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2024/01/10

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「舟幽霊」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 本篇は題名から想像がつくと思うが、長い。底本の三段組みで、五ページ弱ある。]

 

 舟幽霊【ふなゆうれい】 〔世事百談巻三〕海上にて覆溺《ふくでき》[やぶちゃん注:舟がひっくり返って、乗っている人が水に溺れること。或いは、その溺死者。]の人の寃魂《ゑんこん》、夜《よ》のまぎれに行きかふ舟を沈めんとあらはれいづるよし、いふことなり。唐土《たうど》の鬼哭灘《きこくだん》といふ所は怪異《けい》いと多く、舟の行きかゝれば、没頭隻手独足短禿《もつとうせきしゆどくそくたんとく》の鬼形《きぎやう》とて、首《くび》なき片手、片足の背の低き幽霊、百人あまり群がりあらそひ出で来りて、舟を覆《くつがへ》さんとす。舟人の食物《くひもの》を投げあたふれば、消失《きえう》せるといへり。わが邦の海上にもまゝあるなり。風雨《かぜあめ》はげしき夜《よ》ごとに、この怪多しとかや。俗にこれを舟幽霊といふ。その妖《えう》をいたすはじめは、一握《ひとつかみ》ばかりの綿《わた》などの風に飛び来《きた》るごとく、波に浮かみ漂ひつゝやがてその白きもの、やゝ大きくなるにしたがひ、面《かほ》かたちいでき、目鼻そなはり、かすかに声ありて、友を呼ぶに似たり。忽ち数十《すじふ》の鬼《き》あらはれ、遠近《ゑんきん》に出没す。已(すで)に船にのぼらんとするの勢ひありて、舷《ふなばた》に手をかけて、舟の走るをとゞむ。舟人どもも、漕行《こぎゆ》き逃《のが》るゝことあたはず。鬼《き》声をあげて、いなたかせといふ。そのものいふ語言《ごいん[やぶちゃん注:後に示す活字本のルビ。]》分明《ぶんめい》なり。こは舟人の俗語に、大柄杓(おほびしやく)をいなたと名づくる故なり。さて事に馴れたる者、柄杓の当(そこ)をぬき去りて、海上に投げ与ふれば、鬼《き》取りて、力をきはめて水を汲みいれて、その舟を沈めんとするのおもむきあり。もし当あるものをあたふれば、波をくみて舟を沈むといへり。また風雨《かぜあめ》の夜《よ》は海上に舟道《ふなみち》の目あてに、陸《くが》にて高き岸に登り、篝火(かがりび[やぶちゃん注:活字本では『かがり』と振る。])を焚くことあり。鬼もまた洋中《おきなか》に火をあげて、舟人の目をまよはす。これによりて、人みな疑ひをおこし、南なるが人の焚くにや、北にあがるが鬼火《きくわ》かと舟道を失ひ、かれこれと波に漂ふひまに、終《つひ》に鬼のために誘はれて溺死し、彼と同じく鬼となることもあり。ある舟人の物がたりに、人火《ひとのひ》は所を定めて動かず、鬼火《おにび》は所を定めず、右にあがり、左にかくれ、鬼《き》猶且《なほかつ》遠く数十の偽帆《ぎはん》をあげて走るがごとくす。人もしこれに随ひて行くときは、彼がために洋中《ようちゆう》に引《ひ》かるゝなり。これも人帆《じんほ》は風に随がひて走り、鬼帆《おにほ》は風にさからひて行くといへり。されどもこの場にのぞみては、事になれし老舟士《らうしうし》といへども、あはてふためき、活地《くわつち》に出《いづ》ることかたきものとぞ。

[やぶちゃん注:「世事百談」「麻布の異石」で既注の山崎美成が天保一四(一八四四)年十二月に刊行した随筆集。全四巻。風俗習慣・故事・文芸・宗教・天象地誌・奇聞など、広範囲に及ぶ百三十八条から成る。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』巻九(昭和二(一九二七)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで当該条『○舟幽靈(ふないうれい)』[やぶちゃん注:ルビはママ。]が正字で視認出来る。これはルビが多く附されてあるので、それで積極的に読みを補った。「鬼火」を「きくわ」と「おにび」の異なったルビをしているのは、それを採用したことによる。なお、「世事百談」には挿絵が載る。所持する吉川弘文館『随筆大成』版のものを、参考図として以下に掲げておく。

 

Hunayureisejihyakudan

 

