譚海 卷之八 加州の樵者鎗術をあざける事(フライング公開)
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして電子化する。特異的に句読点・記号の変更・追加と、読みを加え、段落も成形した。標題の「樵者」は「きこり」と訓じておく。注はいらないと思う。]
加賀の家司(けいし)に鎗術の師あり。その宅にて、門人、會集して、終日(ひねもす)稽古の節、紙窓(しやうじ)の破れより、一人、うかがひ見て、たゝずむものあり。門人、晝食に休(やすみ)て、又々、稽古を始(はじむ)るに、彼(かの)者、猶、立(たち)さらず有りければ、人々、ふしぎにおもひ、
「彼(かの)者、われら、稽古を、けんぶつして、猶、立さらずあるは、何か、所存あるべし。」
「さらば、尋ねばや。」
と、一同に談合して、呼入(よびいれ)けるに、かたの如くの、下種(げす)なり。
「その方、今朝(けさ)より、我等、稽古を伺ふは、いかなる所存ありての事ぞ。」
と尋ねければ、彼者、
「別の者に、はべらず。あまり、皆樣のなされ方、をかしく候まゝ、見物致(いたし)候なり。」
と答(こたへ)ければ、いよいよ、不思議をなし、
「扨(さて)は、その方、鎗修練、成(なる)べし。」
と問ひしかば、
「我等事(われらこと)、鎗などは、一向、ぞんじ不ㇾ申候なり。さりながら、いかやうになりながら、いかやうにつかれ候とも、皆樣のやうに、つかれは、いたすまじきと存じ候なり。」
といふ。
此人々、あやしみて、
「さらば、その方を、ついて見るべし。」
「相手に、なるべし。」
とて、しなひの鎗を遣はしければ、彼もの、申しけるは、
「中々、かやうの長き物は、手馴れ申さず候。なんぞ短き物玉はり候へとて、そこら見めぐらし、木刀の三四尺餘有(あり)けるを見出し、
「是に、よく候。」
とて取(とり)たり。
扨(さて)、彼者木刀の柄を兩手にて握り、胸にあてて、切先を向ふへ、おして立(たち)たり。
相手の人、しなひ鎗をとつてつきかかるに、鎗の先のくゞりたるものを、切先にて、うけとめて、ひとつも、うけはづさず。
入代(いれかは)り、鎗を取(とり)て立向(たちむかひ)たる人も、終(つひ)に、彼者を、つきあつる事、叶はず。
後(のち)には、三、五人、一同にて鎗にてつきかくれども、其鎗先を、うけ(とむ)る事、電(かみなり)の如く、ひらめきて、一度(ひとたび)も身を、つかれず。
終(つひ)に、師なる人も立(たち)あひけれども、是も、同じく、つきとむる事、叶はず。
みなみな、あきれて、仕合(しあひ)をやめつゝ、
「扨々、其方は、不思議なる者なり。抑〻(そもそも)いか成(なる)業(なりはひ)をなす者ぞ。」
と尋ねければ、
「我等は、その山に住(すみ)はべる木こりにて候。我等、幼年より、同村のものと、日々、山へ行(ゆき)、薪(たきぎ)をとり候。其山の片岸(かたぎし)に、大木の松候。何百年をへしともしらず、根の、四方へ、はびこりたる事、山の如くにて候故(ゆゑ)、木こり、退屈せしときは、此松のもとへ行(ゆき)て、根に、腰を懸(かけ)やすみ候。かたぎし故、風、甚だ凉しく、夏日(かじつ)も、暑さを知らず、木古き松ゆゑ、いつも、しめり、深く、木末(こずゑ)より落(おつ)る露(つゆ)、たゆる事なく候。此處(ここ)に休(やすみ)居(ゐ)たる時、身にかゝり、衣裳を、うるほして、うるさきまゝ、たきゞを荷ふ棒にて、露をうけとめ候。はじめは、度々《たびたび》うけはづしたれども、いつも、休(やすむ)ときのなぐさみに、うけならひたれば、後々(あとあと)は、繁(しげ)く落(おつ)る露、一(ひとつ)も、うけはづし候事なく、かやうにて、三十八年、馴れ候へば、此心にて、つかるゝ鎗をうけ候に、留め得ぬ事は、候はず。」
とかたりしかば、人々、功の熟したる事をかんじ、謝し、やりける、とぞ。
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