譚海 卷之六 宇治黃檗山佛師范道生が事 / 卷之六~始動(ルーティン仕儀)
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
譚 海 卷の六
〇隱元禪師、來朝の時、范道生(はんだうせい)といふ佛師を具せられたり。
此道生、字(あざな)は「石甫」といひ、又、「印官」とも稱せり。
禪師、宇治黃檗山(わうばくざん)建立の時、彼(かの)寺の諸佛像は、みな、此(この)范道生の造(つくり)たる、とぞ。
木像・塑像、或(あるい)は、紙にて張立(はりたて)たるもあり。
神彩(しんさい)、生動(せいどう)するが如く、殊に奇工也。
當時、本邦の佛師、皆、范道生が弟子に成(なり)て、其業(そのわざ)を習傳(ならひつた)ふる事とせし、とぞ。
されども、道生、歸國の念、頻(しきり)にして、諸佛造立の後(のち)、本尊計(ばかり)は、其雛形も、くろみたるまゝにて、自(みづから)造(つくる)に及ばず、歸國せし、とぞ。
其跡にて、弟子の諸佛師、雛形にもとづきて、本尊をば、造(つくり)たり。
本尊は、丈六の釋迦にて、名工のもくろみたるゆゑ、諸像にかはらず、妙、巧(たくみ)を具したる事、とぞ。
檗山にては、「印官」と稱すれば、小僧までも、よく知りて、口實(くじつ)にする事也。
范道生、畫(ゑ)も奇品なるものにて、その書(かき)たるを見たりしに、本邦の草畫(さうが)の如く、人物、殊に奇怪成(なる)もの也。
京師に唐畫(からゑ)をかけるもの共も、常に檗山にあそびて、范道生が造(つくり)たる像を觀諦(くわんてい)して、その氣韻を寫す事とせし、とぞ。
[やぶちゃん注:「隱元禪師」(文禄元(一五九二)年~延宝元(一六七三)年)は明の僧。福州の人。承応三(一六五四)年、来日。山城宇治に黄檗山万福寺を開いた日本黄檗宗の開祖。所謂、「黄檗文化」を移入し、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えた。語録「普照国師広録」などがある。
「范道生」(一六三七年~一六七〇年)は明末に生まれた清代の仏師。日本に渡来し、萬福寺などで仏像彫刻する傍ら、画もよくした。字を石甫、通称を印官と称した。福建省泉州府晋江県安海の出身。参照した当該ウィキによれば、『官に仕え』、『印官の職にあったことで印官范道生と呼ばれた』。万治三(一六六〇)年に、明の渡来僧『蘊謙戒琬』(うんけんかいわん)の『招きに応じて』、『長崎に渡来し』、『福済寺に寓居して仏像を彫った。寛文』三(一六六三)年、『隠元隆琦に請われ』、『萬福寺に上り、弥勒菩薩像・十八羅漢像などを製作』し、『また』、『隠元の彫像をチーク材で製作している。仏像彫刻の』傍ら、『道釈人物図などを好んで画いた。寛文』五(一六六五)年、父の『賛公』の七十歳の賀を『祝うため』、『長崎にから便船に乗って広南に帰省』した。寛文一〇(一六七〇)年(既に明は滅んでいた)に『再来日したが、長崎奉行所は入国を許可せず、木庵性瑫』(しょうとう 一六一一年~ 一六八四年:明の渡来僧。黄檗山の隠元の法席を継いだ)が、『図南や瑞峰を使いに出して調停したが』、『不調に終わる。同年』十一月二日、『船中で吐血し』、『病没』した。『享年』三十六。長崎の『崇福寺に葬られた』とある。
「草畫」略筆の絵画。水墨、淡彩で、礬水(どうさ:明礬(みょうばん)を溶かした水に、膠(にかわ)を混ぜた液。墨や絵の具などが滲むのを防ぐために紙・絹などに塗る。「陶砂」とも書く)をひかない紙に書く。特に南画に多い。]
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「和野の怪事」 / 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」~完遂 | トップページ | 譚海 卷之六 京都祇園住人大雅堂唐畫の事 »