甲子夜話卷之八 14 駱駝來る事幷圖 + フライング 甲子夜話卷之九 24 兩國橋畔にて駱駝の造物を見する事 + フライング 甲子夜話卷之五十六 17 上古駱駝來
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。
今回は、後に出る駱駝話二話をフライングで電子化し、都合、三話を合せておいた。前の二話の挿絵は底本の『東洋文庫』版のそれをOCRで読み込み、トリミング補正して掲げた。]
8―14 駱駝(らくだ)來(きた)る事幷(ならびに)圖
去年、蘭舶(らんぱく)、駱駝を載(のせ)て、崎[やぶちゃん注:長崎]に來(きたる)る。
夫(それ)より、
「此獸(けもの)、東都に來(きた)るべしや。」
など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず。
先年、某侯の邸(やしき)に集會せしとき、畫工某(なにがし)、その圖を、予に示す。
今、舊紙の中より見出したれば、左にしるす。
圖に小記を添(そへ)て曰(いはく)、
「享和三癸亥(みづのとゐ)七月、長崎沖へ、渡來のアメリカ人拾二人、ジヤワ人九十四人、乘組の船、積乘(つみの)せ候馬の圖なり。前足は三節のよし、爪(つめ)迄は、毛の内になり。『高さ、九尺、長さ、三間。』と云(いふ)。その船、交易を請(うけ)たるが、『禁制の國なれば。』とて、允(ゆる)されずして、還(かへ)されけり。」
これ、正しく「駱駝」なるべし。此度(このたび)にて、再度の渡來なり。
■やぶちゃんの呟き
駱駝の来日は、「アドミュージアム東京」の『第3回「駱駝(らくだ)が江戸にやって来た!」』という記事がよい。この図から、これは哺乳綱鯨偶蹄目ラクダ科ラクダ属フタコブラクダ Camelus bactrianu であることが判る。同種の野生個体は中国北西部とモンゴルにのみ分布する。紀元前二〇〇〇年頃には既に家畜化されていたとされる。敦煌に旅行した際に乗ったが、どうもラクダと私は性が合わない感じだった。
「去年」文政四(一八二一)年。来日は六月。但し、この時来たのは、前記リンク先によれば、これは『アラビア産の』ラクダ属ヒトコブラクダ Camelus dromedarius(同種は北アフリカと西アジア、及び、「アフリカの角」と呼ばれる地域、則ち、スーダン・エチオピア・ソマリアに分布していた。但し、既に、それらの原生地においての野生個体群は、残念ながら、消滅している)で、静山は、「此獸、東都に來るべしや。」「など、人々、云(いひ)しが、遂に來らず」とあるが、実際には、このラクダ、時を経て、江戸に来ている。『牡と牝のつがいで長崎港に渡来し』、『長崎を振り出しに、九州、四国、和歌山、大坂、京都と各地を巡業しながら、木曽街道を経て』、『江戸に着いたのが』、三『年後のことで』あったからである。『らくだは牡』八『歳、牝』『歳とされ、見世物興行始まって以来の珍獣はいたるところでもてはやされ』、『道中も終始一緒で』、『仲睦まじく、見物するだけで夫婦和合のご利益もあるとされ』たとあり、『川添裕氏の著書』「江戸の見世物」(岩波新書)』(私も所持する)『によると、「ラクダの両国広小路での入場料は』一人三十二文『と高価であったが、日に』五千『人を超えることもあった。日延べを繰り返し、ついには』、『半年以上の超ロングラン』となり、『空前の巨大興行収入は』実に二『千両にもなった。見世物小屋の周辺で売られた品々も錦絵はじめラクダグッズも多彩だった」とあり』、『その人気ぶりは』、『流行り歌にまでなっ』た。その「ラクダ節」が紹介されており、『♪今度遠つ国からお江戸へはるばる夫婦で下りイ、あの両国で大根喰っちゃ遊んでまた、こいつア又、らくだろう♪』とある。
