フライング単発 甲子夜話續篇卷四 8 丹羽長秀ノ腹中より出る蟲の事幷圖 / 9 牛黃圓の方
[やぶちゃん注:現在、作業中である柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」のために必要となったので、フライングして、句読点の変更・追加と、読み・記号・改行・段落を加えた。図は底本の画像をOCRで取り込み、トリミング補正した。但し、キャプションは薄く、なかなか判読に苦労した。判読出来ないものは□で示した。漢文の読みに踊り字「〱」があるが、「〻」に代えた。また、関連する「9」も合せて電子化した。]
4―8 丹羽長秀ノ腹中より出(いづ)る蟲の事幷(ならびに)圖
「秀吉譜」云(いはく)、『元龜十三年四月、丹羽五郞左衞門長秀逝ス。年五十一。長秀平生有テ二積聚之病一、甚苦ムㇾ之ニ。至テㇾ是ニ不ㇾ勝二其痛苦一。乃引ㇾ刀自裁ス。火葬ノ後、灰中ニ揆三出ス積聚未ダルヲ二焦盡サ一。其爲ルㇾ物也、大如クㇾ拳、形ハ如シ二石龜一。其啄尖曲テ如シㇾ鳥。刀ノ痕在ㇾ背ニ。秀吉見テㇾ之ヲ曰。此是奇物也。醫家當ニキㇾ有ルㇾ之物也ト。卽賜フ二竹田法印一。』
予、嘗(かつて)讀(よみ)て、こゝに至(いたり)て、此物を觀んことを欲す。
時、幸(さいはひ)に古法印の孫なる、今の竹田法印の門人某、予が邸(やしき)に出入する者あり、これに就き、書を法印に贈(おくり)て、
「此物の傳ふるを見ん」
と、請ふ。
法印門人、某に託して、予に借(か)す。廼(すなはち)、時に摸寫(もしや)す。
然(しか)るに、『譜』の所ㇾ云(いふところ)と、同・異あり。
其記、幷に、摸圖(うつしづ)。
[やぶちゃん注:キャプションは、右側が、上から、
「背圖」・「脇面ノ圖」・「腹圖」
で、左側が、上の「背圖」の脇に、
「背ニアルハ長秀
刀痕□三□云フ者」
(下の□は「所」か? 前は理屈からは「跡」が相応しいとは思うが、そうは見えない。(へん)は「言」に見える)
とあり、中の「脇面ノ圖」の脇には、
「コノ眞ハ木形ニ乄
彩色セシ者ナリ
二重ニ納ム」
と、ある。]
『内匣ノ銘ニ、鱉瘕記、丹羽越前守長秀ハ者、太閤秀吉公ノ近臣、武雄過グㇾ人。久ク患二一疾一腹中每ニ不ㇾ安。適〻病大發シ、困悶シテ殆欲レ絕セント。自謂。此病ハ是積蟲也。大丈夫死セバ則死ン矣。豈爲二此ノ積蟲一而殺サレン乎。遂取二短刀ヲ一刺ㇾ腹ヲ、而得テㇾ蟲而死矣。其蟲之狀、似ㇾ鱉而能步ム。公雖下命ジテ二侍醫一爲ㇾ之投ルト上ㇾ藥、經ㇾ日尙不ㇾ死セ。於ㇾ是命ジテ二吾ガ家祖竹田法印定加一、按ゼシムレ方ヲ。投ルトキハ二一匕ヲ一、以則其積蟲卽死ス矣。因賞二其功一賜二其蟲一世々相傳テ爲ト二家寶ト一云。天明七稔丁未之夏、竹田公豐謙、予、書ス。』【『長秀刺ㇾ腹、得ㇾ蟲而死。』。すれば、灰中未二焦盡一と云(いふ)と異なり。「譜」の文、恐(おそら)くは誤(あやまり)にして、竹田の家傳を是(ぜ)とすべし。】[やぶちゃん注:底本では、以上の割注は『欄外注記』とある。]
外匝(そとばこ)の銘に、
『鱉瘕之由來、丹羽越前守長秀は、太閤秀吉公の股肱(ここう)の臣にして、さうなき英雄の士にぞありける。しかるに長秀病(やま)ふありて、いたづきなやむ每(ごと)に、ものありて、腹のうち、喰(く)ひてんやうにおぼへて、たへがたかりければ、かくて、長秀、みづから云ふ。
「勇士の戰場に死するは、さることにして、なんでう、病(やま)ふの爲(ため)に、ころされんや。」
と。
病ひ、大(おほき)に發して、腹中、いたう、痛(いたみ)て、しきりに、うちより、肉を、もたぐるやうにしけるを、
「くせもの、あんなり。」
とて、短刀をもて、みづから、腹を探(さぐり)て、あやしき蟲を、さし得て、長秀、終(つひ)に卒(そつ)す。しかるに、その蟲、さゝれて、なを[やぶちゃん注:ママ。]、死せず。
そのかたち、の鱉(すつぽん)のごとく、よく、あゆむ。
