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2024/01/19

柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「誘拐異聞」

[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。

 読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。

 また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。

 なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。

 

    

 

 誘拐異聞【ゆうかいいぶん】 〔梅翁随筆〕麹町三丁目<東京都千代区内>谷《たに》日下部(くさかべ)権左衛門の侍、巳七月下旬部屋に休み居《ゐ》けるに、夜中名を呼びて戸を厳しく敲くものあり。何人なるやと尋ぬれば、その答へはせで、しきりに呼ぶゆゑ、そ こきみあしく出《いで》もやらず、物をもいはず居《をり》ければ、その後《のち》音もせず。寝入らんとする時、また 来りて戸をたゝく事ゆゑ、いよいよ息をころして居《ゐ》ければ、この度はすつとはひりたり。見れば大の山臥(やまぶし)なり。近寄る所を物をもいはず、脇ざしにて鞘ながら払ひければ、そのまゝ出《いで》さりぬ。またもや来ると怖ろしく、夜のあくるを待ちかねたり。夜あけて後《のち》傍輩どもへこのよし咄 しければ、大いにうなされたるなるべしと、みなみな笑ひぬ。その夕方この侍、座敷の戸を〆(しめ)に行きてより行衛しれず。不審におもひ近辺尋ねけれども見えず。早速宿へ申遣はし、欠落《かけおち》せしかとも推量すれども、衣類も常の儘なれば、いよいよ不審にぞんじ居《をり》たり。四五日過ぎてかのものの在所より、国もとへ帰りたるよし申越《まふしこす》ゆゑ、子細を尋ぬるに、主人かたにて座敷の戸を建て、それより十露盤《そろばん》を置くとおぼえたるまゝにて、その後《あと》の事は覚えず、相州鎌倉<神奈川県鎌倉市>在《ざい》の山中に捨てられ居《をり》たるを、其所《そこ》のものの世話にて、在所へかへりたる由申しけるとなり。大御番七番組をつとめける石川源之丞は、麻布白銀町<東京都港区内か>に住みて、その娘十三歳の頃まで、四五年も以前の事なるべし、或日庭へ出たるが、そのまゝにて行方しれず。所々尋ねけるに、翌朝木挽町<東京都中央区内>よりしらせたるゆゑ、人を遣はし、家来の娘分にして連れ来りける。その様子を聞くに、何ものともしれぬものに同道して、いろいろの面白き事ども見物せしとなり。木挽町のものに問ふに、芝居の茶屋の庭に居《をり》たるゆゑ、いかなる事にて爰に居るぞと尋ねしかども、答へもわかりかねしゆゑ、先づ休ませ置き、正体《しやうたい》[やぶちゃん注:正気。]になりてのち宿所をたづねて、源之丞かたへしらせたりしとなり。

[やぶちゃん注:「梅翁随筆」は既に複数回既出。著者不詳。寛政(一七八九年~一八〇一年)年間の見聞巷談を集めた随筆。国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆大成』第二期第六巻(昭和三(一九二八)年日本随筆大成刊行会刊)のこちらで正字表現のものが見られる。同書「卷第二」の冒頭から五つ目で、標題は『○日下部の侍さそひ出さるゝ事』。

「麹町三丁目」「谷」「東京都千代区内」これは「麹町谷町(かうじぢまちたにまち)」というれっきとした町名。現在の千代田区麹町五丁目(グーグル・マップ・データ。以下、無指示は同じ)に当たる。麹町の北側と南側にある四ヶ所の谷地で、俗に「麹町三丁目」の谷を「麹町三丁目谷」「黄金谷」「小粒谷」と称した。後者の二つの異名は、両替商備前屋喜兵衛の店がここにあって、何時でも両替に応じたことによる(「麹三渓の記」国会図書館蔵)。麹町四丁目の谷は「麹町四丁目谷」と称した(平凡社「日本歴史地名大系」に拠った)。]

