吾古の令」「自身の家系の古くからの仕来たり」の意か。

甲子夜話卷之八 16 沙茶碗といふものゝの圖

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 図は底本の『東洋文庫』版からOCRで読み込み、トリミング補正した。]

 

8-16

 「沙茶碗(すなぢやわん)」と云(いひ)て、越後國、寺泊と云(いふ)處の海底より、出(いづ)。

 形、圖の如し。

 

Sunajyawan

 

 大(おほい)さ、徑(わたり)四寸ばかり、かう臺(だい)、高さ五步、底に、孔あり、三步にたらず。沙をかためて、其うすきこと、五厘にたらず。

「これを得(うる)には、海底に潛入(もぐりいり)て取る。」

と云ふ。

 造化自然の器(うつは)なり。

 されど、體質(たいしつ)、もと、沙なれば、輭(やはらか)にして、損じ易し。享和改元の頃、或人、もち來(きたり)て、予に示す。

 又、佐渡國(さどのくに)にも、此物、ありて、形、小(ちいさ)し。

「『うにの巢』と云ふ。」

と。

 しかれば、海膽(うに)のするところか。

 奇品なり。

■やぶちゃんの呟き

 これは「砂茶碗」(すなじゃわん)で、静山の言うようなウニの形成するものではなく、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビガイ下目タマガイ上科タマガイ科 Naticidae に属する巻貝のタマガイ類の卵囊(らんのう)である。本邦の砂浜海岸で、潜水せずとも、容易に見かけるそれは、概ね、タマガイ科ツメタガイ属ツメタガイ亜種ツメタガイ Glossaulax didyma のそれである。当該ウィキの、この画像を参照されたい。タマガイ科の、その形成機序については、サイト「カラパイア」の「浜辺に砂でできた謎の円盤状の物体が!海岸版ミステリーサークルの正体は?」が詳しく、画像も多いので、是非、見られたい。……ああ! もう十二年以上、ビーチ・コーミングもしていないなぁ…………

甲子夜話卷之八 15 養老瀧の景勝

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 本篇は前の「甲子夜話卷之八 13 養老酒の事」の関連続篇である。漢文部の訓点不全はママ。]

 

 前の「養老酒」の條に、その瀧のことを引(ひき)たるが、後(のち)に、親(したし)く彼(かの)處に往(ゆき)たる人に、其地のありさまを聞(きく)に、

「まづ、この瀧の處に到るには、兩山の間、左右、大石(だいせき)、群立(ぐんりつ)し、谿水(たにみづ)、曲流の道を、數町、入りて、飛泉の處なり。

 瀑水、絕壁を直下すること、十四丈[やぶちゃん注:四十二・四二メートル。]、幅は二間[やぶちゃん注:三・六四メートル。]ほども有(あら)ん。

 信(まこと)に素練(すねり)を曳(ひく)が如し。

 また、其降流の下、所謂、瀧つぼまで行(ゆき)て觀らるゝなり。

 濆沫(ふんまつ)、四方に散じて、霏雪(ひせつ)[やぶちゃん注:絶え間なく降る雪。]とひとしく、其聲、轟雷(がうらい)の如く、數町に聞ふ。」

と。

「又、其瀧の、四、五町、こなたの丘陵に、一社あり。

『天神を祀る。』

と云(いふ)。この社地の中に、泉あり。「菊水の井」と云(いふ)。然(しかれ)ども、人力にて穿(うがち)たる井(ゐ)にあらずして、天然の淸泉に、四邊に石をたゝみたるなり。方二間もあるべし。

『此泉、古(いにしへ)の「養老泉」なり。』

と云(いふ)と也。

 近年、建(たて)たる碑、其泉の傍(かたはら)に在り。

 土人も、かくすれば、「瀧」と「泉」と違(たが)へるにや。

 「續紀」の文に『美泉。』とありて、「飛泉」となければ、此泉なるも、知るべからず。然ども、『多度山(たどさん)の美泉を覽(みる)。』とあれば、山上より落(おつ)る水と聞(きこ)ゆ。かの社地の泉(いづみ)は、山上に非ざれば、又、不審なり。

 又、『就而飮-。』とあり、『令シテ美濃醴泉。』などあれば、かの「菊水の井」なるや。

 愚意には、「菊水の井」は「掬水」を訛(なま)り、「泉」の語を略して「井」とのみ言傳(いひつたへ)し歟。其碑文を左に錄す。これは「瀧」と「泉」と兩處を合せ言(いふ)とも覺ゆ。尙、人の考を挨(まつ)のみ。」

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]

  濃州養老泉碑銘   備藩侍讀近藤篤識

元正御極、王道平々、問疾苦、閔ㇾ物ㇾ天。當耆之郡、多度之山、天降嘉瑞、地出奇泉。淸潔可ㇾ食、養而不ㇾ窮。人受其福。王明之功、一飮一浴、不ㇾ老不ㇾ死。衰耄再、※癃可ㇾ起。有ㇾ本如ㇾ是。萬古混々、君子。鑑戒堪タリㇾ存ルニ。陵谷變遷。湮晦是懼。於ㇾ是ㇾ碑、以識ルス其所

 乾隆五十年歲乙巳正月吉旦 吳超程赤城書

[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に「罷」。]

■やぶちゃんの呟き

 どこまでが、「親く彼處に往たる人」の言であるかが、判然としない。林述斎の引用などでは、その直接話法だけの場合も、ないことはないが、私は、静山の記述方法では、通常は、自身の感想や意見を添えるのが、普通であるので、私は、当初、「愚意」以下の漢文前の箇所のみを、静山の考えたこととしようとしたのだが、静山が自分の意見を「愚意」と謙遜表現したものを、今までは、一度も見たことがない。近藤篤(後注参照)の作った漢文の前に、それを挟むというのも、どうも受け難かった。従って、以上は、最後まで、この「親く彼處に往たる人」の見解とすべきであると断じた。

「こなたの丘陵に、一社あり」「天神を祀る」「と云」「菊水霊泉」の東直近にある養老神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。ここの祭神には菅原道真が含まれてある。この境内に、本来の「菊水泉」が別にある。

「濃州養老泉碑銘」を以下で訓読する(但し、静山の振った訓点には必ずしも捉われなかった)が、この「備藩侍讀近藤篤」とは、儒者で備前岡山藩の藩校教授を勤めた近藤西涯(せいがい 享保八(一七二三)年~文化四(一八〇七)年)の本名。河口静斎に朱子学を、文雄(もんのう)に音韻学を学び、詩もよくした。古学派が有力な同藩内で、果敢に朱子学を唱えた。享年八十五歳。著作に「韻鏡発蘊」・「西涯館詩集」などがある(講談社「デジタル版日本人名大辞典+Plus」に拠った)。本篇が書かれた文政五(一八二一)年は、亡くなって十四年が経っている。而して、この近藤が記した「養老の泉碑銘」は養老の霊泉のどこかに、まだ、残っているはずであると私は考えている(グーグル・マップのサイド・パネルで幾つかの場所を探してみたが、見当たらなかったのは残念である。ご存知の方はご一報あれ!)。何故なら、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の、三浦千春著「美濃竒觀」の「下」巻のここに、『〇養老山碑七基あり』とあって、その『養老泉碑銘』の第一に、『備藩侍讀』『近藤篤 識』とあって、ここには、以上の碑文の全文が載るからである。さらに、「ヤフオク!」のここに、「中国古拓本 備藩侍讀近藤篤 呉超 程赤城 乾隆五十年 麋城 煙漁老屋」(中国古拓本はママ。お笑いである)として、この石碑を拓本したものが、売りに出されてあるからでもある。因みに、漢文の本文を読んで、「乾隆」云々とあるのを不審に思った方も多かろうが、そこには最後に、『乾隆五十年ハ我天明五年』(西暦一七八五年)『なり。程赤城ハ浙江の乍浦といふ所の人にてそのころ年々長崎へ耒』(きた)『る商沽』(商人)『なりきを西遊旅談に見えたり』とあることで、氷解する。恐らく、書道をよくした人物なのであろう。

   *

 「濃州養老の泉」碑銘   備藩の侍讀(じどく)近藤篤(とく)識(しき)す

元正の御極(おほんきわみ)、王道、平々、民の疾苦(しつく)を問ひ、物を閔(あはれ)み、天に則(のつと)る。當耆(たき)の郡(こほり)、多度の山、天(てん)、嘉瑞(かずい)を降らし、地、奇(くす)しき泉を出だす。淸潔にして、食(く)ふべく、養ひて、窮(きは)まらず。人、其の福を受く。王明(わうめい)の功、一飮一浴、老(お)いせず、死せず。衰耄(すいもう)、再び盛んに、※癃、起こすべし。本(もと)に有りて、是(かく)のごとし。萬古(ばんこ)混々(このこん)、君子は、是れ、取るなり。鑑戒(かんかい)、存(ぞん)ずるに堪(た)へたり。陵谷(りやうこく)は變遷す。湮晦(いんくわい)、是れ、懼(おそ)る。是れに於いて、碑を建て、以つて、其の所を識(し)るす。

 乾隆五十年の歲(とし)の次り[やぶちゃん注:静山の送りがなに従うが、読みも意味不明。]乙巳(いつし/きのとみ)正月の吉旦 吳超の程赤城(ていせきじやう)書(しよ)す

   *

・「元正」元正(げんしょう)天皇(在位:霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年)。女帝。

・「當耆の郡」養老郡養老町が含まれた旧多芸郡(たぎぐん)の上古の呼称。

・「※癃」(「※」=「疒」の中に「罷」)で、所持する「廣漢和辭典」にも載らず、読みどころか、意味も判らない。但し、「癃」は「背中が盛り上がって曲がる病」の意ではあるから、二字で老人性の骨壊死や骨変形症の類いであろう。読みは一応、「ひりゆう(ひりゅう)」としておく。

・「鑑戒」「戒めとすべき手本。

・「混々」尽きることがなくして。

・「湮晦」「堙晦」とも書く。「湮」は「隠れる」、「晦」は「暗い」の意で、「うずもれ、隠れること・姿や才能をくらますこと」の意。ここは「死」の意か。

甲子夜話卷之八 14 駱駝來る事幷圖 + フライング 甲子夜話卷之九 24 兩國橋畔にて駱駝の造物を見する事 + フライング 甲子夜話卷之五十六 17 上古駱駝來

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 今回は、後に出る駱駝話二話をフライングで電子化し、都合、三話を合せておいた。前の二話の挿絵は底本の『東洋文庫』版のそれをOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]

 

8―14 駱駝(らくだ)來(きた)る事幷(ならびに)

 去年、蘭舶(らんぱく)、駱駝を載(のせ)て、崎[やぶちゃん注:長崎]に來(きたる)る。

 夫(それ)より、

「此獸(けもの)、東都に來(きた)るべしや。」

など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず。

 先年、某侯の邸(やしき)に集會せしとき、畫工某(なにがし)、その圖を、予に示す。

 今、舊紙の中より見出したれば、左にしるす。

 

Rakida1

 

 圖に小記を添(そへ)て曰(いはく)、

「享和三癸亥(みづのとゐ)七月、長崎沖へ、渡來のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乘組の船、積乘(つみの)せ候馬の圖なり。前足は三節のよし、爪(つめ)迄は、毛の内になり。『高さ、九尺、長さ、三間。』と云(いふ)。その船、交易を請(うけ)たるが、『禁制の國なれば。』とて、允(ゆる)されずして、還(かへ)されけり。」

 これ、正しく「駱駝」なるべし。此度(このたび)にて、再度の渡來なり。

■やぶちゃんの呟き

 駱駝の来日は、「アドミュージアム東京」の『第3回「駱駝(らくだ)が江戸にやって来た!」』という記事がよい。この図から、これは哺乳綱鯨偶蹄目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus bactrianu であることが判る。同種の野生個体は中国北西部とモンゴルにのみ分布する。紀元前二〇〇〇年頃には既に家畜化されていたとされる。敦煌に旅行した際に乗ったが、どうもラクダと私は性が合わない感じだった。

「去年」文政四(一八二一)年。来日は六月。但し、この時来たのは、前記リンク先によれば、これは『アラビア産の』ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius(同種は北アフリカと西アジア、及び、「アフリカの角」と呼ばれる地域、則ち、スーダン・エチオピア・ソマリアに分布していた。但し、既に、それらの原生地においての野生個体群は、残念ながら、消滅している)で、静山は、「此獸、東都に來るべしや。」「など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず」とあるが、実際には、このラクダ、時を経て、江戸に来ている。『牡と牝のつがいで長崎港に渡来し』、『長崎を振り出しに、九州、四国、和歌山、大坂、京都と各地を巡業しながら、木曽街道を経て』、『江戸に着いたのが』、三『年後のことで』あったからである。『らくだは牡』八『歳、牝』『歳とされ、見世物興行始まって以来の珍獣はいたるところでもてはやされ』、『道中も終始一緒で』、『仲睦まじく、見物するだけで夫婦和合のご利益もあるとされ』たとあり、『川添裕氏の著書』「江戸の見世物」(岩波新書)』(私も所持する)『によると、「ラクダの両国広小路での入場料は』一人三十二文『と高価であったが、日に』五千『人を超えることもあった。日延べを繰り返し、ついには』、『半年以上の超ロングラン』となり、『空前の巨大興行収入は』実に二『千両にもなった。見世物小屋の周辺で売られた品々も錦絵はじめラクダグッズも多彩だった」とあり』、『その人気ぶりは』、『流行り歌にまでなっ』た。その「ラクダ節」が紹介されており、『♪今度遠つ国からお江戸へはるばる夫婦で下りイ、あの両国で大根喰っちゃ遊んでまた、こいつア又、らくだろう♪』とある。

「享和三癸亥七月」グレゴリオ暦では旧暦七月(大の月)は一八〇三年八月十七日から九月十五日まで。

「高さ、九尺」約二・七三メートル。フタコブラクダでは、瘤までの体高は一・九〇から二・五〇メートルとされるので、大型の方である。

「長さ三間」五・四五メートル。これは、何らかの誤伝か、単位換算の誤りで、長過ぎる。通常、同種の体長は二・二〇から三・五〇センチメートルである。

 

   *

 

9-24 兩國橋畔にて駱駝の造物(つくりもの)を見する事

 この三月、兩國橋を渡(わたら)んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに、看版を出(いだ)す。

 駱駝の貌(かほ)なり。

 又、板刻(はんこく)して、其狀(そのかたち)を刷印(すりいん)して、賣る。曰(いはく)、

「亞剌比亞國(あらびあこく)中(うち)、墨加(めか)之產にして、丈(たけ)九尺五寸、長さ一丈五尺、足、三つに折るゝ。」

 予、乃(すなはち)、人をもて、問(とは)しむるに、答ふ。

「これは、去年(こぞ)、長崎に渡來の駱駝の體(てい)にして、眞物(しんもつ)は、やがて、御當地に來(きた)るなり。」

と言(いひ)たり。

 因(よつ)て、明日(みやうにち)、人を遣(つかは)し、視(み)せ使(し)むるに、作り物にて有(あり)けるが、その狀(かたち)を圖して歸る。

 

Rakida2

 

[やぶちゃん注:キャプションがあり、右臀部の上方に、

『總』(さう)『乄』(して=じて)『毛』

『薄赤』

とあり、頭頸部の後ろに、指示線を添えて、

『此処』

  『白毛』

とし、左下方の頸部の中央やや上に指示線を添えて、

『此アタリ黃毛』

とある。

 以下は、底本では全体が一字下げ。]

 圖を視(みる)に、恐(おそら)くは、眞(しん)を摸(も)して造るもの、ならじ。「漢書(かんじよ)」、「西域傳」の師古の註に所ㇾ云(いふところ)は、

『脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。』

 然るに、この駝(だ)、形には、「肉鞍隆高」の體(てい)もなく、その形も、板刻の所ㇾ云(いふところ)と合はず。前册に駝のことを云しが、それ、是ならん。

■やぶちゃんの呟き

 ここで静山は不審を漏らすが、フタコブラクダとヒトコブラクダの二種がいることを知らないのだから、仕方がない。

「三月」文政五年三月。グレゴリオ暦一八二二年四月二十二日から五月二十日相当。

「墨加」サウジアラビアにあるイスラム教の生地メッカ。

「丈九尺五寸」二・八七メートル。ヒトコブラクダの成獣の肩高は、一・八〇から二・四〇メートルであるから、やや高めの謂いである。

「長さ一丈五尺」四・五五メートル。ヒトコブラクダの成獣の体長三・五〇メートルであるから、これはドンブリで長過ぎる。まあ、客寄せにはありがちな誇大広告である。

「足、三つに折るゝ」股関節と膝関節及び踝の関節を折りたたむと、かく表現するのは、違和感はない。

『「西域傳」の師古の註』これは「漢書」(後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。全百巻。最終成立は紀元後八二年)の「西域傳」で、唐の訓詁学者で「漢書」学者でもあった顔師古(五八一年~六四五年)による優れた注を指す。

「脊上肉鞍隆高若封土。俗呼封牛。或曰。駝狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有蒼褐黃紫數色。」(訓点不全はママ)自然流で訓読を試みる。

   ※

脊(せ)の上(うへ)、肉、鞍(くら)のごとく、隆(たか)くして、高きこと、封(ふう)ぜる土(つち)のごとし。俗に「封牛(ふうぎう)」と呼ぶ。或いは曰はく、「駝(だ)の狀(かたち)、馬に似て、頭(かしら)、羊に似たり。長き項(うなじ)、垂れ耳(みみ)にして、蒼(あを)・褐(かつ)・黃(わう)・紫(むらさき)の數色(すしよく)、有り。

   ※

「垂れ耳」というのは、砂嵐に耐えられるように、睫毛や耳の中の毛が発達していることから、見かけ上そう見えたのであろう。実際には、ヒトコブラクダもフタコブラクダも「垂れ耳」ではない。

 

   *

 

56―17 上古駱駝來(きたる)

 前に駱駝の來れることを云(いひ)き。

 今は、都下の口實(こうじつ)とせり。

 享和には、人、不ㇾ見(みず)。この度(たび)は、普(あまね)く見て、

「珍(めづら)し。」

とす。

 然(しかる)に、このほど、燕席[やぶちゃん注:「宴会の席・酒宴の席」の意の一般名詞。]にて、或人、云ふ。

「上古、この獸(けもの)、吾邦に來(きた)ること、あり。」

と。

 因(よつ)て、「國史」を閱(えつす)るに、云(いは)く、

『推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。』

と見ゆ。至ㇾ今(いまにいたるに)、一千二百二十六年なれば、世人、珍とするも、尤(もつとも)なり。

 又、「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり。

■やぶちゃんの呟き

「口實」よく口にする言葉。かのヒトコブラクダの興行は、それほど、人気を博したのである。

「享和」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日に改元し、享和四年二月十一日(グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日)に「文化」に改元。その後が「文政」。

「推古天皇七年秋九月癸亥朔、百濟貢駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻。」「日本書紀」の記載。以下に訓読する。

   ※

推古天皇の七年、秋九月癸亥(みづのとゐ)朔(ついたち)、百濟(くだら)、駱駝(らくだ)一疋、驢(うさぎうま)一疋、羊二頭、白雉(しらきぎす)二隻(さう)を、貢(みつぎ)す。

   ※

この内、「駱駝」は中国経由で入手したフタコブラクダと思われる。「驢(うさぎうま)」は哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ亜種ロバ Equus africanus asinus である。これが、驢馬(ロバ)の最古の来日記録とされている。「白雉」は鳥綱キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノと推定される。

「推古天皇の七年」ユリウス暦五九九年。

「至ㇾ今、一千二百二十六年」機械計算では、数えで文政七(一八二五)年相当。

『「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり』「和名鈔」は「和名類聚鈔(「抄」ともする)」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。その、「卷十一」の国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚鈔」全二十巻の「第十一卷」から「第二十卷」(正宗敦夫編纂校訂・一九五四年風間書房刊)のここに(訓読し、読み・記号・句読点を推定で打った)、

   ※

駱駞(らくだ) 「本草」に云はく、『駱駞【「洛」・「陁」の二音。「良久太乃宇末(らくだのうま)」。】「周書」に云はく、「𩧐駝(らくだ)【「駝」は、即ち、「駞」の字なり。「𩧐」の音は「卓」。亦(また)、「駞」に作る。は、即ち、「駱駞」なり。】、肉の鞍(くら)有りて、能く重きを負ひて、遠くへ致す者なり。

   *

とあった。

2024/01/27

甲子夜話卷之八 13 養老酒の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。「續日本紀」の不全・不審の訓点は総てママである。

 

 久(ひさし)く懇(ねんごろ)しける某(なにがし)なるもの、酒一器を携來(たづさへきたり)て、贈る。予、視るに、

「養老麓高田 養老酒 酒家八十郞造」

と題す。

 某、云ふ。

「大垣の戶田侯に、しるべありて、此頃、濃州より取寄(とりよせ)たり。『養老の瀧水』にて釀(かもし)たるなり。」

と。

 予、試飮(こころみの)むに、醇酒なり。

 某、又、曰(いはく)、

「養老瀧は、數丈(すじやう)直下の流(ながれ)にして、其冷なること、寒氷(かんひやう)の如し。高田は地名、酒家(しゆか)は彼(かの)瀧の邊(ほとり)にあり。」

と。

 今、都下に「養老酒」と稱するものは、似もせざる麁品(そひん)なり。

 「續日本紀」「元正紀」、養老元年九月丁未、天皇行-幸ス美濃國。丙辰當耆多度山美泉。十一月癸丑、天皇臨ㇾ軒詔シテ。朕以今年九月、到美濃不破行宮、留連スルコト數日。因當耆郡多度美泉、自フニ手面皮膚如ㇾ滑ルガ。亦洗フニ痛處ㇾ不除愈。在朕之躬其驗アリ。又就而飮-スル者、或白髮反ㇾ黑、或頽髮更、或闇目如シトㇾ明ナルガ。自餘痼疾皆平愈。符瑞書曰。醴泉者美泉ナリ。可以テ養一ㇾ。蓋水之精ナレバ也。寔ルニ美泉卽合ヘリ大瑞。朕雖ㇾ痛ㇾ虛天貺。可天下。改靈龜三年養老元年。十二月丁亥、令シテム下二美濃國、立春シテ醴泉而貢於京都、爲醴酒也。

 これ、養老の瀧水を以て、釀する權輿(こんよ)とすべし。

■やぶちゃんの呟き

「大垣の戶田侯」信濃松本藩第七代藩主にして戸田松平家第十二代当主松平光年(みつつら)である。

「養老麓高田」現在の岐阜県養老郡養老町(ようろうちょう)高田(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「養老の瀧水」岐阜県養老郡養老町養老公園にある名水「菊水泉」の水。上流に「養老の滝」がある。

「續日本紀」の訓読を試みる。訓点は不全・不審なので、必ずしも従っていない箇所もある。なお、参考に国立国会図書館デジタルコレクションの『國文六國史』第三の「續日本紀」(武田祐吉・今泉忠義編/昭和九(一九三四)年大岡山書店刊)の当該箇所を参考にした。途中を飛ばしてあるので、そこは、概ね、改行したが、静山の底本とは異なる者の可能性もあり、表現上、それが出来なかった箇所も多い。

   *

 「續日本紀(しよくにほんぎ)」の「元正紀(げんしやうき)」に、

養老元年九月丁未(ひのとひつじ)、天皇(てんわう)、美濃國(みねのくに)に行幸(みゆき)す。

丙辰(ひのえたつ)、當耆(たぎ)の郡(こほり)の多度山(たどやま)の美泉に幸(みゆき)す。

十一月(しもつき)の癸丑(みづのとうし)に、天皇、軒臨(のぞみ)まして、詔(みことのり)して曰く、

「朕(われ)、今年(ことし)の九月(ながつき)を以(も)て、美濃國(みののくに)の不破(ふは)の行宮(かりみや)に到り、留連(とどまり)すること、數日(すにち)なりき。因りて、當耆の郡、多度の山の美泉を覽(み)て、自(みづか)ら、手と面(おも)とを盥(あら)ふに、皮膚(はだ)、滑(すべ)るがごとし。亦、痛き處(ところ)を洗ふに、除-愈(い)えずといふこと、無し。朕(わが)躬(み)に在りて、其の驗(しるし)あり。又、就(つ)きて、之れを飮み、浴(ゆあみ)するを、或いは、白髮、黑に反(かへ)り、或いは、頽髮(たいはつ)、更に生(しやう)じ、或いは、闇目(あむもく)明(あきらか)なるがごとし。自餘(じよ)の痼疾(こしつ)咸(ことごと)く、皆、平愈す。「符瑞書(ふずゐしよ)」に曰はく、『醴泉(らいせん)は美泉なり。以(も)て、老(おい)を養ふべし。』と。蓋(けだ)し、水(みづ)の精(しやう)なればなり。寔(まこと)に、惟(おもひみ)るに、美泉は、卽ち、大瑞(だいずゐ)に合へり。朕(われ)、痛(いた)むと雖(いへど)も、虛を、何ぞ天貺(てんきやう)に違(たが)はん。大(おほい)に天下(てんが)に赦(しや)すべし。靈龜(りやうき)三年を改めて、養老元年と爲(な)す。」

と。

十二月(すはす)丁亥(ひのとゐ)、美濃國に令(めい)じて、立春の曉(あかつき)に、醴泉(らいせん)を挹(くみ)して、京都に貢(かう)し、醴酒(らいしゆ)と爲(な)さしむなり。

   *

この「元正」元正(げんしょう)天皇(在位:霊亀元(七一五)年~養老八(七二四)年)は女帝である。

甲子夜話卷之八 12 細川氏、松平遠州、家紋を取かゆる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8―12

 肥後の支侯、細川能登守【利庸。】に、「櫻花」を家紋とすることを問(とひ)しに、

「こは、昔、松平遠江守が家紋と取替たり。」

と云(いふ)。

「其故(ゆゑ)、詳(つまびらか)ならざれども、彼(かの)家にも、其ことを傳ふ、と聞(きく)。」

と答(こたへ)き。

 又、此とき、話(かた)りしは、

「『九曜星』の紋は、豐臣秀吉の與(あづか)る所、『桐』の紋は、朝廷より賜り、『二引輛(ふたつひきりやう)』の紋は、足利公方より賜(たまはり)て、今、吾紋とするものは、皆、實(まこと)の家紋に、あらず。家紋は『松皮菱(まつかはびし)』なれど、今は還(かへつ)て、用ひず。然(しかれ)ども、古き兵器等には、たまたま、遺(のこ)るもの、あり。」

となり。

 すべて、家紋のこと、その出所を知(しら)ざること、多(おほき)者なれば、しるす。

■やぶちゃんの呟き

「細川氏」「肥後の支侯、細川能登守【利庸。】」肥後新田藩第六代藩主細川利庸(としつね 宝暦四(一七五四)年~文化二(一八〇五)年)。本執筆時は、既に没している。細川家の肥後細川家の家紋は「細川九曜」だが、細川京兆家のものは「松笠菱(細川向かい松)」である(ウィキの「細川氏」に画像有り)。ここでは「松皮菱」と言っているが、これはサイト「家紋のいろは」のこれで、全然、違うものであり、そこの「使用家」には「細川」は入っていない。されば、これは、利庸が誤った言ったか、静山の聞き違いである可能性が高いと私は考える。

「松平遠州」「松平遠江守」信濃国飯山藩第二代藩主・遠江国掛川藩主・摂津国尼崎藩主となった松平忠喬(ただたか 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のこと。桜井松平家第十代当主で、同家の家紋は「山桜」であった。

甲子夜話卷之八 11 國々氣候殊なる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8―11 國々氣候殊(こと)なる事

 大洲侯に邂逅(かいこう)せしとき、國々の寒暑の談に及び、我、平戶の氣候を、かたり、

「扨(さて)、豫州も、海、近ければ、夏も涼しかるべし。」

と言(いひ)しに、侯の臣、堀尾四郞次、其坐にありて、曰(い)ふ。

「曾て、しからず。暑(あつさ)、至(いたつ)て甚し。盛暑に至りては、途行(みちゆき)するに、炎氣、黃白色を、なし、空中に散流(さんりう)し、人目を遮り、前行(まへゆく)十步なる人は、殆ど、見へ分(わか)たず。其蒸熱(じやうねつ)、堪(たへ)がたし。加如ㇾ斯(かくのごとき)なれば、途行するもの、靑傘【涼傘(りやうさん)[やぶちゃん注:日傘。]也。靑傘は豫州の方言。】を用(もちひ)ざれば、凌(しのぎ)がたし。然るに、近頃、靑傘をさすこと、停止(ちやうじ)せられしかば、暑行(しよかう)、尤(もつとも)難儀なり。」

と語りぬ。

 國々によりて、暑氣の厚薄(こうはく)もある中に、豫州は、殊更に、甚しく異なること也。

■やぶちゃんの呟き

「大洲侯」伊予国大洲藩の第九代藩主加藤泰候(やすとき 宝暦一〇(一七六〇)年~天明七(一七八七)年)であろう。彼は静山と生年が同じである。過去形で記しており、昔の記憶で記したものととっておく。但し、第十代藩主加藤泰済(やすずみ)、或いは、第十一代藩主加藤泰幹の可能性もなくはない。実際に、同一人物かどうかは判らないが、泰幹の代の文政一一(一八二八)年の同藩の史料に、『堀尾四郞治』なる名を見出せるからである。

甲子夜話卷之八 10 權家への贈遺、古人は鄙劣ならざる事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-10 權家への贈遺(ざうい)、古人は鄙劣(ひれつ)ならざる事

 前人《ぜんじん》[やぶちゃん注:ここは「昔の人」の意でとっておく。]、又、云(いふ)。

「昔とても、權勢(けんせい)の人へは、贈遺もあれど、近來(ちかごろ)の如き鄙劣[やぶちゃん注:「卑劣」に同じ。]なることは、無きことなり。今、姬路の酒井家、もと、前橋を領して、大老、勤られしとき、仙臺より、大筒二十挺(ちやう)、贈りし。」

とぞ。

「一挺を、車一輛に載る重さなりし。」

となり。

「今、その筒、江戶と姬路に、半(なかば)づつ藏す、と聞く。その時、鍋島家よりは、伊萬里燒の鱠皿(なますざら)・燒物皿・菓子皿・猪口(ちよく)・小皿等、凡(およそ)、膳具に陶器にて用ゆべき程の物を、千人前にして、送りし。」

となり。

「只今、尋常の客に、掛合(かけあひ)の膳を供するとき、やはり、その陶器を用ゆ。多くは敗損せしが、三ケ一(さんがいち)は、尙、殘れり。」

となり。

「又、高崎侯の祖【諱、輝貞。松平右京大夫。】、元祿中、殊更、御眷注を被(こうむ)られしかば、人々の奔走もありしが、一日(いちじつ)、加賀侯、訪問にて、面話(めんわ)のとき、

『何ぞ進上と存ずれども、事缺(ことかく)るべきにも無(なけ)れば、空しく打過(うちすぎ)ぬ。「馬を好まれ候。」と承りぬれば、國製(くにのせい)の鐙(あぶみ)にても進じ候半歟(さふらはんか)。』

などゝの物語なりしかば、

『厚意、忝(かたじけ)き。』

の旨、挨拶、あり。

 加侯、歸邸の後(のち)、使者を以て、鐙、百掛、贈られけり。

『折角の厚情なれば。』

迚(とて)、厩に繫げる馬百疋に、鞍、置(おか)せ、其鐙を掛け、使者に付(つけ)て、卽時に、加邸へ牽(ひか)せ、

『此通り、用ひ、忝(かたじけなき)。』

旨(むね)の謝詞(しやし)ありし。」

となり。

 此頃の風儀は、信(まこと)に感じ入(いり)たる事、ならずや。贈る人も、受(うく)る人も、孰(いづ)れを、いづれとも、云(いひ)がたし。

■やぶちゃんの呟き

「贈遺」人に物を贈ること。

甲子夜話卷之八 9 飯田侯【堀大和守。】、憲廟拜領の御麻上下幷佐野肥後守が祖先の上下

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 なお、この前の「甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥雷獸の食物」で、既にフライング・カップリンング単発で公開してある。]

 

8-9 飯田侯【堀大和守。】、憲廟拜領の御麻上下(かみしも)幷(ならびに)佐野肥後守が祖先の上下

 林子、云ふ。

「飯田侯堀大和守が家に、憲廟より、拜賜の御麻上下あり。曩日(なうじつ)[やぶちゃん注:昔。]、請(こひ)て拜瞻(はいせん)せしに、肩の巾(はば)は、至(いたつ)て狹く、袴腰(はかまごし)の木を、一幅の麻にて包み、腰ぎはより、幾重も捻(ねぢ)りて、其先(そのさき)、左右を、細く疊みて、紐とせり。

 後、佐野肥後守に話せば、

『その祖先、伏見討死(うちじに)より、三代目に當れる人の着せし上下を藏せるが、その製、同じこと。』

と、なり。さすれば、昔は尊卑とも、皆、如ㇾ此(かくのごとき)製なりと、見ゆ。」

「捻りたる所、見苦し。」

など云(いふ)より、今の形に變りたるなるべし。

■やぶちゃんの呟き

「飯田侯【堀大和守。】信濃飯田藩第十代藩主にして、「伺い譜代」として幕閣に連なり、老中にまで登りつめた堀親寚(ちかしげ 天明六(一七八六)年~嘉永元(一八四九)年)。当該ウィキを参照されたい。

「憲廟」第四代将軍徳川家綱。

「袴腰の木」。袴の後ろの腰にあたる部分を「袴腰」と呼び、男子用のものでは、中に長方形で上の削げた厚紙、或いは、薄い木の板を入れて仕立てる。

「拜瞻」謹んで見せていただくこと。

「佐野肥後守」旗本佐野康貞なる人物と思われる。「甲子夜話卷之二 11 佐野肥後守發句の事」に登場している。

甲子夜話卷之八 7 蜷川氏の家紋

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 なお、この前の「甲子夜話卷之八 6 或老侯、隅田川にて龍まきに逢ふ事」は、既にフライング単発で公開してある。]

 

8-7

 御側(おそば)を勤(つとむ)る蜷川相模守が長子、大和守【親常。】とて、新番頭(しんばんがしら)なるは、予、久(ひさし)く知人なり。

 此家は、足利將軍時代を經たる舊家なり。其家紋、

 

Gausihasi1

 

如ㇾ此(かくのごと)し。

 其物を審(つまびらか)にせざれば、一日(あるひ)、逢(あひ)しとき、問(とひ)けるに、

「合子箸(ガウシハシ)なり。」

と答(こたへ)たり。

 「合子」は今の「飯椀(めしわん)」なり。これに箸を添(そへ)たる象(かたち)なり。

 後(のち)に、古き諸家紋帳を見るに、

 

Gausihasi2

 

如ㇾ此、見えて、「合子箸、蜷河。」とありき。

■やぶちゃんの呟き

画像は、底本の『東洋文庫』版からOCRで取り込み、トリミング補正した。

「蜷川氏」当該ウィキを見られたいが、そこに、この「親常」の父親文について、寛政八(一七九六)年に『将軍継嗣であった徳川家慶附属の御側御用取次となり、順次加増を受けて』五千『石の大身旗本となった。親文以後も』、『幕府要職を歴任し、明治維新に至った』とあった。サイト「戦国大名研究」の「蜷川氏」に、ここで静山が示した二種の家紋が載り、詳しい蜷川氏の先祖からの前史が詳しい。

譚海 卷之六 三州瀧山淸涼院年始鏡餅獻上の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前の二篇、

「譚海 卷之六 長州にて石を焚薪にかふる事 附四國弘法大師利生の事」

及び

「譚海 卷之六 武州越ケ谷金剛寺二犬の事」

は、既にフライング公開してある。]

 

○三河國、瀧山淸凉院(さうざんせいりやうゐん)といふに、東照宮御靈屋(みたまや)、有(あり)。

 それへ、關東より、每年始(はじめ)、鏡餅を猷ぜらるゝ事、恆例也。

 いつも、師走十七日、白米を折櫃(おりびつ)に入(いれ)、御賄(おんまかない)の役人、付(つき)そひて、東海道を出立(いでたち)、三州へ持參致し、淸凉院の瀧にて、此白米を、かしぎ、寺僧、鏡餅に調(ちやう)じて年始に備へ、十七日迄ありて、十八日に、右の鏡餠を撤(てつ)し、又、折槪櫃に納(いれ)て、役人、警固して、江戶へ送り奉るを、關東にて御頂戴ある事也。

「彼(かの)寺に、瀧、有(ある)故、『瀧山』といへる。」

よしを、物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「三河國、瀧山淸凉院といふに、東照宮、御靈屋、有」底本の後注に、『愛知県額田郡旧常磐村の滝山寺(そうざんじ)。天台の寺院で、徳川家康の信仰厚く、その霊祠がある。寛永年中重修して、天台別院とした』とある。現在は合併変更で、愛知県岡崎市滝町(たきちょう)山籠(やまごもり)になった。瀧山寺はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、同寺の北東直近に滝山(たきさん)東照宮がある。

「折櫃」檜の薄板を折り曲げて作った容納具。全形は、四角形・六角形・円形・楕円形などさまざまで、檜の葉を敷いて、菓子・肴(さかな)などを盛り、四隅に作り花などを立てて、飾りとした。音変化で「をりうづ(おりうず)」とも呼ぶ。]

譚海 卷之六 三州萬歲留守居の事 附(つけたり)萬歲江戶年始諸侯人參上の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○三河國より萬歲に出る留守の間(あひだ)は、其身上(しんしやう)を賄(まかなひ)するもの、さだまりて、有(あり)。

 年々、まかなひをして、二月初(はじめ)、江戶より、萬歲、終りて後(のち)、その賄の料(れう)を、はじめ、諸(もろもろ)拂(はらひ)もする事也。

 それゆゑ、萬歲に出(いづ)るものの住居(すまひ)する村は、年貢も、每年二月、上納する事也。

 萬歲主領[やぶちゃん注:底本には「主」の補正傍注して、『首』とある。]、江戶の御城へ、まゐるものなどは、每年、乘掛馬(のりかけうま)にて出府する也。

 御城へ登り、萬歲、相濟(あひすみ)て、黃金二枚・米拾俵、賜はるよし也。

 其外、諸大名へ參る萬歲、夫々(それぞれ)に、其屋敷より、賜はるもの、年々、夥敷(おびただしき)事也。

 有馬侯などへ參る萬歲は、表門より、出入(でいり)す。表門に向ひて、つゞみをならせば、恆例にて、門番、門をひらき入(いる)る也。

 やがて、有馬殿、御逢被ㇾ成(なされ)、萬歲勤(つとむ)る事、相かはらず、年々、然(しか)り。

 萬歲の旅宿は、品川に有(あり)て、每日、江戶中にて、もらひ來る鏡餅を、萬歲、うりはらふ。それを、貫目にかけて、かふもの有(あり)。

 其邊に住居する貪窮なるものは、萬歲の餅を、かふて、正月中、くらふ事也。

[やぶちゃん注:「三州萬歲」愛知県の旧三河国地域であった安城市・西尾市・豊川市小坂井町・額田郡幸田町に伝わる伝統芸能。特に、伝承地名により、「別所万歳」(安城市)・「森下万歳」(西尾市)とも呼ばれる。両万歳については、参照したウィキの「三河萬歳」が詳しいので、見られたい。

「貫目にかけて、かふ」というのは、一貫目単位での意味ではなく、「地位や肩書などに拘って豪勢に買う」の意であろう。豊洲の本鮪初競りみたようなもんだろう。]

譚海 卷之六 藝州嚴島明神祭禮の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○安藝の城下、廣島より宮島の間、殊の外、難所にて、四十八坂あり。

 それゆゑ、西國の諸大名、參勤交代に陸を御越(おこし)あるも、おほかた、此間は、乘船して通行ある事也。

 又、宮島に、春・秋、二ケ度(にかど)の大市(おほいち)有(あり)。十日あまり、市、立(たつ)事にて、近國の人まで、こぞりてあつまる事にて、大坂よりも、「濱芝居」のもの、此市の内は、宮島へ行(ゆき)て、芝居をするほどの事也。

 殊の外、繁昌なる事也。

 宮島は、一切(いつさい)、田地なき所なれども、宮島の社家、千軒、寺、千軒、町屋、千軒あるが、此市にて、一年中の渡世になるほどの事也。

 嚴島明神の託宣に、

「もし、此市にて、宮島、渡世成(なり)がたくば、薪(たきぎ)千駄、萱(かや)千駄、あたふべし。それにても、事ゆかずば、田千反、畑千反、あたふべし。猶、それにて事たらずば、我山に朱砂あり。是を掘(ほり)とりて、渡世すべき。」

よし、の給ふ事と、いひ傳ふ。

「大かた、此市も、明神のはじめさせ給ふ事ゆゑ、にぎはひ、繁昌する事、比類なき事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「朱砂」水銀と硫黄とからなる鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出する。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料とされる。漢方では、消炎・鎮静薬などに用いる。「丹砂」「辰砂」とも呼ぶ。但し、厳島でそれが産出するという記事は、ネット上では確認出来なかった。]

譚海 卷之六 まむしを燒てくらふ事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○まむしを、とらへて、燒(やき)てくふに、殊外(ことのほか)、かうばしきもの也。

 まむしを燒(やく)にほひを、いたち、すくものと、しられて、ある人、野にて、まむしをとらへて、やきたるに、鼬(いたち)、夥敷(おびただしく)あつまりたるよしを、物がたりぬ。

[やぶちゃん注:「まむし」有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科 Crotalinae(ここにはハブ類が含まれる)マムシ属 Gloydius のマムシ類。本邦産種はマムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii と(但し、本種は中国・朝鮮半島にも棲息する)、一九九四年に対馬固有種の独立種として分割されたツシママムシ Gloydius tsusimaensisの二種のみであるが、中国にはマムシ属だけでも複数種が棲息する(中文ウィキの「亞洲蝮屬」(アジアマムシ属)を参照されたい)。また、「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇(はみ)」(マムシ)他の項も参考となるので見られたい。生憎、私はマムシをかくして食ったことはない。食ってみたい。

「いたち」「鼬」博物誌は私の「和漢三才図会巻第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」を見られたいが、そこにも「本草綱目」から引いて、『虺(まむし)を制す』と出る。]

譚海 卷之六 江戶中橋金丸藏人隱德の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○江戶、中橋[やぶちゃん注:底本に訂正傍注があり、「京橋」の誤りとする。]に、金丸藏人(くらうど)といふ浪人、有(あり)。

 諸事多藝なる人にて、殊に鑓(やり)の名人なれば、弟子あまたあり、八十四歲までありて、死(しし)たり。

 その子の某(なにがし)成(なる)人、又、篤實なる生質(たち)にて、殊に、人をあはれむ心、ふかくありしが、六十歲斗りの時、深川邊へ、一日(いちじつ)あそびありきたるに、途中にて、ふと、勢州桑名の人に行連(ゆきつ)れ、終日(ひねもす)、物語して、つれだちしに、某、桑名の人にいひけるは、

「今日(けふ)、しばらく同道いたし、終日、心安くかたらひ申(まふす)に付(つき)て、存寄(ぞんじより)たるに、そこ許(もと)は、何か、心中に苦勞せらるゝ事、あるやうに存(ぞんじ)られ、とかく、はなしの言語(ことば)のはしばしも、力なく、おもしろからぬ體(てい)に見え候。いかなる事にや。」

と、いひければ、桑名の人、

「さればに候、御尋(おたづね)に付(つき)、つゝまず、御物語(おんものがたり)いたし候。我等事、此度(このたび)、江戶へ、くだり居(をり)候間、よしなきものに誘引せられ、遊里へ、はまり候て、心の外に、金子、つかひはたし、殊の外、難儀致候。このせつ、金子三兩ほど無ㇾ之候ては、在所へ歸り候事も相成(あひなり)がたく、一命にも及(および)候難儀有ㇾ之候に付(つき)、自然(おのづ)と、其(その)氣ざし、たえず、御自分樣、御目にも、咎(とが)められ候ほどの事に相見え候事。」

と申せしかば、某、甚だ、氣のどくに存じ、

「さてさて、了簡にも及ばざる事なれども、一日同道致(いたし)、御心易(おこころやすく)相成、かやうの御物語も承り、何とも笑止なる事に候間、先(まづ)、いづれにも、今晚、拙者方へ御同道申べし。其上にて、何とか工夫も有(ある)べし。」

といへば、桑名の人も、恭[やぶちゃん注:ママ。国立国会図書館デジタルコレクション版も同じだが(左ページ上段十行目最下)、何かおかしい感じが私にはする。思うに、「忝」(かたじけなく)の誤記であろう。]覺えて、それより同道して京橋のやどりへ來り、一宿させ、懇(ねんごろ)にもてなし、某、何とか、才覺したりけん、金子三兩、相調(あひととのへ)、翌日、桑名の人に、あたへければ、

「おもひがけぬ事にて再生の御恩也。」

とて、殊の外、悅(よろこび)、立(たち)わかれける。

 其後(そののち)、一兩年、過(すぎ)て、某、親の弟子兩人と、同道にて、下人壹人、召連(めしつ)れ、上下(うへした)四人にて、伊勢參宮せしが、歸路に、桑名にいたり、

「船にのらん。」

と、せしに、先年、江戶にて、金子三兩、調へ遣(つかは)したる男に、風(ふ)と、船乘場(ふなのりば)にて出逢(いであひ)、たがひに、大よろこび、しばらく、物がたりして、

「いそぎの船なれば、乘(のり)申さん。」

と別(わかれ)を告(つげ)ければ、此男、

「かく、珍敷(めづらしき)所にて御目にかゝり、殊に、再生の御恩を得し事、晝夜、相(あひ)わすれ不ㇾ申。何とぞ、しばらく、拙者宿へ御立寄下され。せめて、しばらく、御休息ありて、今日、御逗留ありて、明日、船に乘(のり)下さるべし。」

と、わりなく[やぶちゃん注:むやみやたらに。]申せしかば、もだしがたく、其男と打連、宿へ行(ゆき)て、一宿せしに、亭主も、隨分、酒食をとゝのへ、いんぎんを盡して、もてなしけり。

 然(しか)るに、昨日(きのふ)、乘(のり)おくれし船、七里の海中にて、にはかに、風、起り、波、あれて、船、あへなく、くつがへりたれば、船中の人、殘らず、溺死せし、とぞ。

 某の子、桑名の人に逢(あひ)、無理に、宿へ、いざなはれ、船にのりおくれし故に、溺死の禍(わざはひ)を、まぬかれたる事、ふしぎ成事也。

「是、しかしながら、陰德の報(むくい)なるべし。」

と、人々、いひあへる、とぞ。

[やぶちゃん注:この同類の話、私の怪奇談に枚挙に遑がない。取り敢えず、「耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事」をリンクさせておく。]

譚海 卷之六 泉州水馬觀音に福を借る事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○泉州、水馬屋(みづまや)觀世音へは、大坂より、六里あり。

「觀世昔は、稻荷明神の本地(ほんぢ)にまします。」

とて、二月初午には、參詣する人、あまたなり。

「此觀音に、福をかる事。」

とて、觀音の散錢を借(かり)て、もて歸り、あきなひなどするに、かならず、德ぶん、つく事なり。

 それゆゑに、觀昔に詣(まふで)て、錢、借る人、おほし。

 この錢、たとへば、二百錢、かりまゐらすれば、かへす時、倍して、四百せんにて、返す事也。

 むかし、大坂の人、

「觀音の錢、二百錢かりて、商賣のもとでとなせしが、大(おほき)に、德、つきて、八千貫の利を得候。」

よし、ものがたりぬ。

「その事は、かしこの記にも、しるしあり。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「泉州、水馬屋觀世音」底本後注に、『大阪府下貝塚市水間の水間寺』(みづまでら)『の観世音堂。水間観音の福銭のことは、西鶴の「日本永代蔵」にも見えている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。「日本永代藏」のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの岩波文庫版(和田万吉校訂・昭和七(一九三二)年刊)の「卷之一」の巻頭の『初午(はつうま)は乘(のつ)てくる仕合(しあはせ)』の中に記されてあるのが、視認出来る。]

譚海 卷之六 公卿園池殿鯉魚狂歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○堂上、園池殿(そのいけどの)、碁を好(このま)せらるゝにより、いつも、川井某といふ町人、御相手にて、まゐりけり。

 一日(あるひ)、川井、まゐりたるが、不快になりて、雜掌の部屋へ入(いり)、臥(ふし)て居《ゐ》たるに、をりふし、鍼醫、參ければ、園池殿、

「よき折也。川井、療治してもらふべし。」

とて、鍼治ありけり。

 その後(のち)、川井、謝禮のため、鯉、二喉(ふたくち)、とゝのへ、右の醫師へおくりけるを、醫師、

『あまり、めづらしきものゆゑ、わたくしにたべ候も、をしき事。』

と、おもひて、やがて、園池殿へ、まゐらせけるを、園池どの、又、川井へ、つかはされければ、川井、そのこゝろを得て、あるとき、醫師に逢(あひ)たるに、

「さてさて、先日は、『御禮のため、せめて、召(めさ)るゝやうに。』とて、わざわざ、鯉、とゝのへて迄(まで)し候を、むなしく、よそヘ、おくられぬる事、わたくし、ぞんずるやうにも無ㇾ之、ざん念なる事。」

と申(まふし)ければ、毉師、赤面におよび、園池殿へ、まゐりて、川井が右のものがたり、申上ければ、わらはせ賜ひて、硯、引(ひき)よせて、書(かき)給ひぬる狂歌、とぞ。

  はりさきで釣にし鯉を園池へ

    はなてばもとの川井にぞ行(ゆく)

[やぶちゃん注:この話、人名表記に異同があるが、全く同じ内容のものが、「耳囊 卷之二 公家衆狂歌の事」にある。そちらで注もしてあるので、参照されたい。]

譚海 卷之六 江戶御本丸溜りの間鍵井伊家預りの事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○御本丸「溜(たまり)の間(ま)」、鍵(かぎ)は、井伊掃部頭殿、御預りにて、井伊家の留守居の下役、每朝・暮、登城して、開閉を勤(つとむ)る也。

 又、御城近火(ちかび)には、井伊家玄關前には、軍陣の道具を指置(さしおき)、公方樣、御立退(おたちのき)あれば、そのまゝ、御供の用意のために備へらるゝ、とぞ。

 都(すべ)て、井伊家、甲州の浪人を付置(つきおか)れしより、軍事に、うけはりたる家にて、掃部頭殿、道中往來のせつも、大井川こえらるゝときは、掃部頭殿ばかり、れん臺にて、その餘、家來は、大身といへども、みなみな、かちわたりにて、主人の駕(かご)につきそひ、川中といへども、行列を、みださず、わたらるゝ事といへり。

 尤(もつとも)、川ごしのもの、壹人づつは、したがへらるゝといへども、

「殊に、なんぎなる事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「溜りの間」大名詰所の一つとして江戸城内黒書院に附属する部屋。]

譚海 卷之六 甲州身延山幷南部由來の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○南部は、元來、甲州の在名也。

 新羅三郞義光より、十四代の孫、南部六郞實長といふ人、鎌倉の時にあたりて、日蓮上人に値遇(ちぐう)し、信仰のあまり、居所(きよしよ)を上人に施與(せよ)して、寺、建立せり。

 是、今の身延山の地也。

 其後、實長の子孫、奧州に移居(いきよ)して、東邊(とうへん)の地を押領(わうりやう)し、卽(すなはち)、甲州の地名を稱して、住す。

 今の、南部侯、此也。

 さて、實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり。

 此ゆゑによりて、今も、身延山住持、代がはりのときは、南部殿より、賀使(がし)を立(たて)らる。その使に、ゆかるゝ人は、奧州、南部・津輕さかひの城(しろ)、八戶(はちのへ)彌六郞とて、南部家の一門にて、一萬三千石領する人、いつも發足(ほつそく)[やぶちゃん注:賀使として遠い奥羽の南部を出立すること。]ある事、とぞ。

[やぶちゃん注:「南部は、元來、甲州の在名也」山梨県の最南端の南巨摩郡南部町(なんぶちょう:グーグル・マップ・データ)。ここに書かれてある、奥羽の最奥の「南部藩」との関係性は、「南部町」公式サイトのこちらの「歴史」の項にも(太字下線は私が附した)、『本町の歴史は古く、天神堂遺跡(てんじんどういせき)に代表されるように』、『遠く先史土器時代から集落が形成されていた』。『鎌倉期には』、『源頼朝』『に従い』、『戦功のあった南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)が南部を与えられ』、『この地を領し』、『その後』、『奥州に移り』、『糖部五郡(現代の青森』・『岩手の一部)の広大な地を与えられ』、『南部藩を築いている』と、はっきり書かれてある(なお、『近世』、南部『町は河内領』『に属していた』ともあるので、注意が必要)。

「南部六郞實長」底本の後注で、この人物は南部三郎光行の子であった『南部実光』(本文の「實長」は実光の弟なので注意が必要。但し、この実長も日蓮の有力壇越として知られ、日蓮を身延山に誘ったのは、実光ではなく、この実長であったようであるから、以上の記載の方が真実を語っている(後注参照)。当該ウィキを見られたい)『は日蓮の身延山開基に力を致すところ大であった』とあった。しかし、ウィキの「南部実光」を見ても、日蓮も身延山も書かれてはいない。而して、ウィキの身延山の「久遠寺」を見ると(太字は私が附した)、文永一一(一二七四)年、『甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)』(☜)『が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き』、『西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した』とあるのである。

「實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり」これは誤りである。日蓮宗総本山身延山久遠寺の二世は日向であるが、当該ウィキによれば、『生まれは、安房国男金』、『もしくは上総国藻原』、『と諸説ある』とあるが、彼が「実光」或いは「実長」の子とする記載は、ない。

譚海 卷之六 江戶本所さかさゐの渡猿𢌞し侍と口論の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 標題の「さ」は接尾語で方向を表わし、「江戸本所の方の」の意であろう。「かさゐの渡」(わたし)は「葛西」等とも書き、現在の国道七号の下にある「逆井橋」(さかいばし)附近にあった「逆井の渡し」である。]

 

○寬政四年の冬[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九二年十一月十四日から一七九三年二月十日。]、本所六つ目のかさい[やぶちゃん注:葛西。]のわたし舟の中にて、猿𢌞しと、さむらひと、同じく乘合(のりあひ)たるに、いかゞしたりけん、此猿、侍の腕をしたゝか、かきやりぬ。

 侍、いきどほり、はらたてて、

「猿を、もらひて、うち殺(ころす)べし。」

と、いひければ、船中の人々、こぞりて佗(わび)つゝ[やぶちゃん注:ママ。底本では補正傍注があり、『(詫)』とする。]、

「畜生の事なれば、堪忍し給へ。」

と、こしらへ[やぶちゃん注:現在は使用頻度が低いが、中世以降、「話しをして納得させる」ことを意味する。]けれど、さむらひ、さらに承引せず。

 船、已に、岸に着‘つき)て、みなみな、陸ヘ上りぬるに、侍、

「ひらに、猿を受取(うけとる)べし。さなくば、おのれともに、ゆるさじ。」

とて、猿𢌞しに取(とり)かゝりて、はなたず。

 猿𢌞も、とかく詫けれど、了簡せざるに仕(しまわし)わびて、

「さらば。是非なし。猿を進ずべし。」

とて、猿𢌞し、かたへに、猿をおろして猿にいひけるは、

「我、かく汝によりて、年來(としごろ)渡世せし事なるが、おもひよらず、かゝるあやまちを仕出(しいだ)して、なんじを、まゐらすべき也。汝が、こゝろから、命を斷(たつ)事、不便(ふびん)、さらにいふべきやうなけれども、今は、かひなき事也。よく心得て、死すべし。」

と、つぶつぶと[やぶちゃん注:こまごまと。]、猿に、いひきかせて、

「扨(さて)。猿をまゐらすべし。」

とて、猿𢌞しの法にまかせて、綱をきり、侍に、わたしぬ。

 猿𢌞し、猿をはなつときには綱をきる寸尺の法(はう)有(ある)事、とぞ。

「かく、汝にわかるべしとは、おもひもかけぬ事。」

と、猿𢌞し、泣々(なくなく)、綱、きりて、侍にわたしければ、侍、猿の綱、ひきとると、そのまゝ、この猿、侍の喉(のど)へ、くらひ付(つき)て、はなさず。

 深く、くひ入(いり)ければ、のどぶえを、くひとりて、侍は、あへなく、息、絕(たえ)たり。

「あれは、あれは、」

と、見る人、おどろき、さわぐまぎれに、猿は、やがて、川水の深みへ、身をなげ、をどり入(いり)て死(し)したる、とか。

 是も哀(あはれ)なる事に、なん。

譚海 卷之六 信州山中熊の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○信濃國、山中(さんちゆう)にて、熊、小共(こども)、二、三疋、引連(ひきつれ)、出(いで)て求ㇾ食(しよくをもとめ)ける。

 親熊、大(だい)なる磐石(ばんじやく)をもて、あげて、其下に有(あり)ける蟻(あり)を、子どもの熊に、あさり、くはせけるに、獵師、はるかに、是を見やりて、鐵炮を打(うち)かけしが、打損じて、熊にあたらず。

 されども。親熊、此ひゞきにおどろきて、おもはず、かの、もてあげける石を、とりはづしぬるに、あやまたず、子熊ども、此磐石に、おされて、みな、死(しし)たり。

 さるとき、親熊、はなはだ、怒り、をどりあがりて、そこら、にらまへ[やぶちゃん注:「睨みつけて」の意か。]、もとめけれども、獵師、ふかく、かくれて見えざりければ、熊、終(つひ)に獵師をもとめえず、やゝかなたこなた、もとめかねて、熊せんかたなき體(てい)にて、もとの所へ立かえりしが、やがて、又、その磐石、もてあげて、子熊の死たる上にかさなり、磐石、わが身に、おとしかけて、我も、子熊と共に、死(しし)ける、とぞ。

「異類なれ共、子をおもふ心は、淺からざりける。」

と、後(のち)に、獵師、物語(ものがたり)て、慚愧(ざんき)しけるとぞ。

譚海 卷之六 筑紫めかり神事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○筑紫、「めかりの神事」は、每年、除夜也。

 その夜は、近鄕のうらうら、みな、火をうちけして、ひそみをる也。

 「めかりの事」、終(をはり)ぬれば、社頭にて、はじめて、火を點(とも)す。

「此火の光を、合圖にして、近村の浦々、みな、火を擧(あぐ)事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「めかりの神事」「和布刈神事」(めかりのしんじ)。福岡県北九州市門司区和布刈に鎮座する和布刈神社で、旧暦十二月晦日から元旦の未明にかけて執り行われる特殊な神事。関門海峡を隔てた対岸に鎮座する住吉神社でも、同日同時刻に同神事を行う。深夜午前一時から午前三時頃の干潮時に、神職三人が正装し、鎌と松明を持って海中に入り、和布(わかめ)を刈り取って、神前に供える。この和布は「万病に効く」と伝えられ、朝廷にも献上した。神功皇后がいわゆる「三韓征伐」のために、この附近を航海中、安曇磯良神(あずみいそらのかみ)が海中より献上した如意珠(にょいじゅ)を使って、目出度く三韓を征したが、これは皇后が磯良神から「潮干(しおひる)・潮満(しおみつ)の法」を学んだ遺風を伝えるのが、この神事であるとされる。元旦、最初の神供として、土地所産の供物を採取・御供する民俗社会的意義がある(小学館「日本大百科全書」を参考にした)。私は、「霧の旗」を皮切りに、小六から中学生にかけて、殆んどの松本清張の推理小説を読破したが、その「時間の習俗」(写真トリックで、今、考えると、頗るショボい)で、初めて、この行事を知ったのを思い出す。グーグル画像検索「和布刈神事」をリンクさせておく。]

譚海 卷之六 尾張野間の内海義朝々臣墓幷陶家の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○尾張國、野間・うつみは、兩地をあはせて、いふ事也。

 みな、南海邊(なんかいへん)にある在地にて、野間は五ケ村、うつみは八拾一ケ村あり。

 拾壹萬石收納の地にて、甚だ廣き所也。

 志摩・鳥羽浦へつゞきて、伊勢へも、五里にちかし、といふ。

 東海道よりは、池鯉鮒(ちりふ)より、入(いる)順路也。

 うつみに、左馬頭義朝の墓あり。

 義朝の墓を眞中にて、左右に、鎌田兵衞正淸と、織田三七郞殿、墓あり。

 鎌田の墓に、義朝のはかを並(ならべ)てある事、そのいはれ、知れがたし。いづれも、後世の造立とみゆるよし也。

 江戶へいだす、水甁(すいびやう)[やぶちゃん注:水や酒などを入れておく瓶。「すいびん」「すいへい」と読んでも構わない。]など、燒(やく)陶家(とうか)など、おほく、はんじやうなる地也、とぞ。

[やぶちゃん注:「野間」愛知県知多郡美浜町(みはまちょう)野間。「平治の乱」で敗れた源義朝は、東国へ落ちのびる途次、家臣で乳兄弟の鎌田政清の舅(しゅうと)にして、年来の源家に従っていた長田忠致(おさだただむね)と、その子景致のもとに身を寄せた。ウィキの「源義朝」によれば、『しかし』、『恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて』『殺害された』。『享年』三十八であった。『政清も酒を呑まされ』、『殺害された』(享年は義朝に同じ。当該ウィキに、野間大坊の彼の墓(妻と一緒)の写真がある)。『京を脱出して』わずか三『日後の事であった』。「愚管抄」によれば、『長田父子の陰謀を察知した義朝が』、『政清に自らの首を打つよう命じ、斬首された後に政清は自害したとされる。年が明けた正月』九『日、両者の首は獄門にかけられた』。『伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓は』(ここ)『その終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の伝承にちなんで多数の木刀が供えられている』(グーグル画像検索「源義朝の墓」をリンクさせておく)。『また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある』とある。私は、そこを訪れたことがある。

「内海」「うつみ」野間に南東で接する愛知県知多郡南知多町(みなみちたちょう)内海

「池鯉鮒」愛知県中央部の知立市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代は東海道五十三次の岡崎と鳴海の間の「池鯉鮒(ちりふ)宿」として発展し、また、三河木綿の集産地としても栄えた。現在は名古屋市近郊のベッド・タウンである。

「織田三七郞」織田信長の三男織田信孝(永祿元(一五五八)年~天正一一(一五八三)年)。伊勢神戸(かんべ)氏の養子となった。「本能寺の変」後、豊臣秀吉と結び、美濃岐阜城主となったが、後、柴田勝家らと結んで、兄信雄・秀吉を倒そうとしたが、敗れて、長良川を下って、尾張国知多郡野間の内海大御堂寺(愛知県美浜町野間大坊)に逃げたが、そこの安養院で自刃した。享年二十六。当該ウィキ同所にある墓の写真がある。]

2024/01/26

譚海 卷之六 備前高島人家五軒の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○備前國高嶋といふ所は、家、五軒ならで、住居成(なり)がたき掟(おきて)なり。古來よりの由緖ある事、とぞ。

 その家、殊の外、大厦(たいか)にて、その家の内に合住(あひずみ)して居(を)るもの、はなはだ、おほけれども、表立(おもてだつて)は、只、五軒なり。

 その人の生まれつき、かしらの體(てい)、ことごとく、平かにして、むかひ見たるときは、おしならしたるやうに、ひらなるかしら、すべてこの村の人の性質(たち)なり、とぞ。

[やぶちゃん注:この短い話、この五軒単位のそれや、そこに住む住人らが、頭が平板であるというのは、思うに、そこで親族による、近親婚が繰り返し行われていたことによる、遺伝的な頭部変形が生じているようにしか思われない。

「備前高島」岡山県岡山市中区のこの附近(グーグル・マップ・データ)。]

譚海 卷之六 井伊家士元里淸兵衞詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、標題であるが、底本では、姓の「元里」の「里」の下に『(奈)』と編者の補正注が入っている。]

 

○天和の頃、伊掃部頭殿家中に、名里[やぶちゃん注:同じく「名」の右に『(奈)』と編者の補正傍注が入っている。]淸兵衞といふもの有(あり)。

 歌よみにて、あるとき、

  都出(いで)し花の袂の露ながら

       月をぞやどすしら川の關

 掃部頭殿、此歌を聞召(ききめさ)れ、

「淸兵衞、奧州へ往(ゆき)たる事もなくして、かゝる歌をよむ、僞(いつはり)おほき事。」

とて、しばらく遠慮申付られし、とぞ。

 かばかりの事をも、今は聞(きき)とがむる主人もあらず、いと、やさしき事なり、と。

 又、淸兵衞、

「京都嶋原、出口(でぐち)の柳にて、よめる歌。」

とて、

  見かへるも見かはすかたもあらばこそ

       わかれに月のくまなきはうし

[やぶちゃん注:「天和」一六八一年から一六八四年まで。徳川綱吉の治世。

「伊掃部頭殿」幕府大老で近江彦根藩第五代及び第八代藩主であった井伊直興(なおおき)。

「京都嶋原『出口(でぐち)の柳』」京都島原遊郭の大門口に植えられていた柳。]

譚海 卷之六 江戶深川土橋遊女詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○「隱遊女(かくれいうぢよ)」を召(めし)とられて、新吉原に下さるゝ事、昔は、生涯、奴(ど/つぶね)の事にてありしに、享保中、大岡越前守殿、町御奉行、勤(つとめ)給ひし時、奴に成(なり)たる遊女のよめる歌、

  はてしなきうき世のはしにすみた川

    ながれの末をいつまでか汲(くむ)

越前守殿、此歌に感ぜられて、夫(それ)より、「かくし遊女」、吉原へくだし置(おか)る事、三ケ年の年限に定(さだめ)られける、とぞ。

[やぶちゃん注:「享保中、大岡越前守殿、町御奉行、勤給ひし時」かの大岡忠相は、享保二年二月三日(一七一七年三月十五日)に普請奉行から江戸南町奉行に異動し、「越前守」を名乗って、元文元年八月十二日(一七三六年九月十六日)に南町奉行から寺社奉行に異動している。享保は享保二十一年四月二十八日(グレゴリオ暦一七三六年六月七日)に元文に改元しているから、その閉区間となる。]

譚海 卷之六 江戶深川土橋遊女詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○深川土橋(つちはし)とかやいへる所に、身を賣りたる女、年をへて後(のち)、度々、主人に暇(いとま)を乞(こひ)て、

「諸國行脚に出(いで)たき。」

よしを願(ねがひ)しが、餘り、度々に及びしかば、主人も、あはれがりて、給金を損(そん)にして、願(ねがひ)の如く、暇やりければ、此女、いと、うれしくおもひて、やがて、

「立出(たちいづ)る。」

とて、

「讀(よみ)たる歌。」

とて、人の、かたりし。

  またも世にかへらん事はあらがねの

       旅路の土とならんこの身は

「歌のさまは、あやしけれど、心の思ふ所をのべけるは、殊勝なること。」

と、いひあへりける。

[やぶちゃん注:底本では、歌の上の句の初五の「またも世」の右に『(ふるさと)』訂正注を附してある。

「深川土橋」現在の東京都江東区富岡の、この永代寺門前附近にあった地名。

「損して」「チャラにして」。給金は支払わない代わりに、暇を出してやったのである。

「あらがねの」「あり難(がた)き事」に、チャラにしために年季明けにはなったものの「金がない」に掛けたものであろう。]

譚海 卷之六 松平相摸守治道朝臣室詠歌の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前の二条の

「譚海 卷之六 遠州櫻ケ池大蛇の事」

と、

「同國秋葉山權現の御事」

は、ともに既にフライング公開している。]

 

〇松平相模守治道朝臣の室は、松平陸奥守重村朝臣の女にて、母堂は近衞殿御養女なれば、和歌の道をも、常に好(すか)れたるが、殊に容色、美艷なりしかば、婚姻はじめより、夫妻、甚だ、むつまじく、妾媵(しやうよう/めかけ)のたぐひも、絕(たえ)て置(おか)れざりしゆゑ、相模守殿在所、因州へ下られける時は、達(たつ)て陪妾(ばいしやう)のものを、内室より勸られけれども、同意なくて、下向ありしに、一とせ、内室、懷胎せられけるまゝ、又、夜の伽(とぎ)に妾を置(おか)るべき事をすゝめられしかど、同じく承引なかりしを、甚(はなはだ)氣のどくに思はれ、内室、里邸(りてい)へ逗留に越され、其母堂、相談にて、召仕の中(うち)、勝(すぐれ)たる容儀の女を拵(こしら)へ、里邸より、强(しい)て勤(つとめ)られ、妾(めかけ)にせられしに、相模守殿、始(はじめ)は、なづみの色も薄かりしが、日を追(おつ)て、此妾を、專(もつぱら)、寵(ちよう)せられ、すでに在所へも召述(めしのべ)られけるほどの事也。扨、内室、出產有(あり)、月日ヘて、相模守殿、參府ありしかども、ひたすら、この妾をのみ、愛せられて、一向、内室の閨へは、入(い)らるゝ事、なかりしゆゑ、後々は、

「けしかる事。」

に、人口(じんこう)にも、いひ侍る。

 元來、内室より勤(つとめ)なされし事なれば、せんかたなき事にて、ありし。

 内室も、產後の氣味にや、腫氣(はれき)[やぶちゃん注:身体の浮腫(むく)みであろう。]、わづらひて、其上、種々のものおもひも、かさなりしにや、段々、病(やまひ)つのり、終(つひ)に、寬政四年の夏、卒去(そつきよ)有(あり)。

 誰々も、

『あへなき事。』[やぶちゃん注:どうしようもない。がっかりだ。]

に、おもへど、かひなくて、後(あと)のわざ、取(とり)まかなひなどするに、臥蓐(がじよく)[やぶちゃん注:病床の寝具。]を取(とり)のけ見れば、其下に、一首の歌を、内室手跡にて、書(かき)殘されたる、ありけり。

  むすびてもかひなき物を玉のをの

     行末ながくなど契(ちぎり)けん

是を見付たるにつけて、

「一入(ひとしほ)、あはれなる事。」

に、人、語り傳へたる、とぞ。

[やぶちゃん注:「松平相模守治道朝臣」底本の竹内利美氏の後注に、『鳥取藩主池田治道』(明和五(一七六八)年~寛政一〇(一七九八)年)。『明和三年生』(ママ)。『天明三』(一七八四)『年襲封、相模守となった。その室が』本篇の「松平陸奥守重村朝臣」『仙台藩主伊達重村の女』(むすめ)『で、彼女の母は近衛准后内前の養女なのだというのである。しかし、近衛氏養女は父重村の正室で、彼女の生母は安田氏と、「寛政重修諸家譜」にはしるしてある』とある。当該ウィキにも、正室生姫(「いくひめ」と読んでおく)は伊達重村の娘とあり、寛政二(一七九〇)年、『正室・生姫と婚姻する。寛政』四『年』、『生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず』、『鳥取藩江戸藩邸で死去した。この長女・弥姫は薩摩藩主』『島津斉興の正室となり』、『島津斉彬の生母となった』とある。

「里邸」普通は、公卿が内裏に対して市中に持った私邸を指すが、ここは妻の養父母の屋敷を指している。]

譚海 卷之六 京都町人おはん・長右衛門を殺害せし盜人刑せられし事(おはん長右衛門心中物語實說)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 なお、この前条の「勢州二見浦津浪の事」は、既にフライング公開している。

 標題の「殺害」は古式に「せつがい」と読んでおく。]

 

○今年、京都より歸鄕せし人の物語せしは、

「そのかみ、京都にて、おはん・長右衞門とて、『心中淨るり』に作りて、もてはやせしは、誠には、心中にて死(しし)たるには、あらず。

 長右衞門といふ商人(あきんど)あり。有德なるものにて、鄰家に『おはん』といへる娘ありけるを、幼稚より可愛がりて、娘の如くせしが、ふと、出來心にて、渠(かれ)と密通せしに、おはん、すでに懷姙せしかば、その身は、四十に及び、おはんは、十六、七歲のもの、殊に長右衞門は、妻子もある身のうヘの事ゆゑ、かたがた、外聞を、いとひて、長右衞門、おはんを召(めし)つれ、ひそかに出奔して、攝州のかたに赴(おもむか)んとして、桂川のわたりにかゝりけるに、長右衞門、金子貳百兩、懷中して居《をり》たるを、わたし守、ひそかにしりて、渡守、兩人いひあはせて、長右衞門・おはん兩人を殺害(せつがい)し、金子を奪取(うばひとり)たるを、かく、心中のやうに、いひふれたる事也。

 然して後(のち)、此わたし守、金子を両人にて、わかちとり、各(おのおの)、京都へ出(いで)、商賣をかせぎけるに、幸(さち)ありて、相應の身帶[やぶちゃん注:「身體」に同じ。]になりて居《ゐ》たりしを、しる人、さらになかりしに、壹人の渡守、病氣にて、臨終におよぶとき、その子供、壹人を、まねきて、ひそかに始終を、ものがたりして、兩人、商賣にかゝりたる時、互ひに、

『子孫にいたるまで、もし、いつれ[やぶちゃん注:ママ。「いづれ」。]にも不如意に成(なり)たらば、合力(かうりよく)みつぎ、つかはすべき約束なる。』

よし、かたりて、死(しし)たり。

 其後(のち)、此子ども、甚(はなはだ)不行跡(ふぎやうせき)にて、親のゆづりあたへし所帶、ほどなく、放埒(はうらつ)につかひ崩し、朝夕のけぶりも、たてかぬるほどに成(なり)しとき、親の遺言を、おもひ出して、同類の渡守、紙商賣して、有德にくらすもののかたへ行(ゆき)て、遺言の次第を、ひそかに、のべて、無心いひければ、紙屋も止事(やみこと)を得ず、少々の金子、合力せしに、又、この子ども、放埒に、つかひはたして紙屋へ行(ゆき)、無心いふ事、數ケ度(すかど)に及び、もはや、紙屋にても、あひしらひあしく、合力も、つかはしくれざるほどにいたりしを、此子ども、いきどほりを、ふくみて、公儀へ、右の次第、訴へせしかば、紙屋は、早速、召(めし)とられ、その子供をも、併(あはせ)て、町中ひきまはし、梟首にせられける。

 あさましき事也。

 長右衞門を殺せし年より、此年まで、三拾八年ありて、盜人(ぬすつと)、露顯せし。」

と、かたりぬ、

 天罰、のかれざる事、恐るべし。

[やぶちゃん注:「今年」寛政七(一七九五)年。

「『心中淨るり』に作りて、もてはやせし」は私の好きな浄瑠璃の世話物(恐らく、三度は見ている)「桂川連理栅(かつらがはれんりのしがらみ)。菅専助作の二段物。安永五(一七七六)年、大坂北堀江座で初演。先立つ十五年前の宝暦一一(一七六一)年、京都の桂川に十四、五の娘と、五十男の死体が流れついた巷説を元に脚色した文楽。信濃屋の娘お半と、隣家の四十男の帯屋長右衛門とが、伊勢参りの石部の宿での契りから、お半は懐妊、二人が桂川で心中する筋である。

「三拾八年」不審。数えとしても、三十五年前である。]

譚海 卷之六 讚岐風土の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○讚岐は暖(あたたか)なる事、江戶に倍せり。重陽(ちようやう)[やぶちゃん注:旧暦九月九日。既に季秋である。]に、綿入、着用しがたし。只、袖口にばかり、綿を入(いれ)て袷(あはせ)にて用(もちふ)る也。

 霜月中(ちゆう)に、梅花、開落(かいらく)す。正月には、菜の花など、みな、ひらけり。

 讚岐に「佛生山」といふ有(あり)、水戶讚岐守殿、靈屋(みたまや)有(あり)。

 そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)。

 高松の城下より、八嶋へ、壹里、有。八嶋には南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺也[やぶちゃん注:底本に編者傍注があり、『有カ』とする。]。殊の外、景色よき所也。

 その山の周圖には、平家の公達(きんだち)の石塔、あまた、あり。近來(ちかごろ)、佐藤次信[やぶちゃん注:底本に「次」に編者傍注があり、『(繼)』とある。]の石塔、幷(ならび)に、石碑の文など、領主より、えらみ立(たて)られける、とぞ。

 八嶋の海濱、卽(すなはち)、東の方は「壇の浦」なり。西の方は「むれ」といふ。「だんのうら」に、那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり。盬(しほ)[やぶちゃん注:「潮」。]のひるときは、見ゆる。潮、きたれば、かくるゝなり。

 八嶋寺のうしろは、毛氈(もうせん)を敷(しき)たるやうに、草、みじかく、たひらかに、よき地也。こゝにのぼりて見れば、高松の城、目下に見ゆ。

 その北の海邊に、さし出(いで)たる岩あり、「獅子の靈岩石」といふ奇石なり。

 又、丸龜より「だんの浦」へは、七里あり。

 崇德院の御跡(みあと)を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有。

 又、「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有。

 さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山(ごけんざん)」・「象頭山(ざうづさん)」・「飯(いひ)の山」などいふもの也。

 「飯の山」は富士山に似たり。西行上人の歌とて、

   さぬきにてふじとやこれをいひの山

       朝げのけぶりたゝぬ日もなし

と、いひ傳へたりとぞ。

 又、さぬきに「彌谷(いやだに)」といふ寺、有。山中にて、石に、皆、佛像を、ゑり付(つけ)てあり。その奧の山の絕頂の岩に、おびたゞしく、梵字、ほりて有。人力のおよぶわざに見えず。その石屛風を立(たて)たる如き、見物なり。

 寺は、山の八分めにあり、梵字のある所は夫(それ)より絕頂までに有。

[やぶちゃん注:「佛生山」「水戶讚岐守殿、靈屋有」香川県高松市仏生山町(ぶっしょうざんちょう)にある讃岐国高松藩藩主松平家の墓所(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。「般若台」(はんにゃだい)と呼ぶ。「そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)」とあるが、現存するのかどうかは、不明。一般人の墓地と一緒になっているとあるから、写真不可とも思えないが、ネット上には、木像群の写真は、ない。

「八嶋」「南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺」これは、南面山千光院屋島寺の誤り。ここに現存する。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の解説によれば、『天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ』、五『度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝』五(七五三)年に『苦難のすえ』、『鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で』、『山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち』、『和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し』、『初代住職になった』。弘仁六(八一五)年、『弘法大師は嵯峨天皇』『の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている』とあった。

「佐藤次信」(繼信)「の石塔」「石碑の文」佐藤継信(久安六(一一五〇)年?/保元三(一一五八)年?~元暦二(一一八五)年)は源義経の家臣。「源平盛衰記」では「義経四天王」に数えられている。「狐忠信」で知られる佐藤忠信の兄で、奥州藤原氏の家臣佐藤基治の子。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、その「嗣信最後」の項には、「平家物語」巻第十一「嗣信最後」での『継信の最期の様子』が、以下のように略述されてある。「屋島の戦い」に『おいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は』、『弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り』、『手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが』、『心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは』、『元より』、『期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です』。」『と答えて亡くなった。義経は』、『鎧の袖を顔に押し当て』、『さめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒』(たゆうぐろ)『という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた』とある。この「石塔」(墓)と「石碑の文」は、ここに現存する。サイド・パネルの画像を見られたい。なお、本来の墓は、馬(そこでは「太夫黒」とする)とともにここ(香川県高松市牟礼町(むれちょう)牟礼)にある。

「壇の浦」長門の平家滅亡の「壇ノ浦」とは別。紛らわしいので、私は「屋島檀の浦」と呼ぶべきであると思っている。ここ。現在は浦の奥部分が干拓されてしまっており、往時の面影はない。

『那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり』「與市」は後代の琵琶曲の語り物その他での表記にはある。正しくは「與一」である。「扇の的」はここで、那須与一が馬を乗りこして矢を放った岩礁は「源平合戦の駒立岩」はここ。正直、干拓されて、ショボ過ぎる。実際の射た距離は約七十五~七十七メートルとされるが、以上の場所は五十五メートル弱しかない。

「高松の城」ここ

「獅子の靈岩石」「獅子の霊巌展望台」附近だが、サイト「Tripadvisor」の「獅子の霊巌石の標識と展望台」skyt2831さんの投稿に、『展望台の』「れいがん茶屋」『の基礎となっている岩体です。石の標識はあるものの、岩体自体は、展望台から降りることができず、周辺から形状も見ることができないため、どのようなものか見ることができません。なお、展望台からは、屋島で有名なかわら投げをすることができます』とあった。そこにある画像を見るに、確かに、「獅子靈岩」と彫られたものらしき石柱はある。

「丸龜」香川県丸亀市

『崇德院の御跡を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有』この「白鳥明神」は「白峰明神」の誤りであろう。現在の香川県坂出市西庄町(にしのしょうちょう)弥蘇場(やそば)にある。少なくとも、現在は丸亀市内ではない崇徳院の関連地を複数ドットした地図を掲げておく丸亀市内には崇徳関連跡は、全く、ない。

『「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有』思うに、正式に行宮(あんぐう)として檀ノ浦に置かれたそれは、現在の安徳天皇社附近である。それ以前に、一時期、置かれた初期の行宮は、檀ノ浦の湾奥のここに総門跡がある。

『さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山」・「象頭山」・「飯の山」などいふもの也』「五嶽」は本文が誤魔化しているように、名数がよく判らない。「ひなたGPS」で「象頭山」をポイントしておいた。「五岳山」が善通寺市内にあるが、ここに出る三つの山とは一致しない。最初の「五劍山」が五つのっピークを持つ「五岳山」であろうと推定はするが、どうも調べる気にならない。どうぞ、ご勝手に五つ数えて下さい。

「飯の山」飯野山。確かに「富士山に似た」かなり綺麗なコニーデだ。

「西行上人の歌」「さぬきにてふじとやこれをいひの山朝げのけぶりたゝぬ日もなし」整序すると、

   *

 讚岐にはこれをや富士といひの山

  朝げの煙(けぶり)たやぬ日ぞなき

   *

伝承の域を出ない。「山家集」にはない。こちらの「西行の歌伝説」には、『巡検使鈴木氏』の『歌に同様の歌あり』とあった。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の『西行の歌と伝えられる「讃岐にはこれをば富士といいの山 朝げ煙たたぬ日はなし」の初出などについて<飯野山(讃岐富士)・西行・玉藻集>』の質問に対する答えに、「讃岐名所歌集」(赤松景福著・高松・上田書店・一九二八年刊)の「第十三 飯山」の項に『飯山はイヒノヤマといふ。綾歌郡坂元村にあり。海抜二百四十四尺、平野間に突立し四面より之を望むに端麗なり。昔より讃岐富士の称あり。此山は登覧を労せず、西讃途上よく眺めらるる。玉藻集六。

  さぬきにはこれをやふじといひの山朝けの煙たゝぬ日ぞなき

此歌西行法師四国修行之時歌とあり。全讃史十二、名勝志。飯の山(川津二村坂元に跨れり)国の中央に有て其の形富士山に似たり。讃岐富士と云。巡検使鈴木氏歌「讃岐には是をや富士と飯の山朝けの煙立たぬ日はなし」とあり。(結句何れにてもよし)西行山家集には此歌見えず。幕府代替毎に来讃せし巡検使姓名を見るに鈴木はなし。但し延享三年(家重)寛政元年(家斉)両度の人不明なり。或は其内か。』とあった。

『さぬきに「偏谷」といふ寺、有』香川県三豊(みとよ)市三野町(みのちょう)にある真言宗善通寺派大本山剣五山 (けんござん)千手院弥谷寺(いやだにじ)。公式サイトのこちらによれば、『奥之院 獅子之岩屋』として、『大師堂の堂内奥にあり、岩屋の入口が獅子の咆吼に見える事から獅子之岩屋と呼ばれ、難儀をはらい』、『身心を清浄にしてくれるといわれています』。『奥之院本尊は厄除大師、両脇に母君・父君、岩肌に摩崖仏が修行僧(伝・空海)により刻まれています』とあり、『願掛け地蔵(お水まつり)』として、『弥谷山では、水場の洞窟が神仏の世界(須弥山)への入口として信仰されたといわれ、修行僧により刻まれた磨崖仏や修行の洞窟が今も山内にまつられています』とあって、小さな写真が挙げられてあるが、そこにはっきりと梵字の刻印が確認出来る。]

譚海 卷之六 播州大阪羽州へ海路の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○播州大坂より、羽州土崎湊(とさみなと)まで、北𢌞りせし人のいひしは、

「海路五百六拾里也。北廻りの船は、みな、讚岐の金毘羅權現へ參詣する也。

 扨(さて)、安藝の竹原に船をよせて、鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也。

 夫(それ)より、長門下の關にかゝり、北海に、おもむく。

 さぬきまでは、磁石を申酉[やぶちゃん注:東北東。]と取(とり)、下の關へは戌亥[やぶちゃん注:北西。]と取、北海に成(なり)ては、全く、丑寅[やぶちゃん注:東北。]と取て行(ゆく)也。

 長州までは、島々の間(あひだ)を乘(のる)事、常の事也。

 北海に成ては、島、甚(はなはだ)すくなし。

 隱岐の國を見る計(ばかり)にて、靑島を目あてに乘(のり)、佐渡をめあてにして、出羽へ着(つく)也。

 北海には、潮(しほ)のわく處、所々にあり、潮汐のさし引(ひく)に、たぐへず[やぶちゃん注:一致することなく。]、常に、わく事にて、其所(そこ)を乘過(のりすぐ)る時は、船の鳴(なる)事、殊の外、おひたゞしき音也。潮のわく所は、壹町[やぶちゃん注:百九メートル。]か、二、三町を限りて、わづかの間(あひだ)也。

 北海は、すべて、海より、陸地は、ひくし。殊の外、海は高きやうに覺ゆるなり。海上を乘(のる)船ば[やぶちゃん注:ママ。底本にはママ注記はない。国立国会図書館デジタルコレクションの底本不詳(但し、国立国会図書館蔵本に概ね従っているらしい)の大正六(一九一七)年国書刊行会刊本でも同じである。しかし、「ば」では躓く。「は」の誤記であろう。]、各自、勝手に乘(のる)事にて、一所に漕(こぎ)つるゝ事は、なき也。[やぶちゃん注:二隻以上の廻船が並びあっていることがあっても、それぞれの船は独自に航海し、伴走・併走することはないということであろう。]

 海上にては、風にまかせ、船を乘るゆゑ、風にむかへは[やぶちゃん注:ママ。こここそ「ば」であるべきところであろう。]、船を、跡先に、まはして、風にまかせてのるゆゑ、おほくは眞直(まつすぐ)に、のる事、なし。常に斜(ななめ)にのる也。

 海舶の船頭には「水先(みづさき)」と云(いふ)者、給金、殊に多く取(とる)也。晝夜、船の先に居《をり》て梶を取(とり)、帆の上げおろしを指圖する也。よく海上に馴(なれ)て、島・洲(す)・崎・海の淺深(せんしん)を知(しり)たるゆゑ、みな、此(この)「水先」の指揮に任(にん)ずる也[やぶちゃん注:任(まか)すのである。]。

 船の梶は、船のさきより、へ[やぶちゃん注:ママ。不審。船尾は「艫・舳」(とも)で「へ」とは呼ばない。]まで、とほりたる長き木を通して、それに梶を付(つけ)て取扱ふゆゑ、船のさきに居《をり》て、梶をつかはるゝ樣(やう)にせし也。

 日の出・日の入(いり)ほど、船中にて、おもしろき事はなし。」

とぞ。

[やぶちゃん注:「羽州土崎湊」現在の青森県五所川原市十三古中道(じゅうさんふるなかみち)に十三湊遺跡がある(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。

「北𢌞り」ウィキの「北前船」に詳しいが、生憎、航路地図がない。サイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に載るものを私は参照して、次注を附した。

「五百六拾里」二千百八十四キロメートル。当時の航路に即して地図上で北廻り海路の距離を測ったが、確かに二千キロになんなんとするものであった。

「讚岐の金毘羅權現」香川県仲多度郡琴平町(ことひらちょう)にある金刀比羅宮(ことひらぐう)。神仏分離以前は金毘羅大権現と称し、十九世紀中頃以降は、特に海上交通の守り神として信仰されており、漁師・船員など海事関係者の崇敬を集めている。

「安藝の竹原」広島市竹原市

「鹽を買(かひ)て、北國へひさぐ事、常の事也」前記のサイト「新潟文化物語」の「file-35 北前船が運んだもの」に『諸国の産物も新潟に入ってきました。西からは木綿や塩。木綿は当時西日本で盛んに栽培され、江戸時代に一気に広まったものです。そして塩は、今でも「赤穂(あこう)の塩」が有名ですが、これが北前船で全国に安く流通するようになり、各地にあった塩田が大きな打撃を受けたといわれています。越後国内では各地に塩田があり、塩は豊富に採れましたが、新潟湊に入った塩の多くは米沢や会津に運ばれました。また、三条の金物の原料には出雲からの鉄が使われています。東北、北海道からは紅や材木が入ってきました』とあった。

「磁石」方位磁針。羅針盤。ネットのQ&Aの回答によれば、十一世紀にシルク・ロードを経て西方から中国に伝わった。本邦に伝来した時期は正確には判っていないが、当時の日本と中国大陸間の商人の往来を考えると、左程、時を置かずに、日本に伝わった可能性が高いとある。但し、日本では、暫くは航海に使われた形跡がない。恐らくは、造船技術が発展せず、欧州などのように遠洋航海が、なかなか出来るようにならなかったので、需要がなかったためと考えられる。本邦で羅針盤が積極的に使用され始めたのは、江戸時代、まさに北前船が現われて、日本海の沖を、少しだけ、遠洋航海するようになってからであった、とあった。

「靑島」この場合は、固有名詞としての島の名ではなく、そこここの樹木の茂った無人島、或いは、岩礁の大きなものを指すように思われる。当初、現在、韓国が実効支配している竹島を考えたが、同島が「青島」と呼ばれていた事実を確認出来なかったので、それとはしない。しかし、中国地方の北で直北へ航路が遷移しそうになる際には、竹島が航海のズレの目標とはなろう。

「潮のわく處」これは北からの寒流である「リマン海流」と南からの暖流鵜島海流がぶつかる部分を指していよう。日本海の北と南の二ヶ所で、両海流はせめぎ合う潮目を成すからである。]

2024/01/25

譚海 卷之六 猿樂謠放下僧實說の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○天正の比(ころ)、牧野左衞門といふ人は、下野(しもつけ)の國那須郡(なすのごほり)牧野の莊(しやう)の主(あるじ)にて、牧野の館主と稱せしが、沒落して武州忍(おし)の城主成田下總守(しのふさのかみ)に寄食せしが、下總守は小田原の北條の幕下に屬し、成田の烏山の城へ移りけるとき、牧野左衞門も伴(ともなひ)て行(ゆき)たるが、天正三年、牧野左衞門、箱根の溫泉に入湯せし砌(みぎり)、そこにて戶根の信俊といふものと口論して、左衞門は討れける。

 左衞門の子供、二人有(あり)、兄を賴寬と云(いひ)て、山伏にて有(あり)けるが、弟の小次郞賴明と云(いふ)者、親の讐(かたき)を復(ふく)せんため、兄の賴寬と供に、放下僧(はうかそう)となりて、所々を經廻(へまわ)し、伊豆の三嶋にて、戶根の信俊に逢(あひ)て、親のかたき、うちたり。

 是、世にいふ「放下僧(はうかざう)」のうたひの實說也。

 扨(さて)、

「親の讐を復せし事、ひとへに、藏王權現へ祈誓せし加護也ける。」

よしにて、兄弟共に、又、山伏になりて、今に聖護院宮(しやうごゐんみや)の支配にて、行事といふ役僧にて有(あり)、其(その)下野國牧野の館(たち)の跡をば、寺になして、「牧野山三學院」と號して、今、猶、舊跡、殘りたるといふ。

[やぶちゃん注:「天正」一五七三年(ユリウス暦)から一五九三年(グレゴリオ暦)まで。

「下野の國那須郡牧野の莊」現在、牧野の地名がないが、旧那須郡は栃木県北東部の広域であるので、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)に存在した。而して、後注する牧野家について調べるうちに、栃木県那須烏山市金井にある「牧野山三學院」歴代墓地があることが確認出来た浄土宗善念寺が後裔と判った。

「武州忍の城主成田下總守」成田長泰(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)。忍城(おしじょう)は埼玉県行田市本丸にあった。

「成田の烏山の城」長泰の子の成田長忠(泰親)が入った、現在の栃木県那須烏山市城山にあった烏山城

「天正三年」ユリウス暦一五七五年。

「放下僧」僧形で放下(ほうか:田楽から転化した大道芸で、品玉(しなだま:手玉や短刀を空中に投げて巧みに受け止めるもの)・輪鼓(りゅうご:空中で回す独楽(こま)芸)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などを謡ったもの。室町中期に発生し、明治以後には名称は絶えたが、その一部は寄席芸・民俗芸能として今日に伝わる)を演じた大道芸人。

「放下僧のうたひ」ここの場合は能の曲目「放下僧」(ほうかぞう)を指す。四番目物。現在物。作者不明。宮増(みやます)作ともいう。シテは牧野小次郎の兄。牧野小次郎(ツレ)の父が口論の結果、殺害されたので、小次郎は禅門に入っていた兄の僧(シテ)を訪れて説得し、敵討(かたきうち)を計画する。敵の利根信俊(とねののぶとし)(ワキ)が瀬戸の三島に参詣に出たので、兄弟は大道芸人の放下僧(放下)になりすまして信俊に近づき、言葉おもしろく禅問答を交わしたりして取り入り、道中の供を許される。そして「曲舞」(くせまい)・「太鼓踊」・「小歌」などのさまざまの芸を演じて見せ(「クセ」・「羯鼓」・「小歌」)、すきをうかがって、望みを果たす。能「望月」(もちづき)と同じく、敵討の手段という形で芸尽しを見せる能。禅問答の部分も一種の話芸として「芸尽し」の一環をなす。クセ・羯鼓と続いたあとの、俗に「小歌」と称する部分は,他の能にない特殊な作曲形式だが、狂言でいう小歌節ではない(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。小原隆夫のサイト内の「放下僧(ほうかぞう)」のページが、解説・本文ともに充実している。

「聖護院」現在、京都市左京区にある本山修験宗の大本山。四世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入ってより、宮門跡となり、室町時代から、天台宗修験道の山伏を統轄した。]

譚海 卷之六 備前より藝州海路おんどの迫門の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○備前の沖より、安藝(あき)へ船路(ふなぢ)の際に、「おんどの迫門(せと)」と云(いふ)所有(あり)。備前の陸つゞきの山を、きりわりて、五十町、たゞちに安藝へ、かよふやうに、かまへたるにて、大船の通行、さまたげず、といふ。

 是は、昔、平相淸盛、嚴嶋(いつくしま)參詣の爲に開(ひらき)たる道とて、中々、人力のなすべぎわざとも見えず、大莊(たいさう)なる興行なり。

 此道なければ、沖をまはるときは、三里にとほき道なるを、五十町、内海(うちうみ)を通行するゆゑ、今にいたつて、船人共、相國の德を口碑にする事とぞ。

[やぶちゃん注:「おんどの迫門」「音戶の瀨戶」は広島県呉市にある本州陸側と倉橋島の間に存在する海峡。当該ウィキによれば、『この瀬戸とは、海峡を意味する』もので、『ほぼ南北に伸びる海峡で南北方向約』一キロメートル、『幅は北口で約』二百『メートル、南口の狭いところで約』八十『メートル』である。『瀬戸内銀座と称される瀬戸内海有数の航路であり、平清盛が開削したという伝説や』、『風光明媚な観光地として知られている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。私は行ったことはないが、ラドンがソニック・ブームで壊したことは知ってるぜ。

「五十町」五・五四五キロメートル。]

譚海 卷之六 房總行程幷七里法花・今井釜の神・きさらづ石像五百羅漢等の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○房總、陸地、江戶より「きさら津」へ、陸は十八里、船にては十三里、それより、陸行(りくかう)にて、「かなふ山」へ四里、「關」へ二里半、「小塚」へ二里、是、嶽州の中央なり。是迄は、逆旅(げきりよ)[やぶちゃん注:旅宿。]有(あり)。

 「小塚」より、南邊(みなみあたり)、濱路に成(なり)て、逆旅、なし。

 同所、「長さの栅(さく)」ヘは、「かなふ山」より、「砂村」・「まへ原」・「濱荻」といふ村をへて、「甘津」といふへ、分れて至るなり。

 南うらの道路は「淸すみ」・「小みなと」などへ出(いづ)る。

 是より東に「七里法華」と云(いふ)有(あり)、みな、日蓮宗のみ住所(すむところ)の村にて、六部(ろくぶ)のものなど過(すぎ)ても、その跡を箒(はふき)にて、はくごとくに、いみきらふ風俗也。

 又、「きさらづ」よりも外(そと)に、南海へゆく道路あり、此濱路、あひだあひだに、宿、まじりてあり。「小濱」・「幡澤」・「人見」・「大塚」・「ふつ津」・「八はた」・「天神山」・「今井村」・「ひやくし」、此(この)「百子(ひやくし)」は、はんじやうの町なり。「ふつ津」は、あら海の際(きは)なり。

 「今井村」に「釜の神」と云(いふ)あり、大(だい)なる鐵の釜のふた也。わたり、六尺ばかり、厚さ、五寸七分ほどにて、ふたつにわれてあるを、神にまつりたる也。むかし海中にありしときは、海、あれて、漁獵なかりしかば、取あげて鎭守とせる、とぞ。

 此へんより、日本寺の羅漢へ、ちかし。近來の製にて、石にて五百羅漢をゑりて、山中に充滿せり。みな、岩石をかたどり、洞口(ほらぐち)にえりたるなどにて、みな、丈(じやう)よのもの也、とぞ。

[やぶちゃん注:「きさら津」現在の千葉県木更津市(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)。

「かなふ山」千葉県君津市にある鹿野山(かのうざん)。標高三百七十九メートル。旧上総国(千葉県中南部)の最高峰。

「關」千葉県富津市関

「小塚」千葉県鴨川市金束(こづか)であろう。

「嶽州」房州の山岳地帯の意か。

「長さの栅(さく)」これは現在の県道三十四号の長狭(ながさ)街道のことか。

「砂村」不詳。以下の順列から、前原の南方の海岸にある千葉県鴨川市磯村ではなかろうか。

「まへ原」千葉県鴨川市前原

「濱荻」千葉県鴨川市浜荻(はまおぎ)。

「甘津」千葉県鴨川市天津(あまつ)。

「淸すみ」千葉県鴨川市清澄(きよすみ)。

「小みなと」千葉県鴨川市小湊

「七里法華」小学館「日本国語大辞典」によれば、「七里ごとに法華の寺がある」の意で、千葉県の大網白里(おおあみしらさと)市や、東北で接する東金市附近には、極めて日蓮宗の信者が多いことを言う語で、単に「七里」とも言う、とあった。

「六部」は「六十六部」の略。本来は全国六十六か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された六十六部の「法華経」のことを指したが、後に専ら、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚僧のことを指すようになった。別称「回国行者」とも称した。本邦独特のもので、その始まりは聖武天皇(在位:神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年)の御代からとも、最澄(神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)の法華経書写を始めとするとも、もっと後の鎌倉初期ともされて定かではない。恐らくは鎌倉末期に始まったもので、室町を経て、江戸時代に特に流行し、僧ばかりでなく、俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿の着物に同色の手甲・脚絆・甲掛(こうがけ:足の甲に掛けて日光や埃を避ける布)・股引をつけ、背に仏像を入れた厨子を背負って鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した(ここまでは主に小学館「日本大百科全書」を参考にした)。後には巡礼姿で米銭を請い歩くのを目的とした乞食も、かく呼んだ。「法華経」崇拝ではあるが、元々は真言宗系から派生したものであるため、日蓮宗徒は排斥するのである。そのそも日蓮宗はファンダメンタルな傾向が強く、中でも、最も過激な不受不施派(「不受」は他宗の信者や未信者から供養・施物を受けないことで、「不施」は他宗の僧に布施供養をしないことを指す)は江戸時代も禁教であった。

「小濱」千葉県木更津市小浜(こばま)。

「幡澤」千葉県木更津市畑沢(はたざわ)であろう。

「人見」千葉県君津市人見

「大塚」不詳。君津市には大塚山があるが、順列からは、南東に片寄り過ぎになる。

「ふつ津」千葉県富津市の市街地。

「八はた」千葉県君津市八幡(やわた)。

「天神山」千葉県富津市海良(かいら)にある天神山城跡附近か。

「今井村」「釜の神」一の順列が大きく北へ変わるが、現在の千葉県袖ケ浦市今井にある神明神社ではないか? この神社は現在も「湯立神事」が行われており、境内に置かれた大きな釜に湯を沸かし、そこへ隈笹を浸して、参詣者に振りかけ、疫病退散を祈願している。作者の津村は、実際に自身で踏破して書いた記事は少ない。本篇も聴書に基づくものであろうと思われ、こうした齟齬があっても、私は不審ではない。

「ひやくし」「百子」不詳。識者の御教授を乞う。

「日本寺」千葉県安房郡鋸南町(きょなんまち)元名(もとな)にある曹洞宗乾坤山(けんこんざん)日本寺にある県指定名勝である「東海千五百羅漢」がある。]

譚海 卷之六 明朝慈聖大后佛法歸依の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「目錄」の標題中の「大后」はママ。]

 

○明の慈聖太后は、佛法、信仰にて、此ごろ、其自畫讚の魚藍觀音(ぎよらんかんのん)をみたりしに、畫法、氣韻とも備(そなへ)たる事なり。

 其讚は、

「大士應跡普濟基生、串錦就市飄然浪行、聖世廣運※能石流通、以綜國祚億萬斯齡。」

とあり。[やぶちゃん注:「※」は「𣃕」の(へん)の(くさかんむり)の下を「單」に代えた字。]

 石本(せきほん)[やぶちゃん注:石摺りの拓本。]にもせし事と見えたり。

 此太后、唐山に殘りある嵯峨釋迦の本像をも、金箔に、だみられたるよし、「帝京景物略」といふ書にも見えたり。

[やぶちゃん注:この一条、「讚」も読めず、「唐山に殘りある嵯峨釋迦」も判らないので、ろくな注が全く出来ない。悪しからず。

「慈聖太后」明の隆慶帝の妃嬪で万暦帝の母であった孝定太后(一五四六年~一六一四年)。姓は李氏。一五六七年に皇貴妃に封じられ、万暦帝が即位すると、慈聖皇太后と尊称された。財貨を喜び、仏教を尊崇した、と当該ウィキにある。

「魚藍觀音」当該ウィキによれば、『三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。中国で生まれた観音の一つで、同じ三十三観音のひとつである馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされる』。『唐の時代、魚を扱う美女がおり』、「観音経」・「金剛経」・「法華経」を『暗誦する者を探し、めでたくこの』三『つの経典を暗誦する者と結婚したが』、『まもなく没してしまった。この女性は』「法華経」を『広めるために現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された』。『形象は、一面二臂で魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがある。日本ではあまり単独で信仰されることはないが、東京都港区の魚籃寺、三重県津市の初馬寺、千葉県松戸市の万満寺、滋賀県長浜市木之本町古橋(旧鶏足寺)、長崎県平戸市生月町(生月観音)などにある』とあった。

「だみられたる」「だみ」は「だむ」「彩む」で「彩色する・いろどる」の他に、「金箔や銀箔をはる」の意がある。

「帝京景物略」劉侗(りゅうどう)と于奕正(うえきせい)によって編纂された書で、主に明代の北京の地理・寺院・自然・習俗などを録したもの。一六三五年(明の崇禎八年)の冬に刊行された。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に板本があるが、前記の通りで、調べる気にならない。]

譚海 卷之六 京都祇園住人大雅堂唐畫の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「唐畫」は「からゑ」。]

 

○京師に大雅堂といふ唐畫師(からゑし)、有(あり)。祇園茶店の女「ゆり」が娘の「らん」と云(いふ)が夫なり。

 家(いへ)、畫(ゑ)を、妻にも敎へて、唐畫を書(かき)習ける故、「玉蘭」と號するは、此(この)「らん」が事也。

 一年、黃檗山書院の畫、西湖の景を、大雅堂にかゝせけるに、あらゆる華本の西湖の圖をあつめて、眞を模し書(かき)たるゆゑ、筆蹟、華人にをとらず、一木一石までも、見つべき事なり、とぞ。

 さて、

「そのふすまの裏へ、何ぞ畫を。」

と、このみけるに、「五百羅漢の圖」を書(かく)べく思ひて、當時の博識にも談合せしに、

「只、平生(へいぜい)、枯得[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「感得」か。]したるまゝを、そのまゝに書(かき)たるが、よろしかるベし。」

と、了簡、定りて後(のち)、筆を下(おろ)しける。

 羅漢二百人は雲中飛行(うんちゆうひぎやう)の體(てい)、又、二百人は陸行(りくかう)の體、又、百人は水をわたる所を書(かき)たり。

 人物、すべて、豆の如く、四枚のふすまに、五百の羅漢、書縮(かきちぢ)めたる事、甚以(はなはだもつえて)奇特(きどく)なり。

「此書院襖(ふすま)の畫、大雅堂家、生涯の快筆也。」

と自讃せし、とぞ。

 大雅堂は、俗名、荒木周平といへり。

 此夫婦、和歌をも、かたの如く、詠ぜしゆゑ、冷泉前(さきの)大納言爲村卿、御門弟を願(ねがひ)しに、許容ありて、はじめて、彼(かの)家へ夫婚參謁(さんえつ)せし時、周平は木綿の淺黃布子(あさぎぬのこ)を着し、妻も賤(しづ)の女(め)のやう體(てい)にて參りたるを、めづらしき事に彼(かの)卿も思召けるといへり。

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之三 荒木周平の畫の事」も参照されたい。

「大雅堂」江戸中期の文人画家池大雅(享保八(一七二三)年~五(一七七六)年)。京都の町人として生まれた。姓は池野。号は他に九霞・九霞山樵・霞樵・玉梅・三岳道者など、頗る多い。堂号は待賈堂(たいかどう)・大雅堂・袖亀堂など。父池野嘉左衛門(かざえもん)は、京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別し、教育熱心な母の手で育てられた。数え年七歳の時、早くも宇治万福寺十二世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)から、その能書を褒められるなど、「神童」と評判を得た。絵は初め、「八種画譜」などの中国木版画譜を通じて、独学し、十五歳の頃には、扇絵(おうぎえ)を描いて、生計の足しとするなどした。やがて、中国の明・清の新しい画法、特に「南宗(なんしゅう)画法」に傾倒して、同好の士と、本格的な研鑽を積み、大和郡山藩の文人画家柳沢淇園(きえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになった。二十六歳の時、江戸から東北地方に遊んで、得意とする指頭画(しとうが:筆ではなく、自身の指先や爪を使って描くこと)に評判をとり、帰洛後、さらに北陸地方を遊歴、二十八歳の寛延三(一七五〇)年には、紀州藩に、文人画の大家祇園南海を訪れるなど、たび重なる遠遊で、自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉を持ち、人格を陶冶した。二十九歳の時には白隠慧鶴(えかく)に参禅してもいる。この頃、祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)[やぶちゃん注:本篇の「らん」は後に示す号からの誤り。]と結婚、真葛ヶ原に草庵を結んだ。舶載された中国の画論・画譜、また、真偽取り混ぜた中国画蹟を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法に、殊に啓発されながらも、独自の作風を確立した大雅は、三十代以降、新興の「文人画(南画)派」の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものではなく、桃山以来の障屏画(しょうへいが)を始め、土佐派や琳派などの日本の装飾画法、更には、新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容・総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や、明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊な空間把握を、その良き特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した「陸奥奇勝圖卷」や「兒島灣眞景圖」、中国的主題による「山水人物圖襖(ふすま)』(国宝・高野山遍照光院)や「樓閣山水圖(岳陽樓・酔翁亭圖)屛風」(国宝・東京国立博物館)、「瀟湘勝槪圖屛風」などの障屏画、さらに、文人画家の本領を発揮した「十便帖」(じゅうべんじょう)(与謝蕪村の「十宜帖(じゅうぎじょう)」と合わせて国宝。このセットは私も甚だ偏愛するものである)、「東山淸音帖(瀟湘八景圖扇面畫帖)」(とうざんせいいんじょう)などの小品と、さまざまな主題や、形式からなる、品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史に、一際、光彩を放つものとして、評価が高い。また、篆刻家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)と、特に親密に交友し、白山・立山・富士山の三霊山を踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(「三岳紀行」)。門下に木村蒹葭堂・青木夙夜・野呂介石・桑山玉洲らを出し、さらに後進の多くに、直接・間接の影響を与えて、日本南画の興隆に大きく貢献した。なお、妻の町(まち)は玉瀾(享保一三(一七二八)年~天明三・四(一七八四~一七八五)年)と号し(本文の「玉蘭」は誤りか、別表記)、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「冷泉前大納言爲村卿」公卿で歌人の冷泉為村(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)。正二位・権大納言。上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされている。歌人としてのみならず、茶の湯も嗜み、自作の茶杓や竹花入などが現存している。当該ウィキによれば、『石野広通・小沢蘆庵・屋代弘賢など、多数の門人を擁した。父為久が徳川吉宗の厚遇を得ていた関係から、武家に多くの門人がいた』ともある。]

譚海 卷之六 宇治黃檗山佛師范道生が事 / 卷之六~始動(ルーティン仕儀)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。

 

 譚 海 卷の六

 

〇隱元禪師、來朝の時、范道生(はんだうせい)といふ佛師を具せられたり。

 此道生、字(あざな)は「石甫」といひ、又、「印官」とも稱せり。

 禪師、宇治黃檗山(わうばくざん)建立の時、彼(かの)寺の諸佛像は、みな、此(この)范道生の造(つくり)たる、とぞ。

 木像・塑像、或(あるい)は、紙にて張立(はりたて)たるもあり。

 神彩(しんさい)、生動(せいどう)するが如く、殊に奇工也。

 當時、本邦の佛師、皆、范道生が弟子に成(なり)て、其業(そのわざ)を習傳(ならひつた)ふる事とせし、とぞ。

 されども、道生、歸國の念、頻(しきり)にして、諸佛造立の後(のち)、本尊計(ばかり)は、其雛形も、くろみたるまゝにて、自(みづから)造(つくる)に及ばず、歸國せし、とぞ。

 其跡にて、弟子の諸佛師、雛形にもとづきて、本尊をば、造(つくり)たり。

 本尊は、丈六の釋迦にて、名工のもくろみたるゆゑ、諸像にかはらず、妙、巧(たくみ)を具したる事、とぞ。

 檗山にては、「印官」と稱すれば、小僧までも、よく知りて、口實(くじつ)にする事也。

 范道生、畫(ゑ)も奇品なるものにて、その書(かき)たるを見たりしに、本邦の草畫(さうが)の如く、人物、殊に奇怪成(なる)もの也。

 京師に唐畫(からゑ)をかけるもの共も、常に檗山にあそびて、范道生が造(つくり)たる像を觀諦(くわんてい)して、その氣韻を寫す事とせし、とぞ。

[やぶちゃん注:「隱元禪師」(文禄元(一五九二)年~延宝元(一六七三)年)は明の僧。福州の人。承応三(一六五四)年、来日。山城宇治に黄檗山万福寺を開いた日本黄檗宗の開祖。所謂、「黄檗文化」を移入し、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えた。語録「普照国師広録」などがある。

「范道生」(一六三七年~一六七〇年)は明末に生まれた清代の仏師。日本に渡来し、萬福寺などで仏像彫刻する傍ら、画もよくした。字を石甫、通称を印官と称した。福建省泉州府晋江県安海の出身。参照した当該ウィキによれば、『官に仕え』、『印官の職にあったことで印官范道生と呼ばれた』。万治三(一六六〇)年に、明の渡来僧『蘊謙戒琬』(うんけんかいわん)の『招きに応じて』、『長崎に渡来し』、『福済寺に寓居して仏像を彫った。寛文』三(一六六三)年、『隠元隆琦に請われ』、『萬福寺に上り、弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作』し、『また』、『隠元の彫像をチーク材で製作している。仏像彫刻の』傍ら、『道釈人物図などを好んで画いた。寛文』五(一六六五)年、父の『賛公』の七十歳の賀を『祝うため』、『長崎にから便船に乗って広南に帰省』した。寛文一〇(一六七〇)年(既に明は滅んでいた)に『再来日したが、長崎奉行所は入国を許可せず、木庵性瑫』(しょうとう 一六一一年~ 一六八四年:明の渡来僧。黄檗山の隠元の法席を継いだ)が、『図南や瑞峰を使いに出して調停したが』、『不調に終わる。同年』十一月二日、『船中で吐血し』、『病没』した。『享年』三十六。長崎の『崇福寺に葬られた』とある。

「草畫」略筆の絵画。水墨、淡彩で、礬水(どうさ:明礬(みょうばん)を溶かした水に、膠(にかわ)を混ぜた液。墨や絵の具などが滲むのを防ぐために紙・絹などに塗る。「陶砂」とも書く)をひかない紙に書く。特に南画に多い。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「和野の怪事」 / 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」~完遂

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 本篇を以って柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の本文は終わっている。昨年の八月十日の始動だから五ヶ月余りかかった。読者には御礼申し上げる。

 

 和野の怪事【わののかいじ】 〔北国奇談巡杖記巻三〕同国<越後>弥彦《やひこ》より一里北に、和野村<新潟県西浦原郡内>といへる小邑《こむら》あり。爰に権七といヘるものの家にてありけるが、これは神無月<旧暦十月>廿日あまり、素雪《そせつ》ふりうづみて寒気つのり、いろりに語らひ、夕暮より雑炊《ざうすい》をこしらへ、節(ほどよ)く煮えるまゝ攪擾《かきまわ》さんとしけるに、俄かに屋上鳴動して、顒山(ぎやうさん)なる手を伸《の》べ、かの杓子を奪ひとり、鍋ともに引上げてけり。家内のものども消えかへる心地して、わなゝき恐れ、倒れつるもあり、逃《にぐ》るもあり。さるほどに一村寄集りて、区々に評議し、家内へいらんとするに、砂石いづくともなく投げいだして、手足に疵をかうむり、頭にあたることしきりにして、暫時に砂石庭中をうづむ。雪中のことなれば、あたりには礫《つぶて》のあるべきやうもなかりしに、あやしき侃言(あやまち)をなし侍る。半時ばかり屋上鳴動して止《やみ》ぬる故に、強勇の若ものども進みうかがふに、もとのごとく空しき虚鍋(からなべ)炉上にありけり。その翌晩に、また茶を焚《たき》て汲《く》まんとするを、前夜のごとく鳴り出《いづ》るゆゑ、兼ねて逃げ仕度《じたく》せしゆゑ、こゝろえて走り出《いで》ける。また翌日も試むるに、以前のごとくなれば、終《つひ》に虚屋(あきや)となして、みなみな他に出《いで》けるに、何の煩ひもなし。いかなることにや。いまだ不審に侍ると、ある人語らひ侍る。

[やぶちゃん注:天狗の石礫に類似するが、実際に砂石によって怪我を受けており、さらに飲食物が食い荒らされてあることから、冬場の困窮期なれば、賤民の仕業になる擬似怪談と思われる。

「北国奇談巡杖記」加賀の俳人鳥翠台北茎(ちょうすいだい ほっけい)著になる越前から越後を対象とした紀行見聞集。かの伴蒿蹊が序と校閲も担当しており、文化三(一八〇六)年十一月の書肆の跋がある(刊行は翌年)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第九巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字活字で読める(左ページ二行目から)。標題は『○和野の怪事』。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「生(はえ)ぬきの地蔵」』の引用元の次の項に当たる。その条から『越後國之部』となっている。

「越後」「弥彦より一里北」「和野村」「新潟県西浦原郡内」現在、「和野」の地名は見当たらない。しかし、弥彦神社大鳥居位置から北北東に一里行った位置に、新潟県新潟市西蒲区和納(わのう)がある(グーグル・マップ・データ)ので、ここに比定する。]

 

[やぶちゃん後記:この後、「引用書目一覧表」となる。散々、各話でオリジナルに解説してきたので、電子化する積りはない。但し、中には、宵曲の底本としたものとは、異なる底本であることもある。表の中では、五十音の単音毎(ごと)に一行空けが施されてあるが、『ちくま文芸文庫』の改題版「奇異異聞辞典」では、それがない。試みに、底本を『ちくま文芸文庫』のものと子細に比較してみたところ、底本では、「か行」(上記リンク先下段)に(字空けは再現していない)、

   *

海 録│山崎美成│文政~天保│国書刊行会本

   *

の一条が抜けていることが判った。因みに、一覧に掲げられた引用書は(同一作者の続篇等も一つと数えている)、「海録」を加えて、全百七種に及ぶ。

 次いで、奥付の前のページからページ逆方向で「索引」がある。これは、項目は総てで、それ以外に『文中のもので特に重要と思われるものも摘出』してあり、怪奇談好きには、使い勝手がよいものである。

 最後は奥付(「索引」の左ページ)。完全電子化は省略するが、上段の右に張られた版権所有紙に朱の「柴田」の認印があり、その左端に、『編者略歴』と標題して

   *

 明治三十年東京生まれ。
著書に「蕉門の人々」「子規
居士」「子規居士の周囲」
「古句を観る」などがある。

   *

とある。この内、「蕉門の人々」と「子規居士」は私のカテゴリ「柴田宵曲」で既にオリジナル電子化注を終わっている。因みに、私が今後、手掛けようと考えているものは、「古句を観る」である。以下(年月日に漢数字は底本では半角。編者名には珍しくルビがある)、

   *

初版発行 昭和二十六年一月三十一日

             定価八八〇円

  編 者 柴 田 宵 曲

   *

以下、発行者・印刷所・製本所、そして発行所住所と株式会社『東京堂』(電話・振替番号附き)とある。

 また、奥付の下方に太い横罫が引かれて、その下に、太字で(字空けは正確には再現していない)、

   *

 随 筆 辞 典 奇 編    ©1961

   *

とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鰐退治」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 

 鰐退治【わにたいじ】 〔梅翁随筆巻一〕志摩鳥羽より二里ほど辰巳[やぶちゃん注:南東。]の方にあたり、浦村といふ所あり。当所富士権現の境内は、風景無双の所なりといへども、海道筋ならねば、その名さへしるもの多からず。若しこの辺に遊ぶ人あらば尋ね行きて、その絶景を詠(なが)むべし。この村のものに浅六といふもの有り。大坂に所用有りて行き、江戸廻船の便船にて帰るとて、熊野浦へかゝりし時、海中に船すわりて、いかにすれども少しも動かず。これは鰐の見入りたるなるべし、銘々一品《ひとしな》づつ海へなげ入れ、鰐のその品をのみたるもの入水《じゆすい》すれば、残るものどもつゝがなく著船すべしとて、銘々投入れこゝろみるに、浅六が投げたる品をのみければ、是非なく海中へ飛入りける。さりながらこのまゝにて死《しな》んもあまり本意《ほい》なければとて、脇ざしを抜き持ちて入りけるを、鰐一口に吞みける時、腹の中にて切先《きつさき》の当りし所を幸ひ、力にまかせて切破れば、難なく鰐の横腹を切り抜きける。鰐はこの疵にて死したり。浅六もはじめのまれたる時、鰐の牙歯《きば》刃《やいば》の如くなるにて、所々破れければ、手足動かずして、これも海中に死しけるとなり。

[やぶちゃん注:「鰐」サメ・フカの類。

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○鰐を仕留し事』。

「志摩鳥羽より二里ほど辰巳の方にあたり、浦村といふ所あり」現在の三重県鳥羽市浦村町(うらむらちょう:グーグル・マップ・データ)。因みに、この東に接する三重県鳥羽市石鏡町(いじかちょう)は初代一九五四「ゴジラ」の「大戸島」の撮影地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)の浜の北のピークが、始めてゴジラが上半身を出現させる場所で、中央の浜が去った後の砂の上のゴジラの足跡を見下ろすシーンのそれである。私は一九五四「ゴジラ」のフリークであり、サイトのホーム・ページに置いてある「やぶちゃんのトンデモ授業案:メタファーとしてのゴジラ 藪野直史」で判る通り、これを高等学校の総合学習等で講義した。当該稿による授業実子は、過去、高校生対象に三度、中華人民共和国南京大学の二〇〇〇年度日本語科三年生に、一度、行っている。未見の方は、是非、どうぞ。本論考は、正規の学術論文にも引用されたことがある。

「当所富士権現の境内」浦村町内の神社は、現在は、ここにある浦神社(グーグル・マップ・データ)しか見当たらない。「ひなたGPS」の戦前の地図も、現行の国土地理院図でも同じく、ここにしか神社記号はない。前者のサイド・パネルの画像を見るに、「境内は、風景無双の所」と言えるかどうか、ちょっと疑問ではある。]

2024/01/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鷲と狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 遂に最終の「わ」に入った。

 

 鷲と狸【わしとたぬき】 〔譚海巻十〕日光山にある房の庭に、年へたる松一樹、谷へさし出てあるが、その松へ鳥の来てとまる度に、いつも鳥ねむるやうにしては、しばし有りて谷へはたとおつる事毎度たえず。年久しく見馴れたる事にて、不思議なる事にいひあふ事なりしに、或時鷲一羽飛び来りて、この松にとまりたりしが、例の如くこの鷲ねむるやうに見えしが、はたして谷ヘ落ちたり。さて谷底にておびたゞしくさわぎ、ひしめく音すれば、いかなる事と人々よりてのぞきたり。その谷の深ければ何事もみえず、おそろしきにくはしくものぞかず居たるに、やがてこの鷲羽ばたきをして、谷より飛び出でたるを見れば、大なる古狸を両手につかみて、雲をしのぎて飛びさりける。これより後、この松に鳥のとまる事あれども、ねむる事もせず、谷ヘ落る事も止みたり。かゝればこの谷に彼狸住みて、年頃鳥をばかして取り食ひける事なりしに、鷲にはかなはずして、つひに取りさられぬるにこそと、そこの人いひけるとぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷十 下野國日光山狸鷲につかまれたる事(フライング公開)」を作成しておいたので、そちらを参照されたい。]

譚海 卷之十 下野國日光山狸鷲につかまれたる事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 日光山にある房の庭に、年へたる松一樹、谷へ、さし出てあるが、その松へ、鳥の來てとまる度(たび)に、いつも、鳥、ねむるやうにしては、しばし有りて、谷へ、

「はた」

と、おつる事、每度、たえず。

 年久しく見馴(みな)れたる事にて、

「不思議成(なる)事。」

に、いひあふ事成(なり)しに、或時、鷲、一羽、飛(とび)來りて、此松に、とまりたりしが、例の如く、此鷲、ねむるやうに見えしが、はたして、谷ヘ、落ちたり。

 さて、谷底にて、おびたゞしくさわぎ、ひしめく音すれば、

「いかなる事。」

と、人々、よりて、のぞきたり。

 その谷の、深ければ、何事も、みえず。

 おそろしきに、くはしくも、のぞかず居(をり)たるに、やがて、此鷲、羽ばたきをして、谷より、飛出(とびいで)たるを、見れば、大(だい)なる古狸(ふるだぬき)を、兩手に、つかみて、雲を、しのぎて、飛(とび)さりける。

 是より後(のち)、この松に、鳥のとまる事あれども、ねむる事もせず、谷ヘ落(おつ)る事も、止みたり。

 かゝれば、

「此谷に、彼(かの)狸、住(すみ)て、年頃、鳥をばかして、取食(とりく)ひける事なりしに、鷲には、かなはずして、つひに、取(とり)さられぬるにこそ。」

と、そこの人、いひけるとぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鷲と猿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。

 遂に最終の「わ」に入った。

 

   

 

 鷲と猿【わしとさる】 〔醍醐随筆〕飛驒の奥山に入りて狩するに、猿の数々なきさわぎぬる。いかなる故ぞと見居《みをり》たれば、むかふの大木の梢にすみける鷲が猿の子を攫《つか》みとりてさきくらふなる。親猿やありけむ、殊にすぐれてもだえかなしみけるが、かの大木の葉かげよりねらひよりて上るに音もせず。友猿四五十つゞきけり。先がけの猿とびかゝり、鷲の足にとりつけば、四五十の猿声をあげてひたひたと取りつく。足にも翅《はね》にも蟻のごとくつきたれば、鷲も多力のとりなれども、こらへず地へ落ちけり。つたかづらといふものを手々《てんで》にもちて、一まきづつまきてとびのく。すべて百ばかりの猿にまかれて、鷲はすこしもうごかず。俵もののごとくになりぬ。猿ども谷々へかへり行きたれば、狩人これを拾ひとりて人々にみせける。親猿いかばかりかなしくて身のをき所もなきまゝに、かゝるはかり事をやなしつらん。我業とする狩も、この鷲にたがふことなしとて、それより狩をやめけると、不破翁飛驒国に客遊せしとき、その人のかたるをきゝけるとぞ。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る。右ページの上段(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「路上の姫君」 / 「ろ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ろ」の部は終わっている。後は「わ」の部のみで、全四話である。]

 

 路上の姫君【ろじょうのひめぎみ】 〔梅翁随筆巻四〕午のとし聖堂御普請はじまりて、御仕法《おつかいはふ》改まり、御目見《おめみえ》以上の惣領・厄介御教育あらんがため、学問所その外所々に御取立あり。寄宿いたしてなりとも、通ひてなりとも、勝手次第に修行さしつかへなきやうにとの御趣意にて、間数《まかず》多く相成るに付きて、湯嶋本郷辺<東京都文京区内>の武家町家御用地に上り、この時より本郷通り曲りて通る道筋となれり。大成殿御建立によりて、所々人歩(にんぷ)多く集りけるにや、普請に本郷より出る仕事、少くとも五六人連にてまゐりける。道に板〆(《いた》じめ)[やぶちゃん注:「板締め」染色法の一つ。文様を彫った薄板二枚の間に縮緬その他の絹織物を挟んで固く締め、文様を白く染め抜いたもの。「纐纈(こうけち)」・「夾纈」(きょうけち)の類。「いたじめしぼり」とも呼ぶ。]緋縮緬《ひちりめん》の大振袖の下著《したぎ》に、しごき帯をして、その上に八丈嶋の小袖をかいどり[やぶちゃん注:「搔取」。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げること。]のごとく著たる十七八ばかりの娘、垢付きたる木綿ものの所々破れて、わたの出《いで》たるを著たる五十頃の親仁、手を引《ひき》て来《きた》るに行逢《ゆきあ》ひしに、かの娘このものどもを見て、たすけよかしと涙を流していふ。容色すぐれてつまはづれ[やぶちゃん注:「褄(爪)外れ」。立ち居振る舞い。]尋常にして、誠にいやしからざる体《てい》なれば、そのよしを尋ぬるに、親仁のこゝろ得ぬ挨拶なれば、仕事師の親分、いづれその姿にては見ぐるし、我方へ来りて支度すべしとて、無理に我かたへともなひかへり、先づ娘によごれし足を洗はせけるに、仕付けぬ体《てい》にて、しかも手拭を土辺《どべ》[やぶちゃん注:地べた。]へなげすてるゆゑ、いかにととへば下をぬぐひて不浄なりといふ。その体《てい》空気(うつけ)とは見えねども、身形(みなり)じだらくにして、帯をも一人にては締め兼(かね)るやうすなり。この娘を親分預るべしといへども、親仁同心せず。既に高声になりて、打てよたゝけよといふを、家主聞き付けて中へわけ入りて、親仁を家主方へ預け、かの女の様子を問ふに、名をさへ知らぬゆゑ勾引(かどはかし)たるべしと、大勢立ちかゝり申すに、親仁言句《ごんく》も出ず、早々逃げうせけり。それより娘に宿所《しゆくしよ》、親の名など問ふに、兎角泣き居てものをもいはず。その夕かた人品《じんぴん》よき町人来りて、かの娘は出入屋敷《でいりやしき》の人なれば、貰ひうけたきよし申せども、最初の親仁かたよりの廻しものならんとて取合はず。しかるにその夜《よる》重立《おもだ》ちし役人ともいふべき侍《さふらひ》きたりて、われら屋敷の奥を勤むる女、この方《かた》に居《を》るよし、受取に参りたりといふ。その体《てい》しかるべき人品なれば、則ち娘に引合せしに、かの娘この侍を見て、はじめて安堵せしやうにて、もの語りする体《てい》、主従のごとくなり。この侍は浜町<東京都中央区日本橋浜町>のさる屋敷の家来なれば、則ちわたし遣はしければ、何かの礼として樽代五十金おくりけるとなり。或人の話に、この侯は乱舞をこのみて、度々能《のう》はやし有りて、下谷<台東区内>よりまゐる笛吹《ふえふき》の美少年ありしが、いかゞの訳にや、姫君としのび逢ひけるが、近ごろ折あしくて見えがたきを歎き、れんぼのあまり腰もとを連れて出奔し、道に迷ひて有りしとなり。この屋敷奥向と表との境に竹藪あり。篠竹あつくしげりて、路次《ろし》たえたるが如しといへども、これを潜《くぐ》り出れば、直《ぢき》に表へ出《いづ》るゆゑ、此処より若侍ども通ひて、奥の女中と密通すること数年《すねん》なり。役人どもはしらずや有りけん。覚束なし。今度《このたび》姫君もこれより忍び出《いで》て、美少年のもとを尋ねかねて、かの親仁にとらへられしなるべし。

[やぶちゃん注:私は、この手のお姫さまお忍び「ローマの休日」式の奇談が、好きだ。例えば、私が古文の授業用に作ったサイト版「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の『【第二夜】「妖しい少女」~存在しない不可思議な少女は都会の雑踏の闇に忽然と姿を消した!』の話、決定版はブログ版の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事』のそれなんか、下手な創作奇談なんぞより、遙かに面白いぞ!!!

