甲子夜話卷之八 17 佐竹氏の墳墓
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]
8-17
橋場、總泉寺の佐竹氏の墳墓を見るに、兆域(てうゐき)[やぶちゃん注:墓所。]の外總門(そとさうもん)ありて、其内に、代々の墓あり。
皆、土を封じて、墳とし、高(たかさ)四尺計(ばかり)、長(ながさ)九尺に過ぐ。
周りに、石を疊(たた)み、其上に、芝を植ゆ。
墳の前面に墓表を竪(た)つ。形、尋常のごとし。趺石(だいいし)も、常に、異ならず。
面(おもて)に其法號を刻す。
先塋(せんえい)[やぶちゃん注:先祖代々の墓。]、みな、かくの如くにして、相列(あひれつ)す。
因(よつ)て、寺僧に、其(その)棺制(くわんせい)を問へば、
「臥棺(ぐわかん)なり。」
と云(いふ)。
又、土に入(いる)るの深淺を問へば、
「殊に、深し。」
と答ふ。
是、佐竹氏の葬(さう)は唐山(たうざん)の禮に據(よ)るか。
又、吾古(がこ)の令に因りたるか。
■やぶちゃんの呟き
「佐竹氏」秋田藩佐竹氏。以下の「總泉寺」が江戸での菩提寺であった。
「橋場、總泉寺」東京都台東区橋場一丁目附近にあった(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が、現在は移転している。個人サイト「東京探索日誌」の「橋場―総泉寺の跡」が、恐ろしく詳しいので、参照されたいが、そこに『総泉寺は、愛宕の青松寺・高輪の泉岳寺とともに、江戸における曹洞宗を代表する寺院であった(『江戸名所図会』など)。橋場の西側半分を占める広い寺域だったようだ。しかし』、『関東大震災で全壊し、板橋区の小豆沢』(あずさわ)『に移転』したとある。ここ。
「吾古の令」「自身の家系の古くからの仕来たり」の意か。
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