譚海 卷之六 大坂北中島崇禪寺馬場敵討の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題の「崇禪寺馬場」は「そうぜんじばば」、「敵討」は「かたきうち」。この敵討(但し、結果は「返り討ち」)は、かなり知られた事件で、浄瑠璃「敵討崇禪寺馬場」(竹田小出雲他合作・初代金沢竜玉他補作・宝暦一〇(一七六〇)年五月大坂嵐吉三郎座初演)・歌舞伎・映画に脚色されており、ネット上でも複数の記事があり、ウィキの「崇禅寺馬場の仇討」もある。「大阪市立図書館」公式サイト内の「大阪に関するよくある質問」の「崇禅寺(そうぜんじ)馬場の敵討について知りたい」の回答をリンクさせておく。「北中島崇禪寺馬場」は現在の東淀川区東中島五丁目のここ(グーグル・マップ・データ)に跡がある。]
○大坂北中嶋崇禪寺馬場敵討略記。
遠城治左衞門(ゑんじやうぢざゑもん)重橫[やぶちゃん注:「重橫」は「重擴」(「しげひろ」か)の誤記。]・安西喜八郞光泉は、元(もと)和州郡山(こほりやま)の城主本多(ほんだ)侯の家士也。
同じ末弟に遠城宗左衞門重次といふもの有(あり)。
郡山にある日、傍輩生田傳八郞と、劍術の功を、あらそひて、生田に勝(かち)たり。生田、憤(いきどほり)を含(ふくみ)て、重次を殺し、浪華(なには)に遁(にぐ)る。時に、重次は十七歲也。
重次が母、悲歎にたへず、重橫・光泉に語(かたり)て曰(いはく)、
「兄弟の讐(かたき)には與(とも)に國を同じくせず。今、あだ、走(はしり)て、境外に出(いづ)といへども、猶、遠からずして、有(あり)。豈(あに)むなしく聞(きく)に堪(たへ)んや。」
と云(いふ)。
兩士、爰に於て國を去(さり)、直(ただち)に山口武兵衞・伊藤勝右衞門と改名して難波(なんば)に來(きた)り、生玉(いくたま)邊(へん)に留(とまり)、一日(ひとひ)生田を市(いち)に見て、
「勝負を決せん。」
と云(いふ)。
傳八、曰(いはく)、
「我、昔日(せきじつ)、非理(ひり)にして、重次を殺し、今、大に悔(くひ)、又、兩士に遇(あふ)、何ぞ敢(あへ)て死を、をしまん。乍ㇾ然(さりながら)、我、今日(けふ)、去(さり)がたき事、有(あり)。請(こ)ふ、三日をへて、崇禪寺馬場に會(くわい)して、死を決(けつす)べし。」
と云(いふ)。
仍(よつて)、兄弟、約日(やくじつ)を待(まつ)て、此所(ここ)へ來(きた)れ共(ども)、面謁(めんえつ)を經(へ)ず、空(むなし)く退(しりぞ)く。
他日、傳八、私計(しけい)を以て、弓屋丹波大和屋五兵衞といふものに書(ふみ)を託して、又、日を約して、崇禪寺の松原に會せん事を、兩士に云(いふ)。
兩士、悅(よろこん)で、又、約日に及(およん)で、此所に至れば、生田も來會(りくわい)して、鋒刄(ほうじん)をまじふ。
傳八方(がた)に、數多(また)の加勢あれば、兄弟、祕術を盡すといへども、竟(つひ)に生田が爲(ため)に、うたる。時に正德五乙未(きのとひつじ/いつび)霜月四日也。
嗚呼(ああ)可ㇾ惜(をしむべし)、天乎命乎(てんかめいか)。余(よ)、其志(そのこころざし)を感じて、一塔を建て、亡魂を弔(とふら)ふもの也。
遠城治左衞門年二十六歲、法名「劍樹心英居士」。
安藤喜八郞二十四歲、法名「刀山天雄居士」。
治左衞門所帶刀筒井越中守入道紀充、同脇指攝州住藤原忠行、同長刀關兼安。
喜八郞刀無銘備前兼光之由、脇指無銘筑州住左末之由、同鑓銘河内守國助千鳥十文字也。
外に鎖帷子・手裏劍・小道具等有。
兄弟傳八郞に遣す一通、
一昨廿八日之日付之一封、今晦日相達令二披見一候。先達而弓屋丹波大和屋六兵衞方ヘ一封被二指越一候由、不二相屆一返事不二申入一候。然ば多田道攝州崇禪寺邊に密居所ㇾ致候由、每日尋行候得共無二面談一候處、右崇禪寺馬場にて日限を定め、可ㇾ被二出合一之旨被二申越一侯。尤之至得二貴意一候。此返書通達候ほども候之間、來月四日朝五つ時、必々可ㇾ致二面談一候以上。
十月卅日
生田傳八郞長刀に結書置の一通、
今日此所にて及二勝負一候意趣は、相手遠城宗左衞門と申者難二見捨一儀御座候に付、仕留立退候の處、兄兩人恨可ㇾ申旨相尋候。私儀遠方に罷在候得者、私へ尋當り不ㇾ申、近親類共へ恨可ㇾ申旨、非道の心指相聞得候に付、出向勝負仕候。御見分の御方御座候はば、右の趣被二仰上一可ㇾ被ㇾ下候已上。
未十一月四日
右の品々、攝州西成郡北中島凌雲山崇禪寺に有。
[やぶちゃん注:ここで大事な点は、この「敵討」(かたきうち)は、公的には「敵討」としては絶対に成立しない、認められないものであることである。「敵討」とは、年下の者が年上の者の仇を討つもので、その逆は認められないからである。無論、心情に於いては、大いに同情するものではある。さればこそ、かく芝居にもなったのである。
なお、書付の漢文部は特に読み難い所はないので、読みも添えず、訓読も示さない。刀工等の注記もする気にならない。
「朝五つ時」不定時法で午前八時半。
「正德五乙未霜月四日」グレゴリオ暦一七一五年十一月二十九日。徳川家継の治世。]