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○聖堂御造營の事』。

「聖堂御普請はじまりて」湯島聖堂、及び、それに並置された幕府直轄の「昌平坂学問所」(「昌平黌」(しょうへいこう))のこと。ウィキの「湯島聖堂」によれば、元禄三(一六九〇)年、『林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた』翌元禄四年二月七日に『神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している』。『大成院の建物は、当初』、『朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後』、『度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて』、『再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後』、『寛政異学の禁により』、『聖堂の役目も見直され』、寛政九(一七九七)年には、『林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる』。『「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また』、二『年後の』寛政一一(一七九九)年(本話の時制)には、長年、『荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は』一万二千坪から、一万六『千坪余りとなり、大成殿の建物も』、『水戸の孔子廟に』倣い、『創建時の』二・五『倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた』。『ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後』、明治四(一八七一)年に『後進の昌平学校は閉鎖された。教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして』明治三年、『太政官布告により東京府中学が』、『この地を仮校舎として設置された』。『昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置された』。『また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「轆轤首」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は、大人気の轆轤首であることから、五話と、ややや長い。一字空けで、連続してしまっているが、注が附け難いので、特異的に改行して、注を挟んである。]

 

 轆轤首【ろくろくび】 〔甲子夜話巻八〕先年能勢伊予守訪ひ来て話せし中に、世に轆轤首と謂ふもの、実に有りとて語れり。末家能勢十次郎の弟を源蔵と云ふ。かれ性強直、拳法を西尾七兵衛に学ぶ。七兵衛は御番衆にして十次郎の婚家なり。源蔵師且親戚を以て常に彼の家に留宿す。七兵衛の家に一婢あり。人ろくろくびなりといへり。源蔵あやしみて、家人にその事を問ふに違はず。因て源蔵その実を視んと欲し、二三輩と俱に夜その家にいたる。家人かの婢の寝るを待ちてこれを告ぐ。源蔵往きて視るに、婢こゝろよく寝て覚めず。已に夜半を過れども、未だ異なることなし。やゝありて婢の胸のあたりより、僅かに気をいだすこと、寒晨に現る口気の如し。須臾にしてやゝ盛に甑煙の如く、肩より上は見えぬばかりなり。視る者大いに怪しむ。時に桁上の欄間を見れば、彼の婢の頭欄間にありて睡る。その状梟首の如し。視る者驚駭して動くおとにて、婢転臥すれば、煙気もまた消え失せ、頭は故の如く、婢尚よくいねて寤めず。就て視れども異なる所なしと。源蔵虚妄を言ふものにあらず、実談なるべしとなり。また世の人云ふ、轆轤首はその人の咽に必ず紫筋ありと。源蔵の云ふところを聞くに、この婢容貌常人に異なる所なし。但面色青ざめたり。またこの婢の斯の如くを以て、七兵衛暇をあたへぬ。時に婢泣いて曰く、某奉公に縁なくして、仕ふる所すべてその期を終へず、皆半にして此の如く、今また然り、願はくば期を完うせんと乞ひしかど、彼の怪あるを以て聴入れず。遂に出しぬ。彼の婢は己が身のかくの如きは露しらぬこととぞ。奇異のことも有るものなり。予<松浦静山>年頃轆轤首と云ふもののことを訝しく思ひたるに、この実事を聞きぬ。これ唐に飛頭蛮と謂ふものなり。

[やぶちゃん注:ルーティンで事前に公開しておいた「甲子夜話卷之八 5 轆轤首の話」を見られたい。]

〔閑田耕筆巻二〕世に轆轤首といふは、一種の奇病とす。あるひは是を飛頭蛮に混じて、数丈の間に徘徊するなどもいふを、俳諧師の遊蕩一音[やぶちゃん注:読み不詳。取り敢えず「ひとね」と訓じておく。]といへる男、正しく見たる話あり。その若き時、江戸新吉原にして一妓容貌美なる者を見て、即ち相接し、朝に帰るさ、友人のもとへ立より、この美貌を撰み得て接することを誇りしに、集ひたる二三の少年ども、皆掌を拍《う》ちて笑ふ。なぞといへば、子《し》しらずや、それはろくろ首の名有り、何の怪しきこともなかりしやといふ。一音初めは戯言なりと思ひてあらがひしかども、友人皆、その聞くことの遅きを嘲りて止まねば、さらば急に実否を見はてんといひて、またその席より引かへしてかしこにいたる。かの渡部《わたなべ》ノ綱が羅城門に趣きし心地なりけんと思ふもをかし。さて遊び戯れ、あまりに酔ひて、一ト夜よく寝(いね)て、明はてぬるに、かくながら帰りては、友人のためにいふべき詞なしと思ひて、またその日もそこに暮し、この夜は先(さき)の夜に懲りて、酔ひたるふりながら、露ばかりもねぶらず窺ひしに、妓は馴れてやゝ心解けしにやあらん、熟(うま)く眠りぬ。夜半過《すぐ》るころほひ、一音眼を開て見れば、その首、枕を離るゝこと一尺ばかりにして垂れたるに、心得ながらもおどろきてかけ出、われしらず大声をたてたれば、不寝《ねず》の番する男とみに来りて、一音が口をふたぎ、この客(まらうど)はおそはれ給へり、皆おはしませとわめきて、紛らはしたれば、かれこれの妓ども起出て、彼の妓は退《しりぞ》けて後《のち》、酒を勧め夜を明し、さて朝になりて家主より、こと更に盛膳《せいぜん》を出《いだ》し、人をもてひそかにいへらく、もしあやしと思《おぼ》すこともあらめど、必ず口に出し給ふことなからんを、深くねぎまゐらす、あしき名とりては、吾家《わがや》大かたならぬ愁《うれひ》に侍りと、ねもごろにいひしとぞ。おのれこの形状に思ふに、轆轤の名のごとく、頸の皮の屈伸する生質《たち》にて、心ゆるぶ時は伸ぶるなり。病《やまひ》にはあらじ。もとより飛頭蛮の話のごとく、数丈廷びて押下(なげし)に登るなどやうのことは、あるまじきことなり。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。]

〔蕉斎筆記〕浄国寺先住増上寺の寮に居られし時、或夜人の首と覚しきもの、胸のあたりに来《きた》ると覚えしゆゑ、そのまゝ取りて抛《な》げられしが、行《ゆき》かたしれずなりにけり。翌朝に至り下総より抱へ置き候下人、不快の由にて起きざる故、自身には飯も炊き給(たべ)られけるに、昼時分になり下人漸《やうや》く起出でたり。和尚に向ひ願ひけるは、私へ御暇《おいとま》下さるべしと申しければ、不審に思ひ尋ねられけるに、下人申しけるは、御恥かしき事には候へども、夜前《やぜん》御部屋へ首は参り申さずや。成程首と覚しきもの、胸のあたりへ来りける故、抛付けたり、それより行方しれずなりぬ。その事にて候、私は下総の者にて抜首《ぬけくび》疾(やまひ)御坐候、きのふ手火鉢《てひばち》へ水入れやう遅きとて御叱りなされ候に、あれ程には御叱りに及ばざる事なりと思ひし故、夜前抜首になり御部やへ参り候、都(すべ)て腹立つ事あれば、いかに慎みても夜中に抜出申候、最早御勤めも相成申さずとて、暇を乞ひ帰りけるとなん。下総国はこの病あまたありとぞ。和尚の直咄《ぢきばなし》なり。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段五行目から次のコマまで)で視認出来る。最後にある絶対が一字下げの、否定的附記、及び、それに反論する「附箋」(筆者でない別人のそれと推定される)の一節が、カットされてある。以下に電子化しておく。

   *

私に云、此事虛說なるべし、誠の首拔出て行べきやうなし、可ㇾ信事にあらず、

〔附箋〕轆轤抔とて、五雜爼等にも書載せあれば、强ち虛說とも言ひがたし。

   *

この「五雜爼」は「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろう、という見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。以上から、中国で電子化されたものが見当たらず、刊本は所持しないので、当該部は判らない。早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあるが、探すのが面倒なので、やらない。悪しからず。]

〔耳袋巻五〕宝暦の頃、神田佐柄木町<東京都千代田区内か>の裏店に、細元手に貸本をなして世渡りせし者有りけるが、不思議の幸ひを得し事ありしとや。その頃遠州気賀最寄りに有徳なる百姓有りしが、田地も六十石余所持して、男女の僕も少からず、一人の娘有りしが、容顔また類なく、二八の頃も程過ぎて、所々へ聟の相談をなしけるに、年を重ねて調はざる故、父母も大いに歎き、格禄薄き家よりなりとも聟を取らんと、種々辛労すれど、彼娘は轆轤首なりといふ説、近郷近村に風聞して、誰ありてうけがふ者なし。彼娘の飛頭蛮なる事、父母も知らず、その身へ尋ねけれどいさゝか覚えなけれど、邂逅(たまさか)に山川を見廻る夢を見し事あれば、かゝる時我首の抜出《ぬけいづ》るやと言ひて、誰《たれ》見たる者もなけれども、一犬影に吠ゆるの類《たぐひ》にて、その村は更なり、近郷近村迄もこの評判故、聟に来る者なく、富饒《ふねう》の家の断絶を父母も歎き悲しみしが、伯父なる者江戸表へ年々商ひに出しが、かゝる養子は江戸をこそ尋ねてみんとて、或年江戸表へ出て、旅宿にて色々人にも咄し、養子を心掛けしに、誰有りて養子に成るべきと言ふ者なし。旅宿の徒然《つれづれ》に呼びし貸本屋を見るに、年の頃取廻しも気に入りたれば、かゝる事あり、承知なれば直《ただち》に同道して聟にせんと進めければ、かの若者聞きて、我等はかく貧しき暮しをなし、親族とても貧なれば支度も出来ずと言ひければ、支度は我々よきに取賄《とりまかな》はん間《あひだ》参るべしと進めける故、禄も相応にて娘の容儀もよく、支度のいらざるといへるには、外に訳こそあるべしと切《せつ》に尋ねけれど、何にても外に仔細なし、只轆轤首というて人の評判なせるなりとの事ゆゑ、轆轤首といふもの有るべき事にあらず、仮令《たとひ》轆轤首なりとて恐るべき事にもあらず、我等聟になるべしと言ひければ、伯父なる者大いに悦びて、さあらば早々同道なすべしと申しけれど、貧しけれども親族もあれば、一通り咄しての上挨拶なすべしとて、かの貸本屋は我家に帰りしが、色々考へみれば、流石に若き者の事ゆゑ、末々如何有らんと迷ひを生じ、兼ねて心安くせし森伊勢屋といへる古著屋の番頭へ語りければ、それは何の了簡か有るべき、送ろ首といふ事あるべき事にもあらず、たとひその病《やまひ》ありとも、何か恐るゝにたらんや、今後かの貸本屋をなして生涯を送らん事のはかなさよと、色々進めければ、かの若者も心決して、弥〻行かんと挨拶に及びければ、かの伯父なる者大いに悦びて、衣類・脇差・駄荷《だに》其外、大造《たいさう》に支度《したく》をなして、かの若者を伴ひけるが、養父母も殊の外悦び、娘の身の上を語りて歎きける故、かゝる事有るべきにあらず、よしありとて我等聟になる上は何か苦しかるべきと答へける故、両親娘も殊の外欣びて、まことに客(まらうど)の如くとゞろめける由。素より右娘、轆轤首らしき怪しき事いさゝかなく、夫婦めでたく栄えしかど、またも疑ひや有りけん、何分江戸表へ差越さず、これのみに難儀する由、森伊勢屋の番頭が許へ申越しけるが、年も十とせ程過ぎて、江戸表へ下りて、今は男女の子共も出来ける故にや、江戸出もゆるし侍るゆゑ罷り越したりと、かの森伊勢屋へも来りて、昔の事をも語りしと、右番頭予<根岸鎮衛>が許へ来り、森本翁へ咄しける。森本翁もその頃佐柄木町に住居して、右の貸本屋も覚え居たりと物語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」を参照されたい。]

〔北窻瑣談巻四〕越前国敦賀、原仁右衛門といへるは、余<橘春暉>が多年格別懇意の人なり。この人、用の事ありて、数月《すげつ》京へ登り居《ゐ》し留守の事なりしが、その妻千代といへるが、二歳になる岩助といふ小児を養育し、下婢《はしため》一人召遣ひ居《をり》けるに、主人旅行の留守なれば、外に男子もなければ淋しとて、また一人廿六七歳ばかりなる下婢をやとひ、留守を守り居けり。寛政元年酉十月[やぶちゃん注:一七八九年十一月十七日から十二月十六日。]の事なりし。夜更けてかの下女、殊の外にうめきければ、妻も目覚めて、持病に痰強き下女なれば、また痰や発(おこ)れる、尋ねばやと思ひしに、枕もとに有りける有明《ありあk》の燈火(ともしび)消え居《ゐ》ければ、小児を懐(ふところ)に抱《いだ》きながら起出《おきいで》て、燧《ひうち》をうち、有明の燈火を点じ、下女がいねたる次の間の障子を開きたるに、下女が枕もとの小屛風の下に、何か丸きもの動きて見えければ、何やらんと有明の燈火をふり向け見るに、下女が首《くび》引結髪(ひつくくりがみ)のまゝにて、屛風の下に引添《ひつそ》ひ、一二尺づつ屛風へ登り付《つき》ては落ち、登り付ては落ちする程に、妻も見るより胆《きも》消え魂《たましひ》飛んで、気絶もすべく覚えしが、小児を抱き居《をり》ければ、驚かん事を恐れ、右の手に小児をかゝへ、左りの手に有明の燈火をさげて、その儘に居《ゐ》すわり、暫くは物も言はで有りけるが、かの首毎度《まいど》屛風へ登り付ては落ち落ちして、つひに屛風を越えて内に入り、また下女がうめきおそはる声聞えし。妻は下女をも起し得ずして、その儘に障子引《ひつ》たて、また我閨《わがねや》に入りて、夜《よ》明《あく》るまで目も合はず。蒲団を引被《ひつかづ》き居《ゐ》て、夜明《よのあく》るを待ちかねて、里方《さおかた》の大坂屋へ人して、急《きふ》に兄の長三郎を呼び、しかじかの事をかたり、何となく他《た》の事に寄せて下女にいとまやりぬ。この下女、仁右衛門留守中ばかりやとひたる事にて、近き町の者なりければ、世上の評説を恐れて、この事深く秘し、今一人の初めより居《ゐ》る下女へも聞かしめず。唯京に居ける夫仁右衛門へ、この事告げ来《きた》るついでに、余が多年親しき事なれば、文(ふみ)して委しく申来れり。後《のち》にその妻も京に登り住みければ、余も直《ぢき》に猶委しく聞けり。夢幻(ゆめまぼろし)などの事にてはなく、正しく轆轤首を見けるも、いと奇怪の事なりける。余、この事を後《のち》につくづく考ふるに、妖怪にてはなく、病《やまひ》の然《しか》らしむる事なるべし。痰多き人は、陽気頭上にこずみ[やぶちゃん注:一つ所に凝り固まって。]、その気、形を結んで首より上に出《いづ》るなるべし。その人の寝《いね》たるを見ば、正真《しやうしん》の首はその儘、身に付《つき》て有るべし。離魂病《りこんびやう》の類《たぐひ》なるべし。かの下女は鋲風の内に寝《いね》たる事なれば、首は身に付き居りしや無かりしや、見ざりしと妻女語りき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(右ページ四行目から)。

「離魂病」現在で言うドッペルゲンガー(Doppelgänger)を他者が見ること。]

甲子夜話卷之八 5 轆轤首の話

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-5

 先年、能勢(のせ)伊豫守、訪來(たづねきたり)て話せし中に、

「世に『轆轤首(ろくろくび)』と謂ふもの、實(まこと)に有り。」

とて、語れり。

「末家(まつけ)、能勢十次郞の弟を、源藏、と云(いふ)。かれ、性(せい)、强直(がうちよく)、拳法を西尾七兵衞に學ぶ。七兵衞は御番衆にして、十次郞の婚家なり。源藏、師、且(かつ)、親戚を以て、常に彼《かの》家に留宿す。

 七兵衞の家に一婢あり。人、

『ろくろくびなり。』

と、いへり。

 源藏、あやしみて、家人に其ことを問(とふ)に、違(たが)はず。

 因(よつ)て、源藏、其實(そのじつ)を視(み)んと欲し、二、三輩と俱に、夜、其家に、いたる。

 家人、かの婢の寢(しん)を待(まち)て、これを告ぐ。

 源藏、往(ゆき)て視るに、婢、こゝろよく寐(いね)て覺(さめ)ず。已に夜半に過(すぎ)れども、未だ異なること、なし。

 やゝありて、婢の胸のあたりより、僅(わづか)に、氣を、いだすこと、寒晨(さむきあさ)に現(あらはる)る口氣(こうき)の如し。

 須臾(しゆゆ)にして、やゝ盛(さかん)に甑煙(そうえん)[やぶちゃん注:「甑」(こしき=蒸し器)から登る蒸気。]の如く、肩より上は、見へぬばかりなり。

 視(みる)者、大(おほい)に怪(あやし)む。

 時に、桁上(けたうへ)の欄間(らんま)を見れば、彼(かの)婢の頭(かしら)、欄間にありて、睡(ねぶ)る。其狀(かたち)、梟首(けうしゆ)の如し。

 視者、驚駭(きやうがい)して動くおとにて、婢、轉臥(ねがへり)すれば、煙氣も、また、消(きえ)うせ、頭は、故の如く、婢、尙、よくいねて、寤(さめ)ず。

 就(つい)て[やぶちゃん注:そばに寄ってしっかりと。]視れども、異(ことな)る所、なし。」

と。

「源藏、虛妄を言ふ者にあらず。實談なるべし。」

と、なり。

 又、世の人、云ふ。

「轆轤首は、其人の咽(のど)に、必ず、紫筋(むらさきのすぢ)あり。」

と。

「源藏の所ㇾ云を聞(きく)に、

『この婢、容貌、常人に異なる所、なし。但(ただし)、面色、靑ざめたり。又、此婢、如ㇾ斯(かくのごと)きを以て、七兵衞、暇(いとま)を、あたへぬ。時に、婢、泣(なき)て曰、

「某(それがし)、奉公に緣なくして、仕(つかゆ)る所、すべて、其(その)期を終(をへ)ず、皆、半(なかば)にして如ㇾ此。今、又、然り。願(ねがはく)は、期を完(まつた)ふ[やぶちゃん注:「ふ」はママ。]せん。」

と乞(こひ)しかど、彼(かの)怪あるを以て、聽入(ききい)れず、遂(つひ)に出(いだ)しぬ。

 彼(かの)婢は、己が身の、かくの如きは、露(つゆ)しらぬこと、とぞ。

 奇異のことも有(ある)ものなり。

 予、年頃(としごろ)、「轆轤首」と云ふものゝことを訝(いぶかし)く思(おもひたるに、この實事を聞(きき)ぬ。

 これ、唐(もろこし)に「飛頭蠻(ひとうばん)」と謂(いふ)ものなり。

■やぶちゃんの呟き

「能勢伊豫守」ウィキの「能勢氏」によれば、『江戸時代、能勢氏は数家に分かれ、それぞれ旗本として存続した。能勢本家は地黄陣屋を拠点として』、四千『石の交代寄合として幕末に至った。また、幕末期には庶家を含め一族は』十四『家を数え、総知行高は』一『万』三『千石を数えたとされる。現在、能勢氏の菩提寺である清普寺の境内に一族の墓所がある』とある内の一人であろう。

「轆轤首」私の怪奇談でも枚挙に遑がないほどあるが、何より、本邦の「轆轤首」を世界的に有名にしたのは、小泉八雲をおいて他にはない。私の「小泉八雲 ろくろ首  (田部隆次訳) 附・ちょいと負けない強力(!)注」を見られたい。無論、宵曲の「妖異博物館」には、「轆轤首」がある。

「婢の胸のあたりより、僅に、氣を、いだすこと、寒晨に現る口氣の如し。須臾にして、やゝ盛に甑煙の如く、肩より上は、見へぬばかりなり」この部分は(後の欄間の首は幻覚でしかないと私は退ける)、やや不思議な事実ではあるが、或いは、彼女は何らかの疾患を持っており、(例えば、結核)なのかも知れない。夜間に、胸部から上が発熱しているのやも知れぬ。下女部屋は、暗く、暖房もないから、上気したそれが、煙のように見えてもおかしくはないと思う。

「轆轤首は、其人の咽に、必ず、紫筋あり。」これも本邦の轆轤首になるという女で、しばしば言及されてある(「紅い筯」とも言う)。単に、首の皺が目立つだけで、極めて理不尽な差別に過ぎない。そうした擬似轆轤首譚の中でも、ハッピー・エンドのそれが、「耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事」である。是非、読まれたい。

「飛頭蠻」は轆轤首の本家本元である中国の妖怪。但し、近世の創出になるメジャーな首が延びるタイプではなく、八雲のそれと同じで、首のみが分離して飛行(ひぎょう)する型である。正確には、身体と首(頭部)の間には、糸状の連結部があるものが多い。私の『「和漢三才圖會」巻第十四「外夷人物」より「飛頭蠻」』を見られたい。

甲子夜話卷之八 4 麒祥院所藏牧溪の畫

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 壬午(みづのえうま)の春、天祥寺に詣(まうで)たるとき、南道老和尙の話(はなせ)しは、

「湯嶋の麟祥院に、牧溪(もつけい)の畫(ゑがき)し寒山拾得、豐干禪師の大幅あり。其畫、中ばかり、戶一枚の大さもやあらん。此國を彼(かの)院より、水戸侯に呈して、金五百鐐(りやう)[やぶちゃん注:「鐐」は良質の銀を指すが、ここは「兩」に同じであろう。]に購(あがなひ)せられしとなり。何なるものか視たく欲(ほし)き也。又、聞く、この圖の始(はじめ)は、滕益道(とうえきだう)と云(いへ)る書家、臘月[やぶちゃん注:十二月の異名。]に持來(もちきたり)て、南道の師なる雄峯和尙に售(うら)んと謀る。時窮陰にて、峯も、金、乏(とぼし)きを以て、これを麟祥院に轉送す。これ其畫なり。」

と云。

 其本(そのもと)、何れより出(いで)たるか。

■やぶちゃんの呟き

「壬午」文政五(一八二二)年だが、「臘月」(十二月の異名)は既に一八二三年一月から二月相当。

「天祥寺」現在の東京都墨田区吾妻橋にある臨済宗妙心寺派向東山(こうとうざん)天祥寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。当該ウィキによれば、寛永元(一六二四)年に『創建された。現在の台東区にある海禅寺が兼帯する寺院として建てられ、当初の名称は「嶺松院」であった』。元禄六(一六九三)年、静山の高祖父『平戸藩』第四代『藩主松浦鎮信』(しげのぶ)が、『海禅寺より』、『嶺松院を譲り受け』、優れた禅僧として知られる『盤珪国師を中興とした』。正徳六(一七一六)年、静山の曽祖父の第六代藩主松浦篤信(あつのぶ)の時、『近くに松嶺寺という寺号が類似する寺があり』、『紛らわしいため、鎮信の戒名「天祥院殿慶厳徳祐大居士」』『から、「天祥寺」に改名した』とある。

「湯嶋の麟祥院」臨済宗妙心寺派天澤院麟祥院

「牧溪」(生没年未詳)宋末元初の禅僧画家。法諱は法常。杭州西湖の六通寺の開山となったが、宰相賈似道(かじどう)を非難して追われ、紹興に逃げた。画は龍虎・猿鶴・山水・人物など、あらゆる画題をよくし、多くは水墨で、甘蔗の搾り滓や藁筆を用いて描いた。中国ではあまり高く評価されていないが、本邦では、室町以降、「和尚絵」と呼ばれ、珍重されてきた。代表作は大徳寺蔵「観音猿鶴図三幅」。

「寒山拾得」唐代の寒山と拾得の二人の詩僧。寒山が経巻を開き、拾得が箒を持つ図は、禅画の画題として頓に知られる。

「豐干禪師」(生没年未詳)唐代の僧。天台山国清寺にいたと伝えられ、寒山・拾得の二士を養い、後世、併せて三聖と呼ばれる。

甲子夜話卷之八 3 狐、禽類もばかす事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 邸隣(やしきどなり)に住(すめ)る人の曰(いはく)、

「某(それがし)幼少のとき、上野山下の根岸に住す。其とき、山より、老狐、出(いで)て、能(よく)馴れ、後(のち)は、食を與(あたふ)れば、屋中に入(いり)て人傍(ひとのかたはら)に在(あり)て、食ふ。

 この狐、人のみに非ず、禽類(きんるゐ)をも、ばかす、と覺へ[やぶちゃん注:ママ。]て、一日(あるひ)、烏、來て、樹抄(こづえ)に在り。かの狐、其樹を囘(めぐ)れば、烏、飛去ること、能(あた)はず。

 狐、樹下に居(ゐ)て、頭(かしら)を搖(ゆら)せば、烏も、樹上に在(あり)て、亦、

頭を搖す。

 一切、狐の爲すが如くせり。」

 然(しか)れば、血氣あるものは、飛走(ひさう)の類(たぐゐ)も惑(まどは)すものと見へたり。

■やぶちゃんの呟き

「邸」静山の隠居所は松浦藩下屋敷で本所にあった。

甲子夜話卷之八 2 雷を畏るゝの甚だしき人の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

 

8-2

 世に雷(かみなり)を畏るゝ者多き中に、最(もつとも)甚しきを聞(きけ)り。

 葵章(あふひじるし)の貴族なりとよ。

 雷を防ぐ爲に、別に居室を設(まう)く。

 其制、廣さ十席餘を鋪(し)く。上に樓を構へ、樓と下室(したべや)との間の梁下に、布幔(ぬのひきまく)を張(はり)て天井とし、其下に、板にて、天井を造り、其下に又、綿布(めんぷ)の幔(まく)を張(はり)て、又、天井とす。

 これは雷は陽剛(やうがう)のものなれば、陰柔(いんじう)の物にて堪(たゆ)るが爲に、かく設くるとなり。

 かくあらば、もはや、止(とどむ)るべきを、樓屋(らうをく)の瓦下《かはらした》と天井板の間にも、又、綿を多く籠(こめ)て防(ふせぎ)とす。

 最(もつとも)可ㇾ笑(わらふべき)は、樓下の室の中央に屛風を圍繞(ゐねう)し、其中に、主人、在(あり)て、屛中は被衾(よぎ)の類(たぐゐ)を以て主人の身を透間なく塡(うめ)て、屛外には近習の諸士ども周圍して並居(なみを)ることなり、とぞ。

 これ、妄說にあらず、或人、目擊の語を記す。物を懼るゝも限(かぎり)あるべきことなり。かゝる擧動にて、不虞(ふぐ)[やぶちゃん注:「不慮」に同じ。]の時、矢石の中へ出らるべきにや。

 武門の人には、餘りなることとぞ、思はるれ。

甲子夜話卷之八 1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷其圖を獻ずる事(ルーティン)

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。

 

8-1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷(ならびに)其圖を獻ずる事

 藤堂高虎は、卑賤より武功を積(つみ)て興(おこり)し人なれば、武事は練達にて、就ㇾ中(かなんづく)、城築、功者なれば、京二條の御城御取立のとき、臺廟、其繩張を高虎に仰付られたり。

 高虎、因て、其圖を作り、手傳(てづたへ)に其臣某を【名、忘(わする)。これ亦、武事達練の士なり。】爲(なし)たるが、一圖は、全備、精巧を極(きはめ)たり。

 別に又、一圖を添ふ。これは、粗にして、尋常の制なり。

 臣某曰(いはく)、

「粗なる者は、上呈に及べからず。」

と。

 高虎曰、

「不ㇾ然(しからず)。精粗の御判斷は上にあるべし。上にて決せらるゝ者、卽ち、御繩張なり。我が繩張には非ず。御城は上(かみ)の御城なり。我等の繩を以て爲(なす)べからず。」

とて、二圖ともに、上(あぐ)る。

 臺廟、果(はたし)て、其精なる方を以て、命ぜらる。

 高虎、因(よつ)て、「臺廟の御繩張」としけり、とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「藤堂高虎」(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)は安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国の人。藤堂藩初代藩主。三十二万石。浅井長政・羽柴秀長に仕え、軍功を立て、後、秀吉に招かれ、その死後、家康につき、「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で活躍した。当該ウィキによれば、『秀忠が二条城を改修する際に』(寛永元(一六二四)年。徳川家光が将軍に、秀忠が大御所となった年から始まった)、『高虎に城の設計図の提出を求めた。これを受けて高虎は』二『枚の設計図を献上した。秀忠はなぜ』二『枚の設計図を提出したのか、と高虎に尋ねると「案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合』、『私に従ったことになる。しかし』、『二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる」と申した。高虎はあくまで二条城は将軍が自身で選び抜いた案によって改築した物だとするために』、二『枚の設計図を献上したのである。これは将軍である秀忠を尊重するための行いであった』。『秀忠も高虎を信頼し、御三家を交えての歓談などで』、『しばしば高虎を招いている。高虎が亡くなる』四『ヶ月前の登城では、土井利勝を使いにやらせ、秀忠自身が三の丸まで出迎え、眼病の高虎が渡りやすいように廊下の曲がりを正す命令を出している。別れの際には「(廊下を)この通り良くしたので、明日もぜひ登城せよ」との言葉をかけて見送っている。高虎はこの厚意に感動し、涙を流している』とあった。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牢抜自首」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 牢抜自首【ろうぬけじしゅ】 〔翁草巻六十六〕元文三四年[やぶちゃん注:一七三八~一七四〇年。]頃、京師囚獄舎修理覆《しゆりふく》の事有り。右普請中本牢に在る処の囚人を、切支丹牢請けなし牢揚り屋へ、それぐに配分して、当分入替る。請けなし牢へ入候囚人の内に、文七と云ふ盗賊有り。彼者傍《かたはら》の囚人共へ密かに申けるは、この牢は様子有りて抜けらるゝなり、吾その術を以て先づ抜出《ぬけいで》ん、面々が科《とが》の軽重を自ら考へて、命にかゝる程の大科《おほとが》の者は、我に従ふべし、運を天に任せて仕課(《し》おほ)せば幸甚ならん、若し仕損ずれども、所詮命は無き物なれば、仮令《たとひ》この上再犯の科を重ぬるとも、斬らる之より上の事はなし、而れば徒《いたづ》らに刑を待たんは云甲斐なし、また命に拘らざる程の小科《しやうとが》の輩《やから》は、憖(なまじ)ひに抜《ぬけ》たてをして仕損じなば、本科《もととが》よりもその科重り、斬らるまじき身が斬らるべし、これ大いなる無分別なり、左様の族(やから)は跡に止《とどま》りて、相当の仕置を待つがよし、但《ただし》かく密事を明すからは、この企てを注進するか、または声ばし立てなば立所に蹴殺《けころ》すべし、相構へてこの企ての妨げをなすことなかれと云ふ。残りの奴原《やつばら》之を聞きて、一々もつともなり、偖(さて)また汝は如何なる術有りて、この企てをなすや。文七が云ふ。吾は元銀山のゲザイ[やぶちゃん注:「下在・下財・外在」で、 鉱山の坑夫を指す語。]なり、故に土を穿つことに妙を得たり、この牢へ移りし始めより、右の術心に浮みたり、その訳はこの牢には中に少し土間あり、これこそ天の与へと思ひしなり、万(よろ)づ我にまかせよと云ふ。皆々文七が言《げん》を信ず。さて銘々が科を自ら測るに、半三郎・庄八その外二人、文七共に五人は遁れ難き大科なれば、これ等は示し合せて弥〻《いよいよ》出《いづ》るに究《きは》む。その余の者どもは、軽科《かろきとが》故《ゆゑ》跡に残るに決し、猶も文七堅く言を番(つが)ひて[やぶちゃん注:同心堅固をいい含め。]、それよりひそひそと支度して、雨の夜をまつ。時しも皐月下旬、梅雨降りしきり、目さすも知らぬ暗き夜に、文七進んで件《くだん》の土間を掘りかくる。(古き大釘を引ぬき、それを以てほりしと云ふ)牢中の土間なれば、古来築き固めて磐石《ばんじやく》を彫る如しと雖も、さすが霖雨《りんう》の潤ひに、地の少しうみたるを[やぶちゃん注:比喩的な「膿み」か。湿気を含んで柔らかくなっているのを。]便りに、段々と掘り広げて、竟《つひ》に我身の摺出《すりいづ》る程に、ひらたき穴を掘り課《はた》せぬれども、牢屋構への内外には、番人ども半時毎に拍子木を打廻り、殊に短夜の最中なれば、兎角する間には拍子木の音喧《かまびす》しく、中々抜出《ぬけいで》ん透間も無かりけれども、僅かの間《ま》を考へて、文七真先に潜り出で、残る者どもを一人宛(づつ)、その穴へ首突込《つつこ》ませ、首だに通れば跡は自由なりとて、文七外《そと》に在りて一人宛、首筋を捕へて引ずり出し、五人出揃ふと否《いな》、堀の構への際《きは》にある拷問場の柱へ飛付き、一はねはねて塀に取著き、易々と塀を乗超えて、散《ち》り散《ぢ》りに行衛無く逃げ失せぬ。粤(こゝ)に同類の内、庄八倩々(つらつら)思案しけるは、斯く迄仕課せぬれども、定めて草を分けて捜されなん、さすれば竟には天の網遁れ難し、とても遁れざる命を一向今思ひ究めて、速かに注進せば、その褒賞に命を助かるべきも計られず、所詮裏返《うらがへ》らばや[やぶちゃん注:裏切ってしまおう。]と独りうなづきて、余の者と別れ、直《ただち》に町奉行向井伊賀守役所へ馳せ来り、御注進の者にて候と呼《よば》はる。その刻限丑三つ<午前三時>の頃なれば、門番寝耳に水にこれを聞付け、窓より様子を窺ふに、その様《さま》在牢の者と見え、大童《おほわらは》なる怪しき物の体《てい》、門前にうづくまり居る故、有増(あらまし)を尋ね糺して、急に当番の与力へ達す。与力早速先づ庄八を捕へさせ、様子を聞糺して、伊賀守へ告る。仍《よつ》て夜陰ながら牢屋修覆掛りの与力木村勝右衛門を呼寄せ、それぞれの手当を致させ、その夜直ぐに目付役の同心どもに、悲田院の者ども(京都の非人頭の名なり。斯様の類《たぐゐ》の公役を勤む。在所は洛束南禅寺の入口にあり。その下小屋《しもごや》は四方に散在して、その所々に小屋頭《こやがしら》あり。悲田院と称する所以は、往古悲田院、施薬院とて、窮人の病者を養ふ両院あり。中古よりこの事廃れて、施薬院は名ばかりにて、施薬は相止み、当時は医師の称号となり、禁裏惣門中立売御門《なかだちうりごもん》の傍に住す。悲田院は東山泉涌寺に引かれて、寺中の一院となる。今非人頭《ひにんがしら》どもの居所《きよしよ》、その旧地なり)を付けて八方へ遣はし、近国へ追々触れ流して、これを捜し求む。而るに文七今一人は播磨か、摂津かにて捜し出《いだ》し、同心目付、これを召捕りて帰る。半三郎今一人は、色々捜せども竟に行衛しれず。庄八は注進の功に依《よつ》て助命せられ、文七今一人は重科故に一等刑重くなり獄門に行はる。掛りの役人、木村勝右衛門事、牢屋内の土間に心付かず、囚人を入替候不念に仍《よ》り、暫く遠慮致し、且つ拷問場も塀際に在りしを、右の以後引直され候事。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。]

 ここに記する所は庄八が白状の趣を以てこれを記す。

[やぶちゃん注:この話、まず、事実である(後注参照)。しかし、どうも、私は、如何にも裏切り不快な感じが拭えない。

「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂七(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『牢拔の者の事』。

「町奉行向井伊賀守」本書の著者神沢杜口(かんざわとこう 宝永七(一七一〇)年~ 寛政七(一七九五)年)は、当該ウィキによれば、『元文年間には内裏造営の時向井伊賀守組与力として本殿係を務めた。延享』三年十二月(グレゴリオ暦では既に一七四七年一月から二月に相当する)には、稀代の盗賊の首領『日本左衛門』の『手下中村左膳を江戸に護送する任務に関わった。後に目付に昇進した』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「浪人と狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 浪人と狸【ろうにんとたぬき】 〔煙霞綺談巻四〕戸田流の兵法(ひやうはふ)の達人に、富永金左衛門と云ふ浪人有り。江都(えど)西久保(にしのくぼ)榎坂の上<東京都港区に>住《ぢゆう》しけるが、この借宅《かりたく》へ何かはしらず、夜々《よるよる》来つて悩ましける程に、富永心に思ふは、渠(かれ)人間にてはあらじ、いかさま狐狸の所為ならんと心得て、比(ころ)は寛永十一年亥正月十五日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一六三四年二月十三日。]の夜《よ》の事とかや。常の寝所《ねどころ》には己《おの》が臥したるごとく拵へ、その身は片隅に待ち居たる。あやまたず五更[やぶちゃん注:季節によって相違し、ここは初

春であるから、午前三時頃から午前五時頃までに相当する。]に及ぶころになりて、戸のあく音もなくて来るものを見れば、両眼星の如く、その形何とも見え分かぬ形粧(ぎやうさう)すさまじき体《てい》なり。かの寝姿の上を飛んづ馳(はね)つ狂ふを、得たりやと斫《き》りければ手ごたへす。化物深手を負うて、竹《たけ》巣(す)の子(こ)の下へ逃ぐる所を追かけて斬りければ、難なく二の太刀にて仕留め、心(むな)もとへ深々と脇指(わきざし)を突立《つつた》て、灯を挑(かか)げて見れば、幾年歴(へ)たるともしれざる古狸なり。化物を仕留めたりとの高声に、近所驚き、家主《やぬし》等馳せあつまり、始終を尋ねて、家主相借家《あひがしや》の者ども、流石御侍かなと口々に誉めけるに、家主がいふやうは、貴客この家へ来らざる已前、この狸住せし故か、二ケ月と住する者なし、この上は化物の根を絶《たや》して心安きなんと悦びける。さて富永興に乗じてや、翌十六日の朝、入口に狸をぶらさげ、諸人に見せけるほどに、往返《わうへん》の諸人詳集《ぐんじゆ》して評するを聞くに、このどさくさと騒がしき市中《しちゆう》に狸の住むべきや、これは必定椛町(かうぢまち)<東京都千代田区内>より買求めて人を惑はす謀(はかりごと)なるべしと、口々に悪口《あくこう》しけるゆゑに、辰の刻<午前八時>には内へ取入れけり。この事批判、過半は虚(うそ)のやうに、世間に取沙汰ありければ、却りて富永を唱《とな》へられ、近付(ちかづき)知音《ちいん》にも逢ひがたくや思ひけん、住所《しゆうしよ》をかへて彼方此方《かなたこなた》と迷ひあるき、後《のち》には行方しらずなりにけり。そのころよくこの人を知つたる人のいふには、常に兵法高慢しけるゆゑに魔のさしたるものとなん。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る。原本の「目錄」では、本篇は『〇戶田流劒(りうけん)術』。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「老狐僧に変わる」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 老狐僧に変わる【ろうこそうにかわる】 〔提醒紀談巻二〕下総国飯沼郷の弘経寺は、浄土宗の叢林なり。相伝ふ。昔時《むかし》輪下《りんか》[やぶちゃん注:本来は、仏教で法を広めることを車輪が回ることに喩えたもの、「法輪」の意だが、ここは「寺」の意。]に一人《ひとり》の僧ありて論議をよくす。ある日、人々寄集りて相撲《すまふ》をとりて遊び戯れけり。かの僧もその場にありて撲《とり》けるに、頗《すこぶる》る力《ちから》ありて数十人《すじふにん》を投伏《なげふ》せけり。その事終りて、困憊《こんばい[やぶちゃん注:後に示す板本では『くたびれ』と振ってある。]》ことさらに甚しければ、我《わが》部屋に入《い》り、鎖《とざ》して熟睡したり。その隣の部屋に住める僧の牗(まど)よりこれを覘《うかが》ふに、毛もまだらに衰へたる老狐なりければ、驚きあやしみて、その所を去《さり》て人にも語らでありしが、かの僧、怪しまるゝことを知りて、すなはち隣の僧に謂《いつ》ていへるは、吾は実《まこと》に人にあらず。今日労れ寝《いね》て料《はか》らず吾《わが》形を覘ひ見らるゝことの愧《はづ》かしさよ。もはやこの所を辞し去るべしと云ふ。隣の僧、ねんごろにこれを留《とど》むれども聞入れず。やがて急ぎ方丈に至りて、上人に謁し別れを告ぐ。且つ啓《まう》して云ふ、吾に通力《つうりき》あり。今別れにのぞみて、何卒拙《つた》き技《わざ》をいたし、洪庇《こうひ》[やぶちゃん注:受けた教えのおかげ。]の万一《ばんいつ》を謝せんと思ふなり。上人の見んことを欲《ほつ》するもの、何《なに》にてやあらんと云ふ。上人曰く、吾常に見んことを願ふものは、唯阿弥陀仏来迎の相《さう》のみ、これをば能くせんや否やとありければ、対《こた》へて云ふ、よく致さん、然《しか》れども来迎の相を現ずる時にあたりて、上人かならずしも粛《つつし》み敬《うやま》ひて拝することなかれ、若《も》しさやうなき時は、吾即時に死するなりといヘば、上人諾《だく》せられしかば、鐘を撃ち鳴らして、衆《おほ》く人を集めて見せしむ。暫くして紫雲たなびき、西方より弥陀仏、観音、勢至の二菩薩、および無量《むりやう》の聖衆《しやうじゆ》列《つら》なりて、虚空《こくう》に光明《くわうみやう》かゞやき、花《はな》降り音楽聞え、そのありさまいと尊《たふと》く、殊妙《しゆめう》たとへんかたなく、言《ことば》にものべ難かりしかば、上人も衆人もおのおの覚えず、奇異渇仰《きいかつがう》の思ひをなし、仏名《ぶつみやう》を唱へ伏し拝みければ、あらゆる来迎の相《さう》忽ちに消失《きえう》せて、かの僧もそのまゝに死したり。されば上人、ふかく歎き悲しみけれども、さらにかひなし。人々よりて彼僧をあつく葬《はうぶ》り、石を立てたりとかや。今尚その地に存すと云ふ。(蕉窓漫筆)<この話『十訓抄』に基づくが如し>

[やぶちゃん注:「提醒紀談」山崎美成の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本全巻が視認でき、当該部は、ここと、ここである。前の『老狐蛻菴』の後に当たる。標題は『老狐(らうこ)僧(そう)に變(へん)ず』。ほぼ総ルビなので、積極的にそれを参考にした。

「下総国飯沼郷の弘経寺」私の「譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事」を見られたいが、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)で、ここ(グーグル・マップ・データ)。原本の「下總國」は「下野國」の誤りである。さらに、リンク先では、狐が化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる(ただ、狐とする江戸期の随筆や怪奇談集があることはある)。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「伯蔵主」』も参照されたい。

「蕉窓漫筆」冲黙義海(宝暦五年(一七五五)一月一〇日。騰蓮社空誉。冲黙は字(あざな)。初め、増上寺山内蟠龍窟・瓜連(うりづら)常福寺・増上寺に掛錫し、寛保四(一七四四)年に岩槻浄国寺二十二世となり、寛延三(一七五〇)年。太田大光院三十四世に転住した。享保一五(一七三〇)年に華厳宗鳳潭󠄂(ほうたん)が著した「念仏往生明導箚」(ねんぶつおうじょうみょうどうさつ)二巻に対し、翌十六年に「蓮宗禦寇編」(れんしゅうぎょこうへん)二巻を著して、反論。さらに翌十七年に鳳潭󠄂が「蓮宗禦寇編雪鵝箋(せつがせん)を著して反駁したのに対し、同年秋に「雪鵝箋断非」一巻を著して再反論している。宗義だけでなく。三衣法服に対しての造詣も深く、江戸中期の浄土宗を代表する学僧である。著書に「無量寿経浄影疏選要記」(二巻)・「論註輔正記」十二巻・「遊心安楽道私記」二巻・「仏像幖幟義箋註」三巻・「仏像幖幟義図説」二巻や、本随筆「蕉窓漫筆」三巻など多数ある(「WEB版新纂浄土宗大辞典」の同人の記載に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に死後に刊行された板本(京都・明和四(一七六七)年刊)があり、その「卷之二」の「老狐變」がそれ。ここと、ここで、視認出来る(全漢文訓点附き)。但し、ここにはない、最後に添えられた(左丁に拠梅中央以下)「毱多尊者」(うばきくたそんじや)の「魔王波旬」の対話の話がある。

「この話『十訓抄』に基づくが如し」昨日から探しているのだが、どの話か、判らない。時間を食うばかりなので、諦めた。識者の御教授を切に乞うものである。

2024/01/23

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「老狐蛻菴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 老狐蛻菴【ろうこぜいあん】 〔提醒紀談巻二〕蛻菴といふもの、その初め飛驒国参議秀綱に事《つか》へたり。秀綱滅亡してより、信濃国諏訪<長野県諏訪>に来り筮仕(ぜいし)[やぶちゃん注:初めての仕官を求めること。「筮」(占いに使う竹を細く削った棒)とあるのは、古代中国で、初めて仕官する際、その吉凶を占ったことに基づく。]を求む。その頃、千野《ちの》兵庫と云ふは、諏訪の一族なり。蛻菴を招きて家に居《を》らしむ。これ天正十三年の事なり。その後、兵庫身まかりてその嫡子、家を嗣ぎ父の職を襲《おそひ》て、名も兵庫と称す。彼《かの》蛻菴、穎異《えいい》[やぶちゃん注:人に抜きん出て聡(さと)く勝れていること。]たる性質にて、勤仕《きんし》怠らざれば、家内《かない》こぞりてたのもしくぞ思ひける。蛻菴ある時、仮寝《うたたね》しけるを、人ありて何となくひそかに伺ひけるに、老狐にてありしかば、その人うち驚きつゝやがて兵庫に告げたり。蛻菴これを覚り、兵庫に見《まみ》えて去らんことを請ふに、兵庫云ふ、妨《さまたげ》なし、汝弐心《ふたごころ》なく勤めて、吾《わが》家事を助くること、嘗て悦ぶところなり。何ぞ人と人にあらざるとの差別《しやべつ》あらんやとて、そのまゝにうち過ぎぬ。しかれども蛻菴は遂にそこを立去りて、岐岨《きそ》[やぶちゃん注:「木曾」に同じ。]に来り、興福寺といふ精舎《てら》に詣《いた》り、桂岳師《けいがくし》といふ和尚に身をよせたり。師これに僧衣をあたへ、一室をかまへてをらしめ、副司《ふくす》の役をつとめしむ。ここに居《を》ること年あまた経にければ、師も彼が立ふるまひにつけて、やうやうその人にあらざるを知りて、愈〻《いよいよ》ねんごろにあつかひけり。さて師、所用ありて蛻菴をして飛驒国なる安国寺へ、使《つかひ》につかはしけるが、その道すがら日和田村《ひわだむら》といふ地を経て、ある田舎に宿りけり。その舎《いへ》あるじが持てる不思議の鳥銃《てつぱう》あり。そは名人国友が造るところにして、これをためて望み見れば[やぶちゃん注:「その鉄砲の筒穴を通して対象を覗き見たならば」ということを言っている。]、妖魔その形をあらはすといへり。その夜《よ》蛻菴は、たまたま囲炉裏のほとりに何心なく坐し居《ゐ》けるを、主人、かの管《つつ》をためて望みけるに、老狐の僧衣《そうい》を著《き》たるにてありければ、一発にこれを斃《たふ》すに、果して狐にてぞありけるとなり。この蛻菴が書写する般若心経、その地に伝へて今に在り。それを摹刻《もこく》[やぶちゃん注:書道で、書蹟を石や木に模写して彫りつけ、保存・鑑賞・学書用の書蹟「法帖」を制作すること。]したるを予へ<山崎美成>に贈る人あり。その筆勢の古雅なる、実《まこと》に千年外《ぐわい》の写経に異なることなし。その帖の末に、この記事を載せたり。

[やぶちゃん注:「提醒紀談」山崎美成の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本全巻が視認でき、当該部は、ここと、ここここである。標題は『老狐蛻菴』。ほぼ総ルビなので、積極的にそれを参考にした。

「飛驒国参議秀綱」(?~  天正一三(一五八五)年)戦国から安土桃山にかけての武将で飛騨松倉城当主にして、姉小路氏(三木氏)の後継者。詳しい事績は当該ウィキを見られたい。

「千野兵庫」不詳。後裔らしき同名の人物がおり、信濃高島藩家老を務めている。

「岐岨」「興福寺」「桂岳師」の三つで調べたところ、長野県木曽郡木曽町にある臨済宗妙心寺派萬松山興禅寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であることが判った。「木曽三大寺」の一つ。当該ウィキによれば、『境内には『安国寺のきつね小僧』という伝説・昔話にまつわる、蛻庵(ぜいあん)稲荷が祀られている』とある。「飛騨高山こくふ観光協会」公式サイト内の「安国寺のきつね小僧」も読まれたい。

「飛驒国なる安国寺」岐阜県高山市にある臨済宗妙心寺派太平山安国寺

「日和田村」岐阜県高山市高根町(たかねまち)日和田(ひわだ)。

「蛻菴が書写する般若心経、その地に伝へて今に在り」「北さん堂雑記パート2」の『和本明和9年序陰刻「蛻庵心経(木曽興禅寺心経)」狐小僧』で、現物を視認出来る。しっかりした崩しのない優れたものである。是非、見られたい。明和九年は一七七二年で、明和九年十一月十六日(グレゴリオ暦一七七二年十二月十日) に安永に改元している。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「霊毎日来る」(「れ」の部はこの一篇のみ)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 「れ」の部は、本篇一篇のみである。「霊」で始める怪奇談なら、いくらもある。宵曲は疲れちまったか、出版社の既定の総ページ数の歯止めがあったか、まあ、しかし、何だかな、って感じはするわね。

 さても、残りは、十篇、となった。

 

   

 

 霊毎日来る【れいまいにちきたる】 〔中陵漫録巻一〕羽州米沢の町田弥五四郎、常に弥陀を信じて、毎日善勝寺に往く。帰る時にその住持に逢ひて、時節の茶話を為す。老ゆるに至つて床に伏す事両月に及ぶも、毎日来て弥陀を拝して帰る。住持思ふに、なんとして一音《いちいん》の便りを為さゞるやと疑ひし間に、昨日死したりとて住持に知らしむ。住持云く、昨日も来て堂に登つて弥陀を拝して帰りしに、何様《いかやう》にて死したりやと云ふ。皆云く、両月の間も床に伏しけるが、遂に老病にて死したりと云へば、住持始めてその霊にて毎日来《きた》る事を知る。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る(左ページの標題『〇町田の靈』がそれ)。

「羽州米沢」「善勝寺」山形県米沢市大町にある浄土真宗大谷派児玉山善勝寺(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「両頭の亀」 / 「り」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「り」の部は終わっている。]

 

 両頭の亀【りょうとうのかめ】 〔一話一言巻四十八〕延宝五年肥前国唐津領のうち、相の木村の山の井にて水くみける下女、柄杓にのりて上《のぼ》りけるを見れば両頭の亀なり。その長《たけ》一寸八分、幅一寸、首左右へ相ならびてつく。唐津よりは右の村へ道のり五里これあり。その亀を城主大久保加賀守より差上げらる。則ち上覧これありてその翌日亀死す。誠に上覧の日まで存命のほどふしぎなり。

[やぶちゃん注:「一話一言」は複数回既出既注。安永八(一七七九)年から文政三(一八二〇)年頃にかけて書いた大田南畝著の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『蜀山人全集』巻五(明治四一(一九〇八)年吉川弘文館刊)のこちらで正字で視認出来る。そこでの標題は『○兩頭龜』である。

「延宝五年」一六七七年。徳川家綱の治世。

「肥前国唐津領のうち、相の木村」現在の佐賀県唐津市相知町(おうちちょう;グーグル・マップ・データ)ではないかと私は疑っている。「五里」とあるが、これは南畝が東国の「小道」(六町が一里)で示したのもので、三・二七キロメートル。唐津に最も近い相知町大野までは、まさにこの距離で到達するからである。

「大久保加賀守」肥前国唐津藩二代藩主で老中ともなった大久保忠朝(ただとも)。彼は寛文一〇(一六七〇)年、養父忠職(ただもと)の卒去に伴い、同年六月十三日に唐津藩主となって、まさに、この延宝五(一六七七)年七月二十五日には、幕府老中となって、加賀守に遷任されている。少なくとも、彼にとっては相頭の亀は吉兆だったとも言えるだろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「猟師怪に遭う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 猟師怪に遭う【りょうしかいにあう】 〔閑田次筆巻四〕この筆記を草する時、山崎の者、ことのついでにかたらく、宝寺の下に住みける猟師、鉄炮甚だ上手にて、飛鳥《ひてう》をもよくうち落せしが、後《のち》其丘村[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』も同じだが、どうも躓いた。後掲する活字本を見たら、『其近村』となっていて、納得した。宵曲の誤字か、誤植である。]山家《やまが》といふへ移り住みて、一朝猪をねらひて山へ入りしに、おもほえず容顔美麗の女にあヘり。所がらあやしけれども従ひゆくに、小倉明神とまうす社をめぐる。おのれも共にめぐりしに、彼女屹(き)と見おこせ睨みたるを見れば、眼五ツになりたり。驚きて走り帰り、この後殺生を止め、農業をつとむ。されども従来の罪によりてや、ほどなく足腰不ㇾ起。子は二人有りしも、一人は早世し、一人は白癩《しろこ》にて、あさましき者なりといへり。常に見聞くに、鳥屋には支離(かたは)もの多く、あるひは終《をはり》をよくせざるもの多し。さるべき道理なり。

[やぶちゃん注:「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから四行目以降)で正規表現で視認出来る。直前に鷲に攫われて養育された人の話があり、それを受けて、冒頭に「鷲の因《ちなみ》に思ひ出たることあり」とあるのがカットされてある。

「山崎」京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「宝寺」同地にある真言宗智山派宝積寺(ほうしゃくじ)。山号は天王山だが、古くは補陀洛山であった。天王山の中腹にある。

「山家」不詳。但し、次注の小倉神社のある地域の旧称(通称)であろう。

「小倉明神」小倉神社。山入りのトバ口である。宝積寺の北一キロ半。

「白癩《しろこ》」このルビは上記活字本にある。「びやくらい」(びゃくらい)でハンセン病の症状の内、皮膚が白くなる病態の患者を指す古い謂いである。私の『鈴木正三「因果物語」(片仮名本(義雲・雲歩撰)底本・饗庭篁村校訂版) 中卷「三 起請文の罰の事」』の私の『「白癩黑癩(びやくらいこくらい)」の文(もん)を書入れたり』への注を必ず見られたい。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜の画」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜の画【りゅうのえ】 〔黒甜瑣語巻三[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』版では『一編ノ三』に補正されてある。]〕宝暦己卯<九年>に我藩洪水して、下中嶋の住居の人家のこらずおし流され、人数多《あまた》死せり。中嶋流れと云ひて世の物語りに残れり。北郭(きたのまる)の厨吏《ちうり》某も中嶋にて流されし家なり。彼が家の物語に、このとし東都神田𭐏(どて)<東京都千代田区内>にて雲竜の一軸を買ひ得たり。烟煤《えんばい》に混《こん》じ破壊せし旧物《ふるもの》にして、名印(ないん)もなく中に一枚の書付添《そへ》たり。その書に云へるは、この圃竜は吉山の筆にして、住吉宝殿の什物たり、標装して再び宝殿へ納むべし、俗家に置かば水難の崇りに逢ふと伝へしと記して、これも名印なし。麁物《そもつ》[やぶちゃん注:「粗末な物」。]なれば誰《たれ》も見る人もなかりしに、厨吏行きかゝり、吉山は兆殿司(てうでんす)の字(あざな)と云ふ事、ふと思ひ当り、青蚨《せいふ》七十穴に買ひて帰り、人にも見せ我も熟視するに、竜の眼光恐ろしき事云ふべからず。帰郷の節携へ下りしが、この年かの水難に遇へり。一軸を箱入《はこいり》にして明識の人に訊《と》はんと思ひ、古鏡の奩(そとへ)[やぶちゃん注:箱。]に入りし物と結《ゆ》ひ付けて置きしが、諸物と共に流れて行衛なくなりしに、程経て湊浜《みなとはま》にて拾ひとりしと云ふ沙汰を聞きしゆゑ、尋ね行きしに、四五日以前大坂の者に懇望せられ買ひとられしが、その者今は居らずとて空しく立帰れり。遠客具眼にて買得たりとは見えたれども、事実も詳かにせずして人の物にせしぞ、不分事《ねなきこと》[やぶちゃん注:以下の活字本のルビ。「根拠のない理不尽な行い」の意であろう。]と語り合ヘりとなん。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『中島流』。

「宝暦己卯」「九年」一七五九年。

「下中嶋」秋田県大仙市下鴬野下中嶋(グーグル・マップ・データ)。見るからに二つの川の合流点で、洪水被害に襲われるのも納得される。

「北郭(きたのまる)」旧角館城の北の一画。

「厨吏」厨(台所)の担当役人。

「東都神田𭐏(どて)」「東京都千代田区内」神田川に沿った「柳原土手」のことであろう。「吟醸の館」チームのサイト「落語の舞台を歩く」の「柳原土手地図」が、江戸切絵図と現在の地図が対比視認出来るので、見られたい。

「吉山」南北朝後半から室町前・中期の臨済宗の画僧山明兆(きつさんみんちょう 正平七/文和元(一三五二)年~永享三(一四三一)年)であろう。

「住吉宝殿」大阪の住吉大社であろう。

「青蚨」本来は「昆虫のカゲロウの異名」とする。また、「銭」の異称。小学館「日本国語大辞典」の「補注」によれば、虫のカゲロウの『母子の血を取って』、『それぞれを銭の面に塗り、その片方を使えば、残った片方を慕って飛ぶように還ってくるという』「捜神記」の巻十三に載る『故事から転じて』、『銭貨のことをいうとされる。挙例の「壒嚢鈔」』(あいのうしょう:室町時代中期に編纂された辞典。全七巻)には『「然を銭の名とすることは、此虫能く多くの子を生む。爰以て世俗取て、此虫を塗レ銭、則ち其の銭多く生レ子と云へり。故に祝レ銭を青蚨と云也。又子母銭共云也」とあり、また、かげろうのように銭貨のはかないことをたとえたとする考えもある』とある。「穴」は穴開き銭の数詞。

「湊浜」不詳だが、河川の流れと「浜」から、秋田市の雄物川河口附近か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜と琵琶」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜と琵琶【しゅうとびわ】 〔黒甜瑣語二編ノ五〕中むかしの頃まで東都の行程に、山ノ上より大石田越(おほいしだごえ)と云ふをなして、二本松または郡山などへ出でし事、折としてありと云ふ。予<人見寧>が友館生の親なる人、ある年この大石田<山形県北村山郡内>を通りし時、森の明神とやらん祭りとて、遠近《をちこち》参り(いた)詣る人多し。いかなる神を祭りしやと云ふに、土老の云へる、むかし米沢より爰へ通る琵琶法師あり。山中にて或老人に行逢ひしが、背負ひし琵琶を見て一曲聞かんと望むゆゑ、法師も草臥《くたび》れて息つかんほど、道のほとりの岩ほに坐して、地神経《ぢしんきやう》[やぶちゃん注:屋敷神の一種である地神(じがみ)を祭る経文。年末に各戸を回って竈祓(かまどばらえ)をする盲目の僧などが唱えた。]を弾じ聞かす。老人感に堪へずやありけん、またこのみて三四曲を弾ぜしむ。弾じ闋(をは)りければ老人の云へる、余りおもしろく聞きなせし謝礼に、一言申すべき事あり、今宵大石田を通らるゝとも舎(やど)り給ふなと云ふに、法師いかなる仔細の候にやと聞けば、老人の云へる、我は向ひの洞《ほら》に年久しく住めるものなるが、今宵しもこの洞を抜けんには、必ず山崩れ谷うづみて大石田の村も頽(なだ)れ崩るべし、しかしこの事かまへてく人に語り給ふな、若し語りなば御身も安穏《あんのん》ならじとて立ち別れけり。法師おもふやう、我はいやしき盲人の身なれば、この世にありても甲斐なし、余多《あまた》の人の命におよぶ事を聞きて、救はるゝ事ならば告げでやはあるべきとて、急ぎてこの村へ来り、事のやうを委しく物語けるに、村中大いに胆を潰し、さればぞかねてしも聞きつる、洞の中には大なる蟒蛇(うはばみ)ありて、人を害せし事を聞きしが、竜に位して天昇するなるべし、どうで死する我々が命、さらばこの方《はう》より取(とり)かけ平(たひ)らぐべしとて、そこら村々より人数多《あまた》雇ひてかの洞穴へ至り、洞の口へ焚草(やきくさ)を山のごとく積み上げ、洞の声を合せて火をさしければ、折しも山嵐《やまあらし》吹《ふき》しき、そこら一面に焼《やけ》ひろごりたれば、竜は定めて焼たりなん。蕉雨子[やぶちゃん注:出羽国久保田藩の藩士で国学者であった作者人見寧の号。]思へらく、竜にして豢(やしな)はるべきは真竜にあらず、かゝる凡庸卑下の法師の撥音(ばちおと)に感じ大事を語りし、これも真竜に非《あら》ざめり。さてかの盲人は村中救はでやあるべきとて、唐櫃ヘ隠し三重四重に掩ひて出で行きしが、帰りて見ればむざんや、この法師からだは段々(きたきた)に裂かれて死にけり。一郷の命の親とて、それより明神に祭れりと云ひ伝へしが、幾としほど前の事にや。けふこそその法師の死せし日なりと語りしとなん。

[やぶちゃん注:ここで改行になっているのはママ。引用原本では続ている。序でなので、ここで注する。

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『玉林寺の琵琶(には)』。この話、「山形県大石田町」公式サイトの「おおいしだものがたり 第四十二話 盲(めくら)の琵琶法師(びわほうし)が大石田を救った伝説について」で現代語に訳して、紹介されてあり、その後に、『この伝説は、故大林東京大学教授』大林太良氏に『よれば「遊歴の芸人たちがそのお得意先の地域社会に、単なる芸の売買という以上の深いつながりをもっていたことを示して」おり、「極端な場合には、一身を犠牲にしても、その地域社会のためになろうとし、また地域社会のほうでも、この命の親の琵琶法師を明神として祀って恩に報いた」とその意義を解釈しています』。『現在、この伝説にある「森の明神」の所在は不明で、この伝説そのものも語り継がれていません。今から』二百『年以上前の本から、大石田にこのような興味深い伝説があったことがわかります』とあった。

「山ノ上より大石田越(おほいしだごえ)と云ふをなして、二本松または郡山などへ出でし事、折としてあり」「山ノ上」不詳だが、以下の大石田より、北・北東・北西に位置するであろうことを考えると、名の共時的な点から、東北にある現在の山形県最上郡最上町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の辺りを指す語ではあるまいか? 「大石田」山形県北村山郡大石田町。「二本松」福島県二本松市。「郡山」福島県郡山市。]

 秋田大館《おほだて》の辺り独鈷村《とつこむら》<現在の秋田県大館市内>大日堂にも一つの物語りあり。延享の頃、一人の盲人この堂へ通夜せしが、いづくともなく一人の叟《おきな》来り、あれこれ物語り中《うち》、御坊は琵琶を弾き給ふやと云ふに、やつがれ若かりし時は少しく業(わざ)くれ[やぶちゃん注:余技としてすること。手慰み。]にかきならす事を好みしと云ふに、老人の云く、ほとり近き鳳凰の麓の寺にむかし此所を知りし浅利の君(世に『浅利物語』あり、卑人の塗抹にして、むかし横手の守堡たりし小野寺氏の事を記せし『小野寺興廃記』などに似たり)の弄《もてあそ》び給ひし琵琶あり、さいつ頃までは折としてその雅曲を聞きしが、家亡び人逝きてより、絶えて清音を聞かず、四つの緒《を》今に恙《つつが》なければ、とり来りて参らせんとて立出でしが、程なく携へ来りしを、終夜《よもすがら》かきならし聞かせけるに、老人歓び、我も近き頃ほど遠く去るなり、今宵思はざるこの曲を聞きて、百年の幽懐《いうくわい》[やぶちゃん注:心の深い思い。]を開けりとて、琵琶を盲人に与へて去れり。一ト月ほど経(すぎ)て小田瀬の川崩れ、蟄竜の天昇せしと云ひしも、かゝる事にやあらん。盲人の事は知らず、琵琶は今にこの堂にのこれり。鳳凰山玉林寺は浅利家累代の香刹(てら)なり。この琵琶むかしはこの寺にありしや。

[やぶちゃん注:「秋田大館の辺り独鈷村」現在の秋田県大館市比内町(ひないまち)独鈷

「小田瀬の川」不詳。独鈷を貫流する川は「犀川」とある。

「浅利の君」戦国時代の出羽国比内郡を支配した国人浅利則頼(?~天文一九(一五五〇)年)のこと。当該ウィキによれば、『甲斐源氏庶流で甲斐国八代郡浅利郷』『に拠った浅利氏の庶流』。『智勇文武音曲に優れた人物で、特に琵琶を愛した』(☜)。『十狐城を本拠地として比内浅利氏の勢力拡大を目指し』、『比内郡における一大勢力とした。現在の二ツ井町荷上場館平城から上津野までを席巻し』、『各地の国人を併合した。独鈷城』(☜)・『笹館城・花岡城・扇田長岡城を主力とし、西の守りには娘婿・牛欄を八木橋城に配置して守りを固めた』とあるから間違いない。

「浅利物語」書名は国立国会図書館デジタルコレクションの検索で見出だせはする。筆者が評価していないので、調べる気はない。

「横手の守堡たりし小野寺氏の事を記せし『小野寺興廃記』」不詳。ネット上のPDFの幾つかに名は出るが、「似たり」だから、これ、調べる気にならない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜燈」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 なお、この篇は、五つの話の引用になっており、やや長いので、各話は一字空けで続いているのだが、特異的に改行して、注を挟んだ。]

 

 竜燈【りゅうとう】 〔天野政徳随筆巻一〕同人<岡野義和>の話に、その年<天保七年>六月三日小川村長《おがはむらをさ》(名は長蔵)をあないにて、兼ねてきゝし閼伽井が嶽の竜燈を見んとて、その村を出て三四里ゆく。こゝは奥州岩城にて、閼伽井嶽《あかゐだけ》と呼ぶ山なり。この山上に水精山《すいしやうざん》常福寺といふあり。本尊薬師を安置す。この堂のかたはらにさゝやかなる四阿(あづまや)有り。それより見わたすに、東方四五里を隔て海有り。竜燈は海面より出現なすといへば、あからめもせず守り居るに、黄昏過《たそがれすぎ》かの海面より登る所、花火といふ物の玉などの如く、一丈ばかりあがりつらむと思へば、大きさ挑灯程になりて見ゆ。火の色は赤けれども、たゞ霧のうちに有るが如く、朧々《ろうろう》として定かならず。この閼伽井嶽(あかゐ《だけ》)の麓に夏井川《なつゐがは》といふあり。その水縁を求めて静かにこの薬師の峯をさして来《きた》る。さきに出《いで》し竜燈三四町[やぶちゃん注:三百二十七~四百三十六メートル。]も行きぬれば、また跡より出《いづ》る事、始めの如し。出る時は必ず二ツづつ並びて出る。されど道にて一ツは消えて、一つのみ来るも有り。消えざれば二つ並びて来るも有り。この山杉多ければ、麓の杉の梢まで来るも有り。道にて二つともに消ゆるも有り。はては薬師の堂まで来るよしいへど、そは見えずとかたりぬ。この夜は竜燈七ツ八ツ出たり。その夜によりて数の多少はあれど、暑寒共に出ざる夜はなし。それより常福寺にやどりて、寺僧に竜燈の事を尋ねけれど、昔よりさまざまの説をいへど取るにたらず。何ゆゑともしれがたしといひぬ。この並びに山あれど、外《ほか》の山よりはこの竜燈少しも見えずといふ。こは義和まさしく見ての話なり。一奇談といふべし。

[やぶちゃん注:個人ブログ「いわき民話さんぽ」の「閼伽井嶽の龍燈伝説  その1   いわき市」で大須賀筠軒(いんけん)著「磐城誌料歳時民俗記」(明治二五(一八九二)年脱稿)の引用電子化が読め、「その2」もあって、そこでは、江戸時代の地理学者長久保赤水(享保二(一七一七)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)の自らの体験談が電子化されている(漢文)。後者は「天野政徳随筆」より古い本「龍燈」の実録である。なお、龍燈については、当該ウィキもあるが(本篇が紹介されてある)、まんず、私の南方熊楠の「龍燈に就て」(サイト版PDF一括縦書版)の右に出るものはあるまい。ブログ・カテゴリ「南方熊楠」の三分割版でも読める。

「天野政徳随筆」本書では初出。天野政徳(天明四(一七八四)年~文久元(一八六一)年)は本所南割下水横町に住んだ旗本(五百石)で歌人。通称は図書。江戸の国学者・歌人であった大石千引(ちびき)の門人。和歌の他、画や印刻にも長じたとされる。「天野政徳随筆」は考証随筆。歌文集「草縁集」などがあるが。著作はあまり伝わらず、伝も不明な点が多い(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第四巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正規表現で視認出来る(右ページ五行目以降)。標題は『〇龍 燈』。

「岡野義和」前の条の話者で、作者天野政徳の弟子と出る幕府の役人。前話は『〇伏猪床』も、実は、同じ小川村近くの幕府領の山林が舞台である。「伏猪床」は「ふしゐどこ」か。猪が自分で作った寝床の意だが、恐らく、猪の「ぬた場」であろう。

「小川村」福島県いわき市小川町地区(リンク先は夏井川左岸の広域を占める北側の小川町上小川。グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「閼伽井が嶽」「水精山常福寺」初出部にルビがなく、後に出る「閼伽井嶽」の「閼伽井」のみにルビが振られてあるのはママ。ここ。常福寺は真言宗智山派の寺院で、赤井嶽薬師の別名で知られる。

「夏井川」閼伽井嶽と水精山常福寺(下方に入れておいた)の北方のここ。]

〔諸国里人談巻三〕丹後国与謝郡天橋立<京都府宮津市内>に、毎月十六日夜半のころ、丑寅[やぶちゃん注:東北。]の沖より竜燈現じ、文珠堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを竜灯の松といふ。また正五九月[やぶちゃん注:正月と五月と九月。]の十六日の夜に、空より一燈くだる。これを天燈といふなり。また一火あり。これを伊勢の御燈といふ。

 土佐国幡多郡蹉跎岬《さだみさき》(高知より西三十里)[やぶちゃん注:現在の足摺岬の古い呼称。]蹉跎明神に、天燈竜燈あり。天にひとつの燈見ゆれば、同時に海中より竜燈現ずるなり。

 周防国野上庄熊野権現に、毎年十二月晦日丑の刻<午前二時>に竜燈現ず。また西の方五里がほどに竜が口といふ山より、矢を射るごとく飛び来《きた》る神火あり。里人、これを拝して越年す。

 相摸国鎌倉<神奈川県鎌倉市>光明寺の沖に、毎年十夜の内一両度竜燈現ず。はるかの海上、雲にうつりて見ゆるなり。

[やぶちゃん注:以上は実際には、総てが、独立項である。最初のものから並置すると、「諸國里人談卷之三 橋立龍」で、次は「諸國里人談卷之三 嗟跎龍燈」(但し、寺名の由緒を語る後半分をカットしてある)、「諸國里人談卷之三 野上龍燈」、最後が、「諸國里人談卷之三 光明寺龍燈」である。それぞれ見られたい。]

〔奥州波奈志〕橋本正左衛門りうが崎の役人をつとめしころ、少々上の用金を廻し旅行のこと有りしに、東通りの道中にて四倉と云ふ所に著き、人歩(にんぷ)[やぶちゃん注:「人夫」。「人足」に同じ。]をつぎかへしに滞りて出《いで》ず。このあたりものさわがしきこと有りと聞きて、一寸も早くこの宿を行きぬけんと、いらだちてさいそくせしに、日も暮れかゝりしを、いそぎの用事といひたて、夜通しに人歩を云付けしかば、かご人足ばかり出たりしを、正左衛門かごにて先ヘ行き、養子ハ弥にめくばせして、用金入れたる荷物をさあらぬていにて残し置き、少しも早く追付き来れと云付けて立たりしに、八弥そのとし十八歳なりし。大事の荷物あづかり、心づかひいふばかりなし。宿にては物さわがしきをりふし、夜通しに荷廻しはしごくあやふし、ひらに一宿有りて明日早く出立あれかし、おそれて人歩も出がたしといはれて、いといと気もまどへど、よし途中にてこと有りとも、おめおめおぢ恐れて一宿しては、養父に云訳なしと心をはりて、荷物に腰をかけて人歩をひたすらにせっきしに、四ツ頃に漸く出《いで》し馬かたは十二三の小女両人なりし。まさかの時は足手まとひぞと思ふには、有《あり》かひもなく心ぼそけれど、ぜひにおよばず引立《ひつた》て行きしに、その物さわがしきと云ふは、今行きかゝる海辺、うしろは黒岩そびえたる大山、前は大海にて人家たえたる中程のいは穴に、とうぞく両三人かくれゐて、昼だにも壱人旅のものをとらへ、衣類身の廻りをはぎとりて、からを海になげ入れしほどに、人通り絶えしをりにぞ有りしと、まご[やぶちゃん注:「馬子」。]どものかたるを聞きて、いよいよ心もこゝろならぬに、はるか遠き海中より、さしわたし壱尺余りなる火の王の如き光あらはれ、くらき夜なるに足本(あしもと)の小貝まであらはに見えたり。はつとおどろき、あれは何ぞと馬子にとへば、こゝはりうとうのあがる所と申しますから、大方それでござりませうと答へて、はじめて見していなり。ことわりや十二三の小女、いかで深夜にかゝる荒磯をこすべき。八弥もおそろしとは思ひつれど、さらぬだに二人の小女ふるふふるふ馬引きゆくを、おぢさせじと気丈にかまへてひかせ行く。盗人の住むと云ふいは穴ちかくなりたらば聞かせよといひ置きしに、小声にてこのあたりぞとつげしかば、何ものにもあれ、出で来らばたゞ一打に切りさけんと、つばもとをくつろげて、心をくばり行き過ぐるに、小女云ふ。こよひはるすでござりませう、あかりがみえませぬと云ひしか。留守とみせてもふと出でくるやとゆだんせざりしが、盗人のうんやつよかりけん、頭もきられざりき。海中の光は三度迄みたりしとぞ。八ツ半<午前三時>過に先の宿にいたりしに、正左衛門は用金残して若き者に預け置き、ものさわがしと聞ていねもやられず。門に立ちてまちゐしが、遠く来りしかげをみるより、やれ八弥、不難にて来りしか、よしなき夜通しゝて大くをまうけしぞやとて悦びしとぞ。海のりやうをするもののはなしに、世に竜とうと云ひふらす物、実は火にあらず、至つてこまかなる羽蟲の身に蛍の如く光有るものの多く集れば、何となくほの如く見なさるゝものなり、夏の末秋にかゝりてことにおほし、時有りておほくまとまりて、高き木のうら、または堂の軒端などにかゝるを火の如くみゆる故、人竜燈と名付けしものなり、つくしのしらぬ火もこれなり、水上に生る虫[やぶちゃん注:先の正字との混在はママ。]にて蛍の類なり、沖に舟をかけてしづまりをれば、まぢかくもつどひくれど、いきふきかくればたちまち散てみえずなるなり、さればかならずこの日には竜とうあがるといふ夜も、大風吹き又は雨ふりなどすればあがらずと聞くを、この夜四くらにてみし光はこれとは異なり。いづれふしぎの光にぞ有りし。

[やぶちゃん注:私の只野真葛「奥州ばなし 四倉龍燈 / 龍燈のこと (二篇)」を見られたいが、同じ、真葛の「むかしばなし (92)」にも同内容の話が載る。]

〔四不語録巻一〕能登国富木の大福寺は、高津の観音と云ふ。山号は金竜山と云ふなり。昔より今に至るまで、毎月十七日の夜、竜燈上るなり。三ケ所より上るなり。今以て見たる者数多し。彼村の百姓室屋弥右衛門と云ふ者の弟何某、松が下と酒見との間に池有り。その辺にかけもちをするなり。然る処に十七日の夜の六つ半<午後七時>時分に、その池以ての外鳴るなり。池の辺《ほとり》に灯火見ゆるなり。その時さてはかの竜燈にてこれ有るべきと、薦(こも)をかぶりかくれて見る所に、十五六歳ばかりなるいつくしき童子、蠟燭のやうなる物を持《もち》て居《を》るなり。しばらく有りて火消ゆる様に見えて、その儘挑灯のごとくになる。蠟燭を挑灯の内へ入れさまに、くらくなる様《さま》の心地するとなり。谷峯を人の行歩《ぎやうほ》する如く越えて、大福寺山へあがり、半時たらず有りて、また右のごとくにして帰る。この時もまた池の中鳴りて、底へ入りたると見えし由語りけるを、聞きたる人の物語りにて爰に記す。延宝の中比の事なり。

[やぶちゃん注:「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「能登国富木の大福寺は、高津の観音と云ふ。山号は金竜山と云ふ」この名の寺は現存しない。石川県羽咋郡志賀町大福寺として地名で残る。思うに、現在の同地区にある高爪神社の別当寺ではなかったかと推測した。すると、「石川県神社庁」公式サイト内の「髙爪神社」(梯子高(「髙」)表記)に、『高爪山は、山容の美しさから、能登富士と呼ばれて』おり、『その頂上に高爪神社の奥宮が鎮座してい』る。『土地の人々は、「岳(だけ)」とか「岳山(だけやま・高く大きな山の意)」と呼んで崇拝してきた。おそらく、原始頃から、神体山として仰がれていたと思われる。やがて、農耕生活が始まり、大福寺・酒見川流域の野の民は農耕神として、また、浦の民からは航海神(近海航路の目標となって、加賀・越前沖からも姿見される。)として、農・漁民など幅広い信仰に支えられていた。こうした周辺住民の素朴な信仰の対象だった高爪山も、仏教の流入によって複雑なものに変わっていった。神社由緒書に寄れば、『往古は、内宮・外宮・末社八あり、内宮を六社宮と称し、日本武尊・菊理比叱他四柱の神を祀り、外宮を高爪神社と称し、串稲田姫命・事代主命・日本武尊の三柱の神を祀るものにして、七院あり』と記し、『持統皇(』十七『世紀)内外宮を国家安康の祈願所と定め、文武帝特に尊信せられ、大宝』三(七〇三)年六月、『『正一位真蘇坊洞ケ岳大明神の勅宣を賜る』と伝えている。最盛期には、数』十『人の神官・僧官が分立して、山麓に寺坊を建て』(☜)、『六柱の神(高爪大明神・気多大明神・白山妙理権現・伊須留岐権現・若王子・八幡大菩薩)を初め、山頂の祭祀を執り行った。そして、これを管理支配したのが、蓮華光院大福寺』(☜)『で、いわゆる神仏習合の時代が長く続くのである。しかし、明治』二(一八六九)『年、寺院を廃絶して神社だけの今日の姿になった』(☜「神仏分離令」発布の翌年)『のである。一方、前田利家をはじめ、歴代の藩主の崇敬が厚く、社殿の造営や社領の寄進などを行った御印物が現存している。特に』、(☞)『利家が十一面観音を安置して以来、高爪神社は観音堂としての信仰をあつめ、能登国』三十三『番観音霊所の第』二十六『番の札所として、今も観音講の信者の参詣が行われ、時々、御詠歌の合唱が杜から流れて来るのである』(☜)。『附記』:『当神社には、国指定の重要文化財『懸仏(かけぼとけ)六面』がある。鎌倉時代初期』(文永一二・建治元(一二七五)年)『のもので、かつては六社宮の本地仏である。木造彩画で他に類を見ない形式だといわれ、正統な絵師が描いたものである。前記六社の神名をはじめ、年記・願主が銘記されているので、高爪信仰を語る重要な文化財である』とあり、珍しく神社でありながら、観音信仰が現に生きていることが判明した。

「松が下と酒見」孰れの地名も「ひなたGPS」の戦前の地図を見ても、見当たらない。]

〔裏見寒話追加〕積翠寺山《せきすいじさん》の上の火、この山は府の北にあたる。夜陰はこの半腹に鞠の如き灯見ゆる。里俗これを竜火と云ふ。この火出れば三日を過ぎずして必ず雨降るといふ。

[やぶちゃん注:「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの『○積翠寺山の上の火』(本篇はそれを本文に入れ込んであるが、別本によるからであろう)。

「積翠寺山」山梨県甲府市上積翠町、舞鶴城後背の谷の最奥、にある臨済宗妙心寺派万松山積翠寺。武田信玄はここに建造された要害山城で誕生したとされ、境内には産湯を汲んだとされる井戸である「産湯天神」があることで知られる。ここにある温泉に泊まったことがある。]

2024/01/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜頭」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜頭【りゅうとう】 〔塩尻巻四十八〕遠江国天竜川<静岡県西南を流れる川>の西頓(やが)て河下に、頭陀寺とて薬師を安んずる密院あり。この寺に竜の首とて、いと大きなるされかうべあり。(先年江戸ヘ持来て見せし)竜の故事さまざまいへり。天竜川の称もこの竜頭より起れる名と云々。京師建仁寺に鬼の首とて、凡そ一尺ばかりの髑髏侍りし。これは由縁もたしかならず。故に前の住職の僧、よからぬ物とて人に取らせられしと都の僧かたりし。今はいづくにかありや。すべて諸寺の蔵に奇怪の物多し。世人あやしきを好むのみ。 〔閑田耕筆巻一〕水戸宍戸(ししど)(苗氏にも有りて、完と書くは誤りなり。肉と同字にて、国訓しゝといふなり)といふ所に、稲田姫を祭れる小祠あり。この辺の崖(きし)崩れたるを修《をさ》めんとするに、あたる物あり。何ならんと掘りてみれば、大なる甕(かめ)のごとし。かの鋤にふれて欠けたる所を取あげ見れば大なる歯骨なり。猶この甕のごときもの、限りもしられず、歯も随ひて数あり。官の検《しらべ》を得て、この歯を奉りしが、一枚の重サ三貫五百目[やぶちゃん注:十三キロ百二十五グラム。]なり。彼《か》の甕のごときは、竜頭に決す。猶掘ラ[やぶちゃん注:ママ。]ば全体顕《あらは》るべけれど、益なしとてやみぬ。伝説なければ由縁はしらねども、稲田姫を祭れるも、もしくはこの竜の妖を鎮めんがため、八股(やまた)の蛇(おろち[やぶちゃん注:ママ。])の故事をおもへるにやと、かしこに仕官せし人かたりぬ。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ上段後ろから六行目)から正字で当該部を視認出来る。

「頭陀寺」静岡県浜松市南区頭陀寺町にある高野山真言宗頭陀寺(ずだじ:グーグル・マップ・データ)。

「竜の首」現存しない模様である。人造物だろう。

「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここ(左ページ冒頭)で当該部が正字で視認出来る。

「水戸宍戸(ししど)」「稲田姫を祭れる小祠あり」不詳。茨城県笠間市大田町に宍戸があるが、この地区には、稲田姫を祀る神社は見当たらない。気になるとすれば、北方向にある飛龍神社であるが、稲田姫は祭神ではない。友部駅近くに「小祠」があるが、祭神は確認出来ない。遙か西北になるが、茨城県笠間市稲田にある稲田神社が名にし負う神社ではあるが、よく判らない。龍の首を神宝とする現存する神社は、この周辺には、ない。しかし、古くからよく参考にさせて頂いている龍の最強サイト「龍鱗」の「稲田姫神社の大蛇 茨城県笠間市」に興味深い伝承と解説があった。

   《引用開始》

稲田姫神社は式内の古社だが、その森には大蛇が住んでいたという。昔、ある坊さんが立ち寄り、貧しく供えるものがないので、一心に読経をしてお参りした。そして、休んでまた道を行くと、大風が出て黒雲が覆い、沢山の化け物どもが追いかけてきた。それでまた一心にお経を唱えると、化け物は消え、坊さんは助かった。

坊さんは鹿島神社に行くと、お経をあげ、稲田社で斯様なことがあったのはなぜか、悪い神のたたりだろうか、と神前で問うた。すると夢に鹿島の神がたくさんの神々を連れて現れ、取り調べてみようといい、神兵が稲田に飛ぶと、白髪の老人を連れてきた。

鹿島の神は、老人に、人々を守る仕事をしないで脅かすとは何事か、と老人・[やぶちゃん注:ママ。「が」「は」か。]稲田の神を詰問した。すると老人は、数百年生き、神通力をもった大蛇に神社を奪われ、自分は木の根に住んでいる始末であると訴え、この度の怪異もその大蛇の仕業であると申し述べた。

鹿島の神はこれを聞くとただちに五千の神兵を行かせ、大蛇を討ち取らせた。戻った神兵が持ってきた白蛇の首は、四、五メートルもあり、角は鋭く、耳は箕のように大きかった。

目覚めた坊さんが、急ぎ笠間に戻ると、稲田神社は焼けて灰になっていた。村人に聞くと、昨夜急に大嵐がおこり、雷の音に弓矢の音や叫び声が混じり、黒雲が火を吹くと神社はたちまちに燃えたのだ、と語った。そのあとには、五、六メートルもある首のない大蛇の死体が転がっていたという。

   《引用終了》

以上は、『笠間文化財愛護協会』の「笠間市の昔ばなし」『(筑波書林)より要約』とある。而してサイト主は、『『続お伽婢子』から、とあるので、近世にはこのように語られていたのかもしれない。もとより奇稻田姫を祀るはずの稲田神社だが(「稲田姫の大蛇退治」など)、ここでは神は白髪の老翁になっている。近世あたり』、『稲田神社は相当荒廃していたというが、伝も不明瞭になっていたのだろうか』。『それでも、やはり蛇と縁の深い社だというイメージはあったのだろう。話の上では邪な大蛇であるばかりだが、地主が蛇だという所でままこのようにも語られるものではある』。『水戸の御老侯(は、実際に稲田神社の荒廃を嘆いて旗幟を寄進しているのだが)が例によって、神殿の扉を開けようとしたところ、扉に手が挟まり抜けなくなった、などという話もあるが、これをやったのも大蛇のほうかもしれない』とあった。「龍の首」ではなく、「首のない龍の死体」という反転内容であること、近世には、かなり稲田神社が荒廃していたという記載から「小祠」が納得はされる。

「大なる歯骨」やや重さが過剰だが、恐らくは、軟骨魚綱ネズミザメ目Otodontidae 科(或いはネズミザメ科 Lamnidae)オトドゥス Otodus 属或いはカルカロクレス又はホホジロザメ属 Carcharodonムカシオオホホジロザメ Otodus megalodon 或いは Carcharodon megalodon で、約二千三百万年前から三百六十万年前の前期中新世から鮮新世にかけて生息していた絶滅種のサメの歯である。ウィキの「メガロドン」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜石【りゅうせき】 〔折々草夏の部〕大和の国上品寺《じやうほんじ》とふ里に行きて遊びて侍るに、この主《あるじ》物語りしき。主の従兄弟は同国高取《たかとり》といふ城下《きもと》に、土佐といふ所に侍り。久しく訪れざりしかば如何にと思ひて、水無月望(もち)ばかりに、いと暑き頃なれば、寅の時[やぶちゃん注:午前四時頃。]に出でて往きける。道は三里ばかりなれば、明けむとする頃は参り著《つ》くべしと思ひて行くに、其所へは今五丁《いつところ》[やぶちゃん注:約五百四十六メートル。]ばかりにて、やうやう東《ひんがし》の空白みたるに、いと疾くも来りぬ。少し休らはゞやと思へど、この辺は皆《みな》野らにて、芝生の露いと深く、直居《ひたを》りに居《を》りかねたれば、と見かう見するに、草の中によき石の侍るを見出でて、行きて腰かけむと思へど、蚋(ぶと)などや多からむに、此所《ここ》へ持《も》て来むとて、手を打ちかけて引くに、見しよりはいと軽《かろ》らかに侍る。大さは二尺《ふたさか》ばかりにて、鈍色《にびいろ》せる石なり。これを道の真中《まなか》にすゑて、清らを好む癖の侍るに、手拭《たなごひ》のいと新しくて持ちたるをその上に打敷《うちし》きて、さて腰かけたれば、この石撓《たは》む様《さま》にて、衾《ふすま》などを畳み上げて、その上に居《を》るばかりに覚えたり。奇《く》しき事とは思へど、心がらにや侍りけんと、事もなく居りて、火打袋《ひうちぶくろ》を取出《とうで》て火を鑽《き》りおこし、下部《しもべ》にも煙草食《たう》べさせなどし、稲どもの快げに青み立ちたるを打見やりて暫時《しばし》ある間に、朝日のいと紅《あか》くさし上る。いざ歩まむとて立ちで、道二町《ふたところ》ばかり行くに、汗のしとゞに流れて唯暑くおぼえけり。清水に立寄りて顔など洗ひ侍るに、何となく臭き香《か》の堪へがたくしけるを、何ぞと思へば、かの手拭《たなごひ》にいたく染《し》みたる香なり。何に似たるかをりぞと思ふに、小蛇《をろち》[やぶちゃん注:後掲する所持するものでは、単に『蛇(オロチ)』(「オ」はママ)とある。]の香にて、それが上《うへ》にえも言はず臭き香の添ひたるなり。此(こ)はけしからぬ事かな、かの石の上に彼《かれ》[やぶちゃん注:蛇。]が居り侍りけむ名残《なごり》なり。さて洗ひ落さむと思ひて、清水に打漬(《うち》ひ)ぢて[やぶちゃん注:浸しては、ごしごしと。]洗へども中々に去らず。水に入りては猶臭き香の募りて、頭《かしら》にも通るべく覚えけるに、手拭《たなごひ》は捨て遣《や》りける。さて手も体も物の移りたる、堪へがたければ早く行きて湯浴《ゆあみ》せんと、急ぎて従兄弟《いとこ》の許(がり)行きつけば、皆《みな》集会《まどゐ》して朝食《あさげ》にかあらむ物食《たう》べて侍るが、主の曰く、久しく見えたまはざりし、かゝる暑き時に暁かけて来たまはせで、かく日の盛りには何しに出でおはしたると聞ゆ。この男聞きて、寅の時にいでて唯今麓にて夜の明けてさむらへ、主《ぬし》達も今、朝食《あさげ》参るならずやと言へば、家の内の人みな笑ひて、何所《いづこ》にか午睡《ひるい》して寝《ね》おびれたまへるならむ、空は未《ひつじ》の頭《かしら》[やぶちゃん注:午後一時頃。]にてさむらへ、けふは昼飯《ひるいひ》の遅くて、只今食《たう》べ候ふと言ふに、少し怪しくなりて空を見れば、日ざしも実《げ》に然り。また暑き事も朝の程ならず。下部を見れば、これも唯怪しく思へる顔附にて、道にも何も程過《すご》すばかりの事はしたまはず。火を鑽りて煙草二吸《ふたす》ひばかりして侍るのみなりと申すに、主《ぬし》どもがそれは彼《か》のにて侍らむ、山の麓には良からぬ狐《きつ》の折々さる業《わざ》して侍る事のあるにと言へば、いな狐とも覚えず。かうかうなむ侍る事のありて、その香のいまだ去らず侍るに甚(いた)く悩めり、湯浴《ゆあみ》せばやと言へば、主打驚きて、それは悪しきめに遭ひたまへり、かの石は竜石《りゆうせき》とて、この辺《わたり》には構へて侍り、その化物は何に侍るとも知らねど、必ず小蛇《をろち》の香のし侍るを以て、所の者は竜《りゆう》の化けて侍るなりとて、それをば竜石とは申すなり、これに触れたる人は、疫病《えたしやみ》[やぶちゃん注:伝染性の病気。]して命にも及ぶ者多し、御心《みこころ》は如何《いかに》に侍ると言ふに、忽ちに身の熱(ほとぼり)来て[やぶちゃん注:発熱を起こし。]、頭《かしら》も痛くいと苦しくなりし程に、従兄弟は薬師(くすし)なりければ、心得て侍りとて良き薬を俄かに煎(に)させて、また体《からだ》の香のとまりたるをば、洗ふ薬を以て拭《のご》はせなどしけり。この家に斯《か》く病臥《やみふし》してあらむも如何《いか》に侍れば、帰りて妻子《めこ》どもに看護(みと)らせむとて、その日の夕つかた、籠《かご》に乗りて呻きながら帰るべくす。また主《あるじ》の曰く、かの休みたまふ所にて見させよ、必ずその石は侍るまじきにと聞ゆるに、下部ども心得て、かの石は道の真中に取出《とうで》て侍りけるとて、行きかゝりて見れども更に無し、人の取退(とりの)けしにやと遠近《をちこち》見れども、もとより石一つなき所なれば、有るべきにもあらず。さては化けたるなりけり。己《おのれ》は下部だけに地《つち》に居《を》りて侍れば、石には触れざりけるとて、幸(さち)[やぶちゃん注:後掲する所持本では、ルビは『サイハヒ』(ママ)となっている。]得たる面附《つらつき》して帰りにけり。かの男は葉月ばかりまで甚《いた》く病(わづら)ひて、やうやう癒え果てぬと。さて後は子供等《わ》にも誰《たれ》にも、山に往きては心得なく石にな腰かけそと、教へ侍りきと聞えし。

[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○龍石といふ事』である。私は「新日本古典文学大系」版(同作の校注は高田衛。一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、標題も『龍石をいふ条』で、各所に表記上の異同があるが、読みが、かなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多いが、時に歴史的仮名遣に誤りがある。というか、恐らくは当時の口語表現のそのままともとれる)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。綾足は漢字の読みに独特の拘(こだわ)りがあるのだが、宵曲はそれをかなり無視しており、ちょっと残念である。以下、「新日本古典文学大系」版を参考に注を附す。

「大和の国上品寺」現在の橿原市上品寺町(じょうぼんじちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「同国高取といふ城下に、土佐といふ所」奈良県高市郡高取町上土佐下土佐附近。高取城があり、植村氏の二万五千石の居城があり、その大手口の総門が、上土佐の南東に接する同町の下小島(しもこしま)にあった。

「水無月望(もち)ばかり」旧暦七月十五日頃。年次が不詳なため、グレゴリオ暦では提示出来ない。

「寅の時に出でて往きける」歩きが基本の江戸時代には、暁方の早出は当たり前であった。

「直居りに居りかねたれば」高田氏の注に、『地べたに坐るところがなかったので』とある。

「見かう見する」あちらことらを見ること。

「蚋(ぶと)」双翅(ハエ)目カ亜目カ下目ユスリカ上科ブユ科 Simuliidaeブユの類。関東では「ブヨ」、関西では「ブト」と呼ぶ。六年住んだ富山が「ブト」だった。当該ウィキによれば、『カやアブと同じく、メスだけが吸血するが、それらと違い』、『吸血の際は皮膚を噛み切』って『吸血するので、中心に赤い出血点や流血、水ぶくれが現れる。その際に唾液腺から毒素を注入するため、吸血直後はそれ程かゆみは感じなくても、翌日以降に(アレルギー等、体質に大きく関係するが)患部が通常の』二、三『倍ほどに赤く膨れ上がり』、『激しい痒みや疼痛、発熱の症状が』一~二『週間』ほど『現れる(ブユ刺咬症、ブユ刺症)。体質や咬まれた部位により腫れが』一『ヵ月以上ひかないこともままあり、慢性痒疹の状態になってしまうと』、『完治まで数年に及ぶことすらある。多く吸血されるなどした場合は』、『リンパ管炎やリンパ節炎を併発したり』、『呼吸困難などで重篤状態に陥ることもある』とある。高二の時、親友と夏にテントを担いで能登半島を一周した時、海辺でキャンプすると、大攻撃を受けた。また、始めてワンダーフォーゲル部の顧問になって、丹沢を一泊で縦走して蛭ヶ岳へ行った際、私の生徒たちもさんざん刺された。私はそれでも予後がよかったが、女生徒の数人は、二ヶ月近く、黝ずんだ瘢痕が消えず、可哀そうだったのをよく覚えている。

「鈍色」濃い灰色のこと。平安時代には、灰色一般の名称であったが、後に「灰色」・「鼠色」にその座を取って代わられた。高田氏の注では、『本来は橡(つるばみ)で染めた濃い鼠色をいう』とあった。「橡」はブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima の異名。実(どんぐり)や樹皮を用いる。

「衾」掛け布団。時に野宿の可能性があり、江戸時代の長旅では、携帯していた。

「小蛇の香」恐らくは、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ナメラ属アオダイショウ Elaphe climacophora であろう。きゃつを捕まえると、独特な臭いを出すことがある。これはアオダイショウの尻尾の付根にある総排泄口附近にある「臭腺」から出るもので、褐色の液体で、非常に臭い。これはただ臭いだけで、毒があるわけではない。まさに「青大将」で青臭い他で喩えることが出来ない独特な匂いである。私は蛇好きで、幼稚園の頃は、毎日のように大泉学園の弁天池や、その周囲の廃田圃できゃつらを素手で捕っては、首に巻いたり、友だちが捕ったものと、「どっちが長い?」と比べっこするほど、蛇耐性が高かったから、この臭いは、よく覚えている。しかし、不思議に、私は臭いとは思わなかった。不思議である。

「頭にも通るべく覚えける」頭痛がするほどの悪臭であることを言う。

「物の移りたる」高田氏の注に、この「物」は『臭気のみでなく、何か得体のしれないものが染みつく感じ』を言うとある。

「許(がり)」接尾語で、人を表す名詞・代名詞に付いて「~のもとに・~の所へ」の意。

「集会《まどひ》して」円座して。

「寝おびれ」寝ぼけることを指す。

「彼《か》の」高田氏は『不詳。「かの」という妖異か。または、例のものの意か』と注しておられる。

「竜石」高田氏は『不詳』とする。所持する木内石亭「雲根志」に「龍石」はあるが、kれは国立国会図書館デジタルコレクションのこれで、硯から龍が昇天した話であって、本話とは親和性がない。似たような話も、私の知る限りでは、同書には、ない。

「この辺には構へて侍り」「人が来るのを待ち構えております」。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜光寺村岩屋」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜光寺村岩屋【りゅうこうじむらいわや】 〔譚海巻四〕下総成田不動尊の近きあたりに竜光寺と云ふ村有り。それに四つの井、三つの岩やといふ物あり。この井にて一村飢渇に及ぶ事なし。岩屋は二つならびて、大なる塚の裾に有り。一つは別にはなれて、同じ如く塚のすそに有り。岩屋の入口の大さ壱間に九尺、厚さも八九寸ばかりなる根府川石の如きを、二つをもて扉とせり。岩屋の内、皆大なる石をあつめて組たてたるものなり。その石にみな種々の貝のから付きてあり。この石いづれも壱間に壱尺四五寸の厚さの石どもなり。岩屋の内六七間に五六間も有り、高さも壱丈四五尺ほどづつなり。この村辺にすべてかやうの石なき所なるを、いづくより運び集めて、かほどまで壮大なるものを造りたる事にや、由緒しれがたし。村の者は隠里とてそのかみ人住める所にて、よき調度などあまた持ちたり、人の客などありてねぎたる時は、うつはなどかしたり、今もそれをかへさでもちつたへたるものありといへり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之四 下總國成田石の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「流言」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 流言【りゅうげん】 〔反古のうらがき巻一 〕文政の中年、さる屋敷より病人を釣台にのせて持出し事ありしに、何者申出しけん、この辺に死人を釣台にのせて、人なき所に捨る者あり、人々用心し玉へといひけること、市谷柳町<東京都新宿区内>より初まりしよし。江戸中大体一面に行渡り、本所・浜町・麻布・青山へん迄、皆屋敷々々に番人を出し、高張り挑燈にて守りしに、二三日にして止みけるとなん。その後一二年過ぎて秋の末つかた、月殊に明らかなりし夜、予<鈴木桃野>門外に出で、舎弟と俱に月を賞し居《をり》しに、四ツ頃と思ふ頃、向うより高声に語りて来る人あり。音羽と書きたる永挑燈《えいちやうちん》をともし、とびの者体《てい》なる人二人なり。その語に、世には残忍なる人も有る者かな、あの女の首はいづこにて切りたるか、前だれに包みたれば、賤しきものの妻にても有るべし、切りたるは定めてその夫なるべし、間男などの出入(でいり)と覚えたり、今捨てんとして咎められ、また持去りしが、何れへか捨つべし、その時は迷惑なる者なりといふ話なり。予これを聞きて呼留め、何(いづ)こにての事と問へば、さては未だ知り玉はずや、こゝより遠からず、市ケ谷焼餅坂上なり、夜深けて門外に立ち玉ふは、定めてその捨首の番人かと思ひしに、さにてあらざりけり、こゝより先は皆家々に門外に出で番をするぞかしといひて、打連れてさりけり。予もおどろきて、前なる辻番所に右の趣申付け、よく番をさせ置き、入りて眠りたりしが、兎角心にかかる上に、辻番所に高声に右の物語りなどするが、耳に入りて寝られず。立出で見れば、最早九ツ半時<午前一時>の拍子木を打ち、番所の話を聞けば、組合より申付けられたれば眠る事能はず、さればとていつはつべき番とも覚えず、もし油断して捨首にてもある時は、申分に辞《ことば》なし、如何にせましといひあへり。予も余りにはてしなき事なれば、最早程も久し、捨首あらば是非なし、先づ休むべしと申渡し、入りて寝けり。明る日あたりを聞くに、口惜しや、あざむかれぬといひてやみけり。この訛言も小石川巣鴨へん、本郷より浅草・千住・王子在などの方に広がりて、北の方いづこ迄かしらねども、大いにおどろきさわぎたるよし。予親しく聞きたれども、誰にも告げざれば、このあたりは却つてしる人なし。音羽といへる挑燈なれば、これへかへりかへり申触れたるか、その先迄申伝へたるなるべし。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 訛言」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜穴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 竜穴【りゅうけつ】 〔諸国里人談巻四〕信州安曇郡の山中嶋々といふ里の山岸、水神の社の下に大きなる穴あり。その裾を梓川(善光寺の犀川の水上なり)と云ふ大河流れたり。この川水派(わか)れてこの穴に入り、水末いづこといふ事をしらず。

 里俗に云ふ、近世強盛のものあつて、その奥をはかり見んと、炬火を以て水の涸れたる時、この穴に入りて、凡そ三町ばかりも行きたるに、しきりに腥き風ふき来て松明を消したり。何となく怖ろしかりければ、逃げる心にして立帰りけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之四 龍穴」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は全部で八話から構成されており(ここが底本の冒頭)、やや長い。各々の単話は、改行なしで示されてあるが、改行し、それぞれの、その切れ目で注を挿入した。]

 

     

 

 竜【りゅう】 〔甲子夜話巻十一〕明和元年大火の後、堀和州の臣川手九郎兵衛と云ふ人、その君の庫の焼残りしに庇《ひさし》を掛けて、勤番ながら住居《すまふ》なり。その頃大風雨せしこと有りしに、夜中燈燭も吹消したれば、燧箱《ひうちばこ》をさがすとて戸外を視れば、小挑灯の如き火二つ雙《なら》んで邸《やしき》北の方より来たり。この深夜且《かつ》風雨はげしきに、人来《きた》るべきやうもなしと怪しく思ひながら火を打ち居《をり》たるに、頓(やが)てその前を行過《ゆきすぐ》る時、見れば火一つなり。いよいよ不審に思ふ内、そのあとに松の大木を横たへたる如きもの、地上四尺余を行く。その大木と見ゆるものの中より、石火の如き光時々発したり。その通行の際は別《べつし》て風雨烈しくありき。かゝれば先きに雙灯《さうとう》と見えしは両眼、近くなれば一方ばかり見ゆるより一つとなり、大木はその躬《み》にして竜ならんと云ひしと。また同じ時下谷煉塀《ねりべい》小路の御徒押林善太夫の子善十郎、年十六なるが、屋上に登り雨漏を防ぎゐたるに、これも空中に小挑灯の如き雙火の飛行するを見たるとなり。彼の竜の空中を行きしときならん。奥州荘内藩の某語りしと聞く。その人かの藩の城下に居《をり》しとき、迅雷烈風雨せしが、夏のことゆゑほどなく晴れたり。このとき家辺を往来するもの、何か噪り[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じだが、読めない。後掲リンクする『東洋文庫』版原本では、『噪く』で「さわがしく」と読める。「り」の宵曲の誤記或いは初版及び改版の誤植であろう。]言ふゆゑ、出《いで》て空を仰ぎ見たれば、長《た》け二丈余もあらん虵形《じやけい》の頭《かしら》に黒き髪長く生下《おひさが》り、両角《りやうづの》は見えざれど、絵に描《ゑが》く竜の如くなるが蜿蜒《ゑんえん》す。視るもの言ふには、今や地に落ち来たらん。さあらば何ごとをか引出さんと、人々懼れ合ひたり。この時鳥海山の方《かた》より一条《いちでふ》薄黒き雲あしはやく来りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとゞくと等しく、一天墨の如くなりて大雨《だいう》傾盆《けいぼん》す。暫くしてまた晴れたり。そのときは虵形も見えざりしと云ふ。如ㇾ此きもの洋人の著書(書名ヨンストンス)見えし[やぶちゃん注:ママ。「に見えし」の脱字か誤植。]。また仙波喜多院の側に小池あり。一年旱《ひでり》して雩(あまごひ)せしとき、その池中より一条の水気起騰《おこりのぼ》りて、遂に一天に覆ひ、大雨そゝぎ、大木三十六株捲倒《まきたふ》せしことあり。所謂たつまきならん。その竜を観んとて、野村与兵衛と云ふ小普請衆、天をよく視居《みをり》たれど、ただ颱風《たいふう》旋転《せんてん》して竜のかたちは少しも見ずと予<松浦静山>に語れり。

[やぶちゃん注:本篇は事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事」として電子化注しておいた。]

〔異説まちまち巻二〕松浦氏妻は、おやまと名をいひしなり。おやまの姉かたられしは、羽州酒田にての事なりしに、夏の事にや、晴天の中天に竜の頭のみ見えけり。牛のかしらのごとくにてありしが、目のひかりすさまじかりし。若《も》し下へ下《くだ》るとて、みなみな出《いで》ておひけれども、只そのまゝの体《てい》にて居たりしが、段々四方より雲出て、竜のきはへよりよりして、雲につかみかくれけるとなり。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る(右ページ中央やや右寄りから)。

「松浦氏妻」長蘿堂氏のサイト「ろんがいび」内の田中光郎氏の『「和田烏江『異説まちまち』と赤穂事件」によれば、本書の作者和田烏江(正路)は『和田庄太夫と』称したが、『和田家の先祖についてはあまり書くことがなかったらしいが、母方の松浦氏についてはある程度』、『情報がある。高祖父は松浦石見とて尼子家の浪人、大坂で書を教えていたという』。『曾祖父は松浦金太夫といい、馬にまたがって足が地に着くほどの大男』で、『祖父は松浦長左衛門であるが、これは高力氏から養子に入ったらしい』。『藤兵衛という外伯父は承応元年』(一六五二)『生まれの由』で、『寛文』二『年』(一六六二)『生まれの母が庄内に育っていることから見れば、松浦氏は庄内藩士だったのであろう』とあることから、母方の親族であることは、判った。]

〔同上〕姫路にて、夏の事なるに、土用干をしけるに、空曇り夕立のすべき景気なるゆゑ、干たるもの共、みな取入れけるに、屋敷の裏の畠《はた》の内に、赤くひらめくもの見えけるをみつけて、急ぎて仕廻(しまふ)とて毛せんを取落しけると思ひて、畠のかたヘ一人ゆきけるに、ひつかりとするやうに見えけるまゝ見けるに、毛せんと見えたるは紅《くれなゐ》の舌にて、光りたるは眼のひかりにて有りける。かのもの驚きて、物も覚えずかけいりてたふれたり。しかるうちに雨風おびたゞしく、夕立冷(すさま)じき事なりし。畠の脇へ出《いで》て竜の天上しけるなり。よくよく強き風にて、雨戸共吹きはづしけるが、皆塀《へい》ぎはへ吹付けて、不ㇾ残立掛《たてか》けて有りけるとなり。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの前の記事の次に続いてある。]

〔斉諧俗談巻五〕『和漢三才図会』に云ふ。或人、船に乗りて近江国琵琶湖<滋賀県内>を過る。北浜といふ所にて暫く納涼す。時に一尺ばかりの小蛇、游ぎ来り、蘆の上にて廻舞して、また水上を游ぐ事十歩ばかり、また蘆の上へ上る事、はじめの如し。斯の如くする事、数遍におよぶ毎に、漸々に長くなり、既に一丈余におよぶ。しかるにたちまち黒雲おほひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)の降る事、車軸に似て、天に升《のぼ》りて纔かにその尾を見る。終に大虚(おほぞら)に入りて後《のち》晴天となると云ふ。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。殆んど総てが引用の堆積物で、これもそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(標題は『○龍升ㇾ天(りやうてんにのぼる)』)で当該部を正字で視認出来る。左ページに挿絵がある。所持する吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して、以下に掲げる。

 

Saikaizokudanbiwakoryu

 

なお、引用元の正規表現版は、私のサイト版『「和漢三才圖會」卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類』(昨年、リニューアルした)の冒頭の「龍」総論の中に出るので、参照されたいが、杜撰で、途中の一部をカットしているため、以下に引用する。漢字表記は所持する当時の板本原本のママ。一部は私が句読点、及び、読みと、送り仮名の補助(意味補塡を含む)を行っている。

   *

 凡そ龍蛇は皆、紆行(うかう)して、四足有る者は、龍の屬たり。手足無き者は、蛇の屬と爲す。然るも、龍蛇、本(も)と、一類たり。春夏、龍の天に昇るを見れば、徃徃(わうわう)にして、之れ、有り。或人、舩に乘り、琶湖(みづうみ:琵琶湖。)を過(よぎ)る。北濵に着きて、少-頃(しばら)く納凉す。時に、尺ばかりの小蛇有りて、游(をよ)ぎ來り、蘆の梢に上(のぼ)り、廻舞(くわいぶ)して、下りて、水上を游ぶこと、十歩ばかり、復た、還り、蘆の梢に上ること、初めのごとし。數次、漸く長じて、丈ばかりに爲る。蓋し此れ、外天(げてん)の行法か、是に於て、黑雲掩(おほ)ひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)降ること、車軸に似て、龍、天に昇る。纔(わづ)かに尾を見る(のみ)。遂に太虛に入りて、晴天と爲る。

   *]

〔蕉斎筆記〕絵にかける竜と云ふもの、その形見たるものなけれども、この昔二十年跡の事にて、十河《そがう》何某といふ者、奥山氏へ仕へ江戸往来せしに、木曽の落合へ泊りけるに、五月頃の事にや、宿屋の座敷より見けるに、その頃田植時分にて、夥しく早乙女ども田を植ゑけるに、二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]程も間のありける時に、何となく薄曇りけるが、野辺の男女蟻の這ふやうに皆々連立ち帰れり。亭主にその事を尋ねけるに、それは竜の天上するにて候、追付《おつつけ》け夕立いたし申すべし、雨戸を閉ぢて外を見まじきとて、俄かに蒼朮《さうじゆつ》を買ひふすべ立てけるゆゑ、真くろにして蹲《うづくま》り居《を》るに、右十河と外に一人、あまり見たくおもひ、雨戸を一寸ばかり明け外を見けるに、俄かに諸方とも真黒になり、雨夥しく風吹き来り、その雲を舞ひ揚げけるが、折々稲光りしけるに、芋蟲の様なるもの、光りにつれて顕れける。また頭と覚しき所は、海老のあたまのやうなるもの顕れけるとなり。その後雷鳴になり夕立夥しく、誠にうつすがごとくとなり。暫時に照上《はれあが》り快晴になりけり。誠に不思議なる事なり。雲中に顕れたるは、いかにも絵にかける竜の如しとなん。その頃雨風の時分、子供一人舞ひ揚げられ即死し、旅人一人は松の木へ取付き居て、笠を吹上げられ、危き命を助かりけるとなん。落合辺には度々竜の天上することありて、曾て珍しからざるよし。

 また青雨《せいう》咄しけるに、この前京都に逗留せし頃、東寺の近所畠の中より煙の根に高く揚りけるが、人々竜の天上するなりと申しけるが、その烟段々天へ上《のぼ》りけるに、少しばかりの雲空にありて、その煙雲へとゞくと見えけるが、直に大夕立になりけるとなり。その後畠へ行き見るに、五六間[やぶちゃん注:約九~十一メートル。]ばかりの間穿ち、畑物枯れ居《をり》けるよし。土中に蟄《ちつ》せしが一時に発昇《はつしよう》せしなるべし。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段五行目から次のコマまで)で視認出来る。

「木曽の落合」中山道の落合宿(グーグル・マップ・データ)

「蒼朮」(そうじゅつ)」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。しかし、ここで何故、それなのかは、判然としない。

〔奇異珍事録〕前にいへる京都御普請、翌《あく》る亥年八月頃は、半ば御出来《ごしゆつたい》にて、同月十一日には太田播磨守にも見廻られし。その時下賀茂の辺に火事有りと騒ぎ立ちけるまゝ見し所に煙りにあらず、雲の立登るなり。然しその中に火の子のごとき物ひらめき吹き散る。その日は朝より薄曇りたるが、件《くだん》の雲の登りて曇りの天に至ると見えしが、水のうづまくごとくして雷鳴する事両三声、誠に竜の画《ゑ》の雲にことならず。すさまじき気色にて、大粒の雨も降り出で、風も起りたれども、雲一天におよばず。登りたる所ばかりなりし。兎や角する内、火事にはあらず。竜の天上するなりと人告げたり。その雲の中、竜の容《かたち》の如く晴間も見え、または色々替りたる雲にてあざやかに見えし。竜の巻く時は必らずそのごとき物なるよし、加藤文麗子にも咄し有りき。程なく件の雲も山の方へをさまり、夕方は天静かになりたり。昔より語り伝ふは、竜の天上するを見し者、かならず青雲に至るとなり。その時見しは、

 太田播磨守 京町奉行より小普請奉行、その後御勘定奉行にて卒す。

 吉川三郎右衛門 御勘定組頭より御本丸御表御門番の頭。

 木室庄左衛門 御徒目附より小普請方、夫より御広敷番の頭。

 安井甚左衛門 御勘定より清水郡奉行。

 吉江治郎左衛門 支配勘定より小普請方改役、夫より小普請方。

 右各〻転役して堅固に勤む。さあらばかの竜の上りたりを見しも、よき前表ならめ。その竜は砂川藪屋敷と云ふより出たる竜のよし。始め火の子のごとく見えしはそのあたり草畑なり、それを巻きしにより、葉吹き落つるにて有りし。砂川ゑびすと云ふ茶屋にて委しく聞けり。

[やぶちゃん注:目撃者の名の下の、その後の昇進の説明部分は、底本ではポイント落ちである。これらの人物は注する気はない。悪しからず「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(標題『○見龍』)で視認出来る。

「前にいへる京都御普請」ここの『〇質知』を指す。そこに『明和三戌年』とクレジットがある。

「翌る亥年八月頃」明和四年丁亥。旧暦八月は、グレゴリオ暦では一七六七年八月二十四日から九月二十二日相当。]

〔耳囊巻二〕寛政五辰八月廿五日の事なる由、駒込富士境内に護摩堂あり。浅間の社、その外寺よりは少しはなれけるに、右堂へ年若き僧至りて、香花など始末なして、不動尊を祈念なしけるに、頻りに不動は申すに及ばず、こんがら精高十二天、各々動きけるゆゑ、甚だ物凄くなりて、早く堂を立出でしに、右堂の脇に大木の松有りしが、一本の処、二本同じ様に連なり寄りて立てるゆゑ、怖ろしき儘、本堂の前に至り、遠くこれを見しに、一本の松は段々上へ上る様に見えし。先にほのほを燃出て、見るも中々恐ろしかりしに、黒雲立おほひ、右地をはなるゝと見しに、怖ろしき物音して、大雨頻りにふり出《いで》しとや。暫く過ぎ、雨はれて、彼所を見しに、堂も一丈程地中へおち入りけると、その所のもの来りて語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之九 駒込富士境内昇龍の事」を参照されたい。]

〔宮川舎漫筆巻五〕竜昇天につき珍らしき一奇談あり。頃は寛政年の事なりしが、小日向大曲(おほまがり)にて竜昇天せしが、爰に一ツの奇談あり。昇天の前に、ひとりの老僧ありて、小日向近辺の家々に至り申置く趣は、私儀心付きし義御座候儘、御心得の為申上候、近き内風雨有るべし、その節、近辺より竜昇天なすべし、その折は御他出は猶更、御小児等御心付けなさるべき旨、申捨《まふしす》てにして廻りし処、小日向大曲西頰(にしがは)にて、さる御旗本にて上橋某、この口上を聞き、そのものをとゞめ座敷へ通し、土橋氏罷り出で、御口上の趣、御深切の段忝《かたじけな》く候、さてその竜昇天の儀は、何《いづ》れより御聞伝へに候やと問ふ。右の僧が曰く、この儀は拙僧年来《としごろ》ためし見候儀にて、斯(かく)晴天打続き、俄かに風雨の節は竜昇天まゝ有ㇾ之候故、御心得のため申上候までの義にて候よし、いかにも怪しき事ども有ㇾ之、土橋氏いはく、さてさていぶかしき義にて候、若しや貴僧昇天の事にては無ㇾ之やといへば、僧暫く無言なりしが、御察しの通り拙僧昇天いたし候といふ。土橋氏、さらば昇天の日はいつ頃にやと問ひしに、さればにて候、昇天の時至れども、いまだ水なし、右ゆゑ風雨を待居《まちゐ》るよし答ふ。土橋氏がいはく、その儀は心得がたし、見らるゝ通り小日向の流《ながれ》は水ならずやといへば、あれは流水にて、我水にあらずして用ひ難し、天水は自然の水にして、我水もおなじ。土橋氏またいふ。若し水入用ならば進ずべしといへば、彼もの大いに歓び、水少しにても給はらば、直《すぐ》にも昇天、心のまゝのよし申す。さらば此硯の水を進ずべしとて、神酒陶(みきどくり)に入れて出《いだ》せば、彼者歓び、この水にて昇天いたし候、しるしをば御目に懸け申すべしと、厚く礼を述べ、立帰りしかど、外の者どもは狂人なりとおもひ居たりし処、二三日過ぎて俄かに晴天かき曇り、魔風《まふう》一時に吹き来り、大雷大風雨、その冷(すさま)じき事いはん方なし。さては先日の僧昇天なる歟、あら恐ろしと各〻潛《ひそ》み居《ゐ》たりしが、だんだんと風も凪《な》ぎ、雨もはれ、始めて生きたる心地して、あたりを見れば、ふしぎなるかな、雨の跡、草木《くさき》をはじめ皆墨水《すみみづ》にて有りしとかや。アヽ奇ならずやと土橋氏、同役長崎氏へ噺《はな》されしを、その子なる文理子《ぶんりし》、予<宮川政運>に語りぬ。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『靈石(れいせき)を祀(まつ)る天瑆(てんせい)と號(がうす)龍昇天(りゆうせうてん[やぶちゃん注:ママ。])の事』の後半部。一部の読みを参考にした(但し、ルビは歴史的仮名遣の誤りが多い)。なお、この前部分の「靈石」は結末で「龍石」とあり人物によって推定され、『若し同し事なれば若(もし)時至り龍など昇天大風雨あらば近邊の憂ひなるべしといへり』で終わっており、連関はある。電子化する気はないので、各自、見られたい。]

2024/01/21

フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

11―14 眞龍(しんりゆう)を見し事

 明和元年大火の後(のち)、堀和州の臣、川手九郞兵衞と云ふ人、その君(くん)の庫(くら)の燒殘(やけのこ)りしに、庇(ひさし)を掛けて、勤番ながら[やぶちゃん注:「~のようにして」の意。]、住居(すまふ)なり。

 その頃、大風雨せしこと有りしに、夜中、燈燭も吹消(ふきけ)したれば、

「燧箱(ひうちばこ)を、さがす。」

とて、戶外(こがい)を視れば、小挑燈(こぢやうちん)の如き火、二つ、雙(なら)んで、邸(やしき)北の方より來たり。

『この深夜、且(かつ)、風雨はげしきに、人來(きた)るべきやうも、なし。』

と、怪しく思ひながら、火を打ち居(をり)たるに、頓(やが)て、その前を、行過(ゆきすぐ)る時、見れば、火、一つなり。

 いよいよ、不審に思ふ内、そのあとに、松の大木を橫たへたる如きもの、地上、四尺餘(あまり)を行く。その大木と見ゆるものの中(うち)より、石火(せきくわ)の如き光、時々、發したり。

 その通行の際は、別(べつし)て、風雨、烈しくありき。

「かゝれば、先きに雙燈(さうとう)と見えしは、兩眼(りやうがん)、近くなれば、一方ばかり見ゆるより、一つとなり、大木は、その躬(み)にして龍ならん。」

と云(いひ)し、と。

 また、同じ時、下谷煉塀(ねりべい)小路の御徒押(おかちおさへ)[やぶちゃん注:将軍の御成りに徒歩で供奉し、行列を監督する職名。]林善太夫の子善十郞、年十六なるが、屋上に登り雨漏(あまもり)を防ぎゐたるに、これも、

「空中に、小挑燈の如き雙火の飛行(ひぎやう)するを見たる。」

となり。彼の龍の空中を行きしときならん。

 奧州莊内藩の某、語りしと聞く。その人、かの藩の城下に居(をり)しとき、迅雷烈風雨せしが、夏のことゆゑ、ほどなく晴れたり。このとき、家邊を往來するもの、何か噪(さわがし)く、言ふゆゑ、出(いで)て、空を仰ぎ見たれば、長(た)け二丈餘もあらん、虵形(じやけい)の頭(かしら)に、黑き髮、長く生下(おひさが)り、兩角(りやうづの)は見えざれど、繪に描(ゑが)く龍の如くなるが、蜿蜒(ゑんえん)す。視るもの、言ふには、

「今や地に落ち來たらん。さあらば、何ごとをか、引出(ひきいだ)さん。」

と、人々、懼れ合ひたり。

 この時、鳥海山の方(かた)より、一條(いちでふ)、薄黑き雲、あしはやく來りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとゞく、と等しく、一天、墨の如くなりて、大雨(だいう)、傾盆(けいぼん)す。

 暫(しばらく)して、また、晴(はれ)たり。

「そのときは、虵形も見えざりし。」

と云ふ。

 如ㇾ此(かくのごと)きもの、洋人の著書【書名「ヨンストンス」。】に見えし。

 また、仙波(せんば)喜多院の側(かたはら)に、小池、あり。一年(ひととせ)、旱(ひでり)して、雩(あまごひ)せしとき、其池中より、一條の水氣、起騰(おこりのぼ)りて、遂に、一天に覆ひ、大雨そゝぎ、大木三十六株、捲倒(まきたふ)せしことあり。

 所謂、「たつまき」ならん。其龍を、

「觀ん。」

とて、野村與兵衞と云ふ小普請衆、

「天をよく視居(みをり)たれど、たゞ、颱風(たいふう)、旋轉(せんてん)して、龍のかたちは、少しも見ず。」

と、予に語れり。

■やぶちゃんの呟き

「明和元年大火」不詳。明和元年には江戸に関しては「大火」はないと思う。或いは、これ、「明和九年」の誤記、或いは、判読の誤りかも知れない。「元」と「九」は崩し方が悪いと、判別がつかないことがあるからである。

「ヨンストンス」漢字表記では「勇斯東私」。ヨーン・ヨンストン(一六〇三年~一六七五年)。ポーランド生まれのスコットランド人(父の代にポーランドに移住)。ドイツでの教育を受けた後、スコットランドのセント・アンドリューズ大学で学士号・修士号を得(専攻は神学・スコラ哲学・ヘブライ学)、一時、ポーランドへ戻ったが、ケンブリッジ大学で植物学と医学を学び、フランクフルトやライデンでも研鑽を積んだ。一六三四年にライデン大学・ケンブリッジ大学から医学・哲学博士号を得た。ポーランドの大貴族レシチンスキ家に近侍し、同家の公子の海外遊学に同行し、帰国後はレシュノ(ドイツ名「リサ」)でレシチンスキ家に仕えた(ヨンストンの死後、同家のスタニスラウはスエーデン支配下のポーランド王となっている。ここまで「東京人形倶楽部 あかさたな漫筆」の藤倉玄晴氏の記載に拠る)。後に出る「禽獸蟲魚の譜」、“Historia naturalis animalium,1650-53”(「鳥獣虫魚図譜」「動物図説」などとも訳される。同書は将軍吉宗も所蔵していた)を始めとする図入り博物書を刊行したが、このオランダ語訳が江戸期の日本にも輸入され、本邦本草学の発展に寄与した(ここは主に荒俣宏「世界大博物図鑑」の人名索引解説に拠った)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷糞」 / 「ら」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ら」の部は終わっている。残すところは、「り」・「れ」・「ろ」・「わ」の四部のみである。今まで通り、本電子化に集中することが可能ならば、遅くとも、今月の末には、完遂出来そうである。

 

 雷糞【らいふん】 〔月堂見聞集巻九〕去る六月十二日<享保二年>夕立の節、大津へ雷落つ。その家の内に麝香《じやかう》の臍《へそ》の如き物あり。その香《か》馥郁《ふくいく》たり。或人の云ふ。この事所々に有り。雷糞と号する物には、薬種に用ひて功能ある由なり。大津の落ちたるは何物ぞ。その真偽詳《つまびらか》ならず。雷の落ちたる跡に必ずかたまりたるものありとなり。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「蟻が池の蛇」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 第一」(大正元(一九一二)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(左ページ下段五行目から)。

「六月十二日」「享保二年」グレゴリオ暦一七一七年七月二十日相当。

「麝香の臍」私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照されたい。

「雷糞」そのような名の漢方生薬は存在しないと思う。思うに、雷撃を受けた箇所のあった特殊な鉱物、或いは、動植物が、電撃によって化学的に変成して、そのような芳香物質に変じたものではなかろうか? そのような物質が存在するか、どうか、私は不学にして知らないが。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と蜥蜴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と蜥蜴【らいととかげ】 〔四不語録巻四〕篠崎何某《なにがし》越前大野の山入《やまいり》を行きけるに、向うの方よりその長さ二尺ばかりなる蜥蜴走り出て、榾柮(きりかぶ)の上にのぼる。何某これを見て、世に多き蜥蜴よりは大きに、形もいさゝかかはれると思ひ、立寄りてみむとしければ、そのあたりに山人《やまうど》四五人も居たりしが、いづれも制して、これは雷(かみなり)なり、立寄《たちより》て害にあひ給ふなとゞめけり。何某これを聞きて、神鳴とは心得がたしといへば、山人答へて、この生類《しやうるゐ》此《かく》の如く走り出で、榾柮にのぼり四方を見渡す事しばらくあれば、忽ち黒雲下り雷鳴暴雨す、されどもこの蟲竜の如く天上するとも見えず、また雷雨せざる事もあるなり、若し人あつてこの蟲を駭《おおろ》かせば、大きに雷鳴して震《ふる》ひ殺さるゝ者これ多し、さるによりてこのもの出《いづ》ると、何《いづ》れも立退《たちの》きてかまはざるなりと云ふ。何某いへらく、我今大野の宿まで行かんと思ふ、押付《おつつけ》け雷雨に遇ふべきかと訝《いぶか》れば、今しばらく間《ま》あるべし。道をいそぎ給はゞ大野まで遇ひ給はじと云ふ。何某道を急ぐ。大野の宿に著き、我心ざしたる家へ入るとそのまゝ迅雷驟雨《じんらいしうう》せりと。かの篠崎氏の物語りをまのあたり聞《きき》て、こゝに記す。

[やぶちゃん注:「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「越前大野」現在の福井県大野市(グーグル・マップ・データ航空写真)。大野市市街と、北の勝野市市街地を除くと、周囲の殆んどは、山間部である。

「蜥蜴」龍蛇類の近縁とされたので(私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類   寺島良安」の「蜥蜴」の項を参照されたい)、雷を自由に操れる龍との親和性があると言える。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と鶴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と鶴【らいとつる】 〔甲子夜話巻十〕奇事にも似たることあるものなり。水戸の老故の中山備州(信敬)は予<松浦静山>嘗て屢〻懇会せり。一日語る。一年封邑に往きしとき、正月元日天晴れて殊に融和なるに、俄かに雷鳴一声して即ち震し、居城の本丸に墜ちたり。時に鶴空中に翔り居たると覚えて、雷に撃たれてこれまた城に落つ。時人皆以て凶兆とす。備州性豪壮、これを憂とせず。その年終に不祥のことなしと云ふ。また何れの年か、林祭酒の釆地この近方なるが、これも元日天快朗なるに、雷一声して震し、田中に集りし鶴三羽を撃殺す。二羽は粉韲《ふんさい》[やぶちゃん注:「粉碎」に同じ。]し、一は片翼を損壊して死す。その地官の捉飼場《とらへかひば》[やぶちゃん注:鷹狩の鷹の飼養・訓練に使用された鷹場。]ことゆゑ、故を以て村長より鷹坊の長に告ぐ。官吏来りて検察す。林氏の臣民皆不吉として喜ばず。林氏もまた豪壮漢なれば、少しも意に芥蔕《かいたい》[やぶちゃん注:「芥」は「芥子(からし)粒」、「蔕」は「小さな刺(とげ)の意で、「胸の痞(つか)え。僅かな心の蟠(わだかま)り」の意。或いは「極めて僅かなこと」。]せず。然るにその冬格式を進め、且家禄を加増せられし慶びありしとなり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十 23 凶兆信ず可からざる事」を電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷十 23 凶兆信ず可からざる事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

10-23

 奇事にも、似たること、あるものなり。

 水戶の老故の中山備州【信敬。】は、予、嘗て、屢々、懇會(こんくわい)せり。

 一日(あるひ)、語る。

「一年(ひととせ)、封邑(ふういう)に往(ゆき)しとき、正月元日、天、晴(はれ)て、殊に融和(ゆうわ)なるに、俄(にはか)に、雷鳴一聲して、卽(すなはち)、震(しん)し、居城の本丸に墜(おち)たり。時に、鶴、空中に翔(かけ)り居(ゐ)たると覺えて、雷に擊(うた)れて、これ亦、城に落つ。時、人皆(ひとみな)、以て、『凶兆。』とす。備州、性、豪壯、これを憂(うれひ)とせず。其年、終(つひ)に不祥のことなし。」

と云(いふ)。

 また、何(いづ)れの年か、林祭酒の釆地、この近方(きんほう)なるが、これも元日、天、快朗なるに、雷一聲して、震し、田中(たなか)に集(あつまり)し鶴、三羽を、擊殺す。

 二羽は粉韲(ふんさい)[やぶちゃん注:「粉碎」に同じ。]し、一(いつ)は片翼(かたつばさ)を損壞して、死す。

 その地、官(くわん)の「捉飼場(とらへかひば)」[やぶちゃん注:鷹狩の鷹の飼養・訓練に使用された鷹場。]の故(ゆゑ)を以て、村長(むらをさ)より、鷹坊(たかばう)の長(をさ)に告ぐ。官吏、來りて、檢察す。

 林氏(りんし)の臣民、皆、

「不吉。」

として、喜ばず。

 林氏も亦、豪壯漢(がうさうかん)なれば、少しも、意に芥蔕(かいたい)[やぶちゃん注:「芥」は「芥子(からし)粒」、「蔕」は「小さな刺(とげ)の意で、「胸の痞(つか)え。僅かな心の蟠(わだかま)り」の意。或いは「極めて僅かなこと」。]せず。

 然(しか)るに、其冬、格式を進め、且、家祿を加增せられし慶びありし、となり。

■やぶちゃんの呟き

「水戶の老故の中山備州【信敬。】」中山信敬(のぶたか 明和元(一七六五)年~文正三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で、水戸藩附家老にして中山家十代。参照した当該ウィキによれば、『常陸太田藩・松岡藩の当主。水戸藩附家老・中山家』十『代』。第』五『代水戸藩主・徳川宗翰の九男で、第』六『代藩主・徳川治保の弟である。母は三宅氏。正室は中山政信の娘。子は中山信情(三男)、娘(米津政懿継々室)、娘(中山直有正室)、娘(山口直温室)。官位は従五位下、備前守、備中守。通称は大膳。初名は信徳』。明和八(一七七一)年、八『歳のときに先代・中山政信の臨終の席で』、『その娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した』。安永八年十二月十六日(既にグレゴリオ暦では一七八〇年一月)、『備前守に叙任する。その後、年月不詳ながら、備中守に遷任する』。文政二(一八一九)年、『病気(中風)をきっかけに』、『家督を三男の信情に譲って隠居することを命じられ、藩政をしりぞく。一貫斎と号したが、翌年』、『没した』。『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても』、『大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には、『太田村から』、『かつての松岡に知行替えをした。地位向上運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』文化一三(一八一九)年一月から、『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』、『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって家格向上に努めた』とある。

「林祭酒」お馴染みの林述斎。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷と馬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 雷と馬【らいとうま】 〔梅翁随筆巻二〕巳年雷度々にて、しかも一ツ二ツつよくなる時は、きはめて落《おつ》るなり。鳴る日として落ちずといふ事なし。七月六日八時《やつどき》[やぶちゃん注:午後二時。]過《すぎ》より大雷大雨にて、七時《ななつどき》[やぶちゃん注:午後四時。]過には雨やみて空晴れたり。少しの内なりといへども、牛込わら店《だな》光照寺、三番町松野孫太夫、田安坂下鍋嶋伊予守、麹町八丁目<東京都千代田区内>伊勢屋八郎兵衛方へも落ちたりといふ。これ等はその証明らかなる所なり。その外市谷・小石川・小日向・駒込辺など、所々へ落ちたりといふ。この日番町辺より王子すぢへ乗廻しに出、大塚波ぎは不動の辺へ帰りし時、護国寺の境内へかみなり落ちしやうすなり。そのひゞき至つてつよく、頭の上におちかゝりたるがごとし。それにおどろき馬は飛ぶともなく走るともなくして、かたはらなる古道具屋のみせへかけあがり、かざり置きたる諸道具皿鉢類、みぢんに蹈《ふ》みくだきけり。この内にては雷の落ちたりとこゝろ得て、耳をふたぎうつぶしになりて居《をり》ける。横目にすかし見れば、いまだ見世に駈けまはり居るやうす故、猶平伏してくはばらくはばらというて居る。乗《のる》人は拍子よく鴨居を潛りしと見えて、そのまゝ乗り居たるゆゑ、一さんにのり出《いだ》し、鞭をうつてその場をはづし帰りける。後《のち》にそのさたを聞くに、家内のいふ。我かたへ雷落ち、そのさまを見るに、さながら馬のごとし、兼ねて聞きおよぶ絵などにて見たる形にはあらず、諸道具も多く損じたれど、怪我のなきを仏神の御助けなりと喜こびけるとなり。その後も度々つよく雷有りし。その頃より雷除玉《かみなりよけだま》といふもの大いに流行(はやり)て、麻布長坂にうるを正真なりとて、みなみな所持したり。これを掌中に握り居れば、雷そのあたりへ落ることなく、また鳴る時格別遠く聞えてこらへよしなど申しふらし、児女など尊《たうと》びけり。<『耳囊巻三』に同様の文章がある>

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○雷除握り玉の事』。こういう徹頭徹尾おちゃらかしの擬似怪談笑話は大嫌いで、嫌悪さえ感ずる。原著者の傍観者的人格にお里が知れるというものだ。宵曲はその面白さを狙ったのだろうが、私なら、採らないな。

「巳年」同「卷之二」の冒頭の記事が『寬政七卯年六月』とあることから、これは寛政九年丁巳であることが判る。その「七月六日」はグレゴリオ暦一七九七年七月二十九日相当である。

「牛込わら店光照寺」現在の東京都新宿区袋町の樹王山正覚院光照寺(以下同じ)。以下、地名注はする価値がないので、一部を除き、やらない。

「大塚波ぎは不動」「波切不動」の誤記。東京都文京区大塚にある日蓮宗大法山本伝寺のこと。「護国寺」はその西直近にある。

「麻布長坂」港区麻布永坂町(ながさかちょう)附近であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷獣」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

     

 

 雷獣【らいじゅう】 〔甲子夜話巻八〕この二月十五日の朝、俄かに雷雨したるが、鳥越袋町<東京都台東区浅草鳥越>に雷落ちたり。処は丹羽小左衛門と云ふ人(千石)の屋敷の門と云ふ。その時門番の者見居たるに、一火団地へ墜るとひとしく雲降り来て、火団はその中に入りて雲に昇れり。その後に獣残り居たるを、門番六尺棒にて打ちたるに、獣走りにげ門続きの長屋にゆき、またその次の長屋に走り込しを、それに住める者、有合ふ者にて抛打に為たれば、獣その男の頰をかきさき逃失せたり。因て毒気に中りたるか、この男はそのまゝ引臥したりと。また始め雷落ちたるとき、かの獣六七も有りたると覚えしと門番人云ひけるが、猫より大きく、払林狗《ふつりんく》[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて腹白しと。震墜の門柱に爪痕あり。この事を聞き、行人群集して、常々静かなる袋町も忽ち一時の喧噪を為しとなり。その屋敷は同姓勢州が隣にて、僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は別て雨強く、門内敷石の上に水たゝへたるに、火光映じて門内一面に火団飛び走るかと見えしに、激声も烈しかりしかば、番士三人不ㇾ覺うつ伏になり、外向に居し者は顔に物の中る如く覚え、半時ばかりは心地悪くありたると、勢州の家人物語せり。 〔同巻十一〕谷文晁《たにぶんてう》の云ひしと又伝《またづて》に聞く。雷の落ちたるとき、その気に犯されたる者は、癈忘《はいばう》して遂に痴となり、医薬験《しるし》なき者多し。然るに玉蜀黍《たうもろこし》の実を服すれば忽ち愈ゆ。或年高松侯の厩に震して馬うたれ死す。中間は乃《すなは》ち癈忘して痴となる。侯の画工石膓と云ふものは、文晁の門人なり。来りてこれを晁に告ぐ。晁因て玉蜀黍を細剉《さいさ》[やぶちゃん注:細かく砕くこと。]して与ふるに、一服にして立どころに平愈す。また彼《かの》晁本郷に雷獣を畜ふものありと聞き、その貌《すがた》を真写《しんしや》せんとして彼《か》しこに抵(いた)り就《つき》て写す。時に畜主《かひぬし》に問ふ。この獣を養ふこと何年ぞ。答ふ、二三年に及ぶ。また問ふ、何をか食せしむ。答ふ、好んで蜀黍《もろこし》を喰ふと。晁この言を不思議として人に伝ふ。いかにも理外のことなり。 〔北窻瑣談巻四〕下野国烏山《からすやま》<栃木県那須郡烏山>の辺に雷獣といふものあり。その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居《みゐ》るに、夕立の雲興り来る時、その雲にも獣の乗らるべき雲と乗りがたき雲有るを、雷獣よく見わけて、乗らるべき雲来《きた》れば、忽ち雲中に飛入《とびいり》て去る。このもの雲に入れば、必ず雷《らい》鳴るにもあらず。唯雷になるとのみ云ひ伝へたり。またその辺《あたり》にては、春の頃雪をわけて、この雷獣を猟《か》る事なり。何故《なにゆゑ》といふに、雪多き国ゆゑに、冬作(ふゆさく)はなしがたく、春になりて山畑《やまばた》に芋を種(うう)る事なるに、この雷獣、芋種《いもだね》を掘り喰《くら》ふ事甚だしきゆゑ、百姓にくみて猟る事とぞ。これ漢土の書には、雷鼠《らいそ》と書きたりと、塘雨《たうう》語りし。〈『閑田次筆巻三』に雷獣の事がある〉

[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話」の二話は、カップリングして事前に「フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物」で、ガッツりと読みと割注を入れて電子化しておいた。また、「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(右ページ後ろから四行目以降)。

「下野国烏山」「栃木県那須郡烏山」この辺り(グーグル・マップ・データ)。

「その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居る」こりゃ、もう、最初のリンク先で言ったニホンアナグマでしょう!

