柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「疫鬼」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
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疫鬼【やくき】 〔笈埃随筆巻六〕洛北一乗寺村<京都市左京区内>金福禅寺《こんぷくぜんじ》の住僧松宗《しようそう》の語られけるは、先年備後国三好鳳源寺にて愚極和尚を招き請ぜり。愚極は梵網経開板の智識なり。則ち結夏(けつげ)あり。松宗壮年の頃にてこの会坐《ゑざ》に連なり、衆僧と俱に禅堂に入りて結珈趺坐し居《ゐ》たり。衆僧も昼夜の動行につかれ、膝突《ひざつき》にふらふらと眠りぬ。然るに松宗ふと頭をもたげ見れば、垂れたる帷幕《ゐばく》を押上げて、堂内を見廻し見廻しするもの有り。無礼なる奴かなと見留《みとむ》れば、八十ばかりの老人顔色青ざめ、至極痩せ衰へ、白髪ふり乱し、白髭たれたるは、世にいふ貧乏神ともいふべき浅ましき様《さま》にて、そゞろに物凄く覚ゆる程なり。この者そろそろと結界を越えて、堂内に入らんとする気色なれば、松宗物をもいはず、つかつかと走り行きて押出《おしいだ》すに、彼者は是非入らんとするを、力にまかせて押出せば、拍子につれて礑(はた)と転びたる音して、その後は見えずなりぬ。静かに座に帰り、また元の如く胡坐せり。怪しく思ひながら人にも語らざりけるは、その夜村の者来りて咄すやう、近在近郷に疫病流行し、村毎に過半病死す。忝《かたじめな》くもこの寺に大法会あるゆゑにや、この村に壱人も病者なしと語る。爰に於て松宗、さても今日かやうかやうの事ありし、村里に見ぬ怪しき者来《きた》れり、これやかの疫病神てふものかはといふ。一座さにこそあらんと、いよいよ修行怠慢なかりしかば、衆僧三百余人より下部《しもべ》に至るまで、村を限り病者無かりしとなり。
また日州飫肥(おび)の府報恩寺滄海和尚(今在京)に弟子たる豊蔵主(はうざうす)といふあり。今より以前諸国遍参し、白隠和尚に随従し、祖師西来の法味に飽き、臨済正宗の伝旨に酔ひて、直指《ぢきし》の塩梅《あんばい》を調和す。常に酒を嗜み、気機虎を打つの勇あり。弱きを助け剛《かふ》を押《おさ》ふの俠志《きやうし》なれば、下愚《げぐ》を恵みて権柄《けんぺい》に屈せず。貴族を螺臝(らえい)のごとく見ければ、自ら人の訪ふ事稀なりしかば、門を設けたれども常に閉ぢぬ。この僧下野国那須<栃木県那須>香厳寺といふに結制あり。数百の緇徒(しと)群参せる中に、奥州三春城下高乾院の弟子暁《げう》首座といヘると、殊に知己なりしかば、或時同伴し上方ヘ登らんと、既に遠州浜松ににさしかゝる。並木の向うより数多《あまた》弟子を召連れたる老和尚の、その長《たけ》六尺有余なるが、赤き衣を著し、左に赤木の錫杖を突き、右に払子を携へ、威風凛々《りんりん》と歩み来る。その容貌常ならず、いと尊《たつと》く覚えければ、傍《かたはら》に両僧退《しりぞ》きて拝揖《はいゆう》す。大和尚も答礼し、つかつかと面前に来り言つて曰く、生死《しやうじ》到来の時如何《いかん》と。豊首座言下に答へて、我《われ》這裏《しやり》生死《しやうじ》なしと。時に彼老和尚顔色忽ち夜叉のごとく、朱を澆(そゝ)ぎたる眼《まなこ》をいらゝげ、一《いつ》の箱をさし示して、これでも生死なきかといふ。豊首座、箱の中を見れば、只今切《きつ》たる生首一つあり。その臭気鼻を穿ちて堪へ難く、面《おもて》を向け兼ねたれども、猶強く大声して、それでもなしなしと拳《こぶし》をあげて、かの箱を打《うつ》てうち砕くばかり勢ひ込んで、只それでもなしといふのみ。忽然と一陣の夢にして、松原もなく老僧と見しも跡なく消えて、七月廿四日下野国香厳寺の庫裏《くり》なりし。蔵主茫然とあきれて左右を見れば、数千の僧徒取廻し居たりしかば、衆僧へその故を問はれければ、只それでもなしなしと罵りて、板の間を荒くたゝき、狂ひける様子なりし。いかにと問ふに、正しく夢中の事とはおもはざりしが、斯々《かくかく》と始終を語りけり。衆僧も怪しみ驚き、則答を甘心しぬ。夢覚めて後《のち》といへども、生首の臭気は鼻に絶えず。飯に付けばいよいよ甚しく、三日の程は止まざりけり。爰に不思議なりしは、その夜より夢中に同行せる暁首座、大熱煩悶し百日ばかり悩み、十一月にしてやうやう本復せり。これらみな疫鬼なり。
