譚海 卷之六 明朝慈聖大后佛法歸依の事
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。「目錄」の標題中の「大后」はママ。]
○明の慈聖太后は、佛法、信仰にて、此ごろ、其自畫讚の魚藍觀音(ぎよらんかんのん)をみたりしに、畫法、氣韻とも備(そなへ)たる事なり。
其讚は、
「大士應跡普濟基生、串錦就市飄然浪行、聖世廣運※能石流通、以綜國祚億萬斯齡。」
とあり。[やぶちゃん注:「※」は「𣃕」の(へん)の(くさかんむり)の下を「單」に代えた字。]
石本(せきほん)[やぶちゃん注:石摺りの拓本。]にもせし事と見えたり。
此太后、唐山に殘りある嵯峨釋迦の本像をも、金箔に、だみられたるよし、「帝京景物略」といふ書にも見えたり。
[やぶちゃん注:この一条、「讚」も読めず、「唐山に殘りある嵯峨釋迦」も判らないので、ろくな注が全く出来ない。悪しからず。
「慈聖太后」明の隆慶帝の妃嬪で万暦帝の母であった孝定太后(一五四六年~一六一四年)。姓は李氏。一五六七年に皇貴妃に封じられ、万暦帝が即位すると、慈聖皇太后と尊称された。財貨を喜び、仏教を尊崇した、と当該ウィキにある。
「魚藍觀音」当該ウィキによれば、『三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。中国で生まれた観音の一つで、同じ三十三観音のひとつである馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされる』。『唐の時代、魚を扱う美女がおり』、「観音経」・「金剛経」・「法華経」を『暗誦する者を探し、めでたくこの』三『つの経典を暗誦する者と結婚したが』、『まもなく没してしまった。この女性は』「法華経」を『広めるために現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された』。『形象は、一面二臂で魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがある。日本ではあまり単独で信仰されることはないが、東京都港区の魚籃寺、三重県津市の初馬寺、千葉県松戸市の万満寺、滋賀県長浜市木之本町古橋(旧鶏足寺)、長崎県平戸市生月町(生月観音)などにある』とあった。
「だみられたる」「だみ」は「だむ」「彩む」で「彩色する・いろどる」の他に、「金箔や銀箔をはる」の意がある。
「帝京景物略」劉侗(りゅうどう)と于奕正(うえきせい)によって編纂された書で、主に明代の北京の地理・寺院・自然・習俗などを録したもの。一六三五年(明の崇禎八年)の冬に刊行された。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に板本があるが、前記の通りで、調べる気にならない。]
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