譚海 卷之六 甲州身延山幷南部由來の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。]
○南部は、元來、甲州の在名也。
新羅三郞義光より、十四代の孫、南部六郞實長といふ人、鎌倉の時にあたりて、日蓮上人に値遇(ちぐう)し、信仰のあまり、居所(きよしよ)を上人に施與(せよ)して、寺、建立せり。
是、今の身延山の地也。
其後、實長の子孫、奧州に移居(いきよ)して、東邊(とうへん)の地を押領(わうりやう)し、卽(すなはち)、甲州の地名を稱して、住す。
今の、南部侯、此也。
さて、實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり。
此ゆゑによりて、今も、身延山住持、代がはりのときは、南部殿より、賀使(がし)を立(たて)らる。その使に、ゆかるゝ人は、奧州、南部・津輕さかひの城(しろ)、八戶(はちのへ)彌六郞とて、南部家の一門にて、一萬三千石領する人、いつも發足(ほつそく)[やぶちゃん注:賀使として遠い奥羽の南部を出立すること。]ある事、とぞ。
[やぶちゃん注:「南部は、元來、甲州の在名也」山梨県の最南端の南巨摩郡南部町(なんぶちょう:グーグル・マップ・データ)。ここに書かれてある、奥羽の最奥の「南部藩」との関係性は、「南部町」公式サイトのこちらの「歴史」の項にも(太字下線は私が附した)、『本町の歴史は古く、天神堂遺跡(てんじんどういせき)に代表されるように』、『遠く先史土器時代から集落が形成されていた』。『鎌倉期には』、『源頼朝』『に従い』、『戦功のあった南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)が南部を与えられ』、『この地を領し』、『その後』、『奥州に移り』、『糖部五郡(現代の青森』・『岩手の一部)の広大な地を与えられ』、『南部藩を築いている』と、はっきり書かれてある(なお、『近世』、南部『町は河内領』『に属していた』ともあるので、注意が必要)。
「南部六郞實長」底本の後注で、この人物は南部三郎光行の子であった『南部実光』(本文の「實長」は実光の弟なので注意が必要。但し、この実長も日蓮の有力壇越として知られ、日蓮を身延山に誘ったのは、実光ではなく、この実長であったようであるから、以上の記載の方が真実を語っている(後注参照)。当該ウィキを見られたい)『は日蓮の身延山開基に力を致すところ大であった』とあった。しかし、ウィキの「南部実光」を見ても、日蓮も身延山も書かれてはいない。而して、ウィキの身延山の「久遠寺」を見ると(太字は私が附した)、文永一一(一二七四)年、『甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)』(☜)『が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き』、『西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した』とあるのである。
「實長は、次男をば、日蓮上人の弟子となし、某といふ。是、身延山二代目の上人なり」これは誤りである。日蓮宗総本山身延山久遠寺の二世は日向であるが、当該ウィキによれば、『生まれは、安房国男金』、『もしくは上総国藻原』、『と諸説ある』とあるが、彼が「実光」或いは「実長」の子とする記載は、ない。]
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