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« フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事 | トップページ | 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜穴」 »

2024/01/22

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「竜」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は全部で八話から構成されており(ここが底本の冒頭)、やや長い。各々の単話は、改行なしで示されてあるが、改行し、それぞれの、その切れ目で注を挿入した。]

 

     

 

 竜【りゅう】 〔甲子夜話巻十一〕明和元年大火の後、堀和州の臣川手九郎兵衛と云ふ人、その君の庫の焼残りしに庇《ひさし》を掛けて、勤番ながら住居《すまふ》なり。その頃大風雨せしこと有りしに、夜中燈燭も吹消したれば、燧箱《ひうちばこ》をさがすとて戸外を視れば、小挑灯の如き火二つ雙《なら》んで邸《やしき》北の方より来たり。この深夜且《かつ》風雨はげしきに、人来《きた》るべきやうもなしと怪しく思ひながら火を打ち居《をり》たるに、頓(やが)てその前を行過《ゆきすぐ》る時、見れば火一つなり。いよいよ不審に思ふ内、そのあとに松の大木を横たへたる如きもの、地上四尺余を行く。その大木と見ゆるものの中より、石火の如き光時々発したり。その通行の際は別《べつし》て風雨烈しくありき。かゝれば先きに雙灯《さうとう》と見えしは両眼、近くなれば一方ばかり見ゆるより一つとなり、大木はその躬《み》にして竜ならんと云ひしと。また同じ時下谷煉塀《ねりべい》小路の御徒押林善太夫の子善十郎、年十六なるが、屋上に登り雨漏を防ぎゐたるに、これも空中に小挑灯の如き雙火の飛行するを見たるとなり。彼の竜の空中を行きしときならん。奥州荘内藩の某語りしと聞く。その人かの藩の城下に居《をり》しとき、迅雷烈風雨せしが、夏のことゆゑほどなく晴れたり。このとき家辺を往来するもの、何か噪り[やぶちゃん注:ママ。『ちくま文芸文庫』も同じだが、読めない。後掲リンクする『東洋文庫』版原本では、『噪く』で「さわがしく」と読める。「り」の宵曲の誤記或いは初版及び改版の誤植であろう。]言ふゆゑ、出《いで》て空を仰ぎ見たれば、長《た》け二丈余もあらん虵形《じやけい》の頭《かしら》に黒き髪長く生下《おひさが》り、両角《りやうづの》は見えざれど、絵に描《ゑが》く竜の如くなるが蜿蜒《ゑんえん》す。視るもの言ふには、今や地に落ち来たらん。さあらば何ごとをか引出さんと、人々懼れ合ひたり。この時鳥海山の方《かた》より一条《いちでふ》薄黒き雲あしはやく来りしが、かの空中に蜿蜒せるものの尾にとゞくと等しく、一天墨の如くなりて大雨《だいう》傾盆《けいぼん》す。暫くしてまた晴れたり。そのときは虵形も見えざりしと云ふ。如ㇾ此きもの洋人の著書(書名ヨンストンス)見えし[やぶちゃん注:ママ。「に見えし」の脱字か誤植。]。また仙波喜多院の側に小池あり。一年旱《ひでり》して雩(あまごひ)せしとき、その池中より一条の水気起騰《おこりのぼ》りて、遂に一天に覆ひ、大雨そゝぎ、大木三十六株捲倒《まきたふ》せしことあり。所謂たつまきならん。その竜を観んとて、野村与兵衛と云ふ小普請衆、天をよく視居《みをり》たれど、ただ颱風《たいふう》旋転《せんてん》して竜のかたちは少しも見ずと予<松浦静山>に語れり。

[やぶちゃん注:本篇は事前に「フライング単発 甲子夜話卷十一 14 眞龍を見し事」として電子化注しておいた。]

〔異説まちまち巻二〕松浦氏妻は、おやまと名をいひしなり。おやまの姉かたられしは、羽州酒田にての事なりしに、夏の事にや、晴天の中天に竜の頭のみ見えけり。牛のかしらのごとくにてありしが、目のひかりすさまじかりし。若《も》し下へ下《くだ》るとて、みなみな出《いで》ておひけれども、只そのまゝの体《てい》にて居たりしが、段々四方より雲出て、竜のきはへよりよりして、雲につかみかくれけるとなり。