なお、本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の私の注で、電子化してあるので見られたい。

「鬼哭灘」明の顧𡵚(こかい)撰・陳継儒(一五五八年~一六三九年)校訂になる「海槎餘錄」に載る。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原文を確認、漢字の一部を正字化し、記号もいじって、以下に示す。

   *

千里石塘在崖州海面之七百里外、相傳此石比海水特下八九尺、海舶必遠避而行、一墮既不能出矣。萬里長堤出其南、波流甚急、舟入回溜中、未有能脫者。番舶久慣、自能避、雖風汛亦無虞。又有鬼哭灘、極怪異、舟至則、沒頭・只手・獨足・短禿、鬼百十爭互爲群來趕、舟人以米飯頻頻投之卽止、未聞有害人者。

   *

邦文の記載を見るに、浙江省や福建省にあったとされる海域らしい。信頼出来る論文では、海南島に近い場所ともする。]

〔閑田耕筆巻一〕辺鄙にはかくあやしきことあるも疑ふべからず。出羽は陰地にて常に曇りがちなり。さる故に、人も陰気にて、幽霊の出ること多きよし、橘南谿の『東遊記』に記さる。松前<北海道渡島支庁>の奥の蝦夷地もまた然りと伝へ聞きぬ。はた唐山も同じき歟。往年長崎に来りし唐人、病人を療するがために、願ひて町家にやどりしことありしに、(もとは唐人、平常町家に来り遊びて飲食などもせしよし、そこに住みし人、老《おひ》の後《のち》話せし)その隣に新死《しんし》の女ありし家を夜々うかゞひしを、何ごとぞと問ひしに、幽霊の出《いづ》るを見んと思ひてなりと答へしこと、広川医士の筆記にも見ゆ。ついでに又まさしく予<伴蒿蹊>があひたりし怪異《けい》をいはんに、今は十七八年前、讃岐の金比羅にまうでて、それより厳嶋に遊ばんとする海路、おんどのせとといふ所を過ぎて船をとゞめ、天明をまちて出《いで》せしに、二三里ばかりも過ぎぬらんと思ふころ、船頭俄かに人語を制す。何事ぞとあやしむに、烏帽子のごときもの浮きて、船に行違ひたり。さて後《のち》、なぞととふに、船人、彼《かの》物とばかりこたへしは鱣(うみへび)[やぶちゃん注:私の所持する吉川弘文館『随筆大成』版では、「鱣」は『フカ』とルビしてある。後注で示す国民図書版も『フカ』である。但し、「譚海 卷八 九州海路船をうがつ魚の事(フライング公開)」で示した「井(ゐ)くち」は、一説で海蛇ともするので(ウィキの「いくち」を参照されたい)、強ちに誤りとは言えない。また、この「鱣」は、フカ以外に、ウナギやタウナギなども指し、古い中国文献では、ウミヘビやハモを指すともされるのである。]なりと知られぬ。かの烏帽子のごときは、尾の先の顕れしなり。これは船を覆へし、あるひは人をもとれば、大きに、恐るゝなり。さて怪異《けい》といふはこれにはあらず。このものを見ていくほどもあらず、東北の間とおぽしき方より、十三四ばかりの童子の声して、ほいほいと呼ぶこと三声、船人また手して人の物いふことをとゞめて、彼方《かなた》に向ひ、よいはそこにをれそこにをれといふ。その日は雲霧深くて四方かつてみえず。はじめは友船の呼ぶにやと思ひしが、影も見えねば、また霧のかなたに嶋などありて、鳥の声の人語にまがふにやとも疑ひしが、この船人のいらへにて、怪しき物とはしりぬ。その後又これはなぞと、とはまほしかりしかども、船中にてはいたく物忌すれば黙《もだ》しぬ。按ずるに、こは船幽霊といふもの歟《か》。よるは火の光見えて、しきりに船を漕ぎよせて、あるひは檜杓《ひしやく》をこふ事有り。その時底なきものを与ふ。もし底あれば、海水をこなたの船へ汲入《くみい》つて、つひに覆へすといひ伝ふ。この外、船中の怪異《けい》聞クこと多し。溺れ死したるものゝ霊、おのがごとく船を沈めんとするなりとぞ。ことに七月十五夜、十二月晦日《みそか》夜は、諸船往来せぬがならひにて、この両夜は海上に怪しきことあまた有りといふを、何某の船頭、強気なるものにて、試みに船を出《いだ》せしが、果して風波さわがしく、鬼火あまた見え叫ぶこゑなど、所々に聞えおそろしさ、言《げん》にもつくされずと、その船頭、鈴木修敬に語りしとなり。まさしくおのが彼《か》の声を聞きしにて、虚妄ならぬをしりぬ。