「これ漢土の書には、雷鼠と書きたり」とあるが、「漢籍リポジトリ」で調べたが、中国で「雷獸」を「雷鼠」と称した記載は見当たらない。「雷鼠」があったのは、「百癡禪師語錄卷第五」(嗣法門人超宣等編)の以下の一件のみである。

   *

嘉興金粟山廣慧禪寺語錄」隱野長老請上堂三十九年前無雲萬里天三十九年後一步強一步政當三十九袖破露出手廣慧室內添籌金粟山頭點首驀然一喝迅如雷鼠怪狐妖沒處走諸禪流還會否會則道我賣弄風騷不會道我簸揚家醜家醜風騷只自知年年初度在斯時常愛畫樑紫燕呢喃語也有對對啣花水際飛擊拂子下座。

   *

これは比喩で使用されているだけで、「雷鼠」の実体は不明である。中国語ウィキ版の「雷兽(妖怪)」は、その全文が、日本語版の中国語訳に過ぎず、「根据《山海经》记载,在中国神话中有一夔,其叫声如雷,故有指日本雷兽的传说是起源于此的。」とあるのは、日本語版「雷獣」で、『中国神話には夔(き)という妖怪がおり、中国最古の地理書といわれる『山海経』には、夔の吠え声は雷の轟きのようだとの記述があるが、この夔が日本における雷獣伝承の起源になったとの説もあるほか』、『山梨県笛吹市の山梨岡神社に伝来する夔神像のように』、『在来の道祖神や山の神に対する信仰が夔神に結びついて成立した民俗も見られる』とあるのを、無批判に抄録訳しただけのものであって、中国で独自に考察されたものではない。ウィキの「夔」によれば(下線太字は私が附した)、『元は殷代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に夔鳳鏡といった銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる』。「山海経」の『第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという』。『山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている』。十『年に一度(現在では』七『年に一度)』四月四日に『開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている』。『また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、夔神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている』とある。因みに、中国語版ウィキ「夔」は、やはり、日本語版に比べて、別な考証はなく、独自記載も乏しい。

「塘雨」百井塘雨(ももいとおう)。『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』の冒頭注を参照されたい。彼がそう書いているという書は見出せなかった。「語りし」だから、直談なのであろうが、前注の通りで、信がおけない。塘雨は、多分に、博覧強記を気取る傾向がある人物である。

「閑田次筆」「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから二行目以降)で正規表現で視認出来る。次のコマに奇体な「雷獸」の図がある(私の知っている「雷獸」の図の中では、最もグロテスクである。ただ、記事が甚だ短く、別書からの引用図に過ぎないので、信用出来ないと宵曲は考えて採用しなかったものとは思う。個人的には、ぶっ飛んだ雷獣図として、看過出来ないものであり、以前から、電子化したいと思っていたので、以下に画像とともに上記底本で電子化しておくこととする。図は吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して添えた。

   *

〇僧玉屑東國行脚の記をあづま貝となづくその中に雷獸をとりたることをかきて其圖を出されたるは狸に類すしかるに此ごろある人のしめせる所左のごとし。虛實はしらずといへどもいとたしかなることゝ其人のいへるまゝこゝに圖をあぐ。

 

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キャプションは、『享和元年五月十日比藝州九日市里』『塩竃へ落-入死雷獣の圖大サ曲が尺一尺四五寸』である。「享和元年五月十日」はグレゴリオ暦一八〇一年六月二十日。ニホンアナグマは四月頃まで冬眠するので、出現に違和感はなく、同種の体長は四十~六十センチメートル程度で合致する。「藝州九日市里塩竃」は思うに、現在の広島県庄原市西本町で行われる「しょうばら九日市」(くんちいち:今から四百四十年前に物々交換で始まった市)を地名として取り違え、同広島藩の諸郡では塩田が盛んであったを、「庄原(しやうばら)」と「塩竃(しほがま)」とを、玉屑が聴き違えたものかとも思われる。

「玉屑」(ぎょくせつ 宝暦二(一七五二)年~文政九(一八二六)年)は熊本出身の浄土真宗僧で、俳人としても活躍した。栗本氏。別号は無夜庵(むやあん)。僧名は観応。幾つかの寺の住職を歴任し、示寂は加古川光念寺。俳諧は青蘿に師事し、青蘿の没後、「栗の本」を継承した。淡路から栗本庵のある加古川に移住し、師の芭蕉顕彰を引き継ぎ、各地に芭蕉句碑を建立し、記念の集を編んでいる。また、青蘿に引き続き、二条家俳諧宗匠も務めた。「あづまがひ」は寛政一二(一八〇〇)年刊の、寛政六~七年の行脚をもとにした紀行集で、芭蕉の足跡、及び、名所旧跡・伝説逸話を綴ったもの。外題「景遊勝覧 阿都満珂比」で全五巻。当該部は「巻之五」で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここと、ここ(図。確かに如何にもホンドタヌキかニホンアナグマらしく見える。図の右手に描かれている犬らしきものと比較されたい)、ここで視認出来る。

2024/01/20

フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、雷撃奇怪談として親和性があり、「雷獸」で繋がり、巻数の近さから、確信犯で前記事を明らかに意識しているものと思われるので、特異的にカップリングして示すこととした。「雷震」は「らいしん」で「落雷」のこと。注は「雷獸」を除き、割注にした。]

 

8-8 鳥越(とりごえ)袋町(ふくろまち/ちやう)に雷震せし時の事

 この二月十五日の朝、俄かに、雷雨したるが、鳥越袋町に雷《かみなり》落ちたり。處は丹羽小左衞門と云(い)ふ人【千石。】の屋敷の門と云ふ。

[やぶちゃん注:「鳥越袋町」「丹羽小左衞門と云ふ人」「の屋敷の門」これは、現在の台東区鳥越一丁目と西の二丁目の間の道(グーグル・マップ・データ)に落雷したことが判った。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」で、まず拡大して、現在の「鳥越一・二丁目」を探し、見つけたら、少し、ズーム・アウトすると、切絵図に戻る。そこにまさに上から横書で「丹羽老次郎」の屋敷が見える。しかも、実は、この直ぐ北直近が、「松浦壹岐守」とあるのが判るだろう(これはまだ静山(清)の名で書かれてあるのである)。ここは、まさに松浦藩上屋敷なのである(隠居後の静山は本所の同藩下屋敷にいる)。則ち、静山にとっては、勝手知ったる場所なのであり、それだけに興味津々なわけなのである。

 其時、門番の者、見居(みをり)たるに、一火團(いちくわだん)、地へ墜(おつ)るとひとしく、雲、降(くだ)り來(きたつ)て、火團は、その中に入りて、雲に昇れり。

 その後(あと)に、獸(けもの)、殘り居(をり)たるを、門番、六尺棒にて、打(うち)たるに、獸、走(はしり)にげ、門續きの長屋にゆき、又、その次の長屋に走込(かしりこみ)しを、それに住める者、有合ふもの[やぶちゃん注:手直にあった棒のようなものか。]にて、抛打(なげうち)に爲(し)たれば、獸、その男の頰を、かきさき[やぶちゃん注:「搔き裂き」。]、逃失(にげう)せたり。

 因(よつ)て、毒氣(どくけ)に中(あた)りたるか、此男は、そのまゝ打臥(うちふし)たり、と。

 又、

「始め、雷、落(おち)たるとき、かの獸、六、七も有(あり)たると覺えし。」

と、門番人(もんばんにん)云(いひ)けるが、

「猫より大きく、拂林狗(ふつりんく)[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて、腹、白し。」

と。

 震墜(しんつい)の[やぶちゃん注:落雷が直撃した。]門柱(もんちゆう)に、爪痕、あり。

 この事を聞(きき)、行人(かうじん)、群集して、常々、靜かなる袋町も、忽ち、一時《いちじ》の喧噪を爲(なせ)し、となり。

 その屋敷は、同姓勢州が鄰(となり)にて、[やぶちゃん注:「同姓勢州」今一度、先の「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」を見て頂きたい。「丹羽」の屋敷の南端の東の一部が接している屋敷に、「松浦勝太郎」とあるのである。ここに間違いあるまい。]

「僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は、別(べつし)て、雨、强く、門内、敷石の上に、水、たゝへたるに、火光、映じて、門内一面に、火團、飛走(とびはしる)かと見えしに、激聲(げきせい)[やぶちゃん注:雷撃の際の大音響。]も烈(はげ)しかりしかば、番士三人、不ㇾ覺(おぼえず)、うつ伏(ぶせ)になり、外向(そとむき)に居(をり)し者は、顏に物の中(あた)る如く覺え、半時(はんとき)ばかりは、心地、惡(あし)くありたる。」

と、勢州の家人、物語せり。[やぶちゃん注:「顏に物の中る如く覺え」空中放電した雷電の一部による強い静電気を顔面に受けたものか、或いは、放電現象によって、オゾンなどの刺激物質が発生したものかも知れない。十三年前、高校の山岳部の顧問をしていた時、八ヶ岳で激しい雷雨に遭ったが、一人の部員が、かなり近くに落ちた際、「先生! 確かに顏にビリビリきました!」と叫んだのを忘れない。]

   *

11―15 雷火傷(らいくわしよう)を治(ぢす)る藥(くすり)幷(ならびに)雷獸の食物(くひもの)

「谷文晁(たにぶんてう)の云ひし。」

と、又傳(またづて)に聞く。

[やぶちゃん注:「谷文晁」(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)は画家で奥絵師。ウィキの「谷文晁」によれば、二十六歳で『田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した』。三十歳の時、『田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり』、『定信が隠居する』文化九(一八一二)年まで『定信付として仕えた。寛政五(一七九三)年には定信の江戸湾巡航に随行し』、「公余探勝図」を『制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った』とある。静山とは同時代人で、交流があった文人である。]

 雷の落ちたるとき、其氣に犯されたる者は、癈忘(はいばう)して、遂に痴(ち)となり、醫藥、驗(しるし)なきもの、多し。

 然(しかる)に、玉蜀黍(たうもろこし)の實を服すれば、忽(たちまち)、愈(いゆ)。

[やぶちゃん注:乾したトウモロコシ(イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea mays )をぶら下げておくと、雷除けになると信じられていた。大の雷嫌いだった泉鏡花は、家屋の天井に何本もぶら下げていたことは頓に知られる。]

 或(ある)年、高松侯の厩(うまや)に、震して、馬、うたれ死す。

 中間(ちゆうげん)は、乃(すなは)ち、癈忘して痴となる。

 侯の畫工石腸(せきちやう)と云(いふ)ものは、文晁の門人なり。來りて、これを晁、に告ぐ。

 晁、因(よつ)て、玉蜀黍を細剉(さいさ)[やぶちゃん注:細かく碎くこと。]して與ふるに、一服にして立(たち)どころに平愈す。又、後(のち)、晁、

「本鄕に、雷獸を畜ふもの、あり。」

と聞き、

「其貌(すがた)を眞寫(しんしや)せん。」

として、彼(か)しこに抵(いた)り、就(つき)て、寫(うつ)す。

 時に、畜主(かひぬし)に問ふ。

「此獸を養ふこと、何年ぞ。」

 答ふ。

「二、三年に及ぶ。」

 又、問ふ。

「何をか、食せしむ。」

 答ふ。

「好んで、蜀黍(もろこし)を喰ふ。」

と。[やぶちゃん注:「蜀黍」現行、狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolorを指すが(原産地は熱帯アフリカであるが、本邦には、室町時代に中国を経由して伝来してはいた)、この場合は、トウモロコシの異名。]

 晁、この言を不思議として、人に傳ふ。

 いかにも理外のことなり。

■やぶちゃんの呟き

「雷獸」の正体については、私の「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」の私の注を参照されたい。それ以外のモデル動物になりそうなのは、ニホンアナグマ辺りか。同種は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を見られたい。また、先行する静山の記事に「甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事」があり、その記事の感触では、食用になるのだから、アナグマに分があるようには見える。当該ウィキには、幾つも絵が載るが、私の正体追及の食指を動かすものは、ない。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「呼出し山」 / 「よ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って、「よ」の部は終わっている。]

 

 呼出し山【よびだしやま】 〔耳囊巻六〕上野の楽人に東儀右裔といへる悴、今年六歳なりしが、甚だ発明にて、両親の寵愛殊に勝れしが、文化十一年の初午の日に、何れへ行きしや、行衛不ㇾ知故、鉦太鼓にて所々を捜しけれども、しるしなし。或人の云へるは、八王子に呼出し山といへる山あり。これへ右体《みぎてい》神隠しの類《たぐひ》を祈念すれば、出《いで》ずといふ事なしと語りし故、早速右山へ参りて、その子の名を呼びて尋ねけれども、何のしるしなし。旅宿に泊りし夜の夢に、老翁来りて、汝子別条なし、来《きた》る幾日爾《なんぢ》が家《いへ》最寄《もより》にて、老僧の山伏に可ㇾ逢、それを止めて尋ねみよと言ひし故、その日を待ちしに、果して老僧に逢ひける故、爾々《しかじか》のわけをかたり聞きしに、随分別条なし、未だ四五日は帰るまじ、幾日頃帰るべしといひしが、果してその日恙なく戻りしとなり。

[やぶちゃん注:私のでは、底本違いで、「耳囊 卷之十 呼出し山の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜著物言う」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜著物言う【よぎものをいう】 〔半日閑話巻十三〕この頃の訛言《くわげん》[やぶちゃん注:戯言(たわごと)。]に、中野の辺の者、夜著を求めてかつぎて臥したるに、夜半に夜著声を出して、暑乎寒乎(あついかさむいか)と問ふ。その人おそれていそぎ旧主に返すといふ。石の言ひしは『春秋伝』に見えたれど、夜著のものいふ例《ためし》しを聞かず。桃園の桃にものいはぬも愧ぢよかし。

[やぶちゃん注:この話は、小泉八雲が紹介したことで、世界的に人口に膾炙する「鳥取の蒲団」として知られる古い民話中の哀しい怪談の変形に過ぎない。私の『小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十一章 日本海に沿うて (九)』(原文附き)を見られたい。私は、始めて小学三年の時に読んだ八雲の怪談集で、目頭が熱くなったのを忘れない。ウィキの「鳥取のふとんの話」もある。

「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○中野の訛言』であるが、冒頭の以下の一文がカットされてある。

   *

三月、此頃中野の先關といふ處の地にうなる聲有とて人皆云傳ふ。

   *

この「中野の先關」の「先關」或いは「先」(さき)にある「關」という地名かとも思われるが、「ひなたGPS」の戦前の地図で確認したが、近代以降の地名としては、孰れも残っていない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜著の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜著の怪【よぎのかい】 〔耳袋巻五〕これも牛込辺<東京都新宿区内>の町家の軽き者の母、夏になりて夜具を質入れせしを、冬来りて取出し、著て臥りしに、右※(よぎ)[やぶちゃん字注:「※」=「衤」+「廣」。]を著し一睡なせば、祖母々々暖かなるやと声をなしける故、大きに驚きて質屋へ至り、しかじかの事なり、仔細も有るべきと尋ねければ、右襖は未だ質に取り候まゝにて、蔵に入れ置き、これ迄人に貸すべき様もなければ、質屋に於て何も仔細なし、手前に得(とく)と詮議しみ給へと言ひし故、子共または心安き者にも語りて、色々心障りの事も有りやと考へけれど別儀なし。かの婆ふと思出せしは、右質物請出《うけだ》せし頃、表へ修験(しゆげん)一人来りて手の内を乞ひしが、用事取込み、その上乞ひ様《やう》も無礼なれば、手の隙《ひま》なきと答へて等閑《なほざり》に過ぎし事あり、これ等も恨むべき趣意と思はれずと語りければ、老人の言へるは、全くそれなるべし、かの修験は又来《きた》るべきなり[やぶちゃん注:私のものでは『來るべき也』で、私は「也」を疑問の「や」で読んだ。そうでないと、どうも躓く。]。日毎にこの辺を徘徊なす由答へければ、重ねて来らば少しの手の内を施し、茶などふるまひ、心よく挨拶して帰し給へと教へける間、翌日果して右山伏通りけるを、かの婆呼込みて、この間は取込み候事ありて、あらあらしく断りしが免《ゆる》し給へ、茶にてもたべ給へと念頃に言うて、手の内を施しければ、この程はあらあらしき答へ故、手の内をも乞はざりしが、さてさて一面しては人の心は知れざると、四方山の物語りして立出でぬ。その後はかの※の怪も絶えてなかりしとや。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳囊 卷之五 修驗忿恚執着の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖を斬る」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖を斬る」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 妖を斬る【ようをきる】 〔耳囊巻二〕芸州の藩中に、名も聞きしが忘れたり。至つて剛勇の男ありしが、近ごろ主人の供して、広嶋へ到り、その頃交替の住居、程近になかりしが、至極都合宜《よろし》き屋鋪明き居たりしゆゑ、右屋敷に住《すま》はん事をのぞみしが、右は妖怪ありて住《すむ》人に災ひありと、人々止めしかど、何条《なんでふ》さる事あらんとて、乞ひ請けて住居せしが、その夜《よ》家なりなどして物凄きことども有りしが、事ともせずしてありしが、江戸に住みける同家中の伯父来りて、対面なしけるが、右伯父は在所へ供せし事も聞かず、全く怪物ならんと思ひしに、かの伯父申しけるは、この住居は人々忌み憚りて住居するものなし、押して住《すま》はば為《ため》あしかるべしと異見なしけるを、我等主人へ申立《まふしたて》て、住居するうへは、為あしかるべき謂れなしと答へけるに、かの伯父大きに怒りて何か申し罵りけるが、その様《さま》いかにも疑はしく、全く怪異に紛れなければ、抜打《ぬきうち》にきり倒し、妖怪を仕留めけると下人を呼びて、その死骸を改むるに、怪物にもあらず、やはり伯父の死骸なれば、大きに驚き、所詮存命叶ひ難し、腹切らんと覚悟極めけれど、所詮死すべきに決する上はと、猶また刀を抜きて、かの伯父の死骸の首打落し、尚切り刻まんとせしに、かの死骸忽然と消え失せぬ。さればこそ妖怪なれと、猶まくらとりいねんとせしに、さもやせがれて怖ろしげなる老人出《いで》て、さてさて御身は勇気さかんなる人なり、我久しくこの家に住みて、これ迄多く住み来《きた》る者を驚かし、我永住となせしが、御身の如き剛勇の人に逢ひて、今住み果てんことかたし、これより我は此所を立退く間、永く住居なし給へと、いひて消えぬる由。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳囊 卷之九 妖も剛勇に伏する事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 洋人邪法【ようじんじゃほう】 〔黒甜瑣語三編ノ三〕西洋人本国の皮帛《ひはく》を以て臝婦(はだかをんな)を製す。長短人のごとし。これを匣中《はこなか》に秘し、旅途幽亭無聊《ゆうていぶりやう》の時、匣より出《いだ》し捧げ上げ気を吹けば、忽然として肥沢通鉢《ひたくつうはつ》、真《まこと》の人のごとし。抱きて裳中に擁《やう》すに、雙手交頸《さうしゆかうけい》、両脚勾欄《りやうきやくこうらん》、己《おの》が意のごとし。これを出路美人《しゆつろびじん》と号(なづ)く。一軀《いつく》の価《あたい》銀一流と。一流は十二両を云ふと『曠園雑誌』に検せり[やぶちゃん注:「しるせり」と読むか。]。本邦の吾妻形《あづまがた》なるべし。西洋人の狡計淫欲なる、譬《たとへ》を取るに者なし。或年東都本石町<東京都日本橋本石町>長崎屋へ来りし者、滞留中疾《やまひ》ありて打ちふしけるが、主《あるじ》の妻に乞ひて娘の髪すぢ三四根を貰ひ、薬剤へ調せんと云ふに、妻怪しみ、密かに這子(ほうこ)人形の髪を毟(むし)り、娘の髪なりとて遣はしけるが、その夜《よ》人静まりて、かの這子人形ひたひた歩みして西洋人の寝所に行く。妻見て亭主をゆり起し、その物語りをなせしとなん。これこの家の娘美人にてあれば、西洋人これに懸想して、髪茎(かみすぢ)を以て呪(まじな)ひよする邪法を修《しゆ》せしとかや。泥塑(にんぎやう)の活物(いきもの)ならざるさへかくのごとし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『〇吾妻像』。「像」は「がた」と読むのであろう。

「肥沢通鉢」「肥沢」は「つやがあってふとっている」こと。「通鉢」は頭部が備わっていることか。

「雙手交頸」上記リンク先の活字本では、「交頸」に左ルビ(意味添えの際によく行われる)『ひつたり』とある。全体で「両の腕も、ともに、しっかりと装備されてある。」の意か。

「両脚勾欄」両の足もあって、「左右に開脚したり、交差させたりすることも出来る。」の意か。

「曠園雑誌」/清の呉陳琰の著になる中国の民間信仰などの異聞を記した小説集。全二巻。康煕四二(一七〇三)年の序がある。

「本邦の吾妻形」女性生殖器の外陰部の形に作り、男子の自慰に用いる淫具。なお、ここに出るような本格的に女性の前身を真似た、日本人が見た最初の「ダッチワイフ」は、当該ウィキによれば、『英語の Dutch wife(字義的には「オランダ人の妻」の意)は、アジアで使われている、竹や籐で編まれた筒状の抱き枕(竹夫人)を指す』(これは、暑い日に片腕や片足をこれに乗せて寝ることで涼をとる。普通の寝具の一つであり、基本発想及び用法も淫具では全くない。アジアに広く見られ、嘗ては、日本でも使われていた)。さて、等身大型の『ランダムハウスによれば、語の起源は』一八七五~一八八〇『年頃という。その理由は、本国に妻を残してオランダ領インドネシアで取引していたオランダ人商人の境遇に由来すると想像され』ている。『英米では、日本でいうダッチワイフは sex doll と呼び、これを Dutch wife と呼ぶことはまずない』。『性的な使用目的の人形が日本で「ダッチワイフ」と呼ばれだした事情は定かではない。日本のメディアでは』、一九五八『年頃からダッチワイフとの表現が見られる様になり』、一九六七『年頃にはかなり一般にも定着していたとみられる』とある)というべきか。十八歳以上のみ閲覧可のサイト「otona laove」の「ラブドールの歴史」によれば、『十六世紀にフランス人(dame de voyage)とスペイン人(dama de viaje)の船員によって作成され、長い航海中に孤立していました。これらのマスターベーション人形は、多くの場合、縫い付けられた布や古着で作られ、今日のダッチワイフの直接の前身で』、『その後、蘭学時代にオランダ人がこれらの人形の一部を日本人に販売し、日本では「ダッチワイフ」という用語が今でもダッチワイフを指すために使用されることがあ』るとある。]

「東都本石町」「東京都日本橋本石町」(にほんばしほんごくちょう)「長崎屋」ウィキの「長崎屋源右衛門」によれば、彼は、『江戸日本橋に存在した薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前で』、『この商家は、日本橋本石町三丁目』(現在の中央区日本橋室町四丁目二番地相当)『の角地に店を構えていた』。『江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった』。また、『この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた』。『カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の』一『つとなっていた。身分は町人であるため』、『江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった』。『カピタン一行の滞在中に』、『この商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている』(『「葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋」早稲田大学図書館』がリンクされてある)。『幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちは』、『あまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の』一『つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる』。『カピタンの江戸参府は年』一『回行われるのが通例であったが、寛政』二(一七九〇)年『以降は』四~五年に一『回となり、参府の無い年には』、『カピタンの代わりに通詞が出府した。この商家はカピタン参府と通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客を受け入れていなかった』。『旅宿として使われた建物には、一部に西洋風の内装、調度品が採り入れられていた』。昭和二一(一九四六)年に『運輸省が発行した』「日本ホテル略史」は、『この商家についての記述から始まっている』。また、安政五(一八五八)年十月には、この商家に対し、『「蕃書売捌所(ばんしょうりさばきしょ)」』が『命ぜられ、長崎からの輸入蘭書の販売を行う』ようになった。『また』、『町年寄の樽屋藤左衛門の記録によれば、同年より』、『「西洋銃」の「入札払」いもしていた』とある。以下、「沿革」の項もあるが、長くなるので、リンク先を見られたい。]

2024/01/19

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「妖怪話声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 妖怪話声【ようかいはなしごえ】 〔四不語録巻五〕加州金沢<石川県金沢市>に新保(しんぽ)何某と云ふ人あり。公用に付きて在江戸なり。留守には老母一人残れり、その隣に明《あき》屋敷あり。屋鋪守の家、纔(わづ)かなる茅屋《ばうをく》一つ片隅にあるのみなり。然る所に或秋の夜更けて、大勢あつまりて物語りをなして、夜明に及ぶ事毎夜なり。その集り所、茅屋のあるあたりにてはこれなく、新保が屋鋪堺の塀の腰なり。二三夜はその分にいたし置きつれども、毎夜の事なり、殊に新保は江戸留守にて、女原《をんなばら》[やぶちゃん注:「原」は複数の人を示す接尾語。中古から中世にかけては、かなり広範囲に用いられているが、その後は、限られた数種の語に付いて用いられる。初期の「殿ばら」などを除けば、同輩以下、寧ろ、軽蔑した場合に使われる。]のみ居る事なれば、何角(なにか)気遣はしければ、隣の屋敷守の方《かた》へ使《つかひ》を立て、毎夜の人集め無用なりと、老母方より申しつかはしければ、屋敷守大いに駭《おどろ》き、いさゝかも人あつめは仕らざる由申しこせども、夜《よ》もの語りやまず。よくよく聞くに人の物語りの如く、その詞《ことば》たしかならず。大形《おほかた》は狐狸(こり)の類(たぐ)ひの業《わざ》ならんかと心付き、新保方の女《をんな》童部(わらんべ)ども、大きに畏れまどひて、一門一家の内より人をかりよせて、夜とともに伽をいたしけり。新保氏の伯父に関野何某と云ふ人有り。来りて一夜伽をいたす。宵より右の物語りする屛腰の此方《こなた》、小筵《こむしろ》を敷き置き、とくよりそこに坐して、今や今やと相待つ所に、夜半過《すぐ》るまで物語りの音聞えず。さては我等来り居《を》る事を知りて、今夜は物語りをもせぬものならん、もはや帰るべしと、関野氏立たんとしたれば、物語りの音聞えけり。そのまゝ坐してこれを聞くに、人ならば六七人ばかりの体《てい》と相《あひ》聞ゆ。なるほど閑《のど》かに面白さうなる咄し声なり。耳をそばだててよくよく聞けども、そのいふ言葉一つも分り聞えず。暁まで物語りして、何れも暇乞ひして別るゝ体なり。その行所《ゆくところ》、門の方《かた》へは行かずして、四方へわかるゝやうにきこゆ。さては門外より来る者どもにはあらで、その屋敷中《うち》に住むものどもの仕業ならんかとぞ思はる。右の関野氏は予<浅香山井>がゆかりある中《なか》なれば、まのあたりその物語りを聞きしまゝ爰に記す。後に聞けば二十日ばかりこの如くあつて、その後《のち》は音なくなりしとぞ。かやうの凶事ありし故か、新保氏ほどなく病死、子なくして養子せられて家督を継ぎたるに、これもまた早世しぬ。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊問答」 / 「ゆ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「ゆ」の部は終わっている。]

 

 夢茶屋【ゆめぢゃや】 〔黒甜瑣語三編ノ一〕渤海の李旦古木深蓬《しんはう》の中に南柯社《なんかしや》を卜《ぼく》し、客を引《ひき》て睡らしむるに一枕《いつちん》を与ふ。寝《しん》に就くもの、夢に湖水遠水の間《かん》に至り、仙都広寒《せんとくわうかん》の辺《ほとり》に遊ぶと云へり。去りし安永のはじめ、東都に夢茶屋あり。道者(さきだち)客を引きて玄関より入る。一ト間《ひとま》一ト間苑囿(ゑんいう)[やぶちゃん注:「苑」は「園」に同じで「草木を植えるところ」、「囿」は「禽獣を飼うところ」の意で、「草木を植え、鳥や獣などを飼っているところ。」を指す。]の構へをなし、それより楼《たかどの》に上るに、爰にも泉水仮山《せんすいかさん》の景を像《かたど》り、船《ふな》わたしあり、船守《ふなもり》銭を匈(もと)む。竹籬柴門《ちくりさいもん》の傍《かたはら》には競粧《きやうしやう》の冶女《やぢよ》[やぶちゃん注:美女。]を出《いだ》し、淡鰻畢羅《たんまんひつら》[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]を售《う》らしむ。また下へ降れば、竹樹の亭には華書の娯(たのしみ)みをなす客あり、涼風の院には蛮触《ばんしよく》を争ふ人あり、上《のぼ》るに下《くだ》るに糸竹《しちく》の間《ま》あり、舞曲の亭あり、終日《ひねもす》遊ばんもまた妨げず。赤飯に足をとめられ、花香に心を時めかし、遊ぶ者の囊中を叩かしむ。最後にほの暗き廡廊《ぶらう》[やぶちゃん注:主な建物を、囲み、廻らす回廊のこと。]の下を伝ひ行く事一町ばかり、段々昏《くら》くなりて、先輩の帯にとり付《つき》て向うの明りへ出《いづ》れば、はじめ入りし玄関の脇口なり。やうやう二三町の方位の宅地なれども、工事(しかけ)結構にて一里の余も行きしやうに思ひしとぞ。後には風流奢侈《しやし》の亭とならんとて、程なく停廃せられしゆゑ、世には多くも知られざりしが、或人の至り見しを聞けり。

[やぶちゃん注:「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『夢茶鄽』。「鄽」は「店」に同じ。音なら「テン」だが、ここは本文に従い、「ゆめちやや」と読んでおく。

「渤海の李旦」李氏朝鮮の第八代国王睿宗(えいそう/イェジョン 在位:一四六八年~一四六九年(没年:享年十九歳))。

「広寒」「廣寒宮」。月の都にあるとされた宮殿。広寒府。月宮殿。

「安永」一七七二年から一七八一年まで。徳川家治の治世。

「夢茶屋」出合茶屋の一種で浅草と上野にあった。国立国会図書館デジタルコレクションの三田村鳶魚著「江戶の女」(『江戶ばなし』第三冊/一九五六年青蛙房刊)の『安永の夢茶屋』を見られたい。戦後の出版だが、正字正仮名で書かれてある。

「蛮触を争ふ」「蠻觸(ばんしよく)の爭(あらそ)ひ(戰(たたか)ひ)」。「莊子」の「則陽篇 第二十五」の中の「有於蝸之左角觸氏。有於蝸之右角蠻氏。時相與爭ㇾ地而戰。伏尸數萬。」(蝸(かたつむり)の左の角(つの)に國する者、有り、觸氏(しよくし)と曰(い)ふ。蝸の右の角に國する者、有り、蠻氏と曰ふ。時に相ひ與(とも)に地を爭ひて戰ふ。伏尸(ふくし)、數萬(すまん)。)による故事成句。「小さい料簡から互いにつまらないことで争うこと」の喩え。「蝸牛角上の争い」に同じ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊問答」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊問答【ゆうれいもんどう】 〔閑田耕筆巻一〕江戸某の檀林に一僧の霊有り。学力《がくりき》ある住僧あれば、必ず出《いで》て見ゆ。一代の和尚、夜本堂に登らんとする時、これにあひて商量す。心法《しいほふ》性《せい》元《もと》浄シ、妄念何によりてか生ずと有りしに、霊にらみて、腐小僧《くされこぞう》めがといひし。和尚心よからざりしが、ほどなく隠居せられしとぞ。むつかしき霊といふべし。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。前条の幽霊話を受けて、冒頭にある『幽靈のついでに思ひ出しことは』という枕がカットされている。前話のメインは音戸の瀬戸で著者伴蒿蹊自身が体験した舟幽霊譚で、本書で「舟幽霊」で既出である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊の筆跡」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊の筆跡【ゆうれいのひっせき】 〔怪談老の杖巻一〕泉州貝塚の近きわたりに、尾崎といふ処あり。此処を開きし人は、『難波戦記』に載せし吉田九右衛門といふ者なり。今も代々九右衛門とて大庄屋なり。その始祖は鳥捕氏《ととりうぢ》にて、上古より綿々と打続き、南朝の時は南源左衛門尉と称し、代々歴々なり。この一族に玉井忠山といへる隠士あり。殊の外の異人にて詩作など好み、紀三井寺の住職など詩の友なり。五十余の年、廻国の志しにて国を出《いで》、東武へも来りて、予<平秩東作>も知る人になりしが、つゝがなく国々をめぐりて故郷へ帰り、間もなく重病をうけて終りける。死後間もなき事なるが、近郷の庄屋六郎左衛門といふ者の家へ来れり。平生にかはる事なく案内を乞ひて、忠山なり御見舞申すと云ひ入れければ、六郎左衛門聞きて、その意を得ぬ事かな、忠山はこの程死なれたりときゝて、知りたる中《なか》に野辺の送りまで出《いで》あうたる人慥《たし》かにあり、人たがひなるべしと、玄関へ出むかひてみれば、ちがひなき忠山なり。紬(つむぎ)のひとへものに小紋の麻の羽織を著《き》、間口をさし、法体《ほふてい》の姿世に在りしときにかはる事なし。六郎左衛門を見て、久しう御座るとにつこりと笑ふ体《てい》、六郎左衛門も気情《きじやう》なるすくやか者なれど、こればかりは衿《えり》もとぞつとしたるが、子細ぞあらんとまづ書院へ伴ひ、茶を出せばとりてのむ事平生の如く、杯《さかづき》を出しければ、酒は給《た》べ申さずとて何もくはず。どこやら影もうすく、あいさつも間《ま》ぬけたり。主人いふ様《やう》、そこには御大病ときゝて、いかばかり案じたり、まづ御快気体《てい》大慶に存じ候といひければ、このときうち笑ひて、それは貴殿のあいさつとも覚えず、某《それがし》が死したる事は存じなるべ、この世の命数尽きて黄泉《よみ》の客とはなりしかど、こゝろにかゝる事ありて、暫く存生《ぞんしやう》の姿をあらはしまみえ申すなり、一族どもの中にも、こゝろのすわりたる者なければ、おそれをのゝきて事を記するに足らず、そこにはこゝろたくましく、理《り》にくらからぬ人なれば申すなり、我が死たる跡式の事は、かきおきの通り取計らひくれたればおもふ事なし、しかし戒名に二字こゝろに叶はぬ字あり、菩提処《ぼだいしよ》の住持にたのみかき替へ給はるべしと、いとこまごまといふにぞ、不思議とはおもひけれど、死して後も尋ね来《きた》る朋友の誠《まこと》こそうれしけれと、なつかしくてこはきこゝろはなかりしが、さてその文字は、そこもと望みにてもありやといひければ、いかにも望みあり、紙筆をと乞ひて、忠山といへる下の二字を、亨安となほして給へと、亨安の二字をかきてさし置きぬ。文字の大きさは五分程あり。勝手にてはみな恐れあひて出《いづ》るものなし。暫くもの語りして、いとま申すとて出で行きぬ。六郎左衛門送り出でければ、いつもの通り門を出でて行きしが、見送らんとてあとより出しに、はや形はなかりけり。さつそく尾崎へ持ち行きて一家衆と談じ、石碑のおもてをきりなほしけり。忠山能書にて余人の学ぶべき筆にあらず。手跡うたがひなければ、みな人奇怪のおもひをなしぬ。右の手跡は六郎左衛門家に秘蔵して、幽霊の手跡とて伝へぬ。江戸ヘ来りしは五六年已前の事にて、汐留の観音の寺にとまりをれりといひし。忠山のおとこ半七といふものあり。四ツ谷鮫がはしにたばこうりて今も存命なり。うたがはしき人は行きて尋ぬべし。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之一 幽靈の筆跡」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「幽霊の心得違い」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 幽霊の心得違い【ゆうれいのこころえちがい】 〔耳囊巻五〕駒込辺<東京都文京・北・豊島区内>の医師にて、予<根岸鎮衛>が許へ来《きた》る与住など懇意なりしが、信州辺の者にもありけるか、軽井沢とかの食売(めしもりをんな)女を妻に成してくらしけるが、容儀うるはしきにもあらず、いかなる訳にて妻とせしかと疑ひける由。しかるに同じ在所の者、娘を壱人召連れ、身上《しんしゃう》も相応にもありけん、かの医者の許に来りて、さる大名の奥へ、右の娘を部屋子に遣し、追ては奉公も致させ候積りなれども、江戸表ゆかりの者多けれど、町家よりは医者の宿なれば格好も宜しとて、ひたすら頼みける故、医者もうけがひて、宿になりしに、かの娘煩ひ付きて、医者の許へ下《さが》り居《をり》しに、療治に心を尽すのみならず、快きに随ひて、かの娘と密通なしけるを、妻なる女、深く妬《ねた》み恨みけれど、元来食売女なしける身故、ゆかりの者もなく、見捨られば[やぶちゃん注:ママ。原本も同じ。]いかにせんと思ひける。或日家出して失せぬ。驚きて所々尋ねければ、両国川へ身を投げんとせし処を、取押へ連れ帰りて、いかなる心得違ひなりやと、或ひは叱り諫めけるが、五六日過ぎて二階へ上り、夫の脇差にて咽を貫ぬき果てぬ。せん方なく野辺送りしけるが、何となく其所にも住み憂くて、跡を売居《うりすゑ》にして他所《よそ》へ移りしに、右跡の家を、座頭買得て来りしが、金子二三十両も出して、普請造作《ざうさ》して引移りぬ。ある夜、女房眼を覚し目九しに、屛風の上へ色青ざめし女、両手をかけて内を覗く故、驚き夫を起しけるに、夫は盲人の事故、曾て取用ひず、新《あたらし》きの処へうつりし故、心の迷ひよりかゝる事申すなりと叱り、とりあへぬに、両三日続きて同様なれば、かの妻堪へがたく、夫へかたり、いかになさんと歎きし故、同店《おなじたな》のものへかたりしに、この家はかゝる事もあらん、かくくの事にて、先の店主(たなぬし)の医師の妻、自殺せしと語りける故、座頭の坊も怖ろしくやなりけん、早く其処を引払ひて転宅せしとや。霊魂の心残りあるとも、かの医者の転宅せし先へは行くべき事なるに、訳もしらぬ座頭の許へ出で、その人をくるしむる事、霊鬼にも心得違ひなるもあるなりと語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「耳囊 卷之六 執心の說間違と思ふ事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「游魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 游魂【ゆうこん】 〔海西漫録〕予<鶴峯戊申>住吉にもしばらく住みし事あり。そのほど鄰家なる或人の妻の、予が後妻に語れる事あり。それは後妻かの人にあひて、しばらく見え給はざりしが、いかゞおはしましつるといへば、かの人、わらはは昨々日《をとつひ》の朝より大坂へまかり侍り、さきほど帰り侍りしなり、大坂の妹なる人、久しく煩ひて侍りつるに、つひに烟となり侍りつるなり、さても不思議なる事こそ候へ、十年ばかりもさきの事にや、妹の秘蔵したる簪《かんざし》の失せ侍りつれば、売卜《ばいぼく》にうらなはせなどして、年久しく尋ね侍りしが、終に見えざりければ、人に盗まれたるにやあらん、いかにせんとて過《すご》し来《きた》るに、おとつ日の暁《あかつき》、わらはが夢に妹来りて告げけるやう、姉さまよ、久しきあとに失ひつる簪こそ、土蔵の二階なる三番の簞笥の最下の引出しの底に、紙に包みて侍れ、この簪は姉さまにかたみにさしあげ侍り、早く来まして取り給へといふほどに、いそがはしく門をたゝく人あり、これに夢さめて、人を喚び起して門開かすれば、妹のなき人となりたる事をしらせ来れるにぞ有りける、せきあへぬ涙を袖につヽみ、俄かに大坂にまかり、はふむりの事営みつる後、親族の人々に、しかじかの夢見たるよし語りければ、そは誠ともおもはれず、されど物はためしなれば、試みにさがして見給へといふに、女どもと土蔵に入り、たんすを開きけるに、夢に見つるが如く、最下の引出しの底に紙に包みてぞ有りける、されば夢の告げの如く持ちかへり侍りしなりとて、その簪をも出して見せけるとなん。白石先生の『鬼神論』に、またある人の遠き国にゆくが、むかし我妻の心見んとて、その金《きん》の簪をとりて、壁の中にかくせし事のありしを、事にまぎれてかくともいはで出立ち、他国にて病におかされて、死ぬべきに臨みて、供に具したる男にこの事を告げけり。古郷にとゞまりたる妻、夫の行方をおもひつゞけて、只ひとり立ちしに、忽ちに大空の中にして、人の声するをあやしときくに、まさしき我夫の声なり。みづから既に死し侍りぬ、日ごろは見えざりし簪、誠は我かくせしなり、我死せし事、誠と思ひ給はざらんには、いづこの壁の中を見給へかし、これを印(しるし)としるべしとぞいひける。うつゝなき事と思ひしかど、教へのまゝにそこの壁の中を見るに、誠にかんざしありけり。妻は天をあふいでなく。やがてなき跡の事など営みてけり。いく程なくて夫は病愈えて帰り来りけれど、妻は死したる人の魂の帰り来りけると、大いにおどろきまどひけり。これ等のごときは、また游魂の人をあざむきて、かゝる振舞したるなりとぞ云ひつたへ侍る。(程子並びに東坡の書に見ゆ。宋の事なり。游魂はうかれ行く鬼《き》なりとや)と見えたり。 〔耳袋巻五〕これも中山氏にて召使ひし小侍、甚だ発明にて、主人も殊の外憐愍《れんびん》して召使ひしが、寛政七年の暮、流行の疱瘡を患ひて身まかりしを、主人その外殊の外に不便《ふびん》がり、厚く弔ひ遣はしける由。然るに中山の許へ心安かりける男、昌平橋<東京都千代田区内>を通りしに、かの小侍が死せし事も知らざりしが、はたと行き合ひて、如何主人には御変りもなきやと尋ねければ、相応の挨拶して立別れける。中山の許へ至りて尋ねしに、遙かに日を隔てて相果てし事を語りけるに驚きて、我等一人に候はゞ見損じも有るべしと、召連れし僕《しもべ》にも尋ねけるに、これもかの小侍はよく覚えて相違なきよし語り、共に驚きけるとなり。

[やぶちゃん注:前者の「海西漫録」(かいせいまんろく)は国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 天明八(一七八八)年~安政六(一八五九)年)の随筆。彼は豊後国臼杵(現在の大分県臼杵)に八坂神社神主鶴峯宜綱の子として生まれ、江戸で没した。著作は多く、中でも「語學新書」はオランダ語文法書に倣って当時の日本語の文法を編纂したもので、近代的国語文法書の嚆矢とされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は『○游魂有ㇾ知』である。後者は、私の「耳囊 卷之五 遊魂をまのあたり見し事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「誘拐異聞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 誘拐異聞【ゆうかいいぶん】 〔梅翁随筆〕麹町三丁目<東京都千代区内>谷《たに》日下部(くさかべ)権左衛門の侍、巳七月下旬部屋に休み居《ゐ》けるに、夜中名を呼びて戸を厳しく敲くものあり。何人なるやと尋ぬれば、その答へはせで、しきりに呼ぶゆゑ、そ こきみあしく出《いで》もやらず、物をもいはず居《をり》ければ、その後《のち》音もせず。寝入らんとする時、また 来りて戸をたゝく事ゆゑ、いよいよ息をころして居《ゐ》ければ、この度はすつとはひりたり。見れば大の山臥(やまぶし)なり。近寄る所を物をもいはず、脇ざしにて鞘ながら払ひければ、そのまゝ出《いで》さりぬ。またもや来ると怖ろしく、夜のあくるを待ちかねたり。夜あけて後《のち》傍輩どもへこのよし咄 しければ、大いにうなされたるなるべしと、みなみな笑ひぬ。その夕方この侍、座敷の戸を〆(しめ)に行きてより行衛しれず。不審におもひ近辺尋ねけれども見えず。早速宿へ申遣はし、欠落《かけおち》せしかとも推量すれども、衣類も常の儘なれば、いよいよ不審にぞんじ居《をり》たり。四五日過ぎてかのものの在所より、国もとへ帰りたるよし申越《まふしこす》ゆゑ、子細を尋ぬるに、主人かたにて座敷の戸を建て、それより十露盤《そろばん》を置くとおぼえたるまゝにて、その後《あと》の事は覚えず、相州鎌倉<神奈川県鎌倉市>在《ざい》の山中に捨てられ居《をり》たるを、其所《そこ》のものの世話にて、在所へかへりたる由申しけるとなり。大御番七番組をつとめける石川源之丞は、麻布白銀町<東京都港区内か>に住みて、その娘十三歳の頃まで、四五年も以前の事なるべし、或日庭へ出たるが、そのまゝにて行方しれず。所々尋ねけるに、翌朝木挽町<東京都中央区内>よりしらせたるゆゑ、人を遣はし、家来の娘分にして連れ来りける。その様子を聞くに、何ものともしれぬものに同道して、いろいろの面白き事ども見物せしとなり。木挽町のものに問ふに、芝居の茶屋の庭に居《をり》たるゆゑ、いかなる事にて爰に居るぞと尋ねしかども、答へもわかりかねしゆゑ、先づ休ませ置き、正体《しやうたい》[やぶちゃん注:正気。]になりてのち宿所をたづねて、源之丞かたへしらせたりしとなり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。同書「卷第二」の冒頭から五つ目で、標題は『○日下部の侍さそひ出さるゝ事』。

「麹町三丁目」「谷」「東京都千代区内」これは「麹町谷町(かうじぢまちたにまち)」というれっきとした町名。現在の千代田区麹町五丁目(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に当たる。麹町の北側と南側にある四ヶ所の谷地で、俗に「麹町三丁目」の谷を「麹町三丁目谷」「黄金谷」「小粒谷」と称した。後者の二つの異名は、両替商備前屋喜兵衛の店がここにあって、何時でも両替に応じたことによる(「麹三渓の記」国会図書館蔵)。麹町四丁目の谷は「麹町四丁目谷」と称した(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。]

「巳七月」寛政九年丁巳。グレゴリオ暦一七九七年。旧暦七月一日は七月二十四日相当。

〔同巻三〕午四月日光御門主御登山に付き、寄合医師塙《はなは》宗悦は、例のごとく御供して日光へ参りけるに、宗悦が中間こゝちあしきとてやすみ居《ゐ》ける。その翌朝、小便に出たる処、四方霧ふかくふりて、尺寸の間も見分けがたくありしに、何ごころなくしばらく立ちたる内、次第に晴れ行く霧の間に見わたせば、ありし所にあらず。いかにも道幅広く、両側軒をならべて、そのさま旅籠《はたご》やの家作りのごとく、また荷物付ける馬行きちがひ、旅人体《てい》のもの往来して、さながら街道筋に彷彿たり。心得ぬ事におもひ、夢にやあらん、現《うつつ》にやあらんと、只茫然として立ち居《をり》たる所へ、侍体(さむらひてい)の人きたりて、何のために此所へ居るやと問ふゆゑ、答ふるにありし趣を咄し、夢現を分け兼ねたるよしを申しければ、侍莞爾として云ふは、熊谷宿とて木曾へも北国へも通ふ街道なりといふ。日光への道のりをとふに、廿余里なりといふ。江戸へは十六里なりと。こゝにおいて大いにおどろき、そもいかゞしてこれまで来りしにや。さるにてもこれより日光へゆかんも、江戸へ帰らんにも、遠路《ゑんろ》を隔てたるに、今少しのたくはへもあらざれば、いかゞともすべきやうなし。進退こゝにきはまれりと当惑なしける時に、侍いふやう、某《それがし》骨柳(こり)[やぶちゃん注:前記活字本ではママ注記があるが、これは「行李(かうり)」の別字である。]を持てり、汝この荷を持ちて供をせば、旅の用をば助けんといふ。その行く所は江戸のよしなれば、先づこれにて少し力を得て、兎も角も仰せはそむくまじ、しかるべきやうにと頼みければ、側《かたはら》の家にともなひ行き、酒食など世話して、それよりつれ立ちいでぬ。おもひ寄らぬ変にあひしまぎれに、不快もうち忘れて、三宿ばかりも来りしと思ふ時、侍のいふ様、某はこれよりわかるゝなり、汝もこゝろざす方へ参るべし、これは千住の宿なりとて別れぬ。今朝熊谷を出て、やうやう五六里あまりも参りつらんと思ふに、はや千住の宿なりと申せしにぞ、心得ぬことにおもひながら、そこらを見廻すに、大橋のてい、宿の様子、見知りたる所なれば、これより道をいそぎ、暮ごろに己が請人《うけにん》[やぶちゃん注:中間の斡旋人にして身元保証人。]の所へ行き、しかじかのよし申しければ、請人不審して先づ休ませ置き、翌朝また子細を尋ぬるに、きのふ申せし言葉に少しもちがひなければ、さては実事ならんとて、彼者回道《まはりみち》[やぶちゃん注:請人の住居は塙の家よりかなり離れていたのであろうが、ちょっとイメージが、しにくい謂いである。]して塙宗悦が宅へ行き、右の次第を申しけるに、先づその者あづけ置くよし申付けける。その後《のち》日光より書状来り、彼方にて行方しれざるよし申越しける。その日を考ふるに、一日のうちに江戸へきたりぬ。これたゞごとにあらずとて、また請人をよびて尋ぬるに、その後《のち》請人方をも立出て、かのもの行がたしれずなりぬと申しけるとなり。

[やぶちゃん注:同前の活字本で、「卷之三」の掉尾のここ。標題は『塙宗悅中間の事』。]

〔続道聴塗説六編〕十三日の夜、御本丸御太鼓坊主、時を打ばやと登りけるに、旅人体《てい》のあやしき者一人、前後を忘れて臥し居《ゐ》たり。一同驚き、立合ひて喚び起せどもおきず。やうやうに目の覚めけれども、何処《いづこ》の者とも、何故何時《いつなんどき[やぶちゃん注:「何故(いつ)」は以下に示す活字本のルビに従った。]》爰に来りしともいはず。只茫然として居るのみ、定めて鼻高《はなだか》[やぶちゃん注:天狗。]の所業とは察すれども、尚深く改め閲(み)るに、小さき天神の宮[やぶちゃん注:御札。]を竹の末に挿み、側《かたはら》にさし置き、懐中に金子あり。早々捕へて町奉行へ引渡し、通例御城内攔入《らんにふ》[やぶちゃん注:「攔」は漢語で「~をめがけて・~に向かって」の意。]の者永牢の法律なれども、これは一通りならぬ場所へ入込《いりこ》みし事なればとて、痛く穿議を遂げらるといふ。近来《ちかごろ》邪宗の風説ある上、去冬《さるふる》平川外御舂屋《おつきや》一件、並びに長州御入輿間もなく、かの御殿また金子紛失など度《たび》重り、その賊いまだ捕へ得ざれば、旁〻《かたがた》以てこの節厳重の御沙汰に及ばるときく。

[やぶちゃん注:ここのみ、一字空けで後の「耳囊」の話に続くが、前に合わせて特異的に改行し、ここに注を入れた。

「続道聴塗説」(ぞくだいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)この続篇は本書では初出。一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『○異人睡臥』。この全パートは『庚寅漫錄』とあることから、これは文政一三(一八三〇)年の記事と読める。因みに、文政一三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「平川外御舂屋一件」前年の文政十二年十一月十一日の夜に発生した強盗事件。「御舂屋」は幕府営中の諸士に給する領米を舂(つ)く所。「平川外」は、竹橋御門と平川御門に面した、現在の「パレスサイドビル」(毎日新聞社)の一帯に当たる。江戸城東北の直近。上記活字本のここの『○平川凶賊』に、この江戸城御膝元の『前代未曾有』と記す盗事件一件が記されてあるので、見られたい。

「長州御入輿」不詳。識者の御教授を乞う。]

〔耳囊巻四〕知る人の語りけるは、小日向小身の御旗本の二男、いづちへ行きけん、その行方しれず。その祖母深く歎きて、所々心懸けしに、終に音信なかりしが、或時かの祖母本郷兼やすが前にて、ふと二男に逢ひけるゆゑ、いづ方ヘ行きしやと、或ひは歎き、或ひは怒りて尋ねければ、されば御歎きをかけ候も恐入り候へども、いま程は我等事も難儀なる事もなく、代を送り候へば、案じ給ふべからず、宿へもかへり、御目にかゝり度候へども、さありては身の為人のためにもならざるあひだ、その事なく過ぎ侍る、最早御別れ申すべしといへば、祖母は袖を引留めて、暫しと申しければ、さ思ひ給はゞ、来《きた》る幾日に浅草観音境内の念仏堂へ来り給へ、あれにて御目にかゝるべくといひし故、立分れ帰りて、かくかくと語りけれど、老にや耄《おいぼ》れ給ふなりとて、家内の者もとり合はざれど、その日になれば、是非浅草へ参るべしとて、僕《しもべ》壱人召連れて、観音境内の念仏堂へ至りければ、果してかの次男来りて、かれこれの咄をなし、最早尋ね給ふまじ、我等もいまは聊か難儀なる事もなしと語り、右連れにもありける歟、老僧など一両輩、念仏堂に見えしが、その後《のち》人だまりに立かくれ、見失ひける由、召連れし小ものも、かの様子を見しは、祖母の物語りと同じ事なる由、天狗といへるものの所為にやと、祖母の老耄(らうもう)の沙汰は止みしとなり。

[やぶちゃん注:ここも、字空けなしで、以下の「甲子夜話」の話が続いているが、改行した。以下の二篇も同様の仕儀で処理したので、以降では略す。

 私の「耳囊 卷之四 魔魅不思議の事」を参照されたい。]

〔甲子夜話巻四十九〕嵯峨天竜寺中瑞応院と云ふより六月の文通とて印宗和尚語る。天竜寺の領内の山本村<京都市右京区内>と云ふに尼庵あり、遠離庵と云ふ。その庵に年十九になる初発心《しよほつしん》の尼あり。この三月十四日哺時(ほ《じ》)<午後四時>のほどより、尼四五人連れて後山に蕨を採りにゆき、帰路には散歩して庵に入る。然るに新尼ひとり帰らず。不審して狐狸の為めに惑はされしか、または災難に遭ひしかと、庵尼うちよりて祈禱宿願せしに、明日に及びても帰らず。その十七日の哺時、比《この》隣村清滝村の樵者《きこり》薪《たきぎ》採りにゆきたるに、深渓の辺《ほとり》に小尼の渓水に衣を濯ぐ者あり、顔容蒼然たり。樵《きこり》かゝる山奥に如何にして来れりやと問へば、尼我は愛宕山に龍り居《を》る者なりと云ふ。樵あきれ、彼れをかすめ[やぶちゃん注:強引に捕まえ。]清滝村までつれ還り、定めしかの庵の尼なるべしと告げたれば、その夜駕を遣はして迎ひとりたり。尼常は実体《じつてい》なる無口の性質《たち》なるが、何か大言《だいげん》して罵るゆゑ、藤七と云ふ俠気なるものを招きてこれと対《たい》させたれば、還る還ると云ひて、さらば飯を食せしめよと云ふ。乃《すなは》ち食を与へたれば、山盛りなるを三椀食し終り即ち仆《たふ》れたり。その後《のち》は狂乱なる体《てい》も止みて、一時《いつとき》ばかりたちたる故、最初よりのことを尋ね問ひたれば、蕨を採りゐたる中《うち》、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるがこの方へ来《きた》るべしと云ふ。その時何となく貴《たふと》く覚えて近寄りたれば、彼《かの》僧この杖を持ち候へと云ひ、また眼を塞ぐべしと云ひしゆゑ、その若(ごと)くしたれば、暫しと覚えし間に遠方に往きたりと見えて、金殿宝閣のある処に到り、此処は禁裏なりと申し聞かせ、また団子のやうなる物を喰ふべしとて与へたるゆゑ、食ひたる所味美《うま》くして、今に口中にその甘み残りて忘られず、且つ少しも空腹なることなし。また僧の云ひしは、汝は貞実なる者なれば、愛宕《あたご》へ往きて籠らば善き尼となるべし、追々諸方を見物さすべし、讃岐の金毘羅へも参詣さすべしなど、心よく申されたるよし云ひて、帰庵の翌日もまた僧の御入りぢやと云ふゆゑ、見れども余人の目には見えず。因てこれ天狗の所為と云ふに定め、新尼を親里に返し、庵をば出《いだ》せしとなり。或人云ふ、これまでは天狗は女人を取り行かぬものなるが、世も澆季《げうき》[やぶちゃん注:末世。末法の時代。]に及びて、天狗も女人を愛することになり行きたることならんか。

[やぶちゃん注:これは、南方熊楠「天狗の情郞」(てんぐのかげま)の注のために必要となり、去年の四月三十日に、「フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる」として電子化注してあるので、見られたい。]

〔譚海巻二〕江戸白銀瑞聖寺は、黄柴山の旅宿寺なり。瑞聖寺に年来勤め居《をり》たる男七助と云ふもの、一日《あるひ》朝飯焚きゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方なし。月日を経れば入水《じゆすい》せしにやなど、皆々申しあひたるに、六年過ぎて七助うせたるその月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出て見るに、遙かなる空中より一むら黒雲の如きもの、苒々《ぜんぜん》に地ヘ降(くだ)る。これをみて人騒動するなり。さて程なく空中のものくだり来《きたり》て、瑞聖寺の庭に落ちたり。大なる蓮の葉なり。その内にうごめく物有り。人々立寄りて開きみれば、件《くだん》の七助茫然として中より這ひ出たり。奇怪なる事いふばかりなし。一両日過ぎて、七助人心地付きたる時、何方《いづかた》より来《きた》るぞと尋ねたれば、御寺に居《をり》たるに僧一人来り、天竺へ同伴せられしかば、共に行くと覚えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所《そのところ》の人物言語、共に甚だ異なり。天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさわがしかりしかば、この僧われにいはるゝやう、この蓮の葉に入りてあれと。入りたればやがて包みもちて投げすてらるゝと覚えし。その後《のち》は何事も承知せずと申しけり。この蓮の葉は天竺の物なるべし。八畳敷程ある葉なり。寺庫に収めて今にあり。蟲干の節は取出《とりいだ》し見するなり。この七助その後《のち》八年程ありて、七十二歳にして寺にて卒したり。この蓮の葉、彼寺の蟲干の節行き逢ひて、正しく見たる人の物語りなり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 江戶白銀瑞聖寺什物天竺蓮葉の事」を見られたい。なお、本篇を宵曲は、「妖異博物館 天狗の誘拐(3)」でも紹介しており、そこで私は一度、電子化している。]

〔甲子夜話巻七〕予<松浦静山>が厩に使ふ卑僕あり、上総の産なり。この男嘗て天狗にさらはれたりと聞けば、或日自らその事を問ふに、奴云ふ。今年五十六歳、さきに四十一の春三月五日の巳刻<午前十時>頃、両国橋<東京都墨田区内>のあたりにて心地あしく覚えたるばかりにて、何(いか)なる者より誘はれたるも曾て知らず。然して十月廿八日のことにて、信濃国善光寺の門前に不図《ふと》立ち居《をり》たり。それまでのことは一向覚えず。衣類は三月に著たるまゝ故、ばらばらに破《やぶれ》さけてあり。月代(さかやき)はのびて禿(かむろ)の如くなりし。その時幸ひに故郷にて嘗て知りし人に遭ひたる故、それと伴ひて江戸に出《いで》たり。その本心になりたる後《のち》も、食せんとすれば胸悪く、五穀の類は一向食はれず、たゞ薩摩芋のみ食したり。それより糞する毎に木実《このみ》の如きもの出《いで》て、この便《べん》止み常の如くなりてよりは、腹中快く覚えて穀食に返りしとなり。然れば天地間には人類に非るものも有るか。

[やぶちゃん注:私の「甲子夜話卷之七 27 上總人足、天狗にとられ歸後の直話」を見られたい。なお、宵曲は、『妖異博物館 「天狗の誘拐」 (1)』でも紹介しており、その私の注でも電子化してある。]

〔耳袋巻五〕下谷広徳寺前といへる所に大工ありて、渠《かれ》が倅十八九歳にもなりけるが、当辰の盆十四日の事なる由、葛西辺に上手の大工拵ヘたる寺の門あるを見んとて、宿を立出しが行衛知れず、帰らざりし故、両親の驚き大方ならず。近隣の知音を催し、鐘太鼓にて尋ねしが知れざりしに、隣町の者江の嶋へ参詣して、社壇に於て彼者を見受けし故、いづちへ行きしや、両親の尋ね捜す事も大方ならずと申しければ、葛西辺の門の細工を見んとて宿を立出しが、爰はいづくなるやと尋ねける故、江の嶋なる由を申しけれど、甚だ眩忘の様子故、別当の方へ伴ひ、しかじかの様子を語り、早速親元へ知らせ、迎へをさし越すべき間、それまで預り給はるべしと顧みて、彼者立帰りて両親へ告げし故、怡(よろこ)びて早速迎へを立てし由。不思議なるは彼者の伯父にて大工渡世せる親の為に弟なる者、これも十八九歳にていづち行きけん知らざる故、所々尋ねけれど、これは終にその行衛わからざりし間、一入《ひとしほ》この度も両親愁ひ歎きし由なり。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「卷之一」所収。「耳囊 卷之五 神隱しといふ類ひある事」を見られたい。]

2024/01/18

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山童」 / 「や」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「や」の部は終わっている。]

 

 山童【やまわろ】 〔梅翁随筆巻一〕九州西南の深山に、俗いふ山童といふものあり。薩摩にも山の守《かみ》といふ所などにおほし。これをたのみて大木を運ぶ。人の先に立ち行く事をきらへり。先づ遣ひて後《のち》に飯をあたふ。はじめにあたふれば食し終り逃去るなり。塩気あるものを嫌ふなり。飯を与へてつかへば、日日に来り手伝ひて、大いに杣人《そまびと》の手助《てだす》かりとなる。もしこのかたよりうち、また殺さんと思へば、不思議に知りて祟りをなし、その人発狂し、あるひは大病にのぞみ、あるひはその家俄かに出火などし、種々《しゆじゆ》の災害を起せり。この故に人みなおそれて手さす事なし。このものたゞ九州の辺界にのみ有りて、他国にある事をきかず。あるひは冬は山にありて山童といふ。夏は川に有りて川童といふ。しからば川童と同物なるやいぶかし。もつとも九州の河童はその祟りをなす事大にして、他国と違《たが》へり。河狗《かはいぬ》ともいふ。また九州には狼なきが如し。たまたま有りといへども、甚だ柔弱にして犬にかみころさるゝなり。人の愁《うれひ》をなすほどの事なし。総じて諸獣みなよわし。たゞおそるゝは河童なり。四国の地には天狗多く、別して伊勢は多し。高山に天狗あらずといふ事なし。かゝるたぐひも風土により、強弱多少有りとしられけり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。同書「卷第一」の冒頭から二つ目で、標題は『○九州山童の事』。

「山童」私のサイト版寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「やまわろ 山𤢖」では、

   *

「神異經」に云ふ、『西方の深山に、人、有り。長(た)け、丈餘、祖-身(はだか)にして、蝦・蟹を捕へて、人に就きて、火に炙り、之れを食ふ。名を「山𤢖」と曰ふ。其の名を、自ら、呼ぶ。人、之れを犯せば、則ち、寒熱を發す。盖し、鬼魅のみ。惟だ、爆竹の煏-煿(ばちつ)く聲を畏(おそ)る。』と。

△按ずるに、九州の深山の中に、「山童(やまわろ)」と云ふ者、有り。貌(かほ)、十歳許(ばかり)の童子(わらべ)のごとく、遍身、細毛、柹(かき)褐色。長き髪、靣(おもて)を蔽ふ。肚(はら)、短く、脚、長く、立行(りつかう)して、人言(ひとのことば)を爲す。䛤(はやくち)なり。杣人(そまびと)と、互(たがひ)に怖れず、飯・雜物を與へれば、喜びて、食ふ。斫木(しやくぼく)の用を助け、力、甚だ、强し。若(も)し、之れに敵すれば、則ち、大いに、災ひを爲す。所謂、「山𤢖」の類の小き者か【「川太郞」を「川童(かはわろ)」と曰ひ、是れを、「山童」と曰ふ。山・川の異にして、同類の別物なり。】。

   *

とある。その後の私の注も参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山伏の鉄棒」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山伏の鉄棒【やまぶしのてつぼう】 〔耳袋巻一〕寛延の末にて有りけん。日本左衛門といへる盗賊の張本《ちやうほん》有りて、召捕はれ刑罰になりけるが、その余類に一人の山伏有り。長さ三尺に、廻り一寸余の鉄棒を所持して、これに向ふ者、手を負はざるはなし。その手練《てだれ》いふばかりなし。これに依つて諸国にて手に余りし悪党なりけるを、大坂の町同心に武辺の者有りて、手段を以て難なく召捕りける由。その手段を尋ぬるに、この同心五尺程に廻りも二寸に近き鉄棒を拵へ、姿をかヘてかの山伏が寄宿に至り、知る人になりて段々物語りの上、側に有りし鉄棒を見て、さてさて御身はすさまじき鉄棒を用ひ給ふものかな、我等も鉄棒を好み所持せしが、その業存ずる様にこれなき山を申し、持参の鉄棒をかの山伏に見せければ、山伏も驚きて、さてさて御身は力量すさまじき人哉、あはれとくと見せ給へとて、己が鉄棒を同心へ渡し、同心持参の鉄棒を請取り、眺め賞しける様子を見計らひ、かの山伏が渡したる鉄棒を取つて声を掛け、山伏が真向を打ちけるに、山伏も心得たりと取替へし鉄棒を取上げしが、兼ねて遣ひ覚えし寸尺より遙かに延びて自由ならず。存分に働きがたく、その内《うち》組の者も立入り、難なく召捕りし由。面白き手段なりと人の語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 武邊手段の事」を見られたい。『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 「話俗隨筆」パート 武邊手段の事』でも、本篇に触れている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山伏の祟り」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山伏の崇り【やまぶしのたたり】 〔奥州波奈志〕本柳町といふ所に住むつかまき師夫婦の者有りき。代々有徳にして、ほどにつけたる調度やうの物迄もともしからで実心の者なりし。娘二人もちしが、とりどり相応の生れなりしを、ひそうして有りし姉娘十三ばかりの時、庭におりてあそびて有りしが、春のことにてたこの上りを見送るとて石につまづき、くつぬぎ石にてひざを打ちしが、つよく痛みはれて直らず、終に足なヘになりて、二三年わづらひて死たりき。妹娘もほどなく十三となりしが、同じく庭におりて同じ石につまづき、膝を打ちたりしかば、二親心にかゝりて医師をもとめ、いろく薬用をくはへしかどもいゆることなく、また足なへになりて十六までながらへしかば、その間たからをつくして祈禱まじなひにいたるまで、よしとあるかぎりのことはせしかども、いさゝか印(しるし)なし。終にいき引とりしかば、水なども手向けて屛風引廻して置きしに、うなる声の聞えしかば、すは息吹きかへせしと悦びて、母の行きてみつれば、娘が云ふやう、さて至極快く寝人入りて有りしが、今何方へやら行く所を夢にみたりし、また寝たくなりし故ねんと思ふが、よく寝入りてあらば夜具をはぎてみ給へといひてねぶりしかば、二親うちゑみつゝ、もし快気にもやなると思ひいさみて、少し程をへて夜具をまくりてみたれば、こはいかにその面娘にはあらで鬼のごとし。色赤黒く眼中きらきらと光りて、いたくいかれるおもざしのおそろしさ、云ふばかりなかりしかば、母は思はずとびのきて、夫にそのよしをつげて、両人して行きてみしに前にかはらず。夫婦あきれてゐたる時、かのへん化《げ》おき直りて眼《まなこ》をいからし、声たてゝ云ふやう、汝等二人にいひきかすべきこと有りてあらはれたり、そこさらずして吾《わが》云ふことをよくきけ、我はこれこの家の七代先の祖に金をとられてせつがいせられし山伏の霊なり、我昔官金をもちて上方へゆきし時、先祖の男とふと道づれになりたりしが、茶屋に入りてともにのみ食ひしてのち、あたひをはらはんと懐中より金入をとり出せしを(この山伏のふるまひゆだんのやうなれど、凡そ百五六十年か、または二百年に近きほどのむかし故、人の心もおだやかにて金などもみせしなるべし)この家のあるじの見て、山中にいたりし時、無体《むたい》にてうちやく[やぶちゃん注:ママ。引用原本も同じ。「打擲」の歴史的仮名遣は「ちやうちやく」が正しい。]して終に切りころし、官金をうばひとりて出世をなせしぞや、その時の無念さ骨髄(こつずゐ)に通るといへども、代々運さかんにしてたゝりをなしがたかりしが、やうやう七代にいたりて運かたぶきし故、怨みをはらすなり、かくいふことを偽りと思はゞ外に確かなる証拠有り、たんすの引出しに入《いれ》て有る太刀こしらへの大小はわがさし料《れう》なり、尺は何寸、銘は何々といふことをつまびらかに云ひて(この大小と銘を女の言《こと》にておぼえぬぞくちをしき)いそぎ出《いだ》しみよ、これ違《たが》はぬ証拠ぞといひしとぞ。夫婦は夢のこゝちして、おそろしさに手もふるふふるふ大小をとり出して見しに、変化《へんげ》のいふに露たがはざりしとぞ。この大小は先祖よりのつたはりものとて、代々仕廻《しま》ひてのみ置きしことにて、銘も寸も夫婦しらで有りしを、まして娘子共のしるべきよしなし。実《げ》に昔さることや有りつらんとあやまり入りて有りしに、また変化の曰く、この娘の命たすけたく思はゞ、我のぞみし官位のほどの供廻《ともまわ》りにて、この家よりそう礼を出すべし、(そうしき供廻りいくたりといふことも確かに知らず)さあらば命たすくべし、さなきにおきてはこれ限りぞといはれて、二親はふしまろび、いかやうのことにても仰せにそむくまじ、娘が命たすけ給へと願ひしかば、いそぎそう礼の仕度せよとて夜具引きかづきしか[やぶちゃん注:ママ。後掲する原本活字本では「しが」。]、またもとの娘の面にぞなりたりし。変化はかくいへど、かゝる大病人の有る家よりそう礼を出さんは、外聞かたがたきのどくに思ひて[やぶちゃん注:自分たちの今の分際での外聞は勿論、集まって貰う人々にも如何にも気の毒で申し訳ないと思って。]、寺へそのよしを談じて法名をもらひ、人をやとひて寺の門前よりしたくして、はふりのていをなしたりしに、その人々の寺の門に入たるころへん化あらはれ、母をよびて曰く、この家よりいださば娘が命たすけんと思ひしが、余りに略《りやく》過ぎたる仕かたなり、これにては命ごひは叶ふまじといかりて有りしとぞ。父はそうしきをとゝのへて、これにて娘が命たすかるやと心悦び、かつあんじながら帰りしに、有りしことどもを聞きておぢ恐れ、また家より葬式をとゝのへて出したりしかば、山伏の霊もしづまりやしたりけん、現はれずなりし。むすめも一度《ひとたび》引とりし息のかへりしこと故、おんりやうたち去りてはへたへたとよわりて消え失せしとぞ。このほどの心尽しはむだとなりて、月のうちに三度葬式を出したるとぞ。婿養子なども有りしが、この変化に恐れていヘをいでてをらず。二親も気抜けして家を売りつ。数代の富家《ふか》も長病中《ながやまひちゆう》の物入りにつかひはたし、やれ衣一重ならで身に添ふものなく、ゆくへしれずなりしとなん。山伏は七代までたゝるとは聞きつれど、かくたしかに見聞きしことも稀なれば書き置く。娘のうなりくるしみし声は近辺の人聞くにたへがたかりしとぞ。二親の思ひましていかならん。(このはなしもはやく聞きて有りしが、もし偽りにやと心もとめざりしに、召つかふ女の筋(すぢ)むかひなる家にて、娘の様子、変化の有りし次第もくはしくかたるを聞《きき》てしるしぬ)

[やぶちゃん注:私の「奥州ばなし 柳町山伏」を参照されたい。なお、宵曲は「妖異博物館 大山伏」でも紹介しており、そちらの私の注でも電子化している。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山伏伝授の薬法」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山伏伝授の薬法【やまぶしでんじゅのやくほう】 〔耳袋巻五〕水戸城下にて原玄養と一同、当時行はれ流行なせる医師の、名は聞違へけるが、かの医師の伜《せがれ》にて、これまた療治を出精して、在町《ざいまち》を駈け歩行きて療養をなしけるが、或途中にて老いたる山伏に逢ひしが、その許《もと》は医業に精を入れ給ふ事なれば、明後日彼《かの》町の裏川原《うらがはら》へ何時《なんどき》に罷り越し待ち給ふべし、我等伝授致し候事有りと言ひける故、承知の旨挨拶して立別れけるが、一向知る人にもこれなく、名前も聞かざれば如何せんと、宿元へ帰り咄しけるに、それは怪しき事なり、如何なる失《しつ》あらんも計り難きとて、親妻子も止めける故、期に至りても行かざりしに、また明けの日途中にて、かの山伏に逢ひしに、何故約束を違《たが》へしやと申しける故、しかじかの事《こと》故と断りしに、また明けの夜は必ず川原へ来り給へと期を約し立別れし故、宿元へ帰りてしかじかの事と語りて、今宵は是非罷るべしと言ひしを、両親その外親族など打寄り、それは俗いふ[やぶちゃん注:以下の私のものでは、『俗にいふ』である。]天狗などといふものならん、かまへて無用なりと諌め止めしかど、かの医師何分不得心《ふとくしん》の趣故、親族打寄りて不寝《ふしん》などして止めけるが、深更にも及び頻りに眠りを催す頃、かの医師密かに眼合《まあひ》を忍び出《いで》て、約束の河原に至りければ、山伏待ち居《をり》て五寸ばかりの桐の新しき小箱を与へける故、持帰りければ、家内にては所々尋ねて立騒ぎ居し事ゆゑ、大いに悦びて如何なる事やと尋ねしに、かの山伏人に語る事なかれと切に諌めける故、委《くは》しき訳も語らず。さてまた箱の内に薬法を認(したた)めし小さき書物あり。その奇効もつともと思はざるもあれど、右の内丸薬の一法を試みに調合なしける。不思議なるかな、右丸薬を求めんとて、近国近在より夥しくたづねきたりて、右薬を買ひ求めける事、誠に門前に市をなし、僅かの間に数万《すまん》の徳付きけるが、その外の薬法ども見しが、格別の奇法とも思はれねば、強ひて信仰の心もなく過ぎしが、右は正二月の事なりしに、三月とやらん近所へ療治に出《いで》しが、湯を立てけるゆゑ入り給へと、かの亭主の馳走に任せ、懐中物と一同、かの箱入りの書物も座敷に残し置きしに、勝手より火事出で来て、早くもかの懐中物差置きし場所へ火移り、一毫(がう)も残らず煙となりし故、かの医師右の奇物を惜しみ、火災の場所を捜しけるに、不思議に右桐の箱、土瓦の間に残り居し故、嬉しくも早々取上げ見しに、箱はふたみともに別条なけれど、合口《あひぐち》の透きより火気入り候様子にて、箱の内の奇書は焼け失せけるとなり。右箱をこの頃江戸表水府の屋敷へ持参して、見し者有りけると人の語りけるが、寛政八年の春夏の事なる由。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之五 水戶の醫師異人に逢ふ事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山伏怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山伏怪異【やまぶしかいい】 〔閑窻瑣談巻四〕土佐国赤岡《あかをか》といふ所に、安田源三郎と称(い)ふ大商人《おほあきんど》在り。則ち『千茅草《ちかやぐさ》』<奥書に延享卯五月とあり>の著者桂氏《うじ》<秀樹>の算学の門人なり。その源三郎の家に数代《すだい》の年間(あひだ)、吉事か凶事の有る以前に、毎度(いつも)竈《かまど》の後《うしろ》より、身の丈高く顔色《かんしよく》怖ろしき山伏が、忽然と顕れて家内《かない》を見廻す事あり。家内の人々これを看て、咹々(あれあれ)といふ中《うち》に消えうせる事、亭主四五代の以前より聞伝へたれども、最初は何ケ年《なんがねん》の昔、何時《いつ》より出初《いでそ》めしといふ事を知らず。偖(さて)その源三郎の老母煩ひて、十四五日ほど絶食の大病となり、起臥(おきふし)も心に任せず。夜伽の者も労れて、いさゝか眠りに付かんとすれば、彼の老母は身体健かなるがごとく、床の中《なか》より起上り、四方《しはう》に眼《まなこ》を配りて、怖ろしき顔色になる由を、夜伽の者ひそかに怖れて囁《ささや》きければ、源三郎の父源太夫、常事(ただごと)ならずと思ひ、心を付けて自身夜伽をせしが、夜中《やちゆう》に又々例の山伏が、竃の前に顕れ出しと家内の者が騒ぐ声、台所の方に聴ゆるゆゑ、源太夫はあやしみて老母の側《そば》を放れ、次の間へ出《いで》たるが、その間《あひだ》に老母の行衛知れずになりしかば、源太夫、源三郎はいふに及ばず、家内の人々驚き騒ぎ尋ねしかども、その影も知れず。程近き海の磯辺《いそべ》に老母の著《き》て居《ゐ》たる夜衣《よぎ》と、常に手に持ちし珠数《じゆず》が捨ててありしゆゑ、入水《じゆすい》せしものならんとて、その日を忌日《きにち》として仏事を行ひ来《きた》る様《やう》になれり。その夜《よ》出口の閂《くわんぬき》を二ツに折りて出《いで》たる様なりしといふ。そもそも奈何なる怪異なりや解《と》けがたし。またその後《のち》は彼《か》の山伏の俤《おもかげ》も出《で》る事なしと、源三郎が直《ぢき》に師匠の桂氏へ語りしと云ふことなり。最々(いといと)気味わろき怪談ならずや。

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、挿絵(左ページにある)入りで正字で視認出来る。『卷之四』の、通しで『第五十六』話目の『山伏怪異(やまぶしくわいい)』である。総ルビに近いので、読みは、積極的にそれを参考にした。実はこの話、「柴田宵曲 妖異博物館 大山伏」の私の注で、一度、電子化してある(挿絵入り)ので参照されたい。また、今回も挿絵を吉川弘文館『随筆大成』版からOCRで読み込んで、トリミング補正し、注の最後に添えておくこととする。なお、冒頭の以下の枕がカットされてある。

   *

前(さき)に千賀屋草(ちがやぐさ)といふ隨筆は桂秀樹(かつらしうじゆ)とかいふ人の著(あらは)したる書にて正直に記(しる)し作意は加へぬものゝ樣に被察(おもはる)其書の末(すゑ)に延享五月とあれば今天保十二年よりは九十六年以前の著述なり其卷中に一怪事(いつくわいじ)を記されたるが實事なるべく察せらるゝ故にうつし出でぬ

   *

ここに出る算学者とする桂秀樹著の「千賀屋草(ちがやぐさ)」は有職故実や風俗を載せる随筆だが、著者については、よく判らない。「Wikimedia Commons」のこちらで五巻分が視認出来るが、写本で探す気にならない。悪しからず。「延享五月」は延享四(一七四七)年。「天保十二年」は一八四一年。「九十六年以前」は、数えでも「九十五年以前」である。

「土佐国赤岡」現在の高知県香南(こうなん)市赤岡町(あかおかちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 

Yamabusikuwaii

 

 

絵の左にキャプションがあり、

   *

異(あやしき)を看(み)てあやしま

ざれば更(さら)に異(あやし)き

事(こと)なしと云(いふ)よ妖(よう])の

有無(うむ)は其人(そのひと)に

   よるべし

   *

とある。「妖(よう)」の読みはママ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山女【やまおんな】 〔奥州波奈志〕また爰《ここ》なる家人に菅野三郎といふもの有りし。(若きほどの名なり。今は三力と云ふ)知所は平地にて(大みち)一里の余をゆかねば山なし。故に薪《たきぎ》に不自由なれば、十六七の頃さしたる役もなき故、朝とくおきて一日の薪をとりに、いつも山に行きしに、ある朝松山の木《こ》の間《ま》より女の髪をみだしてあゆみくるをみて、いづちへ行く物ならん、かみをもとりあげずして、早朝にたゞ壱人爰を行くはと、心とゞめてまもりをれば、こなたをさしてちかよりこしか。[やぶちゃん注:ママ。私の電子化では「こしが、」。]松のうへより頭《かしら》ばかり出でて、おもてを見あはせしに、色白く髪は真黒にて末はみえず。眼中のいやなること、さらに人間ならず。朝日に照りていとおそろしかりしかば、つかねかけたる薪もかまもなげすてゝ逃げ帰りしが、二度《ふたたび》その山にいらず。いへにかへりておもひめぐらせば、松山の梢より頭の出でしは身の丈二丈もやあらん。頭の大きさも三尺ばかりのやうにおぼえしとぞ。これ世にいふ山女なるべし。

[やぶちゃん注:私の「奥州ばなし 三郞次」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山男の足跡」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山男の足跡【やまおとこのあしあと】 〔甲子夜話巻五十四〕また曰く<医菊庵>安部郡腰越村<現在の静岡県静岡市内>と云ふは、府より八九里も山奥なり。その隣村を坂本と云ひて、山を越て三里余の道なり。或時腰越の人、坂本へ宿したるに、その夜雪ふり積れり。翌日帰る途中にて、足痕の大きさ三尺[やぶちゃん注:九十センチメートル。]ばかりあるを見る。不思議におもひ、その先きを見ればまた痕あり。その間九尺ほどづつにて行々(ゆくゆく)絶えず。三里程の道に痕つゞきて、枝道にもふみ通りし痕あり。また腰越村の手前に小川あり。この川を一股に渡りしと覚しく、その川向二三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]にも足痕ありしと。これを山男と謂ひ、稀にはその糞を見ることあるに、鈴竹《すずたけ》と云ふ竹葉《たけのは》を食とするゆゑ、糞中に竹葉ありと云ふ。但右の村々は大井川の水元の辺《あたり》なりと。府の江川町《えがはちやう》三階屋仁右衛門咄したり。○信州戸隠辺にても、大雨の後、山中の畑など、二三尺ばかりの足跡のあるを度々見る由。先年九頭竜権現へ参詣のとき、その地の農夫より承る。また豊後国の高田は嶋原領にて船附きなり。其処の川の向《むかふ》へ鎮守尾玉若宮大明神]と云ふあり。その明神の社迄は三町ばかりあつて松林なり。或る暗夜に挑灯をつけ、橋を渡り行かんとするとき、俄かに惣身痺れて一向歩行ならず。その夜は風強く挑灯も吹き廻されて、道の脇へ寄りて居ると、やがて向うの川向《かはむかふ》の方より、どしどしと足音するゆゑ、見るに長《た》ケ二丈[やぶちゃん注:約六メートル。]ばかりもある山伏か坊主か見定め難きもの、その人の脇通り橋の方へ行く、これよりだんだん身の痺れも緩みたるゆゑ、その宅へ帰らんと思へども、その方へは大人《おほひと》の行きたるゆゑ、別路なる花屋へやうやう奔《はし》り附けて、内の人を呼び起したる迄は覚えたれども、それより気《き》絶《た》えたり。これにて人々騒ぎ立たる中に、漸々《やうやう》気も附きたりと。これもかの山男の全身を見しならん。右一条は駿府の禅宗顕光寺と云ふ三十石御朱印地の和尚、十五歳のときに目撃せしのことゝ云ふ。この僧今<文政六年>存す、年六十八。

[やぶちゃん注:事前に『フライング単発 甲子夜話卷五十四 1 「駿番雜記」の「山男の足跡」の記載部分』で詳細な割注をして、公開しておいたので、そちらを参照されたい。]

フライング単発 甲子夜話卷五十四 1 「駿番雜記」の「山男の足跡」の記載部分

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。本巻は全体が「駿番雜記」で各記載は必ずしも独立立項されている訳ではない。記載は冒頭から三条目で、本条の前は『毉』(「醫」に同じ)『菊庵』なる人物の語りで、それを受けて、『又曰』で始まっている。今回は、考証しつつ、電子化した関係上、注を文中に入れた。]

 

54―1

 又、曰(いはく)、

「安部郡(あべのこほり)腰越村[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市葵区腰越(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ。)]と云ふは、府より、八、九里も山奧なり。

 其隣村を坂本[やぶちゃん注:葵区口坂本(くちさかもと)であろう。]と云ひて、山を越て三里餘の道なり。

 或時、腰越の人、坂本へ宿したるに、その夜、雪、ふり積れり。

 翌日、歸る途中にて、足痕(あしあと)の大きさ、三尺[やぶちゃん注:九十センチメートル。]ばかりあるを、見る。

 不思議におもひ、その先きを見れば、また、痕あり。

 その間、九尺ほどづゝにて、行々(ゆくゆく)、絕(たえ)ず。

 三里程の道に、痕、つゞきて、枝道にも、ふみ通りし痕、あり。

 又、腰越村の手前に小川あり[やぶちゃん注:この西河内川に北から合流する流れであろう。広い箇所で十三メートル、狭い所でも七メートルはある。]。

 此川を、一股に渡りしと覺しく、その川向(かはむかふ)、二、三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]にも足痕ありし。」

と。

「これを『山男』と謂ひ、稀には、その糞(ふん)を見當(みあた)ることあるに、鈴竹(すずたけ)と云ふ竹葉(たけのは)を食とするゆゑ、糞中(ふんちゆう)に竹葉あり。」

と云(いふ)。

 但(ただ)、

「右の村々は、大井川の水元(みづもと)の邊(あたり)なり。」

と。

 府の江川町(えがはちやう)[やぶちゃん注:駿府城南東の角から南南西に長く延びる静岡市葵区内の「江川町通り」に名を殘す。]三諧屋[やぶちゃん注:底本では「諧」の字の右にママ注記あり。]仁右衞門、咄したり。[やぶちゃん注:以下、ここに続く割注だが、非常に長いので、改行し、段落も成形した。]

【信州戶隱邊にても、大雨の後、山中の畑抔(など)、二、三尺計(ばかり)の足跡のあるを、度々、見る由。

 先年、九頭龍權現[やぶちゃん注:戸隠神社の九頭龍社。]へ參詣のとき、其地の農夫より承る。

 又、豐後國の髙田は、嶋原領にて、船附(ふなつ)きなり。其處の川の向(むかひ)へ鎭守尾玉(をたま)若宮大明神[やぶちゃん注:桂川右岸直近の大分県豊後高田市是永町(これながまち)にある若宮八幡神社か。参道に指定有形文化財の小型の太鼓橋である江戸時代の「石造橋(せきぞうばし)」があるが、この後に言う「橋」は少し下流の桂川に架橋された「御玉橋」であろう。本文に「尾玉」とあるのと親和性があり、同神社には玉祖命(たまのおやのみこと)が配祀されている。高田市の真玉地区は少し東北の離れた地区で、「真玉(またま)八幡神社」や「真玉社」などがあるが、どうも若宮八幡神社の方が個々の同定では分があるように思われる。]と云(いふ)あり。その明神の社迄は、三町[やぶちゃん注:三百二十七メートル。以下の「橋」を「御玉(おたま)橋」とするなら、橋の西詰から図って、丁度、三百三十メートルある。]ばかりあつて、松林なり。

 或る暗夜(やみよ)に、挑燈をつけ、橋を渡り行(ゆか)んとするとき、俄(にはか)に、惣身(そうみ)、痺(しび)れて、一向、步行ならず。

 又、其夜は、風、强く、挑燈も、吹き𢌞されて、道の脇へ寄りて居(を)ると、やがて向うの向(むかひ)の方より、

「どしどし」

と足音するゆゑ、見るに、長(た)ケ二丈[やぶちゃん注:約六メートル。]許(ばかり)もある、山伏か、坊主か、見定め難きもの、其人の脇、通り、橋の方へ行く。

 これより、だんだん、身の痺れも緩みたるゆゑ、その『宅へ歸らん。』と思へども、その方へは、大人《おほひと》の行(ゆき)たるゆゑ、別路(べつろ)なる花屋[やぶちゃん注:不詳。「ひなたGIS」の戦前の地図を見たが、見当たらない。]へ、やうやう奔(はし)り附けて、内の人を呼び起したる迄は覺(おぼえ)たれども、夫より、氣(き)、絕(たえ)たり。

 是にて、人々、騷ぎ立たる中(うち)に、漸々(やうやう)氣も附きたり、と。

 これも、かの「山男」の全身を見しならん。

 右一條は、駿府の禪宗顯光寺と云(いふ)三十石御朱印地の和尙、十五歲のとき、目擊せしのことゝ云(いふ)。この僧、今[やぶちゃん注:文政六(一八二三)年。]存す。年六十八。】。[やぶちゃん注:「駿府の禪宗顯光寺」静岡県掛川市居尻(いじり)の、大尾山(おびさん)山頂直下にある真言宗醍醐派大尾山(おびさん)顕光寺。]

2024/01/17

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山男」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 山男【やまおとこ】 〔譚海巻九〕相州箱根に山男と云ふもの有り。裸体にして木葉樹皮を衣とし、深山中に住みて赤腹魚をとる事を業とす。市の有る日を知りて、里人へ持ち来りて米にかふるなり。人馴れてあやしむ事なし。交易の外多言する事なし。用事終ればさる。跡を認めてうかがひし人有りけれども、絶壁の道もなき所を鳥の飛ぶ如くにさる故、つひに住所を知りたる事なしとぞ。小田原の城主よりも、人に害をなすものにあらねば、かならず鉄砲などにてうつ事なかれと、制せられたる故に、あへておどろかす事なしといへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷九 相州箱根山男の事(フライング公開)」を公開しておいた。これは、以前に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山人の市に通ふこと』で電子化注してあるので、そちらも見られたい。]

譚海 卷之九 相州箱根山男の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○相州箱根に山男と云ふもの有(あり)。

 裸體にして、木葉・樹皮を衣とし、深山中に住みて、赤腹魚をとる事を業(なりはひ)とす。

 市(いち)の有(ある)日を知りて、里人へ持來りて、米にかふるなり。

 人、馴れて、あやしむ事、なし。交易の外、多言する事、なし。用事、終れば、さる。

 跡を認(したため)て、うかがひし人、有(あり)けれども、絕壁の道もなき所を、鳥の飛(とぶ)如くにさる故、つひに、住所(すむところ)を知りたる事、なし、とぞ。

 小田原の城主よりも、人に害をなすものにあらねば、

「かならず、鐵炮などにて、うつ事なかれ。」

と、制せられたる故に、あへて、おどろかす事、なし、と、いへり。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「山姥」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 因みに、ブログ・カテゴリ「柴田宵曲」1,000件に近づいてしまった。本ブログのカテゴリ内バック・ナンバーは1,000件までしか表示されないため、ブログ・カテゴリ「柴田宵曲Ⅱ」新規作成して、現在の柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の作業を続ける。その第一投稿がこれとなる。私は「随筆辞典 奇談異聞篇」終了しても、後、少なくとも、柴田の俳諧関連随筆を電子化する予定であるからでもある。

 

 山姥【やまうば】 〔塩尻巻九十二〕癸卯秋の頃尾城北小木村(春日井郡)<現在の愛知県小牧市内か>の民《たみ》語りし。十八年前、処民《ところのたみ》の妻産して後《のち》心みだれ、迷ひ出《いで》て行方《ゆくへ》なくうせしか[やぶちゃん注:ママ。後掲活字本も同じだが、これは著者の「が」の誤記であろう。]、この秋家に帰る。そのさま裸にして草葉を腰にまとひ、髪赤くつくも[やぶちゃん注:「九十九髮」。老女の髪(通常は白髪を指す)。]の如く、眼《まなこ》大に身《み》骨立《ほねだ》ちてすさまじき姿なり。久しく家を離れしか[やぶちゃん注:ここもママ。或いは、著者は「が」の濁音がお嫌いなのかもしれない。]、さるにても恋しく帰り侍るよしといへど、夫も興さめ物おそろしく家にもあられず、逃げ出《いで》て友なる者の処へ行き、しかじかと語る。これを聞きて一村の者集り見る。とかく家には叶ふまじ、出でゆけといふに、女は打うらみ、我むかし家を出《いで》し後、夢のごとくうかれ、山に入りてけふまで有りし、つれなくいとへる[やぶちゃん注:「厭える」。]口惜《くちを》し、いかでかゝる所に有るべきとて、走り出《いだ》し路《みち》に猟師の居《をり》しが、そのさま異にしていぶせかりしかば、銕砲《てつぱう》を以て打殺すべしとて、煙薬《えんやく》[やぶちゃん注:「火藥」に同じ。]取出《とりいだ》すを、女《をんな》風のごとく馳せ来り、猟師が手をとらへ、我を殺すべきしたくこさんなれ[やぶちゃん注:ママ。やはり、著者は濁音が好きでないと断定する。]、我はこの里何某が妻なり、かゝる事にて出しが、家に帰りしをいぶかり追出せしとて始終を語り、たとひ銃火猛なりとも、豈我死すべきや、これを見よ、先に銃丸にあたりし跡なりとて、胸を開き見するに、黒点数多《あまた》あり。猟師云ふ、いづくに住み何をか食せる、多くの年月を過ぎしも疑はしといふに、女云ふ、我うかれ出し後は、うつゝなく山より山に入りしに、人心地付きて物ほしかりしかば、蟲をとらへ喰ひしが、事足らぬ様に覚えしかば、狐狸見るに随ひとらへ引さき食とせし、力つきて寒きとも物ほしきとも思はず、月日を山上谷下《やまうへたにした》に送ると云ふ。猟師さればこそ妖魅《えうみ》のおそろしき者なりとおもひしかば、急ぎ立去りかへり見れば、髪空たちてはしる事獣《けだもの》のごとく山に分け入りし。所にはそれが妻こそ山姥《やむば》になりしと雷同して語るといふ。嗚呼《ああ》さらぬだに罪深き女の生きながら毛ものの類《るゐ》となりしは、如何なる過去世の業報《がふほう》にやと、聞くさへ浅まし。

[やぶちゃん注:「塩尻」「鼬の火柱」で既出既注国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(左ページ上段最初から)で正字で視認出来る。

「山姥」私のものでは、「老媼茶話巻之五 山姥の髢(カモジ)」の私の注が、一番、宜しいと思う。他に『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 山姥奇聞』もあるのだが、これは、内容がフラットな解説ではなく、柳田特有の癖で、自分の好きなフィールドに引き込んで語っているために、どうも妙な違和感がある。「山姥」の総論的内容を期待すると、失望するので、ご注意あれかし。

「癸卯秋の頃」以上は、この原本の終りの方に出る。作者である江戸前期の尾張藩士で国学者であった天野信景は享保一八(一七三三)年没しており、そこに近い「癸卯(みづのとう/きぼう)は乾元二・嘉元元年(一三〇三年)である。

「尾城北小木村(春日井郡)」「現在の愛知県小牧市内か」

「十八年前」前注から、本怪奇談部分の時制は享保五(一七二〇)年となる。]

ブログ・カテゴリ「柴田宵曲Ⅱ」新規作成(カテゴリ内バック・ナンバーは1,000件までしか表示されないため)

本ブログのカテゴリ内バック・ナンバーは1,000件までしか表示されないため、ブログ・カテゴリ「柴田宵曲Ⅱ」新規作成して、現在の柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」の作業を続ける。私は「随筆辞典 奇談異聞篇」終了しても、後、少なくとも、柴田の俳諧関連随筆を電子化する予定であるからでもある。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜発の怨霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜発の怨霊【やほつのおんりょう】 夜発は賤娼 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻一〕聖堂の儒生にて今は高松家へ勤仕《きんし》せる、苗字は忘れ侍る佐助といへる者、壮年の時深川辺へ講釈に行きて帰る時、日も黄昏に及びし故、その家に帰らんも路遠しとて、仲町の茶屋に泊り、妓女を揚げて遊びける。この仲町・土橋は妓女多く繁昌しける。さて夜《よる》深更に及び、二階下にて頻りに念仏など申しけるに、階子を上《のぼ》る音聞えしが、佐助が臥《ふ》しゝ座敷の障子外《しやうじそと》を通るものあり。頻りに恐ろしくなりて、障子の透間より覗き見れば、髪ふり乱したる女の両手を血に染めて通りけるが、絶え入る程に恐ろしく、やがて※(よぎ)[やぶちゃん注:「※」=「衤」+「廣」。]引冠《ひつがぶ》り臥し、物音静まりし故、ひとつに臥したりし妓女に、かゝる事の有りしと語りければ、さればとよ、この家の主《あるじ》はその昔夜発の親分をなし、大勢抱へ置きし内、壱人の夜発《やほつ》病身にて、一日勤めては十日も臥《ふせ》りけるを、親分憤り度々折檻を加へけるが、妻は少し慈悲心も有りしや、右折檻の度々、彼が病身の訳を言ひて宥《なだ》めしに、或時夫殊の外憤り、右夜発を折檻しけるを、例の通り女房取押へ宥めけるを、弥〻《いよいよ》憤りて脇差を抜きてその妻に切掛けしを、右夜発両手にて白刃《はくじん》をとらえ支《ささ》へける故、手の指残らず切れ落ちて、その後右疵にて墓《はか》なくなりしが、今に右亡霊や、夜々《よよ》に出《いで》てあの通りなり。かゝる故に客も日々に疎く候と咄しけるが、夜明けて暇《いとま》を乞ひ帰りし由。その後《のち》幾程もなく右茶屋の前を通りしに、跡絶えて今は右家も見えずとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 怨念無之共極がたき事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屋の棟の人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屋の棟の人【やのむねのひと】 〔甲子夜話巻二〕一両年前か、下谷新寺町なる松前氏の邸《やしき》の辺を月夜にとほりたる人の(その名今忘)見たると聞きしは、夜半過るとも覚しきに、彼《かの》邸の屋上に棟に跨《またが》り居《を》る人あり。怪しみ見れば、烏帽子を戴き浄衣《じやうえ》を著て風詠《ふうえい》して居たり。月いと晴れたればよく見えたるとなり。その後も度々この如き人の、彼《か》の屋上に居《をり》たるを見しと云ひしことは聞きたり。然るを去年冬、松前の旧領蝦夷迄を、官より返し給はりける。因《よつ》て人言へるは、この怪と見しは摩多羅神《またらしん》の現ぜしなるべし。その故はこの神は神祖<徳川家康>殊に御信仰の神にして、その像の所伝有るもの、浄衣鳥帽子の体《てい》なり。また奈何にして彼の邸に出現せしと云ふに、松前氏先領御取上の後、悉く神祖の御垂跡《ごすいじやく》を崇敬して、代参遙拝怠りなかりしその御祐《おたすけ》にや、本領に復せり。因て彼の異形《いぎやう》の者は、神祖常に奉崇せられし摩多羅神の出現して、加護ありしならんなど云ふ。近頃また聞く。船橋に鎮座ある神祖の御宮に、二百石の知行を永代寄附せしと云ふ。また奇異符合の談もあるなり。(文政壬午春記)

[やぶちゃん注:私のルテーィンの「甲子夜話卷之三 26 摩多羅神のこと幷松前氏神祖を奉崇の事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屋根舟漂流」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屋根舟漂流【やねぶねひょうりゅう】 〔甲子夜話巻二〕或人云ふ。某《それがし》壮年の頃、輪王寺宮<東京都上野公園内にある東叡山輪王寺の法親王の称号>の近習を勤めたりしが、同僚と俱に乗ㇾ舟て深川の妓楼に遊ぶ。折ふし雪降いでて止まざりければ、隅田の雪望(ゆきみ)せんとて、妓二三を携へ舟を発す。横渠《よこぼり》を過ぎて大川に出で、流れに斥(さかのぼ)つて行く。時に雪ますます降りたれば、屋根舟の蔀(しとみ)を下《おろ》し、絃歌し或ひは拳《けん》を闘はし、種々の興飲《きやういん》するに、隅田に抵(いた)ること遅く覚えたれば、一人ふと蔀を揚げたるに、一孤舟渺茫(べうばう)たる海中に在り。いづれの処を弁ぜず。舟中の人驚駭(きやうがい)失色し、妓は号泣す。舡人(こうじん)[やぶちゃん注:「舟人(ふなびと)」に同じ。船頭。]はいかにと見るに、雪にこゞえ水に溺れたりと覚えて在《あ》らず。皆ますます駭きて為ん方を知らず。然れども止むべきにあらざれば、人々互に櫓を揺(うごか)し、千辛万苦してやうやく岸に著くことを得たり。これ舷人溺死して舟自ら北風に吹かれ、退潮《ひきしほ》に引かれて品川の海上に出《いで》たりしなり。著岸《ちやくがん》せしは行徳《ぎやうとく》の地なりと。笑ふべく懼(おそ)るべきの話なり。

[やぶちゃん注:私のルーティンの「甲子夜話卷之二 53 深川の妓樓に往し舟、品海に漂出る事  ~ 甲子夜話卷之二 了」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「宿なし狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 宿なし狐【やどなしぎつね】 〔兎園小説第八集〕文化六巳年の冬、加賀の備後守殿の留守居役に、出淵忠左衛門といへる人あり。ある夜の夢に、一疋の狐来りて、忠左衛門の前にひざまづきいふやう、わたくし事は、本郷四丁目<東京都文京区内>椛屋《かうぢや》の裏なる稲荷の倅《せがれ》なれども、いさゝか親のこゝろにたがひたる事のありて、この善《よき》親のもとへはかへられず。居所もこれなくいと難儀に候へば、何とも申しかねたる事には候へども、召しつかひ給ふ下女をかし給へ。しばしのうちこの事をねがひ奉る。程なく友達のものゝわびにて宿へかへるべければ、それまでの間ひとヘに願ひさぶらふ。けしてなやませもいたすまじ。また奉公の間もかゝすまじければ、許容し給ヘとなげく。忠兵衛夢にこゝろに不便《ふびん》に思ひ、なやます事もなくばかしつかはすべしといふに、狐こよなうよろこぶと見てさめぬ。忠左衛門、いともふしぎなる夢をみし事よと思ひつゝ、翌朝起き出でて下女をみれども、常にかはりし事もなかりけるが、昼頃より俄かにこの下女はたらき出だして、水を汲み真木《まき》をわり、飯をたき、常には出来かねし針わざまでなす。毎日かくのごとく、一人にて五人前ほどのわざをなし、あるひは晴天にても、けふは何時《なんどき》より雨ふり出だすべしとて、主人の他出の節は雨具を用意させ、後ほどは何方《いづかた》より客人ありなど、そのいふ事、いさゝか違《たが》ふことなく、その外万事、この女のいふごとくにて、大いに家内の益になることのみなれば、何とぞいつまでも、この狐立ち退かざるやうにしたきものなりとて、そのころあるじ直《ぢき》の物語なるよし、このあるじと懇意なる五祐《ごすけ》といふもの物がたりき。

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 狐囑の幸』を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屋敷町の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屋敷町の怪【やしきまちのかい】 〔続蓬窻夜話〕紀州の城下に宇野仙庵といへる外科《ぐわいれう》の医あり。或る夜宇治辺の諸士の方へ行きて、夜深けて本町の己れが宅へ帰りけるが、近処なりければ供をも具せず。ちひさき手挑灯《てぢやうちん》を自ら提げて、何心なく帰りけるに、新道と云ふ町家の筋を東へ行き当りて、左の方へ折れ行かんとて、北の方を屹《きつ》と見たれば、小笠原氏と森川氏との屋敷の辺に、何かは知らず、高さ三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]ほどに横の間半(まなか)[やぶちゃん注:前の「高さ」の「三間」の半分の意であろうから、二・七三メートル。]も有るらんと覚ゆる物の、路の真ン中にすつくりと立ちて見えたり。その様《さま》大木の茂りたる如くなり。宇野氏何となく身の毛竪(たち)てぞつとしけるが、日頃は有りとも覚えぬ大木の路の真ン中に有るべ様《やう》なし。何様《いかさま》これは吾が目のあしくて、挑灯の光に物影がうつろひ、かゝる怪しき物の見ゆるにやと思ひて、挑灯を後(うしろ)の方《かた》へ廻し、光を隠してすかし見るに、形は何とも見分けず。只ぬつぽりとして鼠色なる物の動き行くとぞ見えし。仙庵頻りに身の毛竪《たち》て気味あしく覚えけれども、今通り行くべき路なれば、何にもせよ様子を見ずしておかんも残り多しと思ひて、そろそろと歩み近づけば、かの物も吾が行くに随《したがひ》てそろそろと動き行けるほどに跡について物をも言はず、地に躋(ぬきあし)して従ひ行けば、彼の物漸々に薄くなりもてゆきて、軈《やが》て本町へ出づべき前の四ツ辻にて、忽ち消えて見えざりけり。狸などの所為にや有りけんと、仙庵後に人々に語りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。

「宇治」現在の和歌山県和歌山市宇治藪下か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「本町」和歌山市本町(ほんまち)。

「新道」和歌山市鷺ノ森新道(さぎのもりしんみち)があるが、ここか。本町通りの西直近にある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屋敷の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屋敷の怪【やしきのかい】 〔耳囊巻二〕黒田の奥に勤めし女、桂木某の妻となりしが、黒田の屋敷にも、色々怪有《ある》事あり。広き住居なれば、古狸の類《たぎひ》のなす事ならんと思へば、強て恐るゝ事もなし。雨の降りし日、通ふ道に生首などある事あり。怪しきと思はず立よりぬれば、行方なく失せぬるよし、植木が同役咄しける。

[やぶちゃん注:私のものは底本違いで、「耳嚢 巻之九 女豪傑の事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夜光珠」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夜光珠【やこうしゅ】 〔譚海巻四〕同国<下総>相馬郡山王村<茨城県取手市内>といふ所に、三左衛門といふものの弟、庄兵衛といふもの有り。白玉をひろひて、今は弁天信仰なれば、本尊に合祀して秘蔵して伝へたり。元来この玉、天明それそれの年の夜、光り物ありてこの村を照し過ぎたる跡に落し置きた玉なり。人家の垣の境に落ちたる折節、その一方の主人病める事有りて、かやうの物祟りをなす、よからぬ事なりとて、垣の境なれば隣のものよとて、隣なる人へ譲りわたしたるに、その隣家の人、恐れおどろきて我物とせず。さる間にこの庄兵衛行きあひて、然らば我等にその玉給へとて、貰ひ来りて祀れるなり。玉の大きさ一寸ばかりにして、かしらはとがりて誠に宝珠の図の如く、色いとしろし。夜陰に書一くだりをば、よくてらしみらること燈をかる事なしとぞ。

[やぶちゃん注:私のルーティンの「譚海 卷之四 同國相馬郡山王村にて白玉を得し事」を参照されたい。なお、これは、「柴田宵曲 妖異博物館 夜光珠」でも紹介されている。]

 〔煙霞綺談巻二〕遠江国豊田《とよだ》郡百古里(すかり)村といふ所の民家の女、菜畠《なはたけ》に出て摘みけるに、何となく夕日映じて、そこら輝く様なる所あり。取てかへり畑《はた》の畦(くろ)一二寸土を穿ち見るに、卵ほどなる美しき石あり。取てかへり夫《をつと》に見せて席上《せきじやう》に置き、兎角して日も暮れたり。一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり近所の藪陰に医師の家あり。不斗《ふと》爰に来りいふ。吾居家(わがきよか)よりこの家内《いへうち》を見るに、燈《ともしび》いまだ挑げざるに甚だ光明《くわうみやう》あり、いかなる故かあると尋ねければ、向(さき)にかくのごとくの石を拾ひて、愚意《ぐい》に及ばず、怪しみ評《ひやう》するうちに、暮に至れども灯《ひ》を忘れて闇《あん》をしらず。この石の光るなりと見せければ、医頻りに所望して、巾著《きんちやく》に有りあふ金百疋を抛出《なげいだ》して、玉を持ち還る。夫婦は思ひよらぬ金を得て、悦ぶことかぎりなし。時に翌日の夜半、かの医家《いか》に出火ありて、諸道具丸焼になり、その玉も失ひける。これを聞きたる近里《きんり》の者評して曰く、伝へきく、夜光の玉《たま》にて俚民の家に止《とどま》らず、その玉の威に圧《お》されて、かゝる火難に遭ひけるにや。また雷珠《らいしゆ》とは火精《くわせい》の凝りたるものなれば、かの珠《たま》より火出《いで》たるや。いづれ不測《ふしぎ》の事なり。元文のころの事なりとかや。

 また同じころ、駿河国伊久美(いくみ)といふ山里の農人《のうにん》、ある時沢辺《さはへ》にて美しき石を拾ふ。これも鶏卵ほどあり。片鄙《へんぴ》の夫《ふ》なれば、何といふものと人に見する心もなく、煤《すす》びたる持払の笥(づし)に入れ置きたり。夜《よる》はひかりありて燈明《とうみやう》のごとくなれば、唯よきものとばかり心得て、近所の人とても何心もなく不思議ともせず。ある時その村の長地頭(をさぢとう)へ所用ありて出けるに、四方山話(よもやま《ばなし》)の序(ついで)に、この石の事を語り、下役人聞きて、かさねて用事の序に持ち来れと云ひ含めければ、安々と請合ひて、程なくこの石を借り来りて下司(げし)に渡す。下司は玉を得て大いによろこび、重ねて返すべし、先づしばらくあづかるなりとて長を返し、その後《のち》二度《ふたたび》この玉の事を云はず。片山里《かたやまさと》の長なれば、役人の威に恐懼《きようく》して、この方《はう》よりも問はずなりぬ。

[やぶちゃん注:以下、一段は全体が一字下げで、ポイントも、やや小さい。]

按ずるに名珠名玉《めいしゆめいぎよく》は、貴人高位の徳を感じて出生《しゆつしやう》するならんか。前段の火災の時、この玉飛行《ひぎやう》して駿河山中に至り、またその地頭の下司の手より高位の方へ飛ぶなるべし。

[やぶちゃん注:「煙霞綺談」「池の満干」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』卷二(昭和二(一九二七)年日本隨筆大成刊行会刊)のここで正字で視認出来る(右ページ後ろから五行目)。多くのルビがあるので、積極的にそれを参考にした(但し、歴史的仮名遣の誤りが多い)。

「遠江国豊田郡百古里(すかり)村」現在の静岡県浜松市天竜区横川(よこかわ)地区を貫流する川の名が「百古里川」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。但し、現行の読みは「すがりがわ」である。

「駿河国伊久美(いくみ)」静岡県志太郡にあった伊久美村。現在は島田市伊久美

「長地頭(をさぢとう)」公式な役名ではない。複数の村長(むらおさ)を統括する総元締の村長か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疫神同道」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 疫神同道【やくじんどうどう】 〔宮川舎漫筆巻三〕嘉永元申年の夏より秋に至り、疫病大いに流行なりし処、爰に不思議の一話あり。浅草辺の老女(名を失念)或時物貰ひ体《てい》の女と道連れになりし処、彼女いふ。私事三四日も給(たべ)申さず、甚だ飢におよび申候、何とも願ひ兼ね候へども、一飯御振舞の程願ふといふ。老女答へて、それは気の毒なれども、折悪しく持合せ無ㇾ之、しかし蕎麦位の貯へはあるべし、そばをふるまひ申すべしとて、蕎麦二椀たべさせける。彼女、大きに歓び、礼を述べ別れしが、亦々呼びかけ、さて何がな御礼致すべしとぞんじ候へども、差当り何も無ㇾ之、右御礼には我等身分御噺し申すべし、我等儀は疫神に候、若し疫病煩ひ候はゞ、早速鯲(どぜう)を食し給へ、速かに本復いたすべしと教へ別れけるよし。右は予<宮川政運>友松井子の噺なり。この趣と同断の事あり。予実父若かりし時、石原町に播磨屋惣七とて、津軽侯の人足の口入(くちいれ)なりしが、両国より帰りがけ、一人の男来り声をかけ、いづれの方へ参られ候やと問ふ。我等は石原の方へ帰るものなりといへば、左候はゞ何卒私義御同道下されかし、私義は犬を嫌ひ候ゆゑ、御召連れ下されといふ。それなれば我と一所に来れよと同道いたし、石原町入川の処にて右の男、さてさてありがたくぞんじ候、私義はこの御屋敷へ参り候、(向坂といへる御旗本にて千二百石、今は屋敷替に相成)さて申上候、私義は疫神に候、御礼には疫病神入り申さゞる致方を申上べく候、月々三日に小豆の粥を焚き候宅へは、私仲間一統這入り申さず候間、これを御礼に申上候といひて、形ちは消失(きえうせ)けるぞふしぎなれ、その日より向坂屋敷中疫病と相成候よし。予が実父へ播磨屋の直ばなしなり。右ゆゑ予が方にても、今に三日には小豆粥致し候。

[やぶちゃん注:前回分の私の注で電子化済み。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疫神退散」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 疫神退散【やくじんたいさん】 〔宮川舎漫筆巻二〕怪力乱神を語らずといへども、眼前の事ゆゑしるす。于時(ときに)天保八酉年二月下旬の事なりし。予<宮川政達>次女の乳母なるもの、日暮方《ひくれがた》俄かに寒気立《さむけだ》ち、夜著《よぎ》引《ひき》かぶり打伏《うちふ》せし処、翌朝《よくてう》申しけるは、さても不思議の事の候、昨夜より私《わたくし》枕元に風呂敷包を背負ひ、いやなる男《をとこ》来り、その男がいはく、我この家へ来りし処、爰には居《ゐ》られず。今立去るなり、その方事《こと》我と一処に来れ、連れて行かんと度々申候由、それは全く熱にて種々の事ども見ゆるものなりといへども、今以て私側《わたくしそば》に居《を》り候よし、これ世にいふ疫神《えきじん》にもやとおもひしまま、種々《しゆじゆ》貴《たふと》き御札、且また予が実家方《がた》に菅神《すがじん》[やぶちゃん注:天神。菅原道真。]の真筆持伝《もちつた》へ有りし故、右の御筆を枕元に掛けし処、殊の外恐怖し、しばらく有りて乳母がいふ。最早よろしく、彼《かれ》只今立去りしというて全快となるこそ不思議なれ。その日は上野山内《さんない》の稲荷の祭礼なれば、我等忰《せがれ》を召つれ参詣なせし処、山内より我等しきりに左の歯痛みいだし堪へがたく、漸《やうや》う戻りしが、不思議なる哉、今迄痛みし歯拭《ぬぐ》うて取りしごとく愈《なほ》りし処、またまた乳母前の如く寒気強く、堪へがたし堪へがたしといへるに、我等屹度《きつと》心づき、またもや疫神ならめ、よしよし仕方こそあれと、一刀《いつたう》をぬき放し(我持伝の刀、銘国久)咎(とが)もなき女を斯く迄悩ます事、その謂《いは》れなしと、むね打《うち》に打居《うちすゑ》し処、彼大きに恐れ、直様《すぐさま》立去り候よし答へけるにぞ、たゝみかけ立去るべしと責めければ、彼がいふ、どうぞ下の障子おあけ下さるべしといへるに任せ、障子を開(あけ)し処、障子の所にてどうと倒れしが、そのまゝ起《おき》あがり、もはや宜しく候、早く塩はらひ、また箒《はふき》にて跡を掃き清め給へといふ。それより正気とはなりぬ。かの男申しけるは、先刻爰を立さりて、いまだ行くべき方《かた》もなき所、上野山内にてこゝの主人に逢ひしまゝ、主人の左の肩に乗りて来りし処、あの刃物《はもの》の恐ろしき儘立さるなり、我立去りし跡を、直(すぐ)さま塩はらひ箒にて掃き清むべし、先刻去りし時、右の清めなどせしなば戻りはせじと申しけるよし、いと奇ならずや。妙ならずや。且この家には居られずと云ひし事は、後章《こうしやう》にも記すごとく、全く月々三日小豆粥《あづきがゆ》焚《た》くゆゑなるべしと思はれける。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『刀(かたな)の德(とく)』。一部の読みを参考にした(但し、ルビは歴史的仮名遣の誤りが多い)。なお、この「後章」というのは、「卷之三」の『疫神(やくじん)』を指す。以下に電子化する。句読点を追加した。読みは一部のみ採用した。

   *

   ○疫 神(やくじん)

◀嘉永元申年[やぶちゃん注:一八四八年。]の夏より秋に至り、疫病、大に流行なりし處、爰に不思議の一話あり。淺草邊の老女【名は失念。】、或時、物貰體(ものもらいてい)の女と道連(みちづれ)になりし處、彼女いふ、私事三四日何も給(たべ)申さず、甚だ飢におよび申侯。何とも願兼候得ども、一飯、御振舞の程、願(ねがふ)といふ。老女答(こたへて)、夫(それ)は氣の毒なれども、折惡敷(あしく)持合せ無之。しかし蕎麥(そば)位の貯(たくはへ)はあるべし。そばをふるまい申べしとて、蕎麥二椀たべさせける。彼女、大きに歡び、禮を述(のべ)、別れしが、亦〻呼かけ、扨、何がな、御禮致べしとぞんじ侯得共、差當り何も無之、右御禮には我等身分御噺(はなし)申べし。我等義は、疫神(やくじん)に候。若(もし)疫病煩候はゞ、早速鯲(どぜう)を食し給へ。速(すみやか)に本復(ほんぶく)いたすべしと、敎へ別れける、よし。右は、予、友、松井子の噺なり。この趣(おもむき)と同譚(どうだん)の事あり。予、實父、若かりし時、石原町に播磨屋惣七とて、津輕侯の人足の口入[やぶちゃん注:「くちいれ」。斡旋業者。]なりしが、兩國より歸りがけ、一人の男、來り、聲をかけ、いづれの方え[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]參られ候哉と問、惣七、答て、我等は石原の方え歸るものなりといえば、左候はゞ、何卒私儀(わたくしぎ)御同道下されかし。私儀は、犬を嫌ひ候故、御召連下されといふ。それなれば我と一所に來れよと同道いたし、石原町入川[やぶちゃん注:「いりかは」であろう。人文学オープンデータ共同利用センター」の「位置合わせ地図」でここ。石原町の南(切絵図では下方)に隅田川から入る細い流れがある。ここであろう。現在の横網二丁目である。]の處にて、右の男、扨々、ありがたくぞんじ候。私義は此御屋敷え參り候【向坂[やぶちゃん注:「さきさか」であろう。]といへる御簱本にて千二百石。今は屋敷替に相成候。】。扨申上候。私義[やぶちゃん注:ママ。]は疫神に候。御禮には疫病(やくびやう)神入[やぶちゃん注:「しんにいれ」。]申さゞる致方を可申上候。月々、三日に、小豆の粥を焚(たき)候宅(たく)えは、私仲間、一統(いつとう)、這入(はいり)申さず候間、是を御禮に申上候といひて、形ちは消失(きへうせ[やぶちゃん注:ママ。])けるぞ、ふしぎなれ。其日より、向坂屋敷中、疫病と相成候よし。予が實父え、播磨屋の直(すぐ)ばなしなり。右故、予が方にても、今に、三日には、小豆粥致し候。此儀に付ては、我等方にても、疫病神をのがれし奇談あり。二の卷にしるしおくゆえ[やぶちゃん注:ママ。]、こゝに略す。

   *

なお、実は、本篇と以上の話は、「柴田宵曲 妖異博物館 道連れ」で、一度、電子化しているが、仕切り直して、再度、電子化した。

「怪力乱神を語らず」知られた「論語」の「述而」篇の孔子の言葉。「子、不語怪力亂神」(子、怪・力(りよく)・亂・神を語らず)。「力」は「腕力・暴力沙汰・武勇」、「亂」は「醜聞・乱倫・背徳」、「神」は「超自然の人智で説明出来ない霊的現象」。しかし、孔子が、かく言わねばならなかったほどに、中国人は怪奇異聞が好きだったことを逆に示唆していると言えるのである。

「天保八酉年二月下旬」グレゴリオ暦では、一八三七年三月十四日から同二十五日に当たる。

「国久」(生没年未詳)は南北朝時代の刀工。正慶年間(一三三二年から一三三四年)頃に活躍。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疫鬼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 疫鬼【やくき】 〔笈埃随筆巻六〕洛北一乗寺村<京都市左京区内>金福禅寺《こんぷくぜんじ》の住僧松宗《しようそう》の語られけるは、先年備後国三好鳳源寺にて愚極和尚を招き請ぜり。愚極は梵網経開板の智識なり。則ち結夏(けつげ)あり。松宗壮年の頃にてこの会坐《ゑざ》に連なり、衆僧と俱に禅堂に入りて結珈趺坐し居《ゐ》たり。衆僧も昼夜の動行につかれ、膝突《ひざつき》にふらふらと眠りぬ。然るに松宗ふと頭をもたげ見れば、垂れたる帷幕《ゐばく》を押上げて、堂内を見廻し見廻しするもの有り。無礼なる奴かなと見留《みとむ》れば、八十ばかりの老人顔色青ざめ、至極痩せ衰へ、白髪ふり乱し、白髭たれたるは、世にいふ貧乏神ともいふべき浅ましき様《さま》にて、そゞろに物凄く覚ゆる程なり。この者そろそろと結界を越えて、堂内に入らんとする気色なれば、松宗物をもいはず、つかつかと走り行きて押出《おしいだ》すに、彼者は是非入らんとするを、力にまかせて押出せば、拍子につれて礑(はた)と転びたる音して、その後は見えずなりぬ。静かに座に帰り、また元の如く胡坐せり。怪しく思ひながら人にも語らざりけるは、その夜村の者来りて咄すやう、近在近郷に疫病流行し、村毎に過半病死す。忝《かたじめな》くもこの寺に大法会あるゆゑにや、この村に壱人も病者なしと語る。爰に於て松宗、さても今日かやうかやうの事ありし、村里に見ぬ怪しき者来《きた》れり、これやかの疫病神てふものかはといふ。一座さにこそあらんと、いよいよ修行怠慢なかりしかば、衆僧三百余人より下部《しもべ》に至るまで、村を限り病者無かりしとなり。

 また日州飫肥(おび)の府報恩寺滄海和尚(今在京)に弟子たる豊蔵主(はうざうす)といふあり。今より以前諸国遍参し、白隠和尚に随従し、祖師西来の法味に飽き、臨済正宗の伝旨に酔ひて、直指《ぢきし》の塩梅《あんばい》を調和す。常に酒を嗜み、気機虎を打つの勇あり。弱きを助け剛《かふ》を押《おさ》ふの俠志《きやうし》なれば、下愚《げぐ》を恵みて権柄《けんぺい》に屈せず。貴族を螺臝(らえい)のごとく見ければ、自ら人の訪ふ事稀なりしかば、門を設けたれども常に閉ぢぬ。この僧下野国那須<栃木県那須>香厳寺といふに結制あり。数百の緇徒(しと)群参せる中に、奥州三春城下高乾院の弟子暁《げう》首座といヘると、殊に知己なりしかば、或時同伴し上方ヘ登らんと、既に遠州浜松ににさしかゝる。並木の向うより数多《あまた》弟子を召連れたる老和尚の、その長《たけ》六尺有余なるが、赤き衣を著し、左に赤木の錫杖を突き、右に払子を携へ、威風凛々《りんりん》と歩み来る。その容貌常ならず、いと尊《たつと》く覚えければ、傍《かたはら》に両僧退《しりぞ》きて拝揖《はいゆう》す。大和尚も答礼し、つかつかと面前に来り言つて曰く、生死《しやうじ》到来の時如何《いかん》と。豊首座言下に答へて、我《われ》這裏《しやり》生死《しやうじ》なしと。時に彼老和尚顔色忽ち夜叉のごとく、朱を澆(そゝ)ぎたる眼《まなこ》をいらゝげ、一《いつ》の箱をさし示して、これでも生死なきかといふ。豊首座、箱の中を見れば、只今切《きつ》たる生首一つあり。その臭気鼻を穿ちて堪へ難く、面《おもて》を向け兼ねたれども、猶強く大声して、それでもなしなしと拳《こぶし》をあげて、かの箱を打《うつ》てうち砕くばかり勢ひ込んで、只それでもなしといふのみ。忽然と一陣の夢にして、松原もなく老僧と見しも跡なく消えて、七月廿四日下野国香厳寺の庫裏《くり》なりし。蔵主茫然とあきれて左右を見れば、数千の僧徒取廻し居たりしかば、衆僧へその故を問はれければ、只それでもなしなしと罵りて、板の間を荒くたゝき、狂ひける様子なりし。いかにと問ふに、正しく夢中の事とはおもはざりしが、斯々《かくかく》と始終を語りけり。衆僧も怪しみ驚き、則答を甘心しぬ。夢覚めて後《のち》といへども、生首の臭気は鼻に絶えず。飯に付けばいよいよ甚しく、三日の程は止まざりけり。爰に不思議なりしは、その夜より夢中に同行せる暁首座、大熱煩悶し百日ばかり悩み、十一月にしてやうやう本復せり。これらみな疫鬼なり。

[やぶちゃん注:「笈埃随筆」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は『○疫 鬼』(標題のみ前のコマにある)。最後の以下の附説がカットされている。偈は二段組みだが、一段にした。

   *

諸書に云ふところ、我國、中華共に同說なり。彼※1※2乙の靈符に恐れて、疫邪の鬼神川を渉り得ざりしも同じか。又洞家の祖師道元禪師中華に傳法の頃、山中にて癘鬼に逢ひ給ひし時一偈あり。

    無位眞人現面門

    智惠愚痴通般若

    靈光分明輝大千

    神鬼何處著手脚

と示し給ふ。妙驗さらに疑ふべからず。今諸國此四句を門戶に貼り、或は右に云三字の靈符を書して、疫癘を避るとするも故有るかな。

   *

「※1」は「簛」の「斯」の上に「厂」を入れた字。「※2」は「※1」の「其」を「車」に代えた字(但し上記「※2」の印刷が潰れているため、所持する吉川弘文館『随筆大成』版を元にした)。霊符の呪文の文字だから、存在する字ではないようであるから、読みも不明である。因みに、この附説は、呪的な疫除けの民間伝承の具体な資料として重要であるから、宵曲がカットしたのは、私には肯んじ得ない。但し、この偈は道元の作ったものではなく、「大般若經」の一節である。

   *

無位の眞人(しんじん) 面門(めんもん)に現ず

智惠愚痴 般若に通ず

霊光 分明にして 大千(だいせん)に輝く

鬼神 何處(いづれ)の所に 手脚(しゆきゃく)を着けん

   *

ブログ「猿八座 渡部八太夫 古説経・古浄瑠璃の世界」の「忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑩」に、この部分が語られてある。以下は宝治元(一二四七)年八月のこととされ、

   《引用開始》

 鎌倉を出立した道元は、波多野出雲守の居る越前の国を目指すことにました。日数も重なり、ようやく道元は、越前の国、湯尾(ゆのお)峠(※北陸街道:福井県南条郡今庄町湯尾)に差し掛かりました。道元はここで一休みしようと、腰を下ろしました。

 すると、鬼神が現れ、道元にこう言いました。

「我々は、第六天の魔王の眷属、七千夜叉のその中で、アニラ(額爾羅)神、マコラ(摩虎羅)神の大将である。(※薬師如来に従う十二神将)

 しかるに、この度、道元禅師は、疱瘡(※天然痘)を病む時節となりましたので、これより、御身体に分け入り、苦しめ申しあげます。」

道元禅師は、恐れずに、

「無位の真人、面門に現ず、智慧愚痴、般若に通ず、霊光分明にして大千に輝く、鬼神いずれの所に手脚を着けん。」(大般若経)

と、呪文を唱えると、鬼神に向かって柱杖を振り下ろしました。

 鬼神達は、たちまちに悟りを得て、頭(こうべ)をすりつけ平伏すると、

「末代に至るまで、この呪文があるところには、二度と現れません。」

と、固く約束をして、消え去ったのでした。

 越前の国、湯尾峠の茶屋で売っている「疱瘡神孫杓子」(ほうそうしんまごしゃくし)とは、この時、道元が振った杖の形に木を刻んで、この呪文を疱瘡避けの呪文として書いたものです。(※「湯尾峠孫杓子」という十返舎一九の小説がある)

   《引用終了》

とあった。

「疫鬼」疫病を流行させるという悪神。疫病神。但し、古文では「えきき」と読むのが、普通である。但し、「やくき」と読むケースもある。

「洛北一乗寺村」「京都市左京区内」「金福禅寺」臨済宗南禅寺派佛日山金福寺。ここ(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。平安時代に創建された際は天台宗であったが、後に荒廃した。元禄年間(一六八八年〜一七〇四年)になって、円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺末寺となり、臨済宗南禅寺派に改宗している。

「松宗」不詳。

「備後国三好鳳源寺」広島県三次市三次町(みよしまち)にある臨済宗妙心寺派の寺。ここ。因みに、ここ、かの「稲生物怪録」で知られる比熊山の南麓じゃあねえか!