[やぶちゃん注:「異説まちまち」「牛鬼」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(右ページ冒頭から)で正規表現版が視認出来る(右ページ中央やや右寄りから)。

「松浦氏妻」長蘿堂氏のサイト「ろんがいび」内の田中光郎氏の『「和田烏江『異説まちまち』と赤穂事件」によれば、本書の作者和田烏江(正路)は『和田庄太夫と』称したが、『和田家の先祖についてはあまり書くことがなかったらしいが、母方の松浦氏についてはある程度』、『情報がある。高祖父は松浦石見とて尼子家の浪人、大坂で書を教えていたという』。『曾祖父は松浦金太夫といい、馬にまたがって足が地に着くほどの大男』で、『祖父は松浦長左衛門であるが、これは高力氏から養子に入ったらしい』。『藤兵衛という外伯父は承応元年』(一六五二)『生まれの由』で、『寛文』二『年』(一六六二)『生まれの母が庄内に育っていることから見れば、松浦氏は庄内藩士だったのであろう』とあることから、母方の親族であることは、判った。]

〔同上〕姫路にて、夏の事なるに、土用干をしけるに、空曇り夕立のすべき景気なるゆゑ、干たるもの共、みな取入れけるに、屋敷の裏の畠《はた》の内に、赤くひらめくもの見えけるをみつけて、急ぎて仕廻(しまふ)とて毛せんを取落しけると思ひて、畠のかたヘ一人ゆきけるに、ひつかりとするやうに見えけるまゝ見けるに、毛せんと見えたるは紅《くれなゐ》の舌にて、光りたるは眼のひかりにて有りける。かのもの驚きて、物も覚えずかけいりてたふれたり。しかるうちに雨風おびたゞしく、夕立冷(すさま)じき事なりし。畠の脇へ出《いで》て竜の天上しけるなり。よくよく強き風にて、雨戸共吹きはづしけるが、皆塀《へい》ぎはへ吹付けて、不ㇾ残立掛《たてか》けて有りけるとなり。

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの前の記事の次に続いてある。]

〔斉諧俗談巻五〕『和漢三才図会』に云ふ。或人、船に乗りて近江国琵琶湖<滋賀県内>を過る。北浜といふ所にて暫く納涼す。時に一尺ばかりの小蛇、游ぎ来り、蘆の上にて廻舞して、また水上を游ぐ事十歩ばかり、また蘆の上へ上る事、はじめの如し。斯の如くする事、数遍におよぶ毎に、漸々に長くなり、既に一丈余におよぶ。しかるにたちまち黒雲おほひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)の降る事、車軸に似て、天に升《のぼ》りて纔かにその尾を見る。終に大虚(おほぞら)に入りて後《のち》晴天となると云ふ。

[やぶちゃん注:「斉諧俗談」は「一目連」で既出既注。殆んど総てが引用の堆積物で、これもそれ。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻十(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のここ(標題は『○龍升ㇾ天(りやうてんにのぼる)』)で当該部を正字で視認出来る。左ページに挿絵がある。所持する吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して、以下に掲げる。

 

Saikaizokudanbiwakoryu

 

なお、引用元の正規表現版は、私のサイト版『「和漢三才圖會」卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類』(昨年、リニューアルした)の冒頭の「龍」総論の中に出るので、参照されたいが、杜撰で、途中の一部をカットしているため、以下に引用する。漢字表記は所持する当時の板本原本のママ。一部は私が句読点、及び、読みと、送り仮名の補助(意味補塡を含む)を行っている。

