譚海 卷之六 駿遠國境栗世村風俗の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。標題は「すんとほくにざかひくりよむらふうぞくのこと」と読んでおくが、この「栗世村」は誤りで、正しくは旧「三河國加茂郡阿助庄」(あすけのしやう)「名藏」(なぐら)「鄕里」(読み不明)「河内」(かふち)「粟世村」(あわよむら)で、旧愛知県北設楽郡にあった上粟代村及び下粟代村、現在の愛知県北設楽郡豊根(とよね)村三沢(グーグル・マップ・データ航空写真)である。東と南部分で静岡県浜松市と接している。現在も、かなりの山深い地ではある。上記の江戸時代の地名を参照した平凡社「日本歴史地名大系」のこちらによれば、『樫谷下(かしやげ)村の上流にあたる。村内諏訪神社の』慶長一三(一六〇八)年の『棟札に「三河国加茂郡阿助庄名蔵郷里河内粟世村」とあり、大本願に「熊谷拾左門尉・借上夏目孫太夫尉」と記される。これは寛永二一』(一六四四)年の『棟札に』、『樫谷下名主として』、『夏目四郎衛門盛重、粟世名主として熊谷九郎左衛門守長とあるので、当社は樫谷下・粟世両氏子の勧請であることがわかる』とあった。差別的な記事であるので、批判的な視点を以って読まれたい。]
○駿河・遠江(とほたふみ)の境の山奥、粟世(あはよ)といふ所は、一向に、無文(むもん)[やぶちゃん注:文盲。]の地にて、壹人(ひとり)も、文字を知(しり)たるもの、なし。
もし、公儀の被二仰渡一(おほせわたさるる)文書(もんじよ)など到來する時は、其所(そこ)より、二里餘(あまり)の山を、こえ、寺へ持行(もちゆき)て、住持に、よみてもらひ、諸事、奉行(ぶぎやう)する事也。
人物、愚魯(ぐろ)にして、我(わが)思ふ事より外(ほか)は、『よし。』と、おもはず、たとひ、
「いかやうの非理(ひり)成(なる)事にて、夫(それ)は其方(そのはう)の存寄(ぞんじより)惡敷(あしき)也。」
と、いひきかせても、
「左樣では御座らふけれど、わしは、『よい。』と、おもひます。」[やぶちゃん注:口語表現はママ。]
と、いひて、幾度(いくたび)、說聞(とききか)せても合點せず、一向、治(をさめ)がたき所也。
されど、親をば、大切にするやうす、たが、をしふるとも、なけれど、天然の理(ことわり)、ふしぎなる事也。
『結繩(けつじよう)の民(たみ)か。』
と、おもヘど、我意(がい)は、すぐれて、たつる人のみにて、誠に、人間外(にんげんぐわい)わたくしの了簡ある所の、さま也。
[やぶちゃん注:「たが、をしふるとも、なけれど」「誰(た)が、敎ふるとも、無けれど」。
「結繩の民」「結繩」(けつじょう)は、古く、文字の無かった時代に、縄の結び方で意思を通じ合い、記憶や意志交換の便(べん)としたこと。中国・エジプト・中南米・ハワイなどで用いられた。本邦でも古代に使用され、文字を持たなかったと一般的には言われるアイヌや、沖縄、及び、一部の地方では、近代まで用いられていた。当該ウィキが詳しいので、参照されたいが、そこに、古代中国の『日本に関して』記載が載る、「隋書」巻八十一の「東夷傳倭國」の『条には、倭人の風俗として』、「文字、無し。唯だ、木を刻み繩を結ぶのみ」と『記している。関連は定かでないが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄や』、『イグサの結び玉と考えられるものも発見されている』。『また古来日本では』「草結び」『と言って、萱や菖蒲などの長い葉を取って』二、三『か所』、『玉結びにして、その結び方や場所によって』、『祝意や恋愛などの様々な意味を表したとされている』とあり、さらに、「東アジア」の項に、『近年に至るまで、琉球諸島や台湾、中国、アイヌ社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている』とあって、「北海道」では、『アイヌの結縄文化については』、元文四(一七三九)年に『坂倉源次郎が著した』「北海随筆」や、文化五(一八〇八)年に『最上徳内が著した』「渡島筆記」に『言及されている。これらによれば、和人や山丹人』(「山旦」「山靼」とも書く。主に、ウリチ族や大陸ニヴフなどの黒竜江(ロシア名「アムール川」)下流の民族。樺太アイヌのと間で交易が行われていた)、『オロッコ』(ウィルタ。ロシア連邦サハリン州の樺太(サハリン島)東岸を主な居住域とする少数民族で、ツングース系に属する。その生活の舞台は、伝統的には、樺太中部の幌内川流域と、北部のロモウ川流域であった。アイヌからは「オロッコ」と呼ばれた。オロチ族、乃至は、オロチョン族と混同されることもあるが、実際には異なる民族である。本来の言語はツングース諸語の系統であるウィルタ語)『との交易において』、『勘定用の結縄・刻木が用いられており、和人が交易に出向いた際には』一『年前の情報でも詳細に記憶していた。また、記録法は恣意的に運用されるのではなく、古い慣習に従って行われていた』。『明治の人類学者の坪井正五郎は、帝国大学理科大学にアイヌの結縄を持ち帰っている』とあり、「日本(内地)」では、『宮中行事で大嘗祭の前日に行われる鎮魂の儀に「糸結び(御魂結び)」があり、結びを用いて百を数え、遊離する魂を鎮める習わしがある』。『同様の鎮魂祭は、奈良の石上神宮・新潟の弥彦神社・島根の物部神社などにも伝わっている』。『本居宣長の』「玉勝間」第十三巻には、『讃岐の田舎に伝わる求婚の風習が記されている。男が女に』二つの『結び目のついた藁を送り、女は拒絶する場合には』、『結び目を外して返し、承諾の場合には』、『結び目を中央に集めて返すものという』、『坪井』『が柏原学而』(がくじ)『から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近』(☜)『では家々の勝手』口『に縄が二本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際』、『その量に従って』、『縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときには』、『この玉を数える習慣があった』とある。「沖縄」の条には、『琉球諸島では』、『文字使用を許されなかった庶民の間の記録法として』「スーチューマ」や「カイダ文字」等と『並び』、「藁算(ワラザン・バラザン)」と『呼ばれる結縄の慣習が行われていた。スーチューマやカイダ文字は』、『比較的』、『上層の人々が用いたのに対して、一般庶民は、藁あるいはイグサの結び方によって数量を表す方法を用いたのである。これには人数を表すもの、貢納額を表すもの、材木の大きさを表すもの、祈願用のものがあった』。『明治期に初めて藁算の考察を残した民俗学者の田代安定は、特に八重山地方において普及が著しく、ここでは会計上の意味を超えて、禁止や告訴、命令などの文書的通達に代わる「会意格」の用法があることを記している』とあった。]