フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。これは別々な巻に載るものだが、雷撃奇怪談として親和性があり、「雷獸」で繋がり、巻数の近さから、確信犯で前記事を明らかに意識しているものと思われるので、特異的にカップリングして示すこととした。「雷震」は「らいしん」で「落雷」のこと。注は「雷獸」を除き、割注にした。]
8-8 鳥越(とりごえ)袋町(ふくろまち/ちやう)に雷震せし時の事
この二月十五日の朝、俄かに、雷雨したるが、鳥越袋町に雷《かみなり》落ちたり。處は丹羽小左衞門と云(い)ふ人【千石。】の屋敷の門と云ふ。
[やぶちゃん注:「鳥越袋町」「丹羽小左衞門と云ふ人」「の屋敷の門」これは、現在の台東区鳥越一丁目と西の二丁目の間の道(グーグル・マップ・データ)に落雷したことが判った。「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」で、まず拡大して、現在の「鳥越一・二丁目」を探し、見つけたら、少し、ズーム・アウトすると、切絵図に戻る。そこにまさに上から横書で「丹羽老次郎」の屋敷が見える。しかも、実は、この直ぐ北直近が、「松浦壹岐守」とあるのが判るだろう(これはまだ静山(清)の名で書かれてあるのである)。ここは、まさに松浦藩上屋敷なのである(隠居後の静山は本所の同藩下屋敷にいる)。則ち、静山にとっては、勝手知ったる場所なのであり、それだけに興味津々なわけなのである。
其時、門番の者、見居(みをり)たるに、一火團(いちくわだん)、地へ墜(おつ)るとひとしく、雲、降(くだ)り來(きたつ)て、火團は、その中に入りて、雲に昇れり。
その後(あと)に、獸(けもの)、殘り居(をり)たるを、門番、六尺棒にて、打(うち)たるに、獸、走(はしり)にげ、門續きの長屋にゆき、又、その次の長屋に走込(かしりこみ)しを、それに住める者、有合ふもの[やぶちゃん注:手直にあった棒のようなものか。]にて、抛打(なげうち)に爲(し)たれば、獸、その男の頰を、かきさき[やぶちゃん注:「搔き裂き」。]、逃失(にげう)せたり。
因(よつ)て、毒氣(どくけ)に中(あた)りたるか、此男は、そのまゝ打臥(うちふし)たり、と。
又、
「始め、雷、落(おち)たるとき、かの獸、六、七も有(あり)たると覺えし。」
と、門番人(もんばんにん)云(いひ)けるが、
「猫より大きく、拂林狗(ふつりんく)[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて、腹、白し。」
と。
震墜(しんつい)の[やぶちゃん注:落雷が直撃した。]門柱(もんちゆう)に、爪痕、あり。
この事を聞(きき)、行人(かうじん)、群集して、常々、靜かなる袋町も、忽ち、一時《いちじ》の喧噪を爲(なせ)し、となり。
その屋敷は、同姓勢州が鄰(となり)にて、[やぶちゃん注:「同姓勢州」今一度、先の「人文学オープンデータ共同利用センター」の「江戸マップβ版」の「位置合わせ地図」の「浅草御蔵前辺図」を見て頂きたい。「丹羽」の屋敷の南端の東の一部が接している屋敷に、「松浦勝太郎」とあるのである。ここに間違いあるまい。]
「僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は、別(べつし)て、雨、强く、門内、敷石の上に、水、たゝへたるに、火光、映じて、門内一面に、火團、飛走(とびはしる)かと見えしに、激聲(げきせい)[やぶちゃん注:雷撃の際の大音響。]も烈(はげ)しかりしかば、番士三人、不ㇾ覺(おぼえず)、うつ伏(ぶせ)になり、外向(そとむき)に居(をり)し者は、顏に物の中(あた)る如く覺え、半時(はんとき)ばかりは、心地、惡(あし)くありたる。」
と、勢州の家人、物語せり。[やぶちゃん注:「顏に物の中る如く覺え」空中放電した雷電の一部による強い静電気を顔面に受けたものか、或いは、放電現象によって、オゾンなどの刺激物質が発生したものかも知れない。十三年前、高校の山岳部の顧問をしていた時、八ヶ岳で激しい雷雨に遭ったが、一人の部員が、かなり近くに落ちた際、「先生! 確かに顏にビリビリきました!」と叫んだのを忘れない。]
*
11―15 雷火傷(らいくわしよう)を治(ぢす)る藥(くすり)幷(ならびに)雷獸の食物(くひもの)
「谷文晁(たにぶんてう)の云ひし。」
と、又傳(またづて)に聞く。
[やぶちゃん注:「谷文晁」(たにぶんちょう 宝暦一三(一七六三)年~天保一一(一八四一)年)は画家で奥絵師。ウィキの「谷文晁」によれば、二十六歳で『田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世した』。三十歳の時、『田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり』、『定信が隠居する』文化九(一八一二)年まで『定信付として仕えた。寛政五(一七九三)年には定信の江戸湾巡航に随行し』、「公余探勝図」を『制作する。また定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し古書画や古宝物の写生を行った』とある。静山とは同時代人で、交流があった文人である。]
雷の落ちたるとき、其氣に犯されたる者は、癈忘(はいばう)して、遂に痴(ち)となり、醫藥、驗(しるし)なきもの、多し。
然(しかる)に、玉蜀黍(たうもろこし)の實を服すれば、忽(たちまち)、愈(いゆ)。
[やぶちゃん注:乾したトウモロコシ(イネ科トウモロコシ属トウモロコシ Zea mays )をぶら下げておくと、雷除けになると信じられていた。大の雷嫌いだった泉鏡花は、家屋の天井に何本もぶら下げていたことは頓に知られる。]
或(ある)年、高松侯の厩(うまや)に、震して、馬、うたれ死す。
中間(ちゆうげん)は、乃(すなは)ち、癈忘して痴となる。
侯の畫工石腸(せきちやう)と云(いふ)ものは、文晁の門人なり。來りて、これを晁、に告ぐ。
晁、因(よつ)て、玉蜀黍を細剉(さいさ)[やぶちゃん注:細かく碎くこと。]して與ふるに、一服にして立(たち)どころに平愈す。又、後(のち)、晁、
「本鄕に、雷獸を畜ふもの、あり。」
と聞き、
「其貌(すがた)を眞寫(しんしや)せん。」
として、彼(か)しこに抵(いた)り、就(つき)て、寫(うつ)す。
時に、畜主(かひぬし)に問ふ。
「此獸を養ふこと、何年ぞ。」
答ふ。
「二、三年に及ぶ。」
又、問ふ。
「何をか、食せしむ。」
答ふ。
「好んで、蜀黍(もろこし)を喰ふ。」
と。[やぶちゃん注:「蜀黍」現行、狭義には単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolorを指すが(原産地は熱帯アフリカであるが、本邦には、室町時代に中国を経由して伝来してはいた)、この場合は、トウモロコシの異名。]
晁、この言を不思議として、人に傳ふ。
いかにも理外のことなり。
■やぶちゃんの呟き
「雷獸」の正体については、私の「耳囊 卷之六 市中へ出し奇獸の事」の私の注を参照されたい。それ以外のモデル動物になりそうなのは、ニホンアナグマ辺りか。同種は、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 貉(むじな) (アナグマ)」を見られたい。また、先行する静山の記事に「甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事」があり、その記事の感触では、食用になるのだから、アナグマに分があるようには見える。当該ウィキには、幾つも絵が載るが、私の正体追及の食指を動かすものは、ない。
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「呼出し山」 / 「よ」の部~了 | トップページ | 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷獣」 »