   *

 凡そ龍蛇は皆、紆行(うかう)して、四足有る者は、龍の屬たり。手足無き者は、蛇の屬と爲す。然るも、龍蛇、本(も)と、一類たり。春夏、龍の天に昇るを見れば、徃徃(わうわう)にして、之れ、有り。或人、舩に乘り、琶湖(みづうみ:琵琶湖。)を過(よぎ)る。北濵に着きて、少-頃(しばら)く納凉す。時に、尺ばかりの小蛇有りて、游(をよ)ぎ來り、蘆の梢に上(のぼ)り、廻舞(くわいぶ)して、下りて、水上を游ぶこと、十歩ばかり、復た、還り、蘆の梢に上ること、初めのごとし。數次、漸く長じて、丈ばかりに爲る。蓋し此れ、外天(げてん)の行法か、是に於て、黑雲掩(おほ)ひ、闇夜のごとく、白雨(ゆふだち)降ること、車軸に似て、龍、天に昇る。纔(わづ)かに尾を見る(のみ)。遂に太虛に入りて、晴天と爲る。

   *]

〔蕉斎筆記〕絵にかける竜と云ふもの、その形見たるものなけれども、この昔二十年跡の事にて、十河《そがう》何某といふ者、奥山氏へ仕へ江戸往来せしに、木曽の落合へ泊りけるに、五月頃の事にや、宿屋の座敷より見けるに、その頃田植時分にて、夥しく早乙女ども田を植ゑけるに、二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]程も間のありける時に、何となく薄曇りけるが、野辺の男女蟻の這ふやうに皆々連立ち帰れり。亭主にその事を尋ねけるに、それは竜の天上するにて候、追付《おつつけ》け夕立いたし申すべし、雨戸を閉ぢて外を見まじきとて、俄かに蒼朮《さうじゆつ》を買ひふすべ立てけるゆゑ、真くろにして蹲《うづくま》り居《を》るに、右十河と外に一人、あまり見たくおもひ、雨戸を一寸ばかり明け外を見けるに、俄かに諸方とも真黒になり、雨夥しく風吹き来り、その雲を舞ひ揚げけるが、折々稲光りしけるに、芋蟲の様なるもの、光りにつれて顕れける。また頭と覚しき所は、海老のあたまのやうなるもの顕れけるとなり。その後雷鳴になり夕立夥しく、誠にうつすがごとくとなり。暫時に照上《はれあが》り快晴になりけり。誠に不思議なる事なり。雲中に顕れたるは、いかにも絵にかける竜の如しとなん。その頃雨風の時分、子供一人舞ひ揚げられ即死し、旅人一人は松の木へ取付き居て、笠を吹上げられ、危き命を助かりけるとなん。落合辺には度々竜の天上することありて、曾て珍しからざるよし。

 また青雨《せいう》咄しけるに、この前京都に逗留せし頃、東寺の近所畠の中より煙の根に高く揚りけるが、人々竜の天上するなりと申しけるが、その烟段々天へ上《のぼ》りけるに、少しばかりの雲空にありて、その煙雲へとゞくと見えけるが、直に大夕立になりけるとなり。その後畠へ行き見るに、五六間[やぶちゃん注:約九~十一メートル。]ばかりの間穿ち、畑物枯れ居《をり》けるよし。土中に蟄《ちつ》せしが一時に発昇《はつしよう》せしなるべし。

[やぶちゃん注:「蕉斎筆記」儒者で安芸広島藩重臣に仕えた小川白山(平賀蕉斎)の随筆。寛政一一(一七九九)年。国立国会図書館デジタルコレクションの「百家隨筆」第三(大正六(一九一七)国書刊行会刊)のこちら(左ページ下段五行目から次のコマまで)で視認出来る。

「木曽の落合」中山道の落合宿(グーグル・マップ・データ)

「蒼朮」(そうじゅつ)」はキク目キク科オケラ属ホソバオケラ Atractylodes lancea の根茎の生薬名。中枢抑制・胆汁分泌促進・抗消化性潰瘍作用などがあり、「啓脾湯」・「葛根加朮附湯」などの漢方調剤に用いられる。参照したウィキの「ホソバオケラ」によれば、『中国華中東部に自生する多年生草本。花期は9〜10月頃で、白〜淡紅紫色の花を咲かせる。中国中部の東部地域に自然分布する多年生草本。通常は雌雄異株。但し、まれに雌花、雄花を着生する株がある。日本への伝来は江戸時代、享保の頃といわれる。特に佐渡ヶ島で多く栽培されており、サドオケラ(佐渡蒼朮)とも呼ばれる』とある。しかし、ここで何故、それなのかは、判然としない。