[やぶちゃん注:「笈埃随筆」著者百井塘雨と当該書については、『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』その冒頭注を参照されたい。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』㐧二期卷六・日昭和三(一九二八)年日本隨筆大成刊行会刊)所収の同作の当該部で正規表現で視認出来る。標題は『○疫 鬼』(標題のみ前のコマにある)。最後の以下の附説がカットされている。偈は二段組みだが、一段にした。
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諸書に云ふところ、我國、中華共に同說なり。彼※1※2乙の靈符に恐れて、疫邪の鬼神川を渉り得ざりしも同じか。又洞家の祖師道元禪師中華に傳法の頃、山中にて癘鬼に逢ひ給ひし時一偈あり。
無位眞人現二面門一
智惠愚痴通二般若一
靈光分明輝二大千一
神鬼何處著二手脚一
と示し給ふ。妙驗さらに疑ふべからず。今諸國此四句を門戶に貼り、或は右に云三字の靈符を書して、疫癘を避るとするも故有るかな。
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「※1」は「簛」の「斯」の上に「厂」を入れた字。「※2」は「※1」の「其」を「車」に代えた字(但し上記「※2」の印刷が潰れているため、所持する吉川弘文館『随筆大成』版を元にした)。霊符の呪文の文字だから、存在する字ではないようであるから、読みも不明である。因みに、この附説は、呪的な疫除けの民間伝承の具体な資料として重要であるから、宵曲がカットしたのは、私には肯んじ得ない。但し、この偈は道元の作ったものではなく、「大般若經」の一節である。
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無位の眞人(しんじん) 面門(めんもん)に現ず
智惠愚痴 般若に通ず
霊光 分明にして 大千(だいせん)に輝く
鬼神 何處(いづれ)の所に 手脚(しゆきゃく)を着けん
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ブログ「猿八座 渡部八太夫 古説経・古浄瑠璃の世界」の「忘れ去られた物語たち 4 説経越前国永平寺開山記 ⑩」に、この部分が語られてある。以下は宝治元(一二四七)年八月のこととされ、
《引用開始》
鎌倉を出立した道元は、波多野出雲守の居る越前の国を目指すことにました。日数も重なり、ようやく道元は、越前の国、湯尾(ゆのお)峠(※北陸街道:福井県南条郡今庄町湯尾)に差し掛かりました。道元はここで一休みしようと、腰を下ろしました。
すると、鬼神が現れ、道元にこう言いました。
「我々は、第六天の魔王の眷属、七千夜叉のその中で、アニラ(額爾羅)神、マコラ(摩虎羅)神の大将である。(※薬師如来に従う十二神将)
しかるに、この度、道元禅師は、疱瘡(※天然痘)を病む時節となりましたので、これより、御身体に分け入り、苦しめ申しあげます。」
道元禅師は、恐れずに、
「無位の真人、面門に現ず、智慧愚痴、般若に通ず、霊光分明にして大千に輝く、鬼神いずれの所に手脚を着けん。」(大般若経)
と、呪文を唱えると、鬼神に向かって柱杖を振り下ろしました。
鬼神達は、たちまちに悟りを得て、頭(こうべ)をすりつけ平伏すると、