「享和三癸亥七月」グレゴリオ暦では旧暦七月(大の月)は一八〇三年八月十七日から九月十五日まで。
「高さ、九尺」約二・七三メートル。フタコブラクダでは、瘤までの体高は一・九〇から二・五〇メートルとされるので、大型の方である。
「長さ三間」五・四五メートル。これは、何らかの誤伝か、単位換算の誤りで、長過ぎる。通常、同種の体長は二・二〇から三・五〇センチメートルである。
*
9-24 兩國橋畔にて駱駝の造物(つくりもの)を見する事
この三月、兩國橋を渡(わたら)んとせしとき、路傍に見せものゝ有るに、看版を出(いだ)す。
駱駝の貌(かほ)なり。
又、板刻(はんこく)して、其狀(そのかたち)を刷印(すりいん)して、賣る。曰(いはく)、
「亞剌比亞國(あらびあこく)中(うち)、墨加(めか)之產にして、丈(たけ)九尺五寸、長さ一丈五尺、足、三つに折るゝ。」
予、乃(すなはち)、人をもて、問(とは)しむるに、答ふ。
「これは、去年(こぞ)、長崎に渡來の駱駝の體(てい)にして、眞物(しんもつ)は、やがて、御當地に來(きた)るなり。」
と言(いひ)たり。
因(よつ)て、明日(みやうにち)、人を遣(つかは)し、視(み)せ使(し)むるに、作り物にて有(あり)けるが、その狀(かたち)を圖して歸る。
[やぶちゃん注:キャプションがあり、右臀部の上方に、
『總』(さう)『乄』(して=じて)『毛』
『薄赤』
とあり、頭頸部の後ろに、指示線を添えて、
『此処』
『白毛』
とし、左下方の頸部の中央やや上に指示線を添えて、
『此アタリ黃毛』
とある。
以下は、底本では全体が一字下げ。]
圖を視(みる)に、恐(おそら)くは、眞(しん)を摸(も)して造るもの、ならじ。「漢書(かんじよ)」、「西域傳」の師古の註に所ㇾ云(いふところ)は、
『脊ノ上肉鞍隆高若二封土一。俗呼二封牛一。或曰。駝ノ狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有二蒼褐黃紫ノ數色一。』
然るに、この駝(だ)、形には、「肉鞍隆高」の體(てい)もなく、その形も、板刻の所ㇾ云(いふところ)と合はず。前册に駝のことを云しが、それ、是ならん。
■やぶちゃんの呟き
ここで静山は不審を漏らすが、フタコブラクダとヒトコブラクダの二種がいることを知らないのだから、仕方がない。
「三月」文政五年三月。グレゴリオ暦一八二二年四月二十二日から五月二十日相当。
「墨加」サウジアラビアにあるイスラム教の生地メッカ。
「丈九尺五寸」二・八七メートル。ヒトコブラクダの成獣の肩高は、一・八〇から二・四〇メートルであるから、やや高めの謂いである。
「長さ一丈五尺」四・五五メートル。ヒトコブラクダの成獣の体長三・五〇メートルであるから、これはドンブリで長過ぎる。まあ、客寄せにはありがちな誇大広告である。
「足、三つに折るゝ」股関節と膝関節及び踝の関節を折りたたむと、かく表現するのは、違和感はない。
『「西域傳」の師古の註』これは「漢書」(後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。全百巻。最終成立は紀元後八二年)の「西域傳」で、唐の訓詁学者で「漢書」学者でもあった顔師古(五八一年~六四五年)による優れた注を指す。
「脊ノ上肉鞍隆高若二封土一。俗呼二封牛一。或曰。駝ノ狀似ㇾ馬、頭似ㇾ羊。長項垂耳、有二蒼褐黃紫ノ數色一。」(訓点不全はママ)自然流で訓読を試みる。
※
脊(せ)の上(うへ)、肉、鞍(くら)のごとく、隆(たか)くして、高きこと、封(ふう)ぜる土(つち)のごとし。俗に「封牛(ふうぎう)」と呼ぶ。或いは曰はく、「駝(だ)の狀(かたち)、馬に似て、頭(かしら)、羊に似たり。長き項(うなじ)、垂れ耳(みみ)にして、蒼(あを)・褐(かつ)・黃(わう)・紫(むらさき)の數色(すしよく)、有り。
