甲子夜話卷之八 12 細川氏、松平遠州、家紋を取かゆる事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]
8―12
肥後の支侯、細川能登守【利庸。】に、「櫻花」を家紋とすることを問(とひ)しに、
「こは、昔、松平遠江守が家紋と取替たり。」
と云(いふ)。
「其故(ゆゑ)、詳(つまびらか)ならざれども、彼(かの)家にも、其ことを傳ふ、と聞(きく)。」
と答(こたへ)き。
又、此とき、話(かた)りしは、
「『九曜星』の紋は、豐臣秀吉の與(あづか)る所、『桐』の紋は、朝廷より賜り、『二引輛(ふたつひきりやう)』の紋は、足利公方より賜(たまはり)て、今、吾紋とするものは、皆、實(まこと)の家紋に、あらず。家紋は『松皮菱(まつかはびし)』なれど、今は還(かへつ)て、用ひず。然(しかれ)ども、古き兵器等には、たまたま、遺(のこ)るもの、あり。」
となり。
すべて、家紋のこと、その出所を知(しら)ざること、多(おほき)者なれば、しるす。
■やぶちゃんの呟き
「細川氏」「肥後の支侯、細川能登守【利庸。】」肥後新田藩第六代藩主細川利庸(としつね 宝暦四(一七五四)年~文化二(一八〇五)年)。本執筆時は、既に没している。細川家の肥後細川家の家紋は「細川九曜」だが、細川京兆家のものは「松笠菱(細川向かい松)」である(ウィキの「細川氏」に画像有り)。ここでは「松皮菱」と言っているが、これはサイト「家紋のいろは」のこれで、全然、違うものであり、そこの「使用家」には「細川」は入っていない。されば、これは、利庸が誤った言ったか、静山の聞き違いである可能性が高いと私は考える。
「松平遠州」「松平遠江守」信濃国飯山藩第二代藩主・遠江国掛川藩主・摂津国尼崎藩主となった松平忠喬(ただたか 天和二(一六八二)年~宝暦六(一七五六)年)のこと。桜井松平家第十代当主で、同家の家紋は「山桜」であった。