譚海 卷之六 猿樂謠放下僧實說の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○天正の比(ころ)、牧野左衞門といふ人は、下野(しもつけ)の國那須郡(なすのごほり)牧野の莊(しやう)の主(あるじ)にて、牧野の館主と稱せしが、沒落して武州忍(おし)の城主成田下總守(しのふさのかみ)に寄食せしが、下總守は小田原の北條の幕下に屬し、成田の烏山の城へ移りけるとき、牧野左衞門も伴(ともなひ)て行(ゆき)たるが、天正三年、牧野左衞門、箱根の溫泉に入湯せし砌(みぎり)、そこにて戶根の信俊といふものと口論して、左衞門は討れける。
左衞門の子供、二人有(あり)、兄を賴寬と云(いひ)て、山伏にて有(あり)けるが、弟の小次郞賴明と云(いふ)者、親の讐(かたき)を復(ふく)せんため、兄の賴寬と供に、放下僧(はうかそう)となりて、所々を經廻(へまわ)し、伊豆の三嶋にて、戶根の信俊に逢(あひ)て、親のかたき、うちたり。
是、世にいふ「放下僧(はうかざう)」のうたひの實說也。
扨(さて)、
「親の讐を復せし事、ひとへに、藏王權現へ祈誓せし加護也ける。」
よしにて、兄弟共に、又、山伏になりて、今に聖護院宮(しやうごゐんみや)の支配にて、行事といふ役僧にて有(あり)、其(その)下野國牧野の館(たち)の跡をば、寺になして、「牧野山三學院」と號して、今、猶、舊跡、殘りたるといふ。
[やぶちゃん注:「天正」一五七三年(ユリウス暦)から一五九三年(グレゴリオ暦)まで。
「下野の國那須郡牧野の莊」現在、牧野の地名がないが、旧那須郡は栃木県北東部の広域であるので、この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下、同じ)に存在した。而して、後注する牧野家について調べるうちに、栃木県那須烏山市金井にある「牧野山三學院」歴代墓地があることが確認出来た浄土宗善念寺が後裔と判った。
「武州忍の城主成田下總守」成田長泰(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)。忍城(おしじょう)は埼玉県行田市本丸にあった。
「成田の烏山の城」長泰の子の成田長忠(泰親)が入った、現在の栃木県那須烏山市城山にあった烏山城。
「天正三年」ユリウス暦一五七五年。
「放下僧」僧形で放下(ほうか:田楽から転化した大道芸で、品玉(しなだま:手玉や短刀を空中に投げて巧みに受け止めるもの)・輪鼓(りゅうご:空中で回す独楽(こま)芸)などの曲芸や手品を演じ、小切子(こきりこ)を鳴らしながら小歌などを謡ったもの。室町中期に発生し、明治以後には名称は絶えたが、その一部は寄席芸・民俗芸能として今日に伝わる)を演じた大道芸人。
「放下僧のうたひ」ここの場合は能の曲目「放下僧」(ほうかぞう)を指す。四番目物。現在物。作者不明。宮増(みやます)作ともいう。シテは牧野小次郎の兄。牧野小次郎(ツレ)の父が口論の結果、殺害されたので、小次郎は禅門に入っていた兄の僧(シテ)を訪れて説得し、敵討(かたきうち)を計画する。敵の利根信俊(とねののぶとし)(ワキ)が瀬戸の三島に参詣に出たので、兄弟は大道芸人の放下僧(放下)になりすまして信俊に近づき、言葉おもしろく禅問答を交わしたりして取り入り、道中の供を許される。そして「曲舞」(くせまい)・「太鼓踊」・「小歌」などのさまざまの芸を演じて見せ(「クセ」・「羯鼓」・「小歌」)、すきをうかがって、望みを果たす。能「望月」(もちづき)と同じく、敵討の手段という形で芸尽しを見せる能。禅問答の部分も一種の話芸として「芸尽し」の一環をなす。クセ・羯鼓と続いたあとの、俗に「小歌」と称する部分は,他の能にない特殊な作曲形式だが、狂言でいう小歌節ではない(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。小原隆夫のサイト内の「放下僧(ほうかぞう)」のページが、解説・本文ともに充実している。
「聖護院」現在、京都市左京区にある本山修験宗の大本山。四世門主に後白河天皇の皇子静恵法親王が入ってより、宮門跡となり、室町時代から、天台宗修験道の山伏を統轄した。]