そのこと、秀吉公に申(まふす)ものあり。
「さること侍らん、それ、なん、めせ。」
と、仰(おほせ)ことありて、彼(かの)蟲を上覽に備(そな)ふ。
公、侍醫に、あふせて、藥をもて、せむれども、彼ものは、死せず。いや猛く、あれにあれて、ふくする色、なし。
くすしは、己(おの)が術(じゆつ)の拙(せつ)を愧(はぢ)にけん、
「かくては。」
とて、公、左右に、あふせて、俄(にはか)に、吾家、祖、竹田法印定加(ぢやうか)を召して、
「しかじか。」
の旨を命じ給ふ。
定加、三たび臂を折(をる)の勤(つとめ)、むなしからず。一匙の藥を投じて、彼蟲、則(すなはち)、死す。時に、公、御感(ぎよかん)あさからずして、
「是(これ)は、これ、醫家に貯ふべきものなり。」
とて、功を賞して、その蟲を、定加に賜ふ、となん。
それより吾家の珍寶となせり。
尙、くだる世に、そのもの、失ひてんことを恐れ、おもふて、高祖父、竹田法印定堅(ぢやうけん)、それが形を、ものに摸(も)して、鱉瘕(すつぽん)とともに、今に、存(そんす)、といふことを、かいつけ侍りぬ。天明七稔丁未之秋、竹田公豐謙。』
予、述。
予、この物を借得(かりえ)しは、彼(かの)門人、近藤英秀と云ふ者にて、過(すぎ)し寬政六年初春のことなり。
「この時、その眞(うつし)は【前の假名文に『鱉瘕と共に今に存す』と云ふもの。】、別に一匣に藏(をさめ)て、『匣上(はこうへ)密封』とあれば、持來(もちきら)らず。」
と云(いひ)き。
又、云ふ。
「既に、德廟[やぶちゃん注:徳川吉宗。]の上覽にも入りし。」
と。
然れば、予、思ふに、數星霜のもの、今は朽壞(きうくわい)して、人に示す可からず。因(よつ)て、かく云(いふ)者ならん。
されば、前記に、
『夫(それ)が形を物に摸(うつ)す。』
と、云(いふ)者(は)、宜(むべ)なり。
又、この竹田法印定加が藥方、今、彼(かの)家、これを審(つまびらか)にせず。
醫臣立也(りつや)、曰(いはく)、
「定加、四代の祖、昌珪(しやうけい)なる者、明の時、唐山(たうざん)に渡り、醫術、屢(しばしば)、奇驗(きげん)あるに因(よつ)て、明主、珪を、「安國侯」に封ず。然るに、其母、老たるを以て、請(こひ)て、本國に歸る。明主、賜ふに、「牛黃圓(ごわうゑん)の法」を以てす。鱉瘕を殺(ころす)の方(はう)は、乃(すなはち)、この「牛黃圓」なるべし。」
と、彼(かの)家、代々の言傳(いひつた)へなり。
「千金方」ニ云ク、『椒熨方、治ス下患ヘ二癥結病ヲ一、及ビ爪病、似二爪ノ形日月ノ形ニ一、或ハ在リ二臍ノ左右ニ一、或ハ在リ二臍ノ上下ニ一、或若クㇾ鼈ノ在二左右ノ肋下一、以ハ當テㇾ心ニ如キヲ中合子ノ上。大法先ヅ針シ二其足ニ一、以ㇾ椒ヲ熨スㇾ之【「干祿宇書」ニ曰、『鱉ハ通ㇾ鼈。』。】。「正字通」、癥瘕ハ腹中ノ積塊。堅者ヲ曰フㇾ癥ト。有ルヲ二物形一曰フㇾ瘕ト。』
彼是(かれこれ)に據(よつ)て考(かんがふ)れば、「千金方」の所ㇾ云(いふところ)の者は、積(しやく)のかたまりの形、鱉(すつぽん)の若(ごと)く、肋下(ろくした)に在ると云ふ如し。「正字通」の所ㇾ云も、たゞ、かたまりの堅き者を『癥』とし、何か、形づくりたるは『瘕』と謂ふにて、其形、内に、物あるに非ず、と聞こゆ。
然(しか)るに、長秀が腹瘕(ふくか)は、眞(まこと)の生物(いきもの)なりしかば、古書の所ㇾ云も誣(しい)ゆべからず。『鼈(すつぽん)の若(ごとし)』と云(いひ)しも、腹中、實(まこと)に、この物あること、長秀より、始(はじめ)て、其眞(しん)を知るか。奇とすべし。
■やぶちゃんの呟き