[やぶちゃん注:「閑田耕筆」「青木明神奇話」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第六巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のここで当該部が正字で視認出来るが、これも、既に「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」の私の注で、電子化してあるので見られたい。

「鈴木修敬」鈴木蘭園(一七四一年~一七九〇年)は京に居住していた医師で、公家で、雅楽にも造詣が深い人物である。ある学術論文で、彼と伴蒿蹊が知人であったことが確認出来た。]

〔譚海巻一〕相州三崎<神奈川県三浦市>に篝堂(かがりだう)とて、官より建て置かれたる所あり。海岸高き所に堂有り。昼夜両人づゝ詰め居《を》るなり。昼は風波破船などの遠見をいたし、夜は明くるまでたえずかゞり火を焼《たき》て、海舶往来の目じるしになる様に掟《さだめ》てられしなり。篝になる薪《たきぎ》は、浦々より役割をもちてよせ来《きた》る定数《ぢやうすう》ある事なり。然るにこの地七月十三日の夜は、いつも難船横死の幽霊この堂に現ずるゆゑ、人甚だ恐怖し、その日に限りては数《す》十人寄合ひけり。鐘《しよう》大念仏にて通夜《つや》するなり。さるにつけても幽霊必ず現ず。或ひは[やぶちゃん注:ママ。]大船にはかに現じて漂ひ来り、巌頭にふれて砕けくづるゝ響《ひびき》、おびたゞしく震動して人の耳を驚かし、身の毛立ち、その時忽ち数十人、影まぼろしの如く水面に充満し、わつというてこの堂をさして入り来《きた》る事、年々たがはず。恐ろしき事言語道断なり。因《よつ》て年々施餓鬼会《せがきゑ》を勤め仏事を営む。ふしぎの事に言ひ伝ふるなり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之一 相州三浦篝堂の事」を見られたい。これも「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されてある。]

 〔甲子夜話巻二十六〕領分の海中には船幽霊と謂ふものあり。また或ひはグゼ船とも謂ふ。これ海上溺死の迷魂、妖を為す所と云ふ。その物夜陰海上にて往来の船を惑はすなり。或人舟に乗《のり》て城下の海北一里半を出《いで》て釣し、夜に入て帰らんとす。時に小雨して闇黒《あんこく》なるに、その北十余町に当つて、廿四反《たん》とも覚しき大船、帆を十分に揚げて走り来《きた》る。よく見れば風に逆つて行くなり。されども帆を張ること、順風に走るが如し。また船首の方《かた》に火ありて甚だ熾(さか)んなり。然れども焰なくして赤色波を照し、殆ど白日の如し。また船中に数人《すにん》在りて揺動《やうどう》する如くなれども、その形分明ならず。怪しみ見るうち、乗《のり》たる船止《とま》りて進まず。乃《すなは》ち漕去《こぎさ》らんとすれども動かず。また目当てとしたる嶋、忽ち隠没《いんぼつ》して無し。遂に行くべき方を知らず。一人云ふ、船幽霊は苫(とま)を焼《やき》て舟端《ふなばた》を照せば立去《たちさ》るなりとて、この如くせしに、果して四方晴やかになり、舟進んで初め真近《まぢか》かりし鎌田の横嶋と云へる所の瀬先きに乗りかけ、巌《いはほ》に触れて破れんとす。因《よつ》て速かに碇《いかり》を下《おろ》して危きを免れたり。これが為に迷はされしこと、凡そ一時余にしてやうやう城下に還れり。

[やぶちゃん注:ここで底本では改段落となっている。以下も同じ。]

 また城下の南(九里)志自岐浦《しじきうら》<長崎県平戸市志々岐崎か>にて、舟にて夜帰《よき》する者、途中にて俄かに櫓揺(うご)かず、舟止りたり。怪しんで見るに、乱髪の人海面に首を出し、櫓に喰つきて動かさざるなり。始めて舟幽霊なるを知り、驚て水棹《みづさを》にて突放《ちきはな》さんとすれども離れず。乃《すなは》ち灰をふりかけたれば、しばしして離れたり。闇夜ゆゑ海面も弁ぜざるに、かの顔色ばかり分明に見えしも訝しきことなり。これもグゼの所為なりとぞ。