「巳七月」寛政九年丁巳。グレゴリオ暦一七九七年。旧暦七月一日は七月二十四日相当。

〔同巻三〕午四月日光御門主御登山に付き、寄合医師塙《はなは》宗悦は、例のごとく御供して日光へ参りけるに、宗悦が中間こゝちあしきとてやすみ居《ゐ》ける。その翌朝、小便に出たる処、四方霧ふかくふりて、尺寸の間も見分けがたくありしに、何ごころなくしばらく立ちたる内、次第に晴れ行く霧の間に見わたせば、ありし所にあらず。いかにも道幅広く、両側軒をならべて、そのさま旅籠《はたご》やの家作りのごとく、また荷物付ける馬行きちがひ、旅人体《てい》のもの往来して、さながら街道筋に彷彿たり。心得ぬ事におもひ、夢にやあらん、現《うつつ》にやあらんと、只茫然として立ち居《をり》たる所へ、侍体(さむらひてい)の人きたりて、何のために此所へ居るやと問ふゆゑ、答ふるにありし趣を咄し、夢現を分け兼ねたるよしを申しければ、侍莞爾として云ふは、熊谷宿とて木曾へも北国へも通ふ街道なりといふ。日光への道のりをとふに、廿余里なりといふ。江戸へは十六里なりと。こゝにおいて大いにおどろき、そもいかゞしてこれまで来りしにや。さるにてもこれより日光へゆかんも、江戸へ帰らんにも、遠路《ゑんろ》を隔てたるに、今少しのたくはへもあらざれば、いかゞともすべきやうなし。進退こゝにきはまれりと当惑なしける時に、侍いふやう、某《それがし》骨柳(こり)[やぶちゃん注:前記活字本ではママ注記があるが、これは「行李(かうり)」の別字である。]を持てり、汝この荷を持ちて供をせば、旅の用をば助けんといふ。その行く所は江戸のよしなれば、先づこれにて少し力を得て、兎も角も仰せはそむくまじ、しかるべきやうにと頼みければ、側《かたはら》の家にともなひ行き、酒食など世話して、それよりつれ立ちいでぬ。おもひ寄らぬ変にあひしまぎれに、不快もうち忘れて、三宿ばかりも来りしと思ふ時、侍のいふ様、某はこれよりわかるゝなり、汝もこゝろざす方へ参るべし、これは千住の宿なりとて別れぬ。今朝熊谷を出て、やうやう五六里あまりも参りつらんと思ふに、はや千住の宿なりと申せしにぞ、心得ぬことにおもひながら、そこらを見廻すに、大橋のてい、宿の様子、見知りたる所なれば、これより道をいそぎ、暮ごろに己が請人《うけにん》[やぶちゃん注:中間の斡旋人にして身元保証人。]の所へ行き、しかじかのよし申しければ、請人不審して先づ休ませ置き、翌朝また子細を尋ぬるに、きのふ申せし言葉に少しもちがひなければ、さては実事ならんとて、彼者回道《まはりみち》[やぶちゃん注:請人の住居は塙の家よりかなり離れていたのであろうが、ちょっとイメージが、しにくい謂いである。]して塙宗悦が宅へ行き、右の次第を申しけるに、先づその者あづけ置くよし申付けける。その後《のち》日光より書状来り、彼方にて行方しれざるよし申越しける。その日を考ふるに、一日のうちに江戸へきたりぬ。これたゞごとにあらずとて、また請人をよびて尋ぬるに、その後《のち》請人方をも立出て、かのもの行がたしれずなりぬと申しけるとなり。

[やぶちゃん注:同前の活字本で、「卷之三」の掉尾のここ。標題は『塙宗悅中間の事』。]

〔続道聴塗説六編〕十三日の夜、御本丸御太鼓坊主、時を打ばやと登りけるに、旅人体《てい》のあやしき者一人、前後を忘れて臥し居《ゐ》たり。一同驚き、立合ひて喚び起せどもおきず。やうやうに目の覚めけれども、何処《いづこ》の者とも、何故何時《いつなんどき[やぶちゃん注:「何故(いつ)」は以下に示す活字本のルビに従った。]》爰に来りしともいはず。只茫然として居るのみ、定めて鼻高《はなだか》[やぶちゃん注:天狗。]の所業とは察すれども、尚深く改め閲(み)るに、小さき天神の宮[やぶちゃん注:御札。]を竹の末に挿み、側《かたはら》にさし置き、懐中に金子あり。早々捕へて町奉行へ引渡し、通例御城内攔入《らんにふ》[やぶちゃん注:「攔」は漢語で「~をめがけて・~に向かって」の意。]の者永牢の法律なれども、これは一通りならぬ場所へ入込《いりこ》みし事なればとて、痛く穿議を遂げらるといふ。近来《ちかごろ》邪宗の風説ある上、去冬《さるふる》平川外御舂屋《おつきや》一件、並びに長州御入輿間もなく、かの御殿また金子紛失など度《たび》重り、その賊いまだ捕へ得ざれば、旁〻《かたがた》以てこの節厳重の御沙汰に及ばるときく。