「愚極和尚」同寺第四代住持。

「梵網経」全二巻。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳と伝えられたが、実際には、後の五世紀頃に中国国内で成立したと見られている。下巻は「十重禁戒」・「四十八軽戒」(きょうかい)を挙げて「大乗戒」(菩薩戒)を説き、戒本とされる。最澄が、これに基づいて比叡山に大乗戒壇を建てた。「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」「梵網菩薩戒経」とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。

「結夏(けつげ)」「夏安居」(げあんご:仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をした、その期間の修行を指した。多くの仏教国では、陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」(いちげくじゅん)・「一夏」、或いは、「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す)の初日で、陰暦四月十五日。「結夏」(けつげ)とも言い、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。

「日州飫肥(おび)の府報恩寺」曹洞宗の旧報恩寺。日南市内を流れる酒谷川(さかたにがわ)の右岸、飫肥城下町の外側に位置する。報恩寺は飫肥藩主伊東氏の菩提寺で,天正一六(一五八八)年に飫肥に入った初代藩主伊東祐兵(すけたけ)によって創建された臨済宗寺院であったが、明治五(一八七二)年におぞましい神仏分離令政策によって廃絶した。その後、飫肥藩士族によって板敷(いたじき)村に祀られていた伊東氏の氏神八幡社が遷され、五百禩(いおし)神社となった。

「滄海和尚(今在京)」滄海鐵龍。考槃鐵山和尚に就いて嗣法。第八十五祖。日本曹洞宗第三十五祖。

「豊蔵主(はうざうす)」不詳。「白隠和尚に随従し」たとあるから、相応の臨済僧と思われる。

「螺臝(らえい)」海産の「ウニ」を表わす語だが、「虫けら」のニュアンスであろう。

「下野国那須」「栃木県那須」「香厳寺」現在の栃木県大田原市寺宿にある臨済宗妙心寺派正覚山光嚴寺

「緇徒(しと)」僧侶。

「奥州三春城下高乾院」臨済宗安日山高乾院(こうけんいん)は江戸時代の三春藩主秋田家の菩提寺の一つ。

「暁首座」不詳。

「拝揖」「拱手」(きょうしゅ)に同じ。両手の指を胸の前で組み合わせて敬礼すること。中国の最敬礼の一つ。

「這裏」この間(かん)。この答えは禅の考案を成している。

「七月廿四日」年時制不詳。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「門跡と狐」 / 「も」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「も」の部は終わっている。]

 

 門跡と狐【もんぜきときつね】 〔甲子夜話巻四十七〕去冬《さるふゆ》京東本願寺自火《じくわ》のこと、第四十二巻に出せり。この頃京より来《こ》し人の物語りに、その火事前のことゝかや。洛外に別荘の地を見立て、門跡自身見分として越しけるが、その地に古き狐穴《きつねあな》多く有りしを、弥〻《いよいよ》別荘に経営せば穴は皆埋《うづ》むべしと決評して、帰りし途中より狐に誑《たぶらか》されて、一行の人数《にんず》残らず恍惚とし、同じ路を幾遍か往来して、夜も已に更け、遂に竹垣へ駕籠の棒を突入《つきい》れて、後へも先へも行かれず。その時門跡も従者も一同に夢の醒むる如く、初めて狐に迷はされしことを悟り、やうやうに本願寺に帰りしとなん。その後《のち》幾程もなく自火ありしかば、この火災も狐の為したることと云ふ取沙汰、京中盛《さかん》なりとぞ。昔より徳有る人の狐に憑れしことは無きことなり。かゝり事ある僧、何の貴《たふと》きことや有るべき。然るにその宗旨を奉ずる輩《やから》、尚も帰依するは如何なる心にや、咲《わら》ふべし。(林《りん》話《はなし》)

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷四十七 7 東本願寺狐誑」を公開しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷四十七 7 東本願寺狐誑

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

47―7 東本願寺狐誑(こきやう)

 去冬(さるふゆ)、京、東本願寺自火(じくわ)のこと、第四十二卷に出(いだ)せり。

 この頃、京より、來(こ)し人の物語に、その火事前のことゝかや。

 洛外に別莊の地を見立(みたて)て、門跡自身、見分として越(こ)しけるが、その地に、古き狐穴(きつねあな)、多く有りしを、

「彌(いよいよ)、別莊に經營せば、穴は、皆、埋(うづ)むべし。」

と決評(けつひやう)して、歸りし途中より、狐に誑(たぶらか)されて、一行の人數(にんず)、殘らず、恍惚とし、同じ路を、幾遍か、往來して、夜(よ)も、已に更け、遂に竹垣へ、駕籠の棒を突入(つきい)れて、後(あと)へも、先へも、行(いか)れず。

 其時、門跡も、從者も、一同に、夢の醒(さむ)る如く、初(はじめ)て、狐に迷はされしことを悟り、やうやうに本願寺に歸りし、となん。

 その後(のち)、幾程もなく、自火ありしかば、

「この火災も、狐の爲(な)したること。」

と云ふ取沙汰、京中、盛(さかん)なり、とぞ。

「昔より、德有る人の、狐に憑(つか)れしことは、無きことなり。かゝる事、ある僧、何の貴(たふと)きことや、有るべき。然(しかる)に、その宗旨を奉ずる輩(やから)、尙も、歸依するは、如何なる心にや。咲(わら)ふべし。」【林(りん)、話(はなし)。】

■やぶちゃんの呟き

「東本願寺自火」文政六(一八二三)年十一月十五日の火災。東本願寺は江戸時代に四度の火災に遭っており、その火災の多さから、「火出し本願寺」と揶揄されたが、東本願寺が火元となったのは、この一件だけである。

「第四十二卷に出せり」これは「20」の「一向宗に人心傾く事」を指す。そちらも、友人の林述斎の談話の形をとっている。この火事の際には、門徒衆の被差別民である穢多の人々が二百人余り集まって消火に当たったが、思うに任せず、猛火が襲い、その内の百人ほどは本堂とともに灰燼に帰したという記載が、目を惹くが、本話とは、直接の強い連関性を持たないので、そちらはフライング公開はしない。それにしても、林は、余程、浄土真宗、或いは東本願寺門跡がお嫌いならしい。ここまで言わんでも、という気もするがな。どうも、述斎は好きになれない。静山は、友人である彼を対等に捉え、批判はしないが、その引用には、ある種の、傍観的冷静の感があって、着かず離れず、好ましい。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「森囃」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 森囃【もりばやし】 〔諸国里人談巻二〕享保のはじめ、武州・相州の界《さかひ》、信濃坂に夜毎に囃物(はやしもの)の音あり。笛鼓《つづみ》など四五人声《ごゑ》にして、中に老人の声一人ありける。近在または江戸などより、これを聞きに行く人多し。方十町に響きて、はじめはその所しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、その村の産土神《うぶすながみ》の森の中なり。折として篝《かがり》を焚く事あり。翌日見れば、青松葉の枝燃えさして境内にあり。或ひは[やぶちゃん注:ママ。]また青竹の大きなるが長《たけ》一尺あまり、節をこめて切りたるが、森の中に捨てありける。これはかの鼓にてあるべしと、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにて、何の禍ひもなし。月を経て止まず。夏のころより秋冬かけてこの事あり。しだいしだいに間遠になり、三日五日の間、それより十日の間を隔てたり。はじめのほどは聞《きく》人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々《のちのち》は自然とおそろしくなりて、翌年春のころ、囃のある夜は、里人も門戸を閉ぢて戸出《こいで》をせず。物音も高くせざりしなり。春のすゑかた、いつとなく止みけり。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之二 森囃」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「物のうめく声」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 物のうめく声【もののうめくこえ】 〔反古のうらがき巻二〕秋の末つかた、月のいと隈なくて、いと明かなる夜、内海氏と伴ひて高田の馬場に遊び侍り。野菊の薄紫なるが、夜は白々と見えて、ところどころに咲乱れたるに、いろいろの蟲の音《ね》、こゑごゑに呼びかはしてあはれなり。すゝき尾花も風になびきて、さやさやと声すなり。宵の間はともに月をめづる人も有りけるが、夜ふくるまゝにみなかへり果て、馬場守《ばばもり》が家の燈火《ともしび》もかすかになりぬ。西の果《はて》の土手の上あたり、殊に勝れて見所多しとて、ともに腰打かけて歌よみ詩作ることもなく、おのがまにまに思ひいづることどもかたり合ひて、かへる心もなくうかれ遊びけり。予がほとり五七間[やぶちゃん注:約九メートルから十二・七三メートル。]が内とおぼしくて、物のうめくやうなる声聞えければ、あれはいかにといふ。内海氏も耳をそばたてて、さればさきよりこの声あり、いか様《さま》このあたりと思ふが、土手下あたり尋ねて見んとて、かしここゝと尋ぬるに、その声いづこともなく、遠くもなく近くもあらず聞えて、さだかにはあらざりけり。また一時もふる内に、夜はいよいよ更け渡りて、蟲の音いよいよ高く、その外四方に声なし。されどもさきの声はいよいよ高く聞えけり。さるにても怪しの声や、帰り様《ざま》その所をしらんとて、西の方一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり行きても同じやうにて、をりをり絶ゆるが如く聞ゆ。東の方は帰路に便りよければ、この方に向ひて尋ぬるに、同じやうにて、いづことも定まらず。東の果近く、駒場の中を横に過《よぎ》る路も越えて、初めて少近く聞ゆるまゝに、この方なりけると尋ぬるに、はたして東のはてより二十間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかりこなた北の方にありて、其所なり。籬《まがき》の外に立よりて聞けば、人の声も聞え、燈火もかすかに見ゆ。よくよく聞けば病人のうめくにて、看病の人の傍《かたはら》にて語り合ふもありけり。こゝにて聞くにさまで高くはなきに、二町余も隔てて同じやうに聞えしは、あたり静まりし故なるにや。さては怪しき物にてもあらざりけりとて、打連れて家に帰りける頃は、丑の刻<午前二時>にも過ぎたりける。箇様のことも、なれざることは怪しと思ふなれば、物におどろく癖ある人の言は信じがたし。

 また舟にて大洋をのるに、舟幽霊といふもの出《いづ》るといふ説、よく人のいふことなり。その形ありてひさくを乞ふ時、底なきひさくを与ふ。然らざれば水をすくひて舟に入《いる》るといふ。これは逢ふもの少《すくな》く、おほくは沖の方にて、泣き叫ぶ声哀しく、或ひは近く或ひは[やぶちゃん注:ママ。]遠く聞ゆ。また物語りする声、間のあたりに聞えて目に見えずといふ。遠州灘などにては度々有りと聞けり。予<鈴木桃野>釣するとて沖中にて、四方の物音を聞くに、陸にて思ふより十倍遠き所の音、間のあたりに聞えて、始めて聞きたる時は驚くばかりなりしが、聞きなるれば常と思ふ。東風《こち》の起る頃は、総州・房州の網引の声、やゝ言語も分る程に聞ゆることあり。また沖の方《かた》目の界(かぎ)りは、舟もなべて言語は甚だ分明なる声聞ゆることもあり。夜舟の怪も多くはこれ等も有るべし。聞きなれざる人の怪といふも理《ことわ》りなる歟。兎角に耳目に慣れざることは、あやしきこと多きものなり。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 物のうめく聲」を見られたい。至って〈科学の人〉である鈴木桃野の、現実主義・実証主義的立ち位置がよく判る、擬似怪談現象の、本人が体験した実録解明譚である。しかも風流を意識した描写が、リアルに病者のシーンをクロース・アップする擬似ホラー的カメラ・ワークも、非常に上手い。同原本の中でも、極めて記憶に残る一篇である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「物に数あり」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 物に数あり【ものにすうあり】 〔黒甜瑣語三編ノ二〕物に尽くるの数ある、はじめあるものに終りなき事はあらじ。藩に一卜者(いちぼくしや)あり、今求め得たる扇あり、いつほどまで持ち貯ふべきと考へしに、けふの中《うち》烏有《ういう》となるべき卦《け》に当れり。いぶかしく思ひて、何とかゝる事のあるべき、いで日の暮るゝまで見きはめんとて、面前にひらき直し守り詰めしに、午時(ひなか)過ぎ、夕膳の設《まう》けがよしとて、勝手より呼《よばひ》づく事頻りなり、時に宿の小童(こわつぱ)、これを告げ知らすとてかけ来り、この扇の上に倒れ、さんざんに破れけり。その時にこそ卜者も奇異の思ひをなしけれ、我ながらその妙を感ぜし。さればその数《すう》の尽くる時に至れば、鉄城湯池(てつじやうたうち)に籠めりしものも遁れがたしと知らる。古き物語りに、或人一つの陶《すゑもの》にて造りし黒甜枕(ひるねまくら)して仮寐《うたたね》せし顔へ、物がばつたり墜ちたり。目を開けば鼠の天井より転《こ》け落ちしにて、こそこそ梁《うつばり》へ這ひ上るゆゑ、枕を把《とつ》て抛《な》げ付けしに、鼠にはあたらで、その枕三つに壊(わ)れければ、中に数箇《すこ》の文字を染付けたり。読みて見れば、この枕某《なにがし》の紀年に造る、これより幾年を経て、某《ぼう》の甲子《かつし》鼠に抛つが為に壊《わ》るとあり。世には風水禄命の説もあり。天地の数さへ十二万九千二百歳を一元として、亥《がい》の会《ゑ》には尽《つく》ると邵康節《せうかうせつ》は説けり。矧《いはん》んやその佗《ほか》をや。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらの『○物に數あり』で、正規表現で視認出来る。

「禄命」収入の良し悪しに因って定められた運命。

「邵康節」(一〇一一年~一〇七七年)は北宋の学者。名は雍。李之才から、河図・洛書・図書先天象数の学を受け、数による神秘的宇宙観・自然哲学を説き、二程(程顥と程頤)や朱熹に影響を与えた。著に「観物篇」・「皇極経世書」・「伊川撃壌集」などがある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「物言う妖物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 物言う妖物【ものいうようぶつ】 〔耳囊巻三〕宝暦の始めにや、三州矢作橋<愛知県岡崎市内>御普請にて、江戸表より大勢役人職人等、彼地へ至りしに、或日人足頭の者、川縁に立ちしに、板の上に人形やうのものを乗せて流れ来れり。子共の戯れや。その人形のやう、小児の翫《もてあそ》びとも思はれざれば、面白きものと取りて帰り、旅宿にさし置けるに、夢ともなく、今日かゝりし事ありしが、明日かくかくの事あるべし、誰は明日煩ひ、誰は明日いづ方へ行くべしなど、夜中申しけるにぞ、面白き物なり、これはかの巫女《みこ》などの用ふる外法(げほふ)とやらにもあるやと、懐中なしけるに、翌日もいろいろの事をいひけるにぞ。始めの程は面白かりしが、大きにうるさく、いとひ思ひしかども、捨てん事もまた怖ろしさに、所のものに語りければ、彼者大きに驚き、由なきものを拾ひ給ひけるなり、遠州山入に、左様の事なすものありと聞きしが、その品捨て給ひては、禍《わざはひ》を受《うく》る事なりと言ひし故、せん方なく、十方にくれて、如何し然るべくやと、愁ひ歎きければ、老人の申しけるは、その品を拾ひし時の通り、板の上に乗せて川上に至り、子共の船《ふね》翫びするごとく、かの人形を慰める心にて、その身うしろに向いて、いつ放すとなく、右船を流し放して、跡を見ず立帰りぬれば、その祟りなしといひ伝ふ由、語りけるにぞ、大きに悦び、その通りなして放し捨てしとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之三 矢作川にて妖物を拾ひ難儀せし事」を参照されたい。これは、「耳囊」の中では、特異的に、妙に気持ちの悪い印象で残っている話である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「木像怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 木像怪異【もくぞうかいい】 〔半日閑話巻十三〕この節本郷元町辺<東京都文京区本郷>の怪しき御家人の家の持仏堂の木像の阿弥陀、経を誦むと云ふ。恐れて本郷元町の三念寺に納むと。誠にや。後《のち》聞く、持仏堂の中にくま蜂《ばち》の巣をくひて、折々群がりし羽の音なりしとぞ。 〔燕居雑話巻一〕『棠陰比事』に「石晉高祖鎮ㇾ鄴、時魏州冠氏県華村僧院有鉄仏一軀高丈余、中心且空、一旦忽言仏能語、似ㇾ垂教戒徒衆称賛、聞于郷県、士庶雲集、施利補塡委、県申州府、高祖莫ㇾ測其事、命衙将尚謙、持ㇾ香設ㇾ供、且験其事、有三衛張輅、請与偕行詰其妖状、久率ㇾ人囲ㇾ寺、尽遣僧出赴道場、輅久潛開僧房、捜得一穴仏坐下、即由ㇾ穴入仏身、厲声歴数諸僧過悪、衙将遂擒其魁、高祖命ㇾ彼戮ㇾ之、以ㇾ輅為長河県主簿」と有りしことを、山本五流翁に語り侍りしかば、しかりや、それによく似て最をかしきこと有りき。昔日天明年中支𠏉《しかん/しけん》夏のころ、本郷竹町《たけちやう》<現在の東京都文京区本郷>なる讃念寺といへるに、旧くより在来《ありきた》れる木仏(何仏にやしらず)俄かに経読みたまると言ひ触らして群集しつゝ、後には門前市《いち》をなしける故、茶店ども軒を連ぬるまでに成りて、寺にも大分の徳つきて、破《やぶれ》だたみしかぬほどに成りけり。斯くて余りに噪《さはが》しければ、寺社御奉行何某《なにがし》殿聞きたまひて、監察官をして是れを査《さ》せしむ。すはやとて街長《まちをさ》、里卒《りそつ》等羽織袴打きつゝ、監察官を迎へて、仏の御前に伴《ともなひ》参りぬ。監察官やがて近づきて耳を欹《そばだて》てこれを聴くに、経読みたまふなりけり。あな怪しや、さらば査験《さけん》せむとて、木像を推倒《おしたふ》しければ、蜂あまた飛出《とびいで》て監察官等を螫《さ》しければ、誰《たれ》も誰も面《つら》向くべきやうもあらで、天窓(あたま)かゝへて帰りにけり。後によくよく見れば、木像の年ふりたるが中に、蜂の巣くひて鳴きけるが、経読む如くに聞えたりしなり。爾《しか》りしよりして彼寺の門前も、ふたゝび雀羅《じやくら》を設くべく成りけるを、親しく見もし聞きもしたりきと、打ほゝゑみて語り給ひし。こは正しく実事なるが、作り物語のやうに聞きなさるゝもいとをかし。

[やぶちゃん注:「半日閑話」「青山妖婆」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。標題は『○本鄕元町彌陀怪異』である。

「三念寺」真言宗豊山派薬王山遍照院三念寺(グーグル・マップ・データ)。

「燕居雑話」本書初出。儒者日尾荊山(ひおけいざん 寛政元(一七八九)年~安政六(一八五九)年:武蔵秩父郡出身。父は嘗ては城主で、医師となった人物であった。江戸で心学を学び、「学問は実践であり、実践は至誠に通ずる。」として神田に至誠堂を開いた。国書研究の必要性も唱えた。名は瑜。著作に「管仲非仁者弁」「四書折衷弁断」などがある)のざっくばらんな随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻八(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『○鐵佛木佛妖』。

「棠陰比事」宋代の裁判物語。桂万栄撰。古今の優れた犯罪捜査や判例を集めたもの。全百四十四話。江戸時代、和刻本や訳書「棠陰比事物語」を通して、西鶴の「本朝櫻陰比事」などの裁判物に大きな影響を与えた。私の好きな作品である。

「石晉高祖鎮ㇾ鄴、……」漢字を正字に直して、訓読を試みる。

   *

 石晉(せきしん)の高祖、鄴(げふ)を鎭(をさめ)し時、魏州(ぎしふ)冠氏縣(くわんしけん)華村(かそん)の僧院に、鐵佛(てつぶつ)一軀(いつく)有り。

 高さ丈餘(ぢやうよ)、中心、且(しばら)く空(うつろ)たり。

 一旦、忽(たちま)ち、言ふ。

「佛(ほとけ)、能(よ)く語(ことば)して、敎戒(きやうかい)を垂(た)るるに似たり。」

と。

 徒衆(としゆ)[やぶちゃん注:僧衆。]、稱贊して、鄕縣(がうけん)に聞え、士庶、雲集(うんしふ)し、施利(せり)、補塡するに、委(くは)し[やぶちゃん注:布施がしこたま入って儲かった。]。

 縣、州府に申して、高祖、其の事の、測(はか)る莫(な)きによつて、衙將(がしやう)尙謙(しやうけん)に命じて、香(かう)を持ちて供(そなえ)を設(まう)けて、且つ、其の事を驗(しら)べさせたり。

 三衞[やぶちゃん注:親衛隊。]の張輅(ちやうかく)有り、請ひて與(とも)に偕行(かいかう)するも、其の妖しき狀(じやう)を詰(とが)めたり。[やぶちゃん注:どうも怪しいと強く怪しんだ。]

 久(やや)、人を率(ゐ)て、寺を圍(かこ)ませ、盡(ことごと)く、僧を出(いだ)して、道場へ赴かせたり。

 輅、久(やや)、潛(ひそか)に、僧房を開き、搜(さが)すに、一つの穴を得たり。

 佛坐の下に通ず。

 卽ち、穴より、佛身に入り、厲聲(ばんせい)して[やぶちゃん注:大声を挙げて。]、歷(れつき)として、諸僧の過惡(くわあく)を數(かぞ)ふ。

 衙將、遂(つひ)に、其の魁(かしら)を擒(とら)へり。

 髙祖、彼に命じて、之れを戮(りく)し[やぶちゃん注:死刑に処し。]、輅を以つて、長河縣主簿と爲(な)す。

   *

語注をしておく。

・「石晉」所持する岩波文庫の「棠陰比事」(駒田信二訳注・一九八五年刊)の注に拠れば(太字は底本では傍点「ヽ」)、『石晋は五代の普(九三六―四六)の別称。敬塘(けいとう)の建てた国で、国号をと称したためにいう。石敬塘は、後唐の明宗の婿となり、後、廃帝のとき、契丹(きったん)と結んで帝を称し、洛陽に入って即位し、抃(べん)州に遷都したが、在七年(九三六―四二)で死んだ』とある。

・「鄴」同じく『魏郡十八県の一つで、郡治所在地。今の河南省安陽市の東方で、旧名鄴県』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

・「魏州冠氏縣」同じく『今の山東省館陶県』とある。ここ

・「長河縣」同じく『今の河北省故城県』とある。ここ

「山本五流翁」不詳。

「天明年中」一七八一年から一七八九年まで。

「支𠏉夏」旧暦の夏のある時期を指す語かと思われるが、不詳。

「本郷竹町」「現在の東京都文京区本郷」現在の文京区本郷二・三丁目相当。この中央附近

「讃念寺」どう考えても、前の話柄と同じ「三念寺」としか思われない。

「雀羅を設くべく成りける」「門前雀羅を張る」は白居易詩「寓意」(五首ある)からの故事成句。原詩の意味は「訪れる人がなく、門の前には雀が群れ遊び、網を張って、容易に捕らえられるほどである。」で、「訪問する人もなく、ひっそりしていること。」の喩え。

 なお、この冒頭の話は、明らかに別ソースの流言で、「耳囊 卷之三 聊の事より奇怪を談じそめる事」があり、こちらが擬似怪談の実話を、よく保存しているものと思われる。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「罔両」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 罔両【もうりょう】 〔耳囊巻四〕芝田何某といへる御勘定を勤めし人、美濃の御普請御用にて、先年彼地へ至りしに、出立前、一僕《いちぼく》を抱へ召されしに、貞実に給仕なせしが、或夜旅宿に寝《いね》しに、夜半頃と覚え夢ともなく、かの僕《しもべ》枕元へ来りて、我等は人間にあらず、罔両《まうりやう》といへるものなり。拠なき事あるまゝ暇《いとま》を給はるべしと乞ひしゆゑ、拠なき事あらば、暇を遣すべきなれども、その仔細承り度《たし》と申しけるに、かの僕がいへるは、我輩のもの順番いたし、死人の死骸を取る役なり、この度我等右順役に当りて、この旅宿村より一里ばかりの下の、百姓何某が死骸を取る事なりとて、行衛なくなりしゆゑ、埒なき夢を見しと、心にもかけず伏して、翌朝起出しに、右僕の行衛知れざる由ゆゑ、大いに驚き、かの壱里余の下の村、何某が母の事を聞きしに、今日葬送なしけるが、野道にて黒雲立覆ひしが、棺中の死骸を失ひしと、所の者咄しけるを聞きて、弥〻《いよいよ》驚きけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之四 鬼僕の事」を参照されたい。そちらで、ガッツり、注してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盲人旅宿」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 盲人旅宿【もうじんりょしゅく】 〔翁草巻百二十五〕或人中国辺旅行のころ、何方にか止宿せしに、相宿に盲人余多《あまた》泊り居《ゐ》る。これはその辺《あたり》の習ひにて、富家《ふか》大家《たいか》等に吉凶有る時は、近郷の盲人ども申合せ、その家に行きてこれを賀し、或ひは弔ひて、それぞれに禄をもらひ帰る事なり。彼の旅人壁を隔て、その云へるを聞けば、若き盲人どもと見えて、いざや今宵は芝居して遊ばんと云ふ。各九諾してさて何をかせんと、取り取りに相談して『盛衰記』に究《きはま》る。而して役割をせり合ふ事喧《かまびす》し。或ひは[やぶちゃん注:ママ。]我梅ケ枝《うめがえ》にならん、渠《かれ》は源太などと役割をせり合ひ、やゝ定《さだま》りて、暮過ぐる頃より、始まれる音す。旅人興有る事と思ひ、さらば余所《よそ》ながら見物せんと、その家の庭伝ヘに、隣座敷指(さし)のぞきければ、一点の燈《ともしび》もなく、常闇《とこやみ》にて唯声するばかりなり。実《げ》にも盲人の芝居なればさも有りなん。実《まこと》に燭台行燈《あんどん》様《やう》のもの有りては、足場の邪魔になれば、闇の趣向もつともなりと独りごちて帰り臥しぬと、その人の語りし。

[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂十三(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『盲人旅宿』。

「盛衰記」ここは浄瑠璃「ひらかな盛衰記」のこと。文耕堂・三好松洛・浅田可啓・竹田小出雲(二代目竹田出雲)・千前軒(初代出雲)の合作。元文四(一七三九)年四月、大坂竹本座で初演された。外題の源義仲が滅亡する「粟津の戦い」から「一ノ谷合戦」までの間の「平家物語」・「源平盛衰記」の世界を、樋口兼光・梶原源太景季と、その関係者を登場人物にして描いたもの。ここに出る「梅ケ枝」は源太景季の愛人千鳥で、彼女は遊女となって、「梅が枝」を名乗っている。「神崎揚屋の段」では、源太の出陣費用三百両が必要になり、掛川の観音寺に伝わる無間の鐘の伝説を思い出し、手水鉢を鐘に見立てて打ち、「無間地獄に堕ちても金がほしい」と祈ると、小判が降ってくる。]

2024/01/16

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「盲人の予感」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 盲人の予感【もうじんのよかん】 〔窓のすさみ追加の下〕佐倉侍従忠昌の朝臣、京の司(つかさ)なりし時、萩一(はぎのいち)と云ふ瞽者《こしや》、常に来り仕へけり。或夕暮来りて、門に入らんとして、つきたる杖の敷居の内にあたりけるを、また取り直し、四五度地を敲きて見けるが、その儘帰りける。その夜半、殿中に狂乱の人有りて、宿直《しゆくちよく》の者を切り殺しけり。いつも萩一が休らふ間《ま》なりけり。居《ゐ》あひなば、とくに害せられん。その明《あけ》の日参りて、よさり殿中に何事もおはせぬにやと云ふに、皆人《みなひと》右の由を語りければ、さこそ候はめ、我等昨《きのふ》の暮がた、門に入らんとせしに、杖の当りたる音、常ざまの調子にあらず候ひしかば、不具なる身の宿りしぬべき夜《よ》にあらずと存じ候ひて、帰り候よし云ひけるとかや。師曠が聡とかやも、かゝる類(たぐひ)にや。 〔翁草巻三十九〕洛西鳴滝(なるたき)に城松《じやうのまつ/しろのまつ》と云ふ盲人、音律に委し。よく銅簫《どうせう》を籟(ふ)き、滝に対してこれを籟くに、唯簫声《せうせい》のみ有《あり》て滝の声なし。人皆奇なりとす。一日《あるひ》勃然として人に云ひけるは、この日《ひ》風水に異声有り、里中恐らくは禍変《くわへん》あらんと。人怪しんでこれを信ぜず。城松は独りこれを恐れて、愛宕山に登り、院中に止宿す。果してその夜大いに地震して、近郷は勿論、畿内圧死するもの許多《あまた》なりと。何頃《いつごろ》の事にや、年暦知らず。宝永の地震歟。

[やぶちゃん注:「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(大正四(一九一五)年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る(左ページ後ろから四行目から)。

「佐倉侍従忠昌」三河田原藩三代藩主・肥後富岡藩主・武蔵岩槻藩主・下総佐倉藩初代藩主であった戸田忠昌(寛永九(一六三二)年~元禄一二(一六九九)年)。彼は奏者番兼寺社奉行・京都所司代(延宝四(一六七六)年~延宝九・天和元(一六八一)年)・老中を務めているから、その閉区間になろう。

「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂四(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『洛西鳴瀧盲人城松の事』。

「宝永の地震」「宝永地震」は宝永四年十月四日(一七〇七年十月二十八日)に東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震。南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、記録に残る日本最大級の地震とされている。詳しくは参照した当該ウィキを見られたいが、そこに『京都において「地震動は道を七八町歩くくらいゆれつづいた」』(約十分:「基煕(もとひろ)公記」)と『いった記録がある』とあり、『江戸、京都でも震度』四~五と『推定されるが被害は比較的軽度であり、京都では東本願寺などで堂が破損し』、『東寺五重塔の九輪が落下』、『江戸津軽藩邸は土蔵の壁が破損した』。『奈良の東大寺では』、『東南院の塀が裏門より東側が残らず崩れ、東大寺領分の家が』三百四十九『軒の内』、十八軒が『崩れた』とある。但し、京では余震が続いた、ともある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「目黒在の雇人」 / 「め」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「め」の部は終わっている。]

 

 目黒在の雇人【めぐろざいのやといにん】 〔梅翁随筆巻四〕午三月土手四番町御天主番の頭《かしら》春田半十郎、宿にて飯を食はんとせし時、忽然として膳次第にあがり、天井へつきたるゆゑ、大いに仰天しておもはず箸を捨て、飛びしさり見るに、また段々下りて、はじめ居《ゐ》し時のごとく、側《かたはら》へよりて見るに、少しも替りたる事もなし。それよりして煙草盆・火鉢・行燈その外諸道具類、米櫃・石臼のごときもの、時としては地をはなれてまひあがる。そのしな大小軽重の差別なし。いかなるゆゑといふ事をしらず。修験者・陰陽師などに問へば、仏神のたゝりなりといひ、または狸の所為ならんといふ。かれらが申すにまかせ、いろいろに祈禱すれどもその験《しるし》なし。若しくは家の亡ぶるといふ前表なるやと、大いに心をいためける処に、或人のいはく、これは定めて目黒在より人を抱へしなるべし。此所の鎮守、氏子を他郷へ出す事ををしみて、その村のものを置く時は、かならずこの災《わざは》ひあり。家来を吟味し、もしその所のものあらば、急ぎ暇《いとま》を遣はすべしとをしへける。当春かゝへたる男女たゞすに、その辺のものといひ出《いで》るものなければ、為方《せんかた》なく壱人宛(づつ)暇を出し、三四人も出しければ、頓(やが)て怪異も止みたり。しかるに同年の九月、三番町新御番桑原善兵衛、戸田三蔵方にも同様の怪しきことありしゆゑ、その頃かゝヘし人を出しければ、これもしづまりけり。これにて思ひ合すれば、御小納戸福村理太夫屋敷にて、四五年以前怪事ども多く有りしと申せしが、やはこの類《たぐひ》なるべし。しかれども不審なるは、この村の氏子に他郷へ出るををしみて、昔よりこの類あるべきを、この年聞き伝へし事もなくて、近頃このごとくなるは、いかなる理(ことわ)りにやあらんといぶかし。

[やぶちゃん注:この話、石礫を打つ擬似ポルターガイスト現象を惹き起こす「池尻の女」・「池袋の女」と強い通性がある。男の小者の例は、先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「礫打つ小者」』があり、そこの私の注で、リンクを含め、考証してあるので、是非、読まれたい。

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○人を抱えて怪有し事』(「抱え」はママ)。

「午三月」寛政一〇(一七九八)年。旧暦「三月」はグレゴリオ暦では同年四月十六日から五月十五日まで。

「御天主番」江戸城天守を守衛する職名。但し、この時代には江戸城五重の天守は、「明暦の大火」で焼け落ち、保科正之の意見によって再築は控えられ、遂に再建されることはなかった。しかし、その職のみは存置された。人員は四十名で、これを四組に分けた。百俵高五人扶持で躑躅間詰。天守下番二十一人とともに、天守番頭四人がそれぞれ一組を支配した。番頭は四百石高、焼火間(たきびのま)詰、留守居の支配下であった(当該ウィキに拠った)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「めいしん」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 めいしん 〔奥州波奈志〕めいしんといふ法有りとぞ。これは出家のさいなんに逢ひし時、身をのがるゝ為の心がけにして、一世一度とおもふ時おこなふ法なり。ある和尚この法をしりたりといふことを、橋本正左衛門といふ人聞きつけて、若きほどのことなりしが、奇なることをこのめる本性なりしかば(正左衛門は近親伊賀三弟に八弥と云ひし人養子にせしかば、正左衛門の伝は八弥が語りしなり)しきりに習ひ得たく思ひ和尚にしたしみて常に行きつゝ夜ばなしののちとまりなどせしことも多かりき、ことにふれつゝその法を伝へ給はらんとこひけり。和尚の曰く、やすきことながら今少し心のさだまらばつたへ申すべしとてゆるさざりし。その寺に幼年よりつとめし小姓の有りしが、これも正左衛門に先立ちて我ならはばやといどむ心有りしか、正左衛門その執心によりて和尚にしたしむを、もし先こされなばくやしからんと思ひて、しきりに法を習はんとねがひしかば、和尚ももだしがたくや有りけん、さほど深切に願ふことならばつたふべし、さりながら正左衛門もあの如く願ひをるを、そこにばかり伝へしと聞かば怨むべし、必ず他言無用なりとて、ひそかに伝へたりしとぞ。正左衛門は例の如く夜ばなししてとまりゐしに、十月末のことなりしか、宵はさしもなくて、夜の間に雪の降りつもりしを、おとなければ誰《たれ》もしらざりしを、丑三つ<午前三時頃>ともおぽゆる頃、はつたりと大きなる音のせしかば、和尚はもちろん正左衛門もとびおきて行きてみしに、和尚のはだつきぎぬをひる洗ひて棹に懸けて置きたりしを、よひには雪のふらざりし故、とりも入れざりしに、おほく雪のかゝりしかば、物有りげにみえしを、かの小姓めもろくにさめずに小用たしにおきてふとみつけ、大入道の立ちて有ると思ひて、これや一世一度の難ならんと、このほど習ひし法をかけしに、あたらしきもめんはだぎをかけたるが、棹共に切物にてきりたるごとく、真二つにさけたる音にて有りしとぞ。小姓はおもてもあげずひれふしながら、真平御めん被ㇾ下とわびゐたり。和尚大いに立腹して、それみよ、心の定まらぬうちはゆるしがたしといひしは爰ぞや、にくきやつ哉、多年めかけて召仕ひしもこれ切りぞ、明朝早々立されと暇申渡し、正左衛門にむかひ、そのもとにはたゞ愚憎が法ををしむとのみ思はれつらんが、あれぞ手本なる、心定まらぬ人にゆるせばけが有るのみならず、法もかろくなり行くなり、かならずうらみ給ふべからず、これは幼年より召つかひしもの、他事なく願ふ故、心もとなしとは思ひつれどゆるしたりき、かくの如くのけが有ることにては、我さへこりてさらに人にはつたへがたしと云ひしとぞ。その小姓には二度おこなひてもしるしなきけし法をかけて早々追出されしとぞ。正左衛門も実におそろしと思ひてならはざりし。法といふものは不思議の物ぞ、たゞとなへごとせしばかりにて、棹とひとへぎぬのさけたるは、あやしともあやしかりきと常に語りしとぞ。

[やぶちゃん注:「奥州ばなし めいしん」は電子化注済み(リンク先はブログ版。サイトのPDF縦書一括版もある)。なお、彼女の「只野真葛 むかしばなし (88)」にも同話が所収されてある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夢中の遊魂」 / 「む」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「む」の部は終わっている。]

 

 夢中の遊魂【むちゅうのゆうこん】 〔怪談老の杖巻一〕江戸赤坂伝馬町<東京都港区元赤坂>に、京紺屋(きようこんや)なにがしといふ者、弟子一人に夫婦にてくらしける。自分は藍瓶にかゝり、弟子は豆をひき、女房はしいしをはりなど、いとまなくかせぐ男有り。十一月ごろの事なり。外より来れる手間取どもは、おのが宿々へ帰り、でつちは釜の前に居眠るまゝに、女房ふとんをかけ、火などけし。一人のおさなきものにしゝなどやりて、しほたう[やぶちゃん注:底本は右にママ傍注。思うに「しをへた」(仕終へた)「しまふた」(仕舞ふた)という意味の口語表現の写し取りを誤ったものであろう。]とたすきおたれときて、添乳のまゝに寐入りぬ。亭主は染ものまきたて、あすの細工の手配り、帳面のしらべなどして、九ツ<夜半十二時>過ぎにやすみけるが、暫くありて、さもくるしき声にてうめきけるを、女房ゆりおこして、いかに恐ろしき夢にても見給ひたるやといふに心づきて、さても恐ろしやと色青ざめ、額に汗をくみ流して語るやう、四ツ谷<東京都新宿区内>の得意衆《とくいしゆ》まで行きて帰るとて、紀伊の国坂の上にて侍に逢ひしが、きみあしき男かなとおもふうち、刀を引ぬきて追かけしまゝに、命かぎりに逃げんとして、おもはずおそはれたり、やれやれ夢にてありがたや、誠の事ならば妻子とも長き別れなるべしと、わかしざましの茶などのんで、胸なでおろし居る処に、門の戸をほとほととたゝく音するを、今頃に何人《なんぴと》ぞと、とがとがしくとがめければ、いや往来の者なるが、御家内にあやしき事はなく候や、火の用心にかゝる事ゆゑ、見すぐしがたく、告げ知らせ候といひけるに、亭主もいよいよ恐ろしけれど、戸はしめて貫《くわん》の木をさしければ、きづかひ無しとさしあしして、すき合《あひ》より覗きみれば、夢のうちに我を追かけし侍なり。あやしさいはんかたなく、何事にて候と尋ねければ、われら紀の国坂の上より、茶碗ほどの火の玉を見つけて、あまりあやしく候間、切り割《わら》んと存じ、刀をぬきければ、この玉人などの逃《にぐ》るごとく、坂をころびおちて大路をころび、この家の戸の間より、内へ入り候ひぬ、心得ずながら行き過ぎ候が、時分がら火事にてもありては、外々の難儀なるべしと届け置き候なり、かはる事なくばその分なり、心をつけられよ、断り申したるぞと云ひすてゝゆき、四五間も行き過ぎて、声よく歌などうたひて去りぬ。さてわが魂のうかれ出たるを、火の玉とみて追はれし物ならん、あやふかりし身の上かなと、夫婦ともに神棚など拝して、その夜は日待《ひまち》同前に夜《よ》を明しぬ。夢は昼のおもひ夜《よる》の夢なれば、さる事あるべき道理はあるまじと思へど、天下の事ことごとく理《り》を以てはかりがたき事、この類《たぐひ》なり。これはうける事にあらず。しかもいと近きもの語りなり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之一 紺屋何某が夢」を見られたい。なお、「柴田宵曲 妖異博物館 夢中の遊魂」でも紹介しており、そこでも、私が本文を電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「夢中題詩」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 夢中題詩【むちゅうだいし】 〔黒甜瑣語四編ノ一〕中むかしの頃とや、都の片辺《かたほと》りに詫しく住ひし百堂主人なる一詩人、夢に紀の高野山に登り、幽閑なる僧房に入れり。戯れに壁上に一絶句を題して云く、「地僻紅塵遠、人間白日長、鳥啼春雨霽、花落野泉香」のち三十年を経てよしの山へ登り、岩のかけ道蹈みならし、花又花に分けいりつゝ、それより大和路をはなれ、紀の路へうつり、高野へも至り、浜ゆふの数もしるべに和歌の浦の風景をも見んと思ひ、この霊山《おやま》に攀(よ)ぢしに、僧侶に知りし者ありて、一の僧房へ呼ばれ奥の間へ請ぜらる。ふとむかし見し夢中のおもかげを思ひ出し、壁上《へきしやう》を見しに、かの詩髣髴としてあり。我筆に違《たが》ふべくもあらず。大いに驚き、誰《たれ》かこの詩を題せしやと問ひしに、僧侶等もすめやらず[やぶちゃん注:理解不能であること言う。]。今朝までなかりしが、めんえう不思議とて、いぶかる事云ふばかりなかりしとかや。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで正規表現で視認出来る。「目次」の標題は『○百堂主人』。

「地僻紅塵遠、人間白日長、鳥啼春雨霽、花落野泉香」上記活字本の送り仮名を参考に訓読を試みる。

   *

地 僻(へき)にして 紅塵 遠く

人間(じんかん) 白日(はくじつ) 長し

鳥 啼きて 春雨(しゆんう) 霽(は)る

花 落ち 野泉(やせん) 香ばし

   *]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「貉生捕」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 貉の童【むじなのわらわ】 〔怪談老の杖巻二〕これも上総の田舎にて、秋の頃すぐりわらをするとて、そのくずわら百姓の門口《かどぐち》にしきて和らかなれば、童《わらは》どものあつまりて、かへりごくらをする事あり。あるとき長太郎といひける童、二三人の友だちとれいのとんぼがへりをして、余念なく遊び居けるに、ひとりの童、きるものをあたまよりかぶりて貌《かほ》をかくし、ひたものくるりく中返(ちゆう《がへ》)りをしけり。かの童ども、始めは友のうちなるべしと何心なく居《をり》けるに、ものもいはず、貌もみえねば、誰ぢや誰ぢやととがめてもものもいはず。じやれてかくるゝとおもひて、かぶりたるあはせを取らんとすれば、きゝといひてはなさず。皆よりて手をさしいれ、うでをとらへんとしければ、毛のむくむく生ひたるに驚きて、ばけ物よとさわぎければ、おとなしきもの共立出て、棒など持出でけるを見て、かのあはせをかぶりしまゝにて、林の中へはひ入りけるを、それよそれよと追かけければ、のちはあはせをうちすてて、大《だい》なるむじなの姿をあらはして、ましぐらにかけ行きける。かの長太郎のちにをとこになりて、掘留辺に奉公して居たるが、直《ぢき》にかたりぬ。かの男は偽りなどいふものにあらねば、実事なるべし。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之二 貉童に化る」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「貉生捕」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 貉生捕【むじないけどり】 〔譚海巻三〕京都の町家建つゞきたる所は、二条より三条迄なり。一条通りも半《なかば》は田野まじりて有り。五条より七条までもかくの如し。八条九条は人家つゞかず、みな田地なり。さるがゆゑに叡山・愛宕山などに登り見るに、京都の町家は、すべてはじより端までのこりなく見わたされ、かくるゝ所なし。三条通り・四条通りの外は、みな町の末《すゑ》田家なるゆゑ、そのさかひ木戸をたてて、初夜より門をとぢ、往来の人その所へ用あるよしいはれざれば、門をひらきて通す事をせず。門のかたはらに小き板ごしらへの番屋を置きて、昼は取のけ、夜は出すやうに車にて引やり、自由になるやうにこしらへたるものなり。ある人語りけるは、六条町尻の番屋によるよる戸をたゝきて、番人の名をよぶ事たえず、戸を明けてみれば人なし。内より伺ひ見たるに、貉なるべし、犬より大きなるもの、番屋の戸にうしろざまにより懸り、かしらにて戸をうちたゝき、番人の名をよぶありさまなり。いかでこの貉生捕にせんと、人にも牒(しめ)し合せて待居たるに、例の如く来りてたゝく時、番人はもとより外にかくれ居《をり》、戸に縄を付けて外にてひかへ居たれば、戸をうちたゝくに合せ縄を引きたれば、戸のあくるに合せてあやまたず、貉うしろざまに番やにまろび入りたるを、やがて戸をとぢ人を呼びまはして、貉生(いけ)どりたるを、いかにして取りえんとさわぐに、あるもの蚊帳を持ち来《きたつ》て番屋におほひ、蚊帳ごしに戸を引明けたれば、むじなをどり出たれども、蚊帳にまとひてうろたゆる所を、みな集りて打殺しつ。さて貉を料理(れうり)てくらはんとするに、誰《たれ》も鍋かすものなし。一人才覚をめぐらして、鍋屋に行きて大きなる古鍋をとゝのへ価(あたひ)を渡し、先づこの鍋持ち行きて主人に見すべし、心にかなひなば調へ侍るべし、さもあらずば返し申さんと約束して、持ち来て人々貉を烹てうちくひ、さてその鍋をば返し、やがて価をとりもどりぬといへり。をかしき事になん。

[やぶちゃん注:これは、「譚海 卷之三 京都の町家の有樣」である。狭義には、本邦固有種である食肉目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma 。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を見られたい。但し、この「貉」(狢)は、未屬社会では狸、食肉目イヌ科タヌキ属 タヌキ亜種ホンドタヌキ Nyctereutes procyonoides viverrinus と厳然とは区別されていない。されば、ここも「狸」の意でとっても差支えはない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「無縁塔の怪」(これは「無縫塔の怪」の宵曲が拠ったものと思われる「譚海」(大正六(一九一七)年国書刊行会刊)の誤った本文に拠った致命的な誤文であって本来の標題は「無縫塔の怪」であるべきもの)

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は、恐らく、宵曲が引用底本とした「譚海」(大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこれ(国立国会図書館デジタルコレクションの本文(左ページ上段後ろから六行目)で、『無緣塔』とあり、当該話の「目次」はここで、確かに、『卷之十』の二条目は、やはり、『同所の寺無緣塔の怪の事』となっているが、実は、これ、後注で示す通り、「無緣塔」は恐らく原本自体の「無縫塔」の誤記・誤字の致命的な誤りなのである。「無緣塔」は正しくは「有緣無緣供養塔」の略で、供養する親戚縁者がいなくなった無縁仏(むえんぼとけ)の墓標を一ヶ所に集めてピラミッド状にしたものを言う語で、現行では、多くの寺では「無縁塔」という謂いを嫌って、「三界萬靈塔」(さんがいばんれいとう)と称することが多い。それが、原著者津村正恭の誤記・誤字であることは、後注で別ソースを掲げて、述べる。

 

   

 

 無縁塔の怪【むえんとうのかい】 〔譚海巻十〕同村<越後蒲原郡>に隣りて一寺在り。この寺むかしよりあやしき事あり。その住持死期いたれば、ちかき川辺に、誰もてくるともなく、石の墓じるしひとつ出来る。これを無縁塔といひならはし、この石塔出れば、ちかき年の内に住持はたして死ぬる事、いつもたがふ事なし。若しこの災をのがれむとおもふ僧は、寺を逐電すれば、わざはひをまぬかるゝ事といへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷十 同所の寺無緣塔の怪の事(フライング公開)」を公開しておいたが、実はこれと同じ内容のものが、私の橘崑崙著になる「北越奇談 巻之二 古の七奇」の中に、バッチりと、『無縫塔』として記されてあるのである。是非、読まれたい。

 さて、ここでは、今一つの別ソースを紹介して、この「無緣塔」が「譚海」の誤りであり、「無縫塔」が正しいことを、示しておく。それは、私が偏愛する鈴木牧之著になる「北越雪譜二編」の「下卷」の五項目目の、ズバり、『○無縫塔(むほうたふ)』である。底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の天保七年から同十三年(一八三六年から一八四二年)に江戸文溪堂から出た板本を視認した。読みは、ごく一部に留めた。PDF一括版(二編下卷)がよいが、見られない方のために、単体画像(目次・本文標題本文1本文2本文3)もリンクさせておく。本篇と完全一致するメインの話は、前半のそれである。句読点がないので、所持する校註「北越雪譜」(宮・井上・高橋/監修・校註/平成五(一九九三)年改訂版)を参考にして、自由に打った。注を挟んだが、それも同書を参考とした。また、読み易さを考え、段落を成形した。記号も用いた。【 】は二行割注。漢字の一部は正字に代えた。

   *

       ○無縫塔(むほうたふ)

 蒲原郡(かんばらごほり)村松より、東一里、來迎(らいかう)村に、寺あり。永谷寺(えいこくじ)といふ。曹洞宗(さうどうしう)なり。

 此寺の近くに川あり、「早出川(はやでがは)」といふ。

 寺より、八町ばかり下に觀音堂あり。その下を流るゝ所を「東光が淵」といふ。

 永谷寺へ、入院(じゆゐん)の住職あれば、此淵へ血脉(けちみやく)を投げ入るゝ事、先例なり。[やぶちゃん注:「血脉」本来は、仏教で、教理や戒律が、師から弟子へと、代々、伝えられることを血の繋がりに喩えた語。そこから、その相承系譜を略述した法灯次嗣を証明する文書を指す。]

 さて、此永谷寺の住職、遷化(せんげ)の前年、此淵より墓の石になるべき圓(まる)き自然石(じねんせき)を、一ツ、岸に出(いだ)す。

 是を「無縫塔」と名づけ、つたふ。

 此石、出(いづ)れば、その翌年には、必ず、住職、病死する事、むかしより、今にいたりて、一度も違(ちが)ひたる事、なし。

 此墓石、大小によりて、住職の心に應ぜず、淵へかへせば、その夜(よ)、淵、逆浪(げきらう)して、住職の、このむ石を、淵に出したる事、度〻あり。

 先年、凡僧、こゝに住職し、此石を見て、死を惧(おそ)れ、出奔(しゆつほん)せしに、翌年、他國にありて病死せし、とぞ。

 おもふに、此淵に「㚑(れい)」[やぶちゃん注:「靈」の異体字。]ありて、天然の死を示すなるべし。

 友人(いうじん)北洋(ほくやう)主人【蒲原郡見附の舊家。文を、このみ、書を、よくす。】、件(くだん)の寺を覽(み)たる話に、

「本堂間口、十間、右に庫裏(くり)、左に、八間に五間の禪堂あり。本堂にいたる阪(さか)の左りに、鐘樓あり。禪堂のうしろに、蓮池(れんち)あり。上に坂あり。登りて住職の墓所あり。かの淵より出(いだ)したる圓石(まるいし)を人作(じんさく)の石の臺の脚(あし)あるに、のせて、墓とす。中央(まんなか)なるを開山(かいさん)とし、左右に次第して、廿三基、あり。大なるは、徑(わた)り一尺二、三寸ばかり、八九寸六、七寸なるもあり、『大小は、和尙の德に應ず。』と、いひつたふ、とぞ。臺の髙さは、いづれも一尺ばかりなり。」

と語られき。

 「かの淵に㚑あり。」といふは、むかし、永光寺のほとりに、貴人(きにん)何某(なにがし)住玉ひしに、その内室、色情の妬(ねたみ)にて、夫を、うらみ、「東光が淵」に身を沈め、寃魂(ゑんこん)、惡竜(あくりゆう)となりて、人を、なやまししを、永光寺[やぶちゃん注:ママ。「永谷寺」の誤記であろう。]の開山【名を、きゝもらせり。】、血脉を、かの淵にしづめて、化度(けど)し玉ひしゆゑ、惡竜、得脫(とくだつ)なし、「その礼」とて、かの墓石を淵にいだして、死期を示す。是以(こゝをもつて)、今にいたりても、入院の時は、淵に血脉を沈むと、寺說(じせつ)につたふ、とぞ。

○さてまた、我が隣國信濃にも、無縫塔の事あり。

 近江の石亭が「雲根志」にいはく【「前編」、「㚑異之部」。】信濃国髙井郡澁湯(しぶゆ)村横井温泉寺[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。]の前に、「星河」とて、幅三町ばかりの大河あり。

 温泉寺の住僧、迁化(せんげ)[やぶちゃん注:ママ。]の前年に、此河中へ、何方(いづかた)よりともなく、髙さ二尺ばかりなる自然石(じねんせき)の、方(かく)にして、うつくしき石塔、一ツ、流れきたる。實(まこと)に彫刻せるごとくにて、天然の物なり。

 此石、出ると、土民ども、温泉寺へ、しらせる事なり。

 きはめて、翌年、住僧、迁化なり。

 則、しるしに此石を立る。

 九代以前より、始りしが、代々、九代の石塔、同石・同樣にて、少しも違(たが)はず、並び、あり。

 或年の住僧、此塔の出たる時、天を拜して、いのる。

「我、法華(ほつけ)千部、讀經(どくきやう)の願(ぐわん)あり。今、一年にして、滿(みて)り。何とぞ、命を、今一年、延し玉へ。」

と、念じて、かの塔を、川中の淵に投(なげ)こみたり。

 何事もなく、一年、すぎて、千部讀經のすみし月に、件の石、又、川中にあらはるゝ。

 其翌年、はたして迁化なり、と。

 その次の住僧、塔のいでたる時、何のねがひもなく、淵へなげこみたり、幾度、なげ、しづめても、其夜に、いでたり。

 翌年、病死ありし、とぞ。

 此辺にて、是を「無帽塔(むはうたふ)」と名づく【以上、一條の全文。】。

 越後に永光寺、信濃に温泉寺、事の相似(あひに)たる一奇怪といふべし。

○百樹(もゝき)曰、

「牧之老人が、此草稿(したがき)を視て、『無縫塔』の『縫』の字義、通じがたく、誤字にや。」

とて、郵示(ひきやくたより)して、問ひければ、

「無縫塔と書傳(かきつた)へたる。」

よし、いひこしぬ。

 「雲根志」は『無帽塔(むはうたふ)』とあり。「無帽」の字も又、通じがたし。おそらくは「無望塔(むばうたふ)」にやあらん。住僧の心には、『死ぬがいやさに無望塔(のぞみなきたふ)』なるべし。こゝに無諬(むけい)の一笑を記して博識の確拠(かくきよ)を竢つ。

   *

因みに、「無縫塔」は僧侶の墓に多いが、一つの石から出来た卵のようなつるんとした墓石で、所謂、部分接合した箇所がない=縫い目がない、という意である。「北越奇談 巻之二 古の七奇」の私の注の「無縫塔」を見られたい。「雲根志」のそれは、前編「第一卷」の『無帽塔(むぼうたう)』である。これも電子化しておく。

   *

信濃國高井郡澁湯(しぶゆ)村橫井溫泉寺の前に星河とて幅三町ばかりの大河(たいか)あり溫泉寺の住僧迁化(せんけ)の前年に此川中へ何方(いづかた)よりともなく高さ貳尺ばかりなる自然石(じねんせき)方(はう)にしてうつくしき石塔一流れ來る實(まこと)に彫刻せるごとくにして天然の物也。此石が出ると土民ども溫泉寺へ知らせる事なりきはめて翌年住僧迁化なり則(すなはち)しるしに此石を立る九代已前よりはじまりしが代々九代の石塔同石(とうせき)同樣で少しも違(たが)はずならびがあり或時の住僧此塔が出たる時天を拜して我法華千部讀經の願(くわん)あり今一年に滿(みて)り何とぞ命(いのち)を今一年延(のば)し給へと念じおはり[やぶちゃん注:ママ。]て、彼(かの)塔を川中へ投込たり何事もなく一年過て千部讀經も濟(すみ)し月に件の石又川中にあらはゝ其翌年はたして迁化なりと其次の住僧塔の出たる時何の願ひもなく淵へ投込たり幾度(いくたび)投(なげ)しづめても其夜(よる)々に出たり翌年病死有しと此邊にて是を無帽塔と名く

   *

なお、今回、調べるうちに、今一つ、「甲子夜話卷之三十二」の「12」の『「雲根志」の鈔【◦加州降石 ◦遠州石刀 ◦信州流石塔 ◦雲州つき石 ◦越後出る火】』で、以上を抄録している。これは、フライングして公開する価値はないので、やらない。]

2024/01/15

譚海 卷之十 同所の寺無緣塔の怪の事(フライング公開:目次標題のみ「無緣塔」となっている)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。なお、標題の「同國」は前の条が『越後蒲原郡』で始まることによる。但し、その村名は伏されてある。以上の標題の寺名も誤っている。因みに、上記標題(「目次」にあるもの)の『無緣塔』はママである。「目次」や後注でも、編者は、ここのみが「無緣塔」となっていることを、注記していない。後注があるのだが、本文の「無縫塔」についての解説を淡々としているだけで、目次の「無緣塔」の誤りについては、一切、触れていないのである。

 

 同村に鄰(となり)て、一寺、在(あり)。

 此寺、むかしより、あやしき事、あり。

 其(その)住持、死期(しき)、いたれば、ちかき川邊に、誰(たれ)もてくるともなく、石の墓じるし、ひとつ、出來(いでく)る。

 これを、「無縫塔」と、いひならはし、此石塔、出(いづ)れば、ちかき年の内に、住持、はたして死ぬる事、いつも、たがふ事、なし。

「若(も)し、この災(わざはひ)をのがれむとおもふ僧は、寺を逐電(ちくでん)すれば、わざはひを、まぬかるゝ事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:以上の話は、私の橘崑崙作の「北越奇談 巻之二 古の七奇」の中に、同じ内容の話が村名・寺名(但し、誤りがある)を示した上で、同じ奇譚をしっかりと語っている。そちらで、細かな注も附してあるので、そちらを、必ず、見られたい。そこでは、ちゃんと「無縫塔」となっている。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「茗荷谷怪異」 / 「み」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って、「み」の部は終わっている。]

 

 茗荷谷怪異【みょうがだにかいい】 〔望海毎談〕江戸大塚村<東京都文京区と豊島区内>、今は御城より西北に続きて家居《いへい》の並《ならび》なり。この大塚の南の方の地低《てい》なる所を、茗荷谷と呼ぶなり。小日向の服部坂より登り、先へ通る所にして、小屋敷どもの前を通り、右の谷へ行く。この辺もおしなべて小身衆、或ひは小寺のみにて物淋し。寺地に右に付て通る所の左側に、明き屋敷地にて三四百坪ばかりの所、畠の作り物もせず、荒地なり。稲富氏の人主《あるじ》たりと云へども、屋敷守の人らしき者にて[やぶちゃん注:ママ。後に示す活字本でも同じ。せめて「も」を入れたい。]爰《ここ》にをらず。入口たる川の少し脇に、道心者のやうなるもの、小屋がけの如くにして、唯独り居《を》りて、出入の人終《つひ》に見かけず。いつの頃よりして有り来《きた》るや、屋敷の内に大なる石塔三ツ四ツありて、垣根よりはるか高く見えたり。すべてこの屋敷の由緒知る人なし。所がら一しほ物淋し。それに付て人通りもなき外面《そとも》なれば、夜に入《いり》ては曾て往来の人なき故、この辺にあやしき物有りといふより、右の明《あき》屋敷に化物ありと沙汰すること年久し。大野三太夫と云ふ者、小日向の方より大塚組屋敷の宿へ帰るとて、日暮過ぎに及びしかば、此所を通るにいと物すごき折ふし、先へ立《たつ》て行く出家あり。これこそよき道連れなりと足早に追付き、既に廿間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]ばかりも隔つらんと思ひし時、その出家の丈《た》ケ高くなる事、明き屋敷の垣根を越し、大石塔の五輪の上より遙かに見上ぐる程になり、その門口《かどぐち》迄行くかと思ひしが見失ひたり。惣じてこの辺怪しきことども時々あり。山下氏の人、これも日暮に及びし頃通りしに付き、道を急ぎ、足もとヘ蛙《かはづ》鳴き出《いで》て飛び行くに連れて、そこ爰《ここ》よりも出《いで》つれて足にまとはる。半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ばかり斯くして道のさがりへ下《くだ》りて、溝端《みぞはし》の草むらに蛙多く集りしが、頓(やが)て東西に別れて、一疋ヅツ左右より出《いで》て喰合《くらひあ》ひたり。喰ひ負けたる方《かた》よりまた一疋出る時、向うよりもまた外の蛙出て喰合ふことなり。はや夜《よ》にも入《いる》る故、これを見捨てて立帰りしが、その跡たる所も知らずと物語りしけるに付き、我等も去年其所《そこ》にて、蛙のその如く喰合ひたるを見たり。その果《はて》には惣蛙《そうあ》両方より一度にかゝり喰合ふと語りし。

[やぶちゃん注:「望海毎談」江戸中期(十八世紀半ば)に書かれた、江戸名所旧跡についての伝説と、江戸以外のことも記した随筆。全七十三条(但し、内六条は目録のみにあり、本文は残っていない)。作者未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『燕石十種』第三(明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。標題は『大塚村怪異』。

「大塚村」「東京都文京区と豊島区内」「ひなたGPS」で示す。

「茗荷谷」東京都文京区小日向の、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「小日向の服部坂」同前の北位置に現存する。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「都返りの鍔」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 都返りの鍔【みやこがえりのつば】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕山川下総守未だ御小納所《おこなんど》[やぶちゃん注:思うに、この「御小納所」は「御小納戸」の誤植であろうと思う。]勤めける時、同役の山村十郎右衛門、差料《さしれう》の鍔の形甚だ面白しとて、その形を取りて新規に打たせたき望みなれば、乃《すなは》ち十郎右衛門鍔をはづして下総守方へ送りけるに、その職せる者の方へ右鍔を持たせ遣はしける道にて、右使《つかひ》の者いづちへか彼《かの》鍔を落しける由。その僕《しもべ》の不念を咎めぬれども、人の秘蔵なす道具を紛失なせし事の気の毒さに色々途中その外捜しぬれど行方《ゆくへ》なければ、詮方なくて山村へ詫びけるに、山村も落し候上は是非なしとてその儘に過ぎぬ。されども下総守心には、何卒右鍔を尋ね出し、またはせめて似たる品なりとも買ひ得て戻しなんと、常に心に掛けしが、山村は京都町奉行になりて上京し、下総守は御目付へ出て、一ト年久能山御普請に御作事奉行代《かは》りをつとめ、駿州へ参りつるが、その時御目付代りにて、御使番より小長谷喜太郎駿府へ行きて、同じく御普請の掛りなりしが、或時喜太郎が方ヘ下総守至りし時、茶など運びし喜太郎が家来の帯しける脇差の鍔を見るに、かの先達《せんだつ》て失ひし山村が鍔に紛《まが》ふ方《かた》なければ、それとなく所望してよくよく見るに、聊か違ひなかりける故、大いに悦びて、喜太郎家来へは相応の謝礼して申請け、御用済みて帰府の上、早速山村方へ登せけるに、両三年の事なれども、下総守へ遣はし候節、鍔をはづしたる儘にて有りし故、仕込みしに少しも違《たが》はざりしとかや。信濃守後に御勘定奉行になりて語りしが、山川も同じく咄しける。今に山村信濃守方にては、彼鍔を都返りとて秘蔵なせる由。

[やぶちゃん注:「耳囊 卷之二 志す所不思議に屆し事」を見られたい。但し、この話、ちょっとだけ、不満がある。「茶など運びし喜太郎が家来」が、それを、何処で拾ったかというシーンが欠けている点である。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「耳附の板」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 耳附の板【みみつきのいた】 〔真佐喜のかつら〕武蔵国高尾山<東京都南多摩郡内>は飯綱《いづな》権現をまつる。山頂迄凡そ三拾丁[やぶちゃん注:約三・二七三キロメートル。]ほど、常に参詣絶えず。霊験あらたなり。この別当所に耳附の板と云ふ什宝《じふはう》あり。これは或時盗賊入りて社壇の神具を奪はんとす。この時何処《いづこ》ともなく管絃の音聞え、盗賊も自ら心すみ、ぼうぜんたるに、その音しだいに遠くなり行くに、耳を壁に附け聞き居たり。この折盗賊入《い》りしと寺中ひしめくやうすに驚き、逃げんとするに、彼《かの》者の耳、板にひたと附《つき》て放るゝ事なし。終《つひ》に刀にて切り、走り出《いで》んとするを、大勢にて捕押《とりおさ》へけれど、何一つ奪はざりしかば、その儘ゆるしけるとぞ。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここから正規表現で視認出来る。

「武蔵国高尾山」「東京都南多摩郡内」山頂はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「飯綱権現」真言宗智山派高尾山薬王院有喜寺。の関東三大本山の一つ。一般には単に「高尾山」或いは「高尾山薬王院」と呼ばれる。同院のウィキによれば、天平一六(七四四)年に『聖武天皇の勅命により』、『東国鎮護の祈願寺として、行基菩薩に』よって『開山されたと伝えられている。その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称する』。南北朝期の『永和年間』(一三七五年~一三七九年)『に京都の醍醐寺から俊源大徳が入り、山岳信仰を基とする飯縄権現を守護神として奉ったことから、飯縄信仰の霊山であるとともに修験道の道場として繁栄することとなる』とあった。また、ウィキの「飯縄権現」(いづなごんげん/いいづなごんげん)によれば、『信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神である』。『多くの場合、白狐に乗った剣と索を持つ烏天狗形で表され、五体、あるいは白狐には蛇が巻きつくことがある。一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰された。特に、上杉謙信の兜の前立が飯縄権現像であるのは有名』。『その一方で、飯縄権現が授ける「飯縄法」は「愛宕勝軍神祇秘法」や「ダキニ天法」などとならび』、『中世から近世にかけては「邪法」とされ、天狗や狐などを使役する外法とされつつ』、『俗信へと浸透していった。「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」』(「茅窓漫録」)、『「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」』(「大和本草」)『と言及される。しかし、こうした俗信の域から離れ、現在でも』、『信州の飯縄神社や東京都の高尾山薬王院、千葉県君津市の鹿野山神野寺、同県いすみ市の飯縄寺、日光山輪王寺など、特に関東以北の各地で熱心に信仰されており、薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。別称を飯綱権現、飯縄明神ともいう』。『飯縄権現に対する信仰は各種縁起や祭文によ』っては、『微妙に描写のされ方が異なる』。『信濃国の飯縄山が戸隠山の山麓の一部であるように、飯縄の修験道は、戸隠修験の傘下におかれていた』。『とはいえ、その発端は飯縄山にあったと思われ』、「飯綱信仰は、戸隠信仰より、古い。」とも『言われている』。『根拠として、そもそも飯縄山で修行していた学問という行者が嘉祥』二(八四九)年(異文では嘉祥三年)に『戸隠山の開山を行った事実が挙げられ、遅くとも鎌倉時代・室町時代の文献にはこの記述がみられる』。鎌倉時代の天福元(一二三三)年には、『飯縄大明神が戸隠の住職のところに現』われ、「自分は、日本第三の天狗なり。」と『名乗ったと、上で触れた室町の文献』である「戸隠山顕光寺流記并序」(とがくしさんけんこうじるきならびにじょ)に『記されており』、続けて、『「願わくは此の山の傍らに侍し、(九頭竜)権現の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん。」と語ったという』。『この九頭竜は』、『古来より』、『戸隠山の主とされ』、『戸隠信仰の地主神となっていたものである』。「戸隠山顕光寺流記并序」は『戸隠本位の縁起なので、その観点から、飯縄明神は』、『あくまで』、『戸隠権現の「慈風(加護)によって」戸隠山の鎮守となったと』、『その主客関係を主張している』。『江戸時代(近世後期)に作成された』「飯縄山略縁起」では、『戸隠の開山より少し遡る』嘉祥元(八四八)年三月、『学問行者が飯縄山に入山して飯縄明神の姿を拝したとあり』、天福元(一二三三)年、『荻野城主・伊藤豊前守忠縄が約』四百『年ぶりに飯縄明神の神託を得て、山頂に』、『しめ縄を張り』、『飯縄神を祀った。そして大願成就のために五穀を断つなど』、『千日行を行い』、『神通力を得て、荒安(あらやす)村(長野県芋井)に修験道場をおこし「千日太夫」の開祖となった。この初代は「千日豊前」と称し、不老長生を会得したので』百七十『年も生きてのち』、『尸解』仙(しかい:一度、人として死体となった後に、改めて登仙する最もレベルの低い仙化する方法を指す語)となった『などとされている』。『飯縄山を中心とする修験は「飯縄修験」と呼ばれ、代々その長を務めるのは』、『千日太夫と呼ばれる行者であった。千日太夫は近世には武田信玄によって安曇郡から移された仁科氏が務め、飯縄神領百石を支配していた。飯縄山における飯縄信仰は、この千日太夫を中心に』、『後世』、『形作られていったものと思われる』。『飯縄権現がいつ頃から信仰としての形を整えたのか』は、『現段階で詳らかにすることはできないが、現存最古銘の飯縄神像は永福寺の神像であり、応永』一三(一四〇六)年の『銘がある。また、岡山県立博物館寄託の飯縄権現図は絹本著色で』、『室町期の作と推定されており、日光山輪王寺伝来の「伊須那曼荼羅図」には』、『南北朝』から『室町期の貞禅の名が見える。加えて、高尾山薬王院有喜寺における飯縄権現は、中興の祖俊源が永和年間』(一三七五年〜一三七九年)『に入山した折』り『に感得したといい、俊源が既に飯縄権現に関する情報を得ていたことをうかがわせる。先に見た縁起や講式等の記述等と併せて考えるならば、中世初期には』、『かなり体系的な飯縄信仰像が形成されていたと考えられる』。『一口に飯縄信仰と言っても、憑霊信仰や天狗信仰、武将や修験者、忍者の間での信仰、狐信仰など非常に多岐にわたっており、複雑な様相を呈している。実際どのようなものであったのかは』、『今後の研究の堆積が俟たれるところであるが、室町頃には』、『一面、魔法、外法といった捉えられ方が既になされていたようである』とあった。因みに、この耳が附いた板というのは、個人サイト「高尾通信」のこちらによれば、『薬王院には「盗賊耳付きの板」と呼ばれる板があります。薬王院に泥棒が侵入し羽目板に耳を付けて中の様子を伺っていたとき仏の力によって耳が離れなくなり仕方なくみずからの短剣で耳を切り落として逃げたという言い伝えが残っています』。『この板にお参りしてその御札を家に奉っておくと盗難除けのご利益があるといわれています』とあるので、現存する。但し、ネットで画像検索したが、撮影は禁止らしく、見出せなかった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「美濃の仙境」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 美濃の仙境【みののせんきょう】 〔怪談老の杖巻三〕陶淵明が桃源、劉《りゆう》阮《がん》が天台を始めとして、古今仙家に遊べる説甚だ多し。多くはこれ譬喩寓言、茫として影を捕ゆるが如く、実跡を知る事なし。操觚《さうこ》風流の士の前にいふべくして、田夫野翁の疑惑をして、漠然たらしむることあたはず[やぶちゃん注:「操觚」「觚」は「四角な木札」。昔、中国でこれに文字を記したところから、「筆を操(あやつ)って詩文を作ること・文筆に従事すること」の意。]。予<平秩東作《へづつとうさく》>常にこれを恨みとす。然るに一日奇異の話を聞けり。京都西の洞院わたりに、荻沼半右衛門といへる書生あり。弱冠の頃、美濃の国へ用事ありて行きけるが、日暮れて逆旅《げきりよ》[やぶちゃん注:旅宿。]にやどりけるが、いまだ日高かりければ、やどの門先《かどさき》にたゝずみて、山川《さんせん》の気色など詠めたゝずみ居《ゐ》けるに、越後の大守通りあひければ、逆旅のあるじ年頃七十有余の老人、はしりいでていかにも屈敬の色をなし、余所《よそ》ながら拝する体《てい》なり。何心もなく見て居るうち、日もくれはてて燈火つくる頃なれば、半右衛門傍《かたはら》より臥してまどろみける。暫くありて外より、これもよはひ高く、よし有りとみゆる老人来りて、主人と物語りし、酒など出してくみかはす体、ことの外の中《なか》と見えて、たがひに奥底《あうてい》なき体なりしが、やがて床の上の書物を出《いだ》し会読《くわいどく》するを、半右衛門何ならんと耳をそばだて聞きければ、易の文言をよむなり。たがひに義理など解せざる処は問ひあひ、通ぜざる所に至りては、さても辺鄙のかなしさ、尋ね問ふべき師友もなき事よと、歎息する事たびたびなり。半右衛門も奇特におもひ聞けるが、技療に堪へかねおきなほりて、囲炉火へより火にあたり、これは御奇特に御書物のせん義したまふ事よといひければ、主いふ様は、御聡しく候へども、われら幼少よりのすきにて、ケ様に打寄りよみ候へども、あけてもくれても両人より外友もなく、誠に固陋寡聞《ころうかぶん》、京都の御方などへは御耳に入るとも憚りなり、その上草臥《くたびれ》給ひてねむくおはしまさんに、御耳の端にて不遠慮の段御免あれ、御酒など召上れよとて杯をさしければ、半右衛門、われらも書籍好み申して、いさゝかの儒者にて候が、かやうに静かなる山中にて、御楽しみあるは羨しき義なり、拙者などは儒業《じゆぎやう》の名のみにて、ケ様に風塵に奔走して、年中安き事もなく候といひければ、両人手をうちて、何《なに》[やぶちゃん注:読点が欲しい。]儒を業となさるゝとは耳よりなり、我等師友を求めし誠《まこと》天に通じ、今宵君の此処にやどり給ひしものならんと、悦びなゝめならず、平《ひら》にこれへ御出ありて、御苦労ながら御講釈頼むよし、誠におもひ入《いり》て云ひければ、これもふしぎの御縁なりとて、絶えて辞する色もなく、紙四五枚が程講釈したり。元来半右衛門能弁にて、義理明らかに述べければ、みなみななみだなみだをながし悦び、ひらに二三日も逗留と留めけれど、用事あれば罷り越すなり、帰りにはまた逗留して、御世話になるべしと立別れて、用事をはりて帰路に趣きければ、はやその家の子供など、酒肴を調へ道まで迎ひに出《いで》て、大方今日御帰りと仰せられ候間、迎ひに来りたりとて、殊の外馳走し、両人家より子供残らずつれ来りて、われらは老人にてもはや行末頼みなし、忰どもを弟子に上げ申したしとて、すぐに師弟子の杯《さかづき》など取かはし、留めおきていろいろ馳走しける。あるじの翁、本《もと》は越後家にて、名ある家なりしが、彼家の騒動のみぎり、御暇給はりて、もはや武家の望みもなければ、此所にて両人ともに田宅を買ひて、世をやすく暮すなりと、その外いろいろめづらしき物語りをしけるが、何も御馳走もなければ、この奥に内津《うつつ》といふ山奥に友達の侍るが、これは此方どもと違ひて、殊に風流なる老人にて、おもしろき処なれば、同道し御知り人に致し申すべしとて、いて[やぶちゃん注:「率(ゐ)て」の誤字であろう。]二里ばかりも行けば、内津の山へかゝゝる。その土地清川《せいせん》ながれ、岩組《いはくみ》おもしろく、山々幾重も入りまじはりて、行くに順《したが》つて景色かはり、中々詞に尽しがたし。通りより左のかたへふみわけたるに、径《こみち》のあるより入りて谷へ下り、また山へとりて木立深き中に、白壁づくりの家見えたり。大きなる門がまへにて、蔵も幾むねといふ事なく、人もおびただしく見えて、大きなる伽藍のごとくなる家にて、酒を造り紙を漉き、いろいろの業《わざ》をなす体《てい》なり。あるじは年ごろ六十あまりなるが、客来《きやくらい》と聞《きき》て門まで迎ひに出て、京都よりのまれ人とは貴客の事にて侍ふか、よくこそとて座敷へ伴ひ、種々の名酒佳肴《かかう》を備へて、饗応する事かぎりなし。半右衛門もあまりいたみ入りけれど、奥底なきもてなしに、興に乗じ折からの詩作など、あいさつして居るうち、小さきわらはのきよげなるが出で来りて、用意よく候と申しければ、いざこなたへと先へたちて案内しけるが、なほ奥ふかく入りけるに、その座敷の結構言葉に述べがたく、庭には名もしらぬ名花名草、区《く》をわけて樹(うゑ)ならべ、前には諸山開きわかれ画図《がづ》のごとく、庭におりてくつをはき、白き石のしきならべたる一筋の道を行くこと百間ばかり、樹木のうちに入りて、それより谷を下りければ、自然のいはほを画《ゑが》きたる[やぶちゃん注:比喩で「彫琢した」の意であろう。]流水あり。はしなどの結構なること言葉及ばず。それより亭ありて、彩霞亭と額をうちたり。この内に美女十六七より十二三の女子十人ばかり居ならびて、珍膳さゝげ歌舞をなす事、京都の繁華といへども、いまだ見きかざる楽しみなり。かく結構なる所、この山中にあるべしとはおもひよらず。若し狐狸などの化《け》するやとあやしき程なれば、暇乞して帰らんとしけるを、せちにとめられて、夜もすがら諷《うた》ひ舞ひ、さまざまの風流をつくし、翌日馬などしたてゝ、送りかへしける。跡にて委しく聞けば、この宿の老人のおや、世にありしとき召仕ひたる奴《やつこ》なるに、かく大きなる身上《しんしやう》になりしとかや。老人の浪人せしきざみも早速来りて、かならずかならず外《ほか》へゆき給ふ事なかれとて、引とりて我が近所におき、忠勤おとろへざりしといへり。あるじは六十ばかりとみえしが、やどの老人のいふは、あれにても九十ばかりなるべし、われら十ばかりになるとき、美濃へ引こみたりしを覚えをれりといへり。子孫みな長寿にて、家内二百人余暮しけるとなん。それより半右衛門も折ふしは行きて、十日程づつ逗留しけるが、誠に素封《そほう》の富《とみ》、南面《なんめん》王《をう》の楽しみを極め、語《ことば》も心もおよばぬ栄花《えいぐわ》どもなりし。今も栄えをれるやしらず。半右衛門のち江戸青山に来りて、名高き儒者となれり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之三 美濃の國仙境」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「三峯山の犬」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 三峯山の犬【みつみねさんのいぬ】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻三〕武州秩父郡三峯権現<埼玉県秩父市内>は、火難・盗難を除脱し給ふ御神にて、諸人の信仰いちじるし。右別当は福有にて、僧俗の家従随身夥しく、無頼不当の者にても、今日《こんにち》たつき無く、歎きて寄宿すれば差置きける由。多くの内には盗賊など有りて、金銭など盗み取りて去らんとするに、或ひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]乱心し、或ひは腰膝立たず、片輪などになりて出《いづ》る事叶はず。住僧は勿論随身の僧俗も、右在山《ざいさん》の内、金子を貯へ出んとするに、必ず祟りありて一銭も持出る事叶はず。酒食に遣ひ捨つる事は強ひて咎めなき由。彼《かの》山最寄の者語りぬ。且また右三峯権現を信じ、盗難・火難の守護の札を付与する時、犬を借りるといふ事あり。右犬を借りる時は盗難・火難に逢ふ事なしとて、都鄙申し習はす事なり。或人、犬を借り候といへど、札を付与するばかりなり、誠の犬を貸し給ふ事もなるべきや、神明の冥助目にさへぎる事を求めければ、別当その意を得、祈念して札を付与なしけるに、彼者下山の時、ひとつの狼跡へなり先へなり附き来《きた》る故、始めて神慮の偽りなきを感じ、狼を伴なひ帰らんの怖ろしさに、立帰りてしかじかの訳を語り、疑心を悔《くや》みて札ばかり請け度《たき》願《ねがひ》をなしける故、別当またこの趣を祈りて付属なしければ、その後《のち》は狼も眼にさへぎらず有りしとや。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之三 三峯山にて犬をかりる事」を見られたい。神社嫌いの私が、特異点で、今の書棚に飾ってあるのが、元三大師の鬼守り札と並べて、三峯山の狼の御札である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「水冷え魚浮ぶ」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 水冷え魚浮ぶ【みづひえうをうかぶ】 〔閑田次筆巻一〕去る寛政の末つごろ、湖水<琵琶湖>の北下(しも)八木浜といふ所にて、やゝ広き間、水気《すいき》涌くがごとく上《のぼ》りしが、鯉鮒の類《るい》をはじめ、雑魚《ざこ》ども酔ヘるがごとくなりて、磯際によれり。浦人これをとらんとて、水にひたりしが、冷《ひやや》かなること氷のごとくにて、しばらく脚(あし)をとゞめがたく、そのゆゑは知らねど、懼《おそ》れて速《すみや》かに岸に登りしとぞ。古老百年前にもかゝることありしと聞けりといへり。この冷気にて、魚も半死半生になりしならん。あやしきことなり、とその辺の人かたれり。

[やぶちゃん注:「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから三行目以降。但し、次のコマは関係のない挿絵が見開きにあるので、続きはここ)で正規表現で視認出来る。

「寛政の末つごろ」寛政一三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日)に享和に改元している。

「湖水」「琵琶湖」「の北下(しも)八木浜」現在の滋賀県長浜市八木浜町(やぎはまちょう:グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛟」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 【みずち】 蛇に似て角と四脚とを具え、毒気を吐いて人を害するという想像上の動物 〔甲子夜話巻二十六〕予<松浦静山>が小臣某、一夜小舟に乗じ海上に釣す。時月白く風清かりしに、白岳の方を望みしかば、岳頭より雲一帯を生ず。白色にして綿々たり。遂に半天に及び、凝《こり》て茶盌《ちやわん》の如し。その傍にまた雲生じて白鱗々たり。然るにまた忽ち黒雲出で、漸々満延[やぶちゃん注:ママ。原本も同じ。]して東北に弥(わた)れば、暴雨降り来りて浪もまた涌くが如し。少頃《せうけい》にして[やぶちゃん注:暫くして。]霽《は》れたり。この雨《あめ》山の東北のみ降りて西南は降らずと。予思ふにこれ蛟《みづち》の所為ならん。蛟は世に謂ふ雨竜と呼ぶものにて、山腹の土中に居るものなりと。『荒政輯要《こうせいしふえう》』にその害を除くことを載せたり。また世に宝螺(ほら)ぬけと謂ひて、処々の山半《やまなかば》俄かに震動して、雷雨瞑冥、何か飛出《とびいづ》るものあり。これを宝螺の土中に在る者此《かく》の如しと云へども、誰《たれ》も正しく見し者もなし。これまた蛟の地中を出《いづ》るなりと云ふ。淇園先生嘗て話されしは、或士人某の所に寓せし中《うち》のこととぞ。一日《あるひ》その庭を見ゐたるに、竹籬《たけがき》の小口《こぐち》より白気を生じ、繊々《せんせん》として絲《いと》の如し。見る中《うち》に一丈ばかり立升《たちのぼ》り、遂に一小丸《いちしやうぐわん》の如し。また飛石の処を見れば、平石の上にわたり三四尺ばかり濡れて雨水の如し。その人不思議に思ひ、かの竹垣の小口を窺ひ見たるに、気の生ぜし竹中に蜥蜴《とかげ》ゐたりと。この蟲は長身四足にして蛟の類なり。然ればこの属はみな雨を起すものなりと。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十六 5 蛟の屬は總じて氣を吐く事」を電子化注しておいたので、見られたい。]

フライング単発 甲子夜話卷二十六 5 蛟の屬は總じて氣を吐く事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは静山が施したルビ。]

 

26-5 蛟(みづち)の屬は總じて氣(き)を吐く事

 予が小臣某、一夜(ひとよ)、小舟に乘(じやう)じ、海上(かいしやう)に釣(つり)す。

 時(とき)、月、白(しろく)、風、淸(きよ)かりしに、白岳(しらたけ)の方(かた)を望みしかば、嶽頭より、雲、一帶を生ず。

 白色にして、綿々たり。

 遂に、半天に及び、凝(こり)て、茶盌(ちやわん)の如し。

 其傍(かたはら)に、また、雲、生じて、白鱗々(はくりんりん)たり。

 然(しか)るに、また、忽(たちまち)、黑雲、出で、漸々(ぜんぜん)、滿延[やぶちゃん注:ママ。]して、東北に彌(いきわた)れば、暴雨、降來(ふりきたり)て、浪も、また、涌(わ)くが如し。

 少頃(せうけい)にして[やぶちゃん注:暫くして。]、霽(はれ)たり。

 この雨(あめ)、山の東北のみ、降りて、西南は、降らず、と。

 予、思ふに、これ、蛟(みづち)の所爲ならん。

 蛟は、世に謂ふ「雨龍」と呼ぶものにて、山腹の土中に居《を》るものなり、と。

「荒政輯要(こうせいしふえう)」に、その害を除くことを、載せたり。

 また、世に、「窑螺(はうら)[やぶちゃん注:ホラガイ。]ぬけ」と謂(いひ)て、處々の山半(やまなかば)、俄かに震動して、雷雨、瞑冥(めいめい)[やぶちゃん注:暗いさま。]、何か飛出(とびいづ)るものあり。これを、

「窑螺の、土中に在る者、此(かく)の如し。」

と云へども、誰(たれ)も、正しく見し者も、なし。これまた、

「蛟の地中を出(いづ)るなり。」

と云ふ。

 淇園(きゑん)先生、嘗(かつ)て、話されしは、

「或士人、某の所に寓せし中(うち)のこと、とぞ。一日(あるひ)、その庭を見ゐたるに、竹籬(たけがき)の小口(こぐち)より、白氣(はくき)を生じ、纖々(せんせん)として、絲(いと)の如し。見る中(うち)に、一丈ばかり立升(たちのぼ)り、遂に一小丸(いちしやうぐわん)の如し。又、とび石の處を見れば、平石の上に、わたり、三、四尺ばかり、濡れて、雨水の如し。その人、不思議に思ひ、かの竹垣の小口を、窺(うかがひ)見たるに、氣の生ぜし竹中(たけなか)に、蜥蜴(とかげ)ゐたり、と。この蟲は、長身・四足にして、蛟の類(るい)なり。然(さ)れば、この屬は、みな、雨を起すものなり。」

と。

■やぶちゃんの呟き

「蛟」本邦の後代では「みづち」と読むが、古くは清音で「みつち」であった。よく書けてあるウィキの「蛟竜」を引く。『蛟龍(こうりゅう、こうりょう、蛟竜)、すなわち』、蛟(コウ/みずち/歴史的仮名遣「みづち」/中国音「jiāo」(ヂィアォ)は、本来は『中国の竜の一種、あるいは、姿が変態する竜種の幼生(成長の過程の幼齢期・未成期)だとされる』「本草綱目」『などでは鱗を有する竜類とされる』。『その眉が交生するので「蛟」の名がつけられてという任昉』(じんぼう 四六〇年~五〇八年:南朝斉から梁にかけての文学者)の「述異記」の説明が、「本草綱目」でも『引用されている』が、その記載では、『眉と眉が交差するようにもとれようが』、『これは』、『眉毛が一本につながって生えることが「交生」だとの説明もある』。『辞典』「埤雅」(ひが:北宋の陸佃によって編集された辞典。全二十巻。博覧的ではなく、主に動植物について解説した博物誌的なものである)に『よれば、俗称は「馬絆」』(中国音「maban」(マァーパァン)で『あるという』。『また』、『漢語の「蛟龍」は』、『梵語の「宮毗羅」にあたるとされる』(同じく「述異記」の引用に拠る)。『異体で「宮毘羅」とも表記』する。但し、『仏典では固有名』詞で見え、『宮毘羅』(くびら)『といえば』、『十二神将のひとりである』。『サンスクリット語の表記は kumbhīra』(クンビーラ)『で、「鼻の長い鰐類」(あるいはその神格化)を意味する』。言葉の『用法としては、「蛟龍」という表現が用いられた場合、一種類をさすのか、蛟と龍という別の二種類を並称したものか、必ずしも判然としないと指摘される』。『その一例が』、「楚辞」の「離騒」に『ある蛟竜を手招いて橋を成せ、というくだりである』。『王逸の注に拠るなら』、『この箇所では』、『小なるものを蛟、大なるものを龍と(つまり二種類)ということ』となっている。『一方、一種の蛟龍とするデ・ヴィッセル』(オランダ人でライデン大学日本語教授となった人物で、中国学者でもあるマリヌス・ウィレム・デ・フィッセル(Marinus Willem de Visser 一八七五年~一九三〇年)『(ドイツ語版)の英訳の例もみられる』。『蛟(コウ)の訓読みは「みずち」だが、中国の別種の龍である虬(キュウ)(中国語版)(旧字:虯龍)や螭龍(チ)もまた』、『「みずち」と訓ぜられるので、混同も生じる』。『「蛟」は「龍属」つまり龍の仲間とされる』(二世紀初頭に書かれた辞書「説文解字」)。『蛟は卵生とされ』、『水域で生まれるか陸で孵化するかについては』、「荀子」の「勧学篇」に「積水の淵を成さば、蛟龍、生ず」と『みえる一方』、「淮南子」の「暴族訓」では、)『「蛟龍は淵に伏寝するも、その卵は陵(おか)において割(さ)ける」とされる』。『蛟竜は』、『いずれ』、『飛べる種のドラゴンに変態をとげるとい』った感じの『記述が』「述異記」には『あり、「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で應龍となる」と記されている』。『水棲の虺(き)というのは、水の蝮』(まむし)、或いは、『ウミヘビの一種かと推察される』。『龍と同じく、蛟竜の本来の棲み処は』、『水であること』が、『文献に散見できる』。『「蛟龍は水居」し』「淮南子」の「原道訓」)、『「蛟龍は水を得てこそ」神の力を顕現させ』(「管子」の「形勢篇」)、『すなわち「蛟龍は水蟲の神」であると説かれる』(「管子」の「形勢解」)。『池の魚数が』三千六百『匹に増えると、蛟がボスとなり、子分の魚たちを連れて飛び去ってしまう』(「説文解字」の定義)。『防衛策として、「笱」』(コウ/ク)『すなわち』、『魚取りの簗』(やな)『を水中に仕掛けておけば』、『蛟竜はあきらめてゆく、とされる』(「説文解字」)。同書には『異文があり、三百六十魚の長となる蛟を防ぐには、鱉(べつ)(鼈の異字、別名「神守」)を放てばよい、とする』(「養魚経」)。『鼈(べつ)すなわちスッポン』『を得ることで蛟の弊害を免れる旨は』「本草綱目」にも『述べられ』てある。「魏志倭人伝」では、『会稽に封じられた夏后の小康の子は断髪・文身(いれずみ)し、もって蛟竜(こうりょう)をさけると記し、このことと、倭人もまた』、「文身(いれずみ)し、また、以って、大魚・水禽をはらう」『ことを引合いに出している。大林太良などの民俗学者は、中国と倭における水難の魔除けのいれずみには関連性があると見』ており、『さらに佐々木高明や日高旺は』、『倭人の入れ墨もまた同じく竜形ではなかったか、と推察しているが』、『中国では、すでに聞一多が「端午考」において、古伝に語られる呉越人の断髪文身も、龍文のいれずみをしていたものと推察していた』。「本草綱目」の「鱗部」の「龍類」では、「述異記」を『引用し、蛟は竜に属し、鱗を有すものであるとしている』。『さらには別の文献を引いて以下のように伝える』。裴淵、「広州記」に曰わく、『蛟は長さ一丈余』(三メートル強)あり、『蛇体に四肢を有し』。『その足は広くて盾状である』。『頭は小さく』、『細頚(ほそくび)で、頚には白い嬰』(えい:首飾り)『がある』。『胸元は赭(あか)く(赤土色、赤褐色)』、『背には青い斑紋があり』、『脇の辺は』『錦糸の刺繍のよう』で、『尾は肉環がついており』(「幌・蛇腹(じゃばら)状になっている」ということ)。『大きな個体だと』、『太さ数囲(かかえ)にもなり』、『その卵もまた』、『大きい』。「山海経」の郭璞(かくはく)の注にも『似たような記述があって、頸にあるものは「白癭」(「白嬰」とは異表記)としており』、『これは』「白いこぶ」と『訳される』。『また』、『同注では、「卵の大きさは一石や二石を入れるべき甕のごとく」とあるが』、異本では、『「卵生で、子が一、二斛(こく)の瓮』(もたい・甕(かめ))『ごとし。能く人を呑む」と記載される』。「埤雅」にもまた、『似た記述がある』。また、「説文解字」の『原本にはないが、清代の段玉裁注本では』、『蛟は「無角」であると補足する』。『これと相反して朱駿声』の「説文通訓定声」では、『龍は雄のみが有角で、龍』の『子のうち』、『一角のものが蛟、両角のものが虯(きゅう)、無角のものが螭(ち)であると注釈している』。さらに「本草綱目」は、『蛟の属種に「蜃」を数えている』。『龍船節(端午節)に供される米に関する説話は蛟龍が関係しており、これが』「ちまき」の『起源という説がある』。『説話によると』、『入水して死んだ屈原を祀るため、楚では米を竹筒に詰めて川に投げ入れていたが、あるとき』、『長沙の区曲(異文では区回など)という人物のもとに』、『屈原』が『あらわれ、そのままでは米は蛟龍に盗まれてしまう、よって竹筒の上は楝(おうち)(栴檀)の葉でふさぎ、色糸(五花絲』(「五色の糸」の意)を『つけてほしいと頼んだという。その二物は蛟龍が忌み嫌うものだということである』(呉均撰の「續齊諧記」及び異本に拠る)。『この故事が「ちまき」の起源を語っている、というのがひとつの説である』とある。

「白岳」長崎県松浦(まつうら)市福島町(ふくしまちょう)喜内瀬免(きないせめん)にある百七十三メートルの白岳(国土地理院図)。

「荒政輯要」清の学者で官人(一七九七年に福建省総督に昇進)であった汪志伊撰になる農書で、蝗(いなご)の食害を防ぐことを中心にしたもの。一八〇五年刊。

「窑螺(はうら)ぬけ」山中や普通の地面の下に生きた法螺貝(ほらがい)がいて、それが地震や山崩れを起こすとする伝承は、古くからあった。例えば、私のものでは、「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「佐渡怪談藻鹽草 法螺貝の出しを見る事」を見られたい。

2024/01/14

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「水漉石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 水漉石【みずこしいし】 〔北窻瑣談巻四〕蛮人大海中に乗出したる時、水乏しきゆゑ、奇妙の石を所持して、海潮をその石にて漉すに、海水忽ちに清水《せいすい》となる。潮《うしほ》のみに限らず。酒にても酢にても、その水漉石にて漉す時は、無味潔白の清水となることなり。日本にも伊豆国三嶋にそれに似たる石ありとぞ。伏見御香宮(ごかうのみや)の神主三木(さうぎ)伊豆守は、三嶋に縁家《えんか》ありて、一尺余の水漉石を三嶋より得たり。その石の上を少し窪め掘り、その中に潮にても酒にても酢にてもいれ置けば、四方ヘも下へも自然に滴り出る。酒などを試みしに、実《じつ》に清水になれり。然れども甚だ少しづつ出《いで》て、中々数斗《すと》の水を漉すべき急用には立ちがたしと、伊良子《いらこ》長門守見及びたりと語りき。

[やぶちゃん注:「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ三行目から)。そこにあるルビを、一部、参考にした。

「水漉石」所持する木内石亭の「雲根志」の正編の「卷之二」、及び、「三編」の「卷之二」に見出せたので、電子化する。読みは一部のみに留めた。

   *

     水漉石

蠻國物にて今の世に渡りあり大船に持て甚た重寶(てうはう)にて水きれし時此石を持てこす故に中くぼみて鉢の形に造りなせり潮(うしほ)を入るゝに下に垂るゝ水は淸淨の水となれり潮にかぎらず酢醬油酒油たりとも此石にてこす時は水となる白色(しろきいろ)にて浮石(かるいし)のかたちに似て重き石也變名レツキステインといふ和產和刕幸當谷(こうたうたに)にありと是を取得見るに大に異なれりつまびらかならず又伏見の人所持せり又詳ならず

   *

    水漉石 二十二

水漉石は蠻人船にたくはふるものにして價もつとも貴し船中水盡たる時潮を漉て水を取(とる)甚要用の物なり和產あることを聞ず蠻來(ばんらい)の物いまだ見ず所は產物會に其名あれども甚凝はし[やぶちゃん注:ママ。「疑」か。]しかるに濃州垂井の近鄕圓光寺(ゑんくわうじ)山にて掘出せりとて同郡市橋村谷氏これを贈らる石質柔軟(やはらか)にて色薄白く形狀浮石(かるいし)の如くにして重し石面を窪(くほか)にして茶(ちや)酒(さけ)を漉(こし)試るに忽滴(したた)る淸水(せいすい)なりしかれども用をなす物にあらず弄石家慰ものなり

   *

この「レツキステイン」その他については、是非、私の「譚海 卷之一 同國の船洋中を渡るに水桶をたくはへざる事幷刄物をろくろにて硏事」を参照されたい。なお、橘南谿は一部、本記載を元にして書いていることが判る。

「伏見御香宮(ごかうのみや)」京都市伏見区御香宮門前町にある御香宮(ごこうのみや)神社(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『創建の由緒は不詳であるが、貞観』四(八六二)年に『に社殿を修造した記録があ』り、『伝承によると』、『この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として名水百選に選定されて』おり、『ボトルを持参して取水する地元民も多い』とあった。

「三木(さうぎ)伊豆守」現在の御香宮の神主の姓も「三木(そうぎ)」である。

「伊良子長門守」外科医で官人の伊良子光顕( みつあき 元文二(一七三七)年~寛政一一(一七九九)年)。当該ウィキによれば、『最後の官位は正六位下長門守』。『伊良子道牛の実孫で、道牛の確立した「伊良子流外科」の継承者。光顕は、祖父の代に名声を得た医術をさらに発展させたが、伊良子流外科の源流である西洋医学の論理を自分の目で確認するために、腑分けの実施を熱望するようになる。その願いが叶い』、宝暦八年五月二十八日(一七五八年七月二日)、『山脇東洋・栗山孝庵についで』、『日本で』三『番目の腑分けを行った。このとき、光顕は』二十二『歳(数え)の青年であったが、東洋が気づくことのなかった大腸と小腸の違いを見分けることに成功している。光顕は』、『この腑分けの体験を元に、「外科訓蒙図彙(げかきんもうずい)」という医学書を明和』四(一七六七)年に『執筆した』。『これらの業績によって』、『光顕の医家としての名は』、『さらに轟き、宮門跡であった青蓮院の医師に取り立てられ、さらには』安永六(一七七七)年、『滝口武者に列し、後に長門守に補せられた』。『光顕は伊良子家を、滝口武者を世襲する伏見の宗家(見道斎伊良子家)と』、『典薬寮医師を世襲する京都の家(千之堂伊良子家)とに分け、前者を実子の光慶に、後者を門人で娘婿の光通(旧姓・吉井)にそれぞれ継がせた』とある人物である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「水汲む女怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 水汲む女怪【みずくむにょかい】 〔怪談老の杖巻二〕上総の浦方に大唐が鼻<千葉県いすみ市大東岬>とて、海の中へなり出《いで》し処あり。あるとき房州鉢田といふ所より出しふね、此処につけて水をくみけるが、上の草野に井戸ありて、いとうつくしき女水を汲み居《をり》ければ、そばへよりて待ち居けるを、彼女わたし汲みて進ぜ申すべしとて、になひ桶に一荷汲みいれけり。さて荷ひて船へ持ち行きぬ。何方《いづかた》にて汲みしと問ひければ、この上の野中にて汲みたり、よき井戸あり、よき娘もありてくみてくれたり、女郎町にてもあるか、よき娘のよききる物きて、ものいひけはひ常の娘にはあらずといひけるを、船頭きゝて、この上に井戸もなき筈なり、前方このはなにて水くみにあがりし者、行方《ゆきがた》なくなりし事あり。はやく船を出《いだ》せ、あやかしなりとさわぎければ、としやおそしと船を漕ぎ出しけるに、はやかの娘来りて、海の中へ飛びこみおよぎ来《きた》るを、櫓《ろ》にてなぐりければ、櫓へかじりつきしをたゝきはなして、ゑい声を出しこぎのけてにげけり。かしこくも船頭心づきて、はやく船を出しける程に、皆々いのちを助かりけり。さなくばあやふかるべき事なりといへり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之二 化物水を汲」を参照されたい。この女怪は、所謂、海の妖怪「あやかし」の一種であると私は思う。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「未熟の狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 未熟の狸【みじゅくのたぬき】 〔耳囊巻五〕石谷某の一族の下屋敷に妖怪出ると聞き、その主人、或夜泊りけるに、丑みつの頃、月影にて障子にうつる怪しき影ありしゆゑ、密《ひそか》に立《たち》て右障子をひらきみしに、白髪の老姥《らううば》あり。何者なりやと声を懸けしに、かの姥答へけるは、某(それが)しはこの屋敷の先主の妾なりしが、なさけなく命を召されしゆゑ、今以て浮む事なし、哀れ跡ねんごろに弔ひ、この屋敷にひとつの塚堂をも、きづき給はらん事を頼まんと思ひけれど、恐れて聞き請《うく》る人なしといひければ、あるじのいはく、妾ならば嬋娟《せんけん》[やぶちゃん注:容姿の艶(あで)やかで美しいさま。]と、年も若くあるべきに、白髪の老姥、何とも合点ゆかずと尋ねしに、年久しき事なれば、むかしの姿なしと答へける故、死しても年はよるものやと、抜打に切り付ければ、きやつと云うて形を失ひぬ。夜明けて血(のり)をしたひ尋ねしに、山陰の藪の内へ血ひきて穴ありければ、切崩して見けるに、年を経し狸なり。堂塚を建てさせ、供物など貪らんと巧みしか、未練なる趣向故、きられけるならんかと語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものは底本違いで、「耳囊 卷之六 未熟の狸被切事」である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「三毛の牡猫」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 三毛の牡猫【みけのおねこ】 〔続蓬窻夜話〕紀州根来(ねごろ)山の麓西坂本<和歌山県那賀郡内>の誠証寺は、大乗妙典首題修行の精舎なり。元禄年中より享保の頃まで住持しける僧は、本成院日解(《ほん》じやう《ゐん》《にち》げ)とて則ち予が為めには兄なり。これ故に予折節に行きて安否を問ひ、時により二日三日逗留して帰府すること度々なり。この寺殊の外鼠多くして、仏殿の幢幡《どうばん》[やぶちゃん注:仏堂に飾る旗。竿柱に、長い帛(はく)を垂れ下げたもの。サンスクリット語で「旗」を意味する「ダーヴァジャ」の漢音写。]・天蓋・位牌・器物悉く嚙み傷(やぶ)りて、疵付《つか》ぬ物なかりければ、住持うたてしき事に思ひ、或る時予<肛某>が尋ね行きし時語つて曰く、寺に猫を畜(か)うて鼠を捕らする事は、殺生の罪遁れ難く、寔(まこと)に不便《ふべん》[やぶちゃん注:『ちくま文芸文庫』では、『ふびん』とルビするが、ここに限っては、それは私は採らない。]の事なれども、頃日《けいじつ》は殊に鼠多く蕃(はびこ)り出《いで》て、三宝の尊容をも処々嚙み傷れり、猫を畜ひおけば、鼠を捕らずと云へども自然と鼠荒れずと聞き及びたり、然れば我れ猫を畜ふべしと思ふなり、但し在俗の人の語るを聞けば、逸物の猫は牝猫に在りと云ふ、然れども牝猫は児を乳(うむ)時、その穢(ゑ)を介抱するもむつかし、我れは鼠を捕らせん為めには非ず、只その荒(あれ)を鎮めん為めなれば、牡猫を畜ふべしと思ふなりとて、予が僕《しもべ》に向つて、汝若山(わかやま)[やぶちゃん注:和歌山に同じ。]に帰りて後、然るべき牡猫あらば、求め来て我に得させよと頼みければ、予が僕帰府の後《のち》心に忘れず、尋ね求めけるほどに、中嶋(なかのしま)と云ふ処にてうつくしき牡猫を求め出し、則ち予に暇を乞うて坂本へ具して行きければ、住持大いに喜びて則ち寺に畜ひおきて、寵愛する事斜めならず。寔にその故にやありけん、鼠の荒れも自然と鎮まりけるとぞ聞えし。ある時予また坂本へ行きて二三日も逗留し、夜に入り酒など吞んで後《のち》、住持と一所にふしたりしに、夜半過ぐるころ住持大いに魘(おそ)はれてうめきけるほどに、予驚きて則ち呼び起しければ、やうやうに夢覚めて気付きたりと覚ゆる時、かの猫住持の上より飛びおりぬ。予心に思ひけるは、住持この猫を愛して側《そば》におきけるが、いつとなく寝たる上に登りて居《ゐ》たるゆゑ、夢中に彼におそはれたるものならんと思ひながらまた寝たるに、暁方予また大いに魘はれて、覚えず知らず声を立ててうめきければ、住持荐(しき)りに予を呼び起しけるに、やうやうに目醒めて見たれば、我が胸の上より猫また飛び下りたり。さては弥〻《いよいよ》この猫の人を魘ふぞと思ひしかども、住持昨日《きのふ》の物語りに、この猫の来《きたりて》て後、鼠を捕ること希(まれ)なれども、自然とその荒れしづまりて、器物も嚙み損ぜらるゝことなしと喜び愛しけるをりなれば、その心を破らんことも如何と思ひ、夜明けてその沙汰もせざりしに、翌晩もまた昨夜のごとく、両人ともに魘はれければ、さてはこの猫尋常の猫に非ずと思ひ居けるほどに、その翌晩住持と炉を囲みて酒吞みける時、かの猫も炉に傍(そう)て蹲《うづくま》り居《ゐ》たるを見て、予が言ひけるは、この両夜二人ともに魘はれたる事、予心を付けて見侍りしに、この猫が胸の上に登りて居たる故なり、夜に入らば別の間に繫ぎおきて、寝所へ来《きた》らぬやうにし玉へかし、世俗の辞(ことば)を聞くに、牡猫に三毛は希なるものなり、三毛は必ず皆牝なり、若し三毛の牡猫あれば必ず奇怪をなすと云へり、今この猫を見るに、赤白黒三毛にして牡なり、唐(もろこし)の書にも金花猫(きんかべう)と云ふ猫は必ず妖をなすといへり、この猫など若しその金花猫の類《るゐ》ならんか、油断し玉ふなといひしかば、住持我れもさ思ふなり、今宵より次の間につなぎおくべしと云ふを、かの猫炉の側に蹲り、まじまじと聞き居《ゐ》たりしが、何とか思ひけん、ふと立《たち》て走り出《いで》たり。住待も予も定めて背戸近所へ出たるならんと思ひ居《をり》たるに、夜深(ふく)るまで帰らず。住持を始め小僧奴僕、声を揚げ名を呼びて尋ねけれども、何地《いづち》へか行きけん、その晩より再び帰らず、終《つひ》にまた形を見せず。予顧(おも)ふに果して妖猫《えうべう》なりしゆゑ、予が言ひ顕せる詞を聞きて、後の害あらん事を謀り、繫がれざるさきに縄索を脱して故窩《ふるす》に帰りしにや。不思議なりし事なり。

[やぶちゃん注:「三毛の牡猫」ウィキの「三毛猫」によれば、『原則として三毛猫はメスとなる』。『これは、ネコの毛色を決定している遺伝子がX染色体に起因するためである。ぶち(白斑)や黒などを決定する遺伝子は』、『常染色体上に存在するが、オレンジ(茶)を決定するO遺伝子のみは』、『X染色体上に存在し、伴性遺伝を行なう。そのため、三毛猫が産まれるのは』、『O遺伝子が対立するo遺伝子とのヘテロ接合になった場合となる。これは哺乳類では2つのX染色体の内、どちらか一方がランダムに胚発生の初期に不活性化されることにより、毛色がオレンジになる(O遺伝子が発現)部分と他の色になる部分に分かれるからである』。『一方で、オスの三毛猫も存在する。オスの三毛猫が産まれる原因は、クラインフェルター症候群』(Klinefelter syndrome)『と呼ばれる染色体異常(X染色体の過剰によるXXY等)やモザイクの場合、そして遺伝子乗り換えによりO遺伝子がY染色体に乗り移った時である。クラインフェルター症候群のオスの出生率は』三『万分の』一『である』。『染色体異常の場合は通常』、『繁殖能力を持たないが、モザイク、遺伝子乗り換えの場合は生殖能力を持つことがある。生殖能力のある三毛猫のオスは』、一九七九『年に』、『イギリス』で、また、一九八四年に『オーストラリアで確認されたものの他に』、二〇〇一『年に日本でも確認された』(但し、ここには「要出典」要請がかけられてある)。『なお、生殖能力のあるオスの三毛猫が交配しても、オスの三毛猫の子猫が生まれる確率は変わらず、その可能性は非常に小さい』。『オスの三毛猫を船に乗せると福を呼び、船が遭難しないという言い伝えがある。「猫が騒げばシケになり、眠れば天気平穏」と信じられた』。『縁起物である招き猫においては、三毛猫がモデルにされることが多い。江戸時代には高値で取引されていたという説もあるが、実際の取引事例は不明である。日本の第一次南極観測隊でも、珍しくて縁起が良いという理由で、民間人からオスの三毛猫が贈られたことがあった』。『この三毛猫は、当時の観測隊の隊長であった永田武の名前にちなんでタケシと名付けられ、昭和基地内のペットとして隊員達と共に南極で越冬した。タケシは南極から日本に戻った後、隊員の一人に引き取られたものの、間もなく隊員の家から脱走して行方不明となった。なお』、一九九一『年に「環境保護に関する南極条約議定書」が採択されて以来、動物の南極への渡航は一切禁止されている』とあった。

「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保一一(一七二六)年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。

「紀州根来山の麓西坂本」「和歌山県那賀郡内」「誠証寺」現在は和歌山県岩出市根来で、そこにある日蓮宗智光山誠證寺がそれ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「中嶋と云ふ処」和歌山県和歌山市中島(なかじま)であろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「身代り観音」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ま」の部は終わっている。]

 

   

 

 身代り観音【みがわりかんのん】 〔兎園小説第四集〕善光寺如来の百姓幸助が身代りにたゝせ給ひし事は、あまねくしる所なり。享和年中、浅草観音の影像身代りの事をきけり。そのさま幸助が事にさもにたり。ある田舎人(名所はよく糺すべし)霊巌寺の塔頭に逗留して、日毎に江戸見物にいでけるが、七月中、浅草観世音にまうで、還向《げかう》して新吉原の燈籠を見、かへり二更[やぶちゃん注:亥の刻。午後九時或いは午後十時からの二時間を指す。]過ぐる頃、帰路に趣きし所、土手にて酒狂人有り。白刃を振り、群集の人々あわてさわぎけるに、かの田舎人あやまちて、刃《やいば》にあたりたふれふしたり。かたへの人はまさしく殺害《せつがい》と見たり。当人もきられたりと覚えつゝ倒れて気絶しけり。そのひまに酒狂人は行方しれず。人々寄りてこれを見るに、刃傷《にんじやう》の様子にもなし。いづ方の人にか。息たえたれば、尋ねとはんやうもなく、とやせんかくやといひあへる折から、一人がいふ、この者昼のほど観音境内の何屋といふ茶店にて見しものなりといひければ、いでやとて駕籠にのせてその家につれ行き、いづ方の人にかと問ひけるに、茶店のあるじもあからさまに立ちよりし人なれば、住所もしらずといふ。こはいかゞせんと当惑しける折から、ふといき出でたり。よつてその住所をたづねければ、そこそことこたふ。すなはち深川の旅宿につれ行きたり。宿坊にては、深更に及びてもかへらねば、いづこにかやどりつらんとて、戸かぎをしめてねたり。さるに暁に及びて音づるゝにより、さしつる戸をあけて、たぞと問へば某《なにがし》帰りたりと云ふ。いかにしておそかりしといへば、しかじかと答ふ。まさしく切られたりとおもひしかども、身の内にきず付きし痕もなし。さらば尊《たつと》き守りにてもかけたりやと問へば、さる物ももたず。懐中に有る者とては浅草観世音の御影《みえい》のみなりとて、取り出でてひらき見れば、不思議なるかな、紙にすりし御影きれて有り。さては我が身がはりにたゝせ給ひしならんとて、渇仰の涙おきあヘず。頓て上のくだりゑがかせ、ゆゑよしをしるして観音堂の内に掲げて有りしを、享和年中、檜山坦斎まのあたり見たりといへり。今はなしとぞ。<『兎園小説第六集』『道聴塗説第三編』にもある>

