甲子夜話卷之八 4 麒祥院所藏牧溪の畫
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだがが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]
8-2
壬午(みづのえうま)の春、天祥寺に詣(まうで)たるとき、南道老和尙の話(はなせ)しは、
「湯嶋の麟祥院に、牧溪(もつけい)の畫(ゑがき)し寒山拾得、豐干禪師の大幅あり。其畫、中ばかり、戶一枚の大さもやあらん。此國を彼(かの)院より、水戸侯に呈して、金五百鐐(りやう)[やぶちゃん注:「鐐」は良質の銀を指すが、ここは「兩」に同じであろう。]に購(あがなひ)せられしとなり。何なるものか視たく欲(ほし)き也。又、聞く、この圖の始(はじめ)は、滕益道(とうえきだう)と云(いへ)る書家、臘月[やぶちゃん注:十二月の異名。]に持來(もちきたり)て、南道の師なる雄峯和尙に售(うら)んと謀る。時窮陰にて、峯も、金、乏(とぼし)きを以て、これを麟祥院に轉送す。これ其畫なり。」
と云。
其本(そのもと)、何れより出(いで)たるか。
■やぶちゃんの呟き
「壬午」文政五(一八二二)年だが、「臘月」(十二月の異名)は既に一八二三年一月から二月相当。
「天祥寺」現在の東京都墨田区吾妻橋にある臨済宗妙心寺派向東山(こうとうざん)天祥寺(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)。当該ウィキによれば、寛永元(一六二四)年に『創建された。現在の台東区にある海禅寺が兼帯する寺院として建てられ、当初の名称は「嶺松院」であった』。元禄六(一六九三)年、静山の高祖父『平戸藩』第四代『藩主松浦鎮信』(しげのぶ)が、『海禅寺より』、『嶺松院を譲り受け』、優れた禅僧として知られる『盤珪国師を中興とした』。正徳六(一七一六)年、静山の曽祖父の第六代藩主松浦篤信(あつのぶ)の時、『近くに松嶺寺という寺号が類似する寺があり』、『紛らわしいため、鎮信の戒名「天祥院殿慶厳徳祐大居士」』『から、「天祥寺」に改名した』とある。
「湯嶋の麟祥院」臨済宗妙心寺派天澤院麟祥院。
「牧溪」(生没年未詳)宋末元初の禅僧画家。法諱は法常。杭州西湖の六通寺の開山となったが、宰相賈似道(かじどう)を非難して追われ、紹興に逃げた。画は龍虎・猿鶴・山水・人物など、あらゆる画題をよくし、多くは水墨で、甘蔗の搾り滓や藁筆を用いて描いた。中国ではあまり高く評価されていないが、本邦では、室町以降、「和尚絵」と呼ばれ、珍重されてきた。代表作は大徳寺蔵「観音猿鶴図三幅」。
「寒山拾得」唐代の寒山と拾得の二人の詩僧。寒山が経巻を開き、拾得が箒を持つ図は、禅画の画題として頓に知られる。
「豐干禪師」(生没年未詳)唐代の僧。天台山国清寺にいたと伝えられ、寒山・拾得の二士を養い、後世、併せて三聖と呼ばれる。