※
「垂れ耳」というのは、砂嵐に耐えられるように、睫毛や耳の中の毛が発達していることから、見かけ上そう見えたのであろう。実際には、ヒトコブラクダもフタコブラクダも「垂れ耳」ではない。
*
56―17 上古駱駝來(きたる)
前に駱駝の來れることを云(いひ)き。
今は、都下の口實(こうじつ)とせり。
享和には、人、不ㇾ見(みず)。この度(たび)は、普(あまね)く見て、
「珍(めづら)し。」
とす。
然(しかる)に、このほど、燕席[やぶちゃん注:「宴会の席・酒宴の席」の意の一般名詞。]にて、或人、云ふ。
「上古、この獸(けもの)、吾邦に來(きた)ること、あり。」
と。
因(よつ)て、「國史」を閱(えつす)るに、云(いは)く、
『推古天皇ノ七年秋九月癸亥朔、百濟貢ス二駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻一。』
と見ゆ。至ㇾ今(いまにいたるに)、一千二百二十六年なれば、世人、珍とするも、尤(もつとも)なり。
又、「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり。
■やぶちゃんの呟き
「口實」よく口にする言葉。かのヒトコブラクダの興行は、それほど、人気を博したのである。
「享和」寛政十三年二月五日(グレゴリオ暦一八〇一年三月十九日に改元し、享和四年二月十一日(グレゴリオ暦一八〇四年三月二十二日)に「文化」に改元。その後が「文政」。
「推古天皇ノ七年秋九月癸亥朔、百濟貢ス二駱駝一疋、驢(ウサギウマ)一疋、羊二頭、白雉二隻一。」「日本書紀」の記載。以下に訓読する。
※
推古天皇の七年、秋九月癸亥(みづのとゐ)朔(ついたち)、百濟(くだら)、駱駝(らくだ)一疋、驢(うさぎうま)一疋、羊二頭、白雉(しらきぎす)二隻(さう)を、貢(みつぎ)す。
※
この内、「駱駝」は中国経由で入手したフタコブラクダと思われる。「驢(うさぎうま)」は哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属アフリカノロバ亜種ロバ Equus africanus asinus である。これが、驢馬(ロバ)の最古の来日記録とされている。「白雉」は鳥綱キジ目キジ科キジ属コウライキジ Phasianus colchicus のアルビノと推定される。
「推古天皇の七年」ユリウス暦五九九年。
「至ㇾ今、一千二百二十六年」機械計算では、数えで文政七(一八二五)年相当。
『「和名鈔」の頃は、このこと、人も傳(つたへ)しや。『良久太乃宇萬』と和名を記しけり』「和名鈔」は「和名類聚鈔(「抄」ともする)」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。その、「卷十一」の国立国会図書館デジタルコレクションの「和名類聚鈔」全二十巻の「第十一卷」から「第二十卷」(正宗敦夫編纂校訂・一九五四年風間書房刊)のここに(訓読し、読み・記号・句読点を推定で打った)、
※
駱駞(らくだ) 「本草」に云はく、『駱駞【「洛」・「陁」の二音。「良久太乃宇末(らくだのうま)」。】「周書」に云はく、「𩧐駝(らくだ)【「駝」は、即ち、「駞」の字なり。「𩧐」の音は「卓」。亦(また)、「駞」に作る。は、即ち、「駱駞」なり。】、肉の鞍(くら)有りて、能く重きを負ひて、遠くへ致す者なり。
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とあった。