 また志佐浦《しさうら》<松浦市志佐>にて兄弟の者ありて舟《ふね》行《ゆか》せしに、夜中風雨頻りなりしが、破船に乗りたる者二人来りて舟に著《つき》たり。見るに白衣《びやくえ》乱髪《みだれがみ》の体《てい》にして、舟につき慕ふさまなり。顔色は雪の如く白かりしが、兄弟を見て歯をむき出して微笑す。兄弟見て怖ろしさ云はんかたなし。乃ち避け去らんと力を尽して漕ぎ行くと雖も、随ひ来て離るることなし。為ん方なく焚きさしの薪《たきぎ》を投げつけたれば、これより離れ去りて、無難に還りしとぞ。これもかの舟幽霊の一種なり。後日にその顔色猶眼につきゐて恐《おそろし》く、舟商売《ふねしやうばい》はすまじきものとて、改めて他業の身となれりと云ふ。

 また先年城下辺大風吹きしことあり。これに因て船々大小数知らず沈没し、溺死も数人なりしが、それより夜々に舟幽霊出《いで》て、往来の船に邪魔をなし、通舟《つうしふ》すること協(かな)はずとて、役所ヘ願ひ出たり。因て瑞岩寺と云ふに申しつけて、施餓鬼をなさしむ。衆僧《しゆそう》船にて誦経《ずきやう》し、また舟形《ふながた》数百を造り、これに燭《しよく》をともし海面に浮むれば、数百の舟形潮《しほ》に随つて流れ漂ひ、火光《くはかう》波間に夥しかりしが、これよりしてこの殃《わざは》ひ止みたりと云ふ。この時その辺に泊せし商船も、皆燭を舟形にともし弔ひとなしたれば、倍〻(ます《ます》)火光海上に満点したりとぞ。

 また生月《いけつき》と云へる所の鯨組《くぢらぐみ》の祖に道喜《だうき》と云ヘる者あり。その始めは賤しくして舟乗《ふなのり》を業《なりはひ》とせし頃、ある夜舟《ふね》行《ゆか》せしとき、舟端に何か白きもの数十出《いで》てとり付きたり。よく見れば小兒を見るが如き細き手なり。道喜驚き棹にて打払ひたれども離れず、又とり付くこと度々なり。道喜思ひつき、水棹の先を焼《やき》て、それにて払ひたれば、遂に退《しりぞき》て出ざりしとぞ。これも舟幽霊の類《たぐひ》なりと云ふ。総じて苫(とま)をやき、焚きさしの薪を投げ、灰をふり棹を焦《こが》すの類は、陰物は陽火に勝つことなきを以ての法なりと舟人云ひ伝ふ。

 また予<松浦静山>が親しく聞きたるは、壱岐<長崎県壱岐市>に住める馬添《うまぞへ》の喜三右衛門と云ひしもの勤番《きんばん》して厩《うまや》にゐたるとき、ふと舟幽霊のことを言出《いひいだ》したれば、某《それがし》渡海のとき中途にてグゼに逢ひたりと云ふゆゑ、何《いか》なる者ぞと問ひたれば、始めは何か遙かに人声《ひとごゑ》多く聞えたるが、船頭はとくこれを知り、程なくグゼ来《きた》るなり、必ず見るべからず、見ればこの舟にたゝり候なり、少しも見るまじと制するゆゑ、船中にひれ伏しゐたれば、間もなくかの声至つて近く大に譟(さわ)がしければ、見まじとは制したれども、見たくてすこし顔をあげて見たれば、大舟《おほぶね》の帆を十分に揚げたるが、その乗りたる舟に横さまに向けて走り来《きた》るなり、人は大勢なるが、皆影の如くにて、腰より下は見えず、手毎《てごと》に何か持ちゐて、我が乗《のり》たる舟に潮《しほ》をくみ込まんと躁動《さうどう》する体《てい》なり。船頭は舟のへ先に立並び、何か誦へて守札《まもりふだ》の如きものを持《もつ》て祓ひをする体なりしが、やがて灰を四方にふり散らしたれば、グゼ船はこれより某が舟を行きぬけたると覚しく、最初は左にありたるが、それより舟の右になりて、次第に遠くなり行きたり。この船頭もはやよしと云ふゆゑ、それより舟中のもの頭《かしら》をあげたれば、もはやグゼは跡形もなかりしと語りし。何れも似たることなり。