〔奇異珍事録〕前にいへる京都御普請、翌《あく》る亥年八月頃は、半ば御出来《ごしゆつたい》にて、同月十一日には太田播磨守にも見廻られし。その時下賀茂の辺に火事有りと騒ぎ立ちけるまゝ見し所に煙りにあらず、雲の立登るなり。然しその中に火の子のごとき物ひらめき吹き散る。その日は朝より薄曇りたるが、件《くだん》の雲の登りて曇りの天に至ると見えしが、水のうづまくごとくして雷鳴する事両三声、誠に竜の画《ゑ》の雲にことならず。すさまじき気色にて、大粒の雨も降り出で、風も起りたれども、雲一天におよばず。登りたる所ばかりなりし。兎や角する内、火事にはあらず。竜の天上するなりと人告げたり。その雲の中、竜の容《かたち》の如く晴間も見え、または色々替りたる雲にてあざやかに見えし。竜の巻く時は必らずそのごとき物なるよし、加藤文麗子にも咄し有りき。程なく件の雲も山の方へをさまり、夕方は天静かになりたり。昔より語り伝ふは、竜の天上するを見し者、かならず青雲に至るとなり。その時見しは、

 太田播磨守 京町奉行より小普請奉行、その後御勘定奉行にて卒す。

 吉川三郎右衛門 御勘定組頭より御本丸御表御門番の頭。

 木室庄左衛門 御徒目附より小普請方、夫より御広敷番の頭。

 安井甚左衛門 御勘定より清水郡奉行。

 吉江治郎左衛門 支配勘定より小普請方改役、夫より小普請方。

 右各〻転役して堅固に勤む。さあらばかの竜の上りたりを見しも、よき前表ならめ。その竜は砂川藪屋敷と云ふより出たる竜のよし。始め火の子のごとく見えしはそのあたり草畑なり、それを巻きしにより、葉吹き落つるにて有りし。砂川ゑびすと云ふ茶屋にて委しく聞けり。

[やぶちゃん注:目撃者の名の下の、その後の昇進の説明部分は、底本ではポイント落ちである。これらの人物は注する気はない。悪しからず「奇異珍事録」は既出既注だが、再掲すると、幕臣で戯作者にして俳人・狂歌師でもあった木室卯雲(きむろぼううん 正徳四(一七一四)年~天明三(一七八三)年:彼の狂歌一首が幕府高官の目にとまった縁で御広敷番頭(おひろしきばんがしら)に昇進したとされる。四方赤良らの天明狂歌に参加した。噺本「鹿(か)の子餅」は江戸小咄流行の濫觴となった)の随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第一(大正五(一九一六)年国書刊行会刊)のこちら(標題『○見龍』)で視認出来る。

「前にいへる京都御普請」ここの『〇質知』を指す。そこに『明和三戌年』とクレジットがある。

「翌る亥年八月頃」明和四年丁亥。旧暦八月は、グレゴリオ暦では一七六七年八月二十四日から九月二十二日相当。]

〔耳囊巻二〕寛政五辰八月廿五日の事なる由、駒込富士境内に護摩堂あり。浅間の社、その外寺よりは少しはなれけるに、右堂へ年若き僧至りて、香花など始末なして、不動尊を祈念なしけるに、頻りに不動は申すに及ばず、こんがら精高十二天、各々動きけるゆゑ、甚だ物凄くなりて、早く堂を立出でしに、右堂の脇に大木の松有りしが、一本の処、二本同じ様に連なり寄りて立てるゆゑ、怖ろしき儘、本堂の前に至り、遠くこれを見しに、一本の松は段々上へ上る様に見えし。先にほのほを燃出て、見るも中々恐ろしかりしに、黒雲立おほひ、右地をはなるゝと見しに、怖ろしき物音して、大雨頻りにふり出《いで》しとや。暫く過ぎ、雨はれて、彼所を見しに、堂も一丈程地中へおち入りけると、その所のもの来りて語りぬ。

