フライング単発 甲子夜話卷八十七 4 蛇(ヘビ)塚
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。カタカナは珍しい静山のルビ。]
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丙戌(ひのえいぬ/へいじゆつ)六月廿五日、小石川三百坂にて、蛇、多く集(あつま)り、重累(ぢゆうるい)して桶(をけ)の如し。
往來の人、步(あゆみ)を留(とめ)て、皆、見る。
その邊(あたり)なる田安殿の小十人(こじふにん)、高橋百助の子、千吉、十四歲なるが云ふには、
「この如く、蛇の重なりたる中には、『必ず、寶あり。』と聞く。いざ、取らん。」
迚(とて)、袖を、かゝげ、右手を、累蛇(るいじや)の中に、さし入れたるに、肱(ひじ)を沒(ぼつ)せしが、やゝ探(さぐり)て、果(はたし)て、錢一文を獲(え)たり。
見るに、篆文(てんぶん)の「元祐通寶錢」なり。
是より、蛇は、散じて、行方(ゆくへ)知れず、と。
奇異と云(いふ)べし。
[やぶちゃん注:キャプションがあり、上部中央に『傳說ノ圖』、中央に右から左に横転して『コノ渡一尺六七寸』、左下に『高』(たか)『モ一尺六七寸』とある。]
予、因(よつ)て、「泉貨鑑」に載るものを附出(ふしゆつ)す。
追記す。田舍にてはこれを「蛇塚(ヘビヅカ)」と云ひて、往々あることとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「甑」米などを蒸すのに使う台所用具で、筒状、若しくは、箱状のものに、底に蒸気の通る穴を空けてあり、洗って吸水させた米などを蒸気を通して蒸す。
「丙戌」「文政九年」「六月廿五日」グレゴリオ暦一八二六年七月二十九日。
「小石川三百坂」ここ(グーグル・マップ・データ)。サイド・パネルで説明板が見られる。現在の文京区小石川三丁目と四丁目の境、伝通院の西にある坂で、元は三貊(さんみゃく)坂と言った(この原呼称の意味は不明)。ここは播磨坂周辺に上屋敷を持っていた松平播磨守頼隆が、登城の際に通った道で、松平家の仕来りで、藩主登城の際の徒歩(かち)の供侍は、まず、玄関で、殿にお目通りし、それから直ぐに着替えて、登城の列に加わることとなっていた。徒歩侍の者は、登城の列が、伝通院横の、この坂を登り切るまでに追いつけなかった場合、三百文の罰金を支払う掟(おきて)となっており、そこから松平家家士が、この坂を「三百坂」と呼び、一般でも、かく、呼称されるようになった旨、懐山子の「江戸志」にある。
「小十人」江戸幕府の職名。若年寄支配に属し、平日は殿中「檜の間」に勤番して、将軍の護衛に当たり、将軍の出行の際は、先駆けを勤めた者。二十人を以って「小十人組」を作り、小十人頭・同組頭の指揮を受けた。
「元祐通寶錢」(げんゆうつうほうせん)宋代(九六〇年~一二七九年)に鋳造された銭貨。銅銭と鉄銭がある。北宋(九六〇年~一一二七年)の太祖が、「宋元通宝」を鋳造し、太宗の時代に、「太平通宝」・「淳化通宝」・「至道元宝を発行して後、概ね、改元ごとに、その年号を記した銭が鋳造された。当時、貨幣需要が大で、鋳造技術の未熟な諸外国では、宋銭を輸入して、この欲求を満たしていた。このため、北宋末期から宋の銅銭流出は盛んで、南宋(一一二七年~一二七九年)になると、ますますこの傾向が進んだため、南宋末期には貿易縮小、また、禁止による流出防止政策がとられた。現在、宋銭は日本を始め、南洋一帯・アフリカ東岸の地域でも発掘・出現している(「楽天ショップ」のここの記載(画像有り)を元にした)。
「泉貨鑑」「和漢古今泉貨鑑」(内題)。江戸中期の丹波福知山藩第八代藩主朽木昌綱(くつきまさつな 寛延三(一七五〇)年~享和二(一八〇二)年:詳しい事績は当該ウィキを見られたい)著で、寛政二(一七九〇)年刊。蘭学に精通している一方で、古銭の収集家としても知られる。
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