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2024/01/24

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「路上の姫君」 / 「ろ」の部~了

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 これを以って「ろ」の部は終わっている。後は「わ」の部のみで、全四話である。]

 

 路上の姫君【ろじょうのひめぎみ】 〔梅翁随筆巻四〕午のとし聖堂御普請はじまりて、御仕法《おつかいはふ》改まり、御目見《おめみえ》以上の惣領・厄介御教育あらんがため、学問所その外所々に御取立あり。寄宿いたしてなりとも、通ひてなりとも、勝手次第に修行さしつかへなきやうにとの御趣意にて、間数《まかず》多く相成るに付きて、湯嶋本郷辺<東京都文京区内>の武家町家御用地に上り、この時より本郷通り曲りて通る道筋となれり。大成殿御建立によりて、所々人歩(にんぷ)多く集りけるにや、普請に本郷より出る仕事、少くとも五六人連にてまゐりける。道に板〆(《いた》じめ)[やぶちゃん注:「板締め」染色法の一つ。文様を彫った薄板二枚の間に縮緬その他の絹織物を挟んで固く締め、文様を白く染め抜いたもの。「纐纈(こうけち)」・「夾纈」(きょうけち)の類。「いたじめしぼり」とも呼ぶ。]緋縮緬《ひちりめん》の大振袖の下著《したぎ》に、しごき帯をして、その上に八丈嶋の小袖をかいどり[やぶちゃん注:「搔取」。着物の裾が地に引かないように、褄や裾を引き上げること。]のごとく著たる十七八ばかりの娘、垢付きたる木綿ものの所々破れて、わたの出《いで》たるを著たる五十頃の親仁、手を引《ひき》て来《きた》るに行逢《ゆきあ》ひしに、かの娘このものどもを見て、たすけよかしと涙を流していふ。容色すぐれてつまはづれ[やぶちゃん注:「褄(爪)外れ」。立ち居振る舞い。]尋常にして、誠にいやしからざる体《てい》なれば、そのよしを尋ぬるに、親仁のこゝろ得ぬ挨拶なれば、仕事師の親分、いづれその姿にては見ぐるし、我方へ来りて支度すべしとて、無理に我かたへともなひかへり、先づ娘によごれし足を洗はせけるに、仕付けぬ体《てい》にて、しかも手拭を土辺《どべ》[やぶちゃん注:地べた。]へなげすてるゆゑ、いかにととへば下をぬぐひて不浄なりといふ。その体《てい》空気(うつけ)とは見えねども、身形(みなり)じだらくにして、帯をも一人にては締め兼(かね)るやうすなり。この娘を親分預るべしといへども、親仁同心せず。既に高声になりて、打てよたゝけよといふを、家主聞き付けて中へわけ入りて、親仁を家主方へ預け、かの女の様子を問ふに、名をさへ知らぬゆゑ勾引(かどはかし)たるべしと、大勢立ちかゝり申すに、親仁言句《ごんく》も出ず、早々逃げうせけり。それより娘に宿所《しゆくしよ》、親の名など問ふに、兎角泣き居てものをもいはず。その夕かた人品《じんぴん》よき町人来りて、かの娘は出入屋敷《でいりやしき》の人なれば、貰ひうけたきよし申せども、最初の親仁かたよりの廻しものならんとて取合はず。しかるにその夜《よる》重立《おもだ》ちし役人ともいふべき侍《さふらひ》きたりて、われら屋敷の奥を勤むる女、この方《かた》に居《を》るよし、受取に参りたりといふ。その体《てい》しかるべき人品なれば、則ち娘に引合せしに、かの娘この侍を見て、はじめて安堵せしやうにて、もの語りする体《てい》、主従のごとくなり。この侍は浜町<東京都中央区日本橋浜町>のさる屋敷の家来なれば、則ちわたし遣はしければ、何かの礼として樽代五十金おくりけるとなり。或人の話に、この侯は乱舞をこのみて、度々能《のう》はやし有りて、下谷<台東区内>よりまゐる笛吹《ふえふき》の美少年ありしが、いかゞの訳にや、姫君としのび逢ひけるが、近ごろ折あしくて見えがたきを歎き、れんぼのあまり腰もとを連れて出奔し、道に迷ひて有りしとなり。この屋敷奥向と表との境に竹藪あり。篠竹あつくしげりて、路次《ろし》たえたるが如しといへども、これを潜《くぐ》り出れば、直《ぢき》に表へ出《いづ》るゆゑ、此処より若侍ども通ひて、奥の女中と密通すること数年《すねん》なり。役人どもはしらずや有りけん。覚束なし。今度《このたび》姫君もこれより忍び出《いで》て、美少年のもとを尋ねかねて、かの親仁にとらへられしなるべし。

[やぶちゃん注:私は、この手のお姫さまお忍び「ローマの休日」式の奇談が、好きだ。例えば、私が古文の授業用に作ったサイト版「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」の『【第二夜】「妖しい少女」~存在しない不可思議な少女は都会の雑踏の闇に忽然と姿を消した!』の話、決定版はブログ版の『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) あやしき少女の事』のそれなんか、下手な創作奇談なんぞより、遙かに面白いぞ!!!

「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。標題は『○聖堂御造營の事』。

「聖堂御普請はじまりて」湯島聖堂、及び、それに並置された幕府直轄の「昌平坂学問所」(「昌平黌」(しょうへいこう))のこと。ウィキの「湯島聖堂」によれば、元禄三(一六九〇)年、『林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めた』翌元禄四年二月七日に『神位の奉遷が行われて完成した。林家の学問所も当地に移転している』。『大成院の建物は、当初』、『朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後』、『度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて』、『再建も思うように出来ないままに荒廃していった。その後』、『寛政異学の禁により』、『聖堂の役目も見直され』、寛政九(一七九七)年には、『林家の私塾が、林家の手を離れて幕府直轄の昌平坂学問所となる』。『「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになる。また』、二『年後の』寛政一一(一七九九)年(本話の時制)には、長年、『荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は』一万二千坪から、一万六『千坪余りとなり、大成殿の建物も』、『水戸の孔子廟に』倣い、『創建時の』二・五『倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていた』。『ここには多くの人材が集まったが、維新政府に引き継がれた後』、明治四(一八七一)年に『後進の昌平学校は閉鎖された。教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができる。この間、学制公布以前に維新政府は小学→中学→大学の規則を公示し、そのモデルとして』明治三年、『太政官布告により東京府中学が』、『この地を仮校舎として設置された』。『昌平学校閉鎖後、文部省や国立博物館(現在の東京国立博物館及び国立科学博物館の前身)等と共に、東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が構内界隈に設置された』。『また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっている』とある。]

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