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2024/01/20

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「洋人邪法」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

 洋人邪法【ようじんじゃほう】 〔黒甜瑣語三編ノ三〕西洋人本国の皮帛《ひはく》を以て臝婦(はだかをんな)を製す。長短人のごとし。これを匣中《はこなか》に秘し、旅途幽亭無聊《ゆうていぶりやう》の時、匣より出《いだ》し捧げ上げ気を吹けば、忽然として肥沢通鉢《ひたくつうはつ》、真《まこと》の人のごとし。抱きて裳中に擁《やう》すに、雙手交頸《さうしゆかうけい》、両脚勾欄《りやうきやくこうらん》、己《おの》が意のごとし。これを出路美人《しゆつろびじん》と号(なづ)く。一軀《いつく》の価《あたい》銀一流と。一流は十二両を云ふと『曠園雑誌』に検せり[やぶちゃん注:「しるせり」と読むか。]。本邦の吾妻形《あづまがた》なるべし。西洋人の狡計淫欲なる、譬《たとへ》を取るに者なし。或年東都本石町<東京都日本橋本石町>長崎屋へ来りし者、滞留中疾《やまひ》ありて打ちふしけるが、主《あるじ》の妻に乞ひて娘の髪すぢ三四根を貰ひ、薬剤へ調せんと云ふに、妻怪しみ、密かに這子(ほうこ)人形の髪を毟(むし)り、娘の髪なりとて遣はしけるが、その夜《よ》人静まりて、かの這子人形ひたひた歩みして西洋人の寝所に行く。妻見て亭主をゆり起し、その物語りをなせしとなん。これこの家の娘美人にてあれば、西洋人これに懸想して、髪茎(かみすぢ)を以て呪(まじな)ひよする邪法を修《しゆ》せしとかや。泥塑(にんぎやう)の活物(いきもの)ならざるさへかくのごとし。

[やぶちゃん注:「黒甜瑣語」「空木の人」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(明治二九(一八九六)年版)のこちらで視認出来る。標題は『〇吾妻像』。「像」は「がた」と読むのであろう。

「肥沢通鉢」「肥沢」は「つやがあってふとっている」こと。「通鉢」は頭部が備わっていることか。

「雙手交頸」上記リンク先の活字本では、「交頸」に左ルビ(意味添えの際によく行われる)『ひつたり』とある。全体で「両の腕も、ともに、しっかりと装備されてある。」の意か。

「両脚勾欄」両の足もあって、「左右に開脚したり、交差させたりすることも出来る。」の意か。

「曠園雑誌」/清の呉陳琰の著になる中国の民間信仰などの異聞を記した小説集。全二巻。康煕四二(一七〇三)年の序がある。

「本邦の吾妻形」女性生殖器の外陰部の形に作り、男子の自慰に用いる淫具。なお、ここに出るような本格的に女性の前身を真似た、日本人が見た最初の「ダッチワイフ」は、当該ウィキによれば、『英語の Dutch wife(字義的には「オランダ人の妻」の意)は、アジアで使われている、竹や籐で編まれた筒状の抱き枕(竹夫人)を指す』(これは、暑い日に片腕や片足をこれに乗せて寝ることで涼をとる。普通の寝具の一つであり、基本発想及び用法も淫具では全くない。アジアに広く見られ、嘗ては、日本でも使われていた)。さて、等身大型の『ランダムハウスによれば、語の起源は』一八七五~一八八〇『年頃という。その理由は、本国に妻を残してオランダ領インドネシアで取引していたオランダ人商人の境遇に由来すると想像され』ている。『英米では、日本でいうダッチワイフは sex doll と呼び、これを Dutch wife と呼ぶことはまずない』。『性的な使用目的の人形が日本で「ダッチワイフ」と呼ばれだした事情は定かではない。日本のメディアでは』、一九五八『年頃からダッチワイフとの表現が見られる様になり』、一九六七『年頃にはかなり一般にも定着していたとみられる』とある)というべきか。十八歳以上のみ閲覧可のサイト「otona laove」の「ラブドールの歴史」によれば、『十六世紀にフランス人(dame de voyage)とスペイン人(dama de viaje)の船員によって作成され、長い航海中に孤立していました。これらのマスターベーション人形は、多くの場合、縫い付けられた布や古着で作られ、今日のダッチワイフの直接の前身で』、『その後、蘭学時代にオランダ人がこれらの人形の一部を日本人に販売し、日本では「ダッチワイフ」という用語が今でもダッチワイフを指すために使用されることがあ』るとある。]

「東都本石町」「東京都日本橋本石町」(にほんばしほんごくちょう)「長崎屋」ウィキの「長崎屋源右衛門」によれば、彼は、『江戸日本橋に存在した薬種問屋長崎屋の店主が代々襲名した名前で』、『この商家は、日本橋本石町三丁目』(現在の中央区日本橋室町四丁目二番地相当)『の角地に店を構えていた』。『江戸幕府御用達の薬種問屋であった。幕府はこの商家を唐人参座に指定し、江戸での唐人参(長崎経由で日本に入ってくる薬用人参)販売を独占させた。また、明和年間から「和製龍脳売払取次所」の業務も行うようになった』。また、『この商家は、オランダ商館長(カピタン)が定期的に江戸へ参府する際の定宿となっていた』。『カピタンは館医や通詞などと共にこの商家へ滞在し、多くの人々が彼らとの面会を求めて来訪した。この商家は「江戸の出島」と呼ばれ、鎖国政策下の日本において、西洋文明との数少ない交流の場の』一『つとなっていた。身分は町人であるため』、『江戸の町奉行の支配を受けたが、長崎会所からの役料を支給されており、長崎奉行の監督下にもあった』。『カピタン一行の滞在中に』、『この商家を訪れた人物には、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保などがいる。学者や文化人が知識と交流を求めて訪れるだけにとどまらず、多くの庶民が野次馬となってオランダ人を一目見ようとこの商家に群がることもあり、その様子を脚色して描いた葛飾北斎の絵が残されている』(『「葛飾北斎 日本橋本石町長崎屋」早稲田大学図書館』がリンクされてある)。『幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、これはあくまでも建前であり、時期によっては大勢の訪問客と会うことができた。商館員たちは』、『あまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、行動が大きく制限されていた彼らにとって、この商家は外部の人間と接触できる貴重な場の』一『つであった。商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、エンゲルベルト・ケンペル、カール・ツンベルク、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトらがいる』。『カピタンの江戸参府は年』一『回行われるのが通例であったが、寛政』二(一七九〇)年『以降は』四~五年に一『回となり、参府の無い年には』、『カピタンの代わりに通詞が出府した。この商家はカピタン参府と通詞出府の際の定宿として使われていたが、それ以外には全く宿泊客を受け入れていなかった』。『旅宿として使われた建物には、一部に西洋風の内装、調度品が採り入れられていた』。昭和二一(一九四六)年に『運輸省が発行した』「日本ホテル略史」は、『この商家についての記述から始まっている』。また、安政五(一八五八)年十月には、この商家に対し、『「蕃書売捌所(ばんしょうりさばきしょ)」』が『命ぜられ、長崎からの輸入蘭書の販売を行う』ようになった。『また』、『町年寄の樽屋藤左衛門の記録によれば、同年より』、『「西洋銃」の「入札払」いもしていた』とある。以下、「沿革」の項もあるが、長くなるので、リンク先を見られたい。]

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