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2024/01/29

甲子夜話卷之八 19 御老中安藤對馬守、雅趣ある事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]

8―19

 林子(りんし)、云(いふ)。

「辛未(しんび/かのとひつじ)歲(どし)、西上(さいじゃう)の時、江州の野路村(のぢむら)に至りたれば、道傍に、僅(わづか)ばかりの池の如きものあるを、嚮導者(きやうだうしや)、ゆび指(さし)て、

『これぞ、野路玉川(のぢたまがは)の遣蹟なり。』

と云。

 水畔に、萩、一、二株ありければ、

『何物ぞ。わざと、これを植(うゑ)けるにや。』

と思ひけるに、磐城平侯【安藤對馬守。其時、加判[やぶちゃん注:ここでは「老中」の別称。]、勤(つとめ)らる。】の、先年、上京の路次(ろし)、こゝに至りしとき、萩の無(なか)りければ、村長(むらをさ)に、

『この名所に萩を植ぬことやある。』

と申されしかば、それより、村長の植しなり。」

と云。

 微事(びじ)なれども、風流の話なり。

 この侯、京地巡見に、祇園町、通行(つうかう)のとき、左右の茶店にて、紅粉(こうふん)を粧(よそほ)ひたる少女の、世に云(いふ)「祇園豆腐」を拍子をして切るを、駕籠を駐(と)めて、ゆるゆる、觀られし、となり。

 例(ためし)、老職の、かゝることせられしこと、無りしが、其地の名物と云へば、かくあるも、

「中々、得體(えたい)なり。」[やぶちゃん注:「なかなかに、その自然な御心(みこころ)の判るお方だ。」の意であろう。]

と、人々、評しけり。

 常に、淨瑠璃を好み、間暇(かんか)のときは、奥女中に、三線(さんせん)、ひかせて、聞く計(ばかり)にて、遂に三線を手にとりたることも無く、戲‘たはむれ)にも、その文句など、謠(うた)はれしことは、無(なか)りし、となり。

 又、古畫(こぐわ)を好み、よき畫(ゑ)を購求(こうきう)すれば、畫工に毫髮(がうはつ)も[やぶちゃん注:「毫毛」に同じ。少しも。]違(たが)はぬやうに寫させて、

「都下は、火變(くわへん)、多し。」

とて、眞物(しんもつ)は封地へ送り、摸本(もほん)を留め置き、日々に引(ひき)かへ掛けて詠(なが)めし、となり。

 此侯、溫厚和平にて、赫々(かくかく)の功業もなけれども、すべて此頃の人は、さしたる節(せつ)ならねども、見所(みどころ)は、ありけり。

■やぶちゃんの呟き

「老中安藤對馬守」美濃国加納藩第三代藩主・陸奥国磐城平藩初代藩主にして、寺社奉行・若年寄・老中を歴任した安藤信成。官位は従四位下・対馬守。侍従。対馬守系安藤家六代当主であった。老中在職は寛政五(一七九三)年八月二十四日から、没した文化七(一八一〇)年五月十四日まで。享年六十八。

「林子」お馴染みのお友達、林述斎。

「辛未歲」文化八(一八一一)年。

「江州の野路村」滋賀県草津市野路(のじ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「野路玉川の遣蹟」歌枕。現在、ここに「野路玉川古跡」として伝えられてある。こばやしてつ氏のサイト「すさまじきもの~歌枕★探訪~」の「野路の玉川(滋賀県草津市)」に簡単な解説と、小さな公園のように整備された現在の様子を見ることが出来る。

「祇園豆腐」当該ウィキによれば、『江戸時代、京都の八坂神社(祇園神社)門前の』二『軒の茶屋で売られた田楽豆腐の料理である』。『祇園神社の楼門の前、東には中村屋、西には藤屋という茶屋があった。神社社殿造営の際に、公費で改築された店で、「二軒茶屋」と称された。これらの茶屋で売られた豆腐料理が評判となり、「祇園豆腐」と命名された。各地で祇園豆腐の看板を掲出する店が出て、江戸では明和頃、湯島に有名な祇園豆腐屋があった』。『豆腐を薄く平たく切り』、二『本の串を刺し、火にかけて表裏両面を少し焼き、味噌たれで煮て、上に麩粉を点じたものである。花柚(はなゆ)などで風味を添えることもある』とあった。私も京都の料亭で食したことがある。

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