柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「雷獣」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
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雷獣【らいじゅう】 〔甲子夜話巻八〕この二月十五日の朝、俄かに雷雨したるが、鳥越袋町<東京都台東区浅草鳥越>に雷落ちたり。処は丹羽小左衛門と云ふ人(千石)の屋敷の門と云ふ。その時門番の者見居たるに、一火団地へ墜るとひとしく雲降り来て、火団はその中に入りて雲に昇れり。その後に獣残り居たるを、門番六尺棒にて打ちたるに、獣走りにげ門続きの長屋にゆき、またその次の長屋に走り込しを、それに住める者、有合ふ者にて抛打に為たれば、獣その男の頰をかきさき逃失せたり。因て毒気に中りたるか、この男はそのまゝ引臥したりと。また始め雷落ちたるとき、かの獣六七も有りたると覚えしと門番人云ひけるが、猫より大きく、払林狗《ふつりんく》[やぶちゃん注:狆(ちん)の異名。]の如くにして、鼠色にて腹白しと。震墜の門柱に爪痕あり。この事を聞き、行人群集して、常々静かなる袋町も忽ち一時の喧噪を為しとなり。その屋敷は同姓勢州が隣にて、僅かに隔りたる故、雷落ちし頃は別て雨強く、門内敷石の上に水たゝへたるに、火光映じて門内一面に火団飛び走るかと見えしに、激声も烈しかりしかば、番士三人不ㇾ覺うつ伏になり、外向に居し者は顔に物の中る如く覚え、半時ばかりは心地悪くありたると、勢州の家人物語せり。 〔同巻十一〕谷文晁《たにぶんてう》の云ひしと又伝《またづて》に聞く。雷の落ちたるとき、その気に犯されたる者は、癈忘《はいばう》して遂に痴となり、医薬験《しるし》なき者多し。然るに玉蜀黍《たうもろこし》の実を服すれば忽ち愈ゆ。或年高松侯の厩に震して馬うたれ死す。中間は乃《すなは》ち癈忘して痴となる。侯の画工石膓と云ふものは、文晁の門人なり。来りてこれを晁に告ぐ。晁因て玉蜀黍を細剉《さいさ》[やぶちゃん注:細かく砕くこと。]して与ふるに、一服にして立どころに平愈す。また彼《かの》晁本郷に雷獣を畜ふものありと聞き、その貌《すがた》を真写《しんしや》せんとして彼《か》しこに抵(いた)り就《つき》て写す。時に畜主《かひぬし》に問ふ。この獣を養ふこと何年ぞ。答ふ、二三年に及ぶ。また問ふ、何をか食せしむ。答ふ、好んで蜀黍《もろこし》を喰ふと。晁この言を不思議として人に伝ふ。いかにも理外のことなり。 〔北窻瑣談巻四〕下野国烏山《からすやま》<栃木県那須郡烏山>の辺に雷獣といふものあり。その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居《みゐ》るに、夕立の雲興り来る時、その雲にも獣の乗らるべき雲と乗りがたき雲有るを、雷獣よく見わけて、乗らるべき雲来《きた》れば、忽ち雲中に飛入《とびいり》て去る。このもの雲に入れば、必ず雷《らい》鳴るにもあらず。唯雷になるとのみ云ひ伝へたり。またその辺《あたり》にては、春の頃雪をわけて、この雷獣を猟《か》る事なり。何故《なにゆゑ》といふに、雪多き国ゆゑに、冬作(ふゆさく)はなしがたく、春になりて山畑《やまばた》に芋を種(うう)る事なるに、この雷獣、芋種《いもだね》を掘り喰《くら》ふ事甚だしきゆゑ、百姓にくみて猟る事とぞ。これ漢土の書には、雷鼠《らいそ》と書きたりと、塘雨《たうう》語りし。〈『閑田次筆巻三』に雷獣の事がある〉
[やぶちゃん注:前者の「甲子夜話」の二話は、カップリングして事前に「フライング単発 甲子夜話卷之八 8 鳥越袋町に雷震せし時の事 + 同卷之十一 15 雷火傷を治る藥幷雷獸の食物」で、ガッツりと読みと割注を入れて電子化しておいた。また、「北窻瑣談」は「網に掛った銘刀」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第四巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちらで当該箇所が視認出来る(右ページ後ろから四行目以降)。
「下野国烏山」「栃木県那須郡烏山」この辺り(グーグル・マップ・データ)。
「その形、鼠に似て大きさ鼬より大なり。四足の爪甚だ鋭(するど)なり。夏の頃、その辺の山諸方に自然に穴あき、その穴より、かの雷獣首を出し空を見居る」こりゃ、もう、最初のリンク先で言ったニホンアナグマでしょう!
