譚海 卷之十 豆州修善寺溫泉山神の事(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。]
○友人大井某、寬政五年[やぶちゃん注:一七九三年。]夏、伊豆修善寺の湯に入(いり)たるに、一日湯あみするとき、入湯の人もおほく見えず靜(しづか)なる折ふし、五十歲ばかりのをとこ、ともに入湯(にふたう)してありしが、互に國所(くにところ)などかたりあひたるに、此男、遠州日坂(につさか)[やぶちゃん注:現在の静岡県掛川市日坂(にっさか:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。日坂宿があった。]の者にて、
「久しく修善寺の入湯願ひありしかども、貧乏にして、こゝろにまかせず。何とぞ旅用とゝのへたらば、いかやうにしても、入湯すベきとこゝろ懸(がけ)たりしに、ことし、其願(ねがひ)、成就して、かく入湯に來り、あまつさへ、途中にて、駿河國の豪富なるもの夫婦、修善寺へ、入湯にゆかん、とするに、出(で)あひ、此介抱にて來りたれば、旅用の物入(ものいり)もなく、心やすき。」
よしなど、いひて、
「其許(そこもと)の御病氣は、いかなる事ぞ。」
と、とひしかば、大井、
「我等、年來(としごろ)、濕氣(しつき)[やぶちゃん注:漢方では、体内に湿気が過剰に溜め込まれて、「水毒」という疾患に罹るとする。「しつけ」と読んで「梅毒」の意もあるが、ここは前者でよかろう。]、おほく、殊に疝氣(せんき)[やぶちゃん注:大腸・小腸・生殖器などの下腹部の内臓が痛む疾患を広く指す。]をくるしみ、入湯せし。」
よしを、いひければ、此男、
「其濕氣には、梅干の皮とにんにくとを、等分にめしつぶにてすりまぜ、紺の木綿(もめん)のきれに粘(ねん)し、痛所(つうしよ)へおほひ、木綿のうへより、灸をすへれば、そのところことのほかはれあがり、したゝか水出(いで)て、なほる事、妙なる。」
よしを敎へぬ。
湯を出(いで)て、江戶麹町の者、入湯して在(あり)けるが、此物語をせしかば、麹町のもの、
「我等も同病なり。おもしろき療治のしかたなれば、こゝろみ度(たき)事なり。さるにても、灸の數は、いくつほど、すうる事ぞ。」
と、いへば、
「それは、慥(たしか)に聞(きき)侍らず。こゝに、駿河の國の人に就(つき)てあるよしなれば、今一度、かの男に逢(あひ)て、聞傳(ききつた)はるべし。」
とて、翌日、湯場(ゆば)の内を尋(たづぬ)れば、はたして駿河國のもの、夫婦、入湯して居(ゐ)たり。
往(ゆき)て、
「こゝに、遠州日坂のひとあるよし、逢(あひ)たき。」
と、いひければ、やがて呼出(よびだ)したるに、勝手より、たすきを懸(かけ)、出(いで)たる男、在り。
されども、湯にて、灸治、をしへたる男の顏には、あらず。
大井、不思議におもひて、
「其元(そこもと)にはあらず。日坂の人なり。」
といへば、たすき掛たる男、
「我等、遠州日坂のものに御座候。なにによりて、さやうには、の玉ふぞ。」
といふ時、いよいよ、心得ず。
駿河國のものも、怪しき事におもひて、くはしく尋ねければ、大井、はじめよりの次第を物語せしに、たすき懸たる男、よく聞(きき)をはりて、
「今、仰せらるゝ次第は、我等、身の上の事に、少しも、たがひ侍らず。但(ただし)、濕を、なほす療治の事は、一向、我らぞんじ申さゞるなり。ふしぎなる事。」
とて、みなみな、怪しみけり。
さて修善寺入湯の旅客を、のこりなくたづねけれども、湯にて逢たる面體(めんてい)の男は、曾て一人もなく、又、外に、日坂より來(きた)る人もなければ、せんかたなくて止(やみ)たり。
敎(をし)へしまゝに療治せしに、その言葉のごとく、水、したゝり出(いで)て、疝氣、平癒せり。
扨(さて)、修善寺より江戶に歸りて、ある席(せき)に、醫者に逢(あひ)て、此物語をせしかば、
「それは、色、黑く、頰骨、やせて、をせ高(だか)[やぶちゃん注:ママ。「おせ」は「充分に・しっかりと」の意であるから、人並み以上に背が高いことを言っていよう。]に、目の大なる男には、あらずや。」
と、いへば、
「尤(もつとも)。そのもの、云ふにたがはず。」
といふに、この醫者、
「我等も、修善寺、入湯して、一度、さる男に、逢(あひ)たり。又、外にも逢たる人、ありて、聞きあはするに、皆、をなじ[やぶちゃん注:ママ。]さまなり。この男、修善寺にて、一度、逢て、我等も、二度、逢(あは)ず。これは『山神(やまがみ)』のたぐひにて、時々、湯に入りにきたり、我等が心に合ひたる人あれば、物がたりし、又は、さやうの奇妙の藥方を、傳へをしふる事、度々なり。其者の敎へたる方は、結驗(けつげん)[やぶちゃん注:聴いたことがない熟語だが、字面からは「結果として確かな効験(こうげん)が現れること」であろう。]なき事、なし。種々(しゆじゆ)の奇方(きはう)をおぼえて、人に傳ふるなり。」
と、いひけるとぞ。
いと怪しき事どもになむ。
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