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代觀音』を参照されたい。なお、そちらにもリンクさせてあるが、同書第一集の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 百姓幸助身代り如來の事』も同じく参照されたい。

「兎園小説第六集」同じく『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 身代り觀音補遺』を参照されたい。

「道聴塗説第三編」(だいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。宵曲は巻数を誤っており、「十編」ではなく、「第十四編」である。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る(リンク先は標題のみのページ。次のコマで本文全文が見られる。標題は『○身代の觀音』。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「回り燈籠」 / 「ま」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ま」の部は終わっている。]

 

 回り燈籠【まわりどうろう】 〔裏見寒話追加〕韮崎(にらさき)を経て新府古城へ行く間に石燈籠あり。この火袋に六地蔵を彫付けたり。これは弘法大師当国へ来りし折から、石工をなして地蔵を刻み付けたりと。日月の如く、この火袋、常に巡環して暫くも止る事なく、万代不易、仏法流布の証蹟とすと。然りといへども権者の妙工なれば、彼の燈籠の回る事、人眼《ひとめ》に見え難し。依て行く時に印(しるし)の紙を付け置き、帰る時にこれを見れば、西にありし紙、帰りには東に回るといふ。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの左ページの『○新府の回り地藏』がそれ。但し、この燈籠は現存しないようである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「丸木船」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 丸木船【まるきぶね】 〔閑窻瑣談巻四〕房州安房郡《あはごほり》山刀(なたきり)村に、船越《ふなこし》大明神と云ふ社《やしろ》あり。抑〻《そもそも》当社は、神代《かみよ》の古跡なりといふ。山下《さんか》は海波《かいは》満々として、社前までも浪をうち寄する事有り。これを下(しも)の宮といふ。上の宮は四五町程山の上にて、唯《ただ》大いなる洞穴《ほらあな》ありとぞ。深山《しんざん》といふにはあらねど、何となく物すごく、幾千代《いくちよ》を経《ふ》るのみやしろ、神さびて、森々《しんしん》たる老樹《らうじゆ》生ひ茂り、何《なに》さま上古《いにしへ》の体相(おもむき)ありて、洞穴の入口《いりくち》に船越大明神といふ額をかけたり。筆者凡人《ぼんにん》の及ぶ所にあらず。額の木地《きぢ》は朽ちたれども、墨色《すみいろ》鮮やかに尊《たふと》し。三年《みとせ》に一度《ひとたび》づつ海上《かいしやう》より竜燈《りうとう》来りて、山上(やまのうへ)を照す事あり。また神前にさゝげたる古代の丸木船二艘あり。長サ一丈六尺、𦨴(どう)の間《ま》五尺余《よ》にて、木色《きのいろ》は薄紫なるが、何《なに》といふ木なりや知る者なし。唐木《からき》にて造りし船なりとみ云ひ伝ふ。一艘は何百年以前より在るか知らねど、只竜宮より上《のぼ》りし物と土人(さとびと)の説なり。一艘は万治二年の五月下旬《すゑつかた》より在りといふ。その故を尋ぬれば、土地《ところ》の人々海上《かいしやう》に鰯網《いわしあみ》の船を出《いだ》して漁猟《ぎよれふ》する折しも、何所《いづく》より来《きた》るともなく、右にいふ船一艘、乗《のる》人はなくて白紙の幣束《へいそく》一本、船の中に建ててありしが、漁人等《すなどりびとら》這(これ)を見て、各〻あやしみ、その船に乗り近付かんと櫓を押して漕寄《こぎよ》すれば、彼《かの》船は乗人《のりて》なけれど、自然と東西南北に走りて、数多《あまた》の猟船《れふせん》四方より取かこめども近付きがたく、忽ち多くの船の間《あひだ》を走り抜けて、伊豆の大嶋の方《かた》へ流れ走りけるが、その夜《よ》山刀村の船越山《ふなこしやま》に、多くの人声《ひとごゑ》して物を引運《ひきはこ》ぶ様《やう》なりしが、翌日行きて見れば、昨日海上《かいしやう》にて追ひまはしたる幣帛《へいはく》立てし丸木船を、山上《さんしやう》に引上げて神前に備へたり。何者がなせしといふ事知れず。全く神の所為《わざ》なるべしとて尊《たふと》み恐れしが、その時より二艘にはなりしとぞ。

[やぶちゃん注:以下は底本では、全体が一字下げで、ややポイント落ちである。]

一説に、此船は琉球国にて国王の代がはりに造りて、海神《うみのかみ》を祭祀(まつる為《ため》に海上《かいしやう》へ押流《おしなが》し、海神《わだつかみ[やぶちゃん注:前とルビが異なるのは、後の活字本のママ。]》にたてまつるものなりとぞ。按ずるに船越明神も海神《かいじん》に在(ましま)せば、琉球国王の諸々(もろもろ)の海神《かいじん》へ奉まつられしが、この御神《おんかみ》へ納《をさ》まるべき節(とき)に当りて、はるばると届きしものか。竜宮より納まりしといふも、琉球より奉納ありしといふ説を誤り伝へしものなるか。

[やぶちゃん注:「閑窻瑣談」江戸後期に活躍した戯作者為永春水(寛政二(一七九〇)年~ 天保一四(一八四四)年)の随筆。怪談・奇談及び、日本各地からさまざまな逸話。民俗を集めたもの。浮世絵師歌川国直が挿絵を描いている。吉川弘文館『随筆大成』版で所持するが、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第九巻(国民図書株式会社編・昭和三(一九二八)年同刊)のこちらから、挿絵(次のコマにある)入りで正字で視認出来る。『卷之四』の、通しで『第五十一』話目の『丸 木 船(まるきふね)』である。総ルビに近いので、読みは、積極的にそれを参考にした。挿絵を吉川弘文館『随筆大成』版からOCRで読み込んで、トリミング補正し、注の最後に添えておくこととする。

「房州安房郡山刀(なたきり)村に、船越大明神」この神社は、二つある。北の、海に近い位置の千葉県館山市見物(けんぶ)にあるものが、「海南刀切(かいなんなたぎり)神社」(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、房総フラワーラインのX交差点を挟んで、南の山側の館山市浜田にあるものが、「船越鉈切(ふなこしなたぎり)神社」である。後者はグーグル・マップでは、「鉈切洞穴」とあるだけだが、後者のサイドパネルの写真の、ここの鳥居の左に石柱があり、『舩越鉈切神社』と彫られてあり、こちらの写真の『舩越鉈切神社・海南刀切神社 案内』の説明版でも確認出来る。さらに、「館山市立博物館」公式サイト内の「たてやまフィールドミュージアム」の「なたぎり」に拠れば、『船越鉈切神社の本殿は洞穴の中に建てられ、海神の御子・豊玉姫命(とよたまひめのみこと)を祀る。海南刀切神社の本殿は、高さ約』十メートルの『真っ二つに分かれている異様な形の巨岩の前に建てられている。この巨岩が二つに割れていることについては、対岸相模から来た神による大蛇退治の伝説などが伝えられている。 両社は鉈切大明神の上之宮と下之宮として一社一神とみなされ、互いに分かちがたく、海の神・海上安全の守護神として船乗りたちに崇敬されてきたようである』とあり(PDFの手書き地図もある)、『その他の文化財』に『独木舟(まるきぶね)』があり、『館山市指定文化財。この舟が当社に奉納されていることは、すでに水戸徳川光圀の大日本史に記載され、明治』二七(一九九四)『年に歴史家の岡部精一が調査したのをかわきりに、西村真次・松本信広ら戦前の研究者も調査しており有名である。しかし出土品でないため』、『年代の断定がむずかしく、由来についても古来より諸説紛々である。長さ』二メートル十九センチメートルとある。現行では一艘しかないようである。写真を探したが、ネット上にはなかった。なお、この巨石信仰(写真有り)、なかなかに興味深い。

「琉球より奉納ありしといふ説」如何も有力な説のように記しているが、これは考えられない。但し、琉球でニライカナイへの奉祝の行事が行われ、たまたまその祭儀に用いた沖に流す小舟が、たまたま流れつくことは、ないとは言えない。

 

Kaisyausinsennozu

 

キャプションは左幅左上に二行で、『海上(かいしやう)神舩(しんせん)』『の圖(づ)』である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「松任屋幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 松任屋幽霊【まつとうやゆうれい】 〔翁草巻五十六〕享保十四五年の頃、京都の松任屋徳兵衛と云ふ問屋に、松之助とて十四五歳の男子有り。さのみ美質と云ふにもあらねども、宿因の成る所か、女の執著《しふぢやく》を受《うく》る性《しやう》にて、その辺り小女《こをんな》両人しづ心なく、松之助に恋ひ忍びて、既に二人が霊、松之助につきて、或時は呵責に逢ふ如く、宙に引はられ、釣上げられ、両女《りやうぢよ》がこわねにて恨みかこち、嫉妬の問答など目前に在るが如く、唯《ただ》形はなくて、松之助が口を借りてしやべるばかりなり。これに悩まされ、松之助心地煩はしく、色青ざめ、病(やま)ふの床に臥す。二親悲しみて、その頃千僧供養を遂げられし象海《ざうかい》和尚を招じて、祈《いのり》加持を頼みぬるにより、家海色々教化《きやうげ》せらる。始めは験《しるし》も薄かりしが、次第に帰伏《きぶく》して和(やはら)ぐ様《やう》なれども、月をかさねて退《しりぞ》かず。兎角する内に、一人の娘は果てぬ。霊はその儘立《たち》さらで、和尚並に弟子聞首座《もんしゆざ》(今壬生村新徳寺に有る天巌和尚これなり)への問答いと哀れなる事どもなり。我はこの世を去りぬと覚えて、我が浅ましき形、自らの眼《まなこ》に遮り、二親の歎きを見るにつけ、いとゞ悲しく侍るなどと語る。或時は和尚のおはせし儘、早々《そうそう》迎へ出《いで》よと呼べども、松之助出《いで》ず、やゝ有《あり》て出るゆゑ、など遅かりしとぞ尋ぬれば、余り取乱したるさま故、著替《きが》へて出ぬと云ふ。その小袖を問へば、何色にて模様は何なりと云へども、姿は見えず。娘の親は貧しき者にて、近き辺りなれば、斯様《かやう》の咄《はなし》迄も一々聞きて、その小袖は重宝致せし小袖なりとて歎き臥しぬ。かくてやや示《しめ》しを請けて、両女が霊も有難き功力《くりき》に引かれ、和尚並びに聞首座へ暇乞して立去る。その後《のち》は再び来らず。松之助も快気して、元々通りになりぬ。

[やぶちゃん注::「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂六(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『松任屋幽靈の事』。但し、最後に続く、京雀の野次馬入れ込みと、それへの批評談がカットされている。なくてもよいが、あってもよい。私なら、実話談であることの証明に、必ず、採る。されば、以下に電子化しておく。

   *

其頃都鄙に專ら此沙汰有て松任屋が方へ、人群りて是を見聞す、德兵衞難義に思ひて色々制止すれ共用ひばこそ、理不盡に家內へ人押込み取り押込み取り批判をなす事市の如し、まのあたり三世有りと打詈れ共、三世の事は無益の論なり、一念凝らば斯く有まじきに非ず夫に依て三世有と云ひ、又無と云も俱に迷ひ成るべし、此前生れながらの盲人黑白の色を問ふに、是に答るに黑きは黑きとより外に云樣も無し、其黑きを知らぬ者には、千度說ても解がたし、凡身にて三世の論、是に等し、昔爲家卿の若き時慈圓僧正の門弟に成給ひ歌稽古有しに、慈圓より爲家卿の許へ送らるゝ文に少將どの頃日歌御けいこ有が難義などを少しも問はせ給はず、器用の御心ざしと見に侍ると書送られしとなり、なべて物の奥儀をいたく探らすはよからぬにや、其場へ至らば自ら開くべし、神佛も唯たうとみてよし、深くうがてば色々の事もやつきて、却て疑を生じ、信うすらぐ事多し、

   *

なお、この話、ウィキの「生霊」に紹介されてある。

「享保十四五年」一七二九年一月二十九日から一七三一年二月六日まで。

「松任屋徳兵衛」信頼出来る史料によれば、少なくとも扱う商品に紅花があったことが確認出来る。

「千僧供養」千人の僧を招いて食を供し、法会を営むこと。特に中国の南北朝時代から流行し、本邦では孝徳天皇(即位:皇極天皇四年六月十四日(六四五年七月十二日)以降、盛んに行われた。千僧会(せんぞうえ)とも言う。

「象海和尚」知られた臨済僧象海惠湛(ぞうかいえたん 天和(てんな)二(一六八二)年~享保一八(一七三三)年)。讃岐出身。備中の宝福寺の立岩慧久に就いて出家し、同寺の鉄堂慧石の法を嗣ぎ、宝永六(一七〇九)年に住持となった。後、京の東福寺・南禅寺に招かれ、教法を弘(ひろ)めた。諡号は仏眼大観禅師。

「聞首座」「天巌和尚」天巌文聡(生没年未詳)。

「壬生村新徳寺」京都市中京区壬生賀陽御所町(みぶかようごしょちょう)にある臨済宗永源寺派鳳翔山新徳寺(しんとくじ:グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『永源寺百十三世天巌文聡』『和尚の開山で、大智寺の末寺の寺号を譲り受け、摂津の瑞岩山、当地の北隣の万年寺など四寺を併合して』、『「鳳翔山新徳寺」として建立された』。『天巌文聡は』、『かねて親交のあった摂政一条道香』(みちよし)『より』、『旧殿と重門を賜り、御所から移築して』、『旧殿を本堂とした。しかし、江戸』『後期の天明の大火により』、『焼失した』とあり、また、『新徳寺は』、『幕末』に『活躍した新選組にまつわる最初の舞台となった場所としても知られる』。『上洛した新選組の前身浪士組のリーダー清河』(きよかわ)『八郎が』、『浪士たちを集めて、大演説をしたのが新徳寺の本堂である。「尊王攘夷をやる」と清河らは江戸に引返したのであったが、八木邸を宿舎としていた近藤勇のグループが「我々の役目は幕府権力の維持だ」として、清河が率いる浪士組を脱退して京都に残ったのである。これが新選組の誕生である』とあった。]

2024/01/13

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「枕元の座頭」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 枕元の座頭【まくらもとのざとう】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻一〕安永九子年の冬より翌春迄、関東六ケ国川普請御用にて、予<根岸鎮衛>出役して右六ケ国を相廻りしが、大貫次右衛門・花田仁兵衛等を伴ひ、一同に旅行し侍るに、花田は行年五十歳余にて、数年《すねん》土功に馴れ、誠に精身すこやかにして、あくまで不敵の生質《きしつ》なりけるが、安永十丑年の春、玉川通《たまがは》へ廻村して押立村に至り、予はその村の長たる平蔵といへる者の方に旅宿し、外々はその最寄りの民家に宿をとりける。いつも翌朝は両人も旅宿へ来りて、一同伴ひ次村へ移りける事なり。その日例より遅く来りし故、不快の事も有りしやと尋ねしに、いや別事なしと答ふ。その次の日も又々予が旅宿に集りて、御用向取調べける折からに、花田語りけるは、押立村旅宿にて埒なき事有りて夜中臥り兼ね、翌朝も遅くなりしと語りける故、如何なる事やと尋ねけるに、その日は羽村の旅宿を立ちて雨もそぼふりし故、股引《ももひき》草鞋《わらぢ》にて堤を上り下りして、甚だ草臥《くたぶ》れし故、予が旅宿を辞し帰りて直《ただち》に休み申すべしと存じ候処、右旅宿のやうは、本家より廊下続きにて少し離れ、家僕など臥《ふせ》り候処よりも隔たりけるが、平生人の住まざる所にや、石垣もまばらにて裏に竹藪生ひ茂り、用心も宜しからざる所と相見え候故、戸ざしの締り等も自身に相改め臥りけるが、とろとろと睡り候て覚《さ》むる頃、天井の上にて何か大石《だいじやく》など落し候様なる音のせしに目覚め、枕を上げ見れば、枕元にさもきたなげなる座頭の、よごれたる嶋の単物《ひとえもの》を著し、手をつき居《ゐ》たりしゆゑ驚き、座頭に候やと声掛くべしと思ひしが、若し座頭にはこれなしなどと申すまじきものにもこれなく、又全く心の迷ひにも有りやと色々考へけれど、兎角座頭の姿なれば、起上り枕元の脇差を取上げ、抜打《ぬきうち》にと起上《おきあが》る内、形を失ひしまゝ心の迷ひにあらんと懐中の御証文などをも猶丁寧に懐中して、戸ざしの締り等をも相改め、再び臥しけるが、何とやら心に掛り睡らざりしが、昼の疲れにて思はず睡りけるや、暫く過ぎて枕元を見けるに、又々かの座頭出《いで》て、この度は手を広げおほひかゝり居《をり》ける間、最早たまりかねて※(よぎ)を取退《とりの》け[やぶちゃん注:「※」=「衤」+「廣」。]、枕元の脇差を取揚げければまた消え失せぬ。これに依つて燈《ひ》をかき立て、座敷内改め見けれど、いづ方よりも這入《はひい》るべき所もなきまゝ僕《しもべ》を呼び起さんと思ひけれど、遙かに所も隔《へだて》たるなれば、人の聞かんも如何《いかが》と、また枕を取り侍れど、何とやら心に掛りてねられず。また出もせざりしが、全く狐狸のなす業ならんと語り侍る。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 妖怪なしとも極難申事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「枕の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 枕の怪【まくらのかい】 〔牛馬問巻二〕凡そ古物《こぶつ》、陰気に相感ずれば、妖怪をあらはし人を悩ます。もとこれ陰邪なれば、気力うすき人は、その邪《じや》に勝つ事能はず。故になやむ。予<新井白蛾>、幼年の比(ころ)なりしが、森田何某が物語を聞くに、このころ江戸深川三十三間堂の近辺に、久しき明家《あきや》の有りしを、或医者の借りて移りしに、ほどなく病気付《づ》きければ、これは定めて久しき明家ときゝぬれば、陰湿の深きこそと服薬すれども験《しるし》なく、後《のち》には異症《いしやう》をあらはし、時々迫脅《おびえ》[やぶちゃん注:二字への読みとした。]くるしみ、欝々として前後をしらず。この医者、不図《ふと》おもひあたりしは、我おそはるゝ始め、なにとなく雑具部屋の方より冷風《れいふう》吹き来《きた》る心地すれば、必ず正気を乱《みだ》る。これまさしく妖怪の為になやまさるゝと覚えたり。何ぞあやしきものも有りや、よく見て参れと申付け、たづねさせけるに、怪しむべき物さらになし。古き持仏堂の有る間《あひだ》、開《あけ》て見れども、一物《いちもつ》の有るなし。下段《しもだん》といふ所の戸を開見《ひらきみ》ればいかにも古き木枕一ツ有るのみ。病人に見せければ、これこそ幾百年も経し古物と見えたり。このもの、妖をなすに疑ひなし。打割《うちわり》て薪《たきぎ》を積《つみ》て、その中へ投じて焼くに、その臭《にほひ》、屍《かばね》を焼くに異ならず。病《やまひ》頓《とみ》に愈ゆ。

[やぶちゃん注:「烏賊と蛇」で既出既注。この正字原文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧三期・㐧五卷(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここにある『○枕の怪』がそれ。

「古物、陰気に相感ずれば、妖怪をあらはし人を悩ます」所謂、「付喪神」(つくもがみ)である。私の『「教訓百物語」上卷(その4 「狐の嫁入り」又は「付喪神」)』の冒頭の私の注を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牧野家妖怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 牧野家妖怪【まきのけようかい】 〔甲子夜話続篇巻三十四〕予<松浦静山>が中《うち》に白拍子を為す一婦あり。年若き時は歌舞伎の笛鼓《つづみ》などして、諸方に往きて囃子をしけり。或とき海粟橋(かいぞくばし)なる牧野侯にこのことありて往きしに、夜に及んで大雨し風荒れて困りたれば、歌舞も畢《をは》りぬれど、今夜は一宿したしと請ひしが、傅女《ふぢよ》の輩《はい》、一宿協《かな》ひがたし、還るべしと云ふ故、ひたすら願へば、さらば宿すべしとて、奥の広き間に臥《ふせ》しめたり。某も一人にもあらで、年老いたる婦と共に往きければ、共に臥しゝが、夜半も過ぎたる時、人の来《きた》る音しけり。某はよくねいりしが、老婦はねもやらで有りしに、身の長け五尺にも越ゆる色白き女、赤き袴を著て歩み来り、寝たる所に近寄り、並び臥したる者一人づゝ夜著《やぎ》をまくり、寝息をかぎつゝ行き過ぎたり。かの老婦も同じくせしが、目覚めたらば害にもや遭はんと、寝入りたる体《てい》にしたれば、頓《やが》て行き去りたり。それより怖ろしさ弥(いや)増し、添臥したりし某をゆり起し、かくと告ぐれば、某も驚きて傅女に暇《いとま》を乞ひ、未だ暁(あけ)ざるに雨風を侵して出つゝ、走るが如く家に帰りぬと語れり。この長け高き女は彼《かの》邸《やしき》の妖怪にて、年久しくこのことあり。因《よつ》て件《くだん》の歌舞伎の如きにも、これを秘するが為に宿せざらしめしなりと、後に彼婦聞くと云ひし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷三十四 16 海賊橋某侯邸の妖怪幷千住の死婦」を電子化注しておいた。なお、宵曲は、当該話の後半の「千住の死婦」をカットしている。]

フライング単発 甲子夜話卷三十四 16 海賊橋某侯邸の妖怪幷千住の死婦

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは静山が施したルビ。二つの話が、改行であるので、間に「*」を挿入した。]

 

34―16 海賊橋某侯邸(やしき)の妖怪幷(ならびに)千住の死婦(しふ)

 予が中(うち)に白拍子(しらびやうし)を爲す一婦あり。

 年若きときは、哥舞伎(かぶき)の笛鼓(つづみ)などして、諸方に往(ゆき)て、囃子(はやし)をしけり。

 或とき、海栗橋(カイゾクバシ)なる牧野侯に、此ことありて、往きしに、夜に及んで、大雨(おほあめ)し、風、荒れて、困りたれば、歌舞も畢(をは)りぬれど、

「今夜は、一宿(いちしゆく)したし。」

と請(こひ)しが、傅女(ふぢよ)の輩(はい)、

「一宿、協(かな)ひがたし。還るべし。」

と云(いふ)ゆゑ、ひたすら、願へば、

「さらば、宿すべし。」

迚(とて)、奧の廣き間(ま)に臥(ふせ)しめたり。

 某(なにがし)も、一人にもあらで、年老たる婦と共に往きければ、共に臥しゝが、夜半も過(すぎ)たるとき、人の來(きた)る音、しけり。

 某は、よくねいりしが、老婦は、ねもやらで有(あり)しに、身の長け、五尺にも越(こゆ)る、色、白き女、赤き袴を着て、步み來り、寢(いね)たる所に近寄(ちかよ)り、並び臥したる者を、一人づゝ、夜着(やぎ)を、まくり、寢息を、かぎつゝ行過(ゆきすぎ)たり。

 かの老婦も、同じくせしが、

『目覺(めざめ)たらば、害にもや遭(あ)はん。』

と、寢入(ねいいり)たる體(てい)にしたれば、頓(やが)て、行去(ゆきさり)たり。

 夫(それ)より、怖しさ、彌(イヤ)まし、添臥(そひふし)たりし某を、ゆり起し、

「かく。」

と告(つぐ)れば、某も驚(おどろき)て、傅女に、暇(いとま)を乞(こひ)、未だ曉(あけ)ざるに、雨風(あめかぜ)を侵して出(いで)つゝ、走るが如く、家に歸りぬと、語れり。

 この長(た)け高き女は、

「彼(かの)邸(やしき)の妖怪にて、年久しく、此こと、あり。因(よつ)て件(くだん)の哥舞伎の如きにも、これを祕するが爲に、宿せざらしめし也。」

と、後に彼婦、聞くと、云(いひ)し。

■やぶちゃんの呟き

 二ヶ所、どうも、尻の座りが悪い、気になるところがある。一つは「並び臥したる者を、一人づゝ」のところで、彼ら二人が奥の広間に寝たとしか読めないのに、それ以外に寝ている者がいるとなっていることで、今一つは、「因て件の哥舞伎の如きにも」というのが、以下の文と上手く合っていない点である。

「海賊橋某侯邸」「海栗橋(カイゾクバシ)なる牧野侯」「海賊橋」が本来の橋名で、「海栗」は当て字。明治になって「海運橋」と改名した。ここ(「人文学オープンデータ共同利用センター」の「築地八町堀日本橋南絵図(位置合わせ地図)」)。現在は橋の親柱のみが残る(グーグル・マップ・データ)。にしても、「目錄」は「某侯邸」であるのに、本文では「牧野邸」(リンク先の「江戸切絵図」の「牧野河内守」邸。丹後田辺藩の牧野家)とバレてあるのは、どういうこと?

「白拍子」ここは、単に能楽や歌舞伎舞踊の女性楽人のことと思われる。

「傅女」貴人に傅(かしず)く侍女。

   *

 又、近頃のことにて、千住の刑場のあたり、人ばなれの處に、夜更けて、小兒の泣く聲、せり。

 其邊(そのあたり)の人、聞つけ出(いで)みるに、三、四歲の小兒の聲なり。

 あやしみつゝ、聲のする所に到れば、艸(くさ)むらの傍(かたはら)に、泣(なき)ゐたり。

 その側(かたはら)に、又、一婦、伏しゐたり。

 視れば、已に死せり。火を照し、能く見れば、廿餘(はたちあまり)、三十に及びなんと覺しき女なるが、容色も美にして、衣服も卑しからず、頭には、銀の簪(かんざし)を揷(サ)したり。

 その側(そば)に、風呂鋪包(ふろしきづつみ)、あり。

 披(ひら)き見れば、縮緬(ちりめん)の小袖と、鼈甲(べつかう)の上品なる大なる櫛、簪とあり。

 因(よつ)て、小兒に居所(ゐどころ)等を問へども、分らず。

 爲(せ)ん方なければ、張札(はりふだ)を出(いだ)し、諸所を尋索(たづねもと)めたり、と。

 或人、云(いはく)、

「これは、野狐(やこ)の、好男子に變じて、欺き犯せしならん。狐は採補(さいほ)[やぶちゃん注:「捕獲」に同じ。]の術(じゆつ)を以て、誘淫(ゆういん)するゆゑ、女は、これに堪(たへ)かね、髓竭(ずいけつ/ずいけち)して、死するものなり。是も此類(このたぐひ)ならん。」

■やぶちゃんの呟き

「千住の刑場」小塚原刑場(こづかはらけいじょう/こづかっぱらけいじょう)。この附近にあった(グーグル・マップ・データ)。

「張札」近世、庶民が、公儀には訴えずに、市中や寺社の境内に「尋ね人」等の張り札をすること。

「髓竭」心神の要所をとり尽くされてしまうこと。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「前原権現霊験」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 前原権現霊験【まえはらごんげんれいげん】 〔宮川舎漫筆巻三〕文政五午年三月、予<宮川政運>房総を遊歴の折、安房国(村名忘る)前原権現とて殊の外流行なり。そもそも前原権現と崇むる神は、熊野権現を爰に遷し祀りし処、この二三年已前より格別の参詣にて、近辺に泊宿《とまりやど》なども出来《でき》しなり。かく流行せし始めは、みやしろの傍《かたはら》に神木の松あり。周(めぐ)り三尺余の松、社《やしろ》に添ひてあるゆゑ、風吹く度毎に、やしろの屋根を損じける故、社人どもはじめ所の者どもと談じ、この松伐りすてても社の為なれば、神の御憤りもなかるべしとて、翌日伐らんとせし処、その夜の内に右の松、右を左の方へ丸く輪になりて、社をはなれけるこそいと不思議なりけれ。これを聞伝へしもの、遠国他国《ゑんごくたこく》よりも歩行(あゆみ)を運ぶもの夥し。予参詣してまのあたりこれを拝して、神意のいちじるしきを仰ぐのみ。

 またこれと同日の譚《だん》は、下総国海上郡《かいしやうこほり》飯岡村<現在の千葉県海上郡飯岡町>に鎮坐まします玉崎(たまさき)大明神は、神武天皇御母君海童命《わたつみのみこと》の弟姫《おとひめ》にて玉依姫命《たまよりひめのみこと》と申し奉る。然るに社のうしろに松の木あり。また傍に楠の木あり。その松の梢《こづゑ》社を覆ひて、屋根大破に及ぶ事度々なり。故に宝暦《ほうれき》の始めのとし、神官止む事を得ずして、かの松を切らしむるに、日既に西にかたぶくゆゑ伐りかけて置き、翌日に至り見るに、伐りし松一夜の内、傍なる楠の木へ取つき、枝葉繁茂す。神徳の奇なるを仰ぐ。岩崎氏のひと、瑞籬《みづがき》を建立して永く神徳を仰ぐ。まことに歳霜《さいさう》を歴(ふ)るといへども、今に顕然たり。予が弟鳳徳斎、先年この地を遊歴せし折《をり》、親しく是れを見てのもの語りなり。<この飯岡村の話『閑意頂談巻四』に手古崎大明神として出ている>

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『前原県權現靈驗』。一部の読みを参考にした(但し、ルビは歴史的仮名遣の誤りが多い)。なお、最後の「弟鳳徳斎」は、リンク先では『原德齋(はらとくさい)』であるが、所持する吉川弘文館『随筆大成』版でも、『鳳徳斎』なので、そのままにしておいた。因みに、実は、後者は、本書の先行する「手児崎大明神」(私の注でハイブリッド化した挿絵も添えた)に、「閑窻瑣談」からの引用で、より詳しい描写で既に出ている。そっちを最後に「見よ注記」をすれば、本書の読者には手っ取り早いのに……「なんだかな~っ」て感じだな。

「前原権現」現在の千葉県船橋市前原東にある御嶽(みたけ)神社。この神社の起源は、大和の国(奈良県)の芳野(吉野)の大峰山に祭られていた蔵王権現を延宝元(一六七三)年以降に奉遷したものである(同神社公式サイトのこちらに拠った)。

「下総国海上郡飯岡村」「現在の千葉県海上郡飯岡町」現在は旭市飯岡。ここで「玉崎(たまさき)大明神」と言っているのは、そこにある玉﨑神社(下総國二宮)のことである。「手児崎大明神」の私の注を参照のこと。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「本能寺の変と鮎」 / 「ほ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「ほ」の部は終わっている。]

 

 本能寺の変と鮎【ほのうじのへんとあゆ】 〔嘉良喜随筆巻四〕碁所ハ、信長公ノ時、寂光寺ニ宰相卜云フ僧アリ。碁ニ器用アリテ、御前へ被召出算沙法印ト御ヨビ、コレヨリ代々碁ノ上手ヲスユルナリ。宗桂ハ桂馬ヲヨク使フニヨリ、信長公名付ラル。碁将棊共ニ、信長公ノ時ヨリ、今ノ如クニ両家ニナル。信長公生害《しやうがい》ノ夜モ、夜半迄碁将棊ヲ御覧アリ。暁ニ成リテ、桂川ヨリ鮎ヲ持テ台所へ来《きた》ル者ノ申スハ、丹波ノ方《かた》ヨリ大勢甲冑ニテ上ル。道スガラ京へ来ル者ハ切殺スガ、大将ハ明智殿ト申ス。不審ナル事ト申ス。近習ノ衆モ聞キ、不審ナ事ナリ。夜明ケナバ知レントテ申上ゲズ。此時申上タラバ御用意有ルベキニ、運ノ尽《つく》ル所ナリトナリ。

[やぶちゃん注:「嘉良喜随筆」は「南都の怪」で既出。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(左ページ後ろから六行目の『○』以降)視認出来る。私は碁に興味がないので、注さない。悪しからず。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「堀の大魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 堀の大魚【ほりのたいぎよ】 〔月堂見聞集巻七〕六月廿三日申来り候。七八日以前、大坂御城御堀之内、京橋口御門より追手御門《おふてのごもん》迄之間にて、長さ四五間[やぶちゃん注:七・二七~九・〇九メートル。]、胴の太さ三四尺廻り、頭は牝牛の頭の大きさ程、尾は水中に深く入り候て確と相見え申さず候。七八寸程見え申候。鱗の色金のすりはがし等申す様に、水中にてきらきらと光り候由、鱗の間に水草はえ候て在ㇾ之様(これあるやう)に相見え申候。これは鱗に藻のかゝり候ても有ㇾ之べくや、水際より水中へ七八寸計り入《はい》り候て、そろそろと追手之御門の方《かた》へ参り候て、御城の馬場通りかゝり候跡を見請け申候由、その日御金蔵手代薗部太左衛門殿、御用に就き鈴木飛驒守様御広敷へ御出《ごしゆつ》、帰路に右のくせもの平太左衛門殿慥に見及び申され候由、平太左衛門殿より直《ぢき》に聞き申され候方《かた》より申来り候。

[やぶちゃん注:「月堂見聞集」「蟻が池の蛇」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗見聞集 第一」(大正元(一九一二)年国書刊行会編刊)のこちらで当該部が視認出来る(右ページ上段後ろから五行目以降)。本巻の冒頭には、記事に就いて『正德四年正月(甲午歲)至同五年三月』とあるので、若干、不審はあるのだが、これは一応、正徳四(一七一四)年六月(徳川家継の治世)のことと思われる。従って、同年六月十四、十五日にこの怪魚は出現したということになる。グレゴリオ暦では七月二十五、二十六日となる。それにしても、この巨大な怪魚の正体は何だろう? 鱗が確認されており、その間に藻類が附着しているとあるからには、大鯰や巨大亀ではない。金兜系の巨大鯉の可能性はある。ただ、ロケーションから、河川を遡って堀に侵入した巨大海水魚と考えることも可能である。惜しむらくは、個体の全体像が確認されていないことで、比定同定は出来ない。なお、本記載の次にも、実は巨大怪魚(記載からは奇怪生物)記載があり、こちらの方が著名であるので、電子化しておく。

   *

去る正德二年三月中旬、江戶深川へ出る魚長さ七尺、惣身鼠いろ、毛の長さ七寸、頭鼠の如し、目赤し、惣身に毛あり髭あり、尾は二岐にして燕の如し、ひれもあり、右の魚は竹中主膳殿地下の獵師が、四ツ手あみにかゝり上る、則主膳殿の見參に備ふ、御城へ獻上、此魚の名不知、折節近衞太閣在江戶、御覽の後萬歲樂と名御付被ㇾ遊候由、此の魚も名不ㇾ知、追而可ㇾ尋、

   *

こちらはもう、魚ではなく、場所と様態から見て、食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目鰭脚下目アシカ科アシカ属ニホンアシカ Zalophus japonicusか(最後の捕獲例から今年で五十年を経るので絶滅したと断定してよいだろう)、アザラシ科 Phocidae のアザラシ類(可能性としては特異的に南下してしまったアザラシ科アゴヒゲアザラシ属アゴヒゲアザラシ Erignathus barbatus(二〇〇八年八月に多摩川に出現した「タマちゃん」はこれ)、或いはゴマフアザラシ属ゴマフアザラシ Phoca largha が考え得る)の可能性が高いと私は睨んではいる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牡丹畠の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 牡丹畠の怪【ぼたんばたけのかい】 〔四不語録巻二〕能州大沢《おほざは》村<石川県輪島市内>に富饒《ふねう》なる農家有り。その手代何某、加州の城下へ出《いで》、所用の事相調へ大沢へ帰る道すがらに、能州道下(たうげ)村より大沢までの間は嶮難なる山路なり。深見(ふかみ)山の巓(いただき)に広野の渺々たる所を通りしに、折節四月の上旬なるに、爛漫と咲き乱れたる牡丹畠有り。常には牡丹畠のなき所、その上花のころにも後《おく》れたれば、もつとも怪しむべき事なるに、何某年ごろ草花嗜好(すきこのみ)ける故、あら見事の花盛り哉《かな》と、しばらく立とゞまりて愛《めで》し見る所に、向うの山際より一人の女来れり。その顔うるはしその貌(かたち)たをやかに、衣服も美なりしかば、かゝる山中にかゝる美人も有りけるものかと、よくよく見れば地上を歩まず、地をはなれてあゆみ来れる故、さればこそ人間にてはこれなし、狐狸《こり》の類ひならん、汝等にたぶらかさるものにてはなきと、意を丈夫にもつて行きければ、彼女言葉をかけて、その花一枝折《をり》て給はれと言ふ。何某少しも答へず。三度迄同じやうに詞をかけし故、何某申すは、この花は我等が花にあらねば、折ることはいたし難し、花主《はなぬし》に貰ひ給へとつれなく過ぐれば、彼女間近く立寄りて、是非に一枝《いつし》所望なりと云ひし顔色を見れば、うるはしき事はなく、何とやらん物すさまじく覚えしとその儘打臥して、その後《のち》は前後しらず。されば近郷の人ども薪《たきぎ》こりに谷の間へ下りしに、人の死骸あり[やぶちゃん注:ママ。「死骸」はないだろ!]。何者なるやと立寄りて見れば大沢の何某なり。何れも驚きさわぎて、その儘引上げて見れば正気なし。大沢村も程近ければ、いそぎ宅へ遣して薬針灸治《やくしんきうぢ》等を致しければ、段々正気付《づ》きて右の様子を委細かたるなり。この往還の道筋より落入りし谷までは、その間《かん》遙かに七八町[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートル。]もへだたりぬ。これ狐《きつね》の仕業か、または世俗のいへる天狗の取《とり》て投げたるものか、もつとも不審(いぶか)しき事なり。この物語りは宝永六年の事なり。そのころ僕(やつがれ)能州輪嶋浦(大沢村の隣郷《りんがう》なり)に至りて、農家の家従《かじゆう》に現《げん》に聞きたるなり。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「能州大沢村」「石川県輪島市内」先日の元旦に地震で大火災に見舞われた、輪島市街の朝市から、東南東に八キロメートル半ほど離れた海浜の石川県輪島市大沢町(おおざわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「道下(たうげ)村」現在の輪島市門前町(もんぜんまち)道下(とうげ)。地図の上方に大沢漁港を入れておいた。昨日のニュースで、養殖しているサバを、地震後、すぐに引き上げることが出来ず、魚体に大きな傷(相互個体が接触するために発生)がついてしまったというロケ地が、この港だった。

「深見(ふかみ)山の巓(いただき)に広野の渺々たる所を通りし」この名の山は見当たらない。但し、道下と大沢の山越えの間の閉区間内に限定される。「ひなたGPS」で確認したところ、ここに「浦上村」の「國見山」・「門前町浦上」の「国見山」が確認出来た。標高は、戦前のものも、国土地理院図も、ともに二百二十三・二メートルである。ここを、グーグル・マップ・データ航空写真で見てみると、国見山の南西の山腹に、開けた、有意な平地が確認出来るのである。思うに、ここに繋がる山道(現在、先は閉塞している)が、古くに大沢村へ続く古い山道だったのではないかと私は推定した。則ち、こここそが、本話の「牡丹畠」のあった場所なのではなかろうか?! 因みに、ここにある輪島へ向かって能登半島の先の方まで通ずる国道249号と、北方向に大沢地区へ向かう県道38号(輪島浦上線)が、地震のために寸断され、ライフ・ラインに大きな問題を起こしているのである。私は高校二年の夏、親友らと能登を一週間かけて、テントを担いで、一周した。私の人生の中で、恐らく最も強い自然の実感を抱いた、忘れることの出来ない「旅」であった。能登の復興を心から祈る――。

「四月の上旬」後に「この物語りは宝永六年の事なり」とあるので、旧暦四月一日は、グレゴリオ暦では一七〇九年五月十日である。ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa のうち、「春牡丹」は現在の四月から五月に開花する。

「近郷の人ども薪こりに谷の間へ下りしに、人の死骸あり。何者なるやと立寄りて見れば大沢の何某なり。何れも驚きさわぎて、その儘引上げて見れば正気なし。大沢村も程近ければ」最後のそれから、気絶していた手代何某が落ちていた谷は「ひなたGPS」のこの附近のどこか(東北方向に向かうなら、大沢に出、北西方向なら、上大沢に出る)であったと推定する。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「星多く飛ぶ」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 星多く飛ぶ【ほしおおくとぶ】 〔退閑雑記後編巻四〕ことし戊午<寛政十年>十月廿九日夜、星の飛ぶことおびただしく、四方の星雨のやうになん飛び侍ること、あやしきと人々いふ。江戸よりたよりありたるが、おなじ事なりしといひこす。空に風はげしく、星の光ちるにてやあらんといふ。風はげしき時は星の光うごく事あり。かの星《ほし》揺《ゆ》するといふ類ひならまし。星は光を曳《ひき》てとぶを流星《ながれぼし》とかいふ。星おつる事雨の如しといふを、星おちて雨降ると『左伝』にはあなり。星と共に雨ふるもわかりがたければ、この廿九日の夜の星飛びしなどの如き事にやあらん。この頃いとあたゝかなれば、水気《すいき》をむしあげたるか、星のひかりうつり侍るにやあらんとぞ。春の頃大雨などやあらんとおもはるゝも、かの杜撰《ずさん》甚し。

[やぶちゃん注:松平定信の随筆。全十三巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十四巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)で正規表現の当該部がここから視認出来る。

「戊午」「寛政十年」「十月廿九日」この月は小の月で晦日。グレゴリオ暦一七九八年十二月六日。この日附は、「アンドロメダ座γ流星群」(γAndromedids)の突発発現の初回観測(ドイツ)と月日まで一致している。

2024/01/12

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「亡婦に化けた狐」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 亡婦に化けた狐【ぼうふにばけたきつね】 〔甲子夜話巻十三〕筑前博多門徒宗寺の主僧、婦病死の後《のち》顔色憔悴す。人訝りてその故を問へども不ㇾ云。尋(つ)いで形容枯槁するに至る。また問ふに始めて云ふは、過ぎし頃より亡妻出で来り、我と語ること毎夜にして明《あけ》に徹す[やぶちゃん注:明ける朝まで徹宵する。]、因て眠ること能はず、故に玆に逮(およ)ぶと。その徒《と》為んすべなき折から、領主の臣に狐を捕ることを掌る士あり。(これは侯の家製の烏犀円《うさいゑん》の方あり、この薬剤中に狐胆《きつねのい》ある故に、抽狐《ちうこ》職掌の者ありと云ふ)曰く、我所存あり、その亡霊を見て後云はん。人因て彼《か》の士を寺に伴ふ。士夜《よる》その家の牀下《しやうか/ゆかした》に隠れて窺ふ。亡霊果して来《きた》る。士乃《すなは》ち云ふ、よし我に術ありと云ひて、翌夜《あくるよ》狐を捕るわなを携へ来《きたり》て、亡霊の来路《らいろ》に設《まう》く。霊来りわなにあたる。餌の香に蕩心《たうしん》して竟にこれに罹りて死せり。視れば一大老狐なりしと。自ㇾ是主僧の病《やまひ》漸々《やうやう》快復せりとぞ。〔耳囊巻二〕米沢の家士なる由、名も聞きしが忘れたり。或日釣りに出て、余念なく釣りを垂れ居たりしが、後ろの稲村の陰に、何かひそひそ咄すものあり。密かに伺ふに、狐二つ居《をり》たりしが、近日何某の妻病死すべし、それに付き。慰みせんと思ふといふを聞きて、甚だ不審に思ひ居しが、一両日過ぎて、傍輩某が妻、果して死しけるが、野辺送りなどいとなみて、後《のち》日柄《ひがら》も立ちぬれど、とり籠り有りしかば、いと不思議におもひて、見舞ひけるが、色悪しく衰ヘも有りけるゆゑ、いかなる事にて、かくうつうつと暮し給ふ、最愛の妻なればとて、丈夫のなんぞかくあるべきか、世の中には女も多し、吟味もあらば、前にまさるも有るべきと、あるは叱り、或は恥《はぢ》しめければ、かの者答へけるは、申すまじきと思ひしが、誠に深切の事、恥入り候事ながら語り申すなり、亡妻野辺送りし後《のち》、有りし姿にて夜毎に罷り越し、病ひを尋ね、茶など自分《おのづ》と沸して、我にあたふる様《さま》、昔に替る事なし、我も疑はしく思ふ故、帰る跡を付けんと思ふに、その身木石の如く、動く事ならず、無念心外と思へどもせんかたなく、それ故にこそ顔色も衰へつらんと答へけるゆゑ、さる事あるべきにはあらねど、今夜は我等も泊りて様子見んと、宵より酒など吞みて、その側《かたはら》にありしが、夜《よ》更《ふ》くるにしたがひ、頻りに眠く、誠にたへがたきゆゑ、とろくとろとするに、かの亡妻来りて茶なぞ拵へ候て、例の通り明日こそ罷り越さんとて立帰るとき、己れ妖怪ゆるさじと、刀に手を掛けしに、惣身木石のごとく動く事ならざれば、無念と歯がみなしゝ処《ところ》せんなく、さて亭主申しけるは、いかゞ見給ふや、我等しとめんと思ひしが、右の通りなれば、御身こそ仕留め給はんと思ひしに、如何なし給ひしといふに、我等も同じく動く事ならず、これに付き秘計の符護する間《あひだ》、かの火所《ひどころ》に入れ置き給へ、急度《きつと》右怪物この後《のち》来《きた》るまじとて、宿へ戻りて、小さく封じたるものを拵へ、かの火所へ入れ置き、その夜も夜伽《よとぎ》がてら来りて居りしが、前夜の通り、かの亡妻来りて、いろいろ話などいたし、例の通り茶をわかすべしと火を打ち、例の通り竈へ焚付《たきつ》けしに、かの秘符に火《ひ》移ると、大きにはねければ、亡者わつといひて驚きさわぎ、かきけして失せぬ。それというて追駈けしが行衛しれず。かの秘符はいかなるものと尋ねしに、玉薬《たまぐすり》をよく包みて、入れ置きしとなり。狸狐《りこ》の恐るべきもつともの工夫と、人の咄しける。

[やぶちゃん注:前者は事前に「フライング単発 甲子夜話卷十三 11 筑紫に狐を捕士ある事」として電子化注をしておいた。後者は、私のものは、底本違いで、「耳囊 卷之九 親友の狐祟を去りし工夫の事」である。

「玉薬」鉄砲の火薬。]

フライング単発 甲子夜話卷十三 11 筑紫に狐を捕士ある事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。標題の「捕士」は「とるし」。]

 

13―11 筑紫(つくし)に狐を捕(とる)士ある事

 筑前博多、門徒宗、寺の主僧、婦(ふ)、病死の後(のち)、顏色(がんしよく)、憔悴す。

 人、訝(いぶか)りて、其故を問へども、不ㇾ云(いはず)。

 尋(つ)いで、形容枯槁(こかう)するに至る。

 また問ふに、始(はじめ)て云ふは、

「過(すぎ)し頃より、亡妻、出で來(きた)り、我と語ること、每夜にして、明(あけ)に徹す[やぶちゃん注:明ける朝まで徹宵する。]、因(よつ)て、眠ること、能はず。故に玆(ここ)に逮(およぶ)。」

と。

 其徒(そのと)、爲(せ)んすべなき折から、領主の臣に、狐を捕ることを掌(つかさど)る士あり【これは、侯の家製(かせい)の「烏犀圓(うさいゑん)」の方(はう)あり。この藥劑中に「狐膽(きつねのい)」ある故に、抽狐(ちうこ)職掌の者あり、と云(いふ)。】。

 曰く、

「我、所存あり。その亡靈を見て後(のち)、云はん。」

 人、因(よつ)て彼(か)の士を寺に伴ふ。

 士、夜(よる)、その家の牀下(しやうか/ゆかした)に隱れて窺ふ。

 亡靈、果(はたし)て、來(きた)る。

 士、乃(すなは)ち、云ふ。

「よし。我に術(じゆつ)あり。」

と云(いひ)て、翌夜(あくるよ)、狐を捕るわなを携(たづさ)へ來(きたり)て、亡靈の來路(らいろ)に設(まう)く。

 靈、來り、わなにある、餌(ゑさ)の香(か)に、蕩心(たうしん)して、竟(つひ)に、これに罹(かか)りて、死せり。

 視れば、一大老狐なりし、と。

 自ㇾ是(これより)、主僧の病(やまひ)、漸々(やうやう)、快復せり、とぞ。

■やぶちゃんの呟き

「烏犀圓」現在も「野中烏犀圓」(のなかうさいえん)がある。医薬品医療機器情報提供サイトのこちらによれば、『野中烏犀圓は寛政八』(一七九六)『年』に、『旧佐嘉藩主第八代鍋島治茂公の施薬局に於いて』、『秘薬として調製せられしものを』、『当野中家へ下賜せられたもので牛黄・高麗人参・当帰・川芎(せんきゅう)『その他』、『八種の和漢生薬に蜂蜜を加えた漢方保健剤で』あるとある。但し、狐の胆(い)は現行のものには含まれていない。『効能・効果』の項には、『次の場合の滋養強壮』とあって、『肉体疲労』・『胃腸虚弱』・『虚弱体質』・『食欲不振』・『病中病後』とあった。

「狐膽(きつねのい)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狐(きつね) (キツネ)」で、良安は、まず、「本草綱目」を引用して(〔 〕は私が補訂した部分)、

   *

狐〔の〕膽〔(い)〕【臘月、之れを收む。】 人の卒死を治す【雄狐の膽。】温水にて、研〔(す)れるものを〕灌ぐ。〔それ、〕喉に入らば、卽ち、活す【時の移れる者は及ぶこと無し。】[やぶちゃん注:人の急死した場合でもこれを蘇生させる【それには雄狐の胆(い)でなくてはならない。】。温水を注ぎながら擂り砕いたものを、服用させる。それが咽喉に入った瞬間、忽ち、生き返る【但し、頓死してから有意に時間が経過してしまった場合は生き返らすことは出来ない。】。]

   *

と紹介した上で、良安の評として、

   *

 狐〔を司るとせる家〕に花山家・能勢〔(のせ)〕家の二派有り。相ひ傳へて云はく、往昔、狐狩り有りしとき、老狐、將に捕(と)られんとし、急ぎ迯(にげ)て花山殿の乘〔れる〕輿の中に隱れて、赦〔(ゆるし)〕を乞ひ、遂に免るゝを得。能勢の何某(なにがし)も亦、時、異なりと雖も、死を助けたるの趣き、相ひ同じ。共に、狐、誓ひて曰はく、「子孫に至りて、永く、宜しく厚恩を謝すべきなり」〔と〕。此れより今に于〔(おい)て〕、狐魅〔(きつねつき)〕の人有るときは、則ち、二家の符を以つて閨〔(ねや)〕の傍らに置けば、乃〔(すなは)〕ち、魅〔(つきもの)〕、去りて、平愈す。其の固〔き〕約、人も亦、愧〔(は)〕づべし。又、能く死を守る[やぶちゃん注:死に臨む際の態度が甚だ立派であることを言う。]。如〔(も)〕し、人、有りて、生きながら、狐の腹を割〔(さ)き〕、膽を取ること〔あれど〕、然れども、動かず、目、逃〔(のが)す〕まじかず[やぶちゃん注:目を逸らさず。但し、訓読には自信はない。]、臟腑を刳(さ)き盡(つく)されて、後、死す。此れ、乃ち、丘を首するの理〔(ことわり)〕か。

   *

と述べている。

「牀下(しやうか/ゆかした)」寺だから、床下は通常の民草の住居と異なり、相応に床が高いので納得出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「峰頭の歌舞音曲」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 峰頭の歌舞音曲【ほうとうのかぶおんぎょく】 〔甲子夜話巻六十四〕享保辛酉の夏、鎌倉円覚寺の誠拙和尚、京都南禅寺の招《まねき》に依《より》て上京淹留《あんりう》す。この時寓居の院は、南禅の山中嶮峰《けんほう》の下《もと》に在り。然るに和尚淹留中、晴天月夜などには時々深更に及び、峰頂《ほうちやう》にて数人《すにん》笛を吹き、太鼓を鳴らし、歌舞遊楽の声頻りなること数刻《すこく》、この峰頂は尋常人の至る所にあらず。因《よつ》て初めは従徒《じゆうと》もあやしみ驚きたるが、山中の古老云ふには、この山中古代より吉事あるときは、必ず峰頭《ほうとう》に於て歌舞音曲の声あり。これ守護神の歓喜《かんぎ》するなりと。守護神は天狗なりと言ひ伝ふ。(印京和尚話)

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷六十四 3 南禪寺守護神」を公開しておいた。但し、宵曲は、以上の後に添えた「高僧傳」の引用と静山の附記を全部カットしている。なお、そちらの『東洋文庫』版では、「必ず峰頭に於て歌舞音曲の声あり。」の「峰頭」は、前と同じ『峰頂』である。]

フライング単発 甲子夜話卷六十四 3 南禪寺守護神

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。後半の漢文部の不全な訓点はママである(句読点は操作を加えてある)。]

 

64-3

 享保辛酉の夏、鎌倉、圓覺寺の誠拙和尙、京都、南禪寺の招(まねき)に依(より)て、上京、淹留(あんりう)す。

 このとき、寓居(ぐうきよ)の院は、南禪の山中、嶮峰(けんほう)の下(もと)に在り。

 然(しか)るに、和尙淹留中、晴天月夜などには、時々、深更に及び、峰頂(ほうちやう)にて、數人(すにん)、笛を吹き、太鼓を鳴(なら)し、歌舞遊樂(かぶいうがく)の聲、頻(しきり)なること、數刻(すこく)、この峰頂は、尋常、人の至る所にあらず。

 因(よつ)て初(はじめ)は、從徒(じゆうと)も、あやしみ、驚きたるが、山中の古老、曰(い)ふには、

「この山中、古代より、吉事(きちじ)あるときは、必ず、峰頂に於て、歌舞音曲(かぶおんぎよく)の聲あり。これ、守護神の歡喜(かんぎ)するなり。」

と。

 守護神は、天狗なり、と言ひ傳ふ【印京和尙、話。】。

『「高僧傳」、正應間、龜山上皇在スニ龍山離宮、妖怪荐、妃嬪媵嬙屢魅惑。上皇大ㇾ之、乃集群臣其事。僉みな、此妖怪聞コトㇾ之矣。非ンバ佛法、決不ㇾ可ㇾ治。於ㇾ是南北高德。百計無ㇾ效。時西大寺睿尊律師有戒行。勅シテシム宮闈。尊率沙門二十員、晝夜振ㇾ鈴ㇾ咒。至ルニ一ㇾ。而妖魅尙、投飛礫於護摩壇。尊不シテㇾ辭而退。群臣奏德望【釋普門號無關。東福ノ開山聖一國師ノ弟子ナリ[やぶちゃん注:以上の一部の送り仮名が訓点になっていないのは、ママ。]。逝年八十。嘉元間、勅シテ佛心禪師。元亨三年、加大明國師。】。乃召下宮。且、宣シテ、卿能ンヤ乎。門奏シテ、妖ㇾ勝ㇾ德。世書ㇾ之。況釋氏ヲヤ乎。釋子居ㇾ之。何之有。上皇壯トシ其言、勅シテ有司ム二ヲシテ入ラ一ㇾ。門但與ㇾ衆安居禪坐、更他事。自ㇾ爾宮怪永。上皇大、乃傾宗門、執弟子、習坐禪衣鉢。因革ㇾ宮ㇾ寺。雖梵制未上ㇾ、特勅門爲開山始祖。後來伽藍具ㇾ體。號太平興國南禪禪寺。』。

然(さ)れば、怪、此時より、有(あり)しなり。今は、還(かへつ)て穩(おだやか)なるは、太平の號、由る所あり。

〔☆やぶちゃんの推定訓読文注:

 「高僧傳」に云はく、

『正應(しやうわう)の間、龜山の上皇、龍山の離宮に在(おは)すに、妖怪、荐(しきり)に作(なし)て、妃嬪媵嬙(ひひんようしやう)、屢(しばしば)、魅惑に遭ふ。

 上皇、大(おほき)に、之れを惡(にく)み、乃(すなは)ち、群臣を集めて、其の事を議す。

 僉(みな)、曰く、

「此の地の妖怪、之れを聞くこと、久し。佛法の力に非(あら)ずんば、決して治(をさ)むべからず。」

と。

 是に於いて、南北の高德に命ず。

 百計、效(かう)、無し。

 時に、西大睿尊(えいぞん)律師、戒行(かいぎやう)の譽(ほまれ)有り。

 勅して、宮闈(きうゐ)に棲(す)ましむ。

 尊、沙門(しやもん)二十員を率(ひき)ひ、晝夜、鈴を振り、咒(じゆ)を誦(とな)ふ。三たび、月を閲(み)るに至る。而(しか)れども、妖魅、尙ほ、驕(おご)り、飛礫(とびつぶて)を護摩壇に投ず。

 尊、辭せずして、退(しりぞ)く。

 群臣、門の德望を奏(さう)す【釋の「普門」、「無關」と號す。東福の開山「聖一國師」の弟子。逝(ゆけ)る年、八十。嘉元の間、勅して、「佛心禪師」と諡(おくりな)す。元亨三年、加へて「大明國師」と賜ふ】。

 乃(すなは)ち、下宮(げぐう)に召し、且つ、宣(せん)して曰はく、

「卿(けい)、能く居(をら)んや。」

と。

 門、奏して曰はく、

「妖は德に勝たず。世書(せいしよ)にも、尙ほ、之れ、有り。況んや、釋氏をや。釋子、之れに居(を)る。何の怪か、之れ、有らん。」

と。

 上皇、其の言を、

「壯(さう)。」

とし、有司(いうし)に勅して、門をして、宮に入らしむ。

 門、但(ただ)、衆と、安居禪坐(あんごぜんざ)し、更に他事(たじ)無し。

 自爾(おのづから)、宮の怪、永く息(や)む。

 上皇、大いに悅び、乃(すなは)ち、心を宗門に傾け、弟子の禮を執り、坐禪を習ひ、衣鉢(いはつ)を受く。

 因りて、宮を革(あらた)め、寺と爲(な)す。

 梵制、未だ備はらずと雖も、特に勅して、門、開山(かいざん)・始祖と爲す。

 後來(こうらい)、伽藍(がらん)體(てい)を具(そな)ふ。「三太平興國南禪禪寺」と號す。〕

■やぶちゃんの呟き

 実は、私は、「柴田宵曲 妖異博物館 天狗の夜宴」の注で、一度、電子化しているが、漢文訓点を除去した白文を示し(読みの「〱」は「〻」に代えた)、その後に、私自身がよしとした訓読文を示した。今回は正規に訓点も打ち、訓読文も再検証した(例えば、一部に訓点の脱落が疑われるところが複数あり、そこは参考底本のそれに従わずに訓読した。一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附し、送り仮名の一部や記号もオリジナルに加えてある。特に「自爾」の箇所は、私は全く従わずに、二字で「おのづから」と読んだ)。今回は、本文の最後に〔 〕で私の訓読文を掲げておいた。

「享保辛酉」享保辛酉[やぶちゃん注:享保年間に辛酉(かのととり/しんゆう)の年はない。享保二(一七一七)年丁酉(きのととり)、或いは、享保六(一七二一)年辛丑(かのとうし)の誤りであろう。

「鎌倉圓覺寺の誠拙和尙」誠拙周樗(せいせつしゅうちょ 延享二(一七四五)年~文政三(一八二〇)年)は伊予生まれの傑出した臨済僧で歌人としても知られた。円覚寺の仏日庵の東山周朝に師事し、その法を継ぎ、天明三(一七八三)年に円覚寺前堂首座に就任したが、当時の円覚寺は伽藍も僧侶も荒廃・低俗に堕してしまっており、彼は幻滅したとされる。晩年は臨済宗重鎮として京都に赴くことが多くなった。書画・詩偈も能くし、茶事にも通じ、出雲松江藩第七代藩主で茶人としても知られた松平不昧治郷とも親交があった。香川景樹に学び、歌集に「誠拙禅師集」がある。文政二(一八一九)年には京の相国寺(しょうこくじ)に再建されたばかりの大智院(明治初期に廃絶して現存しない)に師家(しけ)として赴任したが、翌年、七十六で示寂した。(以上は思文閣の「美術人名事典」及びウィキの「誠拙周樗」に拠った)。松浦静山(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)より十五年上になるが、同時代人である。

「淹留」長く滞在すること。

「南禪の山中、嶮峯」「最勝院奥之院」か、そのさらに奥の「南禅寺奥乃院」であろう(孰れもグーグル・マップ・データ)。この二つは孰れも南禅寺後背の三百二十六メートルのピークの山下である。

「龜山の上皇」亀山天皇が譲位して上皇となったのは、文永一一(一二七四)年一月で、彼は嘉元三(一三〇五)年に亡くなっているので、その間の出来事となる。

「妃嬪媵嬙」は皇后の次席が「妃」で、その次が「嬪」、以下、「媵」・「嬙」と続くが、これは一般に女官級である。

「睿尊」(建仁元・正治三(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)「叡尊」とも書く。律宗僧。大和の出身。当初は密教を学んだが、後に戒律復興を志して、奈良西大寺を復興。「蒙古襲来」の際には、「敵国降伏」を祈願して、神風を起こしたと伝えられる。貧民救済などの社会事業を行い、また、殺生禁断を勧めた。

「宮闈」は宮中で后妃の居所。後宮。

「釋の普門、無關」は臨済僧大明国師無関玄悟(むかんげんご 建暦二(一二一二)年~正応四(一二九二)年)。信濃出身で「南禅」と号した。京の東福寺の円爾(えんに)の法を継いだ。建長三(一二五一)年宋に渡海、断橋妙倫の印可をうけて十二年後に帰国、後に東福寺三世となった。ここに書かれている通り、亀山上皇の離宮に出る妖魅を鎮めたことから、その離宮を改めて創建した、この南禅寺の開山として招かれた。「普門」は房号。

「嘉元」一三〇三年から一三〇六年まで。執権は北条師時。

「元亨三年」一三二三年。執権は北条高時。

「壯」は「強いこと」。

「有司」役人。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疱瘡除の守り」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 疱瘡除の守り【ほそうよけのまもり】 〔思出草紙巻四〕世に疱瘡を煩(や)めるに、神あつて霊験あるといふ事、如何にもいぶかしき事なりといへる人も多し。然れども爰に不思議なる事あり。江戸巣鴨砂利場といふ所に、国府安平といへる御家人あり。この者家内肉縁の者に、疱瘡を煩ふ事壱人《ひとり》もなし。また守りを借《か》し遣はす所、その守りを借《かり》受《うく》るもの、いかなる悪き疱瘡たりとも死する事なし。これに依《よつ》て聞き伝へて、その守りを借受けんと願ふ人々多し。然るに死に至らんとする方《かた》へは、その守り差合《さしあひ》あつて間にあはず。守りだに借受る時は、決して順痘《じゆんとう》ならずといふ事なし。これいかなる事にて、家内に疱瘡を病まず、この守り斯の如く奇妙あるやと、その由来を聞くに、この国府安平が先祖は、摂州住吉の辺に住居《すまひ》なせし郷士にて有りしが、元和《げんな》元年の頃ほひ、あるは十二月晦日の宵に壱人の美童来《きたり》て、今宵一夜の宿借しくれよとぞ申しける。その形ち美麗(うつく)しく、身には錦繡の織物を著《ちやく》し、更に平人《へいじん》の体《てい》にあらざれば、かゝる乱れたる世の中なれば、公貴の公達《きんだち》の落人《おちうど》となりてさまよふにやと思ひて、誠にいたはしく、その求めに応じ一夜止めしが、食事を進むれども望みなしとて辞し、只水ばかり吞《のん》で坐したるのみにして眠らず。言葉少なし。これに依《よつ》て主(あるじ)不思議に思ひ、公達には何れよりいづ方へ越し給ふやと尋ねけれども、童子更に答へもなく、黙然としてありしが、夜明近き頃、童子は主に対して曰く、我は疱瘡の神なり、計らずも今宵一宿、懇意の饗応過分なり、その方が子孫あらんかぎりは疱瘡煩ふものあらば、この品を借し遣はし与へよ、然る時は命を助《たす》くべしとて、直《ただち》に織物の小袖上著《うはぎ》にせしを脱ぎあたへて、後にまた曰く、毎年十二月晦日の夜に、汝水を手向けて祭るべしとて、忽ちかき消す如く立去り、主も不思議の事に思ひけるが、その後に疱瘡病めるものに、その衣類を少しづつ切《きり》て与ふるに、病ひいえて死するものなし。依て諸所より望み願ふに任せ、段々切さきて与へたるが、今ははや纔かばかり残りあるを封じて守りとし、所々へ借し遣はすとなり。奇々妙々たる事にして、その時誓ひし事露《つゆ》違《たが》はずして、今に国府家一類は疱瘡病める者壱人もなし。守りのしるし勝《まさ》れたり。予<栗原東随舎>も度々その守りを借りて、所々へ遣はして、その奇瑞をば見たる事なり。

[やぶちゃん注:「思出草紙」「古今雜談(ざうだん)思出草紙」が正式名で、牛込に住む栗原東随舎(詳細事績不詳)の古今の諸国奇談珍説を記したもの。『○疱瘡除守りの事』がそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第三期第二巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここから次のコマで正規表現で視認出来る。

「江戸巣鴨砂利場」現在東京都文京区千石に「砂利場坂」の名が残る附近(グーグル・マップ・データ)。

「国府安平」不詳。取り敢えず、「こくふやすひら」と訓じておく。

「順痘」疱瘡(天然痘)の病態が、軽く、予後も瘢痕などが殆んど残らないことを言うのであろう。

「元和元年」慶長二十年七月十三日(グレゴリオ暦一六一五年九月五日)に改元し、一六一六年二月十六日まで。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疱瘡神と狆」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疱瘡神と狆」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 疱瘡神と狆【ほうそうがみとちん】 〔耳囊巻四〕軍書を読みて、世の中を咄し歩行(ある)く、栗原幸十郎と云ヘる浪人の語りけるは、同人妻は五十路に近くして、いまだ疱瘡をせざるゆゑ、流行《はやり》の時は恐れけるが、近所の小児疱瘡を首尾よく仕廻(しまひ)て、幸十郎が門へ来りしを、いだきて愛しなどせしが、何とやらん襟元よりさむき心地しければ、早々にかの子を返し、枕とりて休みしに、何とやらん心持あしく、熱も出《こで》候やうなる心持の処、夢ともなくふと眼を明き見れば、側《そば》へに至つて小《ち》さき婆々の、顔などは猶更みじかきが、我は疱瘡の神なり、此処へ燈明を燈し、神酒(みき)備(そなへ)をあげて給はるべしといひけるに、兼ねて幸十郎好みて飼ひ置ける狆(ちん)、六七疋もありしが、右婆々見えけるや、大いに吠えければ、かの婆々は、右狆をとり除(のけ)給はるべしといひけれども、渠《かれ》は主《あるじ》の愛獣なり、主は留守なれば、とり除る事かなひがたしと答へけるに、しきりに右の狆吠え叫びけるゆゑにや、かの婆々は門口《かどぐち》のかたへ至ると見えしが、跡もなし。幸十郎は外へ用事ありて帰りけるに、燈明など燈し、宿の様《さま》唯ならねば、これを尋ね問ひしに、しかじかと妻のかたりけるゆゑ、大いに驚き、めし仕ふ男女《なんによ》に尋ねしに、様子はわからねど、妻は神酒備を申付け、何かひとり言を云ひし事、狗の吠え叫びし事まで相違なき由かたりしが、右婆々帰りて後は、妻が心持もよく、熱もさめて、平生に復しけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之四 疱瘡神狆に恐れし事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「放生の功徳」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 放生の功徳【ほうじょうのくどく】 〔真佐喜のかつら〕深川<東京都江東区内>道本山霊巌寺《だうほんざんれいがんじ》地中に、文化の頃学道と云ふ僧有り。よく人相を見、易道も心得たり。或日呉服商ふ男来りければ、大いにおどろきたるさまを、彼《かの》男いぶかしくおもひ、そのよしを問ひけるに、学道答へて、我若年より易術相学を深く学び、人にしらるゝ憚《はばかり》にはなけれども、これ迄数年《すねん》こゝろむるに、たがうたる事なし、その許《もと》、[やぶちゃん注:二人称代名詞。]去秋《きよしう》きたられし時、露命旦夕《たんせき》に迫りしをみたり、併し申聞《まうしき》けなば驚きやせんと、只に打過ぎ、後の音信《おとづれ》を待《まつ》て、折々噂のみせしと語り、暫く考へ尋ねけるは、去秋われ方へ来りし後《のち》、何にても善事をなし給ふ事ありやと問ふ。彼男しばし案じ、伜《せがれ》なる者他《ほか》より何とか言ふ写本かり来りしを見るに、放生会をなす者命《いのち》長しと言ふ事ありける故、何かその事すべしと心掛け居《を》る内、浅草蔵前<東京都台東区内>鰻屋の門に大なる泥亀を見たり、甲に毛のやうなる物を生じ、余ほど年ふる物とおもひければ、心合《こころあ》へる者と価《あたひ》を出《いだ》し合ひ買取り、両国川へ放しける外、何にてもなしといふ。学道横手をうち、大いに感じ、猶この上よき事は成《な》し、もし人にも進め給へと教諭《をしへさと》しけるとかや。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここで、正規表現で視認出来る。

「道本山霊巌寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「文化の頃」一八〇四年から一八一八年まで。徳川家斉の治世。

「泥亀」潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis の異名。但し、本邦種は在来個体群(大陸からの侵入・移入個体ではなく)のものとして、これをシナスッポンの亜種 Pelodiscus sinensis japonicusとして見る向きもある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「亡妻に化けた狸」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 亡妻に化けた狸【ぼうさいにばけたたぬき】 〔蕉斎筆記〕備中国某君の御領地に、相撲取与兵衛といふ者有りしが、去年の春かた妻を失ひ、その後段々痩せ衰へけるゆゑ、近所の者様々とその訳を尋ねけれどもいはず。ある時近所より参り、何の病気とても心あたり有るべしとて、段々責め問ひければ、与兵衛いひけるは、さればの事なり、この春不幸に逢ひしより後、毎夜幽霊来り、ただ心にうれしく思ひけるより、かくの通りなりといひければ、さては狐狸の類の仕業なるべし、今宵は与兵衛になり代り、寝て居《を》るべしとて、その夜は蒲団打かづき居《ゐ》けるに、夜半頃二階の方よりとんと云ふ音しけるが、右の幽霊来り起しけれども起きず。漸《やつ》と蒲団の内へ這入《はひい/はい》りけるを、心得たりと引《ひつ》とらへ、直《ただち》に早縄をかけ、人々を集めけるに、その儘先妻にたがふ事なく、依《よつ》て色々とたづねければ、我は女房の幽霊なり、只今にても消ゆる事は自由なりといひけれども、一向に消えねば、早速申出《まうしいだ》しけるに、役人ども来り、何分怪しきものなり、随分ふすべ[やぶちゃん注:「燻(ふす)べ」で「煙がたくさん出るように燃やす・いぶす」の意。]見るべしとて、跡先に柴を以てふすべけるに、自若として曾て消ゆる事もなかりしに、段々せつなくなる[やぶちゃん注:辛(つら)くなる。]に随ひ、本体をあらはしけるに、毛の長さ壱尺ばかりも有りける古狸なり。その訳を尋ねけるに、人間のごとくに詞をかはし、我は芸州浅香村といふ所の狸にて、凡そ八百年も劫《こう》を経たり、只今まで色々と人をだましける事面白さに、斯くは働きたり、浅香村にて家三軒とも妖怪にて断絶させたり、最早命の終る事なりとて殺されけるとなり。段々跡にて考へけるに、金も数多《あまた》所持し、その外雨羽織《あまばおり》脇差迄も所持して、常に人間の中へ交《まぢは》り商売もせしとなり。浅香村へ申し来り、前々の事より思ひ合するに、曾て相違なし。近頃の奇談なり。加計八右衛門物語なりと聞きぬ。

[やぶちゃん注:儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年刊。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(右ページ上段五行目から)で視認出来る。但し、最後の附記をカットしている。以下に電子化する。

   *

私に云、本文の淺香村のといふは、山縣郡阿坂村の事歟。又は豐田郡あすか村かなるべし、されども此趣向のはなしは、あちらこちらの村所をかへて、色々に咄すを度々聞たり。多分虛說作り咄しの類なるべし。

   *

「淺香村」の位置考証をカットするのは、引用の堆積である本書にとっては、小川白山に対して、道義に悖る仕儀である。どうも、だんだん、宵曲の杜撰さが目に付くようになったなぁ……。因みに、「山縣郡阿坂村」は現在の広島県山県郡北広島町(きたひろしまちょう)阿坂(あさか:グーグル・マップ・データ。以下同じ)であり、「豐田郡あすか村」は広島県賀茂郡豊栄町(とよさかちょう)安宿(あすか)である。宵曲、注で、場所を特定するのが、面倒になりやがったな!

「加計八右衛門」佐々木八右衛門正任(ささきはちえもんまさとう 寛保二(一七四二)年~寛政一一(一七九九)年)のことであろう。 広島県環境県民局文化芸術課の作製になるサイト「江戸の世のひろしま探訪」の彼のページに、三十『歳の時、兄の後を継ぎ』、『通称八右衛門と呼ばれるようになり』、万治二(一六五九)年、『山県郡加計村』(☜)『の町割に際して、隅屋を創設した佐々木氏』第十一『代目の正信が初めて名乗り、以後』、『正時(七左衛門)を除き』、第九『代にわたって通称され』たとあり、『佐々木氏の祖は隠岐から』、この(☞)『山県郡加計村に移住したと伝えられ、農業のかたわら』、『鍛冶屋を持ち、鉄山経営に進出し』た。『寛政以後、画期的な経営で拡大・安定し』、彼の死後、『文化年代』(一八〇四年から一八一八年まで)『以後は、中国地方百数十人の鉄山経営者中』、『最大の』家柄となったとある。また、彼は『文化面の関心も高く、吉水園(広島県名勝)を造営し』ているとある。「隅屋」は「隅屋屋敷」で、平凡社「日本歴史地名大系」によれば、旧広島県の山県郡加計町加計村隅屋屋敷、現在の山県郡安芸太田町加計町加計で、『加計市街の入口、丁(ようろ)川の永代(えいたい)橋を渡ったところにある。隅屋は屋号で、姓は佐々木氏であるが、現在は加計氏』(☜)。『鉄山経営をもって知られた』。万治三(一六六〇)年、本郷の『新町の町割に際し、五軒口を買』い『受けて屋敷地とし、加計村内の香草(かぐさ)から』、『ここに移った』。『「国郡志下調書出帳」や「加計万乗」(隅屋文庫蔵)によれば、加計隅屋の遠祖は遠江の佐々木氏で、先祖富貴丸五郎が南北朝の戦乱を逃れて』、『隠岐より香草に移住し、「其地之林叢を伐採し田宅を拓営」(同書出帳)したという。やがて、毛利氏の支配下に入り』、弘治元(一五五五)年、『元就が陶晴賢を破った厳島合戦などにも従ったが』、慶長五(一六〇〇)年、『毛利氏の防長移封により』、『帰農した』とあった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「亡妻看病」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 亡妻看病【ぼうさいかんびょう】 〔中陵漫録巻四〕備中笠岡の北四里ばかりに荏原<岡山県笠岡市>といふ村あり。この村の農家に嘉右衛門なる者あり。この妻死したり。或時、嘉右衛門瘧《おこり》[やぶちゃん注:マラリア。]を病む事百日ばかり、その病中毎夜その亡妻来《きたり》て看病す。風雨といへども一夜もかゝす事なし。余<佐藤成裕>按ずるに、亡妻毎夜来る為に、瘧をやむなるべし。むかし芸州宮嶋<広島県佐伯郡内>の光明寺の住持は、正達上人と云ふ。これは亡母の墓より生れしと云ふ人有り。その墓に声有り。或人聞《きき》て掘出《ほりいだ》し、日々飴《あめ》をあたへて成人すと、皆人《みなひと》の知る所なり。<『楓軒偶記巻二』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。標題は『○奇 話』。但し、最後の以下の部分を宵曲はカットしている。

   *

今京都の僧某は、一日に飴三錢を求て三度に食す。其身體甚だ壯健也。是等り[やぶちゃん注:ママ。所持する吉川弘文館『随筆大成』版では、『是等の』である。]說は予盡く疑ふ。飴は元來麥芽を調和して作りたる故に、人の腹中をすかして穀氣を絕するもの也。故に道中を往來する人は、好て飴を食せず、食すればかならず腹中へり安しと云。遠足家の大に忌む所なり。

   *

この「遠足家」は「ゑんそくか」で、「好んで遠くまで足を延ばす人」の意。まあ、この標題じゃ、カットしたいのは、判る。しかし、最後の宵曲の附記には、甚だ、問題がある。

「芸州宮嶋」「広島県佐伯郡内」現在の広島県廿日市市の厳島のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「備中笠岡の北四里ばかりに荏原」「といふ村あり」岡山県井原市東江原町、及び、その北西の西江原町。

「光明寺」厳島神社の東北後背にある浄土宗華降山(けこうさん)以八寺(いはちじ)光明院(こうみょういん)であろう。

「『楓軒偶記巻二』に同様の文がある」常陸水戸藩士で儒者の小宮山楓軒(こみやまふうけん 明和元(一七六四)年~天保一一(一八四〇)年:小宮山東湖の長男。立原翠軒に学び、水戸の「彰考館」で「大日本史」の編修に従事した。寛政一一(一七九九)年には郡(こおり)奉行となり、植林をすすめるなど窮乏する農村の救済に尽した。後に町奉行・側用人を務めた。名は昌秀。編著に「農政座右」「水府志料」などがある)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第二 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る。右ページ上段三行目『一、東國戰記に、常陸小山莊の民の妻、死して土中に子を生み、母の幽靈餅を買て兒を育せしことあり。其兒生れて白髮なり、後に僧となり、頭白上人と云あり、佐藤成裕曰、藝州宮島光明寺上人上達上人と云あり、亡母の墓より生まれと云、墓中に兒の聲あるを聞いて掘出し、日々飴を與へて成人すと云、亦頭白の類なり、秀按に、……』(以下略)の部分である。しかしこれは、標題のメインの話「亡妻看病」のそれではなく、後半の話を、ただ、そのまま引用したものだ。これは、絶対的に、おかしい。宵曲に裏切られた気がした。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「法印怨霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

   

 

 法印怨霊【ほういんおんりょう】 〔譚海巻八〕同国<上総>定元《さだもと》村と云ふ所に、万立寺《まんりゆうじ》と云ふあり。真言宗にて昔玄慧《げんゑ/げんね》法印と云ふ住持せしが、この法印金子などおほくありて、富有の人なりしが、その旦那に江尻五郎右衛門といふものあり。年貢の上納に差支《さしつか》へて、住持に金子無心せしかども、承知せざりしかば、それをいきどほりおもひて、この法印ある婦人と密会せし事を歌に作りてうたひ、人にもをしへて、田植うたにもさせしかば、その沙汰ひろがりたるを法印聞きて、無実の難にあへること、残念至極に思ひて、ある時非時をまうけて、旦那中《だんなぢゆう》を招きければ、皆寺ヘ参りたる中に、五郎右衛門もまじりてなまじひに行きければ、法印悦びたる体《てい》にて非時終り、酒などこゝろよく進めて、事終り皆々帰らんとせし時、法印五郎右衛門を呼び留めて、眠蔵(めんざう)より金の入りたる財布を持出で、五郎右衛門に云ひけるは、先年その方金子無心いひたるを、用たらざるを意趣にふくみて、我等事《こと》婦人と密通せしよし、無実の事を歌に作りて、恥をあたヘられたる事、思ふに無念止む事なし、かゝるあだにせらるゝもこの金ゆゑなりとて、その儘財布を猛火《みやうくわ》の内へ投入れければ、金子焼けとろけて、青きほのほ燃えあがりしにあはせ、法印のいかりたるさま見るに堪へず、五郎右衛門おそれ帰りしかば、法印はその儘自害して失せけるとぞ。その後《のち》三代を経て、証宥阿闍梨《しやういうあじやり》といふ僧、暫くこの寺に住持せしに、ある日客殿のかた大いに震動して、物音けしからず聞えければ、行きて見られしに、したゝかなる大蛇《だいじや》現じて柱に巻付《まきつき》てあり。阿闍梨これを見て、いかなる化生(けしやう)なれば、かゝるあやしき体《てい》をば見するぞといはれて、この蛇忽ち消えうするごとくなくなりけり。この時さもわびしげなる僧衣を著て、入り来《きたり》て阿闍梨にむかつて申しけるは、拙僧は三代先の住待玄慧と申す者なり、この旦那江尻五郎右衛門為《ため》に無実によりて死《しし》たりしが、怨み晴れずして明日は終《つひ》に五郎右衛門を取殺し侍る、但こひねがはくは阿闍梨、引導を渡したまはるなといひければ、証宥答へけるは、それはさもあるべき事ながら、この寺の旦那死たるに引導をたのまれ、それをせざらんもいかゞなり、先づ我等引導をして松明《たいまつ》をなぐるまでは待たれよといひければ、領掌して行きかたなくなりけり。翌日はたして五郎右衛門死て葬礼を出《いだ》し、寺近き野に棺をたて引導せられしに、葬礼済むとそのまゝ空かきくもり、大雷《おほかみなり》落ちかゝりて、五郎右衛門が死骸をとりてさりたり。後に尋ねたれば、首は旗沢の浅間明神の社内にあり、片足はちぎれて同国加納山の車切地蔵と云ふ所の松の木の上に有りつるとぞ。明暦年中の事にて、よく其所の人は知りて、語りつたふる事といへり。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷八 同國定元村萬立寺住持旦那を取殺したる事(フライング公開)」を公開した。いろいろな点で疑問がある。そちらの注で疑義を附してあるので、見られたい。

譚海 卷之八 同國定元村萬立寺住持旦那を取殺したる事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。なお、標題の「同國」は前の条が『上總國』で始まることによる。]

 

 同國定元(さだもと)村と云(いふ)所に、萬立寺(まんりゆうじ)と云あり。

 眞言宗にて、昔、玄慧(げんゑ/げんね)法師と云(いふ)、住持せしが、此法印、金子(きんす)抔(など)、おほくありて、富有(ふいう)の人なりしが、其旦那に、江尻五郞右衞門といふもの、あり。

 年貢の上納に差支(さしつかへ)て、住持に、金子無心せしかども、承引(しやういん)せざりしかば、それを、いきどほり、おもひて、この法印、ある婦人と密會せし事を、歌に作りてうたひ、人にも、をしへて、「田植うた」にも、させしかば、其沙汰、ひろがりたるを、法印、聞(きき)て、

『無實の難にあへること、殘念、至極。』

に思ひて、ある時、非時(ひじ)をまうけて、旦那中(だんなぢゆう)を招(まねき)ければ、皆、寺ヘ參りたる中に、五郞右衞門も、まじりて、なまじひに[やぶちゃん注:行かずともいいのに(~する)さま。]行(ゆき)ければ、法印、悅びたる體(てい)にて、非時、終り、酒など、こゝろよくすゝめて、事、終り、皆々、歸らんとせし時、法印、五郞右衞門を呼(よび)とめて、眠藏(めんざう)[やぶちゃん注:禅宗で僧の寝所としたり、家具を仕舞って置いたりする部屋。寝室・納戸(なんど)の類。]より、金(かね)の入(いり)たる財布を持出(もちいで)、五郞右衞門に云(いひ)けるは、

「先年、その方、金子無心いひたるを、用(よう)たらざるを、意趣にふくみて、我等事(こと)、婦人と密通せしよし、無實の事を歌に作りて、恥をあたヘられたる事、思ふに、無念、止(やむ)事、なし。かゝるあだに、せらるゝも、此金、ゆゑなり。」

とて、其儘、財布を、猛火(みやうくわ)の内へ投入れければ、金子、燒(やけ)とろけて、あをきほのほ、燃えあがりしに、あはせ、法印のいかりたるさま、見るにたえず、五郞右衞門、おそれ、歸りしかば、法印は、其儘、自害して失せける、とぞ。

 其後(のち)、三代を經て、證宥阿闍梨(しやういうあじやり)といふ僧、暫く、此寺に住持せしに、ある日、客殿のかた、大(おほい)に震動して、物音、けしからず、聞えければ、行(ゆき)て見られしに、したゝかなる大蛇(だいじや)、現じて、柱に卷付(まきつき)て、あり。

 阿闍梨、是を見て、

「いかなる化生(けしやう)なれば、かゝるあやしき體(てい)をば、見するぞ。」

と、いはれて、此蛇、忽ち、消えうするごとくなくなりけり。

 この時、さも、わびしげなる僧衣(そうえ)を著)き)て、入來(いりきたり)て、阿闍梨にむかつて、申(まふし)けるは、

「拙僧は、三代先(さき)の住待玄慧と申(まふす)者なり。この旦那、江尻五郞右衞門爲(がため)に、無實によりて、死(しし)たりしが、怨(うらみ)、晴(はれ)ずして、明日(あす)は、終(つひ)に、五郞右衞門を取殺(とりころ)し侍る。但(ただ)、こひねがはくは、阿闍梨、引導を、渡したまはるな。」

と、いひければ、證宥、答(こたへ)けるは、

「それは、さもあるべき事ながら、この寺の旦那、死(しし)たるに、引導を、たのまれ、それをせざらんも、いかゞなり。先づ、我等、引導をして、松明(たいまつ)をなぐるまでは、待たれよ。」

と、いひければ、領掌して、行(ゆき)かたなくなりけり。

 翌日、はたして、五郞右衞門、死て、葬禮を出(いだ)し、寺近き野に、棺をたて、引導せられしに、其禮(そのれい)、濟(すむ)と、そのまゝ、空、かきくもり、大雷(おほかみなり)落(おち)かゝりて、五郞右衞門が死骸を、とりて、さりたり。

「後(のち)に尋ねたれば、首は、旗澤(はたざは)の淺間明神(せんげんみやうじん)の社内にあり、片足は、ちぎれて、同國加納山の車切地藏と云ふ所の、松の木の上に有(あり)つる。」

とぞ。

「明曆(めいれき)年中の事にて、よく、其所の人は知(しり)て、語りつたふる事。」

と、いへり。

[やぶちゃん注:「同國」(=上總國)「定元(さだもと)村と云ふ所に、萬立寺(まんりゆうじ)と云ふあり」「眞言宗」調べた結果、旧上総国内で、現在の千葉県君津市元(さだもと)に、真言宗豊山派八幡山満隆寺(まんりゅうじ)があるので、それであろう。法印の怨霊による凄惨な事件であるから、地名と寺名を変名したものかと思われる。

「玄慧法師」底本では、編者の竹内利美氏によって、「慧」の右に誤字訂正傍注で、『(惠)』とあり、「師」の右に同じく『(印)』とある。後者は極めて納得出来る補正であるが、前者は、何故、法印名が、「玄慧」は誤りで、「玄惠」が正しいとし得るのかが、私には全く分からないのである。しかも、この訂正注は、本文の後の方の怨霊が名乗るところにも、しっかり附されてあるのである。この奇怪な事件は、少なくとも、ネット上には、実際の事件としては、どこにも語られていない。他に、「譚海」よりも、古いソースの信頼出来る資料・随筆があるとするなら、この修正補注に文句はない。だが、国立国会図書館デジタルコレクションの検索で「上總 貞元 法印」のフレーズで探したが、それらしいものは、見当たらなかった。そして、これについての竹内氏の後注は、底本には、ない、のである。竹内氏は何を以って、この補正注をしたものか、解し兼ねるのである。何故なら、同名異人の実在した過去の法印に、鎌倉末期から南北朝時代にかけて活躍した天台宗の僧で儒者であった「玄慧(げんゑ)法印」(「玄惠」とも書き、「げんね」とも読む)が実在するのである。竹内先生は既に鬼籍に入っておられ、その答えをお伺いすることは、残念ながら、出来ない。

「非時」狭義のそれは、以下である。仏教僧は、原則、食事は午前中に一度しか摂れないとされ、それを「斎時(とき)」と呼ぶ。実際には、それでは、身が持たないので、「非時」と称して午後も食事をするのである。但し、ここは、極めて珍しい用法で、「僧侶である法印が、午後に、檀家の者たちを饗応するために設えた食事」の意である。

「棺をたて」この棺桶は、当時、普通であった座棺のそれだから、「立て」なのである。

「旗澤の淺間明神」現在の千葉県木更津市畑沢(はたざわ)にある旗沢浅間(はたざわせんげん)神社(グーグル・マップ・データ)。満隆寺の北北西三キロメートル強。

「同國加納山の車切地藏」満隆寺の南東九キロメートル弱の位置にある君津市内の鹿野山(かのうざん)であろう(グーグル・マップ・データ)。但し、「車切地藏」は不詳。

「明曆年中」一六五五年から一六五八年(明暦四年七月二十三日(グレゴリオ暦一六五八年八月二十一日に万治に改元)までの期間を指す。徳川家光の治世。]

2024/01/11

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「弁才天奇談」 / 「へ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「へ」の部は終わっている。]

 

 弁才天奇談【べんざいてんきだん】 〔譚海巻五〕和州長谷<奈良県磯城郡初瀬町か>の僧何某、勤修《ごんしゆ》多年に及びけるが、寺中に弁才天の木像を安置せる所有り。時々参りて法施奉り拝み奉りけるに、弁天女の形殊に端麗に覚えて、いつとなくなつかしく忘れがたければ、しきりに参りて拝みまゐらするまゝおほけなく恋慕の心おこりて、いかにしても世中にかゝる女あらば、一期《いちご》の思ひ出に逢見《あひみ》てましなど、あらぬ事に心移りて破戒の事も思はず、今はつやつや物も覚えず、病《やまひ》にふしてあかし暮しけり。おもふあまりの心を、天女もあはれとみたまひけるにや、ある夜うつゝの如く、弁才天この僧にまみえ給ひて、汝がよしなき心を起して、年頃の勤行いたづらにせん事、浅ましくおもふ儘かく現じ来りたり、この事かまへて人に語るなと、いたく口堅《くちがた》めましまして、天女僧のふすまに入り賜ひぬ。僧喜こびにたヘず、夫婦の語らひをなしつ。かくて心ものどまり[やぶちゃん注:「和(のど)まる」。落ち着き。]、病もまた怠り[やぶちゃん注:ここは「病気が癒える」というポジティヴな意。]ぬれば、勤修ますますたゆみなくはげみける。それより後は夜々天女ましまして、僧と語り給ふ事絶えず、月日を経てこの僧心にうれしく思ふ余り、ふと同法《どうほふ》の親しき物語りの序(ついで)に、かゝる事もありけるとほのめかしけるその夜、また天女おはして、殊にいかり腹立ち賜ひて、汝がまよひをはらして成仏の縁をとげしめんためにこそ、かりそめにかく契りはかはしつるを、はかなくも人にもらしつる、今はかひなし、汝がもらす所の慾のかへし与ふるぞとて、つまはじきして去り賜ふ。その時あまた水の面《おもて》にかくると覚えしが、やがてこの僧らいびやうをやみて、いく程なく身まかりぬといへり。ふしぎの事にこそ。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之五 和州初瀨の僧辨財天に値遇せし事」を参照されたい。

「和州長谷」「奈良県磯城郡初瀬町」現在は奈良県桜井市初瀬(はせ:グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇の毒」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇の毒【へびのどく】 〔譚海巻二〕常陸息栖<茨城県鹿島郡>より鹿嶋<同上>へわたる舟路の中に、八丈竹とて珍しき竹生ひたる嶋あり。その竹は皆八節《はちふし》より外《ほか》なるものなきゆゑ、かくいひならはしたるとぞ。舟中より見て過ぐる所なれば、ある僧鹿嶋参詣の時、わざと舟さしよせて嶋ヘのぼらんとせしに、人跡稀(まれ)なる草莽《さうまう》の中にてためらひたる所、赤き蛇のかしら火入(ひいれ)程にあるが、さし出《いで》て追ひ来るまゝ驚きて舟に乗り漕ぎ去りたり。両日は頭痛して心地なやましく覚えたり。見合《みあ》ひたる時、蛇毒にあたりたるにやと語りぬ。赤き蛇にて斑文あるものなりといへり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 常州鹿島參詣の事」を見られたい。

「常陸息栖」「茨城県鹿島郡」現在は茨城県神栖市息栖(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇の菌」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇の菌【へびのきのこ】 〔真佐喜のかつら〕相州高座郡田名村<神奈川県相模原市田名>に幽《いう》なる[やぶちゃん注:「世間から離れてひっそりと暮らしている」の意。]百姓あり。秣(まぐさ)刈りに弟を連れて出で、つかれたる儘、木陰に来り寝臥《いねふ》す。をりから大なる蛇、うなじのあたりをはうて草中に入る。いまだ眠らざる事ゆゑ、竹にてうち敲《たた》き、半死なるを縄にて縊《くび》り、木の上へ持行《もてゆ》き梢へつるし、やがて家へ戻る。時過ぎ年隔《へだて》て、その事は忘れたり。また或時秣刈りに出て見るに、大なる菌(きのこ)多く生じければ、取《とり》て家に戻り、その夜《よ》食す。忽ち苦痛はなはだしく、弟なる者驚き医師《くすし》にかけけれど、験《しるし》なく程なく死したり。されどかの菌をおなじく食したる母並(ならび)に弟は更に障《さは》る事なし。母怪しみ菌の生ぜし処へ弟を引連れて行く。この時に至り、弟なるものこゝろ付《づ》き、過ぎし年《とし》兄の蛇を殺し釣《つる》したる事、母に語る。母おどろき仰向き見るに、いまだ縄は雨に朽《くた》れながら梢に残る。されば蛇恨みを残して、下なる土へ菌を生じてかくいたしけるにや。

[やぶちゃん注:「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここで正規表現で視認出来る。但し、最後の附言部分がカットされている。茸の毒に中った場合の対処方であるから、問題ない。なお、これは、兄の食したものだけに、毒キノコが含まれていたとすれば、怪奇談とも言えぬだろう。

「相州高座郡田名村」「神奈川県相模原市田名」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇の気」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇の気【へびのき】 〔秉穂録二ノ上〕三河の松平<愛知県豊田市松平町>のあたり、蛇多し。一禅僧、它(た)国より来り逗留せし内に、わづらひ付きて臥しゐたるを、かたへの人、つくづく見れば、線香ほどなる、ほそき気一すぢ、その僧の口に続きたるを尋ねみれば、大きなる蛇、蟠(わだかま)りてありける。いそぎその僧を外《ほか》の所へ移して、療養しければ、ほどなく愈えたりとぞ。

[やぶちゃん注:「秉穂録」現代仮名遣で「へいすいろく」と読む(「秉」はこれ自体が「一本の稲穂を取り持つ」ことを意味する)。雲霞堂老人、尾張藩に仕えた儒者岡田新川(しんせん)による考証随筆で、寛政一一(一七九九)年に成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る。右ページ最終行から。

「三河の松平」「愛知県豊田市松平町」(まつだいらちょう)はここ(グーグル・マップ・データ)。松平氏発祥の地として知られる。

「它(た)国」「他国」に同じ。生まれ故郷でない土地。 他(ほか)の土地。しかし、っこで、この「它」を敢えて用いたのは、確信犯であろう。この漢字は実は「蛇」の意が原義なのである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇と蛞蝓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇と蛞蝓【へびとなめくじ】 〔四不語録巻六〕能州或(ある)禅寺(寺号忘れ候)の住持、秋の夕暮に縁先に出て夕はえの気色を眺望せられしに、向うの垣の際《きは》に蛇の蟠(わだかま)りたるあり。そのあたりに蛞蝓《なめくぢ》の輪をかくるあり。さればこそ聞《きき》及びたる事なりと、傍目《わきめ》もせず見居《みをり》たるに、一反《いつたん》輪をかけすむと、蛇は少しも動かず。蛞蝓そのまゝ一文字《いちもんじ》に歩み来り、蛇の上へ登り縦横《じゆうわう》にありきて、なめくじり[やぶちゃん注:ママ。]は何方《いづかた》へやらむ行きたり。住持立出《たちいで》て蛇のやうを見るに、尽《ことごと》く消《け》して泡《あは》のみ残り居《をり》たり。翌朝とく起出《おきいいで》てみれば、その泡も消えてその跡より黄色なる菌《きのこ》数《す》百生ひ出《いで》たり。蛞蝓あまた居《をり》てこの菌を喰《くら》ひけり。蛇を生《なま》にて喰ふ事ならぬゆゑに、菌となして喰ふなり。これも一《ひとつ》の奇事なり。されば黄蕈(いくち)は蛇のなりたる間(まま)多きほどに、みだりに喰ふ事なかれと老人の諫《いさ》められしもさる事にや。秋の半ば茸狩(たけがり)に行きて見るに、黄蕈・芝菌(しばたけ)には蛞蝓の吸付《すひつき》き居《を》る事これあり。これ蛇の化《け》したるにや。

[やぶちゃん注:「黄蕈」の「蕈」の底本の字体は異体字で、「グリフウィキ」のこれ。表示出来ないので、かく、した。

「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。

「能州」能登国。

「さればこそ聞及びたる事なり」所謂、「三すくみ」である。「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」の「蛇を畏れて、而〔(しか)〕も蜈蚣〔(むかで)〕を制す。此の三つ物、相ひ値〔(あ)へば〕、彼此〔(かれこれ)〕皆、動くこと、能はず」の私の長い注を、是非、参照されたい。

「黄蕈(いくち)」菌界担子菌門真正担子菌綱イグチ目イグチ科 Boletaceaeのキノコを総称するもの。当該ウィキによれば、『ハラタケ目のきのこ同様に広く分布しており、茸狩りを行なう人には非常に人気のあるきのこである。一般には「イグチ」と総称される』。『かつて、イグチ科のきのこは、人間が食用に供しても』、『比較的安全な仲間と思われていたこともあり、毒性の強いテングタケ属』(担子菌門菌蕈(きんじん)綱ハラタケ目テングタケ科テングタケ属 Amanita )『のような有毒種と混同するような要素も少ないので、キノコ狩りの初心者にとっても好適なものであるとされてきた。目の細かいスポンジのようなかさの裏面・一般に太くて丈夫な肉質の柄の質感などによって、ハラタケ類』(真正担子菌綱ハラタケ目ハラタケ科ハラタケ属 Agaricus )『に属する種との識別も比較的たやすい』。『しかし、日本以外のイグチ科のきのこによる死亡例や、日本における有毒種ドクヤマドリ』(イグチ科 Sutorius属ドクヤマドリ Sutorius venenatus )『の存在などに鑑みれば、イグチの仲間だからと言って』、『安易に口に入れることは避けるべきである』とある。

「芝菌(しばたけ)」イグチ目ヌメリイグチ亜目ヌメリイグチ科ヌメリイグチ属アミタケ Suillus bovinus の別称。当該ウィキによれば、『夏から秋に、海岸のクロマツ林や内陸のアカマツ林などの地上に生える。黄褐色の傘の表面は強い粘り気があり、裏側には網状になった粗い管孔があるのが特徴で、和名の由来にもなっている』。『食用キノコのひとつで、煮れば赤紫に色が変わる。鳥取県では、スイトウシの地方名でよばれる』とあった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇と鯉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇と鯉【へびとこい】 〔甲子夜話続篇巻十六〕文化元年の事とぞ。或日鎌倉河岸<東京都千代田区内神田>の御外堀に、殊に大なる蛇泳ぎ行くを、水底より巨鯉浮びて蛇を食はんとす。蛇もまた鯉を吞まんとして相争ふこと時あり。人これを視て堵(かき)[やぶちゃん注:「垣」に同じ。]の如し。かくすること半日に及び、鯉遂に蛇を食ふこと半ばなり。然るに蛇の毒にあたりたるか、鯉死して水に浮ぶ。蛇尾《へびを》は魚口より出《いで》たれば、共に水面に漂ふを、折ふし町人の俠者《けふしや》行きかゝり、水に投じてこの二物《にぶつ》を取揚げ、陸上の人に示す。今は乾《ほ》して某の御番所に蔵(をさ)めありとぞ。(以上或人話、実事と云ふ)今玆《こんじ》八月の始《はじめ》、善庵携へ来りて左右に示す。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷十六 25 蛇鯉の鬪」として公開しておいた。但し、私の『東洋文庫』版を見ると、最後の「今玆八月の始、善庵携へ来りて左右に示す。」(「り」は同書にはない)の部分は、続く「26」の冒頭になっているので、宵曲の読み違いによる、衍文である。

フライング単発 甲子夜話續篇卷十六 25 蛇鯉の鬪

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは珍しい静山のルビ。標題は「へびこひのたたかひ」と訓じておく。]

 

16-25 

 文化元年のこと、とぞ。

 或日、鎌倉河岸(かまくらがし)の御外堀(おそとぼり)に、殊に大なる蛇(ヘビ)泳ぎ行くを、水底より、巨鯉(きよごひ)、浮びて、蛇を食はん、とす。

 蛇も、また、鯉を吞(のま)んとして、相爭(あひあそ)ふこと、時(とき)、あり。

 人、これを視て、堵(かき)の如し。

 かくすること、半日に及び、鯉、遂(つひ)に、蛇を食ふこと、半(なか)ばなり。

 然(しか)るに、蛇の毒に、あたりたるか、鯉、死して、水に浮ぶ。

 蛇尾(へびを)は、魚口(うをくち)より、出(いで)たれば、共に水面(みなも)に漂ふを、折ふし、町人の俠者(けふしや)、行(ゆき)かゝり、水に投(とう)じて、この二物(にぶつ)を取揚(とりあ)げ、陸上(くがうへ)の人に示す。

 今は、乾枯(ほしから)して、某(ぼう)の御番所(ごばんしよ)に藏(をさ)めありとぞ【以上、或(ある)人、話。實事(じつじ)と云(いふ)。】

■やぶちゃんの呟き

「文化元年」一八〇四年二月十一日(但し、改元は享和四年二月十一日で、グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日)から一八〇五年一月三十日まで。

「鎌倉河岸」現在の東京都千代田区内神田のここ(グーグル・マップ・データ)。この河岸名は江戸幕府開府の頃、江戸城を普請するために、鎌倉から来た材木商らが、ここで築城に使う木材を仕切っていたことから名付けられたと伝わっている。

「堵」「垣」に同じ。

「俠者」弱い者を助け、強い者をくじく人。侠客(きょうかく)。男伊達(おとこだて)。

「水に投じて」堀の水に飛び込んで。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇と蟹」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇と蟹【へびとかに】 〔海西漫録〕猿が嶋の敵打《かたきうち》とて、児童のすなる物語は、蟹その仇猿を討《うち》たる物語なり。こゝに飛驒国の深山にて、杣人(きこり)ども木を伐るとて、小屋を造りて有りけるに、炊者《すいのもの》食後呉器(ごき)[やぶちゃん注:高麗(こうらい)茶碗の一つ。碗形は深く、高台は裾開きで高い。禅寺で使う「御器」に似るところから名づけられた。]を谷川へ持出《もちいで》て洗ひけるに、川上より幾つともなく蕗葉《ふきのは》の流れ来るを怪しみ、この川には住《すむ》人も無きに、これは不思議なるわざかなとて、その流れ来《きた》る蕗葉を取あげて見るに、蕗の葉のうらに二ツ三ツの小蟹附き居《ゐ》たり。また別の蕗葉取りて見るにも、同じく二ツ三ツの小蟹附きたり。大いに不思議に思ひ、その儘流し遣りて、何処《いづこ》に止《とま》るにや有らんと、岸を伝ひ行きて見るに、遙か川下に大木《たいぼく》の横たはれる所有り。其処にてあまたの蕗葉、一反《いつたん》かへりてまた川下へ流れ行くめり。またこれを不思議に思ひ、まはり道して川下へ行きて、その流れ来る蕗葉を取りて見るに、件《くだん》の蟹は一ツも無し。さてはかの大木の横たはりし処に、蟹は止れるにやあらんと、いよいよ不思議に思ひあきれ居《をり》たるほどに、山なる杣人どもは、炊者の帰りの遅きを怪しみ、二三人尋ね来《きたつ》て、野郎は狐に摘まれたらんといふ。炊者は否々しからず、先づあれを見よとて、指ざして大木を見せ、しかじかの事を物語る。こゝに皆々あやしく思ひ、かの大木をよくよく見れば、折しも夕陽にあたりて、光りかゞやく状《かたち》、木とは見えず。その形のいと恐ろしきは、蟒蛇(うはばみ)にてぞ有るべき、されどきらきらして見ゆるこそ怪しけれといふ。きらきらするは蟹なるべしといふも有り。川を隔てて遙かに見る事なれば、詳《つまびらか》には定めがたし。かくてその明日《あした》も、またその明日も午休《ひるやす》みに見に行きけるが、程なくかの大木は川へ落入《おちい》りたり。その後五六十日を経て大雨洪水有りて、里近き川下へ大なる蟒蛇流れ出《いで》たり。その蟒蛇の総身《そうみ》には、透間《すきま》もなく小蟹の附き居《をり》たりしとかや。これ等《など》も蟹の仇《かたき》を報いしにやあらん。

[やぶちゃん注:「海西漫録」(かいせいまんろく)は国学者鶴峯戊申(つるみねしげのぶ 天明八(一七八八)年~安政六(一八五九)年)の随筆。彼は豊後国臼杵(現在の大分県臼杵)に八坂神社神主鶴峯宜綱の子として生まれ、江戸で没した。著作は多く、中でも「語學新書」はオランダ語文法書に倣って当時の日本語の文法を編纂したもので、近代的国語文法書の嚆矢とされる(当該ウィキに拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第三(大正七(一九一八)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。「初篇二」の冒頭で、標題は『○蟹殺蛇蟒』である。但し、「目錄」では『蟹殺蟒蛇』となっている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇章魚に化す」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蛇章魚に化す【へびたこにけす】 〔閑田耕筆巻三〕章魚の内に、あるひは蛇の化《け》するもの有りといふ。ある人の話に、越前にて大巌にふれて尾を裂きたるが、つひに脚に成りたり。その間、時をうつせしといへりし。また使ひし僕《しもべ》も彼《か》国の者にて、これは山より小蛇あり。また下り来《きたつ》て水際に漬《つか》り、小石にふれ、漸々に化して水に入りたりといひき。彼辺にては折々有る事ならし。〔笈埃随筆巻五〕何国《いづこ》の事にや、春の頃蛇多く出来《いできた》りて、海中に走り入《いり》て蛸となれりといふ事ありき。甚だ怪しき事におもへり。近頃越前に通ふ商人《あきんど》の語るを聞きしに、春三月のころ彼《か》国に有りしに、所の人々誘ひて蛇の蛸になるを見に行くべしとて、破籠様(わりごやう)の物を携へ、長閑(のどか)なる日に浜辺に遊ぶ。暫くしてとある山の尾崎《をさき》より蛇出で来りて、真一文字に浜を下り、海中に游ぎゆらめき、十間許りも出るや、尾を上げて打つ事数遍《すへん》しぬれば、尾先裂けて足長く別れ出づ。こはふしぎなる事哉と目をはなさず見留《みとど》め居《を》るうち、いまだ半身は蛇の儘にゆられけるが、また水に打返り打返りするかと見れば、忽ち全体蛸と化《け》して沖の方へ行く。それより追々出《いで》てはみな斯《かく》のごとし。その化してしばらくは、つかれ苦しみぬるや、悩める様なり。これ等《ら》世にいふ手長蛸に毒ありとするの本《もと》かと聞《きき》て、さては浮きたる事にもあらざりしと覚ゆ。<『兎園小説第六集』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:実は、この蛇が蛸に変わるという話は、動物怪奇談の中では、非常にメジャーなもので、私の怪奇談集でも枚挙に遑がない。恐らく一番古い電子化は「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」である。挿絵入りのものでは、「宿直草卷五 第六 蛸も恐ろしき物なる事」があり、「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」もある。「想山著聞奇集 卷の參 七足の蛸、死人を掘取事」の途中にも言及がある。

「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来る。左ページ後ろから五行目。

「笈埃随筆」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は『○變態』。但し、その項の中間の一部を抄録したもの(左ページ一行目途中から八行目まで)。カットされた前の話は、笹が魚に化す話で、後の部分はタコブネの話である。

「『兎園小説第六集』に同様の文がある」私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 蛇化して爲ㇾ蛸』を見られたい。馬琴の長男興継の絵図附き。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蛇甑」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 蛇甑【へびこしき】 〔甲子夜話巻八十七〕丙戌<文政九年>六月廿五日、小石川三百坂<東京都文京区内>にて蛇多く集《あつま》り、重累《ぢゆうるい》して桶《をけ》の如し。往来の人、歩を留めて皆見る。その辺なる田安殿の小十人、高橋百助の子千吉十四歳なるが云ふには、この如く蛇の重なりたる中には必ず宝ありと聞く。いざ取らんとて袖をかゝげ、右手を累蛇の中にさし入れたるに、肱《ひじ》を没せしが、やゝ探りて果して銭一文を獲《え》たり。見るに篆文《てんぶん》の元祐通宝銭なり。是より蛇は散じて行方知れずと。奇異と云ふべし。

 追記す。田舎にてはこれを蛇塚と云ひて、往々あることとぞ。<『兎園小説外集巻一』に同じ記載がある。『甲子夜話』には蛇塚とあるが、これは蛇を埋めた塚と紛らわしいので、こゝには『兎園小説』に「ヘびこしき」とあるのに従った>

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷八十七 4 蛇(ヘビ)塚」を公開しておいた。非常に見難いが、静山の挿絵があるので(宵曲はカットしている)、掲げておいた。

「兎園小説外集巻一」私の『曲亭馬琴「兎園小説外集」第一 蛇怪 鈴木分左衞門 / へびこしき 山本庄右衞門』を参照されたい。]

フライング単発 甲子夜話卷八十七 4 蛇(ヘビ)塚

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは珍しい静山のルビ。]

 

87-4

 丙戌(ひのえいぬ/へいじゆつ)六月廿五日、小石川三百坂にて、蛇、多く集(あつま)り、重累(ぢゆうるい)して桶(をけ)の如し。

 往來の人、步(あゆみ)を留(とめ)て、皆、見る。

 その邊(あたり)なる田安殿の小十人(こじふにん)、高橋百助の子、千吉、十四歲なるが云ふには、

「この如く、蛇の重なりたる中には、『必ず、寶あり。』と聞く。いざ、取らん。」

迚(とて)、袖を、かゝげ、右手を、累蛇(るいじや)の中に、さし入れたるに、肱(ひじ)を沒(ぼつ)せしが、やゝ探(さぐり)て、果(はたし)て、錢一文を獲(え)たり。

 見るに、篆文(てんぶん)の「元祐通寶錢」なり。

 是より、蛇は、散じて、行方(ゆくへ)知れず、と。

 奇異と云(いふ)べし。

 

Hebituka

 

[やぶちゃん注:キャプションがあり、上部中央に『傳說ノ圖』、中央に右から左に横転して『コノ渡一尺六七寸』、左下に『高』(たか)『モ一尺六七寸』とある。]

 

 予、因(よつ)て、「泉貨鑑」に載るものを附出(ふしゆつ)す。

 

Gennyuutuuhou

 

 追記す。田舍にてはこれを「蛇塚(ヘビヅカ)」と云ひて、往々あることとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「甑」米などを蒸すのに使う台所用具で、筒状、若しくは、箱状のものに、底に蒸気の通る穴を空けてあり、洗って吸水させた米などを蒸気を通して蒸す。

「丙戌」「文政九年」「六月廿五日」グレゴリオ暦一八二六年七月二十九日。

「小石川三百坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルで説明板が見られる。現在の文京区小石川三丁目と四丁目の境、伝通院の西にある坂で、元は三貊(さんみゃく)坂と言った(この原呼称の意味は不明)。ここは播磨坂周辺に上屋敷を持っていた松平播磨守頼隆が、登城の際に通った道で、松平家の仕来りで、藩主登城の際の徒歩(かち)の供侍は、まず、玄関で、殿にお目通りし、それから直ぐに着替えて、登城の列に加わることとなっていた。徒歩侍の者は、登城の列が、伝通院横の、この坂を登り切るまでに追いつけなかった場合、三百文の罰金を支払う掟(おきて)となっており、そこから松平家家士が、この坂を「三百坂」と呼び、一般でも、かく、呼称されるようになった旨、懐山子の「江戸志」にある。

「小十人」江戸幕府の職名。若年寄支配に属し、平日は殿中「檜の間」に勤番して、将軍の護衛に当たり、将軍の出行の際は、先駆けを勤めた者。二十人を以って「小十人組」を作り、小十人頭・同組頭の指揮を受けた。

「元祐通寶錢」(げんゆうつうほうせん)宋代(九六〇年~一二七九年)に鋳造された銭貨。銅銭と鉄銭がある。北宋(九六〇年~一一二七年)の太祖が、「宋元通宝」を鋳造し、太宗の時代に、「太平通宝」・「淳化通宝」・「至道元宝を発行して後、概ね、改元ごとに、その年号を記した銭が鋳造された。当時、貨幣需要が大で、鋳造技術の未熟な諸外国では、宋銭を輸入して、この欲求を満たしていた。このため、北宋末期から宋の銅銭流出は盛んで、南宋(一一二七年~一二七九年)になると、ますますこの傾向が進んだため、南宋末期には貿易縮小、また、禁止による流出防止政策がとられた。現在、宋銭は日本を始め、南洋一帯・アフリカ東岸の地域でも発掘・出現している(「楽天ショップ」のここの記載(画像有り)を元にした)。

「泉貨鑑」「和漢古今泉貨鑑」(内題)。江戸中期の丹波福知山藩第八代藩主朽木昌綱(くつきまさつな 寛延三(一七五〇)年~享和二(一八〇二)年:詳しい事績は当該ウィキを見られたい)著で、寛政二(一七九〇)年刊。蘭学に精通している一方で、古銭の収集家としても知られる。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「文福茶釜」 / 「ふ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「ふ」の部は終わっている。]

 

 文福茶釜【ぶんぶくちゃがま】 〔耳囊巻一〕館林の出生のもの語りけるは、館林在上州青柳村茂林寺<群馬県館林市堀工町>といふ曹洞禅林の什物《じふもつ》なり。むかしは参詣の者にも、乞ふに任せ見せけるが、今は猥(みだ)りに見せざよし。さし渡し三尺、高サ弐尺程の唐銅茶釜なり。こゝに図する形にて、

 

Kidaibunjiten_20240111051601

 

[やぶちゃん注:底本では、挿絵の下に、『此の如き形ちの由』というキャプションがある。]

 

茂林寺に江湖結斎の時、むかし大衆に茶を出すに、煎じ足らずとて、そのころ主事たる僧守鶴といへる、これを拵へさせし由。守鶴はいつ頃より茂林寺に居けるや、知るものなく、老狸の由申し伝へしと云ふ。これを童謡に唱《うた》へぬらんと云ふ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳囊 卷之八 文福茶釜本說の事」である。宵曲の写した図は、私のもの(「日本庶民生活史料集成」版。四種を底本とし、「卷之八」は日本芸林叢書本)とは、かなり違う。「岩波文庫」版(現在知られる唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校東アジア図書館蔵旧三井文庫本底本)によく似る。以下に、私のものと、岩波のそれを、参考に掲げておく。

 

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上が「日本庶民生活史料集成」版で、下が「岩波文庫」版のそれである。

 なお、本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているのだが、今まで、不審に思い、ママ注記を附してきたが、今回、実は、これは、最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とあることに気づいた(遅きに失したことをお詫びする)。

2024/01/10

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「文福茶釜」 / 「ふ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って「ふ」の部は終わっている。]

 

 文福茶釜【ぶんぶくちゃがま】 〔耳囊巻一〕館林の出生のもの語りけるは、館林在上州青柳村茂林寺<群馬県館林市堀工町>といふ曹洞禅林の什物《じふもつ》なり。むかしは参詣の者にも、乞ふに任せ見せけるが、今は猥(みだ)りに見せざよし。さし渡し三尺、高サ弐尺程の唐銅茶釜なり。こゝに図する形にて、

 

Kidaibunjiten

 

[やぶちゃん注:底本では、挿絵の下に、『此の如き形ちの由』というキャプションがある。]

 

茂林寺に江湖結斎の時、むかし大衆に茶を出すに、煎じ足らずとて、そのころ主事たる僧守鶴といへる、これを拵へさせし由。守鶴はいつ頃より茂林寺に居けるや、知るものなく、老狸の由申し伝へしと云ふ。これを童謡に唱《うた》へぬらんと云ふ。

[やぶちゃん注:私のは、底本違いで、「耳囊 卷之八 文福茶釜本說の事」である。宵曲の写した図は、私のもの(「日本庶民生活史料集成」版)とは、かなり違う。「岩波文庫」版によく似る。以下に、私のものと、岩波のそれを、参考に掲げておく。

 

Nihonminnzokusiryousyusei

 

Iwanami_20240110212201

 

上が「日本庶民生活史料集成」版で、下が「岩波文庫」版のそれである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古櫃の金」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古櫃の金【ふるびつのかね】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕予<根岸鎮衛>が召使ふ者、母は四ツ谷とやらん、榎町<共に東京都新宿区内>とかやの与力に親族ありしが、かの者来りてかの老婆に語りし由。寛政七八の頃の事とや。回組の同心、隣町の同心の許より、古き櫃《ひつ》を金一分とやらんの価にて買ふ約束をなし、かの売主は用事ありて他へ出し留守へ、同心来りて娘に価を渡して、あくる日取りに遣はしける故、娘に申付けて右櫃を取出し渡させけるが、使《つかひ》に行きし者も同心のゆかりなれば、よく改めて渡し給へと懇ろに断りけれど、かの櫃は年古く蔵の隅に打込みて、用にも立たざるゆゑ払ひ候事なれば、中には何もなしとて、なほ蓋を取り塵《ちり》など払ひて使に渡しけるに、買得し者右櫃を引取り、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]洗ひまたは払ひ掃除などし、引出《ひきだ》しをも引出《ひきいだ》しけるに、内に隠し引出《ひきだ》しあれば、これを取出《とりいだ》さんとせしが、如何しけるや出《いで》かねけるを、兎角して引出しけるに、古き紙に包みし金廿五両有りし故、大いに驚き、一旦価を以て調へたる櫃の内の金なれば我物なり、打捨て置くべきと思ひしが、さるにても我は櫃をこそ買ひたるに、思はずもこの金あるを沙汰なく取らん事、天道《てんだう》の恐れありとて、則ち売主へしかじかの事を語りて、右金子を遣はしければ、売主も大いにあきれて、右櫃は先祖より持伝へたるが、父祖なる者、貯へ置きしや、子孫に語らざる故、これ迄右の金ある事を知らざりし。さるにても他へ売払ひなば、一銭も手に入るまじきに、正直なる御身へ売りし故、父祖の恵みを得しと悦びて、その礼謝を与へけるとなり。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之五 櫃中得金奇談の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古猫の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古猫の怪【ふるねこのかい】 〔窓のすさみ〕延宝初年[やぶちゃん注:寛文十三年九月二十一日(グレゴリオ暦一六七三年十月三十日)に改元、旧暦十二月三十日はグレゴリオ暦一六七四年二月五日。]の頃にやありけん、武州川越<埼王県川越市>城下の屋敷に、化物屋敷といふ家ありて、人住まずありけり。或時近習《きんじふ》の臣、君前《くんぜん》にて夜語りの序《ついで》に、この家空しくあきて居り候間、某《それがし》参りて住居《すまひ》申さばやと云ひければ、君の言ふ、もつともなり、近日表向きより申し付くべし、とありける程に、宿所《しゆくしよ》に帰りて、母と妻とに向ひて、それの屋敷を給ふべき内意あり、他人の嫌ふ家にてあれば、母君並(ならび)に妻女の心にきらひなば断り申すべし、如何あらんと語りければ、母妻共に何のおそるゝ事あるべき、君の仰せに随ひて然るべうこそといひければ、然《しか》らばわれらの宿直《とのゐ》の夜心附けておはすべしと云ひて、その家にうつりける、その夜宿直に出でける。夜更けて母氏《ははうぢ》縁に出でければ、大なる釣鐘縁の上にあり。母氏見て、これこそかの化物にや、浅はかなる事なりとて、鐘を撫でて通りければ、帰りにはなくなりぬ。重ねて宿直の夜、妻女厠にゆきしかば、左の方の壁の中にて、何となく音するやうに有りしが、右の方の入口の戸をあけしかば、女の首出て驚かすべき気色なりしかば、妻女懐劔《くわいけん》を抜きて、左の方の壁を突きしかば、手ごたへして逃げたる勢ひなり。初めの首も失せければ、妻女帰りて若党を呼び、このよしを語り、手ごたへして逃げたる様なりし、血(のり)を引きたるらん、尋ね見るべしといひければ、即ち庭へ往きて見るに、血流れてあり。その跡を尋ね見れば、隣境《となりさかひ》にくまざさの茂く生ひ出でたる下に穴ありて、血《のり》を引きたる跡ありしほどに、からげたる薪《たきぎ》を積みて、口をかたく閉め置き、明日《みやうにち》主人帰宅を待ちて告げしかば、穴をうがち見るに、古猫のすぐれて大なるが、あけにそみて死してありけり。それよりしてこの家怪しき物やみぬるとぞ。

[やぶちゃん注:この母君と妻女、スゴ!!!