「これ漢土の書には、雷鼠と書きたり」とあるが、「漢籍リポジトリ」で調べたが、中国で「雷獸」を「雷鼠」と称した記載は見当たらない。「雷鼠」があったのは、「百癡禪師語錄卷第五」(嗣法門人超宣等編)の以下の一件のみである。
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嘉興金粟山廣慧禪寺語錄」隱野長老請上堂三十九年前無雲萬里天三十九年後一步強一步政當三十九袖破露出手廣慧室內添籌金粟山頭點首驀然一喝迅如雷鼠怪狐妖沒處走諸禪流還會否會則道我賣弄風騷不會道我簸揚家醜家醜風騷只自知年年初度在斯時常愛畫樑紫燕呢喃語也有對對啣花水際飛擊拂子下座。
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これは比喩で使用されているだけで、「雷鼠」の実体は不明である。中国語ウィキ版の「雷兽(妖怪)」は、その全文が、日本語版の中国語訳に過ぎず、「根据《山海经》记载,在中国神话中有一夔,其叫声如雷,故有指日本雷兽的传说是起源于此的。」とあるのは、日本語版「雷獣」で、『中国神話には夔(き)という妖怪がおり、中国最古の地理書といわれる『山海経』には、夔の吠え声は雷の轟きのようだとの記述があるが、この夔が日本における雷獣伝承の起源になったとの説もあるほか』、『山梨県笛吹市の山梨岡神社に伝来する夔神像のように』、『在来の道祖神や山の神に対する信仰が夔神に結びついて成立した民俗も見られる』とあるのを、無批判に抄録訳しただけのものであって、中国で独自に考察されたものではない。ウィキの「夔」によれば(下線太字は私が附した)、『元は殷代に信仰された神で、夔龍とも呼ばれる龍神の一種であった。一本足の龍の姿で表され、その姿は鳳と共に夔鳳鏡といった銅鏡等に刻まれた。鳳が熱帯モンスーンを神格化した降雨の神であった様に、夔龍もまた降雨に関わる自然神だったと考えられており、後述の『山海経』にて風雨を招くとされるのもその名残と思われる。後に一本足の牛の姿で表されたのも牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためとされている。一本足は天から地上へ落ちる一本の雷を表すともいわれる』。「山海経」の『第十四「大荒東経」によれば、夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡ったという。『繹史』巻五に引用されている『黄帝内伝』によれば、この太鼓は黄帝が蚩尤と戦ったときに使われたものだという。また『山海経広注』に引用されている『広成子伝』によると蚩尤が暴れるのをとめたのは夔ではなく同音の軌牛であったという』。『山梨県笛吹市春日居町鎮目に鎮座する山梨岡神社には、一本脚の神像が伝わっており、「山海経」に登場する夔(キ)の像として信仰を受けている』。十『年に一度(現在では』七『年に一度)』四月四日に『開帳され、雷除け・魔除けの神として信仰されている』。『また、山梨県では山の神に対する信仰や雨乞い習俗、雷信仰などの山に関する信仰、神体が一本脚であるという伝承がある道祖神信仰が広く存在し、夔神信仰が受け入れられる背景にもなっていたと考えられている』とある。因みに、中国語版ウィキ「夔」は、やはり、日本語版に比べて、別な考証はなく、独自記載も乏しい。
「塘雨」百井塘雨(ももいとおう)。『百井塘雨「笈埃隨筆」の「卷之七」の「大沼山浮島」の条(「大沼の浮島」決定版!)』の冒頭注を参照されたい。彼がそう書いているという書は見出せなかった。「語りし」だから、直談なのであろうが、前注の通りで、信がおけない。塘雨は、多分に、博覧強記を気取る傾向がある人物である。
「閑田次筆」「閑田次筆」「応声蟲」で既出既注。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』 第七巻(昭和二(一九二七)年国民図書刊)のこちら(左ページ後ろから二行目以降)で正規表現で視認出来る。次のコマに奇体な「雷獸」の図がある(私の知っている「雷獸」の図の中では、最もグロテスクである。ただ、記事が甚だ短く、別書からの引用図に過ぎないので、信用出来ないと宵曲は考えて採用しなかったものとは思う。個人的には、ぶっ飛んだ雷獣図として、看過出来ないものであり、以前から、電子化したいと思っていたので、以下に画像とともに上記底本で電子化しておくこととする。図は吉川弘文館『随筆大成』版のものをトリミング補正して添えた。
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〇僧玉屑東國行脚の記をあづま貝となづくその中に雷獸をとりたることをかきて其圖を出されたるは狸に類すしかるに此ごろある人のしめせる所左のごとし。虛實はしらずといへどもいとたしかなることゝ其人のいへるまゝこゝに圖をあぐ。
キャプションは、『享和元年五月十日比藝州九日市里』『塩竃へ落-入死ス雷獣の圖大サ曲が尺一尺四五寸』である。「享和元年五月十日」はグレゴリオ暦一八〇一年六月二十日。ニホンアナグマは四月頃まで冬眠するので、出現に違和感はなく、同種の体長は四十~六十センチメートル程度で合致する。「藝州九日市里塩竃」は思うに、現在の広島県庄原市西本町で行われる「しょうばら九日市」(くんちいち:今から四百四十年前に物々交換で始まった市)を地名として取り違え、同広島藩の諸郡では塩田が盛んであったを、「庄原(しやうばら)」と「塩竃(しほがま)」とを、玉屑が聴き違えたものかとも思われる。
「玉屑」(ぎょくせつ 宝暦二(一七五二)年~文政九(一八二六)年)は熊本出身の浄土真宗僧で、俳人としても活躍した。栗本氏。別号は無夜庵(むやあん)。僧名は観応。幾つかの寺の住職を歴任し、示寂は加古川光念寺。俳諧は青蘿に師事し、青蘿の没後、「栗の本」を継承した。淡路から栗本庵のある加古川に移住し、師の芭蕉顕彰を引き継ぎ、各地に芭蕉句碑を建立し、記念の集を編んでいる。また、青蘿に引き続き、二条家俳諧宗匠も務めた。「あづまがひ」は寛政一二(一八〇〇)年刊の、寛政六~七年の行脚をもとにした紀行集で、芭蕉の足跡、及び、名所旧跡・伝説逸話を綴ったもの。外題「景遊勝覧 阿都満珂比」で全五巻。当該部は「巻之五」で、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここと、ここ(図。確かに如何にもホンドタヌキかニホンアナグマらしく見える。図の右手に描かれている犬らしきものと比較されたい)、ここで視認出来る。]
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