甲子夜話卷之八 7 蜷川氏の家紋
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。
なお、この前の「甲子夜話卷之八 6 或老侯、隅田川にて龍まきに逢ふ事」は、既にフライング単発で公開してある。]
8-7
御側(おそば)を勤(つとむ)る蜷川相模守が長子、大和守【親常。】とて、新番頭(しんばんがしら)なるは、予、久(ひさし)く知人なり。
此家は、足利將軍時代を經たる舊家なり。其家紋、
如ㇾ此(かくのごと)し。
其物を審(つまびらか)にせざれば、一日(あるひ)、逢(あひ)しとき、問(とひ)けるに、
「合子箸(ガウシハシ)なり。」
と答(こたへ)たり。
「合子」は今の「飯椀(めしわん)」なり。これに箸を添(そへ)たる象(かたち)なり。
後(のち)に、古き諸家紋帳を見るに、
如ㇾ此、見えて、「合子箸、蜷河。」とありき。
■やぶちゃんの呟き
画像は、底本の『東洋文庫』版からOCRで取り込み、トリミング補正した。
「蜷川氏」当該ウィキを見られたいが、そこに、この「親常」の父親文について、寛政八(一七九六)年に『将軍継嗣であった徳川家慶附属の御側御用取次となり、順次加増を受けて』五千『石の大身旗本となった。親文以後も』、『幕府要職を歴任し、明治維新に至った』とあった。サイト「戦国大名研究」の「蜷川氏」に、ここで静山が示した二種の家紋が載り、詳しい蜷川氏の先祖からの前史が詳しい。
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