「窓のすさみ」松崎尭臣(ぎょうしん 天和(てんな)二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年:江戸中期の儒者。丹波篠山(ささやま)藩家老。中野撝謙(ぎけん)・伊藤東涯に学び、荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。別号に白圭(はっけい)・観瀾)の随筆(伝本によって巻冊数は異なる)。国立国会図書館デジタルコレクションの「有朋堂文庫」(大正四(一九一五)年刊)の当該本文で正規表現で視認出来る。同書の「目錄」によれば、標題は『小野淺之丞猫に惱む』。幾つか、ルビがあるのを参考にした。]

〔黒甜瑣語一編ノ二〕「京町《きようまち》の猫かよひけり揚屋町《あげやまち》」といふは宝井晋子《たからゐしんし》が句にて、故事も世人よく知れり。一友人の物語りに、正保の頃、五丁町の尾張屋とやらんヘ一客人来りて、女郎を三日揚げづめにせしが、三日めに客草臥(くたびれ)しと見え、暫し仮寝(うたたね[やぶちゃん注:底本は「うたね」。後に示す活字本でも『假寐(うたゝね)』とあるので、誤植と断じ、特異的に訂した。])せしに、女郎要所[やぶちゃん注:厠。]より戻りかゝり、客の熟睡の躰《てい》を見れば、先の日と違《ちが》ひ毛の生えし頰輔(かまち)[やぶちゃん注:面(つら)つき。]なり。これはと驚きながらよく見るに、猫の化けたるにまがふべくもあらず。襟の中《うち》より紅(もみ)の首輪をはめしも見え、御局《おつぼね》おあや預りと云へる下牌(さげふだ)も付《つけ》てあり。女郎密かに立去り、この事を知らせしに、一家立さわぎ往きて見るに、早くも悟りしと見えて行衛なし。その後この事を世に沙汰し聞きしに、御城のおあやといふ仕女(しぢよ)[やぶちゃん注:大奥の女中。]の預りし猫、その頃見えざりし事ありしとかや。我藩遷封《せんぷう》間もなかりし頃、院内《ゐんない》の辺《あたり》にて猫の怪しき術をなしける事は、横堀村への岡山某が筆記にも見え、『政景日記』にも大和田近江《おほわだあふみ》が物語りとて、御小人《おこびと》[やぶちゃん注:江戸城中の女中や奥役人が出入りする際の供奉や玄関・中之口などの警備、御使(おつかい)や物品の運搬などを職務とした者。]が家の猫の事を記せり。また小貫某先祖に手畜《てがひ》の猫内室を屠殺(くひころ)し、その衣裳を著けて内室と化けて居《をり》たり。或時これも仮寝せしが、仰(あふむ)きて快く寝し面《つら》は猫なり。この頃猫が見えぬとて訝《いぶか》りし事の多くありしゆゑ、小貫氏その躰《てい》を見て、抜打《ぬきうち》に切りかけるに、障子をくゞる時その儘脱《ぬ》けたり。これよりしてその家に猫を畜《か》はず。この物《もの》竊鼠(せつそ)[やぶちゃん注:人の物をこっそりと盗む鼠。]を駆《か》る功によりて家々に愛弄《あいろう》せられ、茵(しとね)を与へ甘(あまき)を分《わか》つ。或人の詩に、仲由在楚茵裁錦、馮氏遊斉食有魚など、十哲《じつてつ》の子路を猫の比諭《ひゆ》[やぶちゃん注:漢字はママ。活字本も同じ。但し、これは誤りではない。]になせしは、詩人の本分《もとまへ[やぶちゃん注:後掲する活字本のルビ。「本分(ほんぶん)」と同義。]》に云はゞちといかゞはしからんと云はれし人も有りとや。矧(いは)んやかゝる悪行戸《あくかうと》あるをや。眼睛《がんせい》の子午《しこ》蹄吻《ていふん》の爪牙《さうげ》、月くらければ老女となり、冬冱(さえ)たるに美人と変ずるなど、狐狸の妖に勝《まさ》れりと云ふべし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらの「○貓」(ねこ)「の舉動(ふるまひ)」で、正規表現で視認出来る。

「京町の猫かよひけり揚屋町」蕉門十哲の一人である榎下(「えのもと」。母方の姓。「榎本」は誤り)其角(きかく)の知られた一句。彼が編した「焦尾琴」(しょうびきん:元禄一四(一七〇一)年刊)に初出で、初出形は、

   *

    古麻戀(こまこひの)句合(くあはせ)内、

    近隣戀

 京町(きようまち)のねこ通(かよ)ひけり揚屋町(あげやまち)

   *

「京町」は吉原遊廓内の町名で、そこの猫が、人の男客よろしく、春となって恋の季節を迎え、同じ廓内の揚屋町へと通って行った、というのである。「古麻(こま)」は猫の古名。「ねこま」を略したもの。後も猫の愛称として用いられた。

「我藩遷封」作者人見蕉雨は出羽国久保田藩の藩士で国学者であった。この「遷封」は初代久保田藩主となった佐竹義宣(元亀元(一五七〇)年~寛永一〇(一六三三)年)のそれを指す。彼は豊臣政権下で常陸を領有したが、「関ケ原の戦い」で豊臣方についたため、出羽に国替えされた。秋田土崎湊(つちざきみなと)城への入城は慶長七(一六〇二)年九月十七日であった。

「院内」現在の秋田県湯沢市上院内附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「横堀村」秋田県湯沢市横堀(よこぼり)。院内地区の東に接する。

「政景日記」「梅津政景日記」。江戸初期の久保田藩家老・梅津政景の日記。当該ウィキによれば、『記述は政景が院内銀山奉行に就任した』慶長一七(一六一二)年二月二十八日から、『政景の死の』四『日前である』寛永一〇(一六三三)年三月六日まで、およそ二十『年間にわたって書き綴られて』ある。彼は『初代藩主』『佐竹義宣に抜擢され、院内銀山奉行、惣山奉行、勘定奉行、家老と累進した人物であり、日記には公私にわたる出来事が記録されている。長らく銀山奉行として辣腕を振るった人物の日記だけに、鉱山経営に関する記述が豊富である。久保田藩の藩政のみならず、当時の武士や庶民の生活を検証できる史料としても貴重である。後の佐竹義峯の書状によれば、慶長年間には藩の記録所に収納されていたようで、仕置の際の先例・判例として重んじられ、久保田藩のいくつかの史料でも引用されている』とある。

「大和田近江」佐竹氏家臣大和田近江重清。

「仲由在楚茵裁錦、馮氏遊斉食有魚」「仲由(ちゅういう) 楚に在り 裁錦(さいきん)の茵(しとね) / 馮氏(ふうし) 斉(せい)に遊び 食(く)ふに 魚(うを)有り」。仲由は孔門十哲の子路、馮氏は馮方女(ふうほうじょ:生没年不詳)は後漢末期の美女。武将で政治家の袁術の側室。「猫の比諭」の意味は不明。識者の御教授を乞う。

「悪行戸」「悪行を成す生き物」の意か。

「眼睛の子午蹄吻の爪牙」意味不明。同じく識者の御教授を乞う。]

〔四不語録巻二〕筑後の国或る侍の家に不思議の事有り。夜になれば手鞠の大さなる火、たゝみより上三寸ほどに通りひらめきしを、追ひかくればそれにしたがひて飛びまはり、或ひは隣家に有る榎木にこの火あまたゝびのぼりあがる。この事国中に沙汰しければ、老若薄暮よりこぞりあつまりこれを見る。また或時婢女《はしため》どもの寝たるをおびやかし、中にも常《つね》とかやいふ女の糸よる車、人もひかざるにめぐり、寝居《ねゐり》たるをも西枕をば東にし、南を北になす。この女おそろしき事に思ひ、巫(ねぎ)・祝(はふり)・山伏・僧などに祈らせどもしるしなし。この主《あるじ》は元来物に動ぜざる気象《きしやう》なりしかば、かゝる怪異をもものの数ともぜず。しらぬ顔にて打過《うちすぐ》すに、行く先にてこの事をとはれ、かへつて快からず思ひ、いかにもして正体を見あらはさんと心にかけて思ひけるに、或日庭に出《いで》て屋の上を見れば、幾年ふるともしれざる猫のすさまじきが、件《くだん》の下女がもてる赤手拭をかぶり、尾とあと足にてたち、目《ま》かげをさして[やぶちゃん注:前足を目の上にかざして。]四方を見居《みをり》たり。主幸ひとよろこび、半弓に矢をつがひてはなちけるに、あやまたず猫にあたり、二《ふた》タまろび三《み》まろびして起きあがり、この矢を寸々にかみ折りて死《しし》ぬ。引おろして見れば、尾ふたまた有りて、頭《かしら》より尾まで五尺ばかり有りけり。その後《のち》火も見えず。不思議もなかりしとかや。その主の名も聞きしかど忘れ侍り。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。]

〔寛政紀聞〕このころ聞くに、同月末<寛政十一年>小普請組阿部大学殿支配平岡隆太郎中間病気の所、薬用相叶はず、終に死去せしに就て奇恠(きくわい)の事有り。この訳《わけ》は先達《せんだつて》中間の部屋へ年わかき女来り、甚だ馴染み、密会度々に及び候所、くだんの中間段々と病気付《づ》き、その上に少々乱心の体《てい》に相見え、また病中にも彼の女折々参り候に付、傍輩の中間甚だ怪しみ、右の女を捕ヘ申すべくと、或る時来合《きあは》せし容子《ようす》を伺ひ、部屋の内へ路込み候へば、女あわてゝ逃出《にげいで》る所を、持《もち》たる真木《まき》[やぶちゃん注:「薪」に同じ。]を以て打ちしに、手答へせしかども、女は殊の外足早に走り出て、何方《いづかた》へか跡を隠せし由、それより幾日も経ずして、中間の病気指重《さしおも》り死去せしに、その後《のち》聞けば、平岡の屋敷にまた隣なりし元御小姓清水平三郎屋敷に、五十年余り蓄《か》ひ置ける古猫有りしが、眉間に疵をうけ帰り来りし由、因《よつ》て察するに、彼《か》の中間が部屋に通ひし女は、右の古猫の姿を人に化けて密会せしなるべく、勿論死去する迄は、その屋根の上に猫不断来りて遊び、又は臥しなどして居《をり》しが、病死の後は更に来《きた》らざる由、何れにも近来《きんらい》の珍事なりとぞ。

[やぶちゃん注:「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る。途中からで、右ページ最終行の中頃以降。

「同月末」「寛政十一年」条の最初の記事に『四月三月より』とあり、記載から、四月末と読める。寛政十一年四月末は、グレゴリオ暦では六月上旬に当たる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古壺の奇事」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古壺の奇事【ふるつぼのきじ】 〔中陵漫録巻十一〕豊後の某の村に至つて粗なる古社《ふるやしろ》あり。この中に余物《よのもの》なし。只一の壺あり。或時乞食常にこの社の中に住む。時々村中に出て食を請ふ。或日この村中の里正《りせい》[やぶちゃん注:「村長(むらをさ)」。]、この乞食を見れば、この壺に酒を買《かひ》て来《きた》るを見る。また村中の人々、往々に見るものあり。これに因《より》て里正往きて罵《ののし》つて云く、この壷に酒を買ひ来り、或ひはこの社中に臥す、以来はこの村中に住む事なかれ、他村に移るべしと云ひて追ひ去る。この夜より里正及び村中の人にも夢に見る事、この壺云く、我甚だ悲し、日々彼と酒を入れして共に楽《たのし》みを為すに、今は他村に行き、連れなく只《ただ》楽みなし、何卒元の如く日々酒を入れて共に楽みあらば、我幸《さひはひ》なりとて、毎夜の夢此《かく》の如し。これに因てその乞食の行末を尋ね来《きたつ》て、毎日酒の価《あたひ》を出《いだ》して、酒を買はしめて、その社に臥せしむと云ふ。また備中松山の東毎字と云ふ処あり。此処に辻堂あり。その内に至つて旧き壺あり。人これに手を付くるものなし。或時狗《いぬ》この壺の内に首を入《いれ》る。なんとしても首出すことならずと云ふ。また同国宇漢と云ふ村に、古壺を出《いだ》す。前《さき》に詳《つまびらか》にす。余<佐藤成裕>案ずるに、皆これ古の骨器《こつうつは》なり。今の茶道を好むもの、壺の口を却《さ》つて水差《みづさし》に作りたるあり。多くはこの骨器の類《たぐひ》なり。また西洋の諸国の便器あり。末を玩《もてあそ》びて元を知らずして楽《たのし》む。若《も》し元をしる事あらば、避くるもまた佳なりと云ふべし。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。

「備中松山の東毎字と云ふ処あり」不詳。こんな地名は聴いたことがない。最後を「あざ」と分離して調べても、愛媛県松山市には、現在は存在しない。或いは、わざと変名にして場所が知れぬようにしているのかも知れない。

「同国宇漢と云ふ村」不詳。地名ではなく、奈良時代(八世紀後半)の古代東北の人物の名に宇屈波宇(生没年も不詳)がある。ウィキの「宇漢迷公宇屈波宇」によれば、「うかめのうくはう」、「うかにめのうくつはう」、「うかんめのうくつはう」『などとも読まれるが、正しい読み方は不明。姓は公。姓を附して宇漢迷公宇屈波宇とも称される。宇漢迷は地名であり、公は古代日本の律令国家(朝廷)で認めた蝦夷(えみし)の族長の尊称である』とあり、以下、解説がある。しかし、四国の松山にこの名があるのも、異質であり、前と同じようにわざと変名にしているように私には思われる。

「骨器」骨壺。

「西洋の諸国の便器あり」作者佐藤中陵(号。本名が成裕(せいゆう))は江戸中後期の本草家で、宝暦一二(一七六二)年生まれで、嘉永元(一八四八)年没。後年、水戸藩に仕え、江戸奥方番などを経て、弘道館本草教授となった経歴の持ち主で、博覧強記であったから、この知識も、当時としては、今のようには、それほど知られていないことで、ちょっと意外の感がある。私は、つい最近、『「にんじん」ジュウル・ルナアル作・岸田國士譯(正規表現版・ヴァロトン挿絵+オリジナル新補注+原文) 「壺」』の注で、それとなく示唆したので、見られたい。フランスじゃ、誰もが知っているエグい習慣である。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「古塚の怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 古塚の怪異【ふるづかのかいい】 〔奇遊談巻一〕寛政の初め、清水寺《きよみづでら》本堂の下、滝のかたはら慶春庵《けいしゆんあん》(うかぶせといふ)の前、音羽山《おとはやま》の麓のいさゝかなる地《ところ》を、平均になさんとて、人を語らひ掘りけるほどに、次第々々に掘行くまゝに、大なる石に掘りあたりければ、この下にはさるためしあり。黄金《こがね》やあるらし。釜にてもよからん。さらばいそぎ掘れやとて、大勢鋤鍬取持《とりも》ちて、大音声《だいおんじやう》を上げて掘るほどに、少し大石《だいせき》けちりと動くとひとしく、一むらの霊気、ひらひらと四方《よも》にたなびくと見しほどもなく、多くの僧俗一度にあつと倒れ伏しけり。そのあたりちかき稲荷の小祠《ほこら》のある寺に住める老僧は、かゝることは露しらず、心静かに本尊の御前《みまへ》に行ひすましておはしけるが、たぐふべくもなき大きなる、世にいふ鬼《おに》のごとき手さしのべて、この老法師を、一つかみにつかまるに覚えて跡は知らずと。この老法師もいたく病み伏して、やうやう日を経て、次第につかまれし手の、じりじりとはなれ行くやうにありしと語りき。近き年のことゆゑに、今もこの辺《あたり》の人はよく知れることなり。なべて古塚を掘崩《ほりくづ》しなどすれば、かゝることはあることにて、おそれて掘りうがつべからぬことなり。

[やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げで、ポイント落ちである。]

その頃この塚、いかなる塚やらんと知られぬことを、とりどりいひけるに、予にも問ひける人あれど、させる証拠もなければしれがたし。しひていはゞ『源平盛衰記』に、清盛左衛門佐たりしとき、大内《だいり》に鶴の声をなす化鳥《けてう》をとる。これ毛《もう》ジュウ[やぶちゃん注:拗音はママ。以下に示す活字本では拗音となっていない。後も同じ。]といふものなり。鼠の唐名《からな》なり。博士《はかせ》の占《うら》に、清盛取《とり》とゞむること吉祥《きちじやう》なりと、南台《なんだい》の竹を召して中に籠めて、清水寺の岡にうづまれたり。御悩《ごなう》のとき勅使立《たて》て宣命《せんみやう》を含《ふく》まるとき、ジュウ一竹《いちちく》が塚といふとぞかゝれたり。もしこの一竹が塚などにはあらぬにや。

[やぶちゃん注:「奇遊談」川口好和著が山城国の珍奇の見聞を集めた随筆。全三巻四冊。寛政一一(一七九九)年京で板行された。旅行好きだった以外の事績は未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊のここで当該部が視認出来る(よくルビが振られてあるので一部を参考にした)。標題は『○古塚(ふるつか)の怪異(くわいゝ)』。

「寛政の初め」寛政は十三年まで。一七八九年から一八〇一年まで。

「慶春庵」現存しない。

「音羽山」清水寺の山号は音羽山(おとわやま)で、かの知られた滝も「音羽の滝」と呼ばれているが、実際にはその東の後背の山の名は、正式には「清水山」(きよみずやま)である。「ひなたGPS」の国土地理院図を参照されたい。

「そのあたりちかき稲荷の小祠のある寺」音羽稲荷(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。直近の南西に「清水寺泰産寺」がある。

「古塚」清水寺後背には、天皇陵があるから、もっと古い埋もれた古墳もあるであろう。

「『源平盛衰記』に、清盛左衛門佐たりしとき、大内《だいり》に鶴の声をなす化鳥《けてう》をとる。……」「卷第一」の「淸盛、化鳥(けてう)を捕る」。国立国会図書館デジタルコレクションの「源平盛衰記一」(大野尭運重訂・明一六(一八八三)年刊)のここで視認出来る。化鳥は本文では、『鵼(ヌエ)』とある。モデルの鳥としては、ズズメ目ツグミ科トラツグミ属トラツグミ Zoothera dauma とされる。詳しくは、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を見られたい。なお、清盛は、実際には佐兵衛佐(大治四(一一二九)年一月二十四日(清盛十二歳)から保延二(一一三六)年)ではあったが、左衛門佐は歴任した事実はない

「毛ジュウといふものなり。鼠の唐名なり」所持する三弥井書店刊「源平盛衰記(一)」(『中世の文学』十六・市古貞次他校注)の注によれば、『初学記の鼠の事対に「毛蒼」とあり。「異物志曰、鼠母、頭脚似鼠、毛蒼口鋭、大如水牛、而畏ㇾ狗、水困時有外災、起於鼠。」とある。或いはそれか。『大辞典』には「毛頭」の字を宛て、本例を引く。』とあるが、要は、実は後の「毛シユウ」に『不詳』とあるのである。

「博士」陰陽博士であろう。

「南台の竹」同前の注に、『未詳。あるいは清涼殿の東庭の竹台の竹(呉竹)などをさすか』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「船につくあやかし」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 船につくあやかし【ふねにつくあやかし】 あやかしとは小判鮫の事 〔嘉良喜随筆巻五〕船ニツクアヤカシハ、本邦ニテ小判魚ト云フ物ナリ。利瑪竇《りまとう》ガ『坤輿《こんよ》全図』ニ、咽機那魚ト出ヅ。

[やぶちゃん注:「あやかし」「デジタル大辞泉」(小学館)の意を総て挙げておくと、『1船が難破する時に海上に現れるという化け物』。『2 不思議なこと。また、そのもの。妖怪 (ようかい)  』。『3 コバンザメの別名』。『4 (「怪士」と書く)能面の一。男の怨霊(おんりょう)を表す面』。『5 愚か者』とある。

「小判鮫」スズキ目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates 。私の電子化物では『栗本丹洲「栗氏魚譜」より「小判鮫」 (コバンザメ)』がまずは一番だ。後は、「大和本草附錄巻之二 魚類 ふなしとぎ (コバンザメ)」と、「大和本草諸品圖下 マヽカリ・サヾヱワリ・フナシトギ・ワカサギ (サッパ・ネコザメ・コバンザメ・ワカサギ)」も挙げておく。

「利瑪竇」イタリア人イエズス会員・カトリック教会の司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci  一五五二年~一六一〇年)の中国名。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労の末、成功し、明朝宮廷において活躍した。中国にヨーロッパの最新技術を伝えるとともに、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の架け橋となった人物である。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。

「坤輿全図」正しくは「坤輿萬國全圖」。マテオ・リッチが作成した世界地図。「亞細亞」「赤道」など、漢語に翻訳されたヨーロッパの地理用語や地名などが記されてある。「坤輿」は「大地・地球」の意。詳しくは、参照した当該ウィキを見られたい。

「咽機那魚」中国語の音写をすると、「イェン・ヂィー・ナァー・イュイー」か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「舟幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は題名から想像がつくと思うが、長い。底本の三段組みで、五ページ弱ある。]

 

 舟幽霊【ふなゆうれい】 〔世事百談巻三〕海上にて覆溺《ふくでき》[やぶちゃん注:舟がひっくり返って、乗っている人が水に溺れること。或いは、その溺死者。]の人の寃魂《ゑんこん》、夜《よ》のまぎれに行きかふ舟を沈めんとあらはれいづるよし、いふことなり。唐土《たうど》の鬼哭灘《きこくだん》といふ所は怪異《けい》いと多く、舟の行きかゝれば、没頭隻手独足短禿《もつとうせきしゆどくそくたんとく》の鬼形《きぎやう》とて、首《くび》なき片手、片足の背の低き幽霊、百人あまり群がりあらそひ出で来りて、舟を覆《くつがへ》さんとす。舟人の食物《くひもの》を投げあたふれば、消失《きえう》せるといへり。わが邦の海上にもまゝあるなり。風雨《かぜあめ》はげしき夜《よ》ごとに、この怪多しとかや。俗にこれを舟幽霊といふ。その妖《えう》をいたすはじめは、一握《ひとつかみ》ばかりの綿《わた》などの風に飛び来《きた》るごとく、波に浮かみ漂ひつゝやがてその白きもの、やゝ大きくなるにしたがひ、面《かほ》かたちいでき、目鼻そなはり、かすかに声ありて、友を呼ぶに似たり。忽ち数十《すじふ》の鬼《き》あらはれ、遠近《ゑんきん》に出没す。已(すで)に船にのぼらんとするの勢ひありて、舷《ふなばた》に手をかけて、舟の走るをとゞむ。舟人どもも、漕行《こぎゆ》き逃《のが》るゝことあたはず。鬼《き》声をあげて、いなたかせといふ。そのものいふ語言《ごいん[やぶちゃん注:後に示す活字本のルビ。]》分明《ぶんめい》なり。こは舟人の俗語に、大柄杓(おほびしやく)をいなたと名づくる故なり。さて事に馴れたる者、柄杓の当(そこ)をぬき去りて、海上に投げ与ふれば、鬼《き》取りて、力をきはめて水を汲みいれて、その舟を沈めんとするのおもむきあり。もし当あるものをあたふれば、波をくみて舟を沈むといへり。また風雨《かぜあめ》の夜《よ》は海上に舟道《ふなみち》の目あてに、陸《くが》にて高き岸に登り、篝火(かがりび[やぶちゃん注:活字本では『かがり』と振る。])を焚くことあり。鬼もまた洋中《おきなか》に火をあげて、舟人の目をまよはす。これによりて、人みな疑ひをおこし、南なるが人の焚くにや、北にあがるが鬼火《きくわ》かと舟道を失ひ、かれこれと波に漂ふひまに、終《つひ》に鬼のために誘はれて溺死し、彼と同じく鬼となることもあり。ある舟人の物がたりに、人火《ひとのひ》は所を定めて動かず、鬼火《おにび》は所を定めず、右にあがり、左にかくれ、鬼《き》猶且《なほかつ》遠く数十の偽帆《ぎはん》をあげて走るがごとくす。人もしこれに随ひて行くときは、彼がために洋中《ようちゆう》に引《ひ》かるゝなり。これも人帆《じんほ》は風に随がひて走り、鬼帆《おにほ》は風にさからひて行くといへり。されどもこの場にのぞみては、事になれし老舟士《らうしうし》といへども、あはてふためき、活地《くわつち》に出《いづ》ることかたきものとぞ。

[やぶちゃん注:「世事百談」「麻布の異石」で既注の山崎美成が天保一四(一八四四)年十二月に刊行した随筆集。全四巻。風俗習慣・故事・文芸・宗教・天象地誌・奇聞など、広範囲に及ぶ百三十八条から成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該条『○舟幽靈(ふないうれい)』[やぶちゃん注:ルビはママ。]が正字で視認出来る。これはルビが多く附されてあるので、それで積極的に読みを補った。「鬼火」を「きくわ」と「おにび」の異なったルビをしているのは、それを採用したことによる。なお、「世事百談」には挿絵が載る。所持する吉川弘文館『随筆大成』版のものを、参考図として以下に掲げておく。

 

Hunayureisejihyakudan

 

なお、本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の私の注で、電子化してあるので見られたい。

「鬼哭灘」明の顧𡵚(こかい)撰・陳継儒(一五五八年~一六三九年)校訂になる「海槎餘錄」に載る。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原文を確認、漢字の一部を正字化し、記号もいじって、以下に示す。

   *

千里石塘在崖州海面之七百里外、相傳此石比海水特下八九尺、海舶必遠避而行、一墮既不能出矣。萬里長堤出其南、波流甚急、舟入回溜中、未有能脫者。番舶久慣、自能避、雖風汛亦無虞。又有鬼哭灘、極怪異、舟至則、沒頭・只手・獨足・短禿、鬼百十爭互爲群來趕、舟人以米飯頻頻投之卽止、未聞有害人者。

   *

邦文の記載を見るに、浙江省や福建省にあったとされる海域らしい。信頼出来る論文では、海南島に近い場所ともする。]

〔閑田耕筆巻一〕辺鄙にはかくあやしきことあるも疑ふべからず。出羽は陰地にて常に曇りがちなり。さる故に、人も陰気にて、幽霊の出ること多きよし、橘南谿の『東遊記』に記さる。松前<北海道渡島支庁>の奥の蝦夷地もまた然りと伝へ聞きぬ。はた唐山も同じき歟。往年長崎に来りし唐人、病人を療するがために、願ひて町家にやどりしことありしに、(もとは唐人、平常町家に来り遊びて飲食などもせしよし、そこに住みし人、老《おひ》の後《のち》話せし)その隣に新死《しんし》の女ありし家を夜々うかゞひしを、何ごとぞと問ひしに、幽霊の出《いづ》るを見んと思ひてなりと答へしこと、広川医士の筆記にも見ゆ。ついでに又まさしく予<伴蒿蹊>があひたりし怪異《けい》をいはんに、今は十七八年前、讃岐の金比羅にまうでて、それより厳嶋に遊ばんとする海路、おんどのせとといふ所を過ぎて船をとゞめ、天明をまちて出《いで》せしに、二三里ばかりも過ぎぬらんと思ふころ、船頭俄かに人語を制す。何事ぞとあやしむに、烏帽子のごときもの浮きて、船に行違ひたり。さて後《のち》、なぞととふに、船人、彼《かの》物とばかりこたへしは鱣(うみへび)[やぶちゃん注:私の所持する吉川弘文館『随筆大成』版では、「鱣」は『フカ』とルビしてある。後注で示す国民図書版も『フカ』である。但し、「譚海 卷八 九州海路船をうがつ魚の事(フライング公開)」で示した「井(ゐ)くち」は、一説で海蛇ともするので(ウィキの「いくち」を参照されたい)、強ちに誤りとは言えない。また、この「鱣」は、フカ以外に、ウナギやタウナギなども指し、古い中国文献では、ウミヘビやハモを指すともされるのである。]なりと知られぬ。かの烏帽子のごときは、尾の先の顕れしなり。これは船を覆へし、あるひは人をもとれば、大きに、恐るゝなり。さて怪異《けい》といふはこれにはあらず。このものを見ていくほどもあらず、東北の間とおぽしき方より、十三四ばかりの童子の声して、ほいほいと呼ぶこと三声、船人また手して人の物いふことをとゞめて、彼方《かなた》に向ひ、よいはそこにをれそこにをれといふ。その日は雲霧深くて四方かつてみえず。はじめは友船の呼ぶにやと思ひしが、影も見えねば、また霧のかなたに嶋などありて、鳥の声の人語にまがふにやとも疑ひしが、この船人のいらへにて、怪しき物とはしりぬ。その後又これはなぞと、とはまほしかりしかども、船中にてはいたく物忌すれば黙《もだ》しぬ。按ずるに、こは船幽霊といふもの歟《か》。よるは火の光見えて、しきりに船を漕ぎよせて、あるひは檜杓《ひしやく》をこふ事有り。その時底なきものを与ふ。もし底あれば、海水をこなたの船へ汲入《くみい》つて、つひに覆へすといひ伝ふ。この外、船中の怪異《けい》聞クこと多し。溺れ死したるものゝ霊、おのがごとく船を沈めんとするなりとぞ。ことに七月十五夜、十二月晦日《みそか》夜は、諸船往来せぬがならひにて、この両夜は海上に怪しきことあまた有りといふを、何某の船頭、強気なるものにて、試みに船を出《いだ》せしが、果して風波さわがしく、鬼火あまた見え叫ぶこゑなど、所々に聞えおそろしさ、言《げん》にもつくされずと、その船頭、鈴木修敬に語りしとなり。まさしくおのが彼《か》の声を聞きしにて、虚妄ならぬをしりぬ。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来るが、これも、既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の私の注で、電子化してあるので見られたい。

「鈴木修敬」鈴木蘭園(一七四一年~一七九〇年)は京に居住していた医師で、公家で、雅楽にも造詣が深い人物である。ある学術論文で、彼と伴蒿蹊が知人であったことが確認出来た。]

〔譚海巻一〕相州三崎<神奈川県三浦市>に篝堂(かがりだう)とて、官より建て置かれたる所あり。海岸高き所に堂有り。昼夜両人づゝ詰め居《を》るなり。昼は風波破船などの遠見をいたし、夜は明くるまでたえずかゞり火を焼《たき》て、海舶往来の目じるしになる様に掟《さだめ》てられしなり。篝になる薪《たきぎ》は、浦々より役割をもちてよせ来《きた》る定数《ぢやうすう》ある事なり。然るにこの地七月十三日の夜は、いつも難船横死の幽霊この堂に現ずるゆゑ、人甚だ恐怖し、その日に限りては数《す》十人寄合ひけり。鐘《しよう》大念仏にて通夜《つや》するなり。さるにつけても幽霊必ず現ず。或ひは[やぶちゃん注:ママ。]大船にはかに現じて漂ひ来り、巌頭にふれて砕けくづるゝ響《ひびき》、おびたゞしく震動して人の耳を驚かし、身の毛立ち、その時忽ち数十人、影まぼろしの如く水面に充満し、わつというてこの堂をさして入り来《きた》る事、年々たがはず。恐ろしき事言語道断なり。因《よつ》て年々施餓鬼会《せがきゑ》を勤め仏事を営む。ふしぎの事に言ひ伝ふるなり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事」を見られたい。これも「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されてある。]

 〔甲子夜話巻二十六〕領分の海中には船幽霊と謂ふものあり。また或ひはグゼ船とも謂ふ。これ海上溺死の迷魂、妖を為す所と云ふ。その物夜陰海上にて往来の船を惑はすなり。或人舟に乗《のり》て城下の海北一里半を出《いで》て釣し、夜に入て帰らんとす。時に小雨して闇黒《あんこく》なるに、その北十余町に当つて、廿四反《たん》とも覚しき大船、帆を十分に揚げて走り来《きた》る。よく見れば風に逆つて行くなり。されども帆を張ること、順風に走るが如し。また船首の方《かた》に火ありて甚だ熾(さか)んなり。然れども焰なくして赤色波を照し、殆ど白日の如し。また船中に数人《すにん》在りて揺動《やうどう》する如くなれども、その形分明ならず。怪しみ見るうち、乗《のり》たる船止《とま》りて進まず。乃《すなは》ち漕去《こぎさ》らんとすれども動かず。また目当てとしたる嶋、忽ち隠没《いんぼつ》して無し。遂に行くべき方を知らず。一人云ふ、船幽霊は苫(とま)を焼《やき》て舟端《ふなばた》を照せば立去《たちさ》るなりとて、この如くせしに、果して四方晴やかになり、舟進んで初め真近《まぢか》かりし鎌田の横嶋と云へる所の瀬先きに乗りかけ、巌《いはほ》に触れて破れんとす。因《よつ》て速かに碇《いかり》を下《おろ》して危きを免れたり。これが為に迷はされしこと、凡そ一時余にしてやうやう城下に還れり。

[やぶちゃん注:ここで底本では改段落となっている。以下も同じ。]

 また城下の南(九里)志自岐浦《しじきうら》<長崎県平戸市志々岐崎か>にて、舟にて夜帰《よき》する者、途中にて俄かに櫓揺(うご)かず、舟止りたり。怪しんで見るに、乱髪の人海面に首を出し、櫓に喰つきて動かさざるなり。始めて舟幽霊なるを知り、驚て水棹《みづさを》にて突放《ちきはな》さんとすれども離れず。乃《すなは》ち灰をふりかけたれば、しばしして離れたり。闇夜ゆゑ海面も弁ぜざるに、かの顔色ばかり分明に見えしも訝しきことなり。これもグゼの所為なりとぞ。

 また志佐浦《しさうら》<松浦市志佐>にて兄弟の者ありて舟《ふね》行《ゆか》せしに、夜中風雨頻りなりしが、破船に乗りたる者二人来りて舟に著《つき》たり。見るに白衣《びやくえ》乱髪《みだれがみ》の体《てい》にして、舟につき慕ふさまなり。顔色は雪の如く白かりしが、兄弟を見て歯をむき出して微笑す。兄弟見て怖ろしさ云はんかたなし。乃ち避け去らんと力を尽して漕ぎ行くと雖も、随ひ来て離るることなし。為ん方なく焚きさしの薪《たきぎ》を投げつけたれば、これより離れ去りて、無難に還りしとぞ。これもかの舟幽霊の一種なり。後日にその顔色猶眼につきゐて恐《おそろし》く、舟商売《ふねしやうばい》はすまじきものとて、改めて他業の身となれりと云ふ。

 また先年城下辺大風吹きしことあり。これに因て船々大小数知らず沈没し、溺死も数人なりしが、それより夜々に舟幽霊出《いで》て、往来の船に邪魔をなし、通舟《つうしふ》すること協(かな)はずとて、役所ヘ願ひ出たり。因て瑞岩寺と云ふに申しつけて、施餓鬼をなさしむ。衆僧《しゆそう》船にて誦経《ずきやう》し、また舟形《ふながた》数百を造り、これに燭《しよく》をともし海面に浮むれば、数百の舟形潮《しほ》に随つて流れ漂ひ、火光《くはかう》波間に夥しかりしが、これよりしてこの殃《わざは》ひ止みたりと云ふ。この時その辺に泊せし商船も、皆燭を舟形にともし弔ひとなしたれば、倍〻(ます《ます》)火光海上に満点したりとぞ。

 また生月《いけつき》と云へる所の鯨組《くぢらぐみ》の祖に道喜《だうき》と云ヘる者あり。その始めは賤しくして舟乗《ふなのり》を業《なりはひ》とせし頃、ある夜舟《ふね》行《ゆか》せしとき、舟端に何か白きもの数十出《いで》てとり付きたり。よく見れば小兒を見るが如き細き手なり。道喜驚き棹にて打払ひたれども離れず、又とり付くこと度々なり。道喜思ひつき、水棹の先を焼《やき》て、それにて払ひたれば、遂に退《しりぞき》て出ざりしとぞ。これも舟幽霊の類《たぐひ》なりと云ふ。総じて苫(とま)をやき、焚きさしの薪を投げ、灰をふり棹を焦《こが》すの類は、陰物は陽火に勝つことなきを以ての法なりと舟人云ひ伝ふ。

 また予<松浦静山>が親しく聞きたるは、壱岐<長崎県壱岐市>に住める馬添《うまぞへ》の喜三右衛門と云ひしもの勤番《きんばん》して厩《うまや》にゐたるとき、ふと舟幽霊のことを言出《いひいだ》したれば、某《それがし》渡海のとき中途にてグゼに逢ひたりと云ふゆゑ、何《いか》なる者ぞと問ひたれば、始めは何か遙かに人声《ひとごゑ》多く聞えたるが、船頭はとくこれを知り、程なくグゼ来《きた》るなり、必ず見るべからず、見ればこの舟にたゝり候なり、少しも見るまじと制するゆゑ、船中にひれ伏しゐたれば、間もなくかの声至つて近く大に譟(さわ)がしければ、見まじとは制したれども、見たくてすこし顔をあげて見たれば、大舟《おほぶね》の帆を十分に揚げたるが、その乗りたる舟に横さまに向けて走り来《きた》るなり、人は大勢なるが、皆影の如くにて、腰より下は見えず、手毎《てごと》に何か持ちゐて、我が乗《のり》たる舟に潮《しほ》をくみ込まんと躁動《さうどう》する体《てい》なり。船頭は舟のへ先に立並び、何か誦へて守札《まもりふだ》の如きものを持《もつ》て祓ひをする体なりしが、やがて灰を四方にふり散らしたれば、グゼ船はこれより某が舟を行きぬけたると覚しく、最初は左にありたるが、それより舟の右になりて、次第に遠くなり行きたり。この船頭もはやよしと云ふゆゑ、それより舟中のもの頭《かしら》をあげたれば、もはやグゼは跡形もなかりしと語りし。何れも似たることなり。

 或人語る。佐伯侯(豊後)の家老某、領邑《りやういふ》に往来のとき、三度《みたび》まで舟幽霊を見たり。そのさまは遙かに沖の方より船来《きた》る声聞えけるが、船子等《ふなこら》甚だ恐《おそる》る体なれば、何事ぞと問ひたれば、舟幽霊なりと云ふゆゑ、顧みるにはや我船に四五人も乗り居《をり》たり。その形は烟(けむり)の如く、廿余りまたは廿四五の男なりしが、船のへさきを歩き廻りて、程なく海に入りしとなり。これより船子等も恐るゝ体なく、船の止まりたるも動き出《いで》て走り行きしと云ふ。これまた大抵我領邑のものと同じ。

 また語る。人吉侯(肥後)の侍医佐藤宗隆と云ふ者、東都に出《いづ》るとき船中にて船幽霊を見しと云ふ。元来播州舞子浜<神戸市垂水区>の辺《あたり》はこのこと稀なる処なるに、その夜は陰火海面を走りて怪しくみえたりしが、程なく大きさ四尺余のクラゲ(海鏡)とも謂ふべき物漂ひ来《きた》るを見れば、人の形ち上に在りて、船子に向ひもの言ふべき体《てい》にて来るなり。船子ども即ち苫を焼《やき》て投げかけたれば、そのまゝ消滅せしと云ふ。また同藩の医宗碩《そうせき》と云ふ者も、備後の鞘浦<広島県福山市内>の辺《あたり》にて船幽霊を見たりしが、これは正しく手を海中より出《いだ》して、柄杓かせ々々と言ひし。かゝることは某《なにがし》が邑人《むらびと》の外にも皆々知れりと話せしとぞ。

 また隠邸(いんてい)[やぶちゃん注:静山の隠居所である本所の下屋敷。]の隣地に大道と云ふ僧の居《をり》しが、この僧筑前秋月の人にて、もとは黒田支侯の士なりし故に、或年上京せしとき、長門の赤馬ケ関《あかまがせき》に船がかりせしに、まの当り見しとて語れるは、三月十八日のことなりし。船頭ども云ふには、今日は何事をも申されな、話しなど無用なりとて禁ずるゆゑ、何《いか》なる訳《わけ》やと問ひたれば、けふは平家滅亡の日ゆゑ、若《も》し物語りなどすれば必ず災難ありと云ひたり。それより見ゐたるに、海上一面に霧かゝり、おぼろなる中に何か人の形ち多く現はれたり。これ平氏敗亡せしの怨霊なりと云ふ。この怨霊、人声《ひとごゑ》を聞けば即ちその船を覆へすゆゑ、談話を禁ずと云ひ伝ふとぞ。昔より十七日・十八日の夜は必ずこの禁あることなりと云ふ。その十四日・十五日の頃より海上荒く潮《うしほ》まきなどありて、かの辺りはものすごき有さまなり。これ某《それがし》のみならず、同藩の者もかの地滞船のとき見し者多しと語れり。

[やぶちゃん注:さて、以上の「甲子夜話」の長い引用部は、実は、その殆んどを、やはり、「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されているため、こまめに、各部分の紹介の後に注で原文を電子化してある。しかし、今回、細部を確認したところ、宵曲が途中でカットした部分があることに気がついた。されば、事前に、零から仕切り直して、「フライング単発 甲子夜話卷二十六 8 舟幽靈の事」を注を含め、ガッチリと公開しておいた。

〔譚海巻八〕房総海中に夜泊する時、溺死魂魄の霊出現し、舟に近づきひさく[やぶちゃん注:柄杓。]を借りたきよしをしきりに乞ふ。その時はひさくの底をぬきてかすなり。霊ひさくをえて、終夜海水を汲みて舟へ入《いるる》る貌《かたち》をなして、舟を沈めんとす。難船溺死の寃《うらみ》にたへず、他船を見ても妬みを生じ、この如くする事にこそといへり。松前<北海道渡島支庁>渡海の舟もおほくはかの地に滞淫(たいいん)[やぶちゃん注:長期逗留。]して、晩秋に攬(ともづな)をとけば、帰路洋中《わだなか》にして、おほく颱風《たいふう》に遇ひて破船をなす。松前往来の舟、時々この魂魄の現ずるに逢ふ事とぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷八 房總幷松前渡海溺死幽靈の事(フライング公開)」を出したが、実はこれも「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されており、そちらの私の注で、電子化してある。]

譚海 卷之八 房總幷(ならびに)松前渡海溺死幽靈の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 房總海中に夜泊する時、溺死魂魄の靈、出現し、舟にちかづき、

「ひさく[やぶちゃん注:柄杓。]を借(かり)たき。」

よしを、しきりに乞(こふ)。

 その時は、ひさくの底をぬきて、かすなり。

 靈、ひさくを、えて、終夜、海水を汲(くみ)て、舟へ入(いるる)る貌(かたち)をなして、舟を沈めんとす。

 難船溺死の寃(うらみ)にたへず、他船を見ても、妬(ねたみ)を生じ、如ㇾ此(このごとく)する事にこそと、いへり。

 松前渡海の舟も、おほくは、かの地に滯※[やぶちゃん注:「※」=「瑤」-「王」+「氵」。「滯※」は「たいえう」で「長期逗留」の意。]して、晚秋に攬(ともづな)をとけば、歸路洋中《わだなか》にして、おほく颱風《たいふう》に遇ひて破船をなす。松前往來の舟、時々、この魂魄の現ずるに逢ふ事とぞ。

[やぶちゃん注:「溺死魂魄の靈」底本の竹内利美氏が注して、『いわゆる「舟幽霊」「シキ幽霊」の伝承。柄杓の底をぬいて与えるという点も、型どおりのものであった。』とある。「シキ幽霊」は「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、『シキ幽霊は海に出る妖怪である。海面にニガリがたまって、夕方になると光るのをシキ幽霊という。』とある。]

フライング単発 甲子夜話卷二十六 8 舟幽靈の事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。実は、この殆んどが、七年前の二〇一七年一月五日公開の「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されているため、こまめに、各部分の紹介の後に注で原文を電子化してある。しかし、今回、細部を確認したところ、順序が入れ替えられた箇所があり、さらに宵曲が途中でカットした部分があることに気がついた。されば、事前に、零から仕切り直して、纏めて公開することにした。非常に長く、改段落が作られてあるので、その箇所に「*」を挟んだ。]

 

26―8

 領土の海中には、「船幽靈(ふなゆうれい)」と謂ふものあり。又、或は「グゼ船(ぶね)」とも云ふ。これ、海上で溺死の迷魂、妖を爲す所と云ふ。

 其物、夜陰、海上にて、往來の船を惑はすなり。

 或(ある)人、舟に乘(のり)て、城下の海の北方一里半を出(いで)て、釣りし、夜(よる)に入りて、歸らんとす。

 時に、小雨(こさめ)して、闇黑(あんこく)なるに、その北十餘町に當(あたり)て、廿四、五反(たん)とも覺しき大船(おほぶね)、帆を十分に揚(あげ)て、走り來(きた)る。よく見れば、風に逆(さからひ)て行(ゆく)なり。

 去れども、帆を張ること、順風に走るが如し。

 又、船首の方(かた)に、火、ありて、甚(はなはだ)、熾(さか)んなり。

 然(しかれ)ども、焰(ほのほ)、なくして、赤色(あかきいろ)、波を照(てら)し、殆(ほとんど)、白日の如し。

 又、船中に、數人(すにん)在りて、搖動(えうどう)する如くなれども、其(その)形、分明(ぶんめい)ならず。

 怪(あやし)み見るうち、乘(のり)たる船、止(とまり)て、進まず。乃(すなわち)、漕去(こぎさ)らんとすれども、動かず。

 又、目當てとしたる嶋、忽(たちまち)、隱沒(いんぼつ)して、無し。遂に行くべき方(かた)を、知らず。

 一人が云ふ。

「船幽靈は笘(とま)を燒(やき)て舟先を照せば、立去(たちさ)るなり。」

とて、如ㇾ此(かくのごとく)せしに、果たして、四方、晴やかになり、舟、進んで、初め、間近(まぢか)かりし鎌田の橫嶋と云へる所の、瀨先きに乘(のり)かけ、巖(いは)に觸れて、破れんとす。

 因(よつ)て、速やかに、碇(いかり)を下(おろ)して、危(あやふき)を免(まぬか)れたり。

 是が爲に、迷はされしこと、凡(およそ)一時餘(いつときあまり)にして、やうやう、城下に還(かへ)れり。

 又、城下の南【九里。】、志自岐浦(しじきうら)にて、舟にて、夜歸(よがへり)する者、途中にて、俄に、櫓、搖(うご)かず、舟、止(とま)りたり。

 怪(あやし)んで、見るに、亂髮(みだれがみ)の人、海面に首(かうべ)を出(いだ)し、櫓に喰(くひ)つきて、動かさゞるなり。

 始(はじめ)て、「舟幽靈」なるを知り、驚(おどろき)て、水棹(みづざを)にて、突き放さんとすれども、離れず。

 乃(すなはち)、灰をふりかけたれば、しばしして、離れたり。

 闇夜ゆゑ、海面も辨(べん)ぜざるに、かの顏色計(ばかり)、分明に見えしも、訝(いぶか)しきことなり。

 是も、「グゼ」の所爲なり、とぞ。

[やぶちゃん注:「グゼ船」調べてみると、単に「グゼ」とも呼んでおり、「グゼ」自身が海で死んだ者の妖怪化したもの、総体としての「舟幽霊」の謂いであるようだ。但し、佐賀での舟幽霊は「アヤカシ」の方が一般的には知られる呼称である。しかし、「アヤカシ」は、山口県や九州で広汎に用いられる舟幽霊の別称であり、この「グゼ」は、或いは、佐賀地方独特の異名であるのかも知れない

「廿四、五反」楽2006天氏のブログ「言葉を“面白狩る”」の「何反帆」に、石井謙治氏の「和船1」より引用されて、『十八世紀末までは厚い帆布を織ることができなかった。その代わり、布地二枚を重ねて四子糸と呼ぶ太い糸で刺し子のように縫合わせて丈夫にしていた。これを三幅分横につないだものが帆布一反(端)で、その幅は三尺(九十センチ)前後であった。何反帆という呼称は、この帆布地一反を横につないだ数で、帆の長さには無関係である。一反の幅は、十八世紀後半からは帆を丈夫にするため二尺五寸(七十五センチ)程度と狭くなっているが』、『右に述べた木綿帆は刺帆と呼ばれ、製作に手間のかかる割には丈夫でなかった。まして帆走専用船となった弁才船では、刺帆の弱さはウィークポイントの一つでもあった。この欠点を解決したのが播州の工楽松右衛門で、彼は天明五年(一七八五)太い木綿糸を使って厚くて丈夫な帆布の製作に成功した』とあった。従って、帆布地の上部の水平部分の長さが、十九メートル弱にもなるバカでかい大船ということになる。幽霊船だから、まぁ、ありか。

「笘(とま)」菅(すげ)や茅(かや)などを、粗く編んだ蓆(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる。

「志自岐浦」は、平戸藩庁からの距離から、これは現在の平戸島(平戸市)南端西方に貫入する志々伎(しじき)湾のことと判る。ここ(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。]

   *

 又、志佐港(しさみなと)にて、兄弟の者ありて、舟、行(ゆか)せしに、夜中に、雨風、頻(しきり)なりしが、破船に乘(のり)たる者、二人、來(きた)りて、舟に着(つき)たり。

 見るに、白衣亂髮の體(てい)にして、舟に、つき慕(した)ふさまなり。

 顏色は、雪の如く白かりしが、兄弟、見て、齒をむき出して、微笑す。

 兄弟、見て、恐ろしさ、云(いは)んかたなし。

 乃(すなはち)、避去(にげさら)んと、力を盡くして漕行(こぎゆく)と雖ども、隨ひ來(きたり)て、離るること、なし。

 爲ん方なく、焚(もえ)さしの薪(たきぎ)を投(なげ)つけたれば、これより、離去(はなれさり)て、無難に還りし、とぞ。

 これも、彼(かの)「舟幽靈」の一種なり。

 後日に、其顏色、猶、顏に、つきゐて、恐しく、

「舟商賣は爲間敷(すまじき)もの。」

とて、改(あらため)て、他業の身となれり、と云(いふ)。

[やぶちゃん注:「志佐浦」長崎県松浦市志佐町(しさまち)の面する湾。ここ。]

   *

 又、先年、城下の邊(あたり)、大風(おほかぜ)吹(ふき)しこと、あり。

 これに因(よつ)て、船々(ふねぶね)大小、數知らず、沈沒し、溺死も數人(すにん)なりしが、夫(それ)より、夜々(よよ)、「舟幽靈」、出(いで)て、

「往來の船に邪魔をなし、通船すること、協(かな)はず。」

とて、役所へ願ひで(いで)たり。

 因(よつ)て、瑞岩寺(ずいがんじ)と云(いふ)に、申(まふし)つけて、施餓鬼(せがき)をなさしむ。

 衆僧(しゆそう)、舟にて、誦経(ずきやう)し、又、舟形(ふながた)數(す)百を造(つくり)、これに、燭(しよく)をともし、海面に浮(うか)むれば、數百の舟形、潮(うしほ)に隨(したがひ)て、流漂(ただよ)ひ、火光(くわかう)、波間に夥しかりしが、

「これよりして、その殃(わざは)ひ、止(とま)りたり。」

と云(いふ)。

 この時、その邊(あたり)に泊(はく)せし商船も、皆、燭を舟形にともし、弔(とむらひ)となしたれば、倍々(ますます)、火光、海上に滿點したり、とぞ。

[やぶちゃん注:「瑞岩寺」佐賀県唐津市北波多徳須恵(きたはたとくすえ)の「瑞巌寺跡」か。

「施餓鬼」私は十全に判っているので注さない。よく判らない方は当該ウィキを見られたい。]

   *

 又、生月(いけつき)と云(いへ)る所の「鯨組(くぢらぐみ)」の祖に、道喜(だうき)といふ者あり。

 其(それ)、始(はじめ)は、賤(いや)しくして、舟乘(ふなのり)を生業(なりはひ)とせし頃、ある夜、舟、行(ゆか)せしとき、舟端に、何か白きもの、數十、出(いで)て、とり付(つき)たり。

 よく見れば、小兒(しやうに)を見るが如く、細き手なり。

 道喜、驚き、棹にて、打拂(うちはらひ)たれども、はなれず、又、とり付(つく)こと、度々(たびたび)なり。

 道喜、思(おもひ)つき、水棹(みづざを)の先を、燒(やき)て、夫(それ)にて、拂ひたれば、遂(つひ)に退(のき)て出ざりし、とぞ。

「是も、『舟幽靈』の類(たぐひ)なり。」

と云(いふ)。

「總じて、笘(とま)を、やき、焚(もえ)さしの薪(たきぎ)を投げ、灰を、ふり、棹を焦(こが)すの類(たぐひ)は、陰物(いんぶつ)は、陽火(やうくわ)に勝(まさ)ることなきを以ての法なり。」

と、舟人、云傳(いひつた)ふ。

[やぶちゃん注:「生月」は平戸島の北西にある有人島生月島(いきつきしま)。ここウィキの「生月島」によれば、『江戸時代には益富組を中心とした沿岸捕鯨が活発に行われ、平戸藩の財政を支えていた』とある。平戸市役所文化交流課の作製になるサイト「平戸学」の「捕鯨文化が根ざし栄えた、歴史の痕跡を辿る生月の旅」が写真も豊富で、是非、見られたい。そこに、早くも『江戸時代の始めには』、『平戸で、銛(もり)等を使って突いて漁をする「突組」という鯨組が組織されて』おり、『生月島では』、享保一〇(一七二五)年に『益冨家の「突組」による捕鯨が始まり』、享保一八(一七三三)年『以降になると、鯨に網を掛けてから突き取る「網組」に移行して』、『西海各地の漁場に進出して』いったとある。]

   *

 又、予が、親(したし)く聞(きき)たるは、壹岐(いき)に住める馬添(うまぞひ)の喜三右衞門と云(いひ)しもの、勤番(きんばん)して、厩(うまや)にゐたるとき、ふと、「舟幽靈」のことを言出(いひいだ)したれば、

「某(それがし)、渡海のとき、中途にて、「グゼ」に逢(あひ)たり。」

と云(いふ)ゆゑ、

「何(いか)なる者ぞ。」

と問(とひ)たれば、

「始めは、何か、遙かに、人聲(ひとごゑ)、多く聞へ[やぶちゃん注:ママ。]たるが、船頭は、とく、これを知り、

『程なく、「グゼ」、來(きた)るなり。絕對に、見るべからず。見れば、この舟に、たゝり候なり。少しも見るまじ。』

と制するゆゑ、船中に、ひれ伏しゐたれば、間もなく、彼(かの)聲、至(いたつ)て近く、大(おほい)に噪(さは)がしければ、

『見まじ。』

とは、制したれど、見たくて、すこし、顏をあげて見たれば、大船(おほぶね)の帆を、十分に揚(あげ)たるが、その乘(のり)たる舟に、橫ざまに向けて、走り來(きた)るなり。人は大勢なるが、皆、影の如くにて、腰より下は見えず。手每(ごと)に、何か持(もち)ゐて、我が乘(のり)たる舟に、潮(しほ)を、くみ込(こま)んと、譟動(さうどう)する體(てい)なり。船頭は、舟の、へ先(さき)に立(たち)ゐ、何か、誦(とな)へて、守札(まもりふだ)の如きものを持(もち)て、祓(はらひ)をする體(てい)なりしが、やがて、灰を四方にふり散(ちら)したれば、『グゼ舟』は、是より、某(それがし)が舟を行(ゆき)ぬけたると覺しく、最初は、左にありたるが、夫(それ)より、舟の右になりて、次第に遠くなり行(ゆき)たり。この時、船頭、

『もはやよし。』

と云(いふ)ゆゑ、それより、舟中のもの、頭(かしら)をあげたれば、もはや、『グゼ』は、跡形(あとかた)もなかりし。」

と語りし。

 何(いづ)れも、似たることなり。

[やぶちゃん注:「馬添」は馬に乗った貴人に付き添っていく従者のこと。]

   *

 或(ある)人、語る。

「佐伯(さいき)公の家老某(なにがし)、領邑(りやういう)に往來のとき、三度まで、『舟幽靈』を見たり。

 其(その)さまは、遙(はるか)に沖の方(かた)より、船、來(きた)る聲、聞へ[やぶちゃん注:ママ。]けるが、船子等(ふなこら)、甚(はなはだ)恐るゝ體(てい)なれば、

『何ごとぞ。』

と問(とひ)たれば、

『「舟幽靈」なり。』

と云(いふ)ゆゑ、顧みるに、はや、我が船に、四、五人も乘居(のりゐ)たり。

 その形は烟(けむり)の如く、二十餘り、又は、廿四、五の男なりしが、船のへさきを步き𢌞りて、程なく、海に入(いり)し。」

となり。

「是より、船子等も、恐るゝ體(てい)なく、船の止(とま)りたるも、動き出して、走行(はしりゆき)し。」

と云(いふ)。

 是又、大抵、吾(わが)領邑のものと同じ。

[やぶちゃん注:「佐伯侯」旧豊後海部(あまべ)郡にあった佐伯(さいき)藩のこと。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯(さいき)市)にあった。この話柄、舟幽霊の年齢が示される点、しかもそれが若いという点でも特異点である。]

   *

 又、語る。

 人吉(ひとよし)侯【肥後。】侍醫、佐藤宗隆と云(いふ)者、

「東都に出(いづ)るとき、船中にて舟幽靈を見し。」

と云(いふ)。

 元來、播州の舞子濱(まひこはま)の邊(あたり)は、此のこと、稀なる處なるに、其夜は、陰火、海面を走りて、怪(あやし)くみへ[やぶちゃん注:ママ。]たりしが、程なく、大(おほい)さ四尺餘のクラゲ【「海鏡」。】とも謂ふべき物、漂ひ來(きた)るを見れば、人の形(かた)ち、上に在りて、船子(ふなこ)に向ひ、もの言(いふ)べき體(てい)にて來(きた)るなり。

 船子共、卽(すなはち)、笘(とま)を燒(やき)て、投(なげ)かけたれば、そのまま消滅せし、と云ふ。

 又、同藩の毉(くすし)宗碩(そうせき)と云(いふ)者も、備後の鞆浦(とものうら)の邊(あたり)にて、「舟幽靈」を見たりしが、是は、正しく、手を海中より出(いだ)して、

「柄杓(ひしやく)かせ、柄杓かせ、柄杓かせ、」[やぶちゃん注:底本では『柄杓かせ々々』。]

と言(いひ)し。

「かかることは、某(それがし)が邑人(むらびと)の外(ほか)にも、皆々、知れり。」

と語りし、とぞ。

[やぶちゃん注:「人吉」人吉藩。肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。

「播州舞子浜」「神戸市垂水区」この海岸線一帯

「備後の鞘浦」「広島県福山市内」知られた鞆の浦。]

   *

 又、隱邸(いんてい)[やぶちゃん注:静山の隠居所である本所の下屋敷。]の隣地に、大道と云(いふ)僧の居りしが、この僧は、筑前秋月(あきづき)の人にて、もとは黑田支侯の武士なりし故に、或年、上京せしとき、長門(ながと)の赤馬ケ關(あかまがせき)に船(ふな)がゝりせしに、

「まの當り、見し。」

迚(とて)語れるは、

「三月十八日のことなりし。船頭ども、言ふには、

『今日(けふ)は何ごとをも、申されな。話しなど、無用なり。』

とて、禁ずるゆゑ、

『何(いか)なる譯(わけ)や。』

と問(とひ)たれば、

『けふは、平家滅亡の日ゆゑ、若(もし)、物語などすれば、必ず、災難あり。』

と云(いひ)たり。夫(それ)より見ゐたるに、海上一面に、霧、かゝり、おぼろなる中に、何か、人の形(かた)ち、多く、現はれたり。

『これ、平氏の敗亡せしの怨靈なり。』

と云ふ。

『この怨靈、人聲(ひとごゑ)を聞けば、卽(すなはち)、その船を覆(くつが)へすゆゑ、談話を禁ず。』

と云(いひ)傳ふとぞ。

『昔より、十七日、十八日の夜は、必ず、この禁あることなり。』

と云(いふ)。又、その十四日、十五日の頃より、海上、荒く、潮(しほ)まき抔(など)ありて、彼(かの)邊りは、ものすごき有りさまなり。これ、某(それがし)のみならず、同藩の者も、彼(かの)地、滯船のとき、見し者、多し。」

と語れり【「盛衰記」所載の文には、平家は屋嶋を落(おち)て、九國(きうこく)へは入(はい)れず、寄る方もなく、浮(うか)れて、長門のだんの浦、あかま、もじのせき、引しま[やぶちゃん注:平家の本拠地があった「彥島」の誤り。]に着(つき)て、浪の上に漂ひ、船中に日を送り給ふと見ゆ。又、義経の注進狀には、長門だんの浦に於(おい)て、三月廿四日、平氏、悉く打取(うちとる)、と見ゆ。然(しか)れば、十八日は、其七日前なり。又、長門に「檀浦(だんのうら)」の名、なくして、「檀浦」は讚州八島にある。又、長門國、赤馬關(あかまがせき)の向地(むかひのち)、豐前國に「門司田浦」あり。然れば、「だんの浦」は「田浦」の稱、似たり。若(もし)くは、こゝか。又、『廿四日』の文、若(もしく)は、「十八日」と違(たが)ひたるか。又は、赤馬關の合戰は、此月日なりしや。】。

[やぶちゃん注:この静山の最後の割注の疑義は、私は、すこぶる支持するものである。既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の注で、以下に掲する疑義を示している私は、ずっと以前から、讃岐の八島こそが、正しい「壇ノ浦」であると考えてきたからである。以下の日附の齟齬も気になるのである。

「長門の赤馬ケ関」安徳天皇を祀る赤間神宮の東北直近にある「早鞆の瀬戸」の辺りが、一般に言われる壇之浦古戦場である。

「三月」「十七日・十八日の夜は必ずこの禁あることなりと云ふ」平家滅亡の長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた「壇ノ浦の戦い」は、実際には元暦二/寿永四年三月二十四日(ユリウス暦一一八五年四月二十五日)で、ここに記された日付よりも六日後のことである。この齟齬は何が元だろう? 気になる。

「海上荒く潮まき」瀬戸の海流が激しく行き交い、渦を起こすのであろう。]

2024/01/09

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「舟底を穿つ魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 舟底を穿つ魚【ふなぞこをうがつうお】 〔譚海巻八〕西海渡海の船頭物語りせしは、九州の洋中《わだなか》をわたるとき、丈五六寸の魚《うを》ありて、時々舟底をうがちつらぬき、それより水入りて舟を沈むる事あり。この魚舟をつきぬく事は稀なる事にて、おほくは舟をうがち、その穴にはさまりて死す。日をふれば死にたる魚しぼみほそりて、また穴より抜けいづる。その跡の穴より水入《い》るなり。あまり舟にあかたまりたる時は、彼《かの》魚のうがちたるべしとて、荷物をかたづけて穿鑿すれば、はたして魚のうがちたる穴あり。大体はこの魚舟ヘふるゝとき、かつちりと音すれば、音を合図にせんさくすれども、風雨などはげしき比《ころ》は、舟にふるゝ音まぎれて聞えざるゆゑ、あやまちに及ぶ事有り。この魚くちばし甚だするどなる物と覚えたり。何と云ふ魚にや。土佐国にてはかぢきとほしと云ふ。多年渡海すれども、いまだその名を知らずとぞ。

[やぶちゃん注:事前に作った「譚海 卷八 九州海路船をうがつ魚の事(フライング公開)」を参照されたい。]

譚海 卷之八 九州海路船をうがつ魚の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 西海渡海(さいかいとかい)の船頭、物語りせしは、

「九州の洋中(わだなか)をわたるとき、丈(たけ)五、六寸の魚(うを)ありて、時々、舟底(ふなぞこ)を、うがち、つらぬき、それより、水、入(いり)て、舟を沈むる事あり。

 此魚、舟をつきぬく事は、稀成(なる)事にて、おほくは、舟を、うがち、其穴に、はさまりて、死す。日を、ふれば、死にたる魚、しぼみ、ほそりて、又、穴より、拔けいづる。

 その跡の穴より、水、入(いる)なり。

 あまり、舟に、あか、たまりたる時は、

『彼(かの)魚の、うがちたるべし。』

とて、荷物を、かたづけて、穿鑿(せんさく)すれば、はたして、魚の、うがちたる穴、あり。大體(だいたい)は、此魚、舟ヘ、ふるゝとき、

『かつちり。』

と、音、すれば、音を合圖にせんさくすれども、風雨など、はげしき比(ころ)は、舟にふるゝ音、まぎれて、聞えざるゆゑ、あやまちに及(およぶ)事、有り。

 この魚、くちばし、甚(はなはだ)、するど成(なる)物と覺えたり。

 何と云(いふ)魚にや、土佐國にては、「かぢきとほし」と云(いふ)。

 多年、渡海すれども、いまだ、その名を知らず。」

とぞ。

「又、西海にも、『井(ゐ)くち』、有(あり)。時にあたりて、舟を、こゆるときは、その油を、かへ、いだす。」

よしを、いへり。

[やぶちゃん注:メインの怪魚、「土佐國」で「かぢきとほし」と称するそれは、カジキで、スズキ目メカジキ科 Xiphiidae 及びマカジキ科 Istiophoridae の二科に属する魚の総称。私のサイト版の寺島良安の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鱘(かぢとをし)」を見られたい。

「丈五、六寸」底本では、「寸」の右に編者傍注があり、『(尺カ)』とする。

「あか」「閼伽」。本来は仏教語で、サンスクリット語「アルガ」で、元は「価値」の意であり、転じて「敬意を表わす贈り物」から「功徳水」と訳し、「仏に供える清水」や「香水」などで、仏教では、本尊・聖衆(しょうじゅ)に供養する六種の物の一つに数える。そこから、縁起担ぎを命の綱とする漁師や水主(かこ)が、船の外板(そといた)の合わせ目などから、浸み込んで、船底に溜まってしまった水、また、荒天で、船体に浸み込んでくる水や、打ち込む波によって溜まってしまった水を、「あか」と称する(漢字は「淦」「浛」「垢」)。他に「ふなゆ」「ゆ」などとも呼ぶ。

「井(ゐ)くち」この怪魚は、かなりメジャーな海の怪魚で、私の電子化物でも十五、六挙がってくる。「随筆辞典 奇談異聞篇」で先行する「いくじ」及び私の注のリンク先を参照されたい。手っ取り早く纏まったものを読むなら、ウィキの「いくち」をどうぞ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「鮒石」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 鮒石【ふないし】 〔真佐喜のかつら〕江府赤坂御門<東京都港区内>石垣に鮒石といふ名高き石有り。われもいづれにやと人に問ふ。教へに任せ、見附を入り、枡形の左の形、石がき中央に

Hunaisi

如ㇾ此《かくのごとき》形せし小石を、石垣の透間《すきま》へ入れたるなり。こゝろを留《と》めざれば、小さき故見えず。

[やぶちゃん注:図は『ちくま文芸文庫』版のものを、OCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。

「真佐喜のかつら」「大坂城中の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第十六(三田村鳶魚校・山田清作編・昭和三(一九二八)年米山堂刊)のここで正規表現で視認出来る。

「赤坂御門」東京都千代田区紀尾井町に赤坂門跡(グーグル・マップ・データ)が残るが、鮒石は見当たらないようである。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「布団と金」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 布団と金【ふとんとかね】 〔甲子夜話続篇巻二十八〕八丁堀<東京都中央区内>の辺とか、火にとりまかれたる中、一人は川に入り、ふるき布団を水に浸し、火来れば輙(すなは)ちこれを冒(かぶ)りてその苦を凌ぐ。一人は金六十両を懐にせしが、一身を置くに所なし。依《よつ》て言《いひ》て曰く、汝が布団を我に与へよ、我六十金を汝に授けん、その人布団を与へ、その金を取《とり》て懐にし、火中を走《はしり》て脱《のが》れ出《いで》んとす。然《しか》れども烈火猛火《みやうくわ》、竟(つひ)に焚(や)け仆《たふ》れて命《いのち》終《を》ふ。されども抱《いだ》きゐしなれば、手と腹は焼けずして、金、猶、灰底《はひぞこ》に存せり。布団を買ふ者はそれに拠《よつ》て炎火を凌ぎ命を全うせりと。<この火事は文政十二年三月廿一日、東京都千代田区神田佐久間町より起りたる大火なり。『なゝしくさ』(細川潤次郎)に「何《いつ》の頃にかありけん」とてこの話を記す。たゞ百両と六十両の相違あるのみ>

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷二十八卷 4 三月ノ大火、二事」を公開しておいた。

「なゝしくさ」「細川潤次郎」(天保五(一八三四)年~大正一二(一九二三)年)は幕末の土佐藩藩士にして、明治・大正期の法制学者・教育者。本名は元(はじめ)。参照した当該ウィキによれば、『政治的要職としては』、『司法大輔・貴族院副議長位であったが、日本の近代法導入の功績に関しては』、『江藤新平と並んで高く評価されている。また、福沢諭吉に明治新政府に出仕するよう』、『最後まで説得にあたった』人物として知られる。「なゝしくさ」は随筆。明治三〇(一八九七)年刊。上下二冊。国立国会図書館デジタルコレクションで刊本が視認出来るが、これ、手書き文字を謄写したもので、ちょっと手間取ったが、発見した。ここの左丁の八行目の途中から、『何の頃にかありけん東都の大火に逃て迷ひたる折しも夜嵐つよくして……』とあるのがそれである。確かに、そこでは『百兩』となっている。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷二十八卷 4 三月ノ大火、二事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。本巻は、全体が文政十二年三月二十一日(グレゴリオ暦一八二九年四月二十四日)に発生した「文政の大火」の記載となっている。神田佐久間町(現在の東京都千代田区神田佐久間町。グーグル・マップ・データ)から出火し、北西風により延焼した。「己丑火事」「神田大火」「佐久間町火事」などとも呼ばれ、焼失家屋は三十七万戸に及び、死者は二千八百人あまりに達した。神田佐久間町は、過去、幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子は、ここを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどであった。火災の原因は、煙草の不始末であった。なお、実際の目次の標題は、『同、二事』であるが、「2」の標題を受けているので、かく、した。ただ、「二事」は不審で、これは別な二つの内容ではない。前に「2」と「3」が『一事』となっているので、「二」は誤記とも思われる。火災中の出来事と、鎮火後の、その後の明暗を、時制上、別な話とするのかも知れぬが、それは余りに無理がある。カタカナは珍しい静山のルビである。]

 

28-4 三月大火、二事

 八丁堀の邊(あたり)とか。

 火に、とりまかれたる中(なか)、一人は、川に入(いり)、ふるき布團(ふとん)を、水に浸(ひた)し、火、來(きた)れば、輙(すなはち)、これを冒(カフリ)て、その苦を凌(しの)ぐ。

 一人は、金六十兩を懷(ふところ)にせしが、一身を置くに、所、なし。依(よつ)て言(いひ)て曰(いはく)、

「汝が布團を、我に與へよ。我、六十金(きん)を、汝に授(さづ)けん。」

 その人、布團を與(あた)へ、その金(かね)を取(とり)て、懷にし、火中を走(はしり)て、脫(のが)れ出(いで)んとす。

 然(しか)れども、烈火、猛火(みやうくわ)、竟(つひ)に焚(や)け仆(たふ)れて、命(いのち)、終(を)ふ。

 されども、抱(いだ)きゐしなれば、手と腹は、燒(やけ)ずして、金(かね)、猶、灰底(はひぞこ)に存(そん)せり。

 布團を買ふ者は、それに據(よつ)て、炎火を凌ぎ、命を全(まつたう)せりと。

■やぶちゃんの呟き

「八丁堀」広義の八丁堀は、現在の東京都中央区の地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内のここ。現行の行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目である。但し、江戸時代には狭義には、中央区八丁堀四丁目の、ごく一部分だけであった(グーグル・マップ・データ)。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不動堂の賊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 不動堂の賊【ふどうどうのぞく】 〔甲子夜話巻十一〕十二三年前のこととぞ。或夜薬研堀《やげんぼり》<東京都中央区内>の不動の屋《をく》に盗《ぬすびと》入りしが、仏前に跪伏(きふく)して動かず。人不審に思ひ、何者ぞと訊(と)ひたれば、その人次第にわなわなと震へ身すくみたる体《てい》なり。弥〻不審に思ひ、住僧も出来ていかにと問ふに、かの者云ふやうは、某《それがし》は物を取らんとて、こゝに入りたるが、不動の御前とて身すくみ動くこと不ㇾ能。今は何をかつつみ候べき、懺悔(さんげ)いたし候ゆゑ、何とぞ命を助け給はれとて、ますます戦慄せり。僧侶曰く、霊応かくも有るべし、尚も祈りて、その罪を消さんとて、仏前の燈を挑げ燭を点じ、扉を啓(ひら)き帷(とばり)を褰《かか》げなどして祈りければ、盗やがて常に復したる体《てい》にて、前罪を謝し、後来は改め慎むべしと出で還れり。僧侶及び諸人奇特のことに思ひき。この翌夜かの盗前夜燈燭の光を以て屋内をよく見尽して内殿に入り、諸具賽銭等皆取去りけるとぞ。定めて後に冥罰《みやうばつ》もありつらんかし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 16 藥硏堀不動に盜入し事」を電子化注しておいた。]

フライング単発 甲子夜話卷十一 16 藥硏堀不動に盜入し事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

11-16 藥硏堀(やげんぼり)不動に盜(ぬすびと)入(いり)し事

 十二、三年前のこととぞ。

 或夜、藥硏堀(やげんぼり)不動の屋(をく)に、盜、入りしが、佛前に跪伏(きふく)して動かず。

 人、不審に思ひ、

「何者ぞ。」

と訊(と)ひたれば、その人、次第に

「わなわな」

と、震へ、身、すくみたる體(てい)なり。

 彌々(いよいよ)不審に思ひ、住僧も出來(いでき)て、

「いかに。」

と、問(とふ)に、かの者、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]は、

「某(それがし)は、『物を取(とら)ん。』とて、こゝに入(いり)たるが、不動の御前(ごぜん)とて、身、すくみ、動くこと、不ㇾ能(あたはず)。今は、何をか、つゝみ候べき、懺悔(さんげ)いたし候ゆゑ、何とぞ、命を助け給(たまは)れ。」

とて、ますます、戰慄せり。

 僧侶曰(いはく)、

「靈應(れいわう)、かくも有(ある)べし。尙も、祈りて、その罪を、消(けさ)ん。」

とて、佛前の燈を挑(かか)げ、燭(しよく)を點(てん)じ、扉(とぼそ)を啓(ひら)き、帷(とばり)を褰(かか)げなどして、祈りければ、盜(ぬすびと)、やがて、常に復(ふく)したる體(てい)にて、

「前罪を謝し、後來(こうらい)は、改(あらため)、愼むべし。」

とて、出還(いでかへ)れり。

 僧侶、及び、諸人(しよにん)、

『奇特(きどく)のこと。』

に思ひき。

 この翌夜《よくや》、かの盜、前夜、燈燭(たうしよく)の光を以て、屋内を、よく、見盡(みつく)して、内殿(なんでん)に入(い)り、諸具・賽錢等、皆、取去(とりさり)ける、とぞ。

 定めて、後(のち)に冥罰(みやうばつ)もありつらんかし。

■やぶちゃんの呟き

「本篇本巻の六つ前の「11」に『近頃浦賀諳厄利亞の船浦賀の港に來れり』とあった。この「諳厄利亞」は「アンゲリア」(Anglia:正しい音写は「アンゲルア」)で、近世の本邦の学者等が用いた「イギリス」の呼び名である。「甲子夜話」が書き始められた直後で、浦賀にイギリス船が来航したのは、文政五(一八二二)年のイギリスの捕鯨船「サラセン」号(来航の目的は特になく、食料や水の補充のために立ち寄ったもの)である。されば、ここを起点とするなら、文化五、六年で、グレゴリオ暦で一八〇八年から一八一〇年年初までに当たるか。

「藥硏堀不動」「藥硏堀」は現在の東京都中央区東日本橋に嘗つて存在した運河で、「不動」は、薬研堀不動院(グーグル・マップ・データ)となる。

「懺悔(さんげ)」江戸以前のこの語は「ざんげ」とは、普通は、読まない。「ざんげ」は明治になって禁教令が廃されてより、キリスト教のそれを指す読み方であるからである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「仏法僧」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 仏法僧【ぶっぽうそう】 〔閑田耕筆巻三〕近古に京師に名ある医師を夜更けて迎ふる者あり。かねて相識《あひし》る人の名をいひたれば、速かに輿《こし》に乗りしを、頓(やが)て物にて押つゝみ、数人《すにん》にて囲み、いづこともしらず勾引(かどは)し行きぬ。さていと山深き所の大なる家の内に舁きいれ、家あるじとおぼしき者の金瘡(かなきず)を療ぜしめ、薬をこひて後、あつく謝物をあたへ、また先のごとく囲みてかへしたり。いかさまにも賊の隠れたる所とおぼしく、ものをも得たるからに、黙してはあられず、官に訟(うた[やぶちゃん注:ママ。])へたれば、時の京兆尹《けいてういん》板倉侯、其所のさまを尋ね給へども、東西をもわきまふる所なかりし旨、上の件《くだん》をのべけるが、唯一ツ珍らしとおぼえしは、仏法僧と鳴く鳥有りしとまうす。侯さては松尾成るべし。松尾にこの鳥をよめる古歌ありとて、速かに吏《り》をつかはして、かの山深くもとめさせ給ひしかば、はたして賊の首領居《を》りしとなり。これは『新六帖《しんろくぢやう》』に、光俊「松尾《まつのを》の峰静かなる曙にあふぎて聞けば仏法僧啼く」といふ歌なるべし。今はかの山にて聞きたるといふなし。絶えたるにや。<『道聴塗説十編』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここの左ページの、『○慈悲心鳥』(カッコウ目カッコウ科カッコウ属ジュウイチ Cuculus fugax の別名)『といふものは……』の鳥類の語りの条の、鳥の「佛法僧」(後注参照)の話の途中の、次のコマの右ページ、後ろから五行目四字目から、次のページの三行目の途中までの抄録である。

「仏法僧」これは、やや、めんどくさい。これは、鳴き声と、実体の鳥が非常に長い間、つい、近代まで、全部の日本人に誤って理解されていたからである。その誤りがはっきりと判ったのは、実に、昭和一〇(一九三五)年のことなのである。則ち、一千年以上の間、鳴き声と、実際の鳥を、勘違いされてきたのである。

「声の仏法僧」は、

フクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus sunia 

であり(姿は学名のグーグル画像検索を見られたい)、

一方、誤認され続けたのは、――鳩ぐらいの大きさの鳥で、目の周囲に黄色い羽毛がある鳥――これ自体も誤認で、事実は「目」ではなく、「嘴」の色の誤認である――学名のグーグル画像検索を見られたい)というのが、「姿の仏法僧」と呼ばれる、日本には、夏鳥として飛来する

ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウ Eurystomus orientalis 

である。ここまで名前の誤認の時間が長過ぎると、とても正すことは出来そうもないとは思うが、でも、「ブッ、ポウ、ソウ。」はコノハズクにこそ、相応しいわけで、何やらん、淋しい気がしてくるのである、毎夜、二十年近く、二階の寝室のすぐ上の森で鳴くコノハズクの声を偏愛している私としては、ね。

「京兆尹板倉侯」安土桃山から江戸前期にかけての旗本・大名板倉勝重。彼は「関ヶ原の戦い」の翌年、慶長六(一六〇一)年に、関東代官・江戸町奉行から京都町奉行(後の京都所司代)に任命され、元和六(一六二〇)年まで勤めた。

「松尾」松尾山のある京都府京都市西京区松尾谷松尾山町、及び、その東の境界直近の西京区嵐山宮町にある松尾大社磐座附近であろう(グーグル・マップ・データ)。

「新六帖」鎌倉中期に成立した和歌集「新撰六帖題和歌」。藤原(衣笠)家良撰。

『光俊「松尾の峰静かなる曙にあふぎて聞けば仏法僧啼く」』前の歌集の第六 鳥」の一首。作者は鎌倉中期の公家・歌人で、権中納言・葉室光親の子であった葉室光俊(承元三(一二〇九)年~建治二(一二七六)年:官位は正四位下・右大弁)。

「道聴塗説十編」(だいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。宵曲は巻数を誤っており、「十編」ではなく、「第十四編」である。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『佛法僧の鳥』。枕に鳥の当時の博物誌が示され、本篇より、こちらの方がよい。

2024/01/08

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「仏像の汗」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 仏像の汗【ぶつぞうのあせ】 〔塩尻巻七十四〕この月<享保七年十一月>八日風雨の後、尾城南栄国寺本尊汗流るゝ事、をとゝしの冬のごとし。また常念仏所(誓願寺)の大像も汗あり。希有の事とて、僧俗走り行き見る者多かりし。されど寺々の金箔をしぬる柱なども、汗のごとく雫落ちし処数所なりし。冬日に南風烈しく、雨湿時気に戻りし故、かゝる事侍るにこそ。むかしより仏像汗の事、古記等にも見ゆ。されどその同《おなじ》陰晴風雨の事をいはず。大方打続き晴天、時候たがひなき頃は、斯《かく》のごとき事侍らざるにや。

[やぶちゃん注:「鼬の火柱」で既出既注国立国会図書館デジタルコレクションの「隨筆 塩尻」下巻(室松岩雄校・明治四〇(一九〇七)年帝國書院刊)のここ(右ページ下段後ろから三行目)以降で正字で視認出来る。

「この月」「享保七年十一月」「八日」グレゴリオ暦一七二二年十二月十五日。

「尾城南栄国寺」愛知県名古屋市中区橘にある西山浄土宗清涼山(せいりょうざん)栄国寺(グーグル・マップ・データ)。本尊は、名古屋最古の三大仏の一つとされる「火伏(かぶ)せの弥陀」として信仰の厚い、県重要文化財指定の阿弥陀如来座像である。

「常念仏所(誓願寺)」同名の誓願寺は名古屋にさわにある(グーグル・マップ・データ)ので、判らない。「大像」というのがヒントになるのかも知れないが、そこまでやる気はない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「淵の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 淵の怪【ふちのかい】 〔中陵漫録巻八〕備中松山<岡山県高梁町の古名>より作州の温泉へ行く路に、漆淵《うるしぶち》あり。昔《むかし》漆の荷物を覆(くつが)へして、この淵の底に沈む事あり。百年を経て、或人、兄弟にてこの底中《そこなか》に入《いり》て漆を得る。漆のみならず、高価の物を得たり。これに因て、弟、その兄にを得られんことを悪《にく》み、獅子の頭《かしら》の様なるものを作りて、この水底《みづそこ》に置き、異日、兄の恐れて入らん為に[やぶちゃん注:ママ。以下と上手く繋がっていない。後に示す活字本でもそうなっているが、ここは錯文が疑われる。もとは「兄の入らんことを恐れるが爲に」あたりではなかったろうか?]この謀《はかりごと》を為す。異日、兄来《きたり》て入らんとすれば、大いに恐れて空しく帰るなり。弟、益〻悦びて往きて入る時は、その獅子の頭、忽ちに来て嚼む(か)と云ふ。また松山より伯州に行く路に一淵あり。その辺に人あり、至つて勇夫なり。或夜、少年を相携へて、罨《あみ》を持行《もてゆ》き、その中に打てば、物あつて罨の中に入る。如何としても出《いで》ず。故に傍《かたはら》の木に手縄を結付け置き、明朝また、少年と行きて見れば、手縄を解き、その辺にありと云ふ。その後もまた此《かく》の如し。これに因《よつ》て、一剱《いつけん》を抱《いだ》いて没し見れば物あり。暫くして血、水に浮ぶ。その中に僧の頭《かしら》あり。二度三度にして漸《やうや》く切殺《きりころ》したりと云ふ。その人、一年ならずして死す。人皆《ひとみな》云く、果してその祟りに遇ふと云ふ。江戸の牛淵《うしがぶち》<千代田区九段下>の辺《あたり》を牛を引きて過《す》ぐれば、この淵に自ら入ると云ふ。或ひはこの中に水牛の如き者あり。間々《まま》出《いづ》ると云ふ。未だ是非を知らず。案ずるに『華夷珍玩考』に曰く、「南人嘗曰。牛不ㇾ過喜興金牛橋。過者即死」と云ふ。この俗説に符合す。奥州会津の柳津《やないづ》<福島県河沼郡柳津町>と云ふ処に、魚淵《うをぶち》とて六七寸の魚《うを》四五百首《しゆ》も聚りて躍《をど》る。此処《ここ》の童子、雪花菜(きらず)及び米麦の粉《こ》を持来《もちきたつ》て売る。人皆《ひとみな》一銭二銭の費《つひへ》を厭はずして魚に投ず。魚悦びて躍り揚る事尺余に至る。淵神《ふちがみ》なりとて罨を投ずる事なき故、人を更に恐れず。余<佐藤成裕>が風薬一包を投ずれば、諸魚躍りて争つて吞む、古今の一奇味《いつきみ》と云はずして、その状を見て、余が一奇観なり。只《ただ》傍《かたはら》の人、皆恐惶《きようくわう》するのみ。

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。標題は『怪 淵』。なお、この話の原型に近いと思われるものとして、先行する「諸國百物語卷之五 十三 丹波の國さいき村に生きながら鬼になりし人の事」が挙げられる(挿絵有り)。また、それと本篇をインスパイアしたと考えてよいものに、「金玉ねぢぶくさ卷之三 女良の上うるし」がある(これも挿絵二葉有り)ので、参照されたい。

「漆淵」以下の二ヶ所の間には、現行では、その淵名は見当たらない。但し、酷似した話が、日向国米良荘(めらのしょう:現在の宮崎県児湯(こゆ)郡西米良村。グーグル・マップ・データ。以下同じ)に伝承されている。

「備中松山」「岡山県高梁町」(たかはしちょう)。但し、現在は、岡山県高梁市松山

「美作の温泉」岡山県美作市湯郷(ゆのごう)。現在も温泉がある。

「牛淵」ここ

「華夷珍玩考」「華夷花木鳥獸珍玩考」。明の愼懋官(しんぼうかん)撰になる博物誌。全十二巻。

「喜興」不詳。

「奥州会津の柳津」「福島県河沼郡柳津町」(やないづまち)。ここ

「魚淵」只見川右岸のここに『柳津うぐい生息地 「魚渕」』がある。只見川の魚は人にさえ化ける。私の「老媼茶話巻之弐 只見川毒流」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二人幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二人幽霊【ふたりゆうれい】 〔反古のうらがき巻一〕麻布<東京都港区内>某の所の寺は、市《いち》に近き所なり。文化の頃、その墓所に幽霊ありて、夜な夜な物語りする声聞ゆとて、人々おそれあへり。そのわたりに胆《きも》太き商人《あきんど》ありしが、或時月もほの暗き夜、宵の頃より独りひそやかに台所に忍び入り、大なる墓所の蔭に身を潜めて窺ひける。夜も已に子<夜半十二時>を過ぎて、蟲の音弥〻《いよいよ》さえわたり、月もをりをり出てはまた雲に入る。夜風の身にしみて、ひとへ衣しめりがちにて、えり元ぞくぞくとして覚えしが、またそのあたりより人来《きた》ると覚えて、相かたらふ様、いと睦まじげなる物語りなり。商人耳をすまして聞くに、多くは絶えて久しき離れを語り慰むるにてぞ有りける。如何なる者にやと、月の明るくなるを待ち得て、のび上りて見しに、一人は廿四五の瘦せたる男なり。今一人は六十ばかりの老婦にて、その語らふ様は親子に似ずして夫婦に似たり。商人一ゑん解しがたく、猶疑ひ居しが、折節夜寒の風におかされて高くはなひけるに驚きて、かたちは見えずなりぬ。明る日寺に行きて右次第を語り、かの芝がきのあたりを見るに、合葬の墓ありて、今無縁なり。その墓の主は、去りし頃廿四五にて死せる商人なり。その妻久しく生きのびて洗たく婆々となり、この二三年跡に六十ばかりにて死せり。よつて合葬せしなり。おもふに夫婦の者無縁にて浮ぶこと能はず、幽霊となりて出るなるべし。その様《さま》は皆生前の形にて、その間三十年も立ちたれば、不釣合の姿なる事、その理《ことわり》に当れりと寺僧も申しあへりとぞ。しかしその頃いたづらなる滑稽人の作りし話にや。

(幽霊は尋常のことなり。男廿四五、女房六十計りといふところ、有為転変の相を顕し、巧みに考へたるところ、夜譚・聊斎の二書にもなき新趣向なり)

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之一 幽靈」を参照されたい。]

〔裏見寒話追加〕甲東栗原<山梨県笛吹川東岸>に一禅寺あり。(寺号は大禅寺とか)古府[やぶちゃん注:後注で示す活字本では『古府中』(こふなか)とある。]大泉寺末寺なり。先年(享保年中[やぶちゃん注:一七一六年~一七三六年。])住職遷化して、後住は本寺より入院せしに、その夜庫裡の梁上《はりうへ》より焰の玉、院中を飛び回り、本堂鳴動して、三尊を壇下に落す。人々怪しみ玉ふ処に、怪異打続きしかば、扨は今度の新住こそ、破戒無慙の僧にて、本尊の咎め玉ふにこそと、諸旦家《だんか》疑心大方ならず。住僧少しも騒がず。年来異変なかりしこの寺、我入院してより様々の怪異あるこそ不思議なれ、よしやこの上は怪異の為に命を失ふとも、退院すべからずと、曾て恐れず。さてこの寺に数代《すだい》仕《つか》ゆる男あり。この怪異を不審に思ひ、甘利村の不動尊は霊験あらたかにして、奇妙の仏勅《ぶつちよく》挙げて算《かぞ》へ難し。いかさまかしこに祈りて、明王の託宣を願ふべしとて、頓(やが)てかの地に行き、不動の託宣を伺ふ。寺内の妖怪は狐狸魍魎(まうりやう)の業《わざ》にあらず、この寺に非命者[やぶちゃん注:天命ではなく、思いがけない災難で死んだ人。横死人(おうしにん)。]を葬る事あり、その亡魂、宇宙に転動して迷惑す。何とぞ道師を得て仏果に至らん事を願ふといへども、今迄の住持は疎学不戒にして、その素懐を達する事能はず、今般入院の僧は広博碩徳にして、しかも智識の哲人なれば、亡霊かの願志《ぐわんし》を達せんと、左脇の観音を憑《たの》みてなす事なりとの御告《おつげ》有難く、早速帰寺してその義を申せば、和尚工夫して、元より画像の不動、その霊位は備へ玉ふとも、俗談の託宣信ずるに足らず、嘗て聞く、彼《かの》寺に数《す》百年をへたる狐、仮に人口を借り、病人の善悪、失物《うせもの》などの事を問ふに、十に七八は中(あた)ると、然《しか》れば当年の変異も若しくは当る事あらんと、それより眠蔵(めんざう)に入《いり》て七昼夜の坐禅をせられしかば、三日目の巳の刻<午前十時>とも思《おぼ》しき頃、外面《そとも》より障子を明けて、年頃十八九なる美童と、十五六なる艶女と手と手を取合せ、和尚の眼前を歩行する事数回、和尚問うて云ふ、何者ぞと、両人答へて、我等は御寺内に妖怪をなしたる亡命の言魂、真に和尚の行徳を慕ひ、邪淫の罪障助かりたしと落涙す。和尚また問ふ。汝等いかなる故を以て堕獄の罪を得たるや。艶女答へて云ふ。恥かしながら自らは信玄公の長臣、則ち此所《ここ》を領したる栗原左衛門が娘、これなるは父、都へ登り玉ひし時、渠《かれ》が男色に愛《め》で伴ひ来りし扈従(こしやう)にて侍るが、自らふと馴染み、偕老の契り度《たび》重りて、人目の関のもれ安く、父左衛門の耳に達し、怒り強く、我々二人を生《いき》ながら、厚(あつさ)二寸の板を以て筥(はこ)を拵へ、その中に押込み、蛇蚿《やすで》螻《けら》蟻の類《るゐ》を放し入れ、蓋を釘付にして、この寺の乾(いぬゐ)の隅に埋められ、毒蟲の為に苦しみ死す、その後《のち》跡問ふ人もなければ、未来永々浮む事なく、無間《むげん》の底に沈み畢(をは)る、願くば和尚、我々を化導《けだう》して仏果を示し玉はれと、わつと泣くと思ふと、烟(けむり)の如く消失《きえう》せぬ。和尚扨こそと、坐禅の床《とこ》を下り、寺内乾の隅を見られければ、叢(くさむら)の中に堆(たか)き所あり。偖《さて》は爰《ここ》ならんと、それより七日の施餓鬼を執行《しつかう》し、満願の日にかの地を掘穿《ほりうが》ちて見れば、一つの箱有り。蓋を放して見れば、艶女は紅の衣、美童は白衣を著て顔色生けるが如し。和尚怪道《かいだう》、一喝一声の下に、忽然として白骨となる。これ則ち成仏得脱の験《しるし》とかや。それより境内静謐(せいひつ)にして、和尚の道徳、四方へ聞え、世挙げて信仰大方ならずと。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの『○栗原の亡魂』がそれ。

「甲東栗原」「山梨県笛吹川東岸」「一禅寺」「(寺号は大禅寺とか)」山梨県山梨市下栗原に曹洞宗大翁寺(だいおうじ;グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)があるが、ここか。

「古府大泉寺」山梨県甲府市古府中町にある曹洞宗大泉寺か。

「甘利村」村名は確認出来ないが、「甘利山」は山梨県韮崎市旭町のここにある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「二つ岩弾三郎」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 二つ岩弾三郎【ふたついわだんざぶろう】 〔燕石雑志巻五の上〕佐渡ノ国二ツ岩(或ハ作二ツ山[やぶちゃん注:底本に「ニ」はない。後に示す活字本では、あり、『ちくま文芸文庫』版では補塡されてある。])といふ山中に、年来(としごろ)ひさしく棲む弾三郎《だんざぶらう》といふ狸は頗る霊《れい》ありといふ。この老狸《ふるたぬき》むかしは人に金を貸しけり。彼に借《か》らんと思ふものは、金の員数と返璧《へんへき》の日限を書《かき》つけ、これに名印《ないん》を押して穴のほとりにさしおき、詰(あけ)の朝またゆきて見るに、貸さんと思へばその金《かね》穴の口にあり。後《のち》には金を借るものあまたあるまゝに、返さゞるものもまた夥(あまた)ありしかば、遂に貸さずなりしとぞ。医師《くすし》伯仙は佐渡の人なり。三世《さんせい》方伎《はうぎ》[やぶちゃん注:ここは「医術」のこと。]によし。その父嘗て佐渡にありしとき、一夕《あるゆふべ》隣里(ちかきさと)なる某甲(なにがし[やぶちゃん注:二字へのルビ。])急病ありとて、轎子(のりもの)を齎《もた》らし叮嚀に迎へらる。知る人にはあらねども、辞するによしなくて、その家に赴き、湯薬膏薬を与へて、また送られて帰りつ。かくて四五日を経て、患(やむ)人おこたり果てたり[やぶちゃん注:病気の者が完全に快癒した。]とて、みづから詣来(もうでき[やぶちゃん注:ママ。])てよろこびを述べ、謝物《しやもつ》として方金《はうきん》数百顆《しひやくつぶ》を盆に盛りてさし出《いだ》しにければ、医師大きに怪しみて、これを受けず。僅かに四五貼《ちやう》の薬剤を進《まゐ》らしたるに、かゝる謝物をうくべき事かは、われ年来《としごろ》こゝに住めば、豪家《ごうか》はその名を知らざるものなし、抑〻《そもそも》足下(そこ)は何人《なんぴと》ぞと問へば、件《くだん》の男うち微笑《ほうえ[やぶちゃん注:後掲する活字本に拠った。]》みて、疑はるゝも理(ことわり)なり、我は人間にあらず、二ツ岩の弾三郎なり、まげてこの金ををさめ給ひねといふに、医師頭《かうべ》をうち掉(ふ)りて、弾三郎ならばいよいよ受けがたし、金銭は人間日用の宝《たから》にして、禽獣の為に益なし、しかるに汝甚だ富みたり、必ず不良の財《たから》なるべしといへば、弾三郎またいへらく、おのれが金は不正のものにあらず、或ひは兵火に係り、或ひは洪水によつて溝壑《こうがく》[やぶちゃん注:溝(みぞ)や谷。]に埋れるものを、拾ひ集めて貧人《まづしきひと》を済(すく)ふのみ、疑はずして受け給へと請ひすゝむれども、医師固辞(いなみ)て受けざりしかば、その日はむなしく立帰り、次の日に短刀《のだち》[やぶちゃん注:「野太刀・野劍」で自営用の短刀「刺刀(さすが)」を差す。]一口をもて来つ。これを医師《くすし》に送りていヘらく、この刀は貞宗が釧(うち)たるものなれば、おのれ年来《としごろ》秘蔵せり、国手《こくしゆ》の蔭を蒙りて、疾病《やまひ》忽ちに怠たりぬるに、物受け給はぬは心苦しくこそ候へ、これをば受けをさめて、わが志《こころざし》を果さし給へかしといひつゝ刀を主人(あるじ)のほとりに置き、形は消えてなかりけり。さればかの短刀《のだち》(無銘)を伯仙につたへて家宝にせりといひ伝へたりとなん。みなこれ土俗の口碑に遺す昔物語にして、今はかの老狸《ふるたぬき》を見たるものなしといへば、あるべきことならねど、童子の為に記《しる》すのみ。しかるや否やは知らず。按ずるに『越後名寄《えちごなよせ》』(巻の三十一)云く、寺泊・出雲崎<新潟県>の海辺《かいへん》にて、春夏秋の間《あひだ》、天《そら》はれたるゆふべ、海上遙かに佐渡を眺望(ながむ)れば、二ツ山のかたにあたりて、雲にもあらず、霞にもあらず、青きに黒色《こくしよく》を帯びたる気のたちて、或ひは楼閣、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]城墩(じやうくわく)、渡殿(わたどの)、廊下(ほそどの)、築牆(ついひぢ)、石垣に至るまで、全備《ぜんび》して見ゆ。海市蜃楼《かいししんろう》にはあらず。これは佐渡なる二ツ山に弾三郎といふ狸あり。かれが所為《わざ》なりとぞ。時々これありといへり。佐渡には狐なく、狸と貉(むじな)はありて吹革(ふいご)の用をなせり。またこれ造化不測《ざうくわふしぎの功なり。

[やぶちゃん注: 「二ツ岩弾三郎」馬琴のリキの入った文章だが、ちょっと残念なのは、『彈三郞』ではなく『團三郞』である。団三郎狸を祀ったとされる本拠地二ツ岩神社(大明神)には、一年前、二〇一八年の三月の三度目の佐渡行で私の希望で友ら皆で参った(火災で哀しく酷いことになっていた)。ここである(グーグル・マップ・データ)。私は《団三郎狸の親衛隊》で、古くは、次に出る、

「耳囊 卷之三 佐州團三郞狸の事」

に始まり、佐渡に特化した怪談集の、

「佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」

「佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事」

「佐渡怪談藻鹽草 寺田何某怪異に逢ふ事」

の外、

『柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」』

に出る。他にも柳田國男の「一目小僧その他」の「隱れ里」の、

『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』

等で、言及している未見の方は是非、読まれたい

「燕石雑志」は滝沢解(戯作名は曲亭馬琴)が著した随筆。文化八(一八一一)年)刊。全五巻。古今の多岐に亙る事物を、和漢の書籍に拠って考証したもの。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊のここ(右ページ六行目下方から)で正規表現の本文が見られる。これ自体は長大な『(二)田之怪(たぬけ)』という狸の怪に関わる長篇の枕の後に第一に出る主要なる一節で、間には、「兩巖圖說幷春日宗二郞傳」と大字で掲げた後日の追加附記(宵曲はカットしている)があり、その跡に挿絵図が、ここ(二ツ岩周辺の俯瞰図とキャプションから成る)と、ここ(左右二幅。左が弾三郎狸の図で、右が二ツ岩近景)で計三幅あるので、是非、見られたい。読みは一部を以上の原本で補った。宵曲のルビ振りが如何にヒドいものかが、お判り戴けるはずである。必要でない箇所に振り、なければ、絶対にそうは読めない部分を、多数、知らんぷりしている。サイテイだね!

「越後名寄」全三十一巻から成る三島郡寺泊町の医師丸山元純(良陳)が編述した越後国の代表的な地誌。宝暦六(一七五六)年成立 。巻一から巻九までが、国郡郷庄・名所・天象・山川・神社仏閣・旧跡・関・港・市・駅路・古城・水火・温泉等で、巻十から巻三十までが動物・植物・鉱物などの天産、巻三十一で、人倫・城下役所などに及ぶ。別称を「越後名録」「越後菜薬之記」 ともする。]

〔耳囊巻三〕佐州相川<新潟県佐渡市相川>の山に、二ツ岩といへる所あり。かの所に往古より住みける、団三郎狸といへるあるよし、彼地の都鄙、老少となく申し唱へけるに、具(つぶ)さにその語を聞きしに、誰見しといふ事はなけれども、古来より申し伝へぬるよしなり。享保・元文の頃、役人の内、寺崎弥三郎といへるありしが、相川にて狸を見懸けて、抜打に迯《にげ》る所を、足をなぐりしよし。(この寺崎はのちに不束の事ありて家名断絶せしよし)しかるに、芝町に何の元忠とかいへる外科のありしを、夜に入て急の病人ありとて、駕《かご》を以て迎ひける。右何心なく、元忠も駕に乗りて行きしに、二ツ岩とも覚ゆる所に、門長屋その外家居《いへゐ》等、美々しき所に至り、主《ある》じ出《いで》て、その子怪我せしよしにて、元忠に見せ、薬など貰ひ、厚く礼を施しかへしけるよし。しかるにその後《ご》薬を取りに来《きた》る事もなく、厚く謝礼等もなしける事ゆゑ、また尋ねんとも思ひけるが、曾てその所を知らず。程過ぎて聞合せぬるに、元忠療治なしつるは、団三郎が子狸にてありしや、実《げ》にも人倫の様体にもあらずと語りし由、国中に語り伝へしとなり。<『譚海巻二』にもこの事がある>

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之三 佐州團三郞狸の事」を参照されたい。

「譚海巻二」私の「譚海 卷之二 佐渡國風俗の事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不思議の笛太鼓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 不思議の笛太鼓【ふしぎのふえたいこ】 〔四不語録巻六〕能州鹿嶋郡曾根村<石川県鹿島郡中能登町内>の農民、勘左衛門が子に六《ろく》と云ふ者有り。常に寝申候《いねまふしさふらふ》閨《ねや》のあたりに、宝永元年十二月廿三日[やぶちゃん注:この日は既にグレゴリオ暦では一七〇五年一月下旬である。]の夜半頃、いづくともなく太鼓を打つ音聞ゆ。六不思議に思ひ、よくよく聞けば寺に打つ太鼓にてもなく、拍子を取り面白く打つなり。毎夜打つなり。後《のち》には笛の音も聞ゆ。他人の耳にも聞ゆるなり。六大きに面白がりて、太鼓を打てといヘばそのまゝ打つ。笛を吹けといへばはや吹くなり。とかく六が言葉にしたがふ。六弥〻《いよいよ》面白がりて、後にはその身も拍子を取りて打たせしなり。六儀《ぎ》時により何方《いづかた》へ行きしやらん、一日も見えざる事も、または一夜居《を》らざる事も有り。されども六気配に少しもかはる事なし。親どもはじめ里人どもも、六が末々いかゞあるべきやと、心もとなく思ひ、屋敷中《ぢゆう》をかり見れども、何の恠(おそろ)しきものもみえず。翌年の正月晦日《みそか》までかくの如くありて、その後は太鼓の声も笛の音も止みけるなり。いかなる物の仕業なるや、竟(つひ)に知れず。

[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不思議の入湯者」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 不思議の入湯者【ふしぎのにゅうとうしゃ】 〔譚海巻十〕友人大井某、寛政五年夏、伊豆修善寺の湯に入りたるに、一日湯あみするとき、入湯《にふたう》の人もおほく見えず、静かなる折ふし、五十歳ばかりの男、ともに入湯してありしが、互ひに国所《くに・ところ》など語りあひたるに、この男遠州日坂《につさか》の者にて、久しく修善寺の入湯願ひありしかども、貧乏にしてこゝろにまかせず、何とぞ旅用調のへたらば、いかやうにしても、入湯すべきとこゝろ懸けたりしに、ことしその願《ねがひ》成就して、かく入湯に来り、あまつさへ途中にて、駿河国の豪富なるもの夫婦、修善寺<静岡県田方《たがた》郡[やぶちゃん注:現在は静岡県伊豆市修善寺町(しゅぜんじちょう)。]>へ入湯にゆかんとするに出《で》あひ、この介抱にて来りたれば、旅用の物入りもなく、心やすきよしなどいひて、その許《もと》の御病気はいかなる事ぞととひしかば、大井、我等年来《としごろ》湿気おほく、殊に疝気《せんき》をくるしみ、入湯せしよしをいひければ、この男、その湿気には梅干の皮とにんにくとを、等分に飯つぶにてすりまぜ、紺の木綿の布に粘《ねん》し、痛所ヘおほひ、木綿の上より灸をすゑれば、そのところことのほかはれあがり、したゝか水出《いで》てなほる事、妙なるよしを教へぬ。湯を出て江戸麹町<東京都千代田区内>の者入湯して在りけるが、この物語りをせしかば、麹町のもの、我等も同病なり、おもしろき療治のしかたなれば、こゝろみたき事なり、さるにても灸の数は、いくつほどすうる事ぞといへば、それは慥《たし》かに聞き侍らず、こゝに駿河の国の人に就きてあるよしなれば、今一度かの男に逢ひて、聞き伝はるべしとて、翌日湯場《ゆば》の内を尋ぬれば、はたして駿河国のもの夫婦入湯してゐたり。往きてこゝに遠州日坂のひとあるよし、逢ひたきといひければ、やがて呼出したるに、勝手よりたすきを懸け出でたる男在り。されども湯にて灸治をしへたる男の顔にはあらず。大井不思議におもひて、その元にはあらず、日坂の人なりといへば、たすき掛けたる男、我等遠州日坂のものに御座候、なにによりてさやうのには玉ふぞ[やぶちゃん注:ママ。リンクで示す原本では、『なにによりてさやうにはの給ふぞ』である。錯字或いは誤植である。]といふ時、いよいよ心得ず。駿河国のものも怪しき事におもひて、くはしく尋ねければ、大井はじめよりの次第を物語せしに、たすき懸けたる男よく聞きをはりて、今仰せらるゝ次第は、我等身の上の事に少しもたがひ侍らず、但(ただし)湿をなほす療治の事は、一向我ら存じ申さゞるなり、ふしぎなる事とて、みなみな怪しみけり。さて修善寺入湯の旅客を、のこりなく尋ねけれども、湯にて逢ひたる面体《めんてい》の男は、曾て一人もなく、外に日坂より来る人もなければ、せんかたなくて止みたり。教へしまゝに療治せしに、その言葉のごとく、水したゝり出て疝気平癒せり。さて修善寺より江戸に帰りて、ある席に医者に逢ひて、この物語りをせしかば、それは色黒く頰骨やせて、をせ[やぶちゃん注:ママ。「おせ」は「充分に・しっかりと」の意であろう。]高《だか》に目の大なる男にはあらずやといへば、尤もそのもの云ふに違はずといふに、この医者我等も修善寺入湯して、一度さる男に逢ひたり、また外にも逢ひたる人ありて、聞きあはするに皆同じさまなり、この男修善寺にて一度逢ひて、我等も二度逢はず、これは山神《やまがみ》のたぐひにて、時々湯に入りにきたり、我等が心に合ひたる人あれば物がたりし、またさやうの奇妙の薬方を、伝へ教ふる事度々なり、その者の教へたる方は験《しるし》なき事なし、種々の奇方をおぼえて、人に伝ふるなりといひけるとぞ。いと怪しき事どもになむ。

[やぶちゃん注:事前に正字表現で「譚海 卷十 豆州修善寺溫泉山神の事(フライング公開)」を公開しておいた。]

譚海 卷之十 豆州修善寺溫泉山神の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○友人大井某、寬政五年[やぶちゃん注:一七九三年。]夏、伊豆修善寺の湯に入(いり)たるに、一日湯あみするとき、入湯の人もおほく見えず靜(しづか)なる折ふし、五十歲ばかりのをとこ、ともに入湯(にふたう)してありしが、互に國所(くにところ)などかたりあひたるに、此男、遠州日坂(につさか)[やぶちゃん注:現在の静岡県掛川市日坂(にっさか:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。日坂宿があった。]の者にて、

「久しく修善寺の入湯願ひありしかども、貧乏にして、こゝろにまかせず。何とぞ旅用とゝのへたらば、いかやうにしても、入湯すベきとこゝろ懸(がけ)たりしに、ことし、其願(ねがひ)、成就して、かく入湯に來り、あまつさへ、途中にて、駿河國の豪富なるもの夫婦、修善寺へ、入湯にゆかん、とするに、出(で)あひ、此介抱にて來りたれば、旅用の物入(ものいり)もなく、心やすき。」

よしなど、いひて、

「其許(そこもと)の御病氣は、いかなる事ぞ。」

と、とひしかば、大井、

「我等、年來(としごろ)、濕氣(しつき)[やぶちゃん注:漢方では、体内に湿気が過剰に溜め込まれて、「水毒」という疾患に罹るとする。「しつけ」と読んで「梅毒」の意もあるが、ここは前者でよかろう。]、おほく、殊に疝氣(せんき)[やぶちゃん注:大腸・小腸・生殖器などの下腹部の内臓が痛む疾患を広く指す。]をくるしみ、入湯せし。」

よしを、いひければ、此男、

「其濕氣には、梅干の皮とにんにくとを、等分にめしつぶにてすりまぜ、紺の木綿(もめん)のきれに粘(ねん)し、痛所(つうしよ)へおほひ、木綿のうへより、灸をすへれば、そのところことのほかはれあがり、したゝか水出(いで)て、なほる事、妙なる。」

よしを敎へぬ。

 湯を出(いで)て、江戶麹町の者、入湯して在(あり)けるが、此物語をせしかば、麹町のもの、

「我等も同病なり。おもしろき療治のしかたなれば、こゝろみ度(たき)事なり。さるにても、灸の數は、いくつほど、すうる事ぞ。」

と、いへば、

「それは、慥(たしか)に聞(きき)侍らず。こゝに、駿河の國の人に就(つき)てあるよしなれば、今一度、かの男に逢(あひ)て、聞傳(ききつた)はるべし。」

とて、翌日、湯場(ゆば)の内を尋(たづぬ)れば、はたして駿河國のもの、夫婦、入湯して居(ゐ)たり。

 往(ゆき)て、

「こゝに、遠州日坂のひとあるよし、逢(あひ)たき。」

と、いひければ、やがて呼出(よびだ)したるに、勝手より、たすきを懸(かけ)、出(いで)たる男、在り。

 されども、湯にて、灸治、をしへたる男の顏には、あらず。

 大井、不思議におもひて、

「其元(そこもと)にはあらず。日坂の人なり。」

といへば、たすき掛たる男、

「我等、遠州日坂のものに御座候。なにによりて、さやうには、の玉ふぞ。」

といふ時、いよいよ、心得ず。

 駿河國のものも、怪しき事におもひて、くはしく尋ねければ、大井、はじめよりの次第を物語せしに、たすき懸たる男、よく聞(きき)をはりて、

「今、仰せらるゝ次第は、我等、身の上の事に、少しも、たがひ侍らず。但(ただし)、濕を、なほす療治の事は、一向、我らぞんじ申さゞるなり。ふしぎなる事。」

とて、みなみな、怪しみけり。

 さて修善寺入湯の旅客を、のこりなくたづねけれども、湯にて逢たる面體(めんてい)の男は、曾て一人もなく、又、外に、日坂より來(きた)る人もなければ、せんかたなくて止(やみ)たり。

 敎(をし)へしまゝに療治せしに、その言葉のごとく、水、したゝり出(いで)て、疝氣、平癒せり。

 扨(さて)、修善寺より江戶に歸りて、ある席(せき)に、醫者に逢(あひ)て、此物語をせしかば、

「それは、色、黑く、頰骨、やせて、をせ高(だか)[やぶちゃん注:ママ。「おせ」は「充分に・しっかりと」の意であるから、人並み以上に背が高いことを言っていよう。]に、目の大なる男には、あらずや。」

と、いへば、

「尤(もつとも)。そのもの、云ふにたがはず。」

といふに、この醫者、

「我等も、修善寺、入湯して、一度、さる男に、逢(あひ)たり。又、外にも逢たる人、ありて、聞きあはするに、皆、をなじ[やぶちゃん注:ママ。]さまなり。この男、修善寺にて、一度、逢て、我等も、二度、逢(あは)ず。これは『山神(やまがみ)』のたぐひにて、時々、湯に入りにきたり、我等が心に合ひたる人あれば、物がたりし、又は、さやうの奇妙の藥方を、傳へをしふる事、度々なり。其者の敎へたる方は、結驗(けつげん)[やぶちゃん注:聴いたことがない熟語だが、字面からは「結果として確かな効験(こうげん)が現れること」であろう。]なき事、なし。種々(しゆじゆ)の奇方(きはう)をおぼえて、人に傳ふるなり。」

と、いひけるとぞ。

 いと怪しき事どもになむ。

2024/01/07

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「不思議の修練」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 不思議の修練【ふしぎのしゅうれん】 〔譚海巻八〕加賀の家司に鎗術の師あり。その宅にて門人会集して終日稽古の節、紙窻《しやうじ》の破れより一人うかがひ見てたゝずむものあり。門人昼食に休みて、またまた稽古を始むるに、彼《かの》者猶立さらず有りければ、人々ふしぎにおもひ、彼者われら稽古をけんぶつして猶立さらずあるは、何か所存あるべし、さらば尋ねばやと、一同に談合して呼入れけるに、かたの如くの下種(げす)なり。その方今朝《けさ》より我等稽古を伺ふは、いかなる所存ありての事ぞと尋ねければ、彼者別の者にはべらず、あまり皆様のなされ方をかしく候まゝ見物致し候なりと答へければ、弥〻不思議をなし、さてはその方鎗修練なるべしと問ひしかば、我等事鎗などは一向存じ申さず候なり、さりながらいかやうにつかれ候とも、皆様のやうにつかれはいたすまじきと存じ候なりといふ。この人々怪しみて、さらばその方をついて見るべし、相手になるべしとて、しなひの鎗を遣はしければ、彼もの申しけるは、中々かやうの長き物は手馴れ申さず候、なんぞ短き物玉はり候へとて、そこら見めぐらし、木刀の三四尺余有りけるを見出し、これによく候とて取りたり。扨(さて)彼者木刀の柄を両手にて握り、胸にあてて切先を向うへおして立《たち》たり。相手の人しなひ鎗をとつてつきかかるに、鎗の先のくゞりたるものを、切先にてうけとめて、ひとつも受けはづさず。入代《いれかは》り鎗を取《とり》て立向ひたる人も、終《つひ》にかの者をつきあつる事叶はず。後《のち》には三五人一同にて鎗にてつきかくれども、その鎗先をうけ留《とむ》る事、電《かみなり》の如くひらめきて、一度《ひとたび》も身をつかれず。終に師なる人も立あひけれども、これも同じくつきとむる事叶はず。みなみなあきれて仕合をやめつつ、扨々その方は不思議なる者なり、抑〻(そも《そも》)いかなる業《なりはひ》をなす者ぞと尋ねければ、我等はその山に住みはべる木こりにて候、我等幼年より同村のものと日々山へ行き薪《たきぎ》をとり候、その山の片岸《かたぎし》に大木の松候、何百年をへしとも知らず、根の四方へはびこりたる事、山の如くにて候故、木こり退屈せしときは、この松のもとへ行きて、根に腰を懸けやすみ候、かたぎし故、風甚だ涼しく、夏日《かじつ》も暑さを知らず、木古き松ゆゑいつもしめり深く、木末(こずゑ)より落る露(つゆ)たゆる事なく候、此処《ここ》に休み居《ゐ》たる時、身にかゝり衣裳をうるほしてうるさきまゝたきゞを荷ふ棒にて露をうけとめ候、はじめは度々《たびたび》うけはづしたれども、いつも休むときのなぐさみに、うけならひたれば、後々《あとあと》は繁《しげ》く落つる露一《ひとつ》もうけはづし候事なく、かやうにて三十八年馴れ候へば、この心にてつかるゝ鎗をうけ候に、留め得ぬ事は候はずと語りしかば、人々功の熟したる事をかんじ、謝しやりけるとぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷八 加州の樵者鎗術をあざける事(フライング公開)」を挙げておいた。]

譚海 卷之八 加州の樵者鎗術をあざける事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。標題の「樵者」は「きこり」と訓じておく。注はいらないと思う。]

 

 加賀の家司(けいし)に鎗術の師あり。その宅にて、門人、會集して、終日(ひねもす)稽古の節、紙窓(しやうじ)の破れより、一人、うかがひ見て、たゝずむものあり。門人、晝食に休(やすみ)て、又々、稽古を始(はじむ)るに、彼(かの)者、猶、立(たち)さらず有りければ、人々、ふしぎにおもひ、

「彼(かの)者、われら、稽古を、けんぶつして、猶、立さらずあるは、何か、所存あるべし。」

「さらば、尋ねばや。」

と、一同に談合して、呼入(よびいれ)けるに、かたの如くの、下種(げす)なり。

「その方、今朝(けさ)より、我等、稽古を伺ふは、いかなる所存ありての事ぞ。」

と尋ねければ、彼者、

「別の者に、はべらず。あまり、皆樣のなされ方、をかしく候まゝ、見物致(いたし)候なり。」

と答(こたへ)ければ、いよいよ、不思議をなし、

「扨(さて)は、その方、鎗修練、成(なる)べし。」

と問ひしかば、

「我等事(われらこと)、鎗などは、一向、ぞんじ不ㇾ申候なり。さりながら、いかやうになりながら、いかやうにつかれ候とも、皆樣のやうに、つかれは、いたすまじきと存じ候なり。」

といふ。

 此人々、あやしみて、

「さらば、その方を、ついて見るべし。」

「相手に、なるべし。」

とて、しなひの鎗を遣はしければ、彼もの、申しけるは、

「中々、かやうの長き物は、手馴れ申さず候。なんぞ短き物玉はり候へとて、そこら見めぐらし、木刀の三四尺餘有(あり)けるを見出し、

「是に、よく候。」

とて取(とり)たり。

 扨(さて)、彼者木刀の柄を兩手にて握り、胸にあてて、切先を向ふへ、おして立(たち)たり。

 相手の人、しなひ鎗をとつてつきかかるに、鎗の先のくゞりたるものを、切先にて、うけとめて、ひとつも、うけはづさず。

 入代(いれかは)り、鎗を取(とり)て立向(たちむかひ)たる人も、終(つひ)に、彼者を、つきあつる事、叶はず。

 後(のち)には、三、五人、一同にて鎗にてつきかくれども、其鎗先を、うけ(とむ)る事、電(かみなり)の如く、ひらめきて、一度(ひとたび)も身を、つかれず。

 終(つひ)に、師なる人も立(たち)あひけれども、是も、同じく、つきとむる事、叶はず。

 みなみな、あきれて、仕合(しあひ)をやめつゝ、

「扨々、其方は、不思議なる者なり。抑〻(そもそも)いか成(なる)業(なりはひ)をなす者ぞ。」

と尋ねければ、

「我等は、その山に住(すみ)はべる木こりにて候。我等、幼年より、同村のものと、日々、山へ行(ゆき)、薪(たきぎ)をとり候。其山の片岸(かたぎし)に、大木の松候。何百年をへしともしらず、根の、四方へ、はびこりたる事、山の如くにて候故(ゆゑ)、木こり、退屈せしときは、此松のもとへ行(ゆき)て、根に、腰を懸(かけ)やすみ候。かたぎし故、風、甚だ凉しく、夏日(かじつ)も、暑さを知らず、木古き松ゆゑ、いつも、しめり、深く、木末(こずゑ)より落(おつ)る露(つゆ)、たゆる事なく候。此處(ここ)に休(やすみ)居(ゐ)たる時、身にかゝり、衣裳を、うるほして、うるさきまゝ、たきゞを荷ふ棒にて、露をうけとめ候。はじめは、度々《たびたび》うけはづしたれども、いつも、休(やすむ)ときのなぐさみに、うけならひたれば、後々(あとあと)は、繁(しげ)く落(おつ)る露、一(ひとつ)も、うけはづし候事なく、かやうにて、三十八年、馴れ候へば、此心にて、つかるゝ鎗をうけ候に、留め得ぬ事は、候はず。」

とかたりしかば、人々、功の熟したる事をかんじ、謝し、やりける、とぞ。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「武家屋敷の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 武家屋敷の怪【ぶけやしきのかい】 〔怪談老の杖巻二〕くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき屋敷の内の土二三間が間くづれて、下のがけへ落ちたり。そのあとより石の唐櫃出でたり。人を葬りし石槨なるべし。中に矢の根などのくさりつきたるもの、されたる骨などありしを、また脇へ埋めける。そののちその傍に井戸のありけるそばにて、下女二人行水をしたりしに、何の事もなくふたりともに気を失ひ倒れ居《をり》たるを、皆々参りて介抱して心づきたり。両人ながら気を失ひしは、いかなる事ぞといひければ、わたくしども両人にて、湯をあみをり候へば、柳の木の影より色白くきれいなる男、装束して歩み来り候、恐ろしく存じ候て、人を呼び申さんと存じ候ばかりにて、あとは覚え申さずと、口をそろへていひけり。その後主人の祖母七十有余の老女ありけるが、屋敷のすみにて草を摘まんとて出で行きてみえず。御ばば様のみえ給はぬとさわぎて尋ねければ、蔵のうしろに倒れて死し居ける。その外あやしき事ありしかば、祈躊などいろいろして、近頃はさる事もなきやらん沙汰なし。確かなる物語りなり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之二 くらやみ坂の怪」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「福仏坊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 福仏坊【ふくぶつぼう】 〔一宵話巻二〕正保元甲申年[やぶちゃん注:一六四四年。徳川家光の治世。]、奥州会津<福島県会津若松市>領の山中に、福仏坊といふ仙人住み居し。樵者ども時々見受るよし聞えければ、その仙人召捕ふべき命下り、やがて捕《とら》へてもの尋ぬるに、本国は伊予の者、若かりし時悪事して、廿五歳にて国を出《いで》て、東国へ下り、この山中に入り、木の実などを食し、いつとなく長命せしなり。むかしの事、また年を問へども、皆忘れて、ひとつも覚えし事なし。但(ただ)東国へ下りし時、その途中、尾張の熱田を通りしに、その宮寺の鐘鋳《かねいり》の供養なりとて、参詣の集群夥しかりし事、これたゞ一ツおぼえたるばかりなり。仙人なれば、いたはり介抱せる間に、取《とり》にがし深山の奥へ入り、再び出《いで》ずなりぬ。この仙人、幾許《いくばく》の年寿にやあらん。熱田<名古屋市熱田区神宮にある神社>の鐘を証にせば知らるべしと、その時の人もいひ、また後に熱田を尋ぬれど、この鐘今はなしといひし人もあるから、おのれふと思ひよりて、府下なる総見寺の鐘を尋ぬれば、果して熱田の神官寺の物なり。これは織田信雄《のぶを》主(ぬし)、父信長公のために、清須<愛知県清須市>に総見寺建られしに、国貧しく鐘鋳る事ならで、熱田のを取りて、この寺に懸けられたるなり。(この寺後《のち》に名古屋へ移されたり)その鐘の銘に、熱田宮 神宮寺 延徳元年十月十三日 檀那浅井備中道慶菴主(あんじゆ)などと見ゆれば、疑ひもなきものなり。延徳元年[やぶちゃん注:一四八九年。]より正保元迄百四十年余、それに二十五年加ふれば、大抵百六七十歳ばかりの人なり。させる高寿にはあらねど、今の人の心よりは、仙人と思はんも理(ことわ)りなり。さてこれより先き、四国の山中に平維盛《たひらのこれもり》仙人住める由、聞えありければ、伊達遠江守殿に召し参らすべきよし、仰せありしかども、参らざりしかば、神君より伊藤播磨守殿を以て、時服四ツ給はりし事もありき。(この維盛仙人の事は、他の書にもしるせる事数多《あまた》あり。尚考ふべし)

[やぶちゃん注:「一宵話」秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:江戸後期の漢学者。美濃出身で尾張藩藩校明倫堂の教授として活躍したが、驕慢で失脚したという)の三巻三冊から成る随筆。以上は同書の「卷之二」の「龍 の 雲」の中の本文で、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらから視認出来る。末尾に、信長の次男信雄に関する『或る人云、信雄主は、誠にいとをしき人なり。』(「いとをしき」は誤りではない。「いとほし」は中世から近世初期頃に、ハ行音転呼音(語中・語末のハ行の子音がワ行音になる現象)によってイトヲシとなり、)で始まるこの仙人福仏坊と無関係な信雄のエピソードがあるが、全面カットされている(頭注もある)。なお、この福仏坊の語り通りであるとすれば、機械的計算をするなら、百七十九年前が生まれ年となり、寛正六(一四六五)年で、足利義尚が室町幕府第九代将軍に就任した年である。

「平維盛」(平治元(一一五九)年 ~寿永三(一一八四)年?)平清盛の嫡子平重盛の嫡男であったが、父の早逝もあって、一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線から離脱し、那智の沖で入水したとされている。一種のノイローゼであったと私は考えている。那智の補陀洛山寺の供養塔をお参りしたことがある。但し、生存説が古くからあり、また、全国各地に彼の隠棲・落人伝説が残る。だとすると、機会計算で正保元年から引くと、数え四百八十六歲、「これより先き」を伊達秀宗の藩主となった翌慶長二十年としても、実に四五十六歳となり、福仏坊など赤ん坊みたようなもんだ。

「伊達遠江守殿」伊予国宇和島藩初代藩主伊達秀宗。藩主在任は慶長一九(一六一四)年十二月で、明暦三(一六五七)年七月に世子の宗利に家督を譲って隠居している。徳川家康・秀忠・家光の治世である。

「伊藤播磨守殿」不詳。

「時服」毎年、春と秋、又は、夏と冬の二季に、朝廷や将軍などから諸臣に賜った衣服を指す。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「福鼠」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 福鼠【ふくねずみ】 〔奇異珍事録〕今御数寄屋組頭《おすきやくみがしら》を勤めける横井松伯は、祇州《ぎしう》とて、我等狂歌の友たり。松柏の祖父西林、宝永年中春正月、居間に松板の薄きをつり、神の棚として置きしに或夜何国《いづく》ともなく、鼠銭《ぜに》をくはへ来《きた》る。怪しさのまゝ如何するぞと捨置き見るに、かくする事夜々《よよ》、鼠ども数疋《すひき》にて運ぶ。後《のち》は板《いた》しわり[やぶちゃん注:「撓(しわ)り」。「力が加わってしなってしまい」「たわんできて」の意。]危《あやふ》かりしまゝ、鼻へ釣木《つりぎ》やうの木しつらひたるに、それより来らざる由。その銭所々の仏神へ初穂としてさゝげける。残し[やぶちゃん注:「残った銭」の意の名詞。]封じて斯《かく》の如しと、祇州懐中より出し見せられし。これ等《ら》誠に福鼠ならんと言ふべし。

[やぶちゃん注:「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「五の卷」の『○福鼠』)で視認出来る。今まで言い忘れていたが、ここにも出る「御広敷番」は江戸幕府の職名で、江戸城の大奥に於いて、警備を交代して司り、出入りの者を検察する役目をもった役人。これらの役人が詰めている場所を「御広敷」という。御広敷番に任ぜられたのは、五十俵扶持の御目見以下のものであって、御広敷番頭のほか、添番・番衆があった。正直、書名のわりには、どうも本格的な奇異や珍事ではなく、どうも面白くないものが多い。俳諧狂歌師の風流めいた妙なポーズに拘ってしまったゆえかとも思う。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「腹中の蟲」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 腹中の蟲【ふくちゅうのむし】 〔甲子夜話統篇巻四〕丹羽越前守長秀は太閤秀吉公の股肱《ここう》の臣にして、さうなき英雄の士にぞありける。しかるに長秀病(やま)ふありて、いたづきなやむ毎に、ものありて腹のうち喰ひてんやうにおぼえて、たへがたかりければ、かくて長秀みづから云ふ。勇士の戦場に死するはさることにして、なんでう病ふのために殺されんやと、病ひ大いに発して、腹中いたう痛みて、しきりにうちより肉をもたぐるやうにしけるを、曲《くせ》ものあんなりとて、短刀をもてみづから腹を探りて、怪しき蟲をさし得て長秀終《つひ》に卒す。然るにその蟲刺されてなほ死せず。そのかたち鱉(すつぽん)のごとくよくあゆむ。そのこと秀吉公に申すものあり。さること侍らん、それなんめせと仰せごとありて、かの蟲を上覧に備ふ。公《こう》侍医にあふせて薬をもてせむれども、彼《か》のものは死せず。いや猛くあれにあれて、ふくする色なし。くすしは己が術の拙《せつ》を愧(は)ぢにけん。かくてはとて公左右にあふせて、俄かに吾家祖竹田法印定加を召して、しかじかの旨を命じ給ふ。定加三たび臂を折るの勤めむなしからず。一匙の薬を投じて彼の蟲即死す。時に公御感あさからずして、これはこれ医家に貯ふべきものなりとて、功を賞してその蟲を定加に賜ふとなん。それより吾家の珍宝となせり。尚くだる世にそのもの失ひてんことを恐れおもうて、高祖父竹田法印定堅、それが形をものに摸《も》して、鱉瘕(すつぽん)とともに今に存すといふことをかいつけ侍りぬ。天保七稔丁未之秋、竹田公豊謙予述。

[やぶちゃん注:事前に述べ十二時間かけて「フライング単発 甲子夜話續篇卷四 8 丹羽長秀ノ腹中より出る蟲の事幷圖 / 9 牛黃圓の方」を電子化注しておいたので、見られたい。そちらには図もある。]

フライング単発 甲子夜話續篇卷四 8 丹羽長秀ノ腹中より出る蟲の事幷圖 / 9 牛黃圓の方

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。図は底本の画像をOCRで取り込み、トリミング補正した。但し、キャプションは薄く、なかなか判読に苦労した。判読出来ないものは□で示した。漢文の読みに踊り字「〱」があるが、「〻」に代えた。また、関連する「9」も合せて電子化した。]

 

4―8 丹羽長秀腹中より出(いづ)る蟲の事幷(ならびに)

 「秀吉譜」云(いはく)、『元龜十三年四月、丹羽五郞左衞門長秀逝。年五十一。長秀平生有積聚之病、甚苦ㇾ之。至ㇾ是不ㇾ勝其痛苦。乃引ㇾ刀自裁。火葬後、灰中積聚未ルヲ二焦盡。其爲ㇾ物也、大如ㇾ拳、形石龜。其啄尖曲ㇾ鳥。刀痕在ㇾ背。秀吉見ㇾ之曰。此是奇物也。醫家當ㇾ有ㇾ之物也。卽賜竹田法印。』

 予、嘗(かつて)讀(よみ)て、こゝに至(いたり)て、此物を觀んことを欲す。

 時、幸(さいはひ)に古法印の孫なる、今の竹田法印の門人某、予が邸(やしき)に出入する者あり、これに就き、書を法印に贈(おくり)て、

「此物の傳ふるを見ん」

と、請ふ。

 法印門人、某に託して、予に借(か)す。廼(すなはち)、時に摸寫(もしや)す。

 然(しか)るに、『譜』の所ㇾ云(いふところ)と、同・異あり。

 其記、幷に、摸圖(うつしづ)。

 

Nagahidenosuppon

 

[やぶちゃん注:キャプションは、右側が、上から、

「背圖」・「脇面ノ圖」・「腹圖」

で、左側が、上の「背圖」の脇に、

「背ニアルハ長秀

 刀痕□三□云フ者」

(下の□は「所」か? 前は理屈からは「跡」が相応しいとは思うが、そうは見えない。(へん)は「言」に見える)

とあり、中の「脇面ノ圖」の脇には、

「コノ眞ハ木形ニ乄

 彩色セシ者ナリ

 二重ニ納ム」

と、ある。]

 

『内匣、鱉瘕記、丹羽越前守長秀者、太閤秀吉公近臣、武雄過ㇾ人。久一疾腹中每不ㇾ安。適病大發、困悶シテ殆欲レ絕セント。自謂。此病是積蟲也。大丈夫死セバ則死矣。豈爲積蟲而殺サレン乎。遂取短刀刺ㇾ腹、而得ㇾ蟲而死矣。其蟲之狀、似ㇾ鱉而能步。公雖ジテ侍醫爲ㇾ之投ルト上ㇾ藥、經ㇾ日尙不ㇾ死。於ㇾ是命ジテ家祖竹田法印定加、按ゼシム。投ルトキハ一匕、以則其積蟲卽死矣。因賞其功其蟲世々相傳家寶云。天明七稔丁未之夏、竹田公豐謙、予、書。』【『長秀刺ㇾ腹、得ㇾ蟲而死。』。すれば、灰中未焦盡と云(いふ)と異なり。「譜」の文、恐(おそら)くは誤(あやまり)にして、竹田の家傳を是(ぜ)とすべし。】[やぶちゃん注:底本では、以上の割注は『欄外注記』とある。]

