柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「博奕の名人」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
博奕の名人【ばくちのめいじん】 〔翁草巻六十六〕物によりて余り上手過ぎて害になる事有り。予<神沢貞幹>官仕せし頃、トウセキ藤兵衛と云ふ隠れなき博奕打を捕へさせて引出《ひきいだ》し、これをみるに、その体《てい》さのみ賤しからず、世に云ふ博奕打のやうなる見苦しき様《さま》にもあらず。さて様子を尋ぬるに、僕(やつがれ)賽《さい》を打つ術に於ては、衆に勝れて百発皆中(あた)る。これ故にその徒忌み怖れて我をはぶき、暮しかたなき儘に、近国に趨《はし》りてこれを催《もよほ》さんとするに、何国《いづく》にも聞き伝へ、或ひは見知りて誰《たれ》も立会《たちあ》ふ者なし。詮方無さに遠国を経《へ》めぐり、我名を匿(かく)して博奕の有る処を捜し求め、その辺へ立寄りて様子を聞けば、某の村に先頃大きなる勝負有りて、誰彼《だれかれ》打負《うちまえ》たる由をよく聞き糺し、負けたる者の方《かた》へ参り、某《それがし》は上方《かみがた》にて名を得たる博奕の上手にて候、爾々(しかじか)の由《よし》承り、笑止に存じ、密かにこれへ参り候、再会を催し玉はゞ、我その許《もと》[やぶちゃん注:「そこもと」に同じ。二人称。]の手伝ひをして、肝要の処にて、其方(そなた)の名代《みやうだい》に賽を打《うち》て参らせん、さあらんに於ては、先回の返報、唯《ただ》一挙に功を立てん、その褒賞には、某に何程合力《かふりよく》し給へと云ふ。その者一応にてはこれを信ぜず、于時(ときに)賽を取て乞目(こひめ)を自由に出《いだ》し見するに仍(よ)り、大いに怡信《たいしん》[やぶちゃん注:「喜んで信頼すること。]して再会を催し我を伴ふ、則ちその場へ出《いで》て、色々と世話致し、その人の賽を打つを見るに物色《ぶつしよく》悪し、連中これに競ひて爰(ここ)を詮(せん)と張込《はりこ》み、既に胴を潰さんと欲《ほつ》する頃、いで手替りに我等投げて見んと、肝心の場にて一二回投ぐれば、座中の金銀忽ち胴へ取込《とりこ》んで、十分の勝となる、さて約束の通りの謝礼を受けて、早く所を立去り、また他国へ行き、件《くだん》の仕形《しかた》を以て漸《やうや》く渡世を送り候、暫くも同所に足を止むれば、人々手懲《てこ》りして相手にならず、且つ我名の顕れんことを厭ひて所を定めず、国々を経歴仕《つかまつり》候と申す。則ち町奉行馬場讃岐守に之を告ぐるに、さらば賽を打たせて見ばやとて、白洲に於て打たせられけるに、幾度《いくたび》打ても乞目の違ふ事なし。適〻(たまたま)過《あやま》つ時は、投げぬ先にこれは違ひ候と云ひて投ぐるに、果してその時は少し違《たが》ひし事あり。これ数十度《すじふど》の内に一度有ㇾ之、讚岐守[やぶちゃん注:底本を拡大、ガンマ補正して「讚」と断じた。]もあきれ果てられ、京都に於てさせる悪事も無かりし故、相当の払ひ申付けられ、何地(いづち)へか去りける。
[やぶちゃん注:「翁草」「石臼の火」で既出既注。正字の当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「翁草」校訂七(池辺義象校・明三九(一三〇六)年五車楼書店刊)のここで視認出来る。標題は『トウセキ藤兵衞の事』。「トウセキ」とは「盜跖・盜蹠」で中国古代の大盗賊。春秋時代の魯の人とも、黄帝時代の人ともいう。多数の部下を連れて、各地を横行したとされる。但し、正しい歴史的仮名遣は「たうせき」である。
「町奉行馬場讃岐守」江戸南町奉行馬場讃岐守尚繁。延享三(一七四六)年七月二日から寛延三(一七五〇)年一月二十六日まで在任した。]
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