柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「福仏坊」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
福仏坊【ふくぶつぼう】 〔一宵話巻二〕正保元甲申年[やぶちゃん注:一六四四年。徳川家光の治世。]、奥州会津<福島県会津若松市>領の山中に、福仏坊といふ仙人住み居し。樵者ども時々見受るよし聞えければ、その仙人召捕ふべき命下り、やがて捕《とら》へてもの尋ぬるに、本国は伊予の者、若かりし時悪事して、廿五歳にて国を出《いで》て、東国へ下り、この山中に入り、木の実などを食し、いつとなく長命せしなり。むかしの事、また年を問へども、皆忘れて、ひとつも覚えし事なし。但(ただ)東国へ下りし時、その途中、尾張の熱田を通りしに、その宮寺の鐘鋳《かねいり》の供養なりとて、参詣の集群夥しかりし事、これたゞ一ツおぼえたるばかりなり。仙人なれば、いたはり介抱せる間に、取《とり》にがし深山の奥へ入り、再び出《いで》ずなりぬ。この仙人、幾許《いくばく》の年寿にやあらん。熱田<名古屋市熱田区神宮にある神社>の鐘を証にせば知らるべしと、その時の人もいひ、また後に熱田を尋ぬれど、この鐘今はなしといひし人もあるから、おのれふと思ひよりて、府下なる総見寺の鐘を尋ぬれば、果して熱田の神官寺の物なり。これは織田信雄《のぶを》主(ぬし)、父信長公のために、清須<愛知県清須市>に総見寺建られしに、国貧しく鐘鋳る事ならで、熱田のを取りて、この寺に懸けられたるなり。(この寺後《のち》に名古屋へ移されたり)その鐘の銘に、熱田宮 神宮寺 延徳元年十月十三日 檀那浅井備中道慶菴主(あんじゆ)などと見ゆれば、疑ひもなきものなり。延徳元年[やぶちゃん注:一四八九年。]より正保元迄百四十年余、それに二十五年加ふれば、大抵百六七十歳ばかりの人なり。させる高寿にはあらねど、今の人の心よりは、仙人と思はんも理(ことわ)りなり。さてこれより先き、四国の山中に平維盛《たひらのこれもり》仙人住める由、聞えありければ、伊達遠江守殿に召し参らすべきよし、仰せありしかども、参らざりしかば、神君より伊藤播磨守殿を以て、時服四ツ給はりし事もありき。(この維盛仙人の事は、他の書にもしるせる事数多《あまた》あり。尚考ふべし)
[やぶちゃん注:「一宵話」秦鼎(はたかなえ 宝暦一一(一七六一)年~天保二(一八三一)年:江戸後期の漢学者。美濃出身で尾張藩藩校明倫堂の教授として活躍したが、驕慢で失脚したという)の三巻三冊から成る随筆。以上は同書の「卷之二」の「龍 の 雲」の中の本文で、国立国会図書館デジタルコレクションの『日本隨筆全集』第十七巻(昭和三(一九二八)年国民図書刊)のこちらから視認出来る。末尾に、信長の次男信雄に関する『或る人云、信雄主は、誠にいとをしき人なり。』(「いとをしき」は誤りではない。「いとほし」は中世から近世初期頃に、ハ行音転呼音(語中・語末のハ行の子音がワ行音になる現象)によってイトヲシとなり、)で始まるこの仙人福仏坊と無関係な信雄のエピソードがあるが、全面カットされている(頭注もある)。なお、この福仏坊の語り通りであるとすれば、機械的計算をするなら、百七十九年前が生まれ年となり、寛正六(一四六五)年で、足利義尚が室町幕府第九代将軍に就任した年である。
「平維盛」(平治元(一一五九)年 ~寿永三(一一八四)年?)平清盛の嫡子平重盛の嫡男であったが、父の早逝もあって、一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちた後に戦線から離脱し、那智の沖で入水したとされている。一種のノイローゼであったと私は考えている。那智の補陀洛山寺の供養塔をお参りしたことがある。但し、生存説が古くからあり、また、全国各地に彼の隠棲・落人伝説が残る。だとすると、機会計算で正保元年から引くと、数え四百八十六歲、「これより先き」を伊達秀宗の藩主となった翌慶長二十年としても、実に四五十六歳となり、福仏坊など赤ん坊みたようなもんだ。
「伊達遠江守殿」伊予国宇和島藩初代藩主伊達秀宗。藩主在任は慶長一九(一六一四)年十二月で、明暦三(一六五七)年七月に世子の宗利に家督を譲って隠居している。徳川家康・秀忠・家光の治世である。
「伊藤播磨守殿」不詳。
「時服」毎年、春と秋、又は、夏と冬の二季に、朝廷や将軍などから諸臣に賜った衣服を指す。]
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