 外匝(そとばこ)の銘に、

『鱉瘕之由來、丹羽越前守長秀は、太閤秀吉公の股肱(ここう)の臣にして、さうなき英雄の士にぞありける。しかるに長秀病(やま)ふありて、いたづきなやむ每(ごと)に、ものありて、腹のうち、喰(く)ひてんやうにおぼへて、たへがたかりければ、かくて、長秀、みづから云ふ。

「勇士の戰場に死するは、さることにして、なんでう、病(やま)ふの爲(ため)に、ころされんや。」

と。

 病ひ、大(おほき)に發して、腹中、いたう、痛(いたみ)て、しきりに、うちより、肉を、もたぐるやうにしけるを、

「くせもの、あんなり。」

とて、短刀をもて、みづから、腹を探(さぐり)て、あやしき蟲を、さし得て、長秀、終(つひ)に卒(そつ)す。しかるに、その蟲、さゝれて、なを[やぶちゃん注:ママ。]、死せず。

 そのかたち、の鱉(すつぽん)のごとく、よく、あゆむ。

 そのこと、秀吉公に申(まふす)ものあり。

「さること侍らん、それ、なん、めせ。」

と、仰(おほせ)ことありて、彼(かの)蟲を上覽に備(そな)ふ。

 公、侍醫に、あふせて、藥をもて、せむれども、彼ものは、死せず。いや猛く、あれにあれて、ふくする色、なし。

 くすしは、己(おの)が術(じゆつ)の拙(せつ)を愧(はぢ)にけん、

「かくては。」

とて、公、左右に、あふせて、俄(にはか)に、吾家、祖、竹田法印定加(ぢやうか)を召して、

「しかじか。」

の旨を命じ給ふ。

 定加、三たび臂を折(をる)の勤(つとめ)、むなしからず。一匙の藥を投じて、彼蟲、則(すなはち)、死す。時に、公、御感(ぎよかん)あさからずして、

「是(これ)は、これ、醫家に貯ふべきものなり。」

とて、功を賞して、その蟲を、定加に賜ふ、となん。

 それより吾家の珍寶となせり。

 尙、くだる世に、そのもの、失ひてんことを恐れ、おもふて、高祖父、竹田法印定堅(ぢやうけん)、それが形を、ものに摸(も)して、鱉瘕(すつぽん)とともに、今に、存(そんす)、といふことを、かいつけ侍りぬ。天明七稔丁未之秋、竹田公豐謙。』

 予、述。

 予、この物を借得(かりえ)しは、彼(かの)門人、近藤英秀と云ふ者にて、過(すぎ)し寬政六年初春のことなり。

「この時、その眞(うつし)は【前の假名文に『鱉瘕と共に今に存す』と云ふもの。】、別に一匣に藏(をさめ)て、『匣上(はこうへ)密封』とあれば、持來(もちきら)らず。」

と云(いひ)き。

 又、云ふ。

「既に、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]の上覽にも入りし。」

と。

 然れば、予、思ふに、數星霜のもの、今は朽壞(きうくわい)して、人に示す可からず。因(よつ)て、かく云(いふ)者ならん。

 されば、前記に、

『夫(それ)が形を物に摸(うつ)す。』

と、云(いふ)者(は)、宜(むべ)なり。

 又、この竹田法印定加が藥方、今、彼(かの)家、これを審(つまびらか)にせず。

 醫臣立也(りつや)、曰(いはく)、

「定加、四代の祖、昌珪(しやうけい)なる者、明の時、唐山(たうざん)に渡り、醫術、屢(しばしば)、奇驗(きげん)あるに因(よつ)て、明主、珪を、「安國侯」に封ず。然るに、其母、老たるを以て、請(こひ)て、本國に歸る。明主、賜ふに、「牛黃圓(ごわうゑん)の法」を以てす。鱉瘕を殺(ころす)の方(はう)は、乃(すなはち)、この「牛黃圓」なるべし。」

と、彼(かの)家、代々の言傳(いひつた)へなり。

 「千金方」、『椒熨方、治癥結病、及爪病、似形日月、或左右、或上下、或若ㇾ鼈左右肋下、以ㇾ心キヲ合子。大法先其足、以ㇾ椒ㇾ之【「干祿宇書」曰、『鱉通ㇾ鼈。』。】。「正字通」、癥瘕腹中積塊。堅者ㇾ癥。有ルヲ物形ㇾ瘕。』

 彼是(かれこれ)に據(よつ)て考(かんがふ)れば、「千金方」の所ㇾ云(いふところ)の者は、積(しやく)のかたまりの形、鱉(すつぽん)の若(ごと)く、肋下(ろくした)に在ると云ふ如し。「正字通」の所ㇾ云も、たゞ、かたまりの堅き者を『癥』とし、何か、形づくりたるは『瘕』と謂ふにて、其形、内に、物あるに非ず、と聞こゆ。

 然(しか)るに、長秀が腹瘕(ふくか)は、眞(まこと)の生物(いきもの)なりしかば、古書の所ㇾ云も誣(しい)ゆべからず。『鼈(すつぽん)の若(ごとし)』と云(いひ)しも、腹中、實(まこと)に、この物あること、長秀より、始(はじめ)て、其眞(しん)を知るか。奇とすべし。

■やぶちゃんの呟き

「丹羽長秀」(天文四(一五三五)年~天正十三年四月十六日(一五八五年五月十五日)は、元は織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。「本能寺の変」の後、秀吉と勝家とが天下を争った天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」では秀吉を援護し、戦後、若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前国の一部、及び、加賀国江沼・能美二郡を与えられ、越前国北庄に入部、石高は約六十万石と推定されている。参照した当該ウィキの「最期」によれば、『長秀は積寸白』(しゃくすばく)『(寄生虫病)のために死去した』。「秀吉譜」に『よれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず』、『自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう』。」『と、竹田法印に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると』、寛政六(一七九三)年の初春、『当代の竹田法印の門人で』、『松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は』「秀吉譜」と『相違があり、それによれば』、『久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て』、『死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお』、『死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞して』、『その虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、』天明七(一七八七)年に『竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため』、『持って来なかったというので、年月を経て』おり、『朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している』。『これらによると、石亀に似て』、『鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である』。『証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった』とある。確かに、近代以前は、ヒト寄生性の寄生虫が驚くべき数で寄生し、時に口から生体や虫片を吐き戻す「逆虫」(さかむし)として知られてはいたが、実際、長大型の扁形動物門条虫綱 Cestoda のサナダムシ類や、線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫科カイチュウ Ascaris lumbricoides によって、死亡に至ったという事例は、寡聞にして私は聴いたことがない。思うに、激痛が起こり、火葬後に有意な大きさの異物が見出されたというのは、癌などの悪性新生物の方が妥当と思われる。

「秀吉譜」「豊臣秀吉譜」林羅山編。全三巻。寛永一九(一六四二)年跋。明暦四(一六五八)年刊。以下、引用部の訓読を試みる。

   *

 元龜十三年[やぶちゃん注:天正の誤り。一五八五年。]四月、丹羽五郞左衞門長秀、逝(せい)す。年五十一。

 長秀、平生(へいぜい)、積聚(しやくじゆ)の病(やまひ)有りて、甚だ、之れに苦しむ。

 是(ここ)至りて、其の痛苦に勝(た)へず、乃(すなは)ち、刀(かたな)を引き、自裁す。

 火葬の後(のち)、灰中に、出ずる積聚、未だ焦(こ)げ盡さざるを揆(はか)るに、其の物たるや、大いさ、拳(こぶし)のごとく、形は、石龜(いしがめ)のごとし。其の啄(くちばし)、尖(とが)り曲りて、鳥のごとし。刀の痕(あと)、背に在り。

 秀吉、之れを見て曰はく、

「此れや是れ、奇物なり。醫家、當(まさ)に、之れ、有るべき物なり。」

と。

 卽ち、竹田法印に賜ふ。

   *

この「積聚」(しゃくじゅ)「の病」とは、腹部・胸部に起こる激痛。「癪(しゃく)」「さしこみ」「癇癪(かんしゃく)」とも言う。「石龜」は狭義にはカメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica を指すが、ここは寧ろ、「相応に大きな硬い甲を持ったカメ」の意ではあろう。

「竹田法印定加」(天文一五(一五四六)年~慶長五(一六〇〇)年)は医師。当該ウィキによれば、『天文年間に父定珪が死去したために家督を相続。腹診をよく行ってこれを広めた』。元亀二(一五七一)年に『正親町』(おおぎまち)『天皇の脈を取り』、『平癒させたため、法眼に叙され』、天正九(一五八一)年には、『女官の治療に貢献したことにより法印に昇進する。豊臣秀吉と親交が深く、特に秀吉生母大政所を快癒させた際には』、『多大な恩賞を得ている。その他、曼殊院覚恕、羽柴秀勝、丹羽長秀、顕如などを治療している』。文禄二(一五九三)年、「文禄の役」の『講和のために来日した謝用梓らが発病した際、処方を行うなど』、『対応して』、『親交を深めた。徳川氏に対しても』、『徳川秀忠の娘の処方を行っている』が、慶長二(一五九七)年、『秀吉が病床に伏した際、出仕がなかったために罰せられ』ている。『子孫は豊臣家を離れ、江戸幕府に仕えた』とある。

「内匣、鱉瘕記、……」訓読を試みる。

   *

 内匣(うちばこ)の銘に、「鱉瘕記」。

 丹羽越前守長秀は、太閤秀吉公の近臣、武雄、人に過(す)ぐ。

 久しく一疾(いつしつ)を患(わづら)ひ、腹中(ふくちゆう)、每(つね)に安からず。

 適(たまたま)病ひ大發(だいはつ)し、困悶(こんもん)して、殆んど絕(ぜつ)せんと欲(ほ)つす。

 自(みづか)ら謂(いは)く、

「此の病ひは、是れ、積蟲(しやくちゆう)なり。大丈夫、死せば、則ち死なん。豈(あ)に、此の積蟲」しやくちゆう)の爲(ため)にして、殺されんか。」

と。

 遂(つひ)に、短刀を取り、腹を刺して、蟲を得て、而して、死す。

 其の蟲の狀(かたち)、鱉(すつぽん)に似て、能く步(あゆ)む。

 公、侍醫に命じてジテ二一之れに、藥を投(とう)ずると雖も、日を經て、尙(なほ)、死せず。

 是(ここ)に於いて、吾が家祖、竹田法印定加(ぢやうか)に命じて、方(はう)[やぶちゃん注:処方箋。]を按(あん)ぜしむ。

 一匕(ひとさじ)を投(とう)ずるときは、以つて、則ち、其の積蟲、卽ち、死す。

 因りて、其功を賞し、其の蟲(むし)を賜ひ、世々(せいせい)、相ひ傳へて、家寶と爲(な)す、と云ふ。

   天明七稔(ねん)丁未の夏

       竹田公豐、謙(けん)。

              予、書(しよ)す。

   *

この「鱉瘕」はスッポンのこと。爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。博物誌は私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈(すつほん)」の項以下、或いは、ブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鼈(スッポン)」等を見られたい。「竹田公豐」(?~寛政(一七九四)年)は本文にある通り、定加の孫で、同じく医師で法印であった。「高祖父、竹田法印定堅」定加の父定珪の弟定珪の末裔。茂庵を名乗った。「天明七稔丁未」一七八七年。最後の「謙」は謙遜(ここは「へりくだって記す」の意)の意。「予」は松浦静山。

「かいつけ」「書き付け」の意であろう。

「寬政六年」一七九四年。

「醫臣立也」不詳。

「唐山」河北省唐山市か(グーグル・マップ・データ)。

「牛黃圓の法」次の条に譲る。

『「千金方」ニ云ク、『椒熨方、……』訓読を試みる。

   *

「千金方」に云はく、

『椒熨方(せういはう)、癥結病(ちようけつびやう)を患(わづら)へ[やぶちゃん注:ママ。]、及び、爪病(さうびやう)、爪(つめ)の形、日月(じつげつ)の形に似(に)、或いは、臍(へそ)の左右に在り、或いは、臍の上下に在り、或いは、鼈(すつぽん)のごとく左右の肋(ろく)の下に在り、以つては、心(しん)に當りて如キヲ合子(がふし)のごときを治(ぢ)す。大法、先づ、其の足に針(はり)し、椒を以つて、之れを熨(ひのし)す[やぶちゃん注:炭火の熱で皺を伸ばす柄杓形の器具で患部を温める。]【「干祿宇書」に曰はく、『「鱉」(べつ)は、「鼈」(べつ)に通ず。』と。】。「正字通」、『癥瘕(ちょうか)は腹中の積塊(しやうかい)。堅き者を「癥」と曰(い)ふ。物の形、有るを「瘕」と曰ふ。』

と。

 

4―9 「牛黃圓(ごわうゑん)」の方(はう)

 前に記せし「牛黃圓」の方(はう)、今、

『竹田の家に傳はるべし。』

と思ひ、多紀安良、

「竹田某と、屢々、會する。」

と聞けば、安良に託して、其方を問はしむ。

 竹田、答ふ。

「吾が家訓に、この方は一子相傳、且、十五歲以下の者は、子といへども、傳へざることなれば、止事(やむこと)を得ず、需(もとめ)に應じ難し。」

 又、曰(いはく)、

「某(それがし)【安良。】の祖父安長【元簡。】が、竹田の祖、定加【これ、長秀の腹蟲を殺せし者。】が自書せし「月海錄」と云(いへ)る方書(はうしよ)を藏(をさ)めしが、其中に、この方、あり。尋常の「牛黃圓」と違ひたれば、果(はたし)て、定加が祖、昌珪が明主(みんしゆ)より、賜はり、還(かえ)りし方ならん。」

迚(とて)、安良、廼(すなは)ち、その書を借(か)す。

 予、因(よつ)て、その方を鈔謄(しやうとう)す。

   牛黃圓

傳屍、惡氣、復連瘦病

●胡黃連 ●鼈甲 ●桃人【一匁。】 ●沈香

●木香  ●犀角 ●枳殻 ●柴胡【三分。】

●牛黃  ●人參 ●丁子【二分。】 ●射香【一分。】

  右末、蜜丸杵ニス。桐子ノゴトクス

  食前廿丸。忌ㇾ莧(かん)ヲ。又

  下蟲惡物。雄黃圓【本書如ㇾ此。

■やぶちゃんの呟き

「牛黃圓」牛の胆嚢に生ずるとされる黄褐色の胆石である牛黄を主剤としたを丸薬。

「多紀安良」幕府医官で考証派漢方医であった多紀元胤(たきもとつぐ 寛政元(一七八九)年~文政一〇(一八二七)年)の通称の一つ。著書が多いが、父元簡の遺志を継ぎ、漢晋以降、清の道光年間に至る三千余種の医書を考証した「醫籍考」全八十巻(未刊)が著名。

「胡黃連」(こわうれん:歴史的仮名遣。以下同じ)高山性多年草の、シソ目ゴマノハグサ科コオウレン属コオウレン Picrorhiza kurrooa(ヒマラヤ西部からカシミールに分布)及びPicrorhiza scrophulariiflora(ネパール・チベット・雲南省・四川省に分布)の根茎を乾かしたもの。古代インドからの生薬で、健胃・解熱薬として用い、正倉院の薬物中にも見いだされる。根茎に苦味があり、配糖体ピクロリジン(picrorhizin)を含むものの、薬理効果は不明である。なお、「黃連」があるが、これは小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensisCoptis deltoidea の根茎を乾燥させたもので、全く異なるものなので、注意が必要である。

「鼈甲」(べつかう)潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata の甲羅。「鼈甲」細工に用いるのは、本種を最上とする。詳しい博物誌や、理不尽なワシントン条約による鼈甲細工(座って作業することから、多くの身体障碍を持った方が古くから名工としておられた。その仕事を同条約は奪ったのである)の危機に対する怒りを込めた私の若書きの注を、是非、サイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「たいまい 瑇瑁」で読まれたい。

「桃人」(たうにん)「桃仁」のことであろう。バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica及びスモモ亜属Amygdalus Prunus節ノモモ(野桃)Prunus
davidiana
 の成熟した種子を乾燥した漢方薬。血液の停滞・下腹部の膨満して痛むものに効果があるとされる。

「沈香」(ぢんかう)「沈香(ぢんこう)」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。

「木香」(もつかう)キク目キク科トウヒレン属モッコウSaussurea costus又はSaussurea lappa の孰れかの根から採れる生薬。薫香原料として知られ、漢方では芳香性健胃剤として使用されるほか、婦人病・精神神経系処方の漢方薬に多く配合されている。

「犀角」(さいかく)私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」の本文及び私の注を参照。

「枳殻」(きこく)ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata の生薬名。未成熟或いは熟した果実を乾燥させたものを用いる。健胃・利尿・発汗・去痰作用がある。

「柴胡」(さいこ)双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根の漢方の生薬名。解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡が、この生薬の産地として優れていたことに由来する。

「丁子」(てうじ)香辛料のバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾の乾燥品。

「射香」「麝香(じやかう)」。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照。

「蜜丸」(みつぐわん)蜂蜜を固めて丸薬にしたものであろう。謂わば、「つなぎ」であろう。

「桐子」(とうし/きりのみ)シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa の果実。気管支炎に効果があるとされる。

「莧」(かん)双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科 Amaranthaceae 、及び、その近縁種の総称。食用になる。中でもよく知られるものに、私の家の庭にもある、ナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea がある。夏に全草を採って根を除き、水洗いして日干し乾燥したものは生薬になり、馬歯莧(ばしけん)と称されている。民間薬として、解熱・解毒・利尿や、虫刺されに効用があるとされる。

「雄黃圓」(ゆうをうゑん)は牛黃圓の別名。

「右末、蜜丸……」訓読を試みる。

   *

右の末(まつ)、蜜丸(みつぐわん)[やぶちゃん注:「にして」か。]、杵(つ)きて、圓(まどか)にす。桐子の大(おほきさ)のごとくす。食前、廿丸(にじふぐわん)を下(くだ)す[やぶちゃん注:服用する。]。莧(かん)を忌む。又、蟲(むし)の惡物(あしきもの)を下(おろ)す。「雄黃圓(ゆうをうゑん)」【本書、此くのごとし。】。

   *]

2024/01/06

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「笛吹川の獺」 / ルーティン再開

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 笛吹川の獺【ふえふきがわのかわうそ】 〔裏見寒話巻三〕笛吹川<山梨県>に獺《うそ》ありて人を取ると云ひ伝ふ。一日《あるひ》愛宕町磨工《みがきこう》所右衛門《しよゑもん》、殺生の為、川を渡る。忽ち水波《すいは》起りて、獺追ひ来《きた》る。所右衛門岸上に逃去《にげさ》る所に、猶追ひ来《きた》るを、所右衛門鉄砲にて打ち留《とむ》る。その大《おほい》さ犢《こうし》の如し。獺はかはをそ、また川うそといふ。人を取るものにあらず。人を害するは川太郎といふ。河童と云ふ。川太郎の名品々《しなじな》あり。雄(ゆう)按ずるに、獺は他達切、如ㇾ猫居ㇾ水食ㇾ魚と。ヲソなり。海にあるを海ヲソ、川にあるを川ヲソと云ふ。鰡(ぼら)の年へたるもの獺となる。鰡より化《け》したるは、腹中に臼《うす》の如くなるものありと云ふ。鰡の子には臼なし。魚のみを食すこと、江府の川に時々あり。水主《かこ》度々打殺せし由聞けり。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここ(左ページ最後と次のコマ)の「卷之三」の掉尾がそれ。

「笛吹川」ここ(グーグル・マップ・データ)。連れ合いが何度かこの川の近くに入院したので、私も入退院の折りごとに、何度も行ったので、懐かしい川である。

「獺」日本人が滅ぼした食肉目イタチ科カワウソ属ユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon 。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を見られたいが、近代まで、獺は狐狸同様、人を騙す妖獣と認識されていた。

「愛宕町」山梨県甲府市愛宕町(あたごまち:グーグル・マップ・データ)。甲府城の東北直近。ここは江戸時代には石切り場であったから、「磨工」というのも、腑に落ちる。

「他達切」一字の音を中国語音で二字の漢字の前後の音で示す反切法。現代中国語では、「他」は「」(タァー)、「達」は「」(ダァー)、「川獺」は「」(タァー)である。

「如ㇾ猫居ㇾ水食ㇾ魚」「猫のごとくして、水に居(を)り、魚(うを)を食ふ」。これは反切は「正韻」にある「他達切」を、意味の部分は、「說文」の「獺」の「如小狗、水居。食魚。」と、「玉篇」の「獺如猫。」のカップリングしたものである。

「鰡(ぼら)の年へたるもの獺となる。鰡より化したるは、腹中に臼の如くなるものありと云ふ。鰡の子には臼なし」前に掲げた「和漢三才圖會」で良安は、「鰡」ではなく「老鰡(しくちぼら)」と記している。而して、これは「ボラ」(条鰭綱ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus )ではなく、ボラ科メナダ属メナダ  Liza haematocheilus である。完全生育個体では体長が一メートルに及び、大型で、背面は青色、腹面は銀白色。同属の近縁種との違いとしては、上唇が下方に曲がっていて、口を閉じると、外部に露出してみえること、「脂瞼(しけん)」と呼ばれるコンタクト・レンズ状の器官が発達していないことがボラとの識別点として挙げられる。『東洋文庫』現代語訳では、この「老鰡」の「鰡」にのみ『ぼら』とルビしており、「老成したボラ」の意と採っていて、少なくとも個々の部分での訳としては、致命的な誤りである。良安は、この説を挙げながら、明らかに否定的に俗説と最後に添えている。

   *

△按ずるに、獺、溪澗・池河の淵・灣、或いは巖石の間、穴を爲(つく)り、出でて、魚を食ふ。水上を游(をよ)ぐ時、砲を以つて、之れを擊ち取る。性、捷勁(せふけい)にして、牙、堅し。故に犬と闘へば、却つて、犬を喫(か)み殺す。或いは云はく、老鰡(しくちぼら)、變じて、獺と成る。故に獺の胸の下に亦、肉臼(にくうす)、有り。又、鮎(なまづ)、變じて、獺と成る。但し、鰡(ぼら)の變じたる者は、口、圓(まろ)く、鮎の變じたるは、口、扁(ひらた)しとなり【人、其れ、半分、變じたる者を見たる有り。】。鰡は則ち、海魚なり。若(も)し、江海の獺は、乃(すなは)ち、鰡の變、溪湖の獺は、乃ち、鮎の變、と謂はゞ、則ち、可ならんか。恐らくは、俗說なり。

   *

なお、ボラの「臼」とは、ボラの肥厚した胃の幽門部のことを指す。算盤(そろばん)の珠のような形をしているので、「ソロバン」「ソロバン玉」とも呼ばれる。塩焼きにして、こりこりした食感の珍味となる。旨い。形状を見るには、「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」「ボラ」がよい。成長して始めて外に膨らむようになるから、幼魚にはない。また、カウワソの「デベソ」がよく言われるが、これは陰茎の鞘に当たる防護器官である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「風中の妖」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、前年十二月二十八日から一月まで、国立国会図書館デジタルコレクションのシステム切替中に準備していた、可能な部分の本文電子化と注のストックを使い切った。明日からはルーティンに戻る。]

 

 風中の妖【ふうちゅうのよう】 〔甲子夜話巻三十四<文政六年八月十七日大風の節>小菅橋の側に住める農夫の小女、大風雨中戸𨻶より窺ひ見ゐたるに、夜八ツ半<午前二時>過の頃、殊更に風強く吹来るに、五歳ばかりと見えし子の髪を被りたるが、両掌を組み交へて額に当て、地上八尺[やぶちゃん注:二・四二メートル。]余ばかり空中を走り行き、御殿跡の構の中に下りたる迄を見留めしと。何の妖なるにや。

[やぶちゃん注:この話は、「甲子夜話」「卷三十四」の「癸未風變」(「みずのとひつじふうへん」或いは「きびふうへん」:私の仮番号では正篇の「34-8」)と題する非常に長い記事(所持する『東洋文庫』版では(二段組)「329」ページ下段五行目から、「336」ページ下段十二行目までで、これを、本書のためにフライングして電子化する気には、ちょっとならない。そこで、まず、最初に、特異的に、その当該条のみを、ここで正字表現にして、以下に示すことにする。

   *

●又、小菅橋(こすげばし)の側(かたはら)に住(すめ)る農夫の小女(こをんな)、大風雨中、戶𨻶(とすきま)より、窺見(うかがひみ)ゐたるに、夜八ツ半過(すぎ)の頃、殊更に、風、强く吹來(ふききた)るに、五歲ばかりと見えし子の、髮(かみ)を被(かぶ)りたるが、兩掌を、組み交(まじ)へて、額(ひたひ)に當(あ)て、地上、八尺餘(よ)計(ばか)り空中を、走り行き、御殿趾(ごてんあと)の構(かまへ)の中(なか)に下(くだ)りたる迄を、見留(みとどめ)しと。何の妖(えう)なるにや。

   *

「文政六年八月十七日大風の節」これは、宵曲の注である。グレゴリオ暦一八二三年九月二十日で、この日の夜、江戸を大暴風雨(台風の直撃と思われる)が襲った。それは、『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 兩國河の奇異 庚辰の猛風 美日の斷木』にも、回想の形で、割注に『文政庚未』(文政六年)『の夜の大風雨の時は、その大きさ、醬油樽ばかりなる陰火の飛行せしを、まさしく見たる人あり。非常の暴風雨のときには、かならず、そのしるし、あることなるべし。』とあるのである。

「小菅橋」これは「御殿趾」というのが、ヒントになる。これは、源氏の東京拘置所敷地内にある「小菅御殿跡」(グーグル・マップ・データ)であろう。個人サイトらしき「Discover 江戸史蹟散歩」の「赤山街道 小菅御殿」に、『現在の東京拘置所一帯は、江戸時代前期に幕府直轄地を支配する関東郡代・伊奈忠治の下屋敷が置かれ、将軍鷹狩りや鹿狩りの際の休憩所である御膳所となり』、『その後、元文元』(一七三六)年七月、『井奈氏屋敷内に小菅御殿(千住御殿)が建てられ』たが、寛政四(一七九二)年、『小菅御殿は伊奈忠尊の失脚とともに廃止され、跡地は幕府所有地の小菅御囲地とな』ったとあり、『御囲地の一部は、江戸町会所の籾蔵や銭座となり、明治時代に入ると、小菅県庁・小菅煉瓦製造所・小菅監獄が置かれ』たとあった。橋名は見当たらないものの、この周辺(グーグル・マップ・データ)は、荒川と綾瀬川の合流点で、拘置所の殆んどの周囲部分は、嘗ては川及び河原か水路であるから、この名の橋があったとしても、一向おかしくない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「風雨異変」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「ひ」の部は終わっている。]

 

    

 

 風雨異変【ふうういへん】 〔耳囊巻二〕石川某、大御番を勤めし頃、いづれの宿にや、とまりけるに、風雨烈しく、殊の外あれけるゆゑ、主人よりもそれぞれ申付けぬるに、この宿のあるじ、当所はかゝる荒れの節は、外へは人を出し申さゞる事にて、人馬の賃銭さへ受取に参らざるなり、必ず御供《おとも》の面々も外出をとゞめ給へといふ故、二三人合宿なれど、銘々主人より用達《ようたつ》へ申付け、外出を禁じけるに、同宿の御番衆の家来中間用達へ、先刻建場(たてば)にて草履の銭を貸したり、取りに行きたき由を申すに付き、主人よりの申付けなれば、決してなり難しと申すを、承知なして、また候(ぞろ)来り、同様相願へども、なり難しと再々応《さいさいおう》さし留めぬれば、次の間の葛籠(つづら)など積みたる所に臥《ふせ》り居《をり》けるが、用達もの、渠《かれ》が様子心許《こころもと》なく、立廻り捜しけるに、最前臥したる所に見えざれば、所々捜しけれど見えざる故、亭主を呼び、猶(なほ)火をともし、隈々(くまぐま)を捜すに見えず。しかれば外へ出ぬらんと尋ねしに、亭主答へけるは、こよひの如く大荒れの日は異変ある事、この土地のならはしなれ、見給へ、口々には錠締りして、決して出給ふ事なりがたしといふ。さるにても不思議なりとて、猶火を燃し、くまぐま尋ぬるに、大戸締りあれど、右戸に一寸ばかりもあらん、ふし穴あり。その穴の辺より、そのあたり血流れたゝへ、節穴も血に染《そ》みけるゆゑ、扨(さて)は右の穴より引《ひき》や出《いだ》しけん。妖怪の所為なりと、いづれも舌をふるひ、恐れけるとなり。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳嚢 巻之九 其境に入ては其風をかたく守るべき事」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「貧乏神」 / 「ひ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「ひ」の部は終わっている。]

 

 貧乏神【びんぼうがみ】 〔譚海巻十二〕叔父壮年時昼寐せし夢に、乞食の如き老人繿縷(らんる)にて座敷に入り来り、直《ただち》に二階へ上《あが》りたると見たり。それより後《のち》、万事不如意なる事多くて過《すご》しけるに、四年をへてまた昼寐せし夢に、前年二階へ上りたる老父、座敷へ出て暇《いとま》を乞ひ、立去《たちさ》らんとせし時申しけるは、我等は貧乏神なり、四年以前この家に来りしが、只今出でさるなり、我等出で行きたる跡にて、焼めしに焼みそを少しこしらへ、をしきにのせ、うらの戸口より持出《もちいで》て、近き川へ流すべしと。また教へて云ふ、かまへて已来《いらい》焼みそを拵《こしら》ふべからず、貧乏神殊に好みたらむ物なり、生味噌食ふは殊に悪しく、味噌を焼くべき火の気《け》さへなき程の事なりと、語りて夢さめぬ。教への如くいとなみて川へ流せし、それより後《のち》窮迫の事なくてありき。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷十二 貧乏神の事(フライング公開)」を挙げておいた。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「灯を消す木兎」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 灯を消す木兎【ひをけすふくろう】 〔醍醐随筆〕筑後の国に住みける士の家に奇怪の事あり。広間に用心のため、夜は灯を有明にしてかゝげをくに、夜半人静まりぬる時、かならず消ゆるなり。主人従者のをこたりぬる事をいかる。従者ども油を多くたゝへ、灯心《とうしん》ふとく加へて守り居るに、夜半鶏鳴の比(ころ)ねぶり入らんとする時、ふと灯《ひ》消ゆるなり。これたゞごとにあらずといひのゝしる。その内にありける童《わらは》聡明つねならぬあり。今夜我ひとり灯を守らん、消ゆるいはれを知りなんと進み出《いで》ていひければ、主人その志をよろこびて、かれが望むにまかせぬる。かの童夜に入りたゞひとり灯の下にかりねして居り。もとよりすこしもねぶらざりけり。夜半すぐるころ童の声して、ばけものこそ捕《とら》へたなれ、人々来れとよぶ。従者どもはしり集まりてみるに、大《おほき》なる鴞(ふくろふ)なりけり。その来《きた》る所をもとむるに、ふるき家のすみ荒したるなれば、屋根もくつけて破風《はふ》のあたりやれたりけるより入りて、天井の中にすみけるが、鼠を捕《とり》て食《しよく》せんとて、夜《よ》しづまりて後《のち》、天井のやぶれより広間へとび入る時、羽風《はねかぜ》にて灯をうち消すなりけり。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る。左ページの下段最後から四行目から次のコマにかけてである(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。

「木兎(ふくろう)」という宵曲の標題の漢字とルビは甚だ気に入らない。この漢字は、「兎」で判る通り、鳥綱フクロウ目フクロウ科 Strigidaeの内、羽角(うかく)を持つ「みみづく」を示す熟語だからである。対して、本文中の「鴞(ふくろふ)」は広義のそれを指すから問題ないのである。特に宵曲は俳人でもある。歳時記書いてたら、嘲笑されるレベルだぜ。

「くつけて」「けて」の部分は不審だが、「朽つ」で、「腐ってしまって」か。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「琵琶湖の大鯰」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 琵琶湖の大鯰【びわこのおおなまず】 〔甲子夜話巻四十八〕今玆《こんじ》三月の末、江州の琵琶湖に巨《おほき》なる黒魚《こくぎよ》浮みしを、漁人もりにて突きければ、俄かに風濤起り、湖色冥晦《めいかい》せしまゝ恐れて舟を馳せて避け還り、その事を説《くど》く。因《より》て数口《すくち》の漁夫言ひ合せ、その翌日風収まり、波穏かなるを待ちて窺《うかが》ひしかば、また昨《きのふ》の如く魚現れしを、多くの舟取捲《とりま》きて、一度に数十《すじふ》のもりを突きて魚死たり。打寄《うちより》て見るに、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]余もある老《らう》鰋<なまづ>なりしと。廼(すなは)ち大網を以てやうやう陸に牽上《ひきあ》げたるを、その辺の豪民買ひ取りて膏《あぶら》を取りしに、夥しき斤両《きんりやう》[やぶちゃん注:重量。]を得たりと。鰋の腹中に髑髏(どくろ)二ツに小判金八十余斤片ありしとなり。いつの時か溺死の人を食《しよく》せしなるべし。従来秋の頃大《おほ》しけする時は、黒き物湖中に見ゆるを、土俗これを黒竜なりと云ひ伝へたり。これに於て始めてこの鰋なることを知る。これ迄天気晴朗のとき見えたること無きに、今春時候常を失し、世上流行病《はやりやまひ》ありて、地気(ぢき)も亦(また)変ありと覚しく、この鰋も時に非ずして浮みたるなるべし。(この頃《ごろ》東都にも各所の池の鯉鮒等、頻りに水面に浮めり)これ時に非ずして出《いで》たるより、漁人に獲られける。万物ともに数《すう》あることなるべし。(林《はやし》話)

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷四十八 11 琵琶湖の巨鰋」を公開しておいた。本篇の内、「金八十余斤片」とあるのは、原文では、『金八十餘片』である。原本の誤植であろう。残念なことに、底本だけでなく、『ちくま文芸文庫』でも誤ったママである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「屛風画の女」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 屏風画の女【びょうぶえのおんな】 〔落栗物語前編〕勧修寺《かじゆうじ》宰相家に、古き屛風の有りけるを、いつのころよりか、物のうしろに押やりて用ふる事もなかりしに、或時穂波殿の侍所《さむらひどころ》より屛風やある、かし給へといひおこせしに、取出《とりいで》て見れば、女の多く寄《より》て居《を》れる様を絵に書きたり。縁《ふち》そんじ紙破れて、あさましくなりたるを、その儘(まま)にて借り、その夜穂波殿のはした者[やぶちゃん注:「端者」。召使の女。]、坪の内にてあやしき女の子抱《いだ》きたるに行《ゆき》逢ひ、驚きおびえけり。物おぢしてのそらめならんと、人々笑ひ居《をり》たるに、それより夜毎に出《いで》て、人々の眼に見えければ、怪しみてその行《ゆく》かたを見するに、かの屛風のあたりにて見失ひければ、さてはそれがわざなめりとて、屛風を勧修寺の家にかへしつ。取納めんともせず、そのまゝあたりに置《おき》けり。その夜より勧修寺殿にも人のおびゆる事ありけるに、ある一人の小侍、かの屛風を見ていふやう、このごろ御内《みうち》の人の怪しみあひける女は、この絵の内にこそあれとて、かたへの人を呼びて見するに、実(げ)にも夜な夜な見し如く、子抱きたる女あり。怪しがりてその絵のかしらに細き紙を張《はり》て置きければ、その夜よりは先《さき》の女、頭《かしら》に紙の付きたるまゝにて、壺前栽《つぼせんざい》の内に遊び居たりける。さればよとて、そのよし宰相殿に申しければ、絵師を召してかの屛風を見せ給ふに、皆々驚きて、これは土佐の光起(みつおき)が筆にて、めでたく書きなせしものなれば、さる奇異の事もありしならんと申しければ、それより深く秘蔵し置かれけるとぞ。

[やぶちゃん注:「落栗物語」は豊臣時代から江戸後期にかけての見聞・逸話を集めた大炊御門家の家士侍松井成教(?~天明六(一七八六)年)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第一 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正字表現で視認出来る(左ページ上段五行目以降)。

「勧修寺宰相家」公家に興味はない。ウィキの「勧修寺家」でも何でも見られたい。

「穂波殿」藤原北家勧修寺流庶流の公家穂波家。ウィキの「穂波家」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「姫路城の妖魅」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 姫路城の妖魅【ひめじじょうのようみ】 〔甲子夜話巻三十〕世に云ふ、姫路の城中にヲサカベと云ふ妖魅《えうみ》あり。城中に年久しく住めりと云ふ。或ひは云ふ、天守櫓の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度その城主のみこれに対面す。その余は人怯(おそ)れて不ㇾ登。城主対面する時、妖その形を現すに老婆なりと伝ふ。予<桧浦静山>過ぎし年、雅楽頭忠以(うたのかみただつね)朝臣にこの事を問ひたれば、成程世には然《しか》云ふなれど、天守の上《うへ》別に替ることなし。常に上る者も有り、然《しか》れども器物を置くに不便《ふべん》なれば、何も入れず、しかる間常に行く人も稀なり、上層に昔より日丸の付たる胴丸一つあり、これのみなりと語られき。その後《のち》己酉の東親《とうきん》[やぶちゃん注:参勤交代のこと。それ自体を「參覲交代」とも書いた。「覲」は「御目見えする」ことを指す。]、姫路に一宿せし時、宿主にまたこの事問ひければ、城中に左様のことも侍り、此処にてはヲサカベとは不ㇾ言、ハツテンドウと申す、天守櫓の脇にこの祠《やしろ》有り、社僧ありてその神に事《つか》ふ、城主も尊仰せらるゝとぞ。 〔筱舎漫筆巻五〕世にをさかべの神といふが、姫路の天守の上の壇にすめるよしいへるは、うきたることかと思へば、さにあらず。いまも上のだむ[やぶちゃん注:ママ。「壇」。以下同じ。]はまくらにて、人上ること得ずとぞ。社は城内にありて、つねに祭りおこたらずとぞ。女神のよし、天守の上のだむは六畳敷となん。木下秀吉の作りしなるべし。<『甲子夜話続篇巻八十』にも亦この事がある>

[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話巻三十」のそれは、南方熊楠「人柱の話」(「南方閑話」版・初出稿・PDF縦書版。注はなし。ブログ分割版で注附きのものでは、『「續南方隨筆」正規表現版オリジナル注附 人柱の話 (その6)』が、それ)の注に必要となったため、「フライング単発 甲子夜話卷之三十 20 姬路城中ヲサカベの事」として二〇二二年九月に既に公開してある。

「筱舎漫筆」(ささのやまんぴつ)は「牛と女」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第二巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字で当該部が視認出来る。標題は『○をさかべの神』である。

「甲子夜話続篇巻八十」のそれは、先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「長壁神」』に載るのだから、そちらを「見よ注」すべきで、極めて不親切で、不愉快極まりない。正字のそれも、「フライング単発(部分) 甲子夜話續篇卷之八十『寬政紀行』の内の寛政十二年十一月五日の姫路での記事」で公開してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火防の神」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火防の神【ひぶせのかみ】 〔譚海巻六〕遠州秋葉山<静岡県浜松市>権現は火防(ひぶせ)の神なり。霊験掲焉(けちえん)なる事、口碑に伝ふる事多し。本坊に滞留の客常にたゆる事なし。それに饗する飯をば大釜にて焚くに、竃(かまど)も大なれば、山中より伐り貯へたる材木を丸樹のまゝにて焚くなり。飯出来れば長き鉄のまたふりにて、余燼の木をかきいだし、そのまゝ消《きえ》もやらぬを縁の下へ突入(つきい)れ置くに、おのづから火消えて、敢《あへ》て火災ある事なし。往古より然り。房中の座敷幾所にも一宿の旅客あるに、山中寒ければ座敷ごとにゐろりを構へ置きて、それへ台所より燃えくひのまゝを、重能《ぢゆうのう》に山の如く盛りて持てはこぶ。長き廊下など通りて遠き座敷などへ持行《もちゆ》くには、重能の火こぼれて、所々の座敷の畳の上にあれども、畳やくる事なし。重能を持帰るたよりにみれば、こぼれたる火ことごとく消えてあるゆゑ、手にてひろひ集めて重能に入れ帰るなり。その外《ほか》房に続きて、諸職人長屋だて続けたる大なる宅有り。それに諸職人住居して、鍛冶《たんや》、桶類・家具・諸雑器等を日々にこしらふる事なり。その職人等、昼は一日所作をなして、その部屋に人々薪材木をゐろりにたき、おもふまゝにあたゝまりをり、夕《ゆふべ》になれば所作を仕舞《しまひ》て房へ食事に行き、そのまゝ房に寝る事なるに、我部屋に夥しく焼捨てたる火を、消しもせず打捨て出で行くとも、その跡にて火おのづから滅して、失火ある事なしといへり。また毎年霜月<十一月>十六七日には火防の祈禱あり。かねて近在の僧徒、この役に候(こう)する例ある者共、数日《すじつ》別火潔斎して、その日に会集するなり。秋葉山の坊は洞家[やぶちゃん注:曹洞宗。]の禅宗なれば、みなその宗門の僧徒あつまるなり。黄昏より祈禱の修法《しゆほふ》はじまる。火を夥だしく盤に盛りて、その中へ誦経しながら火防の札を打入れ、長き鉄のまたふりにてかきまはし念呪するなり。この札この如く、火中にあれども、一枚も焼くる事なし。翌朝までそのまゝ置きて、火消えて後、冷灰の中よりこの札をひろひ出し、櫃《ひつ》にたくはへ置きて、一年の内参詣して札を乞ふ者に与ふる事とす。もつとも奇特ある事といへり。秋葉山遠州にある事に称すれども、その山は三河と遠江とに属して境内は二州にまたがりたる所なり。されば本堂は同じ山中ながら三河に属し境内は多分遠江に属せりといへり。堂の大きさ浅草観音堂<台東区浅草にある>の如しといヘり。それより八町奥に奥の院といふあり。本堂までは男女参詣すれども、奥の院へは女の参詣を禁ず。殊に深山にして、しばらくも長く留《とどま》りがたき、恐ろしき気味の所なりとぞ。本堂常には昼夜にぎはしければ、さにあらねども、霜月火防の祈禱の夜は何となく恐ろしく、修法に供する人の外は留宿《りうしゆく》するものなく、御供米《みくましね》をいたゞきて皆下山する事といへり。又この奥の院の外に、三里奥山中に別社あり。これはまことに非常の人のまれにいたるばかりにて、参詣するものもかねて潔斎精進して、先達をたのみて参詣する事とぞ。その道もおほくは懸崖絶壁にして、瀑水のそゝぐ所などをも、よけず過《すぐ》る所おほしとぞ。本堂よりふもとの町家へ下るに、表門は五十町、うら門よりは七十町あり。毎夜下山する人絶えざれば、本坊にて提灯蠟燭を借《か》す。らふそくは廿匁懸《がけ》ばかりのもの二挺《ちやう》づつ給《きふ》するなり。あたひも何ほどにてもかまはず、参詣の人の心次第に奉るなり。この裏門おもて門ともに、道の遠近異なれども、らふそく二挺にて、いづれより下山しても、宿まで火消《きゆ》る事なく、また二挺をはぶきて一挺にても火消る事なし。これを眼前のふしぎといひ伝ふる事なり。一挺にて下山せしものの、七十町の道を下り尽し、町家の宿へいたりてその火消さんとせしに、宿の亭主、山にて借り来り賜ふ火ならば、けさでもえ尽《つき》るとて、そのまゝあれといひければ、洗足《せんぞく》などして座敷へ入り、その提灯のまゝ座敷の長押《なげし》にかけ置きたるに、しばしありてらふそく燃えつきて消たりしが、消《きゆ》るとき下より人の火をおしあぐる如く、短かきらふそくの、提灯のふたの口まで、ばと燃えあがりて消たるをみたり。かゝるふしぎなる事はなかりしと、その人の語りしなり。

[やぶちゃん注:これは事前に「譚海 卷六 同國秋葉山權現の御事(フライング公開)」として公開しておいた。但し、当該条の終りの部分が、有意にカットされているので、見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火の玉」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火の玉【ひのたま】 〔春波楼筆記〕今より二十七八年も過ぎし事にて、芝愛宕<東京都港区芝内>の下に村尾権之助とて、小十人組にて、居宅を椛町《かうぢまち》法眼坂《はふげんざか》<千代田区内>に、人の半ば建てたる家を買ひ取り、また建てたして住みけるに、小身なる者故に、権之助夫婦と嫡子二十三歳、弟は十三四にて、下女一人仕ひけるが、ある時、五月淋雨(りんう)[やぶちゃん注:以下に示す活字本では『五月雨(さみだれ)』となっている。]、日々降りける時、日暮下女泣きて曰く、今引窓を火の玉飛びけりと云ふ。皆聞きて誠なりとせず。その翌日も雨降り、三男玄関の後《うしろ》に部屋を造り、爰《ここ》に書を読み居《ゐ》ける時、日も暮れかゝりける故、障子を開き見れば、長《たけ》一丈ばかりに見えて、白髪を乱し、眼《まなこ》は金《かね》の如く、手に火の玉を持ち、腰切《こしぎり》の衣を著《き》、だんだんと進み来《きた》る。彼《か》の童子脇差を以て貫き打ちにしけり。夫《それ》なりに気絶しぬ。その音に皆々おどろきて行き見るに、鞘は手に持ち脇差の身は向うへ投げたり。何故《なにゆゑ》と問ふに、右の如く咄しけり。この庭は法眼坂の下にてがけなり。普請の時、狐の穴ありしを埋めしに、必ず古狐《ふるぎつね》のしわざならんと、その翌日吾宅へ父子ともに来たり。直《ぢか》に化物に出逢ひし者に聞きしは初めてなり。

[やぶちゃん注:ここは一字空けで、次の別な書からの引用が続いているが、本篇は多数の話をカップリングしていて、非常に長い(底本三段組みで約五ページ分になる)ため、改行し、注を挟む。以下同じ処理をするので、注さない。

「春波楼筆記」本書では初出。江戸後期の画家で蘭学者としても知られる司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)の晩年六十五歳の時に刊行された随筆。稿自体は文化八(一八一一)年四月から十月にかけて成った。江漢その人が、和漢洋の学に通暁した当時第一級の知識人であったため、その該博な知識が、熟年の思考の中で見事に結実している。全体が長短二百十余の節からなり、江漢の自叙伝・人間観・人生観・社会観等をはじめ、「西洋創世紀」の抜き書き、「伊曽保(いそほ)物語」の引用など、幅広い西洋文化受容の初期的形態が窺われ、興味を惹く。本書は早くに『百家説林』や『有朋堂文庫』に収められ、読者の注目を集めた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの『名家随筆集』下(大正三(一九一四)年有朋堂文庫刊)のここで、正字表現で視認出来る。

「芝愛宕」「東京都港区芝内」この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「椛町法眼坂」現在の南法眼坂。]

〔甲子夜話巻七〕天明の末、京師大火せしとき、延焼して禁闕《きんけつ》<皇居の門>に及ばんとす。乃《すなは》ち遷幸あらんとして、姑(しばら)く鳳輦(ほうれん)を見あはせられしに、四面の火燼《くわじん》湧くが如く、その中《なか》大きさ毬《まり》の如く火《ひ》何方《いづかた》よりか飛び来《きた》る。公卿皆危ぶみ看(み)る中《うち》に、その燼、内侍所(ないしどころ)の屋上《やのうへ》に墜ちんとして、屋上いまだ三四尺なる程にて、砕けて四方に霏散(ひさん)せり。諸卿これを見て、則ち宸輿(しんよ)を促して宮廷を出《いだ》させ玉ひしとなり。時に皆曰く、これ内侍所の神霊の所為なるべしと。嘗て目撃せし人より所ㇾ聞《きくところ》を記す。

[やぶちゃん注:私の「甲子夜話卷之七 19 禁裡炎上のとき内侍所神異の事」を見られたい。]

〔折々草秋の部〕庚寅<明和七年>の七月十まり八日[やぶちゃん注:「まり」は「餘(あま)り」の略。明和七年七月十八日。閏六月があったため、グレゴリオ暦では一七七〇年九月七日である。]の夜、戌《いぬ》の三つ[やぶちゃん注:午後九時頃。]ばかり、西の方《かた》より丸き二咫(ふたあた)ばかりなる火の玉の飛出でて、北東をさして行く。月の影のいと白くてあるに、これが光ぞ殊に明《あか》く照り満ちて、塵埃(ぢんあい)だに見えわきつゝ。かゞよひわたりて通りける。さてこれを見しとふ人々ぞ己《おの》が向き向きなる。或人は北野<京都市上京区>の方《かた》より光り出でて、室町の一条辺に落ちたりともいひ、或人は堀川の二条辺より飛上りて、寺町東に落ちたりなどもいふ。おのれ等は何にかは紛れて見ざりき。また鴨河の辺より見し人は、唯《ただ》東を指して比叡《ひえ》の山をも飛超えて通りつなどもいふ。その後《のち》我友なる石川何某《なにがし》が語りき。この人はその頃伊勢の菰野《こもの》<三重県三重郡菰野町>[やぶちゃん注:鈴鹿山脈の東山麓。三重県三重郡菰野町(こものちょう:グーグル・マップ・データ。以下、無指示のものは同じ)。]に行きてありしに、かの光る物は、戌の三つばかりならむ、西北の角(すみ)より飛出でて、地よりは十丈《とつえ》ばかりも空を北東に向ひて飛行《とびゆ》く。その月夜明かりしが[やぶちゃん注:所持する「新日本古典文学大系」版(後注参照)では『其夜月あかゝりしかば』。]、人みな寝(い)ねがてにして、外に立ちて遊び居りし程に、大方の人は隈《くま》なく見き。殊にゆうゆう[やぶちゃん注:同前では、『ゆらゆら』。]と飛行きしかば、つらつら見しといふ。さてその向ひたる大さは菅笠ばかりなり。横様に見し時は、炎《ほのほ》のひらひらと燃えて侍《はべ》りしは、太き薪《たきぎ》の末に火附きて侍るばかりに見えしとぞ。人皆怪しと見るうちに、遙かに飛過ぎて北山の根方《ねかた》に落ちたる様に見ゆ。さて暫時して、どゝと鳴る声の反響(こだま)の様《さま》にてどよめきわたれり。これ必ず彼《か》が落ちたりし時の響《ひびき》なりけん。世に斯く光るものは稀々(まれまれ)飛歩《とびあり》く物なれど、斯く奇《く》しき光物《ひかりもの》は見も聞きもせぬ事と、口々に言ひて寝ねつ。然して翌々日の日、同国なる桑名<桑名郡[やぶちゃん注:現在は三重県桑名市。]>の方《かた》より人来りて語る。一昨日《をとつひ》の夜の光物ぞ怪しかりつる。西北の隅より照り通りて侍るが、太度山《たどやま》<桑名市内>[やぶちゃん注:多度山(たどやま/たどさん)。ここ。]の岸《きし》の方[やぶちゃん注:「岸」は崖(がけ)。但し、同前で『峰方(ネカタ)』となっている。]に落ちたりし。さる時ぞ、いと恐ろしき響《ひびき》にて、御山《おやま》は吼(ほ)え轟(とどろ)きぬ。また昨日《きぞ》の朝《あした》になりて見れば、その御山の半(なから)ほどに、九尺(ここのさか)まりにて立てる石の、打破《うちわれ》れたる様《さま》になりて下を指して辷《すべ》り落ちたり。また御宮(おほんみや)[やぶちゃん注:多度神社。]どもはその下に立ちませば、これが落ちかゝりたらむに、一つも残るべきものあらず。さるを神のしたまふならむ、御宮の上の方《かた》に周囲六寸ばかりにて、かすかなる樫の木の侍るに、その大きなる石は懸りて止《とま》りぬ。山は級立(しな《た》)てり[やぶちゃん注:「急な傾斜地に立っている」の意。万葉語。]。木はいと弱し。石は重く侍るに、斯く止りてむことに侍らず。先づこれを異霊(くすしみ)[やぶちゃん注:「奇怪さ」を言う万葉語。]の一つとも、また二つにはその石の辻り落ちたる下より、いと古くて太刀とおぼしきが一振、斧と見ゆるが一柄《から》、陶《すえもの》の皿杯《さらつき》[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注に『造語か。「平杯(ひらつき)の意で、平皿をいう』とある。]十枚(とひら)まり二つ、花瓶《はながめ》にかと見ゆるもの一つ、また銹朽《さびく》ちては侍れど、鏡《かがみ》とおぼしきもの、二寸三寸侍るもの、廿《はたち》まり一つぞ出でたる。いづれも今の代《よ》に作れる物の形には侍らず、さる上は、そこの祝子達(はふりこ《たち》[やぶちゃん注:「こ」はいらない。「新日本古典文学大系」版でも「こ」はない。神官たち。])も捨置き難き事に思ひて、詳(つばら)に有様を桑名の守に申し、窮《きは》めしめたまふべき御使《おつかひ》[やぶちゃん注:高田先生は注で、『監察人としての』『寺社奉行か』とされておられる。]をたまへと聞え侍るに、使[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版では『御使』。]来りて熟〻(つらつら)打見《うちみ》[やぶちゃん注:「打」は強意の接頭語。]、後《あと》はとあれかゝれ、今の間《あひだ》は普(あまね)く人にな見せそ、祝子が蔵に秘め置きたまへとて帰りける由なり。この太度山といふは、桑名の国府《こふ》よりは北にあたりて、いと高きが侍るこれなり[やぶちゃん注:多度山の標高は四百三メートル。]。昔は伊勢の大御神《おほみかみ》[やぶちゃん注:天照大御神。]、此所《ここ》にしばし鎮座ましける由など、所には言伝へ侍る。また一目竜《いちもくれん》と称(たた)へ神なむこの御山の主《あるじ》にておはするよし、これは生《い》ける神にておはせば、折々飛歩《とびあり》きたまふなり。さるは或時は風を起し雲を巻きて、照りかゞよひたまふに、これに逢ひまゐらせては、舟をも傷(そこな)ひ屋(いへ)を破られなどするものいと多けれど、よく人の祈る事を聞《きこ》しめして、田畠《たはた》の時をも失はせじと、雨につけ日につけて、さる護り著しくおはす程に、人皆これを尊《たふと》み奉る由なり。さるはかの光りて飛びし物も、一目竜にておはしけめと、所の人々は言へりけり。またかの樫《かし》の細枝《ほそえ》に止《とま》りて侍りける石の如何にも危《あやう》く、今にも落ち下るべく見えつるに、取除けむ方便《てだて》なくて、祝子等《はふりら》祝詞《のりと》申して、神の御心を問ひ奉りしに、これは唯《ただ》直《なほ》に上の方《かた》へ押上げよ、事もなく旧(もと)の如くならむと、神懸《かみがか》りて教へたまひしかば、多くもあらぬ人に押上《おしのぼ》せたれば、軽《かろ》らかにていと易く上りて、旧の如く据(すは)りけり。石は二つに破《わ》れつると見えしかど、二つ並びて押立つる石の、九尺《ここのさか》ばかりなる片方《かたかた》が、さる響《ひびき》につれて辻り落ちけるなりしと言へり。さてその下より出でつるものは、宝物《たからもの》にして、祝子が許《もと》に秘め置き侍れど、さる故《ゆゑ》有りて普く人に拝ませじといふなる。

[やぶちゃん注:「折々草」俳人・小説家・国学者にして絵師で、片歌を好み、その復興に努めた建部綾足(たけべあやたり 享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年:津軽弘前の人。本名は喜多村久域(ひさむら)。俳号は涼袋。画号は寒葉斎。賀茂真淵の門人。江戸で俳諧を業としたが、後、和歌に転じた。晩年は読本の作者となり、また文人画をよくした。読本「本朝水滸伝」・「西山物語」や、画集「寒葉斎画譜」などで知られる)の紀行・考証・記録・巷説などの様々な内容を持つ作品である。明和八(一七七一)年成立。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十一巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正規表現で視認出来る。標題は『○連歌よむを聞て笑らひしをいふ條』である。私は「新日本古典文学大系」版(一九九二年刊)で所持し、これは宵曲の見たものとは、版本が異なるらしく、各所に表記上の異同があるが、読みがかなりしっかりと附されてある(ひらがなになっている箇所も多い)ので、それを積極的に参考にして読みを振った。そもそも、宵曲は建部綾足が非常に気を使って使用している古語(万葉時代の古訓)をちゃんと添えておらず、極めて杜撰な引用となってしまっているのには、正直、大いに失望した。ために私の読みは異様に増えている。以下の注もそれ(高田衛先生校注)に多くを拠った。なお、宵曲の拠ったのは、リンク先のもので、「新日本古典文学大系」版(愛知県立大本)とは別底本(日本随筆大成刊行会蔵本)であることも判った。この怪光現象を含む奇談は、怪奇談に対しては強い懐疑主義者である建部綾足が、珍しく、実話と断定している点で、極めて興味深い実話である。しかも、この隕石落下と思しいそれは、渡邉美和氏の論文「長良隕石の落下情報に関する考察」(第五回『歴史的記録と現代科学』研究会・ 二〇一八年三月二十四日開催:PDF)の中で事実検証されてあった(リスト・ナンバー「29」から「32」まで)。「29」は、異『音』が聴取されており、『岐阜』の現在の『中津川市』(ここ)、『明和七年六~八月』、西暦一七七〇年六月二十三日から九月十八日相当とあり、引用元は「歳代記」で、『六月朔日ヨリ八月迄大日照、ヒカリモノ東ヨリ西江飛、啼音雷ノコトク皆人不思議ナス、閏六月田畑万作、七月廿八日酉三時ヨリ天赤キ事火之コトク、戌亥方ヨリ赤ミサシ次第ニ赤ミマシ亥三時甚シク、巾一尺計ニテ向キ■スシ成物入り、明方卯之方ニ廻り終、前代未聞之コトナリ』とある(「■」はママ)。「30」は、『岐阜』の現在の中津川市『福岡町』(ふくおかちょう:ここ)、『明和七年七月十八日』、西暦一七七〇年九月七日、引用元は「田瀬村諸事留書帳抜書」で、『(前略)同年七月十八日夜六半頃、光り物西へ飛、同月廿八日夜、北之方天赤キ事朱之如ク、其中に白気相見へ暁方より相見へ不申、翌夜ハ常之通御座候』とある。「31」は『岐阜』『瑞浪市』(ここで、「30」と同じく『明和七年七月十八日』(西暦は同前)。引用元は「渡辺家覚書」とあり、『同十八日宵、光り物未申より丑寅の方へ通ル』とある。「32」は『岐阜』『山岡町』(やまおかちょう:ここの広域)で、引用元は『釜屋庄屋年代記』で、『其の後七月下旬に朝日へほし入る。七月十九日夜六つ半時に、南より北の方へひかり者通る。ゆうだちとくなり村々へ落ちたる様に見え候。』とあった。素敵!!!

「二咫(ふたあた)」「咫」(あた)は略して「た」とも読む。本邦の上代の長さを測る単位の一つで、親指と中指とを広げた長さを指し、「わずかの距離」の意もある。因みに、音は「シ」で、漢語としては、周代の長さの単位で、約十八センチメートルであり、本邦とは異なるので注意が必要である。

「一目竜《いちもくれん》」この読みで知られ、「一目連」「一目龍」とも表記する。先行する『柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一目連」』の私の注を参照されたい。]

〔猿著聞集巻二〕えど鎧《よろひ》[やぶちゃん注:「鎧河岸(よろひがし)」のこと。現在の中央区日本橋小網町(グーグル・マップ・データ)。]のわたりを舟に乗りけるとき、申(さる)の刻[やぶちゃん注:午後三時から午後五時。]ばかりにやありけん。丑寅(うしとら)の方より未申(ひつじさる)のかたへ[やぶちゃん注:東北から南西へ。]、大いさ三尺ばかりなる火の玉のごとなるもの、中空を飛びゆきけり。人々驚ろき、いかなるものにかありつらんなど、物語らひつゝ向ひの岸にのぼりけるとき、未さるのかたにあたりて、山の崩るゝばかりなる音の、おどろおどろしくぞ聞えたる。このとき人の家居の戸など、ごほごほとなり動きける。西の方にあたりたる鄙《ひな》には、さうじ[やぶちゃん注:「障子」。]など破れけるところもありとこそ聞きつれ。さてのち十日ばかりへて、ある旅人のいひける。八王子<都下八王子市>のほとりの何がしとかいへる人の庭に、金銀のいさご打まじりたる大いなる石のやうなるものゝ、空より落ちて砕け散らぼひたる。地もくぼまり、そこかしこ破れ、近きわたりの家ども、みな傾ぶきたるとぞいひし。いかなるものにかありけん、いと怪し。さはれ八王子のことは人のいひけるを聞きしなれば、いかゞならんか知らず。火の玉の飛びけるは、江戸人のおほく見しことにて、今よりは十とせあまりさきのことになんありける。

[やぶちゃん注:「猿著聞集」は既出既注だが、再掲すると、「さるちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。生没年不詳(没年は明治二(一八六九)年以降とされる)の江戸後期の浮世絵師で戯作者でもあった岳亭春信が、号の一つ八島定岡(ていこう)で、鎌倉時代、十三世紀前半の伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集「古今著聞集」を模して書いた随筆。文政一〇(一八二七)年自序。当該話は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで、正字の本文が視認出来る。標題は『火の玉空中をとびし事」。]

〔翁草巻百二十六〕余<神沢貞幹>この年頃、格別の怪異を見ず。一度不審なる事ありき。早春六日の夜、或人の許にて謡曲の会有りて、余も行きぬ。列席酒闌《たけなは》に及び、四更<真夜中>の頃に至り各〻退散す。余も独り庵に帰りて、戸を叩けども、丑三ツ過《すぐ》る頃なれば、内にはいたく寝入りて、答(いらへ)も遅し。暫し戸外に彳《たたず》み居《を》る内に、ふと後《うしろ》を見れば、月影さやかに両側の軒端《のきば》を照《えら》し、見るが内に東側の軒の影、斜めに道路へ指し出《いづ》る。頃しも上旬の月、今頃有るべきに非ず。不思議なる儘(まま)に、道の中央に出《いで》て、四方の空を眺むれば、上の町の西側の棟より少し上の方に、火の玉有りて、東の方へ行く事徐《おもむろ》にして、凧《たこ》などの風に漂ひ行くがごとし。その光りにぞ有りける。須臾(しばらく)にしていづれへか彼《かの》玉行くとみれば、もとの常闇(とこやみ)となりたり。凡そ天火《てんび》光り物のたぐひには、いさゝか音有りて、その飛び行く事も疾(はや)き物なりと聞き伝へぬるに、彼の玉は徐々《じよじよ》として音もなく、世に云ふ人魂《ひとだま》ならめと思へども、さ有らんには二三町が間に影さすべくもあらず。兎角する間に内より戸を明けたるまゝに、不審晴れやらぬながら内へ入りぬ。その後右途中にて別れたる人々に、かやうの事こそ有りつれ、見てしやと尋ぬれども、一人も見ずと云ふ。この事今に至つて解《げし》がたし。

[やぶちゃん注:後者の「翁草」は「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂十三(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『怪異』。]

〔甲子夜話巻八〕吾が永昌寺の隣の宗源寺の住持を順道と云ふ。肥前佐嘉領の人なり。永昌寺に語れりとて聞く、佐嘉にては時として天より火毬《ひまり》降ることあり、里人テンビと謂ふ。(テンビは天火なるべし)火毬おつると地上を転ず。人これを視れば即ち簇(むらが)り逐《お》ふ。逐ふとき念仏を高唱す。逐へば乃(すなは)ち回転して逃るが如し。因て郊外に逐ひ行きて、野に転《ころ》び入れば災《わざはひ》なし。逐はざれば人家に転び入《いり》て火を発すと云ふ。奇なることなり。[やぶちゃん注:これは巻数が誤り。「巻九」が正しい。事前に「フライング単発 甲子夜話卷九 3 肥前佐嘉にては火毬降ることある事」を公開しておいた。]

〔異説まちまち巻三〕佐藤五郎左衛門語りけるよし、上州厩橋<群馬県前橋市>にての事なりしに、殺生を常に好みて、毎日々々山へ行きて猪鹿など打《うち》て楽(たのしみ)とせり。甚しきにいたりて、三年がほどは宿《やど》にゐる日とてはなく、毎日山へ行きにけり。山に鹿小屋《ししごや》をかけて、夜をまたおもとせり。或時常に連れける草履取を連れて、かの山の小屋へ行きて鹿を待ちけるに、その夜しも暗(やみ)にてあるに、少しの物も見えず。夜半の頃になりて、かの侍、草履取に云ひけるは、今夜はいさゝかの得《え》ものもなし、いかなる事にや、いと淋しく覚ゆるなり、今夜は空しく帰らんといふ。草履取もいと淋しく覚ゆるなれば、かやうの時には何もあるまじ、先づ帰り候はんとて、両人帰り支度をしけるに、山の奥よりざわざわとなるをと[やぶちゃん注:ママ。]の聞ゆるまゝに、見やりたれば、大きなる火の玉、かの小屋に向ひてころび来れり。闇なりしに、その火のあかりにて、蟲[やぶちゃん注:ママ。]の這ふも見ゆるばかりにあかくなりぬ。両人きつと心付けあひて、かの主人、とがり矢をつがひて射たりければ、火の玉にあたりて、鉄丸《てつぐわん》などを射るがごとき音して、火も消えてまたもとの暗やみとなりぬ。両人かゝることありては、得ものいよいよ有るまじとて、連立《つれだ》ちて宿へ帰りけるに、家内の者両人を見て、甚だうろたへたる体《てい》にて、しかじか挨拶もなし。はげしく物いひかけたれば、御袋様怪我なされたるといひけるゆゑ、母の部屋へ行きて見たれば、屛風を建てうめきゐたり。そのかたはらに、かの山にて射たりしとがり矢建て掛けて有り。血したゝりぬ。かの侍、草履取と目くばせして、屛風押倒して両人にて強く押へければ、暫くはうめく音しけるが、音なくなりたれば、屛風をのけて見けるに、夜著計(ばか)りにて何もなし。家内の者を尋ねけるに、一人も家内の人なかりしとなり。奇怪の物語りなり。この事を直方評せられて、常に殺生にのみ心ありて、山にのみ心有りて、家内に心なし。それゆゑに山中の気こなたへ入りて、家内の者はとくに失ひたるなり。その夜はかの主人を亡《ほろぼ》さんとしたれども、勇気にくだかれぬ。あまりに物を好みて、魂をうばはれたると評せられし。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る。

「上州厩橋」「群馬県前橋市」前橋は戦国時代には「厩橋」という地名で、江戸時代に前橋に変えたため、江戸時代の書でも旧名で出ることが、かなり多い。

「直方」佐藤直方(慶安三(一六五〇)年~享保四(一七一九)年)は儒学者。通称は五郎左衛門。当該ウィキによれば、『学問を志して京に昇り、山崎闇斎の門に入って研鑽を積み、知識を深め』、『浅見絅斎』・『三宅尚斎と並び』、「崎門の三傑」と『称されるほど台頭したが、闇斎が唱えた垂加神道に批判的であったことから袂を分かち、江戸へ』上り、『後、福山藩や』(☞)『厩橋藩主酒井忠挙などに招聘され、講釈に励んだが』、享保三(一七一八)年には『致仕して神田紺屋』町に『居住し、翌年』、『唐津藩主土井利実に講釈を行いに赴く道中』、『発病して倒れ、翌日』、『没した』とある。作者和田烏江(正路:生没年未詳)との関係はよく判らないが、同書のここ(左ページ後ろから八行目からの条)に、作者の父に彼が語った幼少期の話(作者の母のまた聴き)が載る。相当に和田より年齢が上だが、或いは、本篇を読むに、最晩年の佐藤と実際に触れあうことがあったとしか読めない。]

〔寛政紀聞〕七月<寛政十年[やぶちゃん注:一七九八年。]>初め頃、快霽(かいせい)うち続き、残暑以ての外烈《はげ》しく、夜分に至り候得《さふらえ》ば、火毬飛行《ひぎやう》致し、往来の人々多く見当《みあた》り候、荻原𬫴太郎殿も小石川<文京区内>にて見受けられ、またまた竜慶橋へ渡りかゝられ候節、横丁より一ツ飛出《とびいで》し候由、この節自分庭前の将几(しやうぎ)に涼み居候所、隣家の境へ火玉《ひだま》落ち、見る間に消失《きえう》せ申候。また去月《きよげつ》廿三日夜、筑土下《つくどした》<新宿区内>片町《かたまち》沢《さは》仁左衛門屋敷前、石橋向うに当り、夜八ツ時<午前一時>頃、大提燈程の焰毬《ほのほのまり》、地上四五尺許りの所に一時《いつとき》計りも止まり居候由、この事聞伝へ、私宅より一見に右場所へ参り懸り候内に、跡形なく消失せ申候。当時余り炎暑はげしき故、火気凝《こり》て致す処歟(か)。

[やぶちゃん注:「寛政紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話を視認出来る(右ページ六字目の条)。話が無関係なため、最後の以下がカットされている。例の方広寺の焼亡である。

   *

此ごろ承レバ同月朔日雷火にて京都東山大佛殿不ㇾ殘。仁王門類燒、火翌日まで消ざりしとぞ、あれ程之大經營、一時ニ灰燼となりしは痛く可ㇾ惜次第也、

   *]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「日野家怪異」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 日野家怪異【ひのけかいい】 〔閑窻自語〕日野一位資枝《すけき》卿若かりしころ、家の子うちよせて、夜ふくるまで酒のみ物語りしけるに、屛風のうしろにはかに明るく、紙燭(しそく)して人の歩みくる気配なりければ、屛風のそばより見やりたるに、火焰のうちに、朱《あか》き法師のたちてゐたりける。人のあるやといひけるうちに、跡かたなく失せにけり。あか坊主とてかの家に吉事ある時は、出づるこれならんと、一位のかたられ侍りしなり。吉事のことは心ゆかず。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)のここで視認出来る。標題は『日野一位資枝卿家怪異語【土御門里内唐門西方第】』(「唐」は字が潰れているので推定)。

「日野一位資枝」(元文二(一七三七)年~享和元(一八〇一)年)は公卿で歌人烏丸光栄(からすまるみつひで)の子。日野資時の養子。宮廷歌壇に重きをなし、茶道もたしなんだ。宝暦一三(一七六三)年に参議となり、後、権大納言・従一位に進んだ。著作に「歌合目録」・「詠歌一体抄」などがある。

「あか坊主」当該ウィキがあり、本篇も紹介されてあり、最後に『妖怪研究家』『多田克己はこれを、東北地方の妖怪として知られる座敷童子に類するものとしている』とある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「非人の茶」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 非人の茶【ひにんのちゃ】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕茶道数寄《すき》の者の作説ならんが、或日茶事《ちやじ》の宗匠露路(ろぢ)を清め、独り茶を立てて楽しみける折から、表に非人躰(てい)の者、暫く立ちてその様子を伺ひ、庭の様《さま》などを称しけるにぞ、かの宗匠立出《たちい》で、汝も茶を好めるやと問ひければ、我等幼《をさな》より茶事を好み翫《もてあそ》びしが、今の身の上になりても、御身の茶事に染み楽しみ給ふをうらやましく、思はず立止りぬと答へければ、不便(ふびん)にもまた風雅に覚えて、古き茶碗に茶一服を与へければ、忝(かたじけな)き由を答へ、恐れある申し事《ごと》なれども、来《きた》る幾日の朝、そこそこの並木松何本目の元へ来り給へ、我等も茶を差上げんと言ひて去りぬ。如何なる事や不審《いぶかし》とは思ひしが、その朝かの松の木の下に至りしに、そのあたり塵を奇麗に掃きて古き茶釜をかけ、松の枯枝ちゝり〈松毬[やぶちゃん注:「まつぼつくり」。]〉やうのものをその下に焚きて、新しき清水焼《きよみづやき》の茶碗・茶入れ・茶杓、何れも下料《げれう》にて出来る新しきものを並べ置きて、かの非人はその辺にも見え侍《はべ》らず。実《げ》にも風雅なる心と、茶を独りたて楽しみ帰りけるが、如何なる者の身の果てなるや、やさしき事と右宗匠語りぬる由。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之二 茶事物語の事」を見られたい。この話、作り話だったとしても、その映像が鮮やかに見えてくる、しみじみとした、いい話である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「非人風の神」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 非人風の神【ひにんふうのかみ】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻一〕安永元年の冬、世上(せじやう)一統風気《かぜけ》流行しける。右風は大坂より流行し来ると巷談あり。その年江州山門の御修復ありて、若林市左衛門なども上京あり。霜月の頃帰府にて、右風邪上方にては六七月の頃、殊の外流行しけるが、それに付《つき》をかしき咄ありとて咄されけるは、大坂にての事なりし由、風の神送りとて大造《たいさう》に鉦《かね》太鼓を以てはやし、藁人形或ひは非人などを賃銭を以て雇ひ、風の神に拵へ送りける。京大坂の仕癖《しくせ》にて、大坂にてもその頃非人を雇ひ、二三町の若き者共申合せ、かの風の神送りを興行し、鉦太鼓三味線などにて囃し立て送りけるが、若者共余り興に乗じけるや、或橋の上迄送りて、送り仕舞《じまひ》の伊達《だて》にや、右風の神に仕立てたる非人を橋の上より突落《つきおと》し、どつと笑ひて我家々々へ帰りけるが、かの非人つくづく思ひけるは、価《あたひ》を以て風の神に雇はれしとは申しながら、如何に水がれの時なればとて、情なくも橋より突落しける恨めしさよ、仕方こそあれとて、夜に入り、かの風送りせし町々へ来り、表より戸をたゝきける故、何者なりやと尋ねければ、先刻の風の神またまた立帰りしとて、家々をいやがらせけるとて、京中の笑談なりしとかや。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 京都風の神送りの事 又は 忘れ得ぬ思い出」を見られたい(今の私の六十年前の怨みが(これは死ぬまで消えない)、冒頭に記されてあるので、是非、読まれたい)。なお、こうした江戸時代の災厄除けの諸行事では、ここに出るように、頻繁に被差別民が、災厄の役をやらされ、最後には殴打して死に至るようなやり方を、実際していたのである。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「火縄の相図」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 火縄の相図【ひなわのあいず】 火縄は竹の肉、檜の皮等にて作る。点火用。〔蕉斎筆記〕この已前《いぜん》伏見<京都市伏見区>の乗合船に大勢居《ゐ》けるが、紀州の侍一人・出家・町人様々なりけるに、船もよほど出《いだ》しけるに、岸より大勢挑燈《てうちん》にてかけ付け、この乗合に御吟味の者有り、一々捜し連れ帰るなりとて、町人を捕へ揚げんとしけるに、紀州の侍いふやう、此方は紀州の侍なり、ちと不審なることあれば、この町人渡す事ならず、又その方ども不審もあれば、直ちに大坂へ来《きた》るべしといひければ、色々せり合ひ、公儀の御用の妨げなりといひけるに、その言訳はこの方すべしとて、その内の出家をとらへ、びくとも動かさず。先刻已来(いらい)火縄をふりたばこを吞む体《てい》、いかにも不審なり、相図の火縄と見えて、岸より大勢呼出したる様なり、大坂へ連れ行き、御吟味のうへにて許すべしといひければ、かの捕手のものども、いづれも逃出しけるとなり。それより大坂へ出家を連れ行き、御吟味をかけけるに、案のごとくかの町人、京都より懸銀《かけぎん》を取りに大坂へ下りけるを見付けて、出家わざと付け廻し、その舟ヘ一緒に乗りたるなり。相図の火縄をふり、仲間へ知らせ捕へさせる仕業なりとかや。さすが紀州の侍ほどありて、よき所を見付けあらはしたるとなり。中々外《ほか》の諸侯方家中真似もならず。又いらざる世話とも云ふべしとかや。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段終りから二行目から次のコマまで)で視認出来る。

「懸銀」「掛金」に同じ。代金を一定期間後に支払う約束で売買した品の代金。或いは、日掛け・月掛けのように定期的に支払ったり、積み立てたりしてゆく金銭を指す。ここは前者でよかろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「一目小僧」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 一目小僧【ひとつめこぞう】 〔怪談老の杖巻二〕四ツ谷<東京都新宿区内>の通りに小嶋屋喜右衛門と云ふ人、麻布<港区内>なる武家方へ鶉(うづら)を売りけるか[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じだが、これは「が」の誤植である。後の私の原本電子化を参照されたい。]、代物(だいもつ)不足なれば屋敷にて渡すべしといふに、喜右衛門幸ひ御近処まで用事あれば、持参すべしとて鶉を持行《もてゆき》きけるが、中の口の次に八畳敷の間のある所に、爰(ここ)にひかへをれとて、鶉をば奥へもち行きぬ。座敷の体《てい》も普請前の家居《いへゐ》と見えて、天井《てんじやう》畳《たたみ》に雨漏《あまも》りの痕《あと》ところどころかびて、敷居《しきゐ》鴨居《かもゐ》も爰かしこさがり、ふすまも破れたる家なり。鶉の代《しろ》も小判にて払ふ程なりしかば、喜右衛門心の内に、殊の外不勝手らしき家なるが、彼れこれむづかしく云はずに、金子渡さるればよきがと気遣ひながら、たばこのみ居けり。しかるにいつの間に来りたるとも知らず、十ばかりの小僧、床《とこ》にかけありし紙表具の掛ものを、上へ巻きあぐる様にしては、手を離してはらはらと落し、または巻きあげ、いく度《たび》といふ事なくしたり。喜右衛門心に、気のどくなる事かな、掛物など損じて呵(しか)られなば、我等がわざにかづけんも知らずと、目も放さで見て居けるが、あまりに堪(こら)へかねて、さる悪あがきはせぬものなり、いまに掛もの損じ申すべしといひければ、かの小僧ふり帰りて、だまつて居よと云ひけるが、顔を見れば眼《まなこ》たゞひとつありて、わつというて倒《たふ》れ気を失ひけるを、屋敷の者ども驚きて、駕《かご》にのせ宿へ送り返し、鶉の代をあのかたより持たせおこされ、そののちも度々《たびたび》使《つかひ》などおくりて、心よきやなど懇ろに尋ねられける。その使の者の語りけるは、必ず沙汰ばしし給ふな、こちの家には一年の内には、四五度づつも怪しき事あるなり、この春も殿の居間に小さき禿(かむろ)なほり居て、菓子だんすの菓子を喰ひ、奥方の見て何者ぞといはれければ、だまつて居よというて、消えてなくなりたりと聞けり、必ずだまつて居たまへ、なにも悪しき事はせぬと語りぬ。喜右衛門は廿日ほどもやみて快気し、そののちは何もかはりたる沙汰なかりけり。その屋敷の名も聞きしかど、よからぬ事なれば憚《はばか》りてしるさず。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之一 小島屋怪異に逢し話」を見られたい。詳細注も附してある。また、これは「柴田宵曲 妖異博物館 一つ目小僧」でも私の注で電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人魂」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人魂【ひとだま】 〔甲子夜話巻十八〕吉原町<東京都台東区内>西河岸倡家の女、労瘵(らうさい)[やぶちゃん注:「労咳」に同じ。結核。]にて危篤に及びたるとき、人魂出て飛び去る。この時戸外《こがい》を行く人あり。これを見て刀を抜《ぬき》て人魂を切りたり。これよりしてかの病《やまひ》平癒せしと云ふ。理外の談なり。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷十八 16 人魂を切て病癒る事」を公開しておいた。

 以下は、底本では、一字空けで続くが、改行した。]

〔耳囊巻二〕日野予州、若輩の時、同人家来久しく煩ひて、全快すべき体《てい》にあらず。側向(そばむき)を勤め、したしく遣ひけるゆゑ、長屋へも尋ねたる事ありしが、或時馬場へ出《いで》て、暮過《くれすぎ》に外(ほか)家来を召連れ、彼の煩ふ家来の事抔(など)尋ねてかへりけるに、右煩ふ家来の長屋門口に、吹殼(ふきがら)よりは少し大きく、ろうそくの真《しん》を切りしといふべき火落ちてあるゆゑ、火の元の不ㇾ宜、ふみ消し候ヘといひしが、見るが内に、右の火一弐尺程づつ登り下りして、無ㇾ程軒口《のきぐち》程に上りければ、茶碗ほどに大きくなりしが、何となく身の毛よだつ様なれば、内へ立帰りしが、果してその夜、彼《かの》家来身まかりしと、予州語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳嚢 巻之九 人魂の起發を見し物語りの事」である。]

 〔耳囊巻五〕或人葛西とやらんへ釣に出《いで》しに、釣竿その外へ、夥しく蚋(ぶと)といへる蟲[やぶちゃん注:底本のママ。後の『虫』もママ。]のたち集りしを、かたへにありし老叟《らうそう》のいへる、この辺に人魂の落ちしならん、それ故にこの虫の多く集りぬるといひしを、予がしれるもの、これもまた払暁(あけがた)に出《いで》て釣をせしが、人魂の飛び来りて、あたりなる草むらの内へ落ちぬ。いかなるものや落ちしと、其所《そこ》へ至り、草などかき分け見しに、泡だちたるものありて、臭気もありしが、間もなく蚋となりて飛び散りしよし、老叟のいひしも偽りならずと語りぬ。

[やぶちゃん注:私のものは、底本違いで、「耳嚢 巻之六 人魂の事」である。

 ここも一字空けで続ているが、改行した。]

〔寐ぬ夜のすさび巻二〕文政五年八月十四日、不一《ふいつ》いふ。世の人のいふ人魂といふものは、蝦蟇(ひきがへる)のわざなりといふことを、しかと見とめし人あり。おのれ知れる人、御普請方といふ役にありて、鎌倉<神奈川県鎌倉市>に至りし日、ある夕《ゆふべ》旅宿の庭さきの垣の下へ、蟇(ひき)ひとつ来りてしきりに土をうがつ。怪しみて見てゐるに、よき程に穴をほりてその中に入り、みづから足にて土をかぶりかけ、終(つひ)に土中にかくれぬ。いかなる歟《か》とそのまゝに見捨てつ。さてその夜三更(さんかう)[やぶちゃん注:午後十一時から午前一時までの間。]のころ厠《かはや》にいりて、窓の元より日和《ひより》やいかにと見たるに、垣の下よりハツといふ音ありて、光るものふはふはと飛び出で、いづくへか失せぬ。大いに驚ろきつらつら見るに、その光り出《いで》たる所は、かの蟇の埋(うづ)みしあたりなりしかば、夜の明くるをまちいでて見るに、其所《そこ》なり。土《つち》四方に散りて、その中には白きあわのやうなるものありて、蟇はをらず。これ正しくかれが化《け》して、人魂となるに疑ひなしといへりと語りぬ。

[やぶちゃん注:「寐ぬ夜のすさび」雑司ヶ谷に住む幕府お鷹方を務めた片山賢の随筆。文政末年(一八三〇年)から弘化年中(一八四五年~一八四八年)に至る江戸市中の巷談街説及び名流の逸事などを、見聞に従って綴ったもので、全四巻。国立国会図書館デジタルコレクションの『新燕石十種』第五(大正二(一九一三)年国書刊行会刊)のこちらで当該部が正規表現で視認出来る。「卷之二」の冒頭で、標題は『人魂』。

「文政五年八月十四日」グレゴリオ暦一八二二年九月二十八日。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「人狐に憑く」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 人狐に憑く【ひときつねにつく】 〔静軒痴談巻二〕昔ヨリ江戸王子稲荷<東京都北区内>ノ辺ハ、毎歳除夜ニ狐火多ク燃ユルトイフ。何ノ所以ナリヤ、奇ト云フベシ。狐ハ霊ナル物故カ、周易ニ農ヲトリ、『詩経』ニモ『礼記』ニモ出タリ。殊ニ漢ノ狐ハ日本ヨリ霊ナルヤウニテ、『夜談随録』等ノ小説ニ、種々ノ狐ノ話アリ。ソノ中ニ玄狐トイウテ、黒キ狐ハ最モ霊ナルヨシ、『左伝』ニモ狐ハ蠱《こ》ナリト有リテ、狐ガ人ヲ惑ハシ、人ニ憑《つく》ルコトハ常ノコトナリ。人ノ狐ニツクコトハ、漢ノ話ニモ見得ズ。珍ラシト云フベシ。或人言フ、某《それがし》ノ郷ニ甚ダ貧シキ一猟者アリ、歳晩[やぶちゃん注:年末。]ニ及ビテ客キタリ、狐ヲ一匹得バ過分ノ賞ヲアタヘントイフ。猟師大ニ喜ビ、数日《すじつ》カリクラスニ、曾テ狐ニアハズ。既ニ除夜ニ及ビ、一所ノ林ノ下ニ狐ノ午睡セシヲ認メタリシカバ、喜ビノアマリ心慌(アワ)テヽ撃チタガヘタリ。家ニ帰リテ自ラ恨ミ憂《うれふ》ニタヘズ、寐《いね》モヤラザリシニ、ソノ夜猟師ノ住持ノ功徳院《くどくゐん》ノ夢ニ、狐アラハレテ拝伏シテ言フ。僕《ぼく》今日《けふ》猟者某《なにがし》ニ憑カレ苦《く》ニ堪ヘズ、何トゾ憐《あはれ》ミ救ヒタマヘトイフ。和尚意ニ掛ケザリシガ、翌夜《あくるよ》ノ夢モマタ同ジカリケレバ、不思議ニ思ヒ、猟夫ノ家ニ至リテ之ヲ問フニ、某笑ヒコタフ。我何ゾ苦シメンヤ、但シ事《こと》カクノ如シ、狐ヲ忘ルヽコトアタハズト云フ。和尚曰ク、子《し》ガ忘ㇾ難キハ、原(モト)数金《しきん》ヲ得ルニアリ、我コレヲ与フベシ、債《せき》ヲ償(ツグナ)ヒ衣《ころも》ヲ贖(カ)ヒヨキ春ヲ迎ヘヨトイフ。某喜ビニタヘズ、狐ノコトハ立地(タチドコロ)ニ忘レタリ。ソノ夕《ゆふべ》狐マタ夢ニ入《いり》テ、和尚ニ恩ヲ謝セシトイフ。コレ奇談ト云フベシ。因《よつ》テ思フニ、奇ハ奇ナリトイヘドモ、『中庸』ニ至誠ハ神ヲ感ズ、中和ヲ致セバ天地ヲモ位セシムルト云フニヨレバ、人ノ一念ノ凝ル所、狐ヲ苦シマシムルコト、ソノ実《じつ》ハ奇トスルニ足ラザルナリ。

[やぶちゃん注:「静軒痴談」本書で初出。漢学者寺門静軒(寛政八(一七九六)年~明治元(一八六八)年:名は良。常陸国水戸の人。山本緑陰に師事し、次いで、上野寛永寺の「勧学寮」で仏典を学んだ。江戸で私塾を開いたが、天保年間(一八三〇年~一八四四年)に戯文「江戸繁昌記」を書いて、無用者意識と諷世の姿勢を示し、「敗俗之書」と目され、処分を受けた。剃髪して、上州・武州・越後を放浪生活の後、越後国で「新潟繁昌記」を著わし、晩年は武州妻沼に「両宜塾」を開いた)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第十巻(日本随筆大成編輯部編・昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここで正字表現で視認出来る。標題は『狐ノ話』。

「夜譚随録」清の和邦額が著した志怪小説集「夜譚隨錄」誤りであろう。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「美髯」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 美髯【びぜん】 美しい頰ひげのこと 〔九桂草堂随筆巻八〕或諸侯の城下の町人に美髯の人あり。君これを聞き玉ひ、楽人《がくじん》の面《めん》を作るものに仰(おほ)せて、これをかはんと云ふ。商《あきんど》三十金ならば売らんと云ふ。乃(すなは)ち三十金を与ふ。商剃刀(かみそり)を以てそりてわたさんとせしかば、楽人大いに驚き、それは死髯《しぜん》なり、豈《あに》三十金の直(あた)ひあらんやと云うて、その人を坐せしめ、面《めん》を持ち来り、一茎《ひとくき》づつ抜いて面に植ゑたり。その人痛みに堪へずして悔いたれども、君《くん》の命にて仕方なかりしよし。余<広瀬旭荘>が曰く、この事小なりと云へども、以て大いに喩(たと)ふべし。或人の話に、赤松滄洲は美髯にて、常に誇りて海内無雙《かいだいむさう》と称せり。一日《あるひ》暮方に一老人来り見ゆ。その髯長さ数《す》尺、滄洲に倍せり。且つまた議論俊爽《しゆんさう》にして懸河(けんが)の如し。滄洲髯《ひげ》のしかざることを知りて甚だ愧赧(きたん)、論も愉快ならず。既にしてその人辞す。滄洲送りて独言《ひとりごと》に嘆美《たんび》せしに、その人戸《と》を出《いづ》るや否《いな》、頤(したあご)に手を当《あつ》るやうに見えしが、やがて手に髯をさげて行けり。始めてその作りて耳よりかけしものなることを悟りて、切歯《せつし》せしよし。

[やぶちゃん注:「九桂草堂随筆」「奇石」で既出既注。国立国会図書館デジタル化資料の国書刊行会大正七(一九一八)年刊「百家随筆」のここで、正規表現で視認出来る。目次を見ると、標題は『作り髯』。

「赤松滄洲」(享保六(一七二一)年~寛政一三(一八〇一)年)は儒者で播磨赤穂藩家老となった。名は鴻。別号、静思翁。古医法の香川修庵、折衷学派の宇野明霞に師事した。寛政異学の禁に際し、異論を述べた書を柴野栗山に送っている。主著「静思亭文集」・「赤穂四十六士論評」など。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「飛行器」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 飛行器【ひこうき】 〔筆のすさび巻四〕備前岡山<岡山市>表具師《へうぐし》幸吉といふもの、一鳩《いつきう/ハト》[やぶちゃん注:「きう」と「ハト」は後掲する活字本の右左のルビを参照した。]をとらへてその身の軽重、羽翼《うよく》の長短を計り、我身の重さをかけくらべて、自《みづか》ら羽翼《つばさ》[やぶちゃん注:活字本で二字にルビする。]を製し、機(からくり)を設けて、胸前《むねまへ》にて操《あやつ》り搏(うち)て飛行《ひぎやう》す。地より直《すぐ》に颺(あが)ることあたはず。屋上《をくじやう》よりはうちていづ。ある夜郊外《まちはづれ》をかけり廻《まは》りて、一所《ひとところ》野宴《やゑん》するを下《くだ》し視《み》て、もし知れる人にやと近よりて見んとするに、地に近づけば風力《ふうりき》弱くなりて、思はず落ちたりければ、その男女《なんによ》おどろきさけびて遁(のが)れはしりける。あとには酒肴《さけさかな》さはに残りたるを、幸吉あくまで飲《のみ》くひして、また飛びさらんとするに、地よりはたち颺(あが)りがたきゆゑ、羽翼《つばさ》ををさめて歩(かち)して帰りける。後《のち》にこの事あらはれ、市尹(まちぶぎやう)の庁《ちやう/ヤクシヨ》[やぶちゃん注:同前。]によび出《いだ》され、人のせぬ事をするは、なぐさみといへども一《ひとつ》の罪《つみ》なりとて、両翼《りやうよく》をとりあげ、その住める巷《まち》を追放せられて、他《た》の巷にうつしかへられける。一時《いつとき》の笑柄(わらひぐさ)のみなりしかど、珍らしき事なればしるす。寛政の前のことなり。<『九桂草堂随筆』巻六に同じ事が記されている>

[やぶちゃん注:本邦で初めて空を飛んだとされる人物である浮田幸吉(うきたこうきち 宝暦七(一七五七)年~弘化四(一八四七)年?)。備前国児島郡八浜(現在の岡山県玉野市八浜町(はちはまちょう)八浜:グーグル・マップ・データ)生まれ。当該ウィキを見られたいが、それによれば、『表具師の技術を応用し、竹を骨組みに紙と布を張り柿渋を塗って強度を持たせた翼を製作した。試作を繰り返し』、天明五(一七八五)年の『夏、旭川に架かる京橋の欄干から飛び上がった。風に乗って数メートル滑空したとも、直ぐに落下したとも言われる。河原で夕涼みをしていた町民の騒ぎとなり、即座に岡山藩士によって取り押さえられ』、『時の藩主池田治政により』、『岡山所払いとされた』。『その後、駿河国駿府(現在の静岡県静岡市)に移り、「備前屋幸吉」の名で郷里児島の木綿を扱う店を開いた。軌道に乗ったところで』、『兄の子に店を継がせた。自身は歯科技師「備考斎」として技術力の高い義歯を製作することで評判となった』。『晩年は不詳で、駿府でも』、『再び空を飛んで見せて』、『騒乱の廉』(かど)『で死罪となったとも、遠江国見附(現在の静岡県磐田市)に移り』、『妻子を得て』、『平穏な余生を送り』、九十一歳の『長寿を全うし死去したとも伝えられている』とある。

「筆のすさび」「奇石」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらで正字表現で視認出来る。標題は『機巧(からくり)』。ルビが多く附されているので、積極的にそれを参考にした。

 以下は、空欄もなく、そのまま、前に続いているが、ここでは、特異的に改行した。ロケーションが異なる別人の話らしいからである。]

〔黒甜瑣語二編ノ二〕猿に似せて木伝ふ術を習ふはいとも安し。魚に似せて水を游《およ》ぐは難《かた》しとはいへども、終日水底に住《すみ》ても溺れぬもののあるは、その習染(ならはし)に得し所なるべきに、鳥の飛ぶ事を学びし者、さいつ頃城南二井田村にあり。一農民工夫して一羽の乾鵲(かささぎ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])を得て、首尾両翼よりその胴体を分量に己が骸(からだ)へ較(たくら)べ配当《はいたう》し、双翅(さうし)を作り両《りやう》の肩に結び、腕にそへて飛ぶ事を習ひしに、はじめは難かりしが、漸々《しだいしだい》調錬《ちやうれん》して、のちには下より上へ飛ばんは難けれども、上より下ヘ下《くだ》らんには、伏翼《ふせつばさ》して飛べば、小山の上、高き勾欄(てすり)、屋梁(やのむね)などよりは、四五丈乃至《ないし》は六七丈もやすやすと怪我なくなせしとなん。

[やぶちゃん注:個人ブログと思しい「秋田の古い新聞記事」の「日本最古の人力飛行家? (昭和14年)」に、昭和一四(一九三九)年六月二十九日附『秋田魁新報』(「魁」は「さきがけ」と読む)の記事が写真で載り、電子化もされてあった。電子化を元に当該記事通りに、以下に電子化する。大見出しや添え見出しは同ポイントとした。原記事にはルビがあるが、省略した。なお、『河辺郡仁井田村』は現在の秋田市仁井田(グーグル・マップ・データ)である。

   *

日本最古の飛行家が

 久保田の一農夫

   仁井田の(幸吉)竹内正虎氏の研究

今から一世紀半もの昔、久保田藩南郊二井田村現在の河辺郡仁井田村の一農夫が空飛ぶ飛行機の初明に憂き身をやつし遂に「飛ぶことの稽古」をしたといふ、當時久保田人見蕉雨の有名な著「黑甜瑣語」を便りに二十八日遙か秋田を訪れた「日本飛行機」発達史の特殊な民間篤学者がある、静岡市西草深町竹内正虎氏(六二)で同氏はきのふ秋田圖書館に小野達長を訪ひ古文献を渉獵し「硏究はまだこれからだ、秋田の〝幸吉〟が明瞭になれば恐らく飛行機乘りとしては日本最古參のものだらう」と左の談話をなした

[やぶちゃん注:以下、現記事では全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

飛行機の実行家側の歷史からは天明寬政頃に相當出てゐる、その一人に秋田市仁井田村の一農夫が出て繰來る譯でこれは人見翁の黑甜瑣語第三編二巻にある、現在判つてゐるのは地位からすると岡山の幸吉、沖繩の安里、三河の太郞太夫となつてくる、然し一々硏究してゆくと秋田の一農夫が最も古いと視ていゝかも知れない、そこでこの調査の必要が生じた、人見翁の著によれば「人の噂」を書かれたように[やぶちゃん注:ママ。以下も同じ。]思はれるので何年頃書いたか年配やら何やら年代を認定してかゝらねばならない

    ◇

飛行機は今日外國から發達してやつて來たようになつてゐるがどうして日本でも神話時代から發達を辿つて來てゐるのである我々は立派に日本の飛行機が昔から硏鑽の途を發展せしめ今日强大なる空軍の精神と根底を培養せしめたこと國際的にも認識せしめなければならぬ

 

と大元氣で語つた因に人見翁の著には「城南二井田あり、一農夫工夫して一羽の鵲を得て胸體を云々」とあり、いつ頃何人たるか不明なのである

      (写真は竹内翁)

   *

因みに、本邦で戦前の純国産単発飛行機の制作者は私の親族の一人であった。

「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。宵曲の「二編ノ二」とあるのは、「三編ノ二」の誤りである。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『飛ぶ事の稽古』。

リンク先の活字本では『乾鵲』には『からす』とルビする。ロケーションから、この方が絶対的に正しい。種としてのカササギは秋田にはいないからである。

「勾欄」同前で、『こうらん』とルビする。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「引馬山妖怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 引馬山妖怪【ひくまやまのようかい】 〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻五〕芸州引馬山(ひくまやま)<広島県三次《みよし》市>の内、立入らざる所あり。七尺程の五輪に地水火風空と記し、三本(さんもと)五郎右衛門といへる妖怪ありと語り伝へしを、稲生(いのふ)武太夫《たけだいふ》といへる剛気の武士ありしが、兼ねて懇意になしける角力取《すまふとり》と、何か今の代《よ》に怪しき事の有るべき、いでや右《みぎ》引馬山《ひくまやま》の魔所《ましよ》へ行きて酒飲まんと、さゞえ<竹筒>を持ちて終日《ひねもす》吞み暮し帰りけるが、角力取は三日過ぎて、仔細は知らず相果《あひは》て、武太夫方《かた》へも朔日(ついたち)より十六日迄、毎夜怪異あつて、家僕《かぼく》迄も暇《いとま》を取り退《しりぞ》きしが、右武太夫聊(いささ)か心に掛けず、傑然として有りしが、十六日目には妖怪も退屈やしけん、さてさて気丈なる男哉(かな)、我は三本五郎右衛門なりと言うて、その後《のち》は怪異もなかりしが、中にも耐へ難かりしは、座敷内《うち》へ糞土《ふんど》を撒《ま》きしや、甚だ臭く不浄なるには困りし由。右武太夫に寄宿なしける小林専助といふ者、今は松平豊前守家来にて有りしが、右専助に聞きしと語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」を見られたい。これは、知る人ぞ知る、私もフリークである、大妖怪怪談のチャンピオン「稻生物怪錄」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく:現代仮名遣)の超抄録版である。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蟇と蛇」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蟇と蛇【ひきとへび】 〔続蓬窻夜話〕洛陽北野の社《やしろ》<京都市上京区馬喰町>連歌堂にて、誹諧師聚(あつ)まりて法楽《ほふらく》[やぶちゃん注:神仏に俳諧を捧げて楽しませること。]の為の百韻を興行する事の有りしに、誹諧仕畢《しをは》りて巻《まき》も成就の後《のち》、各〻《おのおの》うちつろぎて四方山《よもやま》の物語りなどして居《ゐ》けるに、その庭へ本社《ほんしや》の方《かた》より大いなる蟇(ひき)の出《いで》たりければ、人々見て、偖(さて)も大いなる蟇かな、この如くなるは世に見ること稀なりとて、皆々眺め居たれば、また向うの方より蛇《へび》ひとつ出《いで》て、両方漸々《ぜんぜん》に這ひ近づく。互ひに近くなるまゝに、蟇も動かず、蛇も動かずして、相共《あひとも》に睨み合ひて居《ゐ》たり。偖(さて)はこの蛇の蟇を喰ふにやと思ひ居たれば、暫しありて蟇手を指し出して、この蛇の頭(かしら)を撫でければ、何とか呪(じゆ)したりけん、蛇忽ちに死しけり。さて蟇は少し側(かたはら)へ退(のき)て、まじまじとして居けるほどに、人々奇異の思ひをなし、尋常(よのつね)は蛇の蟇を吞み喰《くら》ふことは聞きもし見もしたれども、蛇を害する蟇はつひに見たることなし、いかさまこの蟇は常よりも大なれば、却《かへつ》て蛇を殺して喰ふものならんとて、弥〻《いよいよ》まもり居けるに、この蟇蛇を食はんともせずして、向うの樹の下へ這ひ行きて、手にて土をひたもの掘り穿《うが》ちけるほどに、何とすることぞと目をも放さず見れば、二尺余りにほそ長く穴をほりうがちて、また蛇の方へ向《むかひ》て這ひ来り、軈(やが)て死したる蛇をくはヘて樹の下へ曳き持《も》て行きて、掘りおきたる穴の中へ蛇の死骸を入れ、あたりの土を手にてかきよせ、上を蓋(おほ)うて埋《うづ》みたり。人々不審晴れざる処へ、老(おい)たる寺僧《じそう》出で来りてこの由を聞き、某《それがし》往昔(そのかみ)かかる事を聞きたり、明日のその刻に来りて見玉へと云ふにより、各〻明日また来りて兎角《とかく》の子細を見届くべしとて、皆約束して帰宅し、他《ほか》の人々にもこのよし物語りしければ、聞く人皆《ひとみな》奇異の思ひをなし、明日は我れも行きて見ん、誰《た》れも行きて見んとて、同道する人多かりけり。さて夜明けて皆々催し連れて、かの刻限に連歌堂に至りて見るに、庭の様子別に替ることなく、昨日埋みし土のあたりもそのまゝに見えければ、各〻一所に寄り居て、今や蟇の出で来《きた》るかと待ち居けるほどに、暫くありて蟇また庭に出で来れり。あはやと人々目をも放さず見居たれば、この蟇徐々(そろそろ)と樹の下に這ひ行き、昨日埋みたる土を手にて搔きのけるやうにするに、忽ち蜂のやうなる蟲一つの土の中より飛出《とびいで》たるを、この蟇口を開き、とび付《つき》て吞みけり。またほれば飛び出、ほれば飛出するを、ひたもの吞み吞みしけるほどに、いくらと云ふ数も知れず、飛出たるを悉く吞み尽して、もとの方ヘ帰り去りたり。人々奇妙の事に思ひ、その跡を立寄り見れば、昨日埋みたる蛇の死骸は露ほども見えず、偖《さて》は皆化《け》して蜂の如き蟲になりたると見えたり。蛇を殺しこの蟲となして、己(おの)れが喰物《くひもの》にしけるならん。寔(まこと)に奇怪なる事なりしと、白不《はくふ》と云ふ僧の京にて聞き、帰国の後《のち》人々に語りける。予<矼某>も白不に直《ぢき》に聞き侍りし。

[やぶちゃん注:蟇と蛇の話は、私の怪奇談集には、枚挙に遑がない。一つ、「谷の響 二の卷 九 蝦蟇の智」のみリンクさせておく。

「続蓬窻夜話」「蟒」で既出既注だが、本書の「引用書目一覽表」のこちらによれば、作者は「矼(こう)某」で、享保十一年跋。写本しかないようである。原本に当たれない。但し、既に述べたが、本書の他の話柄から、著者は紀州藩藩士と推定は出来る。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「光り物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は複数の引用で、かなり長い(底本三段組みで三ページに亙る)。長過ぎるので、引用部が一ヶ所を除いて、全文、繋がってしまっているが、注が、し難くなるので、特異的に、総てを、分離して、途中に注を入れた。

 

 光り物【ひかりもの】 〔嘉良喜随筆巻三〕宇多野《うたの》ニ夏ニナリテ、闇夜ニハ光物イクツモ飛ブ。マタ叡山ノフモトニ大徳寺ノ方丈ヨリミレバ逢火(アフヒ)ト云フ。コレモ四五月ノ事ナリ。色々附会アレ共青鵠(アヲサギ)ナリ。コノ羽毛《うもう》夜ハ光ル物ナリ。コノ鳥ノ飛ビカヨフ光リナリ。

[やぶちゃん注:「嘉良喜随筆」(からきずゐひつ)は垂加流神道家の山口幸充(こうじゅう 生没年未詳:日向生まれ)の随筆(全五巻)であるが、諸家の雑録・随筆からの抄録が多い。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十一(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで(右ページ六行目から)視認出来る。

「宇多野」京都府京都市右京区北東部を指した嘗つての地域名。この広域(グーグル・マップ・データ)。

「大徳寺」ここ(グーグル・マップ・データ)

「青鵠(アヲサギ)ナリ。コノ羽毛夜ハ光ル物ナリ」この「テ」の奇談は、私自身、ブログで複数回、紹介し、考証を行っていおり、少々、飽きた話である。例えば、「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」を見られたい。そこでも最後に突き離してあるが、私は自身の複数の経験から、発光細菌やバクテリア附着説は退けたい(そういう派手に発光する、陸上や空中での現象(海上・海中では発光クラゲ・クシクラゲ類・夜光虫・ウミホタル・ホタルイカ等で、多数、実際に見たが)を、私は六十一年の生涯の中で一度も経験したことがないからである)。胸元の白い毛の錯覚説(地上の遠くの家の灯や月光の回折反射)を強く支持するものである、という見解は、全く変わらない。]

〔我衣十九巻本巻八〕十一月九日<文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]>の朝払暁(あけがた)に、大サ二尺余りの光り物、東より西へ飛ぶ。夜明《よあけ》たれば見たる人も多し。四五日これのみ沙汰せしが、武州生麦《なまむぎ》むら<横浜市鶴見区生麦>に落ちたり。その響《ひびき》雷の如し。近所の若者ども驚き走り出て、半死半生に打《うち》なやまし見れば、野襖(のぶすま)<むささび>の如き獣《けもの》にて肉翼《にくのつばさ》あり。近所の酒醸(かも)す大桶に打入れておきたりと云へり。その形容いかなるものか、いまだ知れず。この節いかなる訳にや、たびたび光り物飛行《ひぎやう》す。廿五日黄昏《たそがれ》にも北より南へ飛びたりと、両三人見たる人の語りき。

[やぶちゃん注::「我衣」前の前の「杣小屋怪事」で述べた通りで、原本に当たれない。]

〔甲子夜話巻五〕夏夜に光り物の飛行《ひぎやう》することあり、世皆《みな》人魂《ひとだま》と云ふ。これは蟾蜍(ひきがへる)の飛行するなりとぞ。府の本郷丸山の福山侯別荘にて、所謂《いはゆる》人魂を竹竿にて打落《うちおと》すに、蟾蜍なること幾度《いくたび》も同じ。これより人々疑ひ晴れしと云ふ。人魂蟾蜍の説前に云へり。また先年の事を思出《おもひいだ》せしは、鳥越《とりごえ》の邸《やしき》にて群児《ぐんじ》薄暮《はくぼ》に乗じ、竿を以て蝙蝠(かうもり)の飛ぶを撲《う》つ。その時青色なる光のもの尾を曳き飛来《とびきた》る。児《じ》皆《みな》人魂なりと云ひて、相《あひ》集りて竿を以て打落す。青光《あをびかり》地に堕ちて猶(なほ)光り有り。児足を以て蹈《ふん》で、而してそのものを視るに、豆腐の滓(かす)の如きものなりしと。これは何物のしかあるや、果して世に言ふ人魂か。

[やぶちゃん注:これは、同巻であるが、「甲子夜話卷之五 10 人魂を打落して蟾蜍となる事」と、有意に離れた「甲子夜話卷之五 33 鳥越の邸にて人魂を打落す事」をカップリングしたのを、宵曲がうっかりして、それを指示し忘れたものである。

〔同巻四十〕同林子《りんし》曰く、今玆(こんじ)【癸未《みづのとひつじ》】十月八日夜戌《いぬの》刻下《さが》り[やぶちゃん注:午後八時から午後九時。]、西天《せいてん》に大砲の如き響《ひびき》して北の方《かた》ヘ行く。林子急に北戸《きたど》を開て見れば、北天に余響轟《とどろき》て残れり。後に人《ひと》言《いふ》を聞けば、行路《かうろ》の者はそのとき大《おほき》なる光り物飛行《とびゆ》くを見たりと云ふ。また数日《すじつ》を隔《へだて》て聞く。早稲田(地名)<新宿区内>に軽き御家人の住居《ぢゆうきよ》、玄関やうの所へ石落ちて屋根を打破り、砕片飛び散りしが、その夜《よ》その時の事なりとぞ。最早七八年にも成りけらし。これは昼のことにて、この度《たび》の如き音して飛物《とびもの》したるが、八王子<都下八王子市>農家の畑の土に大なる石をゆり込みたり。その質《しつ》焼石《やきいし》の如しとて、人々打砕《うちくだ》きて玩(もてあそ)べり。今度《このたび》の砕片も同じ質なりと、見たりし人云ひき。昔星殞(お)ちて石となりし杯(など)云ふことは、これ等のことにもあるや、造化の所為は意外のことなり。前《さき》に云ふ、七八年前の飛物は、正しく予<松浦静山>が中《うち》の者見たるが、その大《おほき》さ四尺にも過ぎなん。赤きが如く黒きが如く、雲の如く火焰《くわえん》の如く、鳴動回転して中天を迅飛《じんひ》す。疾行のあと火光の如く、且つ余響を曳くこと二三丈に及べり。東北より西方に往《ゆ》きたり。見し者始めは驚き見ゐたるが、後《のち》は怖(おそれ)て家に逃入《にげい》り、戸を塞ぎたれば末《すゑ》は知らずと、林子の言を得て継ぎしるす。

[やぶちゃん注:これは事前に「フライング単発 甲子夜話卷四十 5 癸未十月、飛ものゝ事」で正字表現で公開しておいた。但し、冒頭の「同」は、私の『東洋文庫』版では、存在しない。そもそも原本の前の項目は林述斎のソースではないから、おかしい。]

〔醍醐随筆〕河内国高安郡<大阪府八尾市内>に光りのものありといふ。そのあたりの人五六輩、納涼のため野外に逍遙せしかば、かの光りもの西南の山がより飛び来りて、田中《たなか》のくひぜにとゞまりぬ。火を吹くごとくいきいきとひかる。この内の少年行きて正体を見んとて歩みより、刀を抜《ぬき》て切りければ、二ツに割れて落ちながら、ひかりは猶やまず。松明(たいまつ)などさしよせてよく見るに大蜘蛛なり。かたち碁盤をまるめたるが如く、金箔をすりつけたる様《やう》に黄文《わうもん》あり、その紋光るなり。蛍にたがふ事なし。鯛といふ魚もひかる。鯛毎《ごと》にはひからず[やぶちゃん注:総ての鯛の別個体が光るわけではない。]。魚によるなるべし。或人鯛を切りて鉢に入れ置きたれば、夜に至つてすさまじく強く光る。これを煮て喰ひけれども、害をなさざりけりと語れば、さればよ鮒といふ魚も夜に入り光りあり。惣別《そうべつ》海潮《かいちやう》夜《よる》は光るものなり。或人の庭樹に夜に入りて光りものたゝずむなり。鉄砲してうちたるに鵁鵠(ごゐさぎ)なめり。鵁鵠も光るものなり。又朽ちたる木、朽ちたる竹、深林中に久しくありて白くかびしめたるは、白き所暗夜に至つて光る。かわきたるは光らず。また俗説に人魂《ひとだま》の飛ぶといふなる。人魂とべば必ずその家内《いへうち》の人程なく死す。また二三年すぎて死するも有りなど云ふ。その形色は青く赤き火の玉ゆらめき行くとなり。あるべき事とも思ほえず。魂《たましひ》既に飛んでしばらくも身存すべきや。祖竜身在魂先飛《そりゆうみあつてたましひまづとぶ》などとつくれる詩は、秦の始皇の張良が鉄椎《てつつい》に驚ろきたまふをいへり。実《まこと》に魂《たましひ》飛びたるにはあらず。必ず右にいひし蜘蛛・鵁鵠のたぐひの物をいふやらん。人魄《じんはく》[やぶちゃん注:底本では、「人魂」であるが(ここの右ページ中段十三行目冒頭)、後に示す原活字本も『人魂』なのであるが、これは以下の叙述から見ても明らかにおかしい。これは、中国で言う「魂魄」の「魄」のことである(中国では人体には「魂」と「魄」の二首の霊体が存在し、その人が死ぬと「魂」は天上界へ、「魄」は地下へ向かうとされるのである)。何より、『ちくま文芸文庫』が『人魄(じんはく)』と修正し、ルビまで振ってあるのだから間違いない。特異的に訂した。]といひて、人の縊《くび》れたる下《した》の地を即時急にほりて見れば、麩炭(けしずみ)の如きもの有り、これ魄(はく)の地下に入るなりといへり。急に死してしかも頭をしむるによりて、魄急に下り陥《おちい》る事も有りなん。麩炭のやうなるものは魄のやどれる肉ならん。直ちに魄といひがたし。魂魄すべて人の手に入《い》るべきものにあらず。元《げん》の王《わう》先生といふ人は、人をたぶらかし殺して、その魂をとりて奴婢《ぬひ》を召しつかふが如く、人の家へつかはして殃(わざはひ)をなさしむるなどいへる、怪説かたるべからず。

[やぶちゃん注:「醍醐随筆」は大和国の医師・儒者中山三柳の随筆。初版は寛文一〇(一六七〇)年(徳川家綱の治世)。国立国会図書館デジタルコレクションの『杏林叢書』第三輯(富士川游等編・大正一三(一九三八)年吐鳳堂書店刊)のこちらで正字版の当該部を視認出来る(但し、この底本は文化年間(一八〇四年~一八一八年:徳川家斉の治世)の抄録写本底本である)。

「河内国高安郡」現在の大阪府八尾市高安(グーグル・マップ・データ)。]

〔梅翁随筆巻四〕武州稲毛<千葉市>に傘はり長者の屋敷跡といふあり。先祖傘をはりて渡世しけるゆゑ、かく呼び来《きた》るとかや。ある夏の夜、庭にて涼み居る所へ、西のかたより夥しき鳴音《なきごゑ》して飛来《とびきた》る光りものあり。しかも地をはなるゝこと漸く二三間が程にて、この者の前を過ぎ行く所を、竹にてはらひけるに、竿の先、少しあたりし様子にて光りちり落ちて、光物はその儘飛びさりぬ。翌朝その辺にて銭八文拾ひたりし。それより思ひよらず利徳ある事のみ引《ひき》続きて、家富み栄え子孫繁昌しけるが、盛んなるものは衰ふる世のことわり逃《のが》るべからず。この銭紛失せしより不幸のことのみ重なりて、奴婢さんざんになり行き、今は屋敷跡のみ人口《じんこう》に残れりとぞ。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」作者不詳の寛政年間を中心とした見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(左ページの「『○傘張長者屋敷の事』)から正規表現版が視認出来る。

「武州稲毛」「千葉市」千葉県千葉市稲毛区(グーグル・マップ・データ)。傘張長者屋敷跡は不詳。]

〔天明紀聞〕三年発卯<天明>三月末(日忘却)夜分光り物飛行す。人家の屋根を去ること、僅か三丈ばかりにして、ひかり赤くまた白し。北の方より飛出し、南の方へ行きたり。いづ方も同じ様《やう》に見かけしとぞ。尤(もつと)も一二夜ならず、これを見し者、前後相違せしにて知るべし。この頃に伊豆の八丈嶋のはなれじま青ケ嶋の温泉焼拔《やけぬ》け、その近辺皆《みな》火をふらし、十日ばかりの間、天地も崩るゝ程に震動せり。これが為に即死怪我人夥しく、かぞふるに遑(いとま)なく、委細の義取調ぶべく、不取敢(とりあへず)注進致す由申来《きた》る。<略>七月初めより夜陰になれば空中に鼓《つづみ》の声《こゑ》あり。十五日には江戸川々《かはがは》大出水《おほでみづ》なり。この節《せつ》大《おほい》サ車輪の如き物、西北より東へ飛びゆき、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]人の腕の如き形《かた》チしたる物にて、その先キ指の如く六本にわたれる光り物飛行《ひぎやう》し、人家にゆき当れば悉く破損し、これが為に小日向斎藤帯刀《たてわき》殿表長屋潰れたり。

[やぶちゃん注:「天明紀聞」「天明紀聞寬政紀聞」が正題。天明元年から寛政十一年までの聴書異聞を集録する。筆者不詳だが、幕府の御徒士(おかち)であった推定されている。国立国会図書館デジタルコレクションの『未刊隨筆百種』第四(三田村鳶魚校訂・ 随筆同好会編・昭和二(一九二七)年米山堂刊)のこちらで当該話の第一話(天明三(一七八三)年「三月末」)を視認出来る(左ページ六字目の条)。また、「略」以下は、非常に杜撰で、ずっと後の天明六(一七八六)年三月の記事で、上記活字本ではここで、しかも、記載上の途中の抜書で(左ページ一行目から四行目まで)、セットの記載の「略」ではないのである! 書誌学的に完全に噴飯物の改竄引用であり、価値がない! 腹が立って、後の部分は電子化する気も失せたわい。糞ったれ! 宵曲!

