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2024/01/26

譚海 卷之六 讚岐風土の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]

 

○讚岐は暖(あたたか)なる事、江戶に倍せり。重陽(ちようやう)[やぶちゃん注:旧暦九月九日。既に季秋である。]に、綿入、着用しがたし。只、袖口にばかり、綿を入(いれ)て袷(あはせ)にて用(もちふ)る也。

 霜月中(ちゆう)に、梅花、開落(かいらく)す。正月には、菜の花など、みな、ひらけり。

 讚岐に「佛生山」といふ有(あり)、水戶讚岐守殿、靈屋(みたまや)有(あり)。

 そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)。

 高松の城下より、八嶋へ、壹里、有。八嶋には南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺也[やぶちゃん注:底本に編者傍注があり、『有カ』とする。]。殊の外、景色よき所也。

 その山の周圖には、平家の公達(きんだち)の石塔、あまた、あり。近來(ちかごろ)、佐藤次信[やぶちゃん注:底本に「次」に編者傍注があり、『(繼)』とある。]の石塔、幷(ならび)に、石碑の文など、領主より、えらみ立(たて)られける、とぞ。

 八嶋の海濱、卽(すなはち)、東の方は「壇の浦」なり。西の方は「むれ」といふ。「だんのうら」に、那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり。盬(しほ)[やぶちゃん注:「潮」。]のひるときは、見ゆる。潮、きたれば、かくるゝなり。

 八嶋寺のうしろは、毛氈(もうせん)を敷(しき)たるやうに、草、みじかく、たひらかに、よき地也。こゝにのぼりて見れば、高松の城、目下に見ゆ。

 その北の海邊に、さし出(いで)たる岩あり、「獅子の靈岩石」といふ奇石なり。

 又、丸龜より「だんの浦」へは、七里あり。

 崇德院の御跡(みあと)を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有。

 又、「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有。

 さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山(ごけんざん)」・「象頭山(ざうづさん)」・「飯(いひ)の山」などいふもの也。

 「飯の山」は富士山に似たり。西行上人の歌とて、

   さぬきにてふじとやこれをいひの山

       朝げのけぶりたゝぬ日もなし

と、いひ傳へたりとぞ。

 又、さぬきに「彌谷(いやだに)」といふ寺、有。山中にて、石に、皆、佛像を、ゑり付(つけ)てあり。その奧の山の絕頂の岩に、おびたゞしく、梵字、ほりて有。人力のおよぶわざに見えず。その石屛風を立(たて)たる如き、見物なり。

 寺は、山の八分めにあり、梵字のある所は夫(それ)より絕頂までに有。

[やぶちゃん注:「佛生山」「水戶讚岐守殿、靈屋有」香川県高松市仏生山町(ぶっしょうざんちょう)にある讃岐国高松藩藩主松平家の墓所(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。「般若台」(はんにゃだい)と呼ぶ。「そこに、涅槃の木像、有。鳥・獸・人物まで、みな、木像にて作有(つくるあり)」とあるが、現存するのかどうかは、不明。一般人の墓地と一緒になっているとあるから、写真不可とも思えないが、ネット上には、木像群の写真は、ない。

「八嶋」「南西山八嶋寺といふ弘法大師開基の寺」これは、南面山千光院屋島寺の誤り。ここに現存する。サイト「四國八十八ケ所靈場會」の同寺の解説によれば、『天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ』、五『度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝』五(七五三)年に『苦難のすえ』、『鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で』、『山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち』、『和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し』、『初代住職になった』。弘仁六(八一五)年、『弘法大師は嵯峨天皇』『の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている』とあった。

「佐藤次信」(繼信)「の石塔」「石碑の文」佐藤継信(久安六(一一五〇)年?/保元三(一一五八)年?~元暦二(一一八五)年)は源義経の家臣。「源平盛衰記」では「義経四天王」に数えられている。「狐忠信」で知られる佐藤忠信の兄で、奥州藤原氏の家臣佐藤基治の子。詳しくは、当該ウィキを見られたいが、その「嗣信最後」の項には、「平家物語」巻第十一「嗣信最後」での『継信の最期の様子』が、以下のように略述されてある。「屋島の戦い」に『おいて、王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされないものはなかった。なかでも源氏の大将である義経を一矢で射落とそうとねらったが、源氏方も一騎当千の兵たちがそれを防ごうと矢面に馳せた。真っ先に進んだ継信は』、『弓手の肩から馬手の脇へと射抜かれて落馬した。義経は継信を陣の後ろにかつぎこませ、急いで馬から飛び下り』、『手を取って、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は「別に何事も思い置くべきことはない。しかし、主君が世の中で栄達するのを見ずに死ぬことが』、『心に懸かることです。武士は、敵の矢に当たって死ぬことは』、『元より』、『期するところです。なかでも、源平の合戦に奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、讃岐の国屋島の磯で、主に代わって討たれたなどと、末代までの物語に語られることこそ、今生の面目、冥途の思い出です』。」『と答えて亡くなった。義経は』、『鎧の袖を顔に押し当て』、『さめざめと泣き、近くに僧がいないか探させ、その僧に大夫黒』(たゆうぐろ)『という鵯越を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。継信の弟の忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べた』とある。この「石塔」(墓)と「石碑の文」は、ここに現存する。サイド・パネルの画像を見られたい。なお、本来の墓は、馬(そこでは「太夫黒」とする)とともにここ(香川県高松市牟礼町(むれちょう)牟礼)にある。

