譚海 卷之六 尾張野間の内海義朝々臣墓幷陶家の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○尾張國、野間・うつみは、兩地をあはせて、いふ事也。
みな、南海邊(なんかいへん)にある在地にて、野間は五ケ村、うつみは八拾一ケ村あり。
拾壹萬石收納の地にて、甚だ廣き所也。
志摩・鳥羽浦へつゞきて、伊勢へも、五里にちかし、といふ。
東海道よりは、池鯉鮒(ちりふ)より、入(いる)順路也。
うつみに、左馬頭義朝の墓あり。
義朝の墓を眞中にて、左右に、鎌田兵衞正淸と、織田三七郞殿、墓あり。
鎌田の墓に、義朝のはかを並(ならべ)てある事、そのいはれ、知れがたし。いづれも、後世の造立とみゆるよし也。
江戶へいだす、水甁(すいびやう)[やぶちゃん注:水や酒などを入れておく瓶。「すいびん」「すいへい」と読んでも構わない。]など、燒(やく)陶家(とうか)など、おほく、はんじやうなる地也、とぞ。
[やぶちゃん注:「野間」愛知県知多郡美浜町(みはまちょう)野間。「平治の乱」で敗れた源義朝は、東国へ落ちのびる途次、家臣で乳兄弟の鎌田政清の舅(しゅうと)にして、年来の源家に従っていた長田忠致(おさだただむね)と、その子景致のもとに身を寄せた。ウィキの「源義朝」によれば、『しかし』、『恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて』『殺害された』。『享年』三十八であった。『政清も酒を呑まされ』、『殺害された』(享年は義朝に同じ。当該ウィキに、野間大坊の彼の墓(妻と一緒)の写真がある)。『京を脱出して』わずか三『日後の事であった』。「愚管抄」によれば、『長田父子の陰謀を察知した義朝が』、『政清に自らの首を打つよう命じ、斬首された後に政清は自害したとされる。年が明けた正月』九『日、両者の首は獄門にかけられた』。『伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓は』(ここ)『その終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の伝承にちなんで多数の木刀が供えられている』(グーグル画像検索「源義朝の墓」をリンクさせておく)。『また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある』とある。私は、そこを訪れたことがある。
「内海」「うつみ」野間に南東で接する愛知県知多郡南知多町(みなみちたちょう)内海。
「池鯉鮒」愛知県中央部の知立市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。江戸時代は東海道五十三次の岡崎と鳴海の間の「池鯉鮒(ちりふ)宿」として発展し、また、三河木綿の集産地としても栄えた。現在は名古屋市近郊のベッド・タウンである。
「織田三七郞」織田信長の三男織田信孝(永祿元(一五五八)年~天正一一(一五八三)年)。伊勢神戸(かんべ)氏の養子となった。「本能寺の変」後、豊臣秀吉と結び、美濃岐阜城主となったが、後、柴田勝家らと結んで、兄信雄・秀吉を倒そうとしたが、敗れて、長良川を下って、尾張国知多郡野間の内海大御堂寺(愛知県美浜町野間大坊)に逃げたが、そこの安養院で自刃した。享年二十六。当該ウィキに同所にある墓の写真がある。]