〔寛政紀聞〕六月初メ(寛政二年[やぶちゃん注:一七九〇年。])(日忘失)以ての外火気烈しき光り物、田安の方へ飛来り、牛込御門の方へとび行き、終(つひ)に落ちたりしに、其所《そこ》は大御番与頭《くみがしら》何某の屋敷にて忽ちに火事となり、一軒焼ケにて鎮火せしが、怪しとも不思議ともいふばかりなし。

[やぶちゃん注:引用元は同前で、ここ(左ページ四行目からの条の前半分。後半は無関係の記事)。]

〔楓軒偶記〕文化五年戊辰六月八日の夜五鼓[やぶちゃん注:「ごこ」と読んでおく。「五更」に同じとすれば、午前三時或いは午前四時からの二時間相当。]、南方に光りあり。少しありて音あり。雷に似て雷に異なり。しばしの間《あひだ》西より東に鳴り、紙障《ししやう》[やぶちゃん注:「障子」に同じ。]など皆ひゞき、光りあきらかにして人の面《おもて》も分《わか》るほどなりし。凡そ水戸《みと》四方数《す》十里の間《かん》皆これをきく。時に予<小宮山楓軒>江戸小石川<東京都文京区>の邸《やしき》にあり。その音を聞くことなかりし。時当《ときにあたり》何物なることを知らず。追《おつ》て考ふるにこれ流星なるべし。

[やぶちゃん注:「楓軒偶記」本書で初出。常陸水戸藩士で儒者の小宮山楓軒(こみやまふうけん 明和元(一七六四)年~天保一一(一八四〇)年:小宮山東湖の長男。立原翠軒に学び、水戸の「彰考館」で「大日本史」の編修に従事した。寛政一一(一七九九)年には郡(こおり)奉行となり、植林をすすめるなど窮乏する農村の救済に尽した。後に町奉行・側用人を務めた。名は昌秀。編著に「農政座右」「水府志料」などがある)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第二 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらで正規表現で視認出来る(右ページ下段後方)。但し、後半の流星であることを断定する記事として「日本書紀」を引用している箇所を、宵曲はカットしている。

〔天明紀聞〕十月廿六日<天明元年>夜亥の刻<午後十時>過ぎ震動夥しく、暫く有《あり》て赤色の光り物現はれ、東の方より西をさして飛び、形は満月の如く、白昼よりも明るく相成《あひなり》候に付、諸人何《いづ》れも胆《きも》を潰し驚き見申候。追《おつ》て承れば諸国共同夜同様の由、誠に奇異事なりき。

[やぶちゃん注:二つ前に同じで、ここ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「東園家の怪」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]

 

    

 

 東園家の怪【ひがしぞのけのかい[やぶちゃん注:「ひがしそのけ」とも。]】 〔閑窻自語〕東園前《さきの》中納言基辰《もとたつ》のからす丸《まる》の家に、いと大きなるいてふあり。四五十年ばかり以前に、かの家の老女に、記《しる》して館守(たてもり)の神とあがめ、かの木にしめ引きゆひ、供物など備へて、かりそめにも枝を切らざれば、かげ深く繁りあひて、まことにもうりやう<水の神>の棲みしあとでもいふべし。葉室《はむろ》大納言頼照卿殿上人のころ、その南のとなりなる家をかりて住居《すまひ》けるに、ある夜、下仕《しもづかへ》の女の見えざりければ、そここゝと尋ねけるに、かの木の陰のこなたなる庭のうちに、息たえて伏せり。水あたへ薬など含ましむるに、辛うじて息いでていふやう、黄昏《たそがれ》のころ庭にいでけるに、隣なるいてふの木の上より、大《おほき》なる男の、かしらは黒く、あかみたる恐ろしきが飛びきて、かい摑むとおぼえし、その後《のち》は知らずとぞいひける。二十日《はつか》あまり熱つよく患《わづ》らひけれども、何ごともなく本復《ほんぷく》しけり。横川(よかは)の僧都《そうづ》の、うき舟を見いでけむためしも思ひやらるゝ事にこそ。

[やぶちゃん注:「閑窻自語」(かんさうじご)は公卿柳原紀光(やなぎわらもとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆。権大納言光綱の子。初名は光房、出家して「暁寂」と号した。宝暦六(一七五六)年元服し、累進して安永四(一七七五)年、権大納言。順調な昇進を遂げたが、安永七年六月、事により、解官勅勘を被った。翌々月には許されたが、自ら官途を絶って、出仕することなく、亡父の遺志を継いで国史の編纂に力を尽くし、寛政一〇(一七九八)年まで前後二十二年間を要して「続史愚抄」禅全八十一冊を著した。国立国会図書館デジタルコレクションの『隨筆三十種』第五集(今泉定介・畠山健校訂編纂/明三〇(一八九七)年青山堂刊)のここから、次のコマで視認出来る。標題は『東園前中納言基辰卿御家魍魎語』(最後の「語」は「(の)こと」と読む)。

「東園前中納言基辰」(もとたつ 寛保三(一七四三)年~寛政九(一七九七)年)は公卿東園基楨(もとちか)の子。安永元(一七七二)年、参議となり、後、権中納言・正二位に進んだ。なお、「東園」は辞書では「ひがしぞの」と読むが、ウィキの「東園家」では、個別当主に於いて、一律に「ひがしその」と訓じている。

「葉室大納言頼照」葉室家当主に、この名はない。基辰と同時代人であるから、これは第二十八代当主葉室頼熙(よりひろ 寛延三(一七五〇)年~文化二(一八〇五)年)であると思われる。

「横川(よかは)の僧都の、うき舟を見いでけむためし」「横川の僧都」は「源氏物語」のコーダ(五十四帖「夢浮橋(ゆめうきはし)」)のすぐ前の「手習(てならひ)」(五十三帖)以降に登場する、浮舟を助けて出家させた架空の人物である。当該ウィキによれば、『「横川の僧都」とは、僧都の位をもって横川を拠点に活動している僧侶であることに由来する呼称である』。『多くの弟子を持ち』、『比叡山の最も奥にある横川中堂を拠点に修行している』、『しばしば』、『宮廷に呼ばれるほど』、『徳の高い僧都の位を持った僧侶で』、『年齢は』五十『歳』ほどで、『入水した』ものの、『死にきれなかった浮舟を助ける』。『後に』、『その願いを聞き、浮舟を出家させた』。『この人物は「いと尊き人」と記されており、優れた僧侶としての側面を持ちながらも、年老いた母尼が病に倒れたと聞くと』、『修行を中断して』、『母の元に赴くような』、『ともすれば』、『俗物的とも見えかねない側面をともに持ち合わせている』。「源氏物語」には、『多くの僧侶が登場するが、この人物ほど』、『人間が描かれている人物は』他に『いないともされ』、「源氏物語」終盤の『二巻において』、『さまざまな問題を提供する存在であり』、浮舟の物語=「宇治十帖」、『ひいては』、「源氏物語」『全体の主題・構想を解明する手がかりとして』、「源氏物語」研究に『おいて』、『最もよく議論されるテーマの一つになっている』とある。以下、モデル論が続くが、それはリンク先を見られたい。但し、この場合、この下女を攫わんとしたニュアンスもあることから、「横川の僧都」とは、天狗に変じた高慢僧のイメージを付加していることは言うまでもない。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「早道」 / 「は」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇を以って、「は」の部は終わっている。]

 

 早道【はやみち】 〔翁草巻五十七〕石原市正《いちのしやう》は郷中《がうちゆう》の神職なり。きはめて早道のをのこにて、常に浪花《なには》に友有りて、これへ往きかふ事、近村へ経歴《けいれき》する如し。日返りに参宮せし事有りしとかや。或時用事有りて、山道を通るに、山賊二三人有りて、酒手《さかて》を乞ふ。爰(ここ)ぞと思ひて、懐へ手を入れ、サア酒手をくれん、我に続けよとて、随分逸足(いつそく)を出《いだ》して歩む。さらでだに早道のをのこが逸足を出せるならば、なにかは続くべき。山賊も一二町が程は追ひかけしが、あれは天狗歟《か》と罵《ののし》る音、幽(かす)かに跡に聞えて止みぬ。その時著たる菅笠の菅、風を含みておのづから抜けたる由、自身が物語りなり。その友たる人、兼ねて早道に付《つい》て見たく思ひ、石原にかくと申せば、とても叶ふまじ、入(い)らぬものと留《とど》めけれども、遠方は所詮及びがたし。責めて祗園清水《きよみづ》<京都市東山区内>は同道しなんと云ふ。さらばとて伴ひけるに、何となく足取りおくるゝ儘に、或ひは走り追付きて、漸《やうや》く祇園迄はたどりつけるが、最早叶はずとて、二軒茶屋の辺に腰をかけぬ。さればこそと石原ばかり清水へ参る。跡にて大息《おほいき》をつき、あつき茶を一服たべ切らぬ内に、はや石原は向うより戻りぬ。希代のわざなりけり。常に石原が云へるは、世上の人、足ばかりにて歩行《ありき》する故《ゆゑ》草臥(くたぶれ)るゝなり、我はある時は足にて歩み、また腹にて歩み、さて手、さて腰と歩き所《どころ》を替るなり。それにて足休まりて草臥るゝ事無しと申しき。総じて一事に得たる人は益《えき》有りて、楠《くすのき》の泣男《なきをとこ》すら功を立てにき。まして早道など、武にありては云ふに及ばず。常々の益いくばくならん。 〔奇異珍事録巻三〕有徳院様<徳川吉宗>御代の内、御鷹匠に桑山六郎兵衛と云ふ者あり。至つて達者にて、道の早き事妙なり。急ぎの時は著たる菅笠ひうと返りたるが、先へ著くまで元のごとくにならざりしとなり。享保年中に、鎌倉<神奈川県鎌倉市>ヘ一日に遣はされたる所、御本丸を六ツ時<午前六時>過に出で、鶴岡八幡へ相越《あひこ》す。その日七ツ時<午後四時>過《すぎ》に罷(まか)り帰り、申上げ相済《あひす》みしとなり。御鳥見組頭(おんとりみぐみくみがしら)西尾太七郎越《おこ》したる書物の内にあり。

[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂六(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『石原市正逸道の事』。「逸道」は、私は「はやみち」と訓じておく。

「楠の泣男」楠木正成が千早城へ移るに際し、一芸に秀でた者を家来として募ったところ、御伽衆として百姓の佐兵衛という男が手を挙げた。彼が話を語ると、如何なる相手でも泣いてしまうと言うので、正成も彼の話を聴いてみたところが、そのかの正成も、思わず泣いてしまい、結果して、佐兵衛は正成公に召し抱えられらたが……以下は、参照した個人サイトと思しい「手垢のついたものですが」の「講談るうむ」の「『楠木の泣き男』あらすじ」に詳しいので読まれたい。

「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(「三の卷」の三条目『○達者』)で視認出来る。

「享保年中」一七一六年から一七三六年まで。

「御鳥見組頭」「鳥見」は江戸幕府の職名の一つ。当該ウィキによれば、『鷹狩場の管理と将軍などが鷹狩をする際の準備にあたった。なお、その源流は中世に遡り、諸藩の中にも同様の役職を設置したところがある』。『鷹匠が鷹を調教する役目を担ったのに対して、鳥見は鷹狩を行う現地(鷹狩場)における鳥の生息状況を監視して』、『より獲物の多い場所へと導く役割を担った。また、鷹狩場が一定の地域に固定されると、密猟の防止や獲物となる鳥への餌付け、更に周辺農村部における人員動員や治安確保も担当した。狩に関する知識などは長年の経験によるところが大きく、技能職として世襲される事が多かった』。『また』、『鳥の生息状況を見ると称して、武家屋敷・大名屋敷に入ることもあったことや、その職責からして』八十『俵』五『人扶持』と『大きいことから、諜報部員としての側面があったとも言われている』。『家康以来、江戸幕府歴代将軍が鷹狩を愛好した事から』、『こうした役職は』、『その時々に応じてあったと考えられているが、若年寄の下に』十『人が鳥見に任じられて正式な役職として成立したのは』、寛永二〇(一六四三)年の『ことである。徳川綱吉の』「生類憐れみの令」に『よって』、『一時』、『大幅に削減されたが、徳川吉宗の時代に復活して以後』、『拡張された。その後、徳川慶喜が西洋軍制を採用する方針を固めた』慶応二年十二月(西暦では既に一八六七年)、『廃止された』。『なお、現地に滞在した在宅鳥見の下には』、『周辺農村から村役の一環として「鷹番」が登用されていたが、その負担は大きく』、『将軍鷹狩の際の人夫徴発と合わせて』、『農民一揆などの騒動を起こす一因にもなった』とある。因みに、「鳥見組頭」は定員二名で、二百俵高・野扶持(のぶち:「鷹野の扶持」の意)五口・役金二十両であった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「馬場の沓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 馬場の沓【ばばのくつ】 〔裏見寒話追加〕一国一城の御方、或夜夢に正しく祖廟の御告《おつげ》と覚しく、信玄の長臣馬場美濃は忠功の良弼《りやうひつ》、信義の良士たり、今当家中に濃州の子孫あり、早々取立て得さすべしと宣ふと御告ありて、御夢覚めければ、翌日老臣等に命じて、御領国武陵の御留守まで御尋ね有りしかども、美濃が末葉《ばつえふ》なし。爰(ここ)に軽き御家人の中に、馬場某と名乗る者あり。長臣、彼《かの》人に云ふ。御辺《ごへん》馬場某と名乗りながら、この度《たび》撰挙《せんきよ》に名乗り出でざるはいかなる故にや、但(ただし)濃州とは姓氏の所違《たが》へりや。馬場答へて云ふ。某《それがし》事甲陽の馬場にして、美濃が末葉とは伝へ聞きたれども、家衰へ運拙《つたな》くして卑陋(ひらう)に堕つ、系図伝来の武器などは所持仕《つかまつり》たれども、証拠なき事を申出《まふしいで》て、却《かへつ》て人口《じんこう》の譏(そしり)を得んよりは、口を閉ぢて罷り在ると申す。その後《のち》また大守の御夢《おんゆめ》に、かの馬場何某こそ美濃が末《すゑ》なれば、早早《はやはや》加増立身を進め玉へと見玉ひぬれば、彼《かの》士を召出《めしいだ》され、禄を増し、務《つとめ》を転じ玉ひ、至《いたつ》て清直の廉士なりしかば、流石(さすが)名誉の子孫なりと御感《ぎよかん》有《あり》て、汝《なんぢ》甲州に趣き、同姓の氏族を尋ね、系図を正して来《きた》るべしとの命《めい》を蒙り、かの士木曾路を下りて、教来石《けうらいし》の関を越えて、甲州に入り来《きた》る。馬場思ふに、辺鄙《へんぴ》にては先祖の来由《らいいう》も知れ難からん、府中の繁花《はんくわ》なる処へ至り、暫く逗留して、姓氏の跡をも尋ねばやと思ひ、韮崎<山梨県韮崎市>の駅にて権兵衛といへる駅馬の問屋に寄りて馬を借《か》る。亭主云ふ。馬は八歳か、白河原毛《しらかはらげ》を出《いだ》すべしと。即ちその馬に乗りて府中<山梨県甲府市>へ心ざし、塩川河原《しほかはがはら》を行くに、馬の沓(くつ)切れしかば、馬士《ばし》云ふ。おのれがやうに沓持《くつもち》の悪きやつはなし、よしよし馬場の沓にても買うてはかせんといふ。かの士これを問うて云ふ。馬場が沓とは何ぞや。答へて曰く、この小山の内に老人あり、齢《よはひ》八十余にして耕作に倦(う)み、今は沓を作りて売しろなし、露命をつなぐ、古ヘは大名の子孫とか申伝ふるが、渠《かれ》が沓を馬場が沓と申すと答ふ。何某好もしく馬士を按内《あんない》としてかの山に至らんといふ。馬士笑うて云ふ。老人は乞食人なり、諸士歴々の御入《おはい》り有る所ならずといふ。終《つひ》に何某《なにがし》が云ふ。我願はくば老父に逢ひて問答する事ありと。終に馬士に按内させて、かの老父が許に至りて見るに、漸《やうや》く九尺四方ばかりの小屋に繿縷《ぼろ/らんる》を著《ちやく》し、沓を作り居りしが、何某を見て敢て一礼もなく、今日貴殿柴廬(いほり)を尋ね玉ふは、家系の望みと察したり、貴殿濃州嫡流たれば、容易(たやす)き事なり、我老耄(ろうもう[やぶちゃん注:ママ。])露命、明日の事も知らざれば、系図を譲り申さんとて、錦の袋に入《いり》たる一軸を出《いだ》して、士の前に進呈す。士欣然として系図を頂き、則ち披《ひら》き見るに、家系の正譜紛れなし。再拝頓首して、老父に恩謝し、金《かね》を与へて報ぜんとするに、老父がいふ。当国に馬場の家系を求め、正統を名乗らん事を欲する者多し、渠等《かれら》に与ふれば、老父生涯を安楽に送るほどの謝礼を受く。然《しか》れども正統ならざる者には、万金を積むといへどもこれを与ヘず、貴殿は濃州の正統なればこそ、今日爰(ここ)に来《きた》るを待ちて譲りて、愚翁も悦ばしき事甚し、聊《いささ》か礼物《れいもつ》に及ばんやと受けず。その姓名を問へば、愚老は姓も名もなし、只韮崎の馬場が沓と答ふ。何某悦びの余り、早々暇乞《いとまごひ》し帰国して、主君にその儀を言上《ごんじやう》なしければ、大守正夢《せいむ》の御告(おつげ)を感じさせ玉ひ、またかの士の家禄を増し、その職に進め玉へば、何某謹(つつし)みていふ。臣が今日《このにち》の青雲、偏(ひとへ)に韮崎の老父故《ゆゑ》なり、願くば今一度《ひとたび》かの地に到り、老父を伴ひ来りて、父とし仕《つか》へんと願ふ。大守許容し玉ひければ、再度甲州韮崎ヘ立越《たちこえ》て、始めの問屋・馬士などを尋ぬるに跡方もなし。土地の者の云ふ。何ケ年にも問屋の権兵衛、馬士八蔵といふ者なし、また白河原毛等《など》の馬もなしと。何某も不思議に思ひ、塩川河原に行きて、老父が柴庵(いほり)を問ふに跡もなく、只松柏茂りて風の音森々《しんしん》たり。森の内に一堆《いつつい》の古墳有り。これ則ち馬場美濃が廟跡なる事明らけし。何某落涙袖に余り、かの墓前に参拝す。蓋(けだ)し濃州の霊、仮《かり》に顕れて嫡々《ちやくちやく》の末葉に家系を譲りしもの歟(か)。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの『○韮崎の馬塲が沓』がそれ。非常によく出来た怪奇談で、ひさびさに感動した。

「馬場美濃」教来石信保(きょうらいし のぶやす 生没年不詳)という戦国武将がおり、当該ウィキによれば、『通称遠江守。馬場信保とも』。『馬場信春の父とされる』。『教来石信明(駿河守)の子。武田信虎につかえ、武川谷大賀原根小屋の城に住んだという』。『諏訪との国境に近い教来石(山梨県北巨摩郡)を領していた』とあった。而して、以上に出た馬場信春(永正一二(一五一五)年或いは永正一一(一五一四)年~天正三(一五七五)年)というのは、サイト「戦国大名研究」の「馬場氏」のページよれば、「美濃守信春」を名乗り、『信虎・信玄・勝頼三代に仕え、信玄全盛期のころにその麾下にあって知謀とくにすぐれた有力武将を指して、後世の人は「武田の四名臣」といって賞賛した。そのなかでも「智勇つねに諸将に冠たり」(甲斐国史)とあるように、一国一城の大守となっても人後に落ちぬ真の名将と称されたのが』、『馬場美濃守信春であった。信虎の代にすでに南信州・諏訪攻め、北信濃・佐久方面へ出陣して数々の功名があり、信玄の代には全幅の信頼を得』、『侍大将となり、勝頼の時代は譜代家老衆の筆頭格となった』。天正三(一五七五)年、『勝頼は』「設楽原(しだらがはら)の決戦」を『前に軍議を開いた。その席で信春は「一戦無用」と反対したが』、『勝頼は聞かず、武田軍は三千挺の鉄砲の前に惨敗。信春も壮烈な討死をとげた』。『家督は弟信頼が継いだが、甲斐を去って和泉国淡輪に蟄居したという。その孫信成は武田滅亡後、他の武田衆とともに家康に属し、以後』、「小牧・長久手の戦い」『などにも出陣して戦功をあげている。子孫は幕臣となった。いまもなお、信房の子孫と称する家が各地にちらばっている』とあった。信治は後に信房と改名しており、彼のウィキもあるので、参照されたい。そこに『豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地で、石碑もある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)である(この附近、私には、行ったことがないのに、ブログ・カテゴリ『早川孝太郎「猪・鹿・狸」【完】+「三州橫山話」【完】」』で、散々、ヴァーチャルに歩き回った、非常に細かに知っている場所であるが、この碑は知らなかった)。ともかくも、君主の夢に出てきたのは、まず、この男と考えて、よい。

「教来石の関」山梨県北西端の北杜市白州町(はくしゅうまち)上教来石。これで「かみきょうらいし」と読む。釜無川に沿い、江戸時代は甲州街道の台原(だいがはら)・蔦木(つたき)の間にあった旧宿駅であった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「韮崎」「山梨県韮崎市」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「白河原毛」馬の毛色の名。川原毛(灰白色・黄白色で、鬣・下肢・蹄が黒いもの)の、鬣(たてがみ)が白みを帯びているもの。「しろかわらげ」とも読んだ。

「塩川河原」塩川(しおかわ)は当該ウィキによれば、『山梨県北杜市から同県韮崎市及び甲斐市境界付近までを流れる富士川水系の一級河川で』、『奥秩父山塊の主峰金峰山付近から端を発し』、『増富温泉郷を流れる本谷川、瑞牆山付近に端を発する釜瀬川が合流した地点から下流が塩川となる。現在この合流点には塩川ダム建設による人造湖(みずがき湖)があり、実質的には当ダムから下流域が塩川である』(ここ)。『北杜市須玉町を南流し、韮崎市へ入ると概ね南東方向へ流れ、国道』二十『号双葉バイパスの塩川大橋付近で釜無川に合流する』とある。ここが合流点である。]

2024/01/05

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「八百比丘尼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 八百比丘尼【はっぴゃくびくに】 〔笈埃随筆巻八〕『万葉集』に、坂上大嬢《さかのうへのおほいらつめ》贈家持「云々(トニカクニ)、人者(ヒトハ)雖云(イヘドモ)、若狭道乃(ワカサヂノ)、後瀬乃山乃(ノチセノヤマノ)、後毛将会君」(ノチモアハムキミ)。『枕草紙』に「山は三笠山、後瀬山、小倉山、これ特にその名を得て」云々。この山の麓に八百比丘尼の洞有り。空印寺といふ寺にまた社有り。八百比丘尼の尊像は、常に戸帳《とちやう》をひらく。花の帽子を著し、手に玉と蓮花《れんげ》やうの物を持ちたる座像なり。また社家に重宝有り。比丘尼所持の鏡、正宗作の鉾太刀・駒角・天狗爪あり。比丘尼の父は秦道満といひし人のよし、縁起に見えたり。初めは千代姫と云ひし。今は八百姫明神と崇むなり。越後柏崎町<新潟県柏崎市>の十字街に大石仏有り。半ばは土に埋《うづま》る。大同二年比丘尼建ㇾ之と彫刻して今に文字鮮明なり。『隠岐のすさび』に云ふ。「岩井津といふ所に七抱(《しち》かかへ)の大杉あり。古(いにし)へ若狭国より人魚を食したるといふ尼来りて、植《うゑ》て八百歳を経て、また来りて見んというて去ると」云々。故に八百比丘尼の杉といふ。この事古老の語りしは、この国今浜の洲崎村に、いづくともなく漁者にひとしき人来り住めり。人をして招き、あるじ儲けす。食を調(ととの)ふる所を見ければ、人の頭《かしら》したる魚をさく。怪しみて一座の友に咡(ささや)き合ふさまして帰る。一人その魚の物したる袖にして帰り、棚の端に置きて忘れけり。その妻常のつとならんと取《とり》て食《しよく》しけり。二三日経て、夫問ふに、しかじかの事いふに、驚き怪しみけり。妻いふ。初め食する時、味ひ甘露のごとくなりしが、食《くひ》終りて身体とろけ、死して夢のごとし。久しく覚《さ》めて気骨健《すこや》かに、目は遠きに委《くは》しく、耳は密《みつ》に聞き、胸中明鏡のごとしと云ふ。顔色殊に麗はし。その後世《こうせい》散じて、夫を始め類族皆悉く生死を免かれずして、七世の孫もまた老いたり。かの妻ひとり海仙《かいせん》となり、心の欲《ほつ》する所に随ひ、山水に遊行《ゆぎやう》し、若狭の小浜《おばま》<福井県小浜市>に至りしとぞ。<この事三四六に見えたる白比丘尼《はくびくに》と同じなるべし>

[やぶちゃん注:「笈埃随筆」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は『○八百比丘尼』。

「万葉集」「坂上大嬢贈家持」「云々(トニカクニ)、人者(ヒトハ)雖云(イヘドモ)、若狭道乃(ワカサヂノ)、後瀬乃山乃(ノチセノヤマノ)、後毛将会君」(ノチモアハムキミ)」「卷第四」に載る「坂上大孃(さかのうへのおほいらつめ)」の「同じ大孃の家持に贈れる歌二首」の第一(七三七番)、

   *

かにかくに人は言ふとも若狹道(わかさぢ)の後瀨(のちせ)の山の後(のち)も逢はむ君

この「後瀨の山」は、古くから、国府(現在の小浜市府中)の南西にあって都人に知られていた歌枕。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「枕草紙」「山は三笠山、後瀬山、小倉山、これ特にその名を得て」「枕草子」の「山尽くし」の章段。但し、引用は杜撰で、「これ特にその名を得て」などは、どこの異本から引いたものか判らぬ。角川文庫(石野穣二訳注・昭和五四(一九七九)年刊)を参考に以下に示す。

   *

山は、小倉山。鹿背(かせ)山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。忘れずの山。末(すゑ)の松山。かたさり山こそ、いかならむと、をかしけれ。いつはた山。かへる山。後瀨(のちせ)の山。朝倉山。よそに見るぞ、をかしき。おほひれ山も、をかし。臨時の祭の舞人(まひびと)など思ひ出でらるなるべし。三輪の山、をかし。手向(たむけ)山。まちかね山。たまさか山。待兼山。玉坂山。耳無山。

   *

「駒角」馬の頭部に生えた角状の角質の腫瘍(概ね良性のものが多いようである)。私の「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 馬角」及び「フライング単発 甲子夜話卷十一 12 馬角の圖」を参照。孰れも図有り。

「天狗爪」本書で先行する「天狗の爪」を参照。軟骨魚綱ネズミザメ目Otodontidae 科(或いはネズミザメ科 Lamnidae)オトドゥス Otodus 属、或いは、カルカロクレス、又は、ホホジロザメ属 Carcharodon †ムカシオオホホジロザメ Otodus megalodon 、或いは、 Carcharodon megalodon で、約二千三百万年前から三百六十万年前の前期中新世から鮮新世にかけて生息していた絶滅種のサメの歯の化石。

「秦道満」安倍晴明と敵対したとされる平安時代の非官人の陰陽師蘆屋道満と同一人物とする説がある。

「越後柏崎町の」「新潟県柏崎市」「十字街に大石仏有り。半ばは土に埋る。大同二年」(八〇七年)「比丘尼建ㇾ之と彫刻して今に文字鮮明なり」この石仏は現存していない模様である。

「隠岐のすさび」日御碕(ひのみさき)神社の神主であり、俳人で上島(うえじま)鬼貫とも親交あった日置風水(?~宝永六(一七〇九)年)が、隠岐の島前・島後を旅した際に書いた紀行文。

「岩井津といふ所に七抱(かかへ)の大杉あり。古(いにし)へ若狭国より人魚を食したるといふ尼来りて、植《うゑ》て八百歳を経て、また来りて見んというて去ると。」「故に八百比丘尼の杉といふ」当該部には、「国書データベース」のここで、写本で視認出来る。ここの左丁の二行目下方から。

「三四六」(本底本のページ数。ここ)「に見えたる白比丘尼」私の「白比丘尼」はここ。そちらで存分に注しておいたし、更にそれより前の「人魚」の私のリンク先も合せておけば、よかろうかい。まんず、最近の大物では、『南方熊楠「人魚の話」(正規表現版・オリジナル注附き)』が読み応えがありますぞ。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「蜂と蜘蛛」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 蜂と蜘蛛【はちとくも】 〔牛馬問巻二〕或人曰く、蜂に君臣の義有り。今その窠(す)を見るに、古人のいふ所のごとし。親しく君臣たるの証を見る事有りや否や。曰く、予<新井白蛾>は面(まのあた)り見る事なし。亡父かたりしは、東武深川<東京都江東区>に本誓寺といふ寺有り。この寺の方丈、隠居して草庵を寺辺に結び、塵宇《ぢんう》を静かなるいほに遁れ、池中《いけなか》に蓮をうゑて友とせられしに、一とせの夏、涼を水辺に忘れて、黄昏《たそがれ》を催するの頃、池上《いけがみ》の樹間に大なる蜘蛛の糸はかなくもかけ渡る有様に、浮世を観じながめたるに、一ツの蜂飛び過《すぐ》る。あやまつて蜘蛛の家にかゝる。蜂は羽うつて逃(に)げんとし、蜘蛛は糸をちらして繫《つな》がんとす。暫く挑み闘ひしが、竟(つひ)に蜂はにげ去りぬ。蜘蛛は破《や》れたる家を捨て、直《ただち》に池中に下り、荷葉に落ちてその荷葉(はすのは)[やぶちゃん注:前になくてここにあるのは、ママ。]を廻《めぐ》る事、幾度《いくたび》といふ事を知らず。見るうち、かの荷葉次第々々にしぼみよりて、そのかたち括囊(かつなう)[やぶちゃん注:袋(ふくろ)の口を括(くく)った状態のようなこと。]のごとし。蜘蛛はそのうちに入《いり》て見る事なし。その間に数万《すまん》の蜂むれ来《きた》る事、霧の降るに似たり。和尚も庵室に入《いり》て、障子手早くさしつめ、紙を穿《うが》ちて窺ふに、蜂、池上にみちて色目を不ㇾ分《わかたず》。暫く有《あり》ていづちともなく散り失せぬ。和尚また、庭中に出《いで》て見るに、右括囊の如くなる荷葉、蜂螫(さ)してそのあと生絹《すずし》[やぶちゃん注:練らない生糸で織った絹織物。また、薄くて軽い絹織物。]のごとし。斯かく有《ある》うへは、この郭(かこひ)に籠《こも》るとも、蜘蛛の命助かるべきにあらずと思ひ、かの囊(ふくろ)のごとくなる荷葉を穿ちて見れば、蜘蛛は糸を下《くだ》し、その身空中に懸り居《をり》たれば、何の恙(つつが)もなくて有りし。恐ろしの蜘《くも》の振まひかなと、和尚の物語なりといへり。これはじめ来《きた》るもの君王《くんわう》なるべし。小蟲すらこの義有り。またこの工《たく》み有り。豈《あに》人として茫々(べうべう)たる[やぶちゃん注:ぼんやりした状態でいるさま。]べけむや。亡父、この事を語りし。かの和尚の名を忘れぬ。今にしておもへば、貞享、元禄の比なるべし。〔寓意草〕蜂の刺したるに、いへつ芋《いも》[やぶちゃん注:サトイモの古称。]のから切りてすれば痛まず。芋は蜂を制するものにや有らん。大野右宇衛門《おほのうゑもん》といひける人の庭へ、うすしろき蜘蛛の大《おほき》なるが、逃げまどひていで来たれり。蜂にやおはるらんとみをれば、あかき蜂の三《みつ》ばかり、羽をひらめかして尋ねきたれり。庭に芋のおひて、まだ開かざる葉のほそく巻きたるありけり。蜘蛛はやがてまける芋のはの中にかくれたるを、蜂の追ひつきて葉ごしにさしたれば、たちまちおちまろびて死にぬ。のこる蜂もみなさして落ちたり。やゝありて蜘蛛は、葉の中よりいでて逃げいきけり。いものはちに毒ある事を知りけるにやあらん。

[やぶちゃん注:「牛馬問」「烏賊と蛇」で既出既注。この正字原文は国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧三期・㐧五卷(昭和四(一九二九)年日本随筆大成刊行会刊)のここにある『○蜂の君臣』がそれ。

「寓意草」「鼬の怪」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのそちらで示したのと同じ活字本で、当該部を視認出来る(左ページ上段四行目から)。

「蜂の刺したるに、いへつ芋《いも》のから切りてすれば痛まず」ネットで調べると、事実、本邦の各地で、こういう民間療法が実際にあり、「効果があった」とする記載も見受けられた。柏崎の例(『蜂刺されには、里芋をおろして汁をつける。蜂だけでなく凍傷やしもやけ、火傷にも効果がある』とある)、山口県の例(『サトイモの茎汁』として、『ハチに刺された時に茎を搾って汁を患部にこすりつけると痛みや腫れがひいていく』。『ミツバチ、スズメバチ、アシナガバチで効果があった。』とある)。但し、どのような成分が効果があるのかは、調べてみても、判らない。里芋でアナフィラキシー・ショックは止めようがないと思われるから、ちょっと危険がアブナい感じがする。

「うすしろき蜘蛛の大なる」蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ属アシダカグモ Heteropoda venatoria の脱皮直後の個体であろう。

「あかい蜂」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科スズメバチ属チャイロスズメバチ Vespa dybowskii か。個体によっては、かなり赤い色のものがいる。

「いものはちに毒ある事」これも私は聴いたことがない。上記の民間療法を元にした類感呪術的発想じゃないかねぇ?]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「バタバタ」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 バタバタ 〔筆のすさび巻一菅茶山。芸州広嶋の辺にバタバタといふ異物あり。夜中屋上(やのうへ)或ひは庭際《にはぎは》に声ありて、ばたばたと聞ゆる故に名とす。たとへば畳を杖にて打つ音に似たり。好事《かうず》の人々これを見あらはさんとて、そこに行きて見れば、七八間も彼方に聞えて見窮むることあたはず。川下に六町目といふ町ありて、その辺《あたり》最も多く、他の町々城内にもあり。狐狸の所為かといへども、それにもあらずといふ。<『北窻瑣談巻三』『譚海巻十』にも同様の記載がある>

[やぶちゃん注:「筆のすさび」「奇石」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらで正字表現で視認出来る。

「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(左ページ五行目から)。

「譚海巻十」のそれは、事前に「譚海 卷十 藝州廣島城下はなはたといふ化物の事(フライング公開)」以上と妖怪「バタバタ」や城下の「六町目」の注も。そちらで附しておいたので、見られたい。]

譚海 卷之十 藝州廣島城下はたはたといふ化物の事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○藤州廣島の城下、六丁目と云(いふ)所には、「ばたばた」と云(いふ)物、有(あり)。

 是は、世にあまねく知(しれ)たる化物(ばけもの)なり。夜に入(いり)ぬれば、いつも、空中にて、人の、筵(むしrを)をうち、ちりなどはらふごとき音して、

「ばたばた。」

と鳴(なり)わたる、戶を出(いで)てうかゞヘば、かしこに聞ゆ。

 夫(それ)を尋ねゆきてみむとすれば、又、こなたに、ひゞく、つひに、其所を、たしかにみとむる事、なし。

 又、いかなるものの、此音をなすといふ事を、あきらかにする事も、なし。

 年月かさねて、只、かく、毎夜ある事なれば、其(その)國人(くにびと)は、あやしまずしてあることなり。

[やぶちゃん注:「バタバタ」妖怪「畳叩き」(たたみたたき)の別名。当該ウィキによれば、『畳叩き』『は、和歌山県、山口県、広島県、高知県に伝わる怪音現象』で、『夜中に畳を叩くような音が聞こえる』怪の正体とする。『和歌山では宇治という町に出たので』、「宇治のこたま」とも『呼ばれた。紀州藩編纂の地誌』「紀伊続風土記」(天保(一八三〇年~一八四四年)年間成立)に『よれば、冬の夜明け頃』、『バタバタという音が東から聞こえ始め、西へ去っていくので』、「バタバタ」とも『呼んだという』。「岩邑怪談録」(がんゆうかいだんろく:江戸後期から明治時代にかけて、岩国で語られていた怪談話を纏めたもの。戦後の出版)では、『破多破多という字を当て、山口県岩国で文久年間の秋から冬にかけての時期に起こった現象で、午後』十『時頃から』、『翌朝未明まで』、『渋紙を打つような、もしくは』、『大きなうちわを激しく仰ぐようなバタバタという怪音が町中で聞こえたという』。『広島でも同様の怪異があり、冬の夜に屋根の上や庭で、あたかも畳を杖で叩くようにバタバタと音がしたことから、バタバタ、もしくはパタパタとも呼ばれた』(本件)。『この怪異の原因は』、『そこにある』、『触ると』、『痕になる石の仕業とされ、その石をバタバタ石と呼んだ』。『安政時代の随筆』「筆のすさび」に『よれば、ある物好きな人が正体を見極めようと、音の方向を追いかけたところ、常に』七、八『間』、『先から音がしてきりがなかったという』(本件と同じ)。『また』、『ある人は、バタバタ石の中から小人が現れて石を叩いているのを見つけ、捕まえようとしたが』、『石の中に戻ってしまったので、石を持って帰ったところ、石と同じような痣が顔にでき、慌てて』、『石をもとの場所へ戻すと、痣も消えたという』。『高知では』、『屋敷に住む狸の仕業とされ、屋敷や近隣では聞こえず』三百『メートルほど』、『離れた場所で聞こえるという』。『ポルターガイスト現象だという説もある』とあった。

「六丁目」「広島市」公式サイト内で閲覧出来る江戸時代の広島城下の絵図を見たところ、単に「六丁目」と記す箇所は、広島平和記念資料館の裏側、元安川左岸直近(この中央附近:グーグル・マップ・データ)にあった。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「破船の掛硯」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 破船の掛硯【はせんのかけすずり】 〔譚海巻九〕相州みうら城の嶋<神奈川県三浦市三崎尖端にある島[やぶちゃん注:城ヶ島のこと。]>の蜑(あま)、水をくゞりかけ硯(すずり)を得たるもの有り。これは破船の中に有りたる物なるべし。金子《きんす》いかほど得たることにや、今にその蜑の家はかづき<潜水>を業としながら、田地あまたもちて、人に作らせて豊かにてあり。岩のはざまにかけ硯はさまれて、いくとしへたるとも知らず、箱の面に、ことごとく、具[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じだが、これは明らかに「貝」の誤植である。後掲する私の電子化を参照のこと。]の類、取付きて、青苔《あをごけ》生ひたれば、めにたつる蜑もなかりしに、この蜑具[やぶちゃん注:同前。]の付きたるあはひに、引出しの釻(くわん)[やぶちゃん注:引き手。]少しばかりあるを見付けて、取て来《きた》ることとぞ。破船の砌(みぎり)ならば寃魂(ゑんこん)<亡霊>のたたりも有るべけれども、年へし事にて何のさはりもなく、子孫今に繁昌せり。しかしながら天の賜《たまもの》なるべしと、人の語りぬ。

[やぶちゃん注:事前に本年元日に「譚海 卷九 相州三浦の蜑海中に金を得たる事(フライング公開)」を公開しておいた。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「走り大黒」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 走り大黒【はしりだいこく】 〔譚海巻十二〕日光山にはしり大黒と云ふあり。信受のもの懈怠(おこたり)の心あれば、走り失せてその家にましまさず、殊に霊験ある事おほし。これは往古中禅寺<栃木県日光市内にある天台宗寺>に大《おほき》なる鼠出《いで》て、諸経を喰ひ破り害をなせし事ありしに、その鼠を追ひたりしかば、下野のあしほ<栃木県日光市足尾町>まで逃げたり。鼠の足に緒《を》を付けてとらへて死《しし》たるより、其所《そこ》をあしほといふとぞ。あしほはあしをなり。さて死たる鼠の骸《むくろ》に、墨を塗りておすときは、その儘(まま)大黒天の像になりたり。それより日光山に、この鼠の死たる体《からだ》を重宝《ちようほう》して納め置き、今はしり大黒として押出す御影《みえい》はこれなり。彼《かの》山の秘事にて不可思議なり。

[やぶちゃん注:事前に本年元旦、最初の電子化注として、「譚海 卷十二 大黑天緣起の事(フライング公開)」を公開しておいた。但し、宵曲は冒頭の大黒天に就いての概説部をカットしている。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「芭蕉の怪」

 芭蕉の怪【ばしょうのかい】 〔中陵漫録巻三〕琉球は南方の大海中に在る小嶋故、種種の災害有り。その土民は大抵芭葛(バセヲフ)[やぶちゃん注:ママ。「ばせうふ」が正しいゐ。芭蕉布。]を著《ちやく》す。故に蕉園《せうゑん》とて芭蕉を植ゑたる園《ゑん》諸所にあり。二里も三里も続きて林のごとし。夜分、その下を往還すれば、果して異形《いぎやう》の者に逢ふと云ふ。案ずるに、凡そ諸草の中《うち》、芭蕉より大なる者なし。その精《せい》出《いで》て人を驚かすなるべし。日本にても信州に若き僧、書を読みて夜更に至る。傍《かたはら》を見れば美女一人来て媚《こ》ぶ。その僧、短刀を取りて切排(《きり》はら)へば、化《け》して見る所なし。翌朝その血の引きたる処を尋ねて往きて見れば、庭間の芭蕉切り倒して有るを見る。これ乃《すなは》ち芭蕉の精なり。また琉球にては、婦人、夜六時《むつどき》[やぶちゃん注:午後六時。]より他に出《いづ》る事なし。若し出る事あれば果して美しき男子《なんし》、或ひは種々の怪物を見る。これを見る時は必ず懐姙す。十月《とつき》して産すれば、鬼面の嬰児にして牙歯《げし》有りと云ふ。この時𥮷葉(クマザサ)を揉み粉《こ》にして、水に浸して飲ましむれば、忽ちに咽《のど》に塞《ふさが》りて死すなり。この時の為に家々に𥮷葉を取《とり》て貯へ置くと云ふ。一度《ひとたび》この児を孕むれば、毎年この児を孕むと云ふ。尤も人の知らぬやうにする事なり。これ等の災怪《さいかい》をふせぐには、日本刀を差して往還(ゆきき)すれば必ず逢ふ事なし。然れども、日本刀大禁にて彼《か》の地に入る事なし。希(まれ)に医者などは深更に往行《わうかう》する故、佩(おび)る者有りと云ふ。これ等の説、琉球人登川筑登(ヂクドン)の親しく余<佐藤成裕>に談《かた》りし事なり。<この事『中陵漫録』巻十三・十四にも見える>

[やぶちゃん注:「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。標題は『○芭蕉の災怪』。

「芭蕉」単子葉植物綱ショウガ目バショウ科バショウ属バショウ Musa basjoo 。琉球諸島では、昔から、葉鞘の繊維を用いて、芭蕉布を織り、衣料などに利用していた。私の亡き母は鹿児島生まれで、芭蕉が好きだった。今の家の昔の庭には、表と裏に、都合、二株が植えられていた。

「登川筑登」正確に音写すると、「ぬぶんじゃーちくどぅ」であろう。「筑登之親雲上(ちくどぅんぺーちん)」という琉球王国の位階及び称号があり、位階は従七品で、領地(采地)は有しない。所謂、下級士族である。当該ウィキによれば、『琉球士族は、大きく分けて領地を有した殿内(とぅんち)、領地を有しない里之子家(里之子筋目)、筑登之家(筑登之筋目)に分かれる。筑登之親雲上は』、『もっぱら』、『筑登之家の者が昇進してなった。冠は黄冠をかぶり、銀簪を挿した』。『筑登之』(ちくどぅん)『家の者は、子→筑登之→筑登之親雲上→親雲上と出世していく。親雲上』(ぺーくーみー)『は地頭職で領地を有したが、筑登之家の者がここまで出世するのはまれであり、大抵は筑登之親雲上にとどまった。筑登之家は琉球士族の大半を占め、その』殆んどは『無禄士族であり、一握りの者だけが難関の科』(コー:中国の「科挙」に同じ)に『合格して、王府に勤め』、『俸禄をもらうことができた』とある。姓と思しい「登川」は、現在は地名で、沖縄県沖縄市登川(のぼりかわ(グーグル・マップ・データ)として残る。

「この事『中陵漫録』巻十三・十四にも見える」同前で視認して、「卷十三」の「蕉妖」、及び、「卷十四」の「芭蕉女子」の順に電子化する。読点を増やし。一部に記号を加え、改行・段落を成形した。読みは一切ないので、推定で歴史的仮名遣で附したが、一部に留めた。なお、後者の漢文部分には、リンク先では、不審な箇所が複数あるので、いつもお世話になっている「中國哲學書電子化計劃」の原本「庚巳編」(第五巻)の当該電子化、及び、所持する吉川弘文館『随筆大成』版で訂した。

   *

   ○蕉 妖(せふえう)

 昔し、信州の某寺に一僧あり。

 夜、書を讀(よみ)て、深更に至る。

 一美人、來(きたり)て、此僧に戲(たはむ)る。

 此僧、大に怒(いかり)て、此婦人を刀にて打(うち)、去(さ)る。

 其歸路、皆、血點(ちてん)あり。

 翌朝、其血を尋至(たづねいたり)て見れば、庭間(ていかん)の芭蕉(ばせう)、盡く、絕(たえ)て、地上に倒(たふれ)てあり。

 人々、見て、皆、云(いは)く、

「此(これ)、芭蕉の魂(たましひ)、化生(けしやう)して、婦人となりたるべし。」

と云。

 予、始め、此說を信ぜず。後、琉球人に會(くわい)して、琉球の蕉園の事を尋(たづぬ)るに、

「琉球は暖國にして、土民、皆、蕉布を着す。故に山野、皆、芭蕉を植(うゑ)て、糸を取(とり)て、此布を織る。此園を『蕉園』と云。此蕉(せふ)、甚だ、高大(かうだい)に至る、大樹の如し。雨中と雖も、雨の漏(もる)る事、なし。夜、深更に、此中を獨行(どくかう)する時は、必ず、蕉妖に逢ふ。其の形は、皆、婦人なり。敢て人を害する事、なし。只、人の其婦人を見て、驚くのみ。他の害ある事を聞(きか)ず。」

と云。

「此妖を防ぐは、日本の刀なり。『刀を帶(おび)て過(すぐ)る時は、此妖に逢ふ事、なし。』と云(いひ)て、各自、本刀を貴(たふと)ぶなり。」

 此說を聞(きき)て、始(はじめ)て、信州の蕉妖を、信ずるなり。

 又、按(あんづ)るに、此芭蕉と云者は、元來、草なり。草にして、長ずれば、大樹の如し。此勢を以て見れば、『草中の王(わう)』なり。其魂、化(け)して、妖を爲すべし。千年の大樹も、妖を爲す事、あり。乃(すなは)ち、此類ならむとは、云(いふ)べからず。

   *

   ○芭蕉女子(ぢよし)

 予が著(しる)す「聞見小錄」にも載す。

 又、前にも記すが如く、信州の一僧、夜間、書を讀む。美女、來(きたり)て、言語す。此僧、相應ぜずして、遂に、是を切る。忽(たちまち)に、地に倒(たふれ)て、往(ゆ)く處を、しらず。

 明朝、其血を、尋至て、見れば、庭間の芭蕉一株、傷(きづ)せられて、倒(たふ)る。

 是を見て、初(はじめ)て、芭蕉の靈たる事を知る、と云。

 又、予、薩州に在(あり)て、常に琉球人に相逢(あひあひ)て、彼(か)の奇事を問(とふ)に、彼の地に「蕉園」と云(いふ)あり。數里の間、左右、皆、芭蕉、其高さ、三、五丈、其莖を切取(きりとり)て、水溝(みぞ)の中に浸して、其筋を取り、布に織る。乃(すなは)ち、「芭蕉布」なり。此故に、多く、是を植ゆ。

 夜間、其間を獨行する時は、必ず怪に逢ふ。

 その怪、多く、十七、八歲なる美女なり。人々、皆、是を恐る。彼の國、刀を佩(はけ)る者、なし。此中を過(すぐ)る時は、日本刀を帶(おび)て過れば、何の怪に逢ふ事、なし。

 此故に、各々、日本刀を貴ぶ、と云。

 按るに、芭蕉は、草中の最も高大なる者、此故に、此怪靈(かいれい)、出(いで)て怪を爲すべし。尤も、其蕉園は、月夜と雖も、葉、茂(しげく)して、暗く、殊に、獨行、甚だ、恐るべし。

 此地は、狐狸、更になし。若(も)し、狐狸あらば、其怪、尙、且つ、多かるべし。

 唐土(もろこし)にも「芭蕉女子」と云(いふ)事、あり。能く、此故(ゆゑ)に符合す。故に審(つまびらか)に此に記す。

『長洲陸燦曰。馮漢字天章。爲吳學士。居閶門石牌巷口。小齋庭前雜植花木瀟洒可ㇾ愛。夏月薄晚。浴罷坐齋中榻上。忽覩一女子。綠衣翠裳映ㇾ窓而立。漢叱問ㇾ之一。女子斂衽拜曰。兒蕉氏也。言畢忽然入レ戶。熟視之。肌體纎姸。擧止輕逸。甚絕色也。漢驚疑其非一ㇾ人。起挽ㇾ衣相押之。女忙迫截ㇾ衣而去。僅執得一裙角以置所ㇾ臥蓆下。明視ㇾ之。乃蕉葉耳。先ㇾ是漢甞贖隣僧庵中一木。植於庭。其葉所斷裂處。取所ㇾ藏者合ㇾ之。不ㇾ差尺寸。遂伐ㇾ之。斷其根有ㇾ血。後問ㇾ僧。云。蕉甞爲ㇾ怪惑死數僧矣。」』

 此說、是れ、全く、芭蕉の怪なり。

   *

ここで示された漢文は、明の高級官僚であった陸粲(りくさん 一四九四年~一五五二年)が書いた志怪小説集「庚巳編」の一節である。訓読を試みる。ずっと以前から、よく読まさせて戴いているhuameizi氏の「寄暢園別館」の本篇の現代語訳「芭蕉」を参考にさせて貰った。

   *

 長洲の陸燦曰はく、

 馮漢(ひようかん)、字(あざな)は天章。吳の學士と爲(な)り、閶門(しやうもん)の、石牌巷(せきはいかう)の口(くち)に居(を)れり。

 小さき齋庭(さいてい)[やぶちゃん注:書斎。]の前に、花木(くわぼく)、雜(いろいろ)に植ゑて、瀟洒(しやうしや)、愛すべし。

 夏月(かげつ)、薄晚(ゆふぐれ)。浴し罷(をは)りて、齋の中(うち)の榻上(たふじやう)[やぶちゃん注:腰掛の上。]に坐すに、忽ち、一(ひとり)の女子(ぢよし)を覩(み)る。

 綠衣・翠裳、窓に映(は)えて、立てり。

 漢、之れを問ひ、叱る。

 女子、斂衽(れんじん)して[やぶちゃん注:襟を正して。]、拜して曰はく、

「兒(じ)は蕉氏(せうし)なり。」

と。言ひ畢(をは)りて、忽然として戶(こ)に入る。

 之れを、熟視するに、肌體(ひたい)、纎姸(せんけん)として[やぶちゃん注:容姿が、ほっそりとしていて美しく、艶(あで)やかであること。]、擧止、輕逸(けいいつ)、甚だ、絕色なり。

 漢、驚き、其れ、人に非(あら)ざるを、疑ひ、起ちて、衣(ころも)を挽(ひ)き、之れを、相ひ押さへんとす。

 女、忙-迫(いそ)ぎ、衣を截(た)ちて、去る。

 僅かに、執(と)るに、裙(すそ)の角(すみ)を得(え)、以つて、臥(ふ)す所の蓆(むしろ)の下に置けり。

 明(あ)けて、之れを視るに、乃(すなは)ち、蕉の葉のみ。

 是れより先(さき)、漢、甞つて、隣りの僧庵の中(うち)の一木(いちぼく)を贖(あがな)ひ、庭に植ゑたり。

 其の葉(は)、斷ち裂(さ)かされし處、藏(かく)せる者を取るに、之れに合(あ)ひ、尺寸も差(たが)はず。

 遂(つひ)に、之れを伐(き)り、其の根を斷つに、血、有り。

 後(のち)、僧に問ふに、云はく、

「蕉、甞つて怪(かい)を爲し、數(かずかず)の僧(そう)、惑(まど)ひ、死せり。」

と。

   *]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「半婢の亡霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 半婢の亡霊【はしたもののぼうれい】 〔怪談老の杖巻二〕官医佐田玉川《さたぎよくせん》といふ人、駿河台<東京都千代田区内>に居られける。その草履取に関助といふ中間ありしが、身持悪しき好色者にて、茶の間・はしたなどたぶらかしける。柳《りう》といひける半婢(はしたもの)、生れつきも奇麗にて、心だても良きものなり。しかも親元も相応なる百姓の娘なりしが、田舎は自陀落[やぶちゃん注:ママ。]《じだらく》なるものなれば、盛りの娘をやどに置きては、万一不行儀なる事ありては悪しく、江戸の屋敷方にては女部屋に錠口《ぢやうぐち》とて、金箱《かねばこ》同前に油断なく、男たるものは出入《でいり》する事もならぬよし、さこそ有りたきものなれと、田舎の律義なる心より、少《すこし》の縁をたよりに何の弁《わきま》へもなく、ある御旗元衆の家へ奉公させけるが、まづ山出《やまだ》しなれば縫針はならず、食(めし)たきはしたに住みけるが、ふとこの中間(ちゆうげん)が口に乗せられて、念頃《ねんごろ》にものし、末は夫婦になるべしと、衣類なども親里より数多く持来りしを、一つ二つづつ騙《だま》しとられけるが、法度《はつと》つよき家にては、思ふ様に出会《であ》ふ事もならねば、それのみなげき暮しけるが、かの中間その屋敷を暇《いとま》出《だ》されて、この家へありつきけるを、この女殊の外にしたひて、あくる年の出《で》かはりより同じ家に勤め、小身なる家なれば人目も少《すくな》く、心のまゝに逢ふ事を楽しみに、女のはかなさは、うさつらさもなぐさみて勤めけるが、不作法のかず重なりて懐妊しけるを、柳《やなぎ》はら辺《あたり》のおろし薬《ぐすり》にて埒(らち)明けんと関助調へ来りて、むりに進め与へけるが、運のきはめとて事をあやまちて苦しみ、殊の外の大病となりける。主人も心だて良きものなればと憐みて、養生も致し呉れられけれど、十が九つ助かるべき様子ならねばとて、やどへ下げられ、十日ばかりも昼夜苦しみて相《あひ》はてぬ。屋敷のうちのものはその始末を知りけれど、田舎の親は夢にも知らず、たゞ一通りの病気と思ひ、むすめも深くかくして、命をはりけんさまいたましき事なり。それより関助が部屋へ、毎夜々々かの女の亡霊来りて、関助殿々々々と枕元によりておどろかし、こなたゆゑに非業の死をとげたり、そのときの苦しみを知らせば、いかばかりの苦痛とか思ひ給ふなど、かきくどきける事毎夜なり。のちには関助うるさくなりて、草鞋《わらぢ》をつくるよこ槌《づち》などにて打《うち》たゝきなどしければ、傍輩《はうばい》の中間ども怪しみて、いろいろ尋ねける程に、有りのまゝに語りければ、後《のち》にはほうばい[やぶちゃん注:「朋輩」ならば、この読みでよい。]もきみを悪がり、一つ部屋にもおかず、関助ひとりさし置きければ、夜一夜よこ槌にて、部屋の内をたゝき廻りけるが、すこやかものにて奉公をも引かず勤めけれど、次第に疲れおとろへける。用人何某といふ人不便《ふびん》におもひて、関助を招き、その方毎夜死霊《しりやう》のために苦しむと聞けり。これ決して死霊にあらず、その方が心の内に、彼が事をむごき目をみせたり、もし死霊にもなりやせんと、疑ひ思ふ念慮凝りて、形の目に見ゆるなりとて、その頃駒込<東京都文京区内>の禅僧の悟りたる人、幸ひ主人帰依にて折ふし屋敷ヘ来なれけるをたのみて、さまざま云ひきかせ、碁石などつゝみてかの亡霊に、これは何ぞなど尋ねさせければ、碁石なりといふを、またこの度《たび》はかずをあてさせ、終りにて白石黒石かずをかへして、関助に与へ尋ねさせけるに、亡霊それは返答せざりける故、これ汝がしりたる事は死霊も知り、汝が知らぬ事は死霊も知らず、これを以てしるべし、元来その方《はう》が心想中《しんさうちゆう》に霊はあり、外《そと》よりは来らずなど、いろいろさとされけれど、もとより文盲なる中間風情、さる理(ことわ)り合点すべき様《やう》なく、毎夜来《きた》る事始めのごとくなり。用人ある時関助をよびて、亡霊今に来るよし、いか様《やう》なる様子ぞと問はれければ、とかく外よりはひりて枕元に立《たつ》より、つめたき顔にて私の顔をこすり、手などとらへ、いろいろに恨みを申すといひければ、さて狐狸《こり》などの業《わざ》なるべし、今宵もし来らばつれ来れといはれければ、ずゐぶんつれて参るべしと約束しけり。さてその夜九ツ時<夜半十二時>に来りて、部屋の戸をたゝきける。誰《た》ぞと問へば、関助にて候、幽霊をつれだち参りたり、御出合ひ下されよといふ。用人の妻女などはこはがりて、かならず外へは御無用なりと止めけれど、用人のいはく、よもやつれ来るべしとは思ひよらず、来れといひしが今、出《いで》あはぬに、いかにしてもかれがおもはん所もよろしからずと、帯しめなほし腰の物をさして、かならず離すな、しつかりととらへてをるべしと、内より声かけければ、御気づかひなさるまじ、ずゐぶんしつかりととらへ居候といふゆゑ、戸をあけて出で見けるに、たゞ関助一人門に立てり、どれ幽霊はいづ方《かた》にゐるぞといひければ、今までしつかりととらへをり候が、いづ方へ参りしや居り申さずといふにぞ、大いに呵(しか)りて帰しぬ。そののちいろいろしたりけれど来る事やまず、次第にやせ衰へければ、暇を出されたり。そののちは余りに苦しがりて、江戸に居てはいつ迄も来るべしとて、大坂の御番衆につきて上ぼりけるが、幽霊の事なればいづ方へ行きたりとて、いかであとを慕はざるべき。東海道のとまりとまり、大坂の御城内までもつき歩行《ある》きて、終《つひ》に大坂にてこれを気やみに終りけりと聞けり。かの用人直(ぢき)のもの語りなり。

[やぶちゃん注:私の「怪談老の杖卷之二 半婢の亡靈」を見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「箱根山中の夜宴」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 箱根山中の夜宴【はこねさんちゅうのやえん】 〔甲子夜話巻二十三〕何れの飛脚か、二人づれにて箱根を踰(こ)えけるとき、夜闌《たけなは》に及び、ひとしほ凄寥《せいれう》[やぶちゃん注:物凄く寂しいこと。]たる折から、山上遙かに人語の喧々《けんけん》たるを聞く。二人不審に思ひながら行くに、山上の路傍、芝生の処に幕《まく》打廻し、数人《すにん》群宴の体《てい》にて、或ひは[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]酔舞、或ひは放歌、絃声交〻《こもごも》起り、道路張幕の為に遮られて行くこと能はず。二人相言《あひいひ》て曰く、謁《えつ》を通じて可ならんと。因て幕中に告ぐ。幕中の人応《こた》へて云ふ、通行すべしと。二人即ち幕に入れば、幕忽然として消滅し、笑語歓声も絶えて、寂々たる深山の中なり。二人驚き走り行くに、やゝありて絃歌人響《げんかじんきやう》故(もと)の如し。顧望《こばう》[やぶちゃん注:振り返って見ること。]すれば幕を設くること如ㇾ初。二人益〻《ますます》驚き、疾行《しつかう》飛ぶが如くにぞ、やうやく人居《じんきよ》の所に到りしと。これ世に所謂天狗なるものか。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話卷二十三 10 飛脚、箱根山にて怪異に逢ふ事」として公開しておいたが、実は柴田宵曲の「妖異博物館」の 「天狗の夜宴」の私の注で、一度、電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「化物屋敷」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 化物屋敷【ばけものやしき】 〔梅翁随筆巻二〕本多氏の後室円晴院といふ人、若き頃、六番町三年坂中程におはせし時の事なりしが、化物屋敷にて、色々怪しき事どもあり。夜更《よふけ》行燈《あんどん》のもとに並みゐて仕事などするに、側《かたはら》なる女の顔たちまち長くなり、またことの外短くなり、或ひは[やぶちゃん注:ママ。]恐ろしき顔になりて消え失《うせ》る事あり。座敷にて火の燃ゆるは珍らしからず。ある女わづらひて休み居《をり》けるが、その女むらさきの足袋《たび》をはきて掃除せしかば、甚だ怪しく思ひながら、女の休みたる所へ行きて見れば、矢張《やはり》打《うち》ふして居《ゐ》けるゆゑ、立戻《たちもど》りければ、さうじ仕《し》たる女は見えず。かやうの事ども多くして、家内難儀するゆゑ、加賀屋敷へ引移《ひきうつ》られしとの咄なり。これは我等度々承りし事ゆゑ、ここに記しぬ。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○妖怪物語幷』(ならびに)『女に化』(ばけ)『し事』。後半部がカットされてある(但し、これは「化物屋敷」という標題上、カットすることは納得出来る)。ただ、それは、本書で先行する「狸と中間」に分離して出ている。そちらも全文ではないが、これは、幸い、「柴田宵曲 妖異博物館 異形の顏」の最後の私の注で、正規表現で同条全部を電子化しているので、見られたい。

「本多氏の後室円晴院」少し調べてみたが、判ったとて、この怪談を味わうには、殆んど関係がないから、やめた。

「六番町三年坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「化物の足」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 化物の足【ばけもののあし】 〔譚海巻二〕藤堂家の蔵屋敷、大坂鈴鹿町にあり。その預り桑名又右衛門といへる人の子供、十七八歳のころ切取りたる化ものの足とて、同所天満別当方に納め置きたり。うしろ足と見えて、ふしの所より切りたるもの、犬の爪の如し。月山《がつさん》の刀にて切りたりとて、その刀もそへて納め置きたり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 藤堂家士の子切取たる化者の足の事」を参照されたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「化物太鼓」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 化物太鼓【ばけものだいこ】 〔反古のうらがき巻三〕番町<東京都千代田区内>の化物太鼓といふことありて、予<鈴木桃野>があたりにてはよく聞ゆることなり。これは人々聞きなれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁が知れる人に、この事を深くあやしみて、或夜その声の聞ゆる方をこゝろざして尋ね行きけるに、人のいふに違はず、こゝかとおもへばかしこなり。またその方に行きてきくに又こなたなり。市ケ谷御門内<新宿区内>より三番町通り、麹町飯田町<千代田区内>上あたり、一夜の内尋ねありきしが、定かに聞き留《とどむ》る事なくて、夜明近くなりておのづから止みぬ。果して化物の所為なりとて、人々にかたりて恐れあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行きて、そのあたりの人々が語りあふを聞くに、凡そ太鼓笛の道は、馬場下に越《こえ》たる所なし。稲荷の祭り鎮守の祭りとふにて、はやしものする人をめして、すり鉦太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終りに、一手も違ひなく合奏するは稀なり。まして他処《よそ》の人を交へてうたする寺は、おもひおもひのこと打いでて、其所《そのところ》々々の風あり。馬場下の人はそれにことなり、その一トむれはいふに及ばず、他処の人なれば、其所々々の風に合せて打つこと、一手もたがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入れて学ぶといへども、かゝる能《のう》は得がたしといひけり。予これを聞きて、さてはおのおの方にははやしものを好み玉ふにや、されども稲荷の祭りの頃などこそ打ち玉ふらめ、その間には打ち玉ふことなきによりて、その妙にいたり玉ふことのかたきなるべしといひければ、いやさにあらず、吾輩がはやしは毎夜なり、凡そ番町程はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏《だれうぢ》の土蔵のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時は少なしといヘり。予これにて思ひ合《あは》するに、かの化物太鼓はまさにこれなり。たゞしあたりの聞えを憚るによりて、土蔵穴蔵に入りて深くとぢこめてはやすなれば、そのあたりにてはかへりて聞えずして、風につれて遠き方にて聞ゆるに極まれり。さればこそそのはやしの様《さま》、拍子よく面白くはやすなりけり。これを化物太鼓といふもむべなる哉とて笑ひあへり。先の巻に、物のうめく声の遠く聞えしくだりをのせたり。これをおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みな箇様《かやう》のことのあやまりなりけり。

[やぶちゃん注:私の「反古のうらがき 卷之三 化物太鼓の事」を見られたい。実はこの話、以前に、私は二度、電子化している。初回は宵曲の「妖異博物館」の「狸囃子」の注で、今一つは、「諸國里人談卷之二 森囃」である。但し、擬似怪談で、好きな話では、ない。]

〔甲子夜話続篇巻四十六〕予<松浦静山>が荘《さう》のあたり、夜に入れば時として遠方に鼓声聞ゆることあり。世にこれを本荘《ほんさう》七不思議の一と称して、人も往々知る所なり。因てその鼓声をしるべに其所に到れば、また移りて他所に聞ゆ。予が荘にては辰巳に当る遠方にて、時として鳴ることあり。この七月八日の夜、邸の南方に聞えしが驟(には)かに近くなりて、邸中にて撃つかと思ふばかりなりしが、忽ちまた転じて未申の方に遠ざかり、その音かすかになりしが、頓(やが)て殊に近く邸内にて嗚らす如くなり。予は几《つくへ》に対して字を書《かき》しゐしが、侍婢など懼(おそ)れて立騒ぐゆゑ、若しくは狡児(かうじ)が所為かと人を出して見せしめしに、近所なる割下水迄はその声を尋ねて行きたれど、鼓打つ景色もなく、又その辺にも問ひても、誰《たれ》もその夜は鼓を撃つことも無しと答へたり。その音は世の宮寺などに有る太鼓の、面《めん》の径(わた)り一尺五六寸ばかりなるが、表の革はしめり、裏皮は破れたる者の音の如く、また戸板などを撲(う)てば調子よくドンドンと鳴ることあり。その声の如く拍子は始終ドンツクドンツクドンドンツクツクドンツクドンツクドンドンツクツクとばかりにて、この二つの拍子、或ひは高く或ひは卑《ひく》く聞ゆ。何の所為なるか、狐狸のわざにもある歟(か)。欧陽氏聞かば『秋声賦』の後《あと》また一賦の作有るべし。

[やぶちゃん注:事前に「フライング単発 甲子夜話續篇卷四十六 16 本莊七不思議の一、遠鼓」として注を附して公開しておいたが(そちらでは最後の太鼓の音が異なる)、実は既にやはり宵曲の「妖異博物館」の「狸囃子」の注で電子化してある。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「化猫」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 化猫【ばけねこ】 〔兎園小説第十一集〕某侯(鳥井丹波守)[やぶちゃん注:ここに一字空けがあるが、無視した。]の家令高須源兵衛といふ人の家に、年久しく飼ひおける猫、去年(甲子)[やぶちゃん注:同前。]のいつの比(ころ)にや、ふと行方しれずなりぬ。その比より源兵衛が老母、人に逢ふことをいとひて、屛風引きまはし、朝夕の膳もその内におし入れさせて、給仕もしりぞけてしたゝむるを、かいま見せしかば、汁も添物も、ひとつにあはせて、はひかゝりて喰らふ。さては物語りに聞きしごとく、猫のばけしにやといぶかりあへる折から、その君《きみ》の湯あみし給ひて、まだゆかたびらもまゐらせざりし時、なにやらん真黒なるもの飛び付きたり。君こぶしをもつて、強く打たれしかば、そのまゝ迯(に)げ去りぬ。その刻限よりかの老母、背なかいたむといひければ、いよいよ疑がひつゝ、親族にかくと告げければ、ものゝふの身にて、捨ておくべきにあらず、心得有るべしといはれて、とかくためらふべきにあらざれば、雁股《かりまた》の矢をつがひて、よく引きつゝ、人して屛風をあけさせたれば、老母起きなほりて、胸に手をあて、とても母をいるべくは、こゝを射よといふにひるみて、矢をはづしたり。また親族に語らひけるは、それは射芸のいたらぬなり、速やかに射とめよといはれて、このたびはたちまちにきつてはなちたれば、手ごたへして母にげ出で、庭にてたふれたり。立ちより見るに、母に違《たが》ふ事なし。やゝしばしまもり居たれども、猫にもならざれば、こはいかにせむ、腹きりて死なんといふを押しとゞめて、明日までまち見よと云ふ人有り。心ならず一夜を明かしたれば、もと飼ひおける猫の姿になりぬ。そののちたゝみをあげ、床をはなちて見しかば、老母のほねとおぼしくて、人骨いでたり。いかに悲しかりけん。このこと深く秘めて人に語らざれば、人知るものなし。

[やぶちゃん注:私の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 高須射猫』を見られたい。また、宵曲は「妖異博物館 化け猫」でも採り上げて紹介しているので、そちらも読まれたい。]

〔中陵漫録巻十四〕予<佐藤成裕>再三肥後に至り、藤井某翁に相偶《さうぐう》[やぶちゃん注:たまたま逢うこと。]してその封内《ほうない》の奇事を問ふ。この翁薬を尋ねて封内その四郡周(あまね)く登覧す。猫嶋には予も至り見る。猫嶽には登る事を得ず。只この翁その奇事を語る。しかれども皆その談こゝに載せがたし。予が著す『周遊奇談』に審(つまびら)かに載す。猫の怪を為すもまた甚し。皆《みな》人を殺すに至る。予弱冠の時一《ひとり》の禅僧あり。この僧は本所に在りて、甚だ長寿にて昔時《せきじつ》の事を談(かた)る。この僧の近隣に一の老婆あり。猫を養ふ事三十余、その中《うち》死したるは小さき柳行李に入れて、幾つも棚に上げおき、毎日出《いだ》し見てまた棚に上げおく。死すれば皆此《かく》の如し。この老婆真《しん》に白髪、猫の顔の如し。後に人の為に殺さる。半日にして老猫となれりとなり。この僧親しく見て予に語れり。また遠州宝蔵寺の猫は和尚となりて、毎夜法問に往く。この談は猫問答と云ふ本にもあり。世人《せじん》能く知るなり。羽州米沢<山形県米沢市>より小国《おぐに》と云ふ所に行く。皆山路にして、三里の間に只《ただ》茶店一軒あり。直《ちよく》に左右前後人倫なし。この茶店に猫あり。春に至りて毎日山林に入《い》つて皈(かへ)る。また数日《すじつ》にして皈る事あり。已(すで)に児《こ》を孕《はらみ》す。その行く処を考ふるに、二里余り外《そと》に行きて在る事を見る。毎春時をたがはずその処に行くと云ふ。予が知己の某も猫を養ふ。或日二三日見えず。その夜大火に逢ふ。その翌年新たに家を作る。人皆《ひとみな》悦び移る。この日猫来《きたり》てまた見えず。去年《こぞ》の出《いで》たる日を以てまた皈り来《きた》ると云ふ。その間《あひだ》何《いづこ》の処に在るや、未だその所為を考へず。

[やぶちゃん注:以下、底本は字空け無しで続いているが、長いので、特異的にここで改行し、注する。

「中陵漫録」「会津の老猿」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで(『日本隨筆大成』第三期第二巻昭和四(一九二九)年刊)当該部が正字で視認出来る。標題は『○猫話』。

「周遊奇談」不詳。識者の御教示を乞う。

「小国」現在の山形県西置賜(にしおきたま)郡小国町(おぐにまち:グーグル・マップ・データ)。米沢市の北西方の山間部。]

 〔譚海巻九〕仙北郡<秋田県>の人、薪を伐《きり》て山より帰る時、夕《ゆふべ》になりて雨降り出《いで》たれば、辻堂の縁に雨やどりせしかば、堂の中《うち》人音《ひとおと》聞えてにぎはしく、しばし有りて太郎婆々いまだ来らず、こたびの躍《をど》り出来がたからんなどいふ声せしに、またしばし有りて、婆々来れるとて、をどりはじめむといふ。婆々のいふやう、しばし待ちたまへ、人やあるとて、堂の格子の穴より尾をいだし、かきまはしたるを、この男尾をとらへて外より引きたるに、内には引入れんとこづむにあはせて、尾を引切りてもたりければ、恐ろしくなりて雨の晴るゝもまたず、家に帰りてこの尾をば深く蔵(をさ)め置きたり。そののち隣家の太郎平なるものの母《はは》痔起りたりとてうちふしてあるよし、この男見廻(みまひ)に行きて見れば、誠に心わろく見えける。いかにといへば痔のいたむよしをいふ。あやしくて夕《ゆふべ》にまた件《くだん》の尾を懐(ふところ)にかくして見廻に行きてければ、なほ心あしとて居《ゐ》たりしかば、それはこのやうな事のわづらひにてはなきやと、尾を引出して見せければ、この母尾《を》をかなぐりとりて、母屋《おもや》をけやぶりて失せぬ。猫の化けたるにてありける。誠の母の骨は年ヘたるさまにて、天井にありけるとぞ。

[やぶちゃん注:私の昨年末に公開した「譚海 卷九 同所仙北郡辻堂猫の怪の事(フライング公開)」を見られたい。]

〔耳袋[やぶちゃん注:ママ。本書では、「耳袋」と「耳囊」の二つが使用されているが、これは最後の『引用書目一覧表』のここに、宵曲が注して、『芸林叢書六巻・岩波文庫六巻。』(これは現在の一九九一年刊の三巻本とは異なる)『巻数は同じであるけれども各巻の編次は同じでない。『耳囊』(芸)と『耳袋』(岩)と文字を異にするより、これを別つ。』とある。 ]巻二〕鄙賤《ひせん》の話に、妖猫《えうびやう》古くなりて老姥《らうば》など喰ひ殺し、己(おの)れ老姥になりて居《を》る事有り。昔老母を持ちたる者、その母猫にて有りし故、甚だ猛々しく人を悩ませし事多けれども、その子の身にとりてすべき様なく打過ぎしが、或時ふと猫の姿を顕せしを見て、さては我が母を喰ひ殺し、これ迄母に化けて居たるなるべしとて切殺しけるに、母の姿となりしゆゑ大いに驚き、全く猫に紛れなきゆゑ殺しぬるに、母の姿となりしは是非もなき次第なり、いはれざる事して天地のいれざる大罪を犯しぬるとて、懇意の者を招き、我等切腹致し候間、この訳見届けくれ候様申しける時、かの男申しけるは、死するは安き事なれば、先づ暫く待ち給へ、猫狐の類、一旦人に化《け》して年久しければ、仮令《たとひ》その命を落しても、暫くは形を顕さぬものなりとて、くれぐれ押留《おしとど》めける故、その意に任せぬるに、その夜に至りて段々形を顕し、母と見えしは恐ろしき古猫の死骸なりけるとぞ。性急に死せんには犬死をなしなんとなり。[やぶちゃん注:底本でも、ここで改行している。]

 古猫の人に化けし物語りに付き、或人の語りけるは、物事はよくよく心を鎮め、百計を尽し候上にて、重き事に取計らふべき事なり。一般猫の付きしといふ事もある由なり。駒込<東京都文京区内>辺の同心に母有りしが、伜《せがれ》の同心は昼寐《ひるね》して居たりしに、鰯を売る者表を呼はり通りしを、母聞きて呼び込み、鰯の直段(ねだん)を付けて、片手に銭を持ち、この鰯残らず調《ととの》へ[やぶちゃん注:ママ。]べき間、直段をまけ候様申しけるを、かの鰯売手に持ちし銭を見て、そればかりにてこの鰯を残らず売るべきや、直段を負け候事はなり難しとあざ笑ひければ、残らず買ふべしと言ひざま、右老女以ての外憤りしが、面《おもて》は猫となり、耳元まで口さけて、振上げし手の有様、怖ろしともいはん方なければ、鰯売はあつと言うて荷物を捨てて逃げ去りぬ。その音に倅《せがれ》[やぶちゃん注:先と漢字が異なるのはママ。]起き返り見けるに、母の姿全く猫にて有りし故、さては我が母はかの畜生めに取られける口借しさよと、枕元なる刀を持ちて何の苦もなく切殺しぬ。この物音に近所よりも駈け付け見けるに、猫にてはあらず、母に違ひなし。鰯売も荷物を取りに帰りける故、右の者にも尋ねしに、猫に相違なしといへども、顔色四肢とも母に違ひなければ、是非なくかの倅は自害せしとなり。これは猫の付きたるといふもののよし。麁忽(そこつ)にせまじきものなりと人の語りぬ。

[やぶちゃん注:これは、私の「耳嚢 巻之二 猫の人に化し事 及び 猫人に付し事」を参照されたい。また、宵曲は「妖異博物館」の「化け猫」でも本篇を紹介している。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白竜【はくりょう】 〔甲子夜話巻三十四〕去(いに)し寛政辛亥<三年>の夏、長崎より一客来れり。夕《ゆふべ》これと対話せしときの話に、客所識(しるところ)の僧、先年白竜《はくりよう》を見たり、その僧妄言する者にあらず、真実《しんじつ》語《かたり》なり。予<松浦静山>輙(すなは)ちその事を記せんとす。客曰く、僧已にその事を記《しる》せりと。後にその記事を得たり。[やぶちゃん注:以下の漢文(字下げはママ)は底本の一行字数に合わせた。「ㇾ点」が行頭にあるのは、ママ。私は大学の漢文の授業で返り点の打ち方で、行末に附すことを習っており、それが正しいと信じている。

    視白竜

 余到肥之武雄駅、日既在桑楡、就

 旅舎温泉、而閑行逍遙焉、駅西

 之山、高百余仭、松樹雑ㇾ翠、磴道馮

 ㇾ虚、其巓石相倚而立、陰宕鬱塁無

 ㇾ所ㇾ依、因振ㇾ衣而下、山半一逕左転、

 地狭平坦、峭壁峙列、有池水、極清

 冷、同行数子、各掬以飲、散歩于縹

 碧之間、余独盤桓池頭、殿数子

 偃飲、水中有ㇾ物、磷々乎、熟視則純

 白之竜也、双角競起、繊毛被ㇾ首、頤

 連蝟鬚、鱗鬣相映、皎潔甚於氷雪

 但瞳子浅黒、大如豆実、両足跨

 底、挙ㇾ首正面、頭長七八寸、身囲可

 ㇾ拱腹心、而上凡二尋、下体即不ㇾ見、

 蓋在于穴罅中乎、貌不激烈、端

 厳且懿、配諸乾爻、則膺九三乾々

 惕若之象邪、余与ㇾ之隔数尺、相対

 斯須、而余不驚悸者、以彼貌不

 激烈乎、乃呼数子而曰、玆有

 物来而視、数子未ㇾ到、竜俄然隠

 矣、下ㇾ山還駅舎、以ㇾ事語ㇾ主、主異

 ㇾ之曰、恐彼山之神也乎、未ㇾ聞ㇾ有

 観ㇾ焉者也、実宝暦癸未<十三年>

 七月廿一日也、長崎白竜大寿撰幷書。

 

Hakuryouzusibatamosya

 

Hakuryugenzu

 

[やぶちゃん注:これは事前に「フライング単発 甲子夜話卷三十四 16 武雄山の白龍」を注を附して公開しておいたので、参照されたい。そこでは、宵曲の模写図も掲げておいたが(原本の画像がひどく薄いため。「甲子夜話」原本のそれは後者。『東洋文庫』版からトリミング補正した)、再度、ここでも挙げておく。

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白比丘尼」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白比丘尼【はくびくに】 〔提醒紀談巻四〕若狭国の白比丘尼《はくびくに》と云ふは小松原《こまつばら》<福井県三方郡美浜町内か>の人なり。治城《ぢじやう》東海の畔《ほとり》に在り。かつて、尼の父、ある日、海に釣をたれて魚を得たり。その形いと奇(めづらし)く尋常のものにあらずとて、棄ててこれを食はず。尼幼(いとけな)くして拾ひて食ひけりと云ふ。そは大かた人魚(にんぎよ)と云ふものなるべし。さればこそ尼《に》遂に齢《よはひ》を保つこと八百歳に及べり。時人《ときのひと》、八百尼《はつひやくに》とよべり。その尼が肌膚《きふ》面《めん》背《せい》みな白かりければ、また白尼《はくに》ともいへり。尼《に》ある時、人に語りていへるやう、我むかしまのあたり源平の盛衰にも遇ひたりしが、源義経のこの地を過ぎて東奥《とうおう》へ赴くをも見たりき。これらの事を聞く人、いと怪しみけるとぞ。これや唐土《たうど》の神仙王母《わうぼ》・麻姑(まこ)などの類ひならんと云へり。『中原康富記《なかはらやすとみのき》』に「文安六年五月、若狭白比丘尼上洛。又東国比丘尼於洛中談議事」と目録のみあり。その精《くは》しきことは知るべからずといへども、これによりても白比丘尼の名の世に知られたること思ふべし。今猶《いまなほ》、その住みしといへる洞穴《ほらあな》あり。若狭後瀬山《のちせやま》の麓空印寺の境内にて、大なる巌《いはほ》を切り穿《うが》つこと壱丈四方ばかり、洞《ほら》の西の方《かた》数十歩《すじつほ》に石虹(いしばし)あり。白尼この石虹を渡らんとして、顚蹴(つまづき)て地に倒《たふ》れ、そのまゝ身《み》まかりしといへり。(若耶羣談)<『梅の塵』に同様の文がある>

[やぶちゃん注:「提醒紀談」山崎美成の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで版本全巻が視認でき、当該部は、ここと、ここである。標題は『若狹の八百尼(はつひやくに)』。総ルビなので、積極的にそれを参考にした。なお、最後の附記がカットされているので、以下に電子化する。底本では、全体が一字下げである。句読点を打ち、記号も入れた。読みは一部に留めた。漢字表記はそのまま写してある。

   *

按ずるに、「卧雲日件録(ぐわうんにつけんろく)」、文安六年七月二十六日の條に、『今時(きんじ)、八百歳老尼(はつっひやくさいらうに)、若州より洛に入(い)る。洛中のもの、爭觀(あらそひみん)とす。堅(かた)ゝ、居(ゐ)ところの門戶(もんこ)を閉(とぢ)、人に容易(たやす)く看(み)せしめず。かゝれば、貴者(きしや)は八百銭を出(いだ)し、賎者(せんしや)は十銭(じつせん)を出(いだ)す。しかざれば、門(もん)ん入(い)ることお許さずと見えたり。白尼(はくに)の、世(よ)に聞えたる、これを併せて、ますます、證(しよう)すべし。猶、信景(のぶかげ)が「志保之里(しほじり)」、塘雨(たうう)が「笈挨随筆(きふあひずゐひつ)」抔(とう)にも記(しる)し、清君錦(せいくんきん)が「八百尼記(はつひやくにのき)」ありと言(いふ)。

   *

「卧雲日件録」は室町中期の京の相国寺の禅僧瑞溪周鳳の日記。「卧(=臥)雲」は周鳳の別号。原本七十四冊の内、現存は惟高妙安が抄録した二巻のみ。室町中期の政治史・五山禅林の学芸史の史料として重要とされる。「文安六年七月二十六日」「文安六年」はユリウス暦一四四九年。室町幕府将軍は空位。「七月二十六日」とあるが、この二日後の文安六年七月二十八日に「宝徳」に改元している。

「白比丘尼」これは若狭の「八百比丘尼」(はっぴゃくびくに/やおびくに)の名でとみに知られる、人魚の肉を食って不死となった奇譚である。他の地方にも、複数、伝承が残る。詳しくは当該ウィキを参照されたい。私の電子化物では、『南方熊楠「人魚の話」(正規表現版・オリジナル注附き)』にとどめを刺す。そちらで、私の別な主なる人魚記事もリンクしてあるので、見られたい。因みに、私が是非とも推薦するのは、星野之宣の『妖女伝説』に載る「月夢(げつむ)」である(『ヤングジャンプ』一九七九年五号初出。おぉ! 私が教員になったその年か!)。現代、八百比丘尼が冒頭に出て、同じく不死となった夫が、忘れがたい娘を求めて「アポロ二十号」に乗船し、月面に到達する……そして……ネタバレになるから、ここまで。……

「小松原」「福井県三方郡美浜町内か」「治城東海の畔に在り」宵曲は「美浜町内か」と言っているが、この「治城東海の畔に在」る「小松原」となれば、江戸時代の小浜藩の小浜城跡から東北に直近にある福井県小浜市小松原(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であろう。但し、後に示すグーグル・マップ・データ「八百比丘尼入定の洞穴」のサイド・パネルの解説板画像では、「東勢村」の「高橋長者」の娘とあって、そこは、現在の小浜市東勢(ひがしせい:グーグル・マップ・データ)で、もっと南西である。

「王母」中国神話で古くから信仰された女仙、女神西王母(せいおうぼ)。「王母」は「祖母や女王のような聖母」といった意味合いで、「西王母」とは西方にある崑崙山上の天界を統べる母なる女王の尊称。天界にある瑶池と蟠桃園の女主人であり、すべての女仙を支配する最上位の女神にして、「東王父」に対応する存在である。

「麻姑(まこ)」中国の女性の神仙。「神仙傳」によれば、漢の桓帝の時代、神仙の王遠とともに麻姑が蔡経の家に降臨し、そこで宴会を開いて、神仙世界のことを語ったという記事が見える。その中に、長生きをして東海が三度まで桑田(そうでん)となるのを見たという「滄海の變」の語が有名である。麻姑降臨の幻想的な筋書は、道教教団が七月七日に行った「厨」(ちゅう)の儀式と関係するとされる。なお、麻姑は爪が長く、蔡経は背中が、「痒い時に、搔いて貰えば、気持ち良かろう。」と考えたとあり、所謂「孫の手」は、実は「麻姑の手」のことだとも言われる(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「中原康富記」室町時代の外記(げき)局官人を務めた中原康富の日記。記述は応永一五(一四〇八)年から康正元(一四五五)年に及ぶが、散逸が顕著であり、特に永享年間(一四二九年~一四四一年)の記述は、ほぼ全てが欠落している。詳しくは参照した当該ウィキを見られたい。

「文安六年」一四四九年。

「その住みしといへる洞穴あり。若狭後瀬山の麓空印寺の境内にて、大なる巌を切り穿つこと壱丈四方ばかり」福井県小浜市小浜男山の曹洞宗建康山空印寺(くういんじ)の境内にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。洞穴と言っても、これは古い海食洞である。同寺のウィキに『空印寺「八百比丘尼略縁起」』があり、そこには、『八百比丘尼は、荒礪命(あれとのみこと、膳臣(かしわでのおみ)の祖・佐白米命(さしろめのみこと)の子で若狭国造の祖)の末流である当国勢村高橋長者の姫であった。人皇』三十七『代斉明天皇の白雉』五(六五四)年に『誕生し、肌は白玉のように容顔美麗で、智徳万人に優れていた。そのため』、『世の人は神仏の再来と崇めた。齢』(よわい)十六『歳の時、龍王が白髪の翁となって現』われ、『人魚の肉を与えた。姫はこれを食べたところ、不思議なことに幾百歳を経ても』、十六『歳の時の容顔から変わることがなかった』。百二十『歳にして髪を剃り』、『諸国を巡遊し』て『ここに』五十『年、あそこに』百『年と止住し、所々で堂社を修造し、また道路を開き、橋梁を架け、五穀樹木の繁殖を教え、また尊皇奉仏、五常の道を授けた。よって』、『諸国の旧蹟のある所は勿論、広く尊崇を集めた。人皇』百『代後花園天皇の宝徳元』(一四四九)七月二十六日、『京都清水の定水庵で』、『教化』(きょうげ)『を止め、生国』(しょうごく)『の若狭に帰り、後瀬山の山中の神明社の近くに庵を結び住んでいたが、齢』八百『歳にして』、『当寺境内』の『後瀬山麓』(ふもと)『の大巌窟で入定した。人々は名付けて』「八百比丘尼」・「八百姫」・「寿長(ながす)の尼」とも、また、『椿を特に愛し』て『入定したので』「玉椿(たまつばき)の尼」とも『呼んだ。入定後、祈願する者あれば』、『必ず』、『不思議の霊験があった。よって昔より都鄙遠近老若男女が』、『この霊地へ参詣し、福徳寿命を願い、諸病平癒を祈り、その霊助を蒙る者が多かったため、昔から今に至るまで』、『参信祈願は絶えることがない』とある。

「洞の西の方数十歩に石虹(いしばし)あり」サイド・パネルにはそれらしいものは見当たらない。そもそも「入定」窟であるのに、転んで亡くなったというのは、失礼にもほどがあるわい!

「若耶羣談」(現代仮名遣「じゃくやぐんだん」)は二巻。千賀玉斎著。通称を源右衛門と称し、幕府儒官林春斎の門弟で、小浜藩に儒者として仕官した。「若狭風土記」の編纂を命ぜられたが、こと半ばにして没した。本書は天和二(一六八二)年の著者没後に完成したとされる。

「梅の塵」梅乃舎主人(長橋亦次郎:詳細事績不詳)著・天保一五(一八四四)年自序。例の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) うつろ舟の蠻女』と同一の別ソース記事を載せることで知られる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白髪婚姻」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白髪婚姻【はくちゅうこんいん】 〔譚海巻九〕鍋嶋家の士に坂田常右衛門と云ふ者、をさなきときより、妻をおなじ家士の娘に約《やくし》、両家の親、約諾終りて結納をもやりたるに、常右衛門はたちあまりのころ、江戸づめの役さゝれ出府せしが、篤実なる者にて首尾よく勤むるほどに、段々劇職にうつり、俸禄など加増ありて、年来江戸に在りしが、常右衛門ならでは江戸の事治まりがたきやうになりて、いくとしも帰郷のいとまかなはず、数年経たりしかば、約諾の娘も生長に過ぎ、あまり年久しくなりぬる事故、世伜(せがれ)江戸にあれども、かくてもあるまじき事、我等も年寄りぬるまゝ、介抱にもあづかりたきよしを、両親まめやかにいひやりければ、娘の親ももつともなる事に思ひて、先づ娘を常右衛門親のもとへつかはしけるに、この嫁殊におなじき心ばへにて、常右衛門親によくつかへ、年々を送りけれども、夫はなほなほ帰国の許しもなく、江戸に在勤しけり。かゝれば二三十年も立ちぬる事ゆゑ、終にはしうと・しうとめもをはりぬ。それまでこの嫁つかへ孝なる事、見聞く人も哀れをもよほさる。さて常右衛門四十余年江戸にありて、七十歳に及びて、明和五年はじめて、江戸の役をゆるされ帰国せしかば、共に白髪の夫婦にて、はじめて婚姻の儀式調ひたるとぞ。珍しくもまた貞婦なる事に、人々感じ語り伝へけるとぞ。

[やぶちゃん注:これは、事前に昨年末、「譚海 卷九 鍋島家士坂田常右衞門夫婦の事(フライング公開)」として公開しておいたので、そちらを見られたい。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白昼の飛び物」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白昼の飛び物【はくちゅうのとびもの】 〔梅翁随筆巻八〕己未の十月十四日、天気快晴にて風もなく、霞《かす》めるごとくにて、さながら二三月頃にことならず。この日大坂にて、淀川の方より天王寺の方へ、蜘蛛の巣のごときもの、先は丸くかたまりたる物、いくらといふ事なく引つゞき飛行《とびゆき》、落ちんとしてまた上《あが》りて行く多し。その中に一ツ二ツ地に落ちたるを取《とり》て見るに、全く蜘蛛の囲《ゐ》[やぶちゃん注:巣。]のごとくにて、その糸よほど太し。掌に入れてもめば、皆消え行きて跡にものなし。この日昼頃より飛びはじめて、昼過ぐる頃ことに多く飛びて、八ツ時<午後二時>頃にいたりてやみぬ。何ゆゑといふ事を知らず。翌日も天気昨日《きのふ》のごとく快晴なり。風は少々あり。きのふみぬ人も多ければ、朝とくより暮れがたまで心がけ居《をり》たれども、いさゝかの飛《とぶ》ものもなし。これらの事は、いかなるゆゑならんといぶかし。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらから正字表現のものが見られる。標題は『○白晝に飛物の事』。なお、これは、過去に、『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」を底本として、『柳田國男「妖怪談義」(全)正規表現版 妖怪名彙(その8)』の「トビモノ」の私の注で、一度、電子化している。そこでも注したが、転載すると、UFO研究家の私としては、後者はまさに「エンジェル・ヘア」である。御存じない方は、「カラパイア」の「UFOの目撃情報と関連して報告されるエンジェルヘア現象とは?」を見られたい。UFO絡みでは、一九五二年のフランスのオロロンで発生した事件が最も知られる。「exciteニュース」の『UFO出現で降り注ぐ粘着物質「エンジェルヘア」とは? 1500年間で225例、科学者も熱視線』を読まれたい。

「己未の十月十四日」寛政十一年。グレゴリオ暦一七九九年十一月十一日。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「博奕の名人」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 博奕の名人【ばくちのめいじん】 〔翁草巻六十六〕物によりて余り上手過ぎて害になる事有り。予<神沢貞幹>官仕せし頃、トウセキ藤兵衛と云ふ隠れなき博奕打を捕へさせて引出《ひきいだ》し、これをみるに、その体《てい》さのみ賤しからず、世に云ふ博奕打のやうなる見苦しき様《さま》にもあらず。さて様子を尋ぬるに、僕(やつがれ)賽《さい》を打つ術に於ては、衆に勝れて百発皆中(あた)る。これ故にその徒忌み怖れて我をはぶき、暮しかたなき儘に、近国に趨《はし》りてこれを催《もよほ》さんとするに、何国《いづく》にも聞き伝へ、或ひは見知りて誰《たれ》も立会《たちあ》ふ者なし。詮方無さに遠国を経《へ》めぐり、我名を匿(かく)して博奕の有る処を捜し求め、その辺へ立寄りて様子を聞けば、某の村に先頃大きなる勝負有りて、誰彼《だれかれ》打負《うちまえ》たる由をよく聞き糺し、負けたる者の方《かた》へ参り、某《それがし》は上方《かみがた》にて名を得たる博奕の上手にて候、爾々(しかじか)の由《よし》承り、笑止に存じ、密かにこれへ参り候、再会を催し玉はゞ、我その許《もと》[やぶちゃん注:「そこもと」に同じ。二人称。]の手伝ひをして、肝要の処にて、其方(そなた)の名代《みやうだい》に賽を打《うち》て参らせん、さあらんに於ては、先回の返報、唯《ただ》一挙に功を立てん、その褒賞には、某に何程合力《かふりよく》し給へと云ふ。その者一応にてはこれを信ぜず、于時(ときに)賽を取て乞目(こひめ)を自由に出《いだ》し見するに仍(よ)り、大いに怡信《たいしん》[やぶちゃん注:「喜んで信頼すること。]して再会を催し我を伴ふ、則ちその場へ出《いで》て、色々と世話致し、その人の賽を打つを見るに物色《ぶつしよく》悪し、連中これに競ひて爰(ここ)を詮(せん)と張込《はりこ》み、既に胴を潰さんと欲《ほつ》する頃、いで手替りに我等投げて見んと、肝心の場にて一二回投ぐれば、座中の金銀忽ち胴へ取込《とりこ》んで、十分の勝となる、さて約束の通りの謝礼を受けて、早く所を立去り、また他国へ行き、件《くだん》の仕形《しかた》を以て漸《やうや》く渡世を送り候、暫くも同所に足を止むれば、人々手懲《てこ》りして相手にならず、且つ我名の顕れんことを厭ひて所を定めず、国々を経歴仕《つかまつり》候と申す。則ち町奉行馬場讃岐守に之を告ぐるに、さらば賽を打たせて見ばやとて、白洲に於て打たせられけるに、幾度《いくたび》打ても乞目の違ふ事なし。適〻(たまたま)過《あやま》つ時は、投げぬ先にこれは違ひ候と云ひて投ぐるに、果してその時は少し違《たが》ひし事あり。これ数十度《すじふど》の内に一度有ㇾ之、讚岐守[やぶちゃん注:底本を拡大、ガンマ補正して「讚」と断じた。]もあきれ果てられ、京都に於てさせる悪事も無かりし故、相当の払ひ申付けられ、何地(いづち)へか去りける。

[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂七(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『トウセキ藤兵衞の事』。「トウセキ」とは「盜跖・盜蹠」で中国古代の大盗賊。春秋時代の魯の人とも、黄帝時代の人ともいう。多数の部下を連れて、各地を横行したとされる。但し、正しい歴史的仮名遣は「たうせき」である。

「町奉行馬場讃岐守」江戸南町奉行馬場讃岐守尚繁。延享三(一七四六)年七月二日から寛延三(一七五〇)年一月二十六日まで在任した。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「伯蔵主」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 伯蔵主【はくぞうず】 〔諸国里人談巻五〕江戸小石川伝通院《でんづうゐん》<東京都文京区小石川内>正誉覚山《しやうよかくざん》上人、京都より下向の節、道づれの僧あり。名を伯蔵《はくざう》と云へり。則ち伝通院の会下《ゑげ》に属して学文《がくもん》す。毎度の法問《ほふもん》に、前日よりその語を知りて、一度もおくれをとらず。いかさまたゞものにあらずと、衆僧《しゆそう》希有におもひける。一日《あるひ》熟睡し狐の性《しやう》をあらはせり。これを恥ぢてや、それより逐天《ちくてん》してげるが、猶当山の内にあつて、夜毎に所化寮《しよけれう》に徘徊し、外面《そとも》より法《ほふ》を論じけるなり。この伯蔵の著述の書物一櫃《ひとひつ》ばかり今にありとぞ。その頃は人にも貸し写させなどしけるが、今見れば誠の文字にあらずとなり。宝永のころまで存命なりしなり。今伯蔵主稲荷と称して鎮守とす。元来この狐は下総国飯沼《いひぬま》<千葉県銚子市飯沼町>にありしとなり。弘教寺《ぐきやうじ》にもこれに同じき事ありと云ふ。

[やぶちゃん注:私の「諸國里人談卷之五 伯藏主」を見られたい。当該ウィキ(「白蔵主」)もあるが、記載は、本篇の内容とは殆んど掛からない。

「正誉覚山」(元亀三(一五七二)年~寛永二(一六二五)年)上記の私の注でも、疑義を出しておいたが、今回、はっきりした。「廓山(かくざん)」が正しい。「WEB版新纂浄土宗大辞典」のこちらによれば、『定蓮社正誉。増上寺一三世。甲斐国八代郡市部村(山梨県笛吹市石和町市部)に武田信玄家臣高坂昌信の次男として生まれる。戦場で死骸を見て世の非情を感じ、国府尊躰寺(甲府市城東)に入り』、『出家し、のちに増上寺円也、ついで存応に師事した。徳川家康の知遇を得た廓山は駿府(静岡市)に招かれ英長寺(現・来迎院、静岡市葵区横内町)に住したが、慶長一三』(一六〇八)年、『同門』の『了的とともに江戸城西丸で行われた日蓮宗との宗論にのぞみ』、『勝利を収めた。その後も江戸と駿府を往来するが、同一八年』、『家康の命により』、『修学のため』、『南都に派遣された。元和元』(一六一五)年、『幕命によって浄土宗諸法度の草案を作成した廓山は、京都二条城に持参し、家康より同法度に朱印を賜っている。また』、『この頃』、『家康は、生母於大おだいの方(伝通院殿)菩提のために江戸小石川(東京都文京区小石川)に伝通院を建立し』(☜ ☞)、『廓山を開山として招請している。同六年』、『師僧存応が亡くなると、了的との間に』、『増上寺後住争いが起こるが、同八年』、『台命により』、『一三世の法灯を継承した。寛永二年八月二六日』、五十四『歳で遷化』とある。以上から見て、「京都より下校」とあるので、本篇の時制は、冒頭シーンは、元和元(一六一五)年の京都からの帰りと断ずることが出来る。

「宝永」一七〇四年から一七一一年まで。

「伯蔵主稲荷」東京都文京区にある浄土宗無量山慈眼院(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。伝通院の東直近にある元子院で、「澤蔵司稲荷」(たくぞうすいなり)の名で今に知られる。

「下総国飯沼」「千葉県銚子市飯沼町」ここ

「弘教寺」私の「譚海 卷之一 下野飯沼弘教寺狸宗因が事」を見られたいが、これは、恐らく、現在の茨城県常総の北西部の豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経寺(ぐきょうじ)の誤りと思う(ここ(グーグル・マップ・データ))。但し、こちらは狐の化けたのではなく、狸の化けた僧の話で、「宗固狸(そうこたぬき)」の名で知られる。]

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「白色の怪魚」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 白色の怪魚【はくしょくのかいぎょ】 〔裏見寒話追加〕奥逸見に一村[やぶちゃん注:ママ。底本のみならず、『ちくま文芸文庫』もママであるが、後掲する引用原本の活字本(底本違い)では『一町』(百九メートル)である。後者の方がよい。]四面余りの池あり。処の者耕作の暇《いとま》に、この池に針を下して、鮒・鰻の類を釣らしむ。或時盛夏の炎熱を凌(しの)ぎかね、日も山蔭に傾くを待《まち》て池辺に至り、黄昏《たそがれ》に及ぶまで、竿を翫《もてあそ》ぶといへども、一鮮《いつせん》をも釣り得ず。既に帰らんとして竿を引揚げんとするに、一魚を得たり。鮒や鰻の類に非ず。白色緬鱗にして眼中爛熳たり。早々罩(びく)に入れて帰る。一町半を隔《へだつ》るに、かの池中よりその名を呼ぶものあり。何となく物凄く覚えて、家に帰り、大盥《おほだらひ》に水をたゝへてその中に入れ、麺板《めんばん》を蓋《ふた》とし、大石《だいせき》を押《おさ》へに置く。鼬《いたち》鼠[やぶちゃん注:以下の『甲斐資料』版では『猫鼬』。]を防ぎ、熟睡に付《つき》たる、夢に人[やぶちゃん注:同前では『一人の翁』である。]あり、憤怒の相《さう》を顕はし、大いに吃《どもり》て[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じ。『甲斐資料』版では『叱て』。どう考えても、「叱」である。]云ふ。我は池中の神、いかなれば汝我眷属(みうち)を捕へて苦しむぞと。翌朝蓋を取て見るに、いづくよりか洩出《もれいで》けん、魚の行衛を知らず。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」「小豆洗」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『甲斐志料集成』第三(昭和八(一九三三)年甲斐志料刊行会刊)のここの右ページの四行目『○逸見比志村の怪異』がそれ。但し、底本違いで(宵曲は「未完随筆百種」)、表記に、かなり、多くの異同がある。

「奥逸見」現在の北杜市街を抜ける道を同書では「逸見筋」言っているグーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)から、その北(東北の清里、西北の諏訪へ抜ける方)位置である。

「池」漠然とした広域で、村名(底本の場合)もなく、ここにある情報からは、到底、特定不能である。]

2024/01/04

譚海 卷十二 貧乏神の事(フライング公開) 

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

 叔父、壯年の時、晝寢せし夢に、

……乞食の如き老人、繿縷(らんる)にて、座敷に入來(いりきた)り、直(ただち)に二階へ上(あが)りたる……

と、見たり。

 夫(それ)より後(のち)、萬事、不如意成(なる)事、多くて、過(すご)しけるに、四年をへて、また、晝寐せし夢に、

……前年、二階へ上りたる老父、座敷へ出(いで)て、暇(いとま)を乞(こひ)、立去(たちさ)らんとせし時、申(まふし)けるは、

「……我等は、『貧乏神』なり。四年以前、此家に來りしが、只今、出でさる也。我等、出行(いでゆき)たる跡にて、燒めしに、燒みそを、少し、こしらへ、をしきに、のせ、うらの戶口より、持出(もちいで)て、近き川へ流(ながす)べし。……」

と。又、をしへて云ふ。

「……かまへて、已來(いらい)、燒みそを拵(こしら)ふべからず。貧乏神、殊に、好みたらむ物なり。生味噌、食ふは、殊に惡しく、味噌を燒くべき火の氣(け)さへ、なき程の事なり。……」

と、語りて、夢、さめぬ。

 敎(をしへ)の如く、いとなみて、川へ流せし。

 それより後(のち)、窮迫の事、なくて、ありき。

[やぶちゃん注:当該ウィキにも、本話が紹介されてある。]

フライング単発 甲子夜話卷四十八 11 琵琶湖の巨鰋

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

48―11 琵琶湖(びはこ)の巨鰋(おほなまづ)

 今玆(こんじ)三月の末、江州の琵琶湖に、巨(おほき)なる黑魚(こくぎよ)浮(うかみ)しを、漁人、もりにて、突(つき)ければ、俄かに、風濤、起(おこ)り、湖色(こしよく)、冥晦(めいかい)せしまゝ、恐れて、舟を馳せて、避け還り、その事を說(くど)く。

 因(より)て、數口(すくち)の漁夫、言ひ合せ、その翌日、風、收まり、波、穩かなるを待ちて、窺(うかがひ)しかば、又、昨(きのふ)の如く、魚、現れしを、多くの舟、取捲(とりまき)て、一度に、數十(すじふ)のもりを突(つき)て、乃(すなはち)、魚(うを)、死(し)したり。

 打寄(うちより)て見るに、三間[やぶちゃん注:五・四五メートル。]餘もある、老鰋(なまづ)なりし、と。

 廼(すなはち)、大網(おほあみ)を以て、やうやう、陸に牽上(ひきあげ)たるを、その邊(あたり)の豪民、買取(かひと)りて、膏(あぶら)をとりしに、夥しき斤兩(きんりやう)を得たり、と。

 鰋の腹中(ふくちゆう)に、髑髏(どくろ)、二つ、小判、金八十餘片ありし、となり。

 いつの時か、溺死の人を食(しよく)せしなるべし。

 從來、秋の頃、「大(おほ)しけ」する時は、黑き物、湖中に見ゆるを、土俗、これを、

「黑龍なり。」

と云ひ傳へたり。

 これに於て、始めて、この鰋なることを、知る。

 これ迄、天氣晴朗のとき、見えたること無きに、今春、時候、常を失(しつ)し、世上、流行病(はやりやまひ)ありて、地氣(ぢき)も亦(また)、變あり、と覺しく、この鰋も、時に非(あら)ずして、浮みたるなるべし【この頃《ごろ》、東都にも、各所の池の鯉・鮒等、頻(しきり)に水面に浮めり。】。

 これ、時に非ずして出(いで)たるより、漁人に獲(と)られける。萬物ともに、數(すう)あることなるべし。【林(はやし)、話。】

■やぶちゃんの呟き

「琵琶湖の巨鰋」琵琶湖と淀川水系のみに棲息する日本固有種で、日本に自然分布するナマズ科魚類四種の中でも、最も大きく、在来淡水魚全体としても、最大級の大きさに成長する条鰭綱ナマズ目ナマズ科ナマズ属ビワコオオナマズ Silurus biwaensis が知られる。但し、当該ウィキによれば、『最大で体長』一メートル二十センチメートル、体重二十キログラム『ほどになる。体格には雌雄差があり』(性的二形)、『一般に雌の方が大きく』、一メートルを『超える大型個体は』、『ほとんどが』、『雌である』とある。本話は伝聞であるから、「三間」はドンブリに尾鰭が付いたものではあろう。

「今玆三月の末」次の条に『去年癸未』とあるので、宝暦十四年三月末と読める。グレゴリオ暦では、この年の旧暦では三月三十日で一七六四年月三十日である。なお、宝暦十四年六月二日(グレゴリオ暦一七六四年六月三十日) に「明和」に改元している。

「數」命数。

譚海 卷之六 同國秋葉山權現の御事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。標題の「同國」は前の条の標題の内の「遠州」を受けるもの。]

 

 遠州、秋葉山(あきはさん)權現は、「火防(ひぶせ)の神」也。靈驗揭焉(けちえん)[やぶちゃん注:「顯著」に同じ。]なる事、口碑に傳ふる事、多し。

 本坊に滯留の客、常に、たゆる事、なし。

 それに饗する飯をば、大釜にて焚(たく)に、竃(かまど)も大なれば、山中より伐り貯(たくはへ)たる材木を、丸樹のまゝにて、焚也。

 飯、出來れば、長き鐵のまたふり[やぶちゃん注:「杈(またふり)」で、木や竿のさきを二股にした「杈(さすまた)」のこと。]にて、餘燼の木を、かきいだし、其まゝ消(きえ)もやらぬを椽(えん)の下へ突入置(つきいれおく)に、おのづから、火、消(きえ)て、敢(あへ)て火災ある事、なし。往古より然り。

 房中の座敷、幾所(いくところ)にも、一宿の旅客あるに、山中、寒ければ、座敷ごとに、ゐろりを構置(かまへおき)て、それへ、臺所より、もえくひのまゝを、重能(ぢゆうのう)に、山の如く、盛(もり)て持(も)てはこぶ。

 長き廊下など、通りて、遠き座敷などへ持行(もちゆく)には、重能の火、こぼれて、所々の座敷の疊の上にあれども、疊、やくる事なし。重能を持歸る、たよりに、みれば、こぼれたる火、ことごとく消(きえ)てあるゆゑ、手にて、ひろひ集(あつめ)て、重能に入れ、歸る也。

 その外(ほか)、房に續きて、諸職人、長屋、たて續けたる、大成(なる)宅、有(あり)、夫(それ)に、諸職人、住居して、鍛冶(たんや)、桶類・家具・諸雜器等を日々にこしらふる事也。

 其職人等(ら)、晝は、一日、所作(しよさく)をなして、その部屋に、人々、薪(たきぎ)・材木を、ゐろりにたき、おもふまゝにあたゝまりをり、夕(ゆふべ)になれば所作を仕舞(しまひ)て房へ食事に行き、そのまゝ、房に寢る事なるに、

「我部屋に、夥敷(おびただしく)燒捨(やきすて)たる火を、けしもせず、打捨(うちす)て、出行(いでゆく)とも、その跡にて、火、おのづから滅して、失火ある事、なし。」

と、いへり。

 又、每年霜月十六、七日には「火防(ひぶせ)」の祈禱あり。

 かねて近在の僧徒、この役に候(こう)する例(れい)有(ある)者共、數日(すじつ)、別火潔齋して、その日に會集する也。

 秋葉山の坊は、洞家[やぶちゃん注:曹洞宗。]の禪宗なれば、みな、その宗門の僧徒、あつまる也。

 黃昏(たそがれ)より、祈禱の修法(しゆほふ)はじまる。

 火を、おびたゞしく、盤に盛(もり)て、その中へ、誦經しながら、火防の札を打入(うちいれ)、長き鐵のまたふりにて、かきまはし、念呪する也。

 此札、如ㇾ此(かくのごとく)、火中にあれども、一枚も、やくる事、なし。

 翌朝まで、そのまゝ置(おき)て、火、消(きえ)て後、冷灰(れいばひ)の中(なか)より、この札を、ひろひ出し、櫃(ひつ)にたくはへ置(おき)て、一年の内、參詣して札を乞(こふ)者に、與ふる事とす。

「もつとも奇特ある事。」

と、いへり。

「秋葉山、遠州にある事に稱すれども、その山は、三河と、遠江とに屬して、境内(けいだい)は、二州にまたがりたる所なり。されば、本堂は、同じ山中ながら、三河に屬し、境内は、多分、遠江に屬せり。」[やぶちゃん注:秋葉山は全山が、現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある。但し、ウィキの「秋葉神社」によれば、『古来、火防及び火そのものに対する信仰が根本であり、町内で火災鎮護を祈る地域や消防団、火を扱う職業の参拝が多い。火災鎮護ということで三河地方を中心に新築・増改築に際して参拝し』、『棟札を受ける習慣がある』(傍線太字は私が附した)とあることから、その多くの参詣者が三河の人であったことからの認識からか。現在は神仏分離により、秋葉山本宮秋葉神社と、秋葉山秋葉寺に別れてある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

と、いへり。

「堂の大きさ、淺草觀音堂の如し。」

と、いヘり。

 それより、八町奧に、「奧の院」といふあり。[やぶちゃん注:現在の位置はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが、江戸時代には、現在地の東北の静岡県浜松市天竜区春野町豊岡勝坂にあった。神仏分離令で移されたものである。]

 本堂までは、男女參詣すれども、「奧の院」へは、女の參詣を禁ず。殊に深山にして、しばらくも長く留(とどま)りがたき、恐ろしき氣景(きけい)の所なり、とぞ。

「本堂、常には、晝夜、にぎはしければ、さにあらねども、霜月、火防の祈禱の夜は、何となく恐ろしく、修法に供する人の外は、留宿(りうしゆく)するものなく、御供米(みくましね)[やぶちゃん注:「御糈」とも書く。一度、神に供えた精米。]を、いたゞきて、皆、下山する事。」

と、いへり。

 又、此奧の院の外に、三里奧、山中に、別社あり。

 これは、まことに、非常の人の、まれにいたるばかりにて、參詣するものも、かねて潔齋精進して、先達(せんだつ)をたのみて、參詣する事、とぞ。その道も、おほくは、懸崖絕壁にして、瀑水のそゝぐ所などをも、よけず過(すぐ)る所おほし、とぞ。[やぶちゃん注:記載に基づくなら、この附近(グーグル・マップ・データ)となるが、幾つか、それらしいものがあるが、特定は私には出来なかった。]

 本堂より、ふもとの町家へ下るに、表門は五十町、うら門よりは、七十町あり。每夜、下山する人、絕えざれば、本坊にて、提燈蠟燭を借(か)す。らふそくは、廿匁懸(がけ)ばかりのもの、二挺(ちやう)づつ、給(きふ)する也。あたひも、何(いか)ほどにても、かまはず、參詣の人の、心次第に奉る也。

 此裏門・おもて門、ともに、道の遠近、異なれ共(ども)、らふそく二挺にて、いづれより下山しても、宿まで、火、消(きゆ)る事なく、又、二挺をはぶきて、一挺にても、火、消る事、なし。

 これを、

「眼前のふしぎ。」

に、いひ傳ふる事也。

 一挺にて、下山せしものの、七十町の道を、下り盡し、町家の宿へいたりて、その火、消さん、とせしに、宿の亭主、

「山にて、借り來り賜ふ火ならば、けさでも、え盡(つき)る。」[やぶちゃん注:この「え」は副詞であるが、下に肯定の表現を伴って、「うまく~できる・よく~する」の意の用法。]

とて、

「そのまゝ、あれ。」

と、いひければ、洗足(せんぞく)などして座敷へ入(いり)、其てうちんのまゝ、座敷のなげしに、かけ置きたるに、しばしありて、らふそく、燃えつきて、消(きえ)たりしが、消(きゆ)るとき、下より、人の、火をおしあぐる如く、短かき、らふそくの、てうちんの、ふたの口まで、

「ば」[やぶちゃん注:底本では「ば」の下に編者注で『(っ)』とある。]

と、燃えあがりて、消(きえ)たるを、みたり。かゝるふしぎなる事は、なかりし、と、その人のかたりしなり。

 すべて、秋葉山中は、有德の體(てい)にて、姦(よこしま)をなし、僞(ぎ)をいだくものなし。

 參詣のものも、其靈驗におそれて、あヘて私(わたくし)をおもふ事なく、甚(はなはだ)愼(つつしみ)たる事也。

 それゆゑ、房に一宿する飯料(はんれう)も、百錢より外(ほか)は、あたひを、とらず、參詣のもの、心得にて、その餘(よ)を寄附するは、所存次第也。

 房にて、飯、出來れば、一汁一菜の調味にて、とりこしらふる事もなき品を、飯繼・鍋[やぶちゃん注:「繼」に編者の傍注があり、『(櫃)』とある。「飯櫃・鍋」で「めしびつ

・なべ」。]とも膳椀にそへて、人數のまゝ、器などそへ、つきつけて置(おい)ていぬるを、旅人、手々(てんで)に、飯、かいとりて、飯、もり、汁、すゝり、くひはてぬれば、五人なれば、五百錢、十人なれば、壹貫文、膳の上に出(いだ)し置(おき)て、房へ返す事也。

 江戶をはじめ、諸國の參詣・講中などいふもの、常に、たえず。講中などいふものは、房にても、饗膳、ことに美々しき體(てい)也。その他《ほか》は、みな、右に聞ゆるごとく、とりこしらへたる事、なし、とぞ。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「秋葉山三尺坊」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家にある秋葉山(あきはさん:赤石山脈南端・標高八百六十六メートル。ここ(グーグル・マップ・データ))の、火防(ひぶせ)の神である「秋葉大権現」という山岳信仰と修験道が融合した神仏習合神の別称。但し、明治の廃仏毀釈によって秋葉山本宮秋葉神社と秋葉寺に分離したが、後者は明治六(一八七三)年)に廃寺となり、現在、その仏像仏具類は本寺であった現在の静岡県袋井市久能にある「可睡斎(かすいさい)」に移され、「三尺坊」の神像もそこに現存する。現在、静岡県浜松市天竜区春野町に秋葉三尺坊大権現を祀る秋葉山(しゅうようざん)秋葉寺という寺があるが、これは明治一六(一八八三)年に再建されたものである。詳しくは、参考にさせて戴いた個人ブログ「神が宿るところ」の「秋葉山総本山 秋葉寺(三尺坊)」を参照されたい。なお、そちらによれば、『「秋葉大権現」が「三尺坊大権現」という天狗として認識されるようになったのは、次のような伝承による。即ち、三尺坊は』、宝亀九(七七八)年、『信濃国・戸隠(現・長野県長野市)生まれで、母が観音菩薩を念じて懐胎し、観音の生まれ変わりといわれた神童だったという。長じて、越後国・栃尾(現・新潟県長岡市)の蔵王権現堂で修行し、僧となった。「三尺坊」というのは、長岡蔵王権現堂の子院』十二坊の内の一つで、その名を取ったものであり、『ある日、不動三昧の法を修し、満願の日、焼香の火炎の中に仏教の守護神である迦楼羅天を感得し、その身に翼が生えて飛行自在の神通力を得た。そして、白狐に乗って飛行し、遠江国秋葉山のこの地に降りて鎮座したとされる』。『現在も頒布されている秋葉山の火防札には「三尺坊大権現」の姿が描かれているが、猛禽類のような大きな翼が生え、右手に剣、左手に索を持ち、白狐の上に立っている姿である。火炎を背負い、身体は不動明王のようだが、口は鳥のような嘴になっている。これは、もともとインド神話の鳥神ガルーダが仏教に取り入れられた迦楼羅天』(かるらてん:八部衆・後の二十八部衆の一つ。)『の姿に、不動明王を合わせ、更に白狐に乗るところは荼枳尼天の形が取り入れられているようだ。実は、この姿は、信濃国飯縄山の「飯縄権現(飯縄大明神)」とほぼ同じである。「飯縄権現」は、飯縄智羅天狗とも呼ばれ、日本で第』三『位の天狗(「愛宕山太郎坊」(京都府)、「比良山次郎坊」(滋賀県)に次いで「飯縄山飯縄三郎」とも呼ばれる。)とされる。こうしたこともあり、「三尺坊大権現」は、その出自や修行地からして、戸隠や白山などの修験者の影響が強いようだ。そうすると、火難避けの神様としての秋葉山信仰は、古くても中世以降、民衆レベルでは江戸時代以降なのではないかと思われる。江戸時代には、資金を積み立てて交代で参拝する秋葉講が盛んに組織された』とある。]

2024/01/03

フライング単発 甲子夜話卷九 3 肥前佐嘉にては火毬降ることある事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

 吾が永昌寺の隣の宗源寺の住持を順道と云ふ。肥前佐嘉領の人なり。

「永昌寺に語れり。」

とて、聞く。

「佐嘉にては、時として、天より、『火毬(ひまり)』、降ることあり。里人、テンビと謂ふ。」【「テンビ」は「天火」なるべし。】

「火毬、おつると、地上を轉(てん)ず。人、これを、視れば、卽(すなはち)、簇(むらが)り、逐(お)ふ。逐ふとき、念佛を高唱(かいしやう)す。逐へば、乃(すなはち)、囘轉して逃(にぐ)るが如し。因(よつ)て、郊外に逐ひ行きて、野に轉(ころ)び入(いれ)ば災(わざはひ)、なし。逐はざれば、人家に轉び入(いり)て、火を發す。」と云ふ。

 奇なること也(なり)。

■やぶちゃんの呟き

「永昌寺」佐賀県杵島(きしま)郡白石町(しろいしちょう)横手(よこて)のここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に現存する。

「宗源寺」永昌寺の周辺には、現在、この名の寺はない。かなり離れた佐賀市のここに「宗源院」ならあるが、これが移転したものか、ただの偶然の名の一致かは、不明。

「肥前佐嘉領」佐賀郡に同じ。古代から江戸時代まで、両方の表記が存在した。

「火毬」正体不詳。

フライング単発 甲子夜話卷十八 16 人魂を切て病癒る事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

18―16 人魂を切(きり)て病(やまひ)癒(いゆ)る事

 吉原町、西河岸(にしがし)、倡家(しやうか)の女、勞瘵(らうさい)にて危篤に及びたるとき、人だま、出(いで)て飛去(とびさ)る。

 この時、戶外(こがい)を行く人あり。これを見て、刀を抜(ぬき)て、人だまを、切りたり。

 是よりして、かの病(やまひ)、平癒せしと云(いふ)。

 理外(りがい)の談なり。

■やぶちゃんの呟き

「勞瘵」「労咳」に同じ。結核。

2024/01/02

フライング単発 甲子夜話卷四十 5 癸未十月、飛ものゝ事

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]

 

40-5 癸未十月、飛(とぶ)ものゝ事

 林子(りんし)、曰く。

 今玆(こんじ)【癸未(みづのとひつじ)。】十月八日夜(よる)戌刻下(いぬのこくさが)り[やぶちゃん注:午後八時から午後九時の間。]、西天(せいてん)に、大砲の如き響(ひびき)して、北の方(かた)ヘ行(ゆく)。

 林子、急に、北戶(きたど)を開(あけ)て見れば、北天に、餘響(よきやう)、轟(とどろき)て、殘れり。

 後(のち)に人(ひと)、言(いふ)を聞(きけ)ば、

「行路(かうろ)の者は、そのとき、大(おほき)なる光り物、飛行(とびゆ)くを見たり。」

と云ふ。

 又、數日(すじつ)を隔(へだて)て、聞く。

「早稻田【地名。】に、輕き御家人の住居(ぢゆうきよ)、玄關やうの所へ、石、落(おち)て、屋根を打破(うちやぶ)り、碎片、飛散(とびちり)しが、その夜(よ)、その時の事なり。」

とぞ。

 最早、七、八年にも成(なり)けらし。

 是は、晝のことにて、此度(このたび)の如き、音、して、飛物(とびもの)したるが、八王子、農家の畑(はた)の土に、大(だい)なる石を、ゆり込(こめ)たり。

「其(その)質(しつ)、燒石(やきいし)の如し。」

とて、人々、打碎(うちくだき)て、玩(もてあそ)べり。

「今度(このたび)の碎片も、同じ質なり。」

と、見たりし人、云ひき。

 昔、星、殞(おち)て、石となりし抔(など)云(いふ)ことは、是等のことにもあるや。造化の所爲は意外のことなり。[やぶちゃん注:底本でも、ここは改行している。]

 前(さき)に云ふ。

 七、八年前の飛物は、正(まさ)しく、予が中(うち)の者、見たるが、その大(おほき)さ、四尺にも過ぎなん。

 赤きが如く、黑きが如く、雲の如く、火焰(くわえん)の如く、鳴動・囘轉して、中天(ちゆうてん)を迅飛(じんひ)す。

 疾行(しつかう)のあと、火焰(くわえん)の如く、且つ、餘響(よきやう)を曳(ひ)くこと、二、三丈に及べり。

 東北より、西方に往(ゆ)きたり。

「見し者、始めは、驚き、見ゐたるが、後(のち)は、怖(おそれ)て、家に逃入(にげい)り、戶を塞ぎたれば、末(すゑ)は知らず。」

と、林子の言を得て、繼(つ)ぎしるす。

■やぶちゃんの呟き

「癸未」「十月八日」文政六年十月八日はグレゴリオ暦一八二三年十一月八日。

明恵上人夢記 107

107

一、同十一日の夜、坐禪の後(おち)に眠る。

 夢に云はく、故行位律師(こぎやうゐのりつし)は、大師の「梵網經(ぼんまうきやう)」を以て、高尾に於いて、暫く、籠居(こきよ)して、高辨に對(むか)ひて言はる、

「此の疏(しよ)を讀み奉れ。」

 高辨、之を領掌し、其の本を取りて、之を見るに、不思議なる靈本也。夢の中の其の本に云はく、

『「冒地(ばうち)」の梵語、之(これ)、在りと思ひて、此(これ)を見るに、

Bodai

[やぶちゃん注:底本の編者割注で以上の梵(サンスクリット)語二字の意味を『菩提』することが示されてある。同語を音写すると「ボウチ」であるから、ここに出る「冒地」はそれへの当て字であろう。画像は所持する底本の「明恵上人集」(一九八一年岩波文庫刊)のものをOCRで読み取り、トリミング補正した。]の梵字也。又、菩薩の名、在る處は、卽ち、繪圖也。不動尊等(とう)の如く、大きなる火聚(くわじゆ)の中に處(を)り。其の炎(ほのほ)、紺靑色(こんじやういろ)也。』

 心に思はく、

『此(これ)は、眞言の宗骨(しゆうこつ)の、此(かく)の如くしなしたる本か。』

と思ふ。

『都(すべ)て、此(かく)の如き證本(しやうほん)の、有りける。』

と思ふ。

 都て、書躰(しよたい)も薄香(うすかう)の表紙にて、能筆を以て、書(かき)ける也。

 

[やぶちゃん注:梵字は底本のものをOCRで読み込み、トリミング補正したものを挿入した。本夢は、順列からも、承久二(一二二〇)年八月十一日の夢と考えてよい。

「行位律師」空海を指すか。明恵は華厳宗であるが、空海に対して、非常に強い関心を示していた。「栂尾明恵上人伝記 11 十三歳から十九歳 二つの夢記述」の二番目の夢に、やはり、弘法大師が登場している。

「高尾」京都高尾山の神護寺。空海は、当時は和気氏の私寺であった「高雄山寺」であった、ここに入った。また、明恵は孤児となってから、この高雄山神護寺の、文覚の弟子で、叔父の上覚に師事(後に文覚にも師事)し、「華嚴五敎章」・「俱舍頌」(くしゃじゅ)を読む一方、移った仁和寺では、真言密教を実尊や興然に学んでいる。

「高辨」幾つかある明恵の法諱の最後のそれ。

「大師の梵網經」正しくは「梵網經盧舍那佛說菩薩心地戒品第十」。大乗仏教の経典であり、鳩摩羅什訳とされる漢訳が伝わる。上下二巻本。下巻を特に「菩薩戒經」と呼び、本書全体が大乗菩薩戒の根本経典として重んじられている。因みに、空海は、真言密教の立場から、この「梵網經」を解釈した「梵網經開題」を著しているが、この夢で「疏」(注につけた注釈)というのは、その「梵網經開題」を念頭においた、架空の書であろう。

「眞言の宗骨」「仏教の真言(深い意味の籠った絶対の教え)の核心部」の意か。

「此(かく)の如くしなしたる」の「如く」の下の「し」は「する」の意のそれではなく、強意の副助詞と採る。

「薄香」色の名の一つ。白茶(しらちゃ)に、少し、赤みがかった薄い茶色。香料の丁字(ちょうじ)を染料に用いた色の一つで、丁字色を薄くしたのが「香色(こういろ)」で、その香色を、やや薄くした色を指す。平安朝以来の伝統的な色名で、和服などによく用いられる。丁字は生薬や香辛料として知られるが、かぐわしい香りのする香木でもある。]

 

□やぶちゃん現代語訳

一、同じく承久二年八月十一日の夜、座禅の後(のち)に眠った。……

――こんな夢を見た……

 故(こ)行位(ぎょうい)律師は、大師の「梵網經(ぼんもうきょう)」を以って、高尾に於いて、暫く、籠居(こきよ)されて、私(わたくし)、高弁に対座されて言われた。

「この『疏(しょ)』を読み奉るがよい。」

 高弁、これを領掌し、その本を取って、これを見るに、まっこと、不思議な霊本なのであった。

 夢の中の、その本に曰わく、

『「冒地」(ぼうち)の梵語、これ、在(あ)ると思って、これを見るに、

Bodai

の梵字であったのである。また、菩薩の名が記されてある箇所は、即ち、絵図であったのである。不動尊等(とう)の如く、大いなる火の聚(あつま)りの中に、居(い)られるのである。その炎(ほのお)は、優れて紺靑色(こんじょういろ)なのである。』

 心に思ったのは、

『これは、まさに「真言」の核心部分を、かくの如く、厳然と示した本なのだろうか?』

と思った。

『すべて、このような、信証を鮮やかに示した本が、あるものなのだなぁ!』

と思った。

 すべて、書体も、薄香(うすかう)の表紙にて、能筆(のうひつ)を以って、書かれてあったのである。

2024/01/01

譚海 卷之九 相州三浦の蜑海中に金を得たる事(フライング公開)

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]

 

○相州みうら城の嶋[やぶちゃん注:城ヶ島のこと。]の蜑(あま)、水を、くゞり、「かけ硯(すずり)」を得たるもの有(あり)。[やぶちゃん注:「かけ硯」「懸け硯・掛け硯」で、掛け子(かけこ:箱の縁に掛けて、その中に嵌まるように作った平たい箱。抽斗(ひきだし))のある硯箱。掛け子には、硯・墨・水入れなどを入れ、その下の引き出しには小物などを入れる。「かけすずりばこ」とも言う。]

 これは、破船の中に有(あり)たる物成(なる)べし。金子(きんす)、いかほど得たることにや、今に、その蜑の家はかづき[やぶちゃん注:潜水。]を業(なりはひ)としながら、田地、あまた、もちて、人に作らせて、ゆたかにて、あり。

 岩のはざまに、かけすゞり、はさまれて、いくとしへたるとも、知らず、箱の面(おもて)に、ことごとく、貝の類(たぐひ)、取付(とりつき)て、靑苔(あをごけ)、生(お)ひたれば、めにたつる蜑もなかりしに、この蜑、貝の付(つき)たるあはひに、引出(ひきだ)しの釻(くわん)[やぶちゃん注:引き手。]少しばかりあるを見付(みつけ)て、取(とり)て來(きた)ること、とぞ。

「破船の砌(みぎり)[やぶちゃん注:おり。場合。]ならば、寃魂(ゑんこん)のたたりも有(ある)べけれども、年へし事にて、何のさはりもなく、子孫、今に繁昌せり。しかしながら、天の賜(たまもの)なるべし。」

と、人の語りぬ。

譚海 卷十二 大黑天緣起の事(フライング公開) // 謹賀新年

[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。なお、既にブログで述べたが、「国立国会図書館デジタルコレクション」は、一月四日まで、「NDLオンライン」へのログインが休止しているため、当該底本を視認出来ないことから、更新を中止している。一月五日に再開する。

 

○大黑天は、梵語に「マカキヤラ天」と稱す。「マカキヤラ」は「眞黑成(なる)事」也。中夜(ちゆうや)子(ね)の刻の「眞黑なる」に表(あらは)する故、子(ね)をもつて祭る事也。蓮葉(はすのは)に座し給ふ、儀軌(ぎき)の說なり。小机(こづくへ)に座し給ふは不空三藏の「南海儀軌傳」の說也。俵(たはら)に座し、槌を持(もち)給ふは傳敎大師感得の像也。前の二說には、つちの沙汰、なし。三面八臂は宇加神(うかじん)、辨才天を合體したるものにて、佛說には、見えず。

 又、日光山に「はしり大黑」と云ふあり。

 信受(しんじゆ)のもの、懈怠(おこたり)の心あれば、走り失せて、その家にましまさず、殊に靈驗(れいげん)ある事、おほし。

 これは、往古、中禪寺に、大(おほき)なる鼠、出(いで)て、諸經を喰ひ破り、害をなせし事ありしに、その鼠を、追ひたりしかば、下野(しもつけ)の「あしほ」まで、逃げたり。

 鼠の足に緖(を)を付けてとらへて死(しし)たるより、其所《そこ》を「あしほ」といふ、とぞ。

 「あしほ」は「あしを」なり。

 さて、死たる鼠の骸(むくろ)に、墨を塗りて、おすときは、その儘(まま)、大黑天の像になりたり。

 それより、日光山に、この鼠の死たる體(からだ)を重寶(ちようほう)して、納め置き、今、「はしり大黑」として、押出(おしいだ)す御影(みえい)は、これなり。

 彼(かの)山の祕事にて、不可思議なり。

[やぶちゃん注:「大黑天は、……」仏法の守護神。元来は、ヒンズー教の神で、密教では「大自在天」の化身とする。サンスクリット語で「マハーカーラ」の漢訳。日本の民間信仰では「大国主命」と習合し、頭巾を被り、袋を背負い、打ち出(で)の小槌を持つ福の神として「七福神」の一神となってもいる。大国主命は「オオナムチ」「オオナモチ」の名義を持つが、それは「大穴持」の文字でも書かれ、それは、「真っ暗闇の洞窟にいる神」を意味しており、強い親和性が認められる。また、大黒天像が、袋を背負い、米俵を踏まえた姿は、古代の農神の面影を伝えていて、西日本に於いて、大黒天が「田の神」として信仰されたのが、その証左とも思われる。

「儀軌」サンスクリット語「カルパ」(「規則」の義)の意漢訳の仏語。密教の経典に説かれた仏菩薩や、天部の供養及び念誦などの「儀式規則」を指し、また、転じて、これらを記した経典を指す。ここは最後の意。

「不空三藏」不空金剛(サンスクリット語:アモーガヴァジュラ 七〇五年~七七四年)は唐の涼州(一説にインド南部)出身の訳経僧。金剛智・善無畏によって齎された密教を唐に定着させた人物である。真言宗では「三蔵法師」の一人であることから、「不空三蔵」と尊称し、真言八祖の「付法の八祖」では第六祖、「伝持の八祖」では第四祖とする。

「南海儀軌傳」これは作者の誤り。同書は義浄(六三五年~七一三年)の作。唐代の僧で、法顕・玄奘の風を慕い、六七一年、広州から、海路でインドに渡り、ナーランダ(那爛陀)寺で仏教の奥義をきわめ、各地を遊歴の後、六九五年に梵本四百部を持って洛陽に帰還し、三蔵の号を受けた。「華厳経」や、唯識・密教などの仏典五十六部三百三十余巻を漢訳している。

「傳敎大師」最澄(天平神護二(七六六)年或いは神護景雲元(七六七)年~弘仁一三(八二二)年)の大師号。

「宇加神」「宇賀神」(うがじん)の表記が一般的。本邦で中世以降に、財を齎す福神として信仰された。神名の「宇賀」は、日本神話に登場する「宇迦之御魂神」(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられているが、別に仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある。人頭蛇身で、蜷局(とぐろ)を巻く形で表わされ、頭部も、老翁や女性であったりと、像形は一様ではない。参照した当該ウィキによれば、元来は、『宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった』。『この蛇神は比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合』・『合体したとされ、この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれる』とある。

「はしり大黑」波之利大黒天(はしりだいこくてん)。当該ウィキによれば、『栃木県日光市に伝わる大黒天で、勝道上人が日光山を開く過程や、足尾の名称の由来など、日光地方の起源に登場する神のひとつである』。『「波之利」の名称の由来には、勝道上人が日光開山を祈願した折、大黒天が中禅寺湖の波の上に現れて勝道の願いを叶えたことに由来するといわれている』。『波之利大黒天は日光に伝わる以下の説話に登場し、それぞれ』、『中禅寺』、乃至。『宝増寺の大黒天像』、及び、『足尾の渡良瀬川橋梁(大黒橋)袂の大黒様として祭祀されている』。『中禅寺湖の大黒天』は、『勝道上人が男体山登頂を祈願した際、中禅寺湖の波の上に大黒天が現』わ『れ、事が成就したことから、勝道が湖畔に大黒天を祀ったとされる。現在の日光山輪王寺別院宝増寺、同中禅寺に伝わる大黒天像の由来である』。ここで語られてある『足尾の大黒天』は、『毎年』、『穂をくわえて』、『日光中宮祠に現れる白ネズミはどこから来るのか、これを確かめるために』、『勝道上人が』、『この白ネズミの足に紐(緒)を結わえて放ったところ、現在の足尾の村落に至ったことから、それ以来』、『この村落を「足緒」と呼ぶようになり、白ネズミが入った洞穴を修験の場に選び』、『大黒天とネズミを祀ったという。足尾の名称と、渡良瀬川橋梁(大黒橋)の袂に祀られる大黒様の由来である』(かなり本篇とは異なり、白鼠は神使扱いとなっている)。グーグル画像検索「波之利大黒天像 日光山 足尾」をリンクさせておく。]

 

 

謹賀新年 今年もよろしくお願い致します。

 私は、元々、元日を特異点として認識していない。

 教員時代の例式で、寧ろ、四月一日を人生の切れ目とする認識が強いとは言える。

 しかも、グレゴリオ暦の一月を「春」と認識する習慣も、全く、零(ゼロ)である。

 されば、私は、サイトのホーム・ページでも、「迎春」を掲げ、記念テクストを掲げるのを、永久にやめにする。

 因みに、年賀状も仕舞いとしたいが、三年ほど前に、古い教え子にその話をしたところ、最古層の元女生徒から、強く、「それは、絶対に! いけません!」と言われたので、来る者は拒まずとする。悪しからず。

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