譚海 卷之六 江戶本所さかさゐの渡猿𢌞し侍と口論の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。
標題の「さ」は接尾語で方向を表わし、「江戸本所の方の」の意であろう。「かさゐの渡」(わたし)は「葛西」等とも書き、現在の国道七号の下にある「逆井橋」(さかいばし)附近にあった「逆井の渡し」である。]
○寬政四年の冬[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七九二年十一月十四日から一七九三年二月十日。]、本所六つ目のかさい[やぶちゃん注:葛西。]のわたし舟の中にて、猿𢌞しと、さむらひと、同じく乘合(のりあひ)たるに、いかゞしたりけん、此猿、侍の腕をしたゝか、かきやりぬ。
侍、いきどほり、はらたてて、
「猿を、もらひて、うち殺(ころす)べし。」
と、いひければ、船中の人々、こぞりて佗(わび)つゝ[やぶちゃん注:ママ。底本では補正傍注があり、『(詫)』とする。]、
「畜生の事なれば、堪忍し給へ。」
と、こしらへ[やぶちゃん注:現在は使用頻度が低いが、中世以降、「話しをして納得させる」ことを意味する。]けれど、さむらひ、さらに承引せず。
船、已に、岸に着‘つき)て、みなみな、陸ヘ上りぬるに、侍、
「ひらに、猿を受取(うけとる)べし。さなくば、おのれともに、ゆるさじ。」
とて、猿𢌞しに取(とり)かゝりて、はなたず。
猿𢌞も、とかく詫けれど、了簡せざるに仕(しまわし)わびて、
「さらば。是非なし。猿を進ずべし。」
とて、猿𢌞し、かたへに、猿をおろして猿にいひけるは、
「我、かく汝によりて、年來(としごろ)渡世せし事なるが、おもひよらず、かゝるあやまちを仕出(しいだ)して、なんじを、まゐらすべき也。汝が、こゝろから、命を斷(たつ)事、不便(ふびん)、さらにいふべきやうなけれども、今は、かひなき事也。よく心得て、死すべし。」
と、つぶつぶと[やぶちゃん注:こまごまと。]、猿に、いひきかせて、
「扨(さて)。猿をまゐらすべし。」
とて、猿𢌞しの法にまかせて、綱をきり、侍に、わたしぬ。
猿𢌞し、猿をはなつときには綱をきる寸尺の法(はう)有(ある)事、とぞ。
「かく、汝にわかるべしとは、おもひもかけぬ事。」
と、猿𢌞し、泣々(なくなく)、綱、きりて、侍にわたしければ、侍、猿の綱、ひきとると、そのまゝ、この猿、侍の喉(のど)へ、くらひ付(つき)て、はなさず。
深く、くひ入(いり)ければ、のどぶえを、くひとりて、侍は、あへなく、息、絕(たえ)たり。
「あれは、あれは、」
と、見る人、おどろき、さわぐまぎれに、猿は、やがて、川水の深みへ、身をなげ、をどり入(いり)て死(し)したる、とか。
是も哀(あはれ)なる事に、なん。