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2024/01/25

譚海 卷之六 京都祇園住人大雅堂唐畫の事

[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「唐畫」は「からゑ」。]

 

○京師に大雅堂といふ唐畫師(からゑし)、有(あり)。祇園茶店の女「ゆり」が娘の「らん」と云(いふ)が夫なり。

 家(いへ)、畫(ゑ)を、妻にも敎へて、唐畫を書(かき)習ける故、「玉蘭」と號するは、此(この)「らん」が事也。

 一年、黃檗山書院の畫、西湖の景を、大雅堂にかゝせけるに、あらゆる華本の西湖の圖をあつめて、眞を模し書(かき)たるゆゑ、筆蹟、華人にをとらず、一木一石までも、見つべき事なり、とぞ。

 さて、

「そのふすまの裏へ、何ぞ畫を。」

と、このみけるに、「五百羅漢の圖」を書(かく)べく思ひて、當時の博識にも談合せしに、

「只、平生(へいぜい)、枯得[やぶちゃん注:底本にママ注記有り。「感得」か。]したるまゝを、そのまゝに書(かき)たるが、よろしかるベし。」

と、了簡、定りて後(のち)、筆を下(おろ)しける。

 羅漢二百人は雲中飛行(うんちゆうひぎやう)の體(てい)、又、二百人は陸行(りくかう)の體、又、百人は水をわたる所を書(かき)たり。

 人物、すべて、豆の如く、四枚のふすまに、五百の羅漢、書縮(かきちぢ)めたる事、甚以(はなはだもつえて)奇特(きどく)なり。

「此書院襖(ふすま)の畫、大雅堂家、生涯の快筆也。」

と自讃せし、とぞ。

 大雅堂は、俗名、荒木周平といへり。

 此夫婦、和歌をも、かたの如く、詠ぜしゆゑ、冷泉前(さきの)大納言爲村卿、御門弟を願(ねがひ)しに、許容ありて、はじめて、彼(かの)家へ夫婚參謁(さんえつ)せし時、周平は木綿の淺黃布子(あさぎぬのこ)を着し、妻も賤(しづ)の女(め)のやう體(てい)にて參りたるを、めづらしき事に彼(かの)卿も思召けるといへり。

[やぶちゃん注:先行する「譚海 卷之三 荒木周平の畫の事」も参照されたい。

「大雅堂」江戸中期の文人画家池大雅(享保八(一七二三)年~五(一七七六)年)。京都の町人として生まれた。姓は池野。号は他に九霞・九霞山樵・霞樵・玉梅・三岳道者など、頗る多い。堂号は待賈堂(たいかどう)・大雅堂・袖亀堂など。父池野嘉左衛門(かざえもん)は、京都の銀座役人中村氏の下役を務めた富裕な町人であったが、幼いころに死別し、教育熱心な母の手で育てられた。数え年七歳の時、早くも宇治万福寺十二世の杲堂元昶(こうどうげんちょう)から、その能書を褒められるなど、「神童」と評判を得た。絵は初め、「八種画譜」などの中国木版画譜を通じて、独学し、十五歳の頃には、扇絵(おうぎえ)を描いて、生計の足しとするなどした。やがて、中国の明・清の新しい画法、特に「南宗(なんしゅう)画法」に傾倒して、同好の士と、本格的な研鑽を積み、大和郡山藩の文人画家柳沢淇園(きえん)の感化を受けながら、新進の画家として注目されるようになった。二十六歳の時、江戸から東北地方に遊んで、得意とする指頭画(しとうが:筆ではなく、自身の指先や爪を使って描くこと)に評判をとり、帰洛後、さらに北陸地方を遊歴、二十八歳の寛延三(一七五〇)年には、紀州藩に、文人画の大家祇園南海を訪れるなど、たび重なる遠遊で、自然観察を深め、各地の一流の人物と交渉を持ち、人格を陶冶した。二十九歳の時には白隠慧鶴(えかく)に参禅してもいる。この頃、祇園の歌人百合(ゆり)の娘町(まち)[やぶちゃん注:本篇の「らん」は後に示す号からの誤り。]と結婚、真葛ヶ原に草庵を結んだ。舶載された中国の画論・画譜、また、真偽取り混ぜた中国画蹟を通じて独習し、来舶清人伊孚九(いふきゅう)の画法に、殊に啓発されながらも、独自の作風を確立した大雅は、三十代以降、新興の「文人画(南画)派」の指導者と目されるに十分な目覚ましい活躍期へと入っていく。大雅の作風は、単に中国の南宗画様式を忠実に模倣したものではなく、桃山以来の障屏画(しょうへいが)を始め、土佐派や琳派などの日本の装飾画法、更には、新知見の西洋画の写実的画法までをも主体的に受容・総合したもので、のびのびと走る柔らかな描線や、明るく澄んだ色彩の配合、さらに奥深く広闊な空間把握を、その良き特徴としている。日本の自然を詩情豊かに写した「陸奥奇勝圖卷」や「兒島灣眞景圖」、中国的主題による「山水人物圖襖(ふすま)』(国宝・高野山遍照光院)や「樓閣山水圖(岳陽樓・酔翁亭圖)屛風」(国宝・東京国立博物館)、「瀟湘勝槪圖屛風」などの障屏画、さらに、文人画家の本領を発揮した「十便帖」(じゅうべんじょう)(与謝蕪村の「十宜帖(じゅうぎじょう)」と合わせて国宝。このセットは私も甚だ偏愛するものである)、「東山淸音帖(瀟湘八景圖扇面畫帖)」(とうざんせいいんじょう)などの小品と、さまざまな主題や、形式からなる、品格の高い名作を数多く残している。また、おおらかな人柄を伝える俗気ない大雅の書も、江戸時代書道史に、一際、光彩を放つものとして、評価が高い。また、篆刻家にして画家の高芙蓉(こうふよう)、書家にして画家の韓天寿(かんてんじゅ)と、特に親密に交友し、白山・立山・富士山の三霊山を踏破して、その一部の紀行日記とスケッチを残している(「三岳紀行」)。門下に木村蒹葭堂・青木夙夜・野呂介石・桑山玉洲らを出し、さらに後進の多くに、直接・間接の影響を与えて、日本南画の興隆に大きく貢献した。なお、妻の町(まち)は玉瀾(享保一三(一七二八)年~天明三・四(一七八四~一七八五)年)と号し(本文の「玉蘭」は誤りか、別表記)、大雅風の山水画をよくする女流画家として聞こえた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「冷泉前大納言爲村卿」公卿で歌人の冷泉為村(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)。正二位・権大納言。上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされている。歌人としてのみならず、茶の湯も嗜み、自作の茶杓や竹花入などが現存している。当該ウィキによれば、『石野広通・小沢蘆庵・屋代弘賢など、多数の門人を擁した。父為久が徳川吉宗の厚遇を得ていた関係から、武家に多くの門人がいた』ともある。]

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