[やぶちゃん注:ここのみ、一字空けで後の「耳囊」の話に続くが、前に合わせて特異的に改行し、ここに注を入れた。

「続道聴塗説」(ぞくだいちやう(別に「だいてい」とも読む)とせつ)この続篇は本書では初出。一般名詞では「道聴途説」とも書く。「論語」の「陽貨」篇の「子曰、道聽而塗說、德之棄也。」(子曰はく、「道に聽きて塗(みち)に說(と)くは、德を之れ棄つるなり。」と。)による語で、路上で他人から聞いたことを、すぐにその道でまた第三者に話す意で、「他人からよい話を聞いても、それを心にとどめて、しっかりと自分のものとせぬままに、すぐ、他に受けうりすること」で、転じて、「いいかげんな世間のうわさばなし・ききかじりの話」を指す。この書は、越前鯖江藩士で儒者であった大郷信斎(おおごうしんさい 明和九(一七七二)年~天保一五(一八四四)年:当初は芥川思堂に、後、昌平黌で林述斎に学んだ。述斎が麻布に創った学問所「城南読書楼」の教授となった。文化一〇(一八一三)年には、藩が江戸に創設した「稽古所」(後に「惜陰堂」と名のった)でも教えた。名は良則。著作に「心学臆見論」などがある。国立国会図書館デジタルコレクションの『鼠璞十種』第二(大正五(一九一六)年国書刊行会)のこちらで正規表現で視認出来る。標題は『○異人睡臥』。この全パートは『庚寅漫錄』とあることから、これは文政一三(一八三〇)年の記事と読める。因みに、文政一三年十二月十日(グレゴリオ暦一八三一年一月二十三日)に天保に改元している。

「平川外御舂屋一件」前年の文政十二年十一月十一日の夜に発生した強盗事件。「御舂屋」は幕府営中の諸士に給する領米を舂(つ)く所。「平川外」は、竹橋御門と平川御門に面した、現在の「パレスサイドビル」(毎日新聞社)の一帯に当たる。江戸城東北の直近。上記活字本のここの『○平川凶賊』に、この江戸城御膝元の『前代未曾有』と記す盗事件一件が記されてあるので、見られたい。

「長州御入輿」不詳。識者の御教授を乞う。]

〔耳囊巻四〕知る人の語りけるは、小日向小身の御旗本の二男、いづちへ行きけん、その行方しれず。その祖母深く歎きて、所々心懸けしに、終に音信なかりしが、或時かの祖母本郷兼やすが前にて、ふと二男に逢ひけるゆゑ、いづ方ヘ行きしやと、或ひは歎き、或ひは怒りて尋ねければ、されば御歎きをかけ候も恐入り候へども、いま程は我等事も難儀なる事もなく、代を送り候へば、案じ給ふべからず、宿へもかへり、御目にかゝり度候へども、さありては身の為人のためにもならざるあひだ、その事なく過ぎ侍る、最早御別れ申すべしといへば、祖母は袖を引留めて、暫しと申しければ、さ思ひ給はゞ、来《きた》る幾日に浅草観音境内の念仏堂へ来り給へ、あれにて御目にかゝるべくといひし故、立分れ帰りて、かくかくと語りけれど、老にや耄《おいぼ》れ給ふなりとて、家内の者もとり合はざれど、その日になれば、是非浅草へ参るべしとて、僕《しもべ》壱人召連れて、観音境内の念仏堂へ至りければ、果してかの次男来りて、かれこれの咄をなし、最早尋ね給ふまじ、我等もいまは聊か難儀なる事もなしと語り、右連れにもありける歟、老僧など一両輩、念仏堂に見えしが、その後《のち》人だまりに立かくれ、見失ひける由、召連れし小ものも、かの様子を見しは、祖母の物語りと同じ事なる由、天狗といへるものの所為にやと、祖母の老耄(らうもう)の沙汰は止みしとなり。