「丹羽長秀」(天文四(一五三五)年~天正十三年四月十六日(一五八五年五月十五日)は、元は織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。「本能寺の変」の後、秀吉と勝家とが天下を争った天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」では秀吉を援護し、戦後、若狭国と近江国志賀・高島二郡の代わりに、越前国の一部、及び、加賀国江沼・能美二郡を与えられ、越前国北庄に入部、石高は約六十万石と推定されている。参照した当該ウィキの「最期」によれば、『長秀は積寸白』(しゃくすばく)『(寄生虫病)のために死去した』。「秀吉譜」に『よれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず』、『自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう』。」『と、竹田法印に賜ったという。後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると』、寛政六(一七九三)年の初春、『当代の竹田法印の門人で』、『松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。すると、内箱の銘は』「秀吉譜」と『相違があり、それによれば』、『久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て』、『死去した。しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお』、『死ななかった。竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞して』、『その虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、』天明七(一七八七)年に『竹田公豊が書いたものであった)。しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため』、『持って来なかったというので、年月を経て』おり、『朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している』。『これらによると、石亀に似て』、『鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である』。『証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった』とある。確かに、近代以前は、ヒト寄生性の寄生虫が驚くべき数で寄生し、時に口から生体や虫片を吐き戻す「逆虫」(さかむし)として知られてはいたが、実際、長大型の扁形動物門条虫綱 Cestoda のサナダムシ類や、線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱回虫目回虫科カイチュウ Ascaris lumbricoides によって、死亡に至ったという事例は、寡聞にして私は聴いたことがない。思うに、激痛が起こり、火葬後に有意な大きさの異物が見出されたというのは、癌などの悪性新生物の方が妥当と思われる。
「秀吉譜」「豊臣秀吉譜」林羅山編。全三巻。寛永一九(一六四二)年跋。明暦四(一六五八)年刊。以下、引用部の訓読を試みる。
*
元龜十三年[やぶちゃん注:天正の誤り。一五八五年。]四月、丹羽五郞左衞門長秀、逝(せい)す。年五十一。
長秀、平生(へいぜい)、積聚(しやくじゆ)の病(やまひ)有りて、甚だ、之れに苦しむ。
是(ここ)至りて、其の痛苦に勝(た)へず、乃(すなは)ち、刀(かたな)を引き、自裁す。
火葬の後(のち)、灰中に、出ずる積聚、未だ焦(こ)げ盡さざるを揆(はか)るに、其の物たるや、大いさ、拳(こぶし)のごとく、形は、石龜(いしがめ)のごとし。其の啄(くちばし)、尖(とが)り曲りて、鳥のごとし。刀の痕(あと)、背に在り。
