譚海 卷之六 松平相摸守治道朝臣室詠歌の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。
なお、この前の二条の
と、
は、ともに既にフライング公開している。]
〇松平相模守治道朝臣の室は、松平陸奥守重村朝臣の女にて、母堂は近衞殿御養女なれば、和歌の道をも、常に好(すか)れたるが、殊に容色、美艷なりしかば、婚姻はじめより、夫妻、甚だ、むつまじく、妾媵(しやうよう/めかけ)のたぐひも、絕(たえ)て置(おか)れざりしゆゑ、相模守殿在所、因州へ下られける時は、達(たつ)て陪妾(ばいしやう)のものを、内室より勸られけれども、同意なくて、下向ありしに、一とせ、内室、懷胎せられけるまゝ、又、夜の伽(とぎ)に妾を置(おか)るべき事をすゝめられしかど、同じく承引なかりしを、甚(はなはだ)氣のどくに思はれ、内室、里邸(りてい)へ逗留に越され、其母堂、相談にて、召仕の中(うち)、勝(すぐれ)たる容儀の女を拵(こしら)へ、里邸より、强(しい)て勤(つとめ)られ、妾(めかけ)にせられしに、相模守殿、始(はじめ)は、なづみの色も薄かりしが、日を追(おつ)て、此妾を、專(もつぱら)、寵(ちよう)せられ、すでに在所へも召述(めしのべ)られけるほどの事也。扨、内室、出產有(あり)、月日ヘて、相模守殿、參府ありしかども、ひたすら、この妾をのみ、愛せられて、一向、内室の閨へは、入(い)らるゝ事、なかりしゆゑ、後々は、
「けしかる事。」
に、人口(じんこう)にも、いひ侍る。
元來、内室より勤(つとめ)なされし事なれば、せんかたなき事にて、ありし。
内室も、產後の氣味にや、腫氣(はれき)[やぶちゃん注:身体の浮腫(むく)みであろう。]、わづらひて、其上、種々のものおもひも、かさなりしにや、段々、病(やまひ)つのり、終(つひ)に、寬政四年の夏、卒去(そつきよ)有(あり)。
誰々も、
『あへなき事。』[やぶちゃん注:どうしようもない。がっかりだ。]
に、おもへど、かひなくて、後(あと)のわざ、取(とり)まかなひなどするに、臥蓐(がじよく)[やぶちゃん注:病床の寝具。]を取(とり)のけ見れば、其下に、一首の歌を、内室手跡にて、書(かき)殘されたる、ありけり。
むすびてもかひなき物を玉のをの
行末ながくなど契(ちぎり)けん
是を見付たるにつけて、
「一入(ひとしほ)、あはれなる事。」
に、人、語り傳へたる、とぞ。
[やぶちゃん注:「松平相模守治道朝臣」底本の竹内利美氏の後注に、『鳥取藩主池田治道』(明和五(一七六八)年~寛政一〇(一七九八)年)。『明和三年生』(ママ)。『天明三』(一七八四)『年襲封、相模守となった。その室が』本篇の「松平陸奥守重村朝臣」『仙台藩主伊達重村の女』(むすめ)『で、彼女の母は近衛准后内前の養女なのだというのである。しかし、近衛氏養女は父重村の正室で、彼女の生母は安田氏と、「寛政重修諸家譜」にはしるしてある』とある。当該ウィキにも、正室生姫(「いくひめ」と読んでおく)は伊達重村の娘とあり、寛政二(一七九〇)年、『正室・生姫と婚姻する。寛政』四『年』、『生姫は初産で一女を産んだ後、体調が回復せず』、『鳥取藩江戸藩邸で死去した。この長女・弥姫は薩摩藩主』『島津斉興の正室となり』、『島津斉彬の生母となった』とある。
「里邸」普通は、公卿が内裏に対して市中に持った私邸を指すが、ここは妻の養父母の屋敷を指している。]
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