柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牡丹畠の怪」
[やぶちゃん注:本書は昭和三六(一九六一)年一月に東京堂から刊行された。この総題の「随筆辞典」はシリーズ物の一書。本書については、初回の冒頭注を、また、作者については、私の『柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」』の私の冒頭注を参照されたい。
底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを使用した。新字新仮名である。但し、加工データとして、所持する筑摩書房『ちくま文芸文庫』の「奇談異聞辞典」(底本を解題したもの・二〇〇八年刊)を加工データとして使用させて貰った。ここに御礼申し上げる。
読みが振れる、若い読者が躓くかも知れぬ箇所には《 》で読みを添えた。引用文の場合は歴史的仮名遣を用いた。なお、( )は柴田自身が附したルビである。
また、柴田のストイックな編集法を鑑み、私の注は、どうしても必要と判断したもののみとした。幸い、有意な部分は私が既に電子化注したものがあるので、それをリンクさせてもいる。但し、この原本は新字新仮名であるため、私が電子化していない引用文の原本に当たることが出来たものは、極力、視認出来るように、国立国会図書館デジタルコレクションや他のデータベースの当該部をリンクさせるように努めた。
なお、辞典形式であるので、各項目を各個に電子化する。公開は基本、相互の項目に連関性がないものが多いので、一回一項或いは数項程度とする。]
牡丹畠の怪【ぼたんばたけのかい】 〔四不語録巻二〕能州大沢《おほざは》村<石川県輪島市内>に富饒《ふねう》なる農家有り。その手代何某、加州の城下へ出《いで》、所用の事相調へ大沢へ帰る道すがらに、能州道下(たうげ)村より大沢までの間は嶮難なる山路なり。深見(ふかみ)山の巓(いただき)に広野の渺々たる所を通りしに、折節四月の上旬なるに、爛漫と咲き乱れたる牡丹畠有り。常には牡丹畠のなき所、その上花のころにも後《おく》れたれば、もつとも怪しむべき事なるに、何某年ごろ草花嗜好(すきこのみ)ける故、あら見事の花盛り哉《かな》と、しばらく立とゞまりて愛《めで》し見る所に、向うの山際より一人の女来れり。その顔うるはしその貌(かたち)たをやかに、衣服も美なりしかば、かゝる山中にかゝる美人も有りけるものかと、よくよく見れば地上を歩まず、地をはなれてあゆみ来れる故、さればこそ人間にてはこれなし、狐狸《こり》の類ひならん、汝等にたぶらかさるものにてはなきと、意を丈夫にもつて行きければ、彼女言葉をかけて、その花一枝折《をり》て給はれと言ふ。何某少しも答へず。三度迄同じやうに詞をかけし故、何某申すは、この花は我等が花にあらねば、折ることはいたし難し、花主《はなぬし》に貰ひ給へとつれなく過ぐれば、彼女間近く立寄りて、是非に一枝《いつし》所望なりと云ひし顔色を見れば、うるはしき事はなく、何とやらん物すさまじく覚えしとその儘打臥して、その後《のち》は前後しらず。されば近郷の人ども薪《たきぎ》こりに谷の間へ下りしに、人の死骸あり[やぶちゃん注:ママ。「死骸」はないだろ!]。何者なるやと立寄りて見れば大沢の何某なり。何れも驚きさわぎて、その儘引上げて見れば正気なし。大沢村も程近ければ、いそぎ宅へ遣して薬針灸治《やくしんきうぢ》等を致しければ、段々正気付《づ》きて右の様子を委細かたるなり。この往還の道筋より落入りし谷までは、その間《かん》遙かに七八町[やぶちゃん注:七百六十四~八百七十三メートル。]もへだたりぬ。これ狐《きつね》の仕業か、または世俗のいへる天狗の取《とり》て投げたるものか、もつとも不審(いぶか)しき事なり。この物語りは宝永六年の事なり。そのころ僕(やつがれ)能州輪嶋浦(大沢村の隣郷《りんがう》なり)に至りて、農家の家従《かじゆう》に現《げん》に聞きたるなり。
[やぶちゃん注:「四不語録」「家焼くる前兆」で既出既注。写本でしか残っておらず、原本には当たれない。
「能州大沢村」「石川県輪島市内」先日の元旦に地震で大火災に見舞われた、輪島市街の朝市から、東南東に八キロメートル半ほど離れた海浜の石川県輪島市大沢町(おおざわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「道下(たうげ)村」現在の輪島市門前町(もんぜんまち)道下(とうげ)。地図の上方に大沢漁港を入れておいた。昨日のニュースで、養殖しているサバを、地震後、すぐに引き上げることが出来ず、魚体に大きな傷(相互個体が接触するために発生)がついてしまったというロケ地が、この港だった。
「深見(ふかみ)山の巓(いただき)に広野の渺々たる所を通りし」この名の山は見当たらない。但し、道下と大沢の山越えの間の閉区間内に限定される。「ひなたGPS」で確認したところ、ここに「浦上村」の「國見山」・「門前町浦上」の「国見山」が確認出来た。標高は、戦前のものも、国土地理院図も、ともに二百二十三・二メートルである。ここを、グーグル・マップ・データ航空写真で見てみると、国見山の南西の山腹に、開けた、有意な平地が確認出来るのである。思うに、ここに繋がる山道(現在、先は閉塞している)が、古くに大沢村へ続く古い山道だったのではないかと私は推定した。則ち、こここそが、本話の「牡丹畠」のあった場所なのではなかろうか?! 因みに、ここにある輪島へ向かって能登半島の先の方まで通ずる国道249号と、北方向に大沢地区へ向かう県道38号(輪島浦上線)が、地震のために寸断され、ライフ・ラインに大きな問題を起こしているのである。私は高校二年の夏、親友らと能登を一週間かけて、テントを担いで、一周した。私の人生の中で、恐らく最も強い自然の実感を抱いた、忘れることの出来ない「旅」であった。能登の復興を心から祈る――。
「四月の上旬」後に「この物語りは宝永六年の事なり」とあるので、旧暦四月一日は、グレゴリオ暦では一七〇九年五月十日である。ユキノシタ目ボタン科ボタン属ボタン Paeonia suffruticosa のうち、「春牡丹」は現在の四月から五月に開花する。
「近郷の人ども薪こりに谷の間へ下りしに、人の死骸あり。何者なるやと立寄りて見れば大沢の何某なり。何れも驚きさわぎて、その儘引上げて見れば正気なし。大沢村も程近ければ」最後のそれから、気絶していた手代何某が落ちていた谷は「ひなたGPS」のこの附近のどこか(東北方向に向かうなら、大沢に出、北西方向なら、上大沢に出る)であったと推定する。]
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