秀吉、之れを見て曰はく、
「此れや是れ、奇物なり。醫家、當(まさ)に、之れ、有るべき物なり。」
と。
卽ち、竹田法印に賜ふ。
*
この「積聚」(しゃくじゅ)「の病」とは、腹部・胸部に起こる激痛。「癪(しゃく)」「さしこみ」「癇癪(かんしゃく)」とも言う。「石龜」は狭義にはカメ目イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica を指すが、ここは寧ろ、「相応に大きな硬い甲を持ったカメ」の意ではあろう。
「竹田法印定加」(天文一五(一五四六)年~慶長五(一六〇〇)年)は医師。当該ウィキによれば、『天文年間に父定珪が死去したために家督を相続。腹診をよく行ってこれを広めた』。元亀二(一五七一)年に『正親町』(おおぎまち)『天皇の脈を取り』、『平癒させたため、法眼に叙され』、天正九(一五八一)年には、『女官の治療に貢献したことにより法印に昇進する。豊臣秀吉と親交が深く、特に秀吉生母大政所を快癒させた際には』、『多大な恩賞を得ている。その他、曼殊院覚恕、羽柴秀勝、丹羽長秀、顕如などを治療している』。文禄二(一五九三)年、「文禄の役」の『講和のために来日した謝用梓らが発病した際、処方を行うなど』、『対応して』、『親交を深めた。徳川氏に対しても』、『徳川秀忠の娘の処方を行っている』が、慶長二(一五九七)年、『秀吉が病床に伏した際、出仕がなかったために罰せられ』ている。『子孫は豊臣家を離れ、江戸幕府に仕えた』とある。
「内匣ノ銘ニ、鱉瘕記、……」訓読を試みる。
*
内匣(うちばこ)の銘に、「鱉瘕記」。
丹羽越前守長秀は、太閤秀吉公の近臣、武雄、人に過(す)ぐ。
久しく一疾(いつしつ)を患(わづら)ひ、腹中(ふくちゆう)、每(つね)に安からず。
適(たまたま)病ひ大發(だいはつ)し、困悶(こんもん)して、殆んど絕(ぜつ)せんと欲(ほ)つす。
自(みづか)ら謂(いは)く、
「此の病ひは、是れ、積蟲(しやくちゆう)なり。大丈夫、死せば、則ち死なん。豈(あ)に、此の積蟲」しやくちゆう)の爲(ため)にして、殺されんか。」
と。
遂(つひ)に、短刀を取り、腹を刺して、蟲を得て、而して、死す。
其の蟲の狀(かたち)、鱉(すつぽん)に似て、能く步(あゆ)む。
公、侍醫に命じてジテ二一之れに、藥を投(とう)ずると雖も、日を經て、尙(なほ)、死せず。
是(ここ)に於いて、吾が家祖、竹田法印定加(ぢやうか)に命じて、方(はう)[やぶちゃん注:処方箋。]を按(あん)ぜしむ。
一匕(ひとさじ)を投(とう)ずるときは、以つて、則ち、其の積蟲、卽ち、死す。
因りて、其功を賞し、二其の蟲(むし)を賜ひ、世々(せいせい)、相ひ傳へて、家寶と爲(な)す、と云ふ。
天明七稔(ねん)丁未の夏
竹田公豐、謙(けん)。
予、書(しよ)す。
*
この「鱉瘕」はスッポンのこと。爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。博物誌は私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「鼈(すつほん)」の項以下、或いは、ブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鼈(スッポン)」等を見られたい。「竹田公豐」(?~寛政(一七九四)年)は本文にある通り、定加の孫で、同じく医師で法印であった。「高祖父、竹田法印定堅」定加の父定珪の弟定珪の末裔。茂庵を名乗った。「天明七稔丁未」一七八七年。最後の「謙」は謙遜(ここは「へりくだって記す」の意)の意。「予」は松浦静山。
「かいつけ」「書き付け」の意であろう。
「寬政六年」一七九四年。
「醫臣立也」不詳。
「唐山」河北省唐山市か(グーグル・マップ・データ)。
「牛黃圓の法」次の条に譲る。
