フライング単発 甲子夜話卷十 23 凶兆信ず可からざる事
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。]
10-23
奇事にも、似たること、あるものなり。
水戶の老故の中山備州【信敬。】は、予、嘗て、屢々、懇會(こんくわい)せり。
一日(あるひ)、語る。
「一年(ひととせ)、封邑(ふういう)に往(ゆき)しとき、正月元日、天、晴(はれ)て、殊に融和(ゆうわ)なるに、俄(にはか)に、雷鳴一聲して、卽(すなはち)、震(しん)し、居城の本丸に墜(おち)たり。時に、鶴、空中に翔(かけ)り居(ゐ)たると覺えて、雷に擊(うた)れて、これ亦、城に落つ。時、人皆(ひとみな)、以て、『凶兆。』とす。備州、性、豪壯、これを憂(うれひ)とせず。其年、終(つひ)に不祥のことなし。」
と云(いふ)。
また、何(いづ)れの年か、林祭酒の釆地、この近方(きんほう)なるが、これも元日、天、快朗なるに、雷一聲して、震し、田中(たなか)に集(あつまり)し鶴、三羽を、擊殺す。
二羽は粉韲(ふんさい)[やぶちゃん注:「粉碎」に同じ。]し、一(いつ)は片翼(かたつばさ)を損壞して、死す。
その地、官(くわん)の「捉飼場(とらへかひば)」[やぶちゃん注:鷹狩の鷹の飼養・訓練に使用された鷹場。]の故(ゆゑ)を以て、村長(むらをさ)より、鷹坊(たかばう)の長(をさ)に告ぐ。官吏、來りて、檢察す。
林氏(りんし)の臣民、皆、
「不吉。」
として、喜ばず。
林氏も亦、豪壯漢(がうさうかん)なれば、少しも、意に芥蔕(かいたい)[やぶちゃん注:「芥」は「芥子(からし)粒」、「蔕」は「小さな刺(とげ)の意で、「胸の痞(つか)え。僅かな心の蟠(わだかま)り」の意。或いは「極めて僅かなこと」。]せず。
然(しか)るに、其冬、格式を進め、且、家祿を加增せられし慶びありし、となり。
■やぶちゃんの呟き
「水戶の老故の中山備州【信敬。】」中山信敬(のぶたか 明和元(一七六五)年~文正三(一八二〇)年)は常陸太田藩・松岡藩の当主で、水戸藩附家老にして中山家十代。参照した当該ウィキによれば、『常陸太田藩・松岡藩の当主。水戸藩附家老・中山家』十『代』。第』五『代水戸藩主・徳川宗翰の九男で、第』六『代藩主・徳川治保の弟である。母は三宅氏。正室は中山政信の娘。子は中山信情(三男)、娘(米津政懿継々室)、娘(中山直有正室)、娘(山口直温室)。官位は従五位下、備前守、備中守。通称は大膳。初名は信徳』。明和八(一七七一)年、八『歳のときに先代・中山政信の臨終の席で』、『その娘を迎え、婿養子となって中山家の家督を相続した』。安永八年十二月十六日(既にグレゴリオ暦では一七八〇年一月)、『備前守に叙任する。その後、年月不詳ながら、備中守に遷任する』。文政二(一八一九)年、『病気(中風)をきっかけに』、『家督を三男の信情に譲って隠居することを命じられ、藩政をしりぞく。一貫斎と号したが、翌年』、『没した』。『信敬は藩主の子として生まれたため、末子であっても』、『大名家の養子となる資格があったが』、二万五千石の『陪臣の養子となったことに不満があったと推測される。附家老として藩主の兄を補佐し、藩政を掌握すると』、『中山家の地位を向上させることに尽力した』。享和三(一八〇三)年十一月には、『太田村から』、『かつての松岡に知行替えをした。地位向上運動は藩内にとどまらず、幕府に対しても』文化一三(一八一九)年一月から、『老中水野忠成に、八朔五節句の江戸城登城について』、『藩主随伴ではなく』、『単独で登城できるように陳情を始めた。この陳情は中山家だけでは実現できそうもなかったため、同じ附家老の尾張成瀬家や紀州安藤家と連携をとって家格向上に努めた』とある。
「林祭酒」お馴染みの林述斎。
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