[やぶちゃん注:私の「耳囊 卷之九 駒込富士境内昇龍の事」を参照されたい。]

〔宮川舎漫筆巻五〕竜昇天につき珍らしき一奇談あり。頃は寛政年の事なりしが、小日向大曲(おほまがり)にて竜昇天せしが、爰に一ツの奇談あり。昇天の前に、ひとりの老僧ありて、小日向近辺の家々に至り申置く趣は、私儀心付きし義御座候儘、御心得の為申上候、近き内風雨有るべし、その節、近辺より竜昇天なすべし、その折は御他出は猶更、御小児等御心付けなさるべき旨、申捨《まふしす》てにして廻りし処、小日向大曲西頰(にしがは)にて、さる御旗本にて上橋某、この口上を聞き、そのものをとゞめ座敷へ通し、土橋氏罷り出で、御口上の趣、御深切の段忝《かたじけな》く候、さてその竜昇天の儀は、何《いづ》れより御聞伝へに候やと問ふ。右の僧が曰く、この儀は拙僧年来《としごろ》ためし見候儀にて、斯(かく)晴天打続き、俄かに風雨の節は竜昇天まゝ有ㇾ之候故、御心得のため申上候までの義にて候よし、いかにも怪しき事ども有ㇾ之、土橋氏いはく、さてさていぶかしき義にて候、若しや貴僧昇天の事にては無ㇾ之やといへば、僧暫く無言なりしが、御察しの通り拙僧昇天いたし候といふ。土橋氏、さらば昇天の日はいつ頃にやと問ひしに、さればにて候、昇天の時至れども、いまだ水なし、右ゆゑ風雨を待居《まちゐ》るよし答ふ。土橋氏がいはく、その儀は心得がたし、見らるゝ通り小日向の流《ながれ》は水ならずやといへば、あれは流水にて、我水にあらずして用ひ難し、天水は自然の水にして、我水もおなじ。土橋氏またいふ。若し水入用ならば進ずべしといへば、彼もの大いに歓び、水少しにても給はらば、直《すぐ》にも昇天、心のまゝのよし申す。さらば此硯の水を進ずべしとて、神酒陶(みきどくり)に入れて出《いだ》せば、彼者歓び、この水にて昇天いたし候、しるしをば御目に懸け申すべしと、厚く礼を述べ、立帰りしかど、外の者どもは狂人なりとおもひ居たりし処、二三日過ぎて俄かに晴天かき曇り、魔風《まふう》一時に吹き来り、大雷大風雨、その冷(すさま)じき事いはん方なし。さては先日の僧昇天なる歟、あら恐ろしと各〻潛《ひそ》み居《ゐ》たりしが、だんだんと風も凪《な》ぎ、雨もはれ、始めて生きたる心地して、あたりを見れば、ふしぎなるかな、雨の跡、草木《くさき》をはじめ皆墨水《すみみづ》にて有りしとかや。アヽ奇ならずやと土橋氏、同役長崎氏へ噺《はな》されしを、その子なる文理子《ぶんりし》、予<宮川政運>に語りぬ。

[やぶちゃん注:「宮川舎漫筆」宮川舎政運(みやがわのやまさやす)の著になる文久二(一八六二)年刊の随筆。筆者は、かの知られた儒者志賀理斎(宝暦一二(一七六二)年~天保一一(一八四〇)年:文政の頃には江戸城奥詰となり、後には金(かね)奉行を務めた)の三男。谷中の芋坂下に住み、儒学を教授したとあるが、詳細は不詳。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで、正字表現で視認出来る。標題は『靈石(れいせき)を祀(まつ)る天瑆(てんせい)と號(がうす)龍昇天(りゆうせうてん[やぶちゃん注:ママ。])の事』の後半部。一部の読みを参考にした(但し、ルビは歴史的仮名遣の誤りが多い)。なお、この前部分の「靈石」は結末で「龍石」とあり人物によって推定され、『若し同し事なれば若(もし)時至り龍など昇天大風雨あらば近邊の憂ひなるべしといへり』で終わっており、連関はある。電子化する気はないので、各自、見られたい。]

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