『「千金方」ニ云ク、『椒熨方、……』訓読を試みる。
*
「千金方」に云はく、
『椒熨方(せういはう)、癥結病(ちようけつびやう)を患(わづら)へ[やぶちゃん注:ママ。]、及び、爪病(さうびやう)、爪(つめ)の形、日月(じつげつ)の形に似(に)、或いは、臍(へそ)の左右に在り、或いは、臍の上下に在り、或いは、鼈(すつぽん)のごとく左右の肋(ろく)の下に在り、以つては、心(しん)に當りて如キヲ合子(がふし)のごときを治(ぢ)す。大法、先づ、其の足に針(はり)し、椒を以つて、之れを熨(ひのし)す[やぶちゃん注:炭火の熱で皺を伸ばす柄杓形の器具で患部を温める。]【「干祿宇書」に曰はく、『「鱉」(べつ)は、「鼈」(べつ)に通ず。』と。】。「正字通」、『癥瘕(ちょうか)は腹中の積塊(しやうかい)。堅き者を「癥」と曰(い)ふ。物の形、有るを「瘕」と曰ふ。』
と。
4―9 「牛黃圓(ごわうゑん)」の方(はう)
前に記せし「牛黃圓」の方(はう)、今、
『竹田の家に傳はるべし。』
と思ひ、多紀安良、
「竹田某と、屢々、會する。」
と聞けば、安良に託して、其方を問はしむ。
竹田、答ふ。
「吾が家訓に、この方は一子相傳、且、十五歲以下の者は、子といへども、傳へざることなれば、止事(やむこと)を得ず、需(もとめ)に應じ難し。」
又、曰(いはく)、
「某(それがし)【安良。】の祖父安長【元簡。】が、竹田の祖、定加【これ、長秀の腹蟲を殺せし者。】が自書せし「月海錄」と云(いへ)る方書(はうしよ)を藏(をさ)めしが、其中に、この方、あり。尋常の「牛黃圓」と違ひたれば、果(はたし)て、定加が祖、昌珪が明主(みんしゆ)より、賜はり、還(かえ)りし方ならん。」
迚(とて)、安良、廼(すなは)ち、その書を借(か)す。
予、因(よつ)て、その方を鈔謄(しやうとう)す。
牛黃圓
治二傳屍、惡氣、復タ連瘦病ヲ一。
●胡黃連 ●鼈甲 ●桃人【一匁。】 ●沈香
●木香 ●犀角 ●枳殻 ●柴胡【三分。】
●牛黃 ●人參 ●丁子【二分。】 ●射香【一分。】
右末、蜜丸杵テ圓ニス。桐子ノ大ノゴトクス。
食前廿丸ヲ下ス。忌ムㇾ莧(かん)ヲ。又
下ス二蟲惡物ヲ一。雄黃圓【本書如ㇾ此。】
■やぶちゃんの呟き
「牛黃圓」牛の胆嚢に生ずるとされる黄褐色の胆石である牛黄を主剤としたを丸薬。
「多紀安良」幕府医官で考証派漢方医であった多紀元胤(たきもとつぐ 寛政元(一七八九)年~文政一〇(一八二七)年)の通称の一つ。著書が多いが、父元簡の遺志を継ぎ、漢晋以降、清の道光年間に至る三千余種の医書を考証した「醫籍考」全八十巻(未刊)が著名。
「胡黃連」(こわうれん:歴史的仮名遣。以下同じ)高山性多年草の、シソ目ゴマノハグサ科コオウレン属コオウレン Picrorhiza kurrooa(ヒマラヤ西部からカシミールに分布)及びPicrorhiza scrophulariiflora(ネパール・チベット・雲南省・四川省に分布)の根茎を乾かしたもの。古代インドからの生薬で、健胃・解熱薬として用い、正倉院の薬物中にも見いだされる。根茎に苦味があり、配糖体ピクロリジン(picrorhizin)を含むものの、薬理効果は不明である。なお、「黃連」があるが、これは小型の多年生草本である、キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica 及び同属のトウオウレン Coptis chinensis・Coptis deltoidea の根茎を乾燥させたもので、全く異なるものなので、注意が必要である。
「鼈甲」(べつかう)潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata の甲羅。「鼈甲」細工に用いるのは、本種を最上とする。詳しい博物誌や、理不尽なワシントン条約による鼈甲細工(座って作業することから、多くの身体障碍を持った方が古くから名工としておられた。その仕事を同条約は奪ったのである)の危機に対する怒りを込めた私の若書きの注を、是非、サイト版「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「たいまい 瑇瑁」で読まれたい。
