フライング単発 甲子夜話卷十一 16 藥硏堀不動に盜入し事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]
11-16 藥硏堀(やげんぼり)不動に盜(ぬすびと)入(いり)し事
十二、三年前のこととぞ。
或夜、藥硏堀(やげんぼり)不動の屋(をく)に、盜、入りしが、佛前に跪伏(きふく)して動かず。
人、不審に思ひ、
「何者ぞ。」
と訊(と)ひたれば、その人、次第に
「わなわな」
と、震へ、身、すくみたる體(てい)なり。
彌々(いよいよ)不審に思ひ、住僧も出來(いでき)て、
「いかに。」
と、問(とふ)に、かの者、云(いふ)よう[やぶちゃん注:ママ。]は、
「某(それがし)は、『物を取(とら)ん。』とて、こゝに入(いり)たるが、不動の御前(ごぜん)とて、身、すくみ、動くこと、不ㇾ能(あたはず)。今は、何をか、つゝみ候べき、懺悔(さんげ)いたし候ゆゑ、何とぞ、命を助け給(たまは)れ。」
とて、ますます、戰慄せり。
僧侶曰(いはく)、
「靈應(れいわう)、かくも有(ある)べし。尙も、祈りて、その罪を、消(けさ)ん。」
とて、佛前の燈を挑(かか)げ、燭(しよく)を點(てん)じ、扉(とぼそ)を啓(ひら)き、帷(とばり)を褰(かか)げなどして、祈りければ、盜(ぬすびと)、やがて、常に復(ふく)したる體(てい)にて、
「前罪を謝し、後來(こうらい)は、改(あらため)、愼むべし。」
とて、出還(いでかへ)れり。
僧侶、及び、諸人(しよにん)、
『奇特(きどく)のこと。』
に思ひき。
この翌夜《よくや》、かの盜、前夜、燈燭(たうしよく)の光を以て、屋内を、よく、見盡(みつく)して、内殿(なんでん)に入(い)り、諸具・賽錢等、皆、取去(とりさり)ける、とぞ。
定めて、後(のち)に冥罰(みやうばつ)もありつらんかし。
■やぶちゃんの呟き
「本篇本巻の六つ前の「11」に『近頃浦賀諳厄利亞の船浦賀の港に來れり』とあった。この「諳厄利亞」は「アンゲリア」(Anglia:正しい音写は「アンゲルア」)で、近世の本邦の学者等が用いた「イギリス」の呼び名である。「甲子夜話」が書き始められた直後で、浦賀にイギリス船が来航したのは、文政五(一八二二)年のイギリスの捕鯨船「サラセン」号(来航の目的は特になく、食料や水の補充のために立ち寄ったもの)である。されば、ここを起点とするなら、文化五、六年で、グレゴリオ暦で一八〇八年から一八一〇年年初までに当たるか。
「藥硏堀不動」「藥硏堀」は現在の東京都中央区東日本橋に嘗つて存在した運河で、「不動」は、薬研堀不動院(グーグル・マップ・データ)となる。
「懺悔(さんげ)」江戸以前のこの語は「ざんげ」とは、普通は、読まない。「ざんげ」は明治になって禁教令が廃されてより、キリスト教のそれを指す読み方であるからである。
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