「末代に至るまで、この呪文があるところには、二度と現れません。」
と、固く約束をして、消え去ったのでした。
越前の国、湯尾峠の茶屋で売っている「疱瘡神孫杓子」(ほうそうしんまごしゃくし)とは、この時、道元が振った杖の形に木を刻んで、この呪文を疱瘡避けの呪文として書いたものです。(※「湯尾峠孫杓子」という十返舎一九の小説がある)
《引用終了》
とあった。
「疫鬼」疫病を流行させるという悪神。疫病神。但し、古文では「えきき」と読むのが、普通である。但し、「やくき」と読むケースもある。
「洛北一乗寺村」「京都市左京区内」「金福禅寺」臨済宗南禅寺派佛日山金福寺。ここ(グーグル・マップ・データ。以下無指示は同じ)。平安時代に創建された際は天台宗であったが、後に荒廃した。元禄年間(一六八八年〜一七〇四年)になって、円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺末寺となり、臨済宗南禅寺派に改宗している。
「松宗」不詳。
「備後国三好鳳源寺」広島県三次市三次町(みよしまち)にある臨済宗妙心寺派の寺。ここ。因みに、ここ、かの「稲生物怪録」で知られる比熊山の南麓じゃあねえか!
「愚極和尚」同寺第四代住持。
「梵網経」全二巻。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳と伝えられたが、実際には、後の五世紀頃に中国国内で成立したと見られている。下巻は「十重禁戒」・「四十八軽戒」(きょうかい)を挙げて「大乗戒」(菩薩戒)を説き、戒本とされる。最澄が、これに基づいて比叡山に大乗戒壇を建てた。「梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十」「梵網菩薩戒経」とも呼ぶ(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「結夏(けつげ)」「夏安居」(げあんご:仏教の本元であったインドで、天候の悪い雨季の時期の、相応の配慮をした、その期間の修行を指した。多くの仏教国では、陰暦の四月十五日から七月十五日までの九十日を「一夏九旬」(いちげくじゅん)・「一夏」、或いは、「夏安居」と称し、各教団や大寺院で、種々の安居行事(修行)がある。本邦では、暑さを考えたものとして行われた夏季の一所に留まった修行を指す)の初日で、陰暦四月十五日。「結夏」(けつげ)とも言い、終了は「解夏(げげ)」と呼ぶ。
「日州飫肥(おび)の府報恩寺」曹洞宗の旧報恩寺。日南市内を流れる酒谷川(さかたにがわ)の右岸、飫肥城下町の外側に位置する。報恩寺は飫肥藩主伊東氏の菩提寺で,天正一六(一五八八)年に飫肥に入った初代藩主伊東祐兵(すけたけ)によって創建された臨済宗寺院であったが、明治五(一八七二)年におぞましい神仏分離令政策によって廃絶した。その後、飫肥藩士族によって板敷(いたじき)村に祀られていた伊東氏の氏神八幡社が遷され、五百禩(いおし)神社となった。
「滄海和尚(今在京)」滄海鐵龍。考槃鐵山和尚に就いて嗣法。第八十五祖。日本曹洞宗第三十五祖。
「豊蔵主(はうざうす)」不詳。「白隠和尚に随従し」たとあるから、相応の臨済僧と思われる。
「螺臝(らえい)」海産の「ウニ」を表わす語だが、「虫けら」のニュアンスであろう。
「下野国那須」「栃木県那須」「香厳寺」現在の栃木県大田原市寺宿にある臨済宗妙心寺派正覚山光嚴寺。
「緇徒(しと)」僧侶。
「奥州三春城下高乾院」臨済宗安日山高乾院(こうけんいん)は江戸時代の三春藩主秋田家の菩提寺の一つ。
「暁首座」不詳。
「拝揖」「拱手」(きょうしゅ)に同じ。両手の指を胸の前で組み合わせて敬礼すること。中国の最敬礼の一つ。
「這裏」この間(かん)。この答えは禅の考案を成している。
「七月廿四日」年時制不詳。]
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