「桃人」(たうにん)「桃仁」のことであろう。バラ目バラ科モモ亜科モモ属モモ Amygdalus persica及びスモモ亜属Amygdalus Prunus節ノモモ(野桃)Prunus
davidiana の成熟した種子を乾燥した漢方薬。血液の停滞・下腹部の膨満して痛むものに効果があるとされる。
「沈香」(ぢんかう)「沈香(ぢんこう)」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。
「木香」(もつかう)キク目キク科トウヒレン属モッコウSaussurea costus又はSaussurea lappa の孰れかの根から採れる生薬。薫香原料として知られ、漢方では芳香性健胃剤として使用されるほか、婦人病・精神神経系処方の漢方薬に多く配合されている。
「犀角」(さいかく)私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 犀(さい) (サイ)」の本文及び私の注を参照。
「枳殻」(きこく)ムクロジ目ミカン科カラタチ属カラタチ Poncirus trifoliata の生薬名。未成熟或いは熟した果実を乾燥させたものを用いる。健胃・利尿・発汗・去痰作用がある。
「柴胡」(さいこ)双子葉植物綱セリ目セリ科ミシマサイコ Bupleurum scorzonerifolium(亜種としてBupleurum falcatum var. komarowi と記載するものもあり)の根の漢方の生薬名。解熱・鎮痛作用がある。大柴胡湯(だいさいことう)・小柴胡湯・柴胡桂枝湯といったお馴染みの、多くの漢方製剤に配合されている。和名は静岡県の三島地方の柴胡が、この生薬の産地として優れていたことに由来する。
「丁子」(てうじ)香辛料のバラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum の蕾の乾燥品。
「射香」「麝香(じやかう)」。私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」を参照。
「蜜丸」(みつぐわん)蜂蜜を固めて丸薬にしたものであろう。謂わば、「つなぎ」であろう。
「桐子」(とうし/きりのみ)シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa の果実。気管支炎に効果があるとされる。
「莧」(かん)双子葉植物綱ナデシコ目ヒユ科 Amaranthaceae 、及び、その近縁種の総称。食用になる。中でもよく知られるものに、私の家の庭にもある、ナデシコ目スベリヒユ科スベリヒユ属スベリヒユ Portulaca oleracea がある。夏に全草を採って根を除き、水洗いして日干し乾燥したものは生薬になり、馬歯莧(ばしけん)と称されている。民間薬として、解熱・解毒・利尿や、虫刺されに効用があるとされる。
「雄黃圓」(ゆうをうゑん)は牛黃圓の別名。
「右末、蜜丸……」訓読を試みる。
*
右の末(まつ)、蜜丸(みつぐわん)[やぶちゃん注:「にして」か。]、杵(つ)きて、圓(まどか)にす。桐子の大(おほきさ)のごとくす。食前、廿丸(にじふぐわん)を下(くだ)す[やぶちゃん注:服用する。]。莧(かん)を忌む。又、蟲(むし)の惡物(あしきもの)を下(おろ)す。「雄黃圓(ゆうをうゑん)」【本書、此くのごとし。】。
*]
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