[やぶちゃん注:ここも、字空けなしで、以下の「甲子夜話」の話が続いているが、改行した。以下の二篇も同様の仕儀で処理したので、以降では略す。

 私の「耳囊 卷之四 魔魅不思議の事」を参照されたい。]

〔甲子夜話巻四十九〕嵯峨天竜寺中瑞応院と云ふより六月の文通とて印宗和尚語る。天竜寺の領内の山本村<京都市右京区内>と云ふに尼庵あり、遠離庵と云ふ。その庵に年十九になる初発心《しよほつしん》の尼あり。この三月十四日哺時(ほ《じ》)<午後四時>のほどより、尼四五人連れて後山に蕨を採りにゆき、帰路には散歩して庵に入る。然るに新尼ひとり帰らず。不審して狐狸の為めに惑はされしか、または災難に遭ひしかと、庵尼うちよりて祈禱宿願せしに、明日に及びても帰らず。その十七日の哺時、比《この》隣村清滝村の樵者《きこり》薪《たきぎ》採りにゆきたるに、深渓の辺《ほとり》に小尼の渓水に衣を濯ぐ者あり、顔容蒼然たり。樵《きこり》かゝる山奥に如何にして来れりやと問へば、尼我は愛宕山に龍り居《を》る者なりと云ふ。樵あきれ、彼れをかすめ[やぶちゃん注:強引に捕まえ。]清滝村までつれ還り、定めしかの庵の尼なるべしと告げたれば、その夜駕を遣はして迎ひとりたり。尼常は実体《じつてい》なる無口の性質《たち》なるが、何か大言《だいげん》して罵るゆゑ、藤七と云ふ俠気なるものを招きてこれと対《たい》させたれば、還る還ると云ひて、さらば飯を食せしめよと云ふ。乃《すなは》ち食を与へたれば、山盛りなるを三椀食し終り即ち仆《たふ》れたり。その後《のち》は狂乱なる体《てい》も止みて、一時《いつとき》ばかりたちたる故、最初よりのことを尋ね問ひたれば、蕨を採りゐたる中《うち》、年頃四十ばかりの僧、杖をつきたるがこの方へ来《きた》るべしと云ふ。その時何となく貴《たふと》く覚えて近寄りたれば、彼《かの》僧この杖を持ち候へと云ひ、また眼を塞ぐべしと云ひしゆゑ、その若(ごと)くしたれば、暫しと覚えし間に遠方に往きたりと見えて、金殿宝閣のある処に到り、此処は禁裏なりと申し聞かせ、また団子のやうなる物を喰ふべしとて与へたるゆゑ、食ひたる所味美《うま》くして、今に口中にその甘み残りて忘られず、且つ少しも空腹なることなし。また僧の云ひしは、汝は貞実なる者なれば、愛宕《あたご》へ往きて籠らば善き尼となるべし、追々諸方を見物さすべし、讃岐の金毘羅へも参詣さすべしなど、心よく申されたるよし云ひて、帰庵の翌日もまた僧の御入りぢやと云ふゆゑ、見れども余人の目には見えず。因てこれ天狗の所為と云ふに定め、新尼を親里に返し、庵をば出《いだ》せしとなり。或人云ふ、これまでは天狗は女人を取り行かぬものなるが、世も澆季《げうき》[やぶちゃん注:末世。末法の時代。]に及びて、天狗も女人を愛することになり行きたることならんか。

[やぶちゃん注:これは、南方熊楠「天狗の情郞」(てんぐのかげま)の注のために必要となり、去年の四月三十日に、「フライング単発 甲子夜話卷之四十九 40 天狗、新尼をとる」として電子化注してあるので、見られたい。]