 或人語る。佐伯侯(豊後)の家老某、領邑《りやういふ》に往来のとき、三度《みたび》まで舟幽霊を見たり。そのさまは遙かに沖の方より船来《きた》る声聞えけるが、船子等《ふなこら》甚だ恐《おそる》る体なれば、何事ぞと問ひたれば、舟幽霊なりと云ふゆゑ、顧みるにはや我船に四五人も乗り居《をり》たり。その形は烟(けむり)の如く、廿余りまたは廿四五の男なりしが、船のへさきを歩き廻りて、程なく海に入りしとなり。これより船子等も恐るゝ体なく、船の止まりたるも動き出《いで》て走り行きしと云ふ。これまた大抵我領邑のものと同じ。

 また語る。人吉侯(肥後)の侍医佐藤宗隆と云ふ者、東都に出《いづ》るとき船中にて船幽霊を見しと云ふ。元来播州舞子浜<神戸市垂水区>の辺《あたり》はこのこと稀なる処なるに、その夜は陰火海面を走りて怪しくみえたりしが、程なく大きさ四尺余のクラゲ(海鏡)とも謂ふべき物漂ひ来《きた》るを見れば、人の形ち上に在りて、船子に向ひもの言ふべき体《てい》にて来るなり。船子ども即ち苫を焼《やき》て投げかけたれば、そのまゝ消滅せしと云ふ。また同藩の医宗碩《そうせき》と云ふ者も、備後の鞘浦<広島県福山市内>の辺《あたり》にて船幽霊を見たりしが、これは正しく手を海中より出《いだ》して、柄杓かせ々々と言ひし。かゝることは某《なにがし》が邑人《むらびと》の外にも皆々知れりと話せしとぞ。

 また隠邸(いんてい)[やぶちゃん注:静山の隠居所である本所の下屋敷。]の隣地に大道と云ふ僧の居《をり》しが、この僧筑前秋月の人にて、もとは黒田支侯の士なりし故に、或年上京せしとき、長門の赤馬ケ関《あかまがせき》に船がかりせしに、まの当り見しとて語れるは、三月十八日のことなりし。船頭ども云ふには、今日は何事をも申されな、話しなど無用なりとて禁ずるゆゑ、何《いか》なる訳《わけ》やと問ひたれば、けふは平家滅亡の日ゆゑ、若《も》し物語りなどすれば必ず災難ありと云ひたり。それより見ゐたるに、海上一面に霧かゝり、おぼろなる中に何か人の形ち多く現はれたり。これ平氏敗亡せしの怨霊なりと云ふ。この怨霊、人声《ひとごゑ》を聞けば即ちその船を覆へすゆゑ、談話を禁ずと云ひ伝ふとぞ。昔より十七日・十八日の夜は必ずこの禁あることなりと云ふ。その十四日・十五日の頃より海上荒く潮《うしほ》まきなどありて、かの辺りはものすごき有さまなり。これ某《それがし》のみならず、同藩の者もかの地滞船のとき見し者多しと語れり。

[やぶちゃん注:さて、以上の「甲子夜話」の長い引用部は、実は、その殆んどを、やはり、「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されているため、こまめに、各部分の紹介の後に注で原文を電子化してある。しかし、今回、細部を確認したところ、宵曲が途中でカットした部分があることに気がついた。されば、事前に、零から仕切り直して、「フライング単発 甲子夜話卷二十六 8 舟幽靈の事」を注を含め、ガッチリと公開しておいた。

〔譚海巻八〕房総海中に夜泊する時、溺死魂魄の霊出現し、舟に近づきひさく[やぶちゃん注:柄杓。]を借りたきよしをしきりに乞ふ。その時はひさくの底をぬきてかすなり。霊ひさくをえて、終夜海水を汲みて舟へ入《いるる》る貌《かたち》をなして、舟を沈めんとす。難船溺死の寃《うらみ》にたへず、他船を見ても妬みを生じ、この如くする事にこそといへり。松前<北海道渡島支庁>渡海の舟もおほくはかの地に滞淫(たいいん)[やぶちゃん注:長期逗留。]して、晩秋に攬(ともづな)をとけば、帰路洋中《わだなか》にして、おほく颱風《たいふう》に遇ひて破船をなす。松前往来の舟、時々この魂魄の現ずるに逢ふ事とぞ。

[やぶちゃん注:事前に「譚海 卷八 房總幷松前渡海溺死幽靈の事(フライング公開)」を出したが、実はこれも「柴田宵曲 妖異博物館 舟幽靈」で紹介されており、そちらの私の注で、電子化してある。]

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