「壇の浦」長門の平家滅亡の「壇ノ浦」とは別。紛らわしいので、私は「屋島檀の浦」と呼ぶべきであると思っている。ここ。現在は浦の奥部分が干拓されてしまっており、往時の面影はない。

『那須與市、扇の的をいたるときの「目じるしの石」といふあり』「與市」は後代の琵琶曲の語り物その他での表記にはある。正しくは「與一」である。「扇の的」はここで、那須与一が馬を乗りこして矢を放った岩礁は「源平合戦の駒立岩」はここ。正直、干拓されて、ショボ過ぎる。実際の射た距離は約七十五~七十七メートルとされるが、以上の場所は五十五メートル弱しかない。

「高松の城」ここ

「獅子の靈岩石」「獅子の霊巌展望台」附近だが、サイト「Tripadvisor」の「獅子の霊巌石の標識と展望台」skyt2831さんの投稿に、『展望台の』「れいがん茶屋」『の基礎となっている岩体です。石の標識はあるものの、岩体自体は、展望台から降りることができず、周辺から形状も見ることができないため、どのようなものか見ることができません。なお、展望台からは、屋島で有名なかわら投げをすることができます』とあった。そこにある画像を見るに、確かに、「獅子靈岩」と彫られたものらしき石柱はある。

「丸龜」香川県丸亀市

『崇德院の御跡を、今は「白鳥明神」と申奉る。丸龜の内に有』この「白鳥明神」は「白峰明神」の誤りであろう。現在の香川県坂出市西庄町(にしのしょうちょう)弥蘇場(やそば)にある。少なくとも、現在は丸亀市内ではない崇徳院の関連地を複数ドットした地図を掲げておく丸亀市内には崇徳関連跡は、全く、ない。

『「むれ」には、平家の内裏跡の總門のあとなどいふ所、有』思うに、正式に行宮(あんぐう)として檀ノ浦に置かれたそれは、現在の安徳天皇社附近である。それ以前に、一時期、置かれた初期の行宮は、檀ノ浦の湾奥のここに総門跡がある。

『さぬきに「五嶽」有(あり)、「五劍山」・「象頭山」・「飯の山」などいふもの也』「五嶽」は本文が誤魔化しているように、名数がよく判らない。「ひなたGPS」で「象頭山」をポイントしておいた。「五岳山」が善通寺市内にあるが、ここに出る三つの山とは一致しない。最初の「五劍山」が五つのっピークを持つ「五岳山」であろうと推定はするが、どうも調べる気にならない。どうぞ、ご勝手に五つ数えて下さい。

「飯の山」飯野山。確かに「富士山に似た」かなり綺麗なコニーデだ。

「西行上人の歌」「さぬきにてふじとやこれをいひの山朝げのけぶりたゝぬ日もなし」整序すると、

   *

 讚岐にはこれをや富士といひの山

  朝げの煙(けぶり)たやぬ日ぞなき

   *

伝承の域を出ない。「山家集」にはない。こちらの「西行の歌伝説」には、『巡検使鈴木氏』の『歌に同様の歌あり』とあった。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」の『西行の歌と伝えられる「讃岐にはこれをば富士といいの山 朝げ煙たたぬ日はなし」の初出などについて<飯野山(讃岐富士)・西行・玉藻集>』の質問に対する答えに、「讃岐名所歌集」(赤松景福著・高松・上田書店・一九二八年刊)の「第十三 飯山」の項に『飯山はイヒノヤマといふ。綾歌郡坂元村にあり。海抜二百四十四尺、平野間に突立し四面より之を望むに端麗なり。昔より讃岐富士の称あり。此山は登覧を労せず、西讃途上よく眺めらるる。玉藻集六。

  さぬきにはこれをやふじといひの山朝けの煙たゝぬ日ぞなき

此歌西行法師四国修行之時歌とあり。全讃史十二、名勝志。飯の山(川津二村坂元に跨れり)国の中央に有て其の形富士山に似たり。讃岐富士と云。巡検使鈴木氏歌「讃岐には是をや富士と飯の山朝けの煙立たぬ日はなし」とあり。(結句何れにてもよし)西行山家集には此歌見えず。幕府代替毎に来讃せし巡検使姓名を見るに鈴木はなし。但し延享三年(家重)寛政元年(家斉)両度の人不明なり。或は其内か。』とあった。

『さぬきに「偏谷」といふ寺、有』香川県三豊(みとよ)市三野町(みのちょう)にある真言宗善通寺派大本山剣五山 (けんござん)千手院弥谷寺(いやだにじ)。公式サイトのこちらによれば、『奥之院 獅子之岩屋』として、『大師堂の堂内奥にあり、岩屋の入口が獅子の咆吼に見える事から獅子之岩屋と呼ばれ、難儀をはらい』、『身心を清浄にしてくれるといわれています』。『奥之院本尊は厄除大師、両脇に母君・父君、岩肌に摩崖仏が修行僧(伝・空海)により刻まれています』とあり、『願掛け地蔵(お水まつり)』として、『弥谷山では、水場の洞窟が神仏の世界(須弥山)への入口として信仰されたといわれ、修行僧により刻まれた磨崖仏や修行の洞窟が今も山内にまつられています』とあって、小さな写真が挙げられてあるが、そこにはっきりと梵字の刻印が確認出来る。]

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