〔譚海巻二〕江戸白銀瑞聖寺は、黄柴山の旅宿寺なり。瑞聖寺に年来勤め居《をり》たる男七助と云ふもの、一日《あるひ》朝飯焚きゐたるが、そのまゝ跡をかくし行方なし。月日を経れば入水《じゆすい》せしにやなど、皆々申しあひたるに、六年過ぎて七助うせたるその月のその日に、門前にて人ののしりあざむ事甚し。何事にやと寺僧も出て見るに、遙かなる空中より一むら黒雲の如きもの、苒々《ぜんぜん》に地ヘ降(くだ)る。これをみて人騒動するなり。さて程なく空中のものくだり来《きたり》て、瑞聖寺の庭に落ちたり。大なる蓮の葉なり。その内にうごめく物有り。人々立寄りて開きみれば、件《くだん》の七助茫然として中より這ひ出たり。奇怪なる事いふばかりなし。一両日過ぎて、七助人心地付きたる時、何方《いづかた》より来《きた》るぞと尋ねたれば、御寺に居《をり》たるに僧一人来り、天竺へ同伴せられしかば、共に行くと覚えしに、さながら空中をあゆみて一所に至る時、其所《そのところ》の人物言語、共に甚だ異なり。天竺なるよし僧のいはれしに、折しも出火ありてさわがしかりしかば、この僧われにいはるゝやう、この蓮の葉に入りてあれと。入りたればやがて包みもちて投げすてらるゝと覚えし。その後《のち》は何事も承知せずと申しけり。この蓮の葉は天竺の物なるべし。八畳敷程ある葉なり。寺庫に収めて今にあり。蟲干の節は取出《とりいだ》し見するなり。この七助その後《のち》八年程ありて、七十二歳にして寺にて卒したり。この蓮の葉、彼寺の蟲干の節行き逢ひて、正しく見たる人の物語りなり。

[やぶちゃん注:私の「譚海 卷之二 江戶白銀瑞聖寺什物天竺蓮葉の事」を見られたい。なお、本篇を宵曲は、「妖異博物館 天狗の誘拐(3)」でも紹介しており、そこで私は一度、電子化している。]

〔甲子夜話巻七〕予<松浦静山>が厩に使ふ卑僕あり、上総の産なり。この男嘗て天狗にさらはれたりと聞けば、或日自らその事を問ふに、奴云ふ。今年五十六歳、さきに四十一の春三月五日の巳刻<午前十時>頃、両国橋<東京都墨田区内>のあたりにて心地あしく覚えたるばかりにて、何(いか)なる者より誘はれたるも曾て知らず。然して十月廿八日のことにて、信濃国善光寺の門前に不図《ふと》立ち居《をり》たり。それまでのことは一向覚えず。衣類は三月に著たるまゝ故、ばらばらに破《やぶれ》さけてあり。月代(さかやき)はのびて禿(かむろ)の如くなりし。その時幸ひに故郷にて嘗て知りし人に遭ひたる故、それと伴ひて江戸に出《いで》たり。その本心になりたる後《のち》も、食せんとすれば胸悪く、五穀の類は一向食はれず、たゞ薩摩芋のみ食したり。それより糞する毎に木実《このみ》の如きもの出《いで》て、この便《べん》止み常の如くなりてよりは、腹中快く覚えて穀食に返りしとなり。然れば天地間には人類に非るものも有るか。

[やぶちゃん注:私の「甲子夜話卷之七 27 上總人足、天狗にとられ歸後の直話」を見られたい。なお、宵曲は、『妖異博物館 「天狗の誘拐」 (1)』でも紹介しており、その私の注でも電子化してある。]

〔耳袋巻五〕下谷広徳寺前といへる所に大工ありて、渠《かれ》が倅十八九歳にもなりけるが、当辰の盆十四日の事なる由、葛西辺に上手の大工拵ヘたる寺の門あるを見んとて、宿を立出しが行衛知れず、帰らざりし故、両親の驚き大方ならず。近隣の知音を催し、鐘太鼓にて尋ねしが知れざりしに、隣町の者江の嶋へ参詣して、社壇に於て彼者を見受けし故、いづちへ行きしや、両親の尋ね捜す事も大方ならずと申しければ、葛西辺の門の細工を見んとて宿を立出しが、爰はいづくなるやと尋ねける故、江の嶋なる由を申しけれど、甚だ眩忘の様子故、別当の方へ伴ひ、しかじかの様子を語り、早速親元へ知らせ、迎へをさし越すべき間、それまで預り給はるべしと顧みて、彼者立帰りて両親へ告げし故、怡(よろこ)びて早速迎へを立てし由。不思議なるは彼者の伯父にて大工渡世せる親の為に弟なる者、これも十八九歳にていづち行きけん知らざる故、所々尋ねけれど、これは終にその行衛わからざりし間、一入《ひとしほ》この度も両親愁ひ歎きし由なり。

[やぶちゃん注:私のものでは、底本違いで、「卷之一」所収。「耳囊 卷之五 神隱しといふ類ひある事」を見られたい。]

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