甲子夜話卷之八 1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷其圖を獻ずる事(ルーティン)
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、恣意的正字化変換や推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之七」の後半で既にその処理を始めているのだが、それをルーティンに正式に採用することとする。なお、カタカナの読みは、静山自身が振ったものである。]
8-1 藤堂高虎、二條御城繩張のこと幷(ならびに)其圖を獻ずる事
藤堂高虎は、卑賤より武功を積(つみ)て興(おこり)し人なれば、武事は練達にて、就ㇾ中(かなんづく)、城築、功者なれば、京二條の御城御取立のとき、臺廟、其繩張を高虎に仰付られたり。
高虎、因て、其圖を作り、手傳(てづたへ)に其臣某を【名、忘(わする)。これ亦、武事達練の士なり。】爲(なし)たるが、一圖は、全備、精巧を極(きはめ)たり。
別に又、一圖を添ふ。これは、粗にして、尋常の制なり。
臣某曰(いはく)、
「粗なる者は、上呈に及べからず。」
と。
高虎曰、
「不ㇾ然(しからず)。精粗の御判斷は上にあるべし。上にて決せらるゝ者、卽ち、御繩張なり。我が繩張には非ず。御城は上(かみ)の御城なり。我等の繩を以て爲(なす)べからず。」
とて、二圖ともに、上(あぐ)る。
臺廟、果(はたし)て、其精なる方を以て、命ぜらる。
高虎、因(よつ)て、「臺廟の御繩張」としけり、とぞ。
■やぶちゃんの呟き
「藤堂高虎」(弘治二(一五五六)年~寛永七(一六三〇)年)は安土・桃山時代から江戸初期の武将。近江国の人。藤堂藩初代藩主。三十二万石。浅井長政・羽柴秀長に仕え、軍功を立て、後、秀吉に招かれ、その死後、家康につき、「関ケ原の戦い」・「大坂の陣」で活躍した。当該ウィキによれば、『秀忠が二条城を改修する際に』(寛永元(一六二四)年。徳川家光が将軍に、秀忠が大御所となった年から始まった)、『高虎に城の設計図の提出を求めた。これを受けて高虎は』二『枚の設計図を献上した。秀忠はなぜ』二『枚の設計図を提出したのか、と高虎に尋ねると「案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合』、『私に従ったことになる。しかし』、『二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる」と申した。高虎はあくまで二条城は将軍が自身で選び抜いた案によって改築した物だとするために』、二『枚の設計図を献上したのである。これは将軍である秀忠を尊重するための行いであった』。『秀忠も高虎を信頼し、御三家を交えての歓談などで』、『しばしば高虎を招いている。高虎が亡くなる』四『ヶ月前の登城では、土井利勝を使いにやらせ、秀忠自身が三の丸まで出迎え、眼病の高虎が渡りやすいように廊下の曲がりを正す命令を出している。別れの際には「(廊下を)この通り良くしたので、明日もぜひ登城せよ」との言葉をかけて見送っている。高虎はこの厚意に感動し、涙を流している』とあった。
« 柴田宵曲「随筆辞典 奇談異聞篇」 「牢抜自首」 | トップページ | 甲子夜話卷之八 2 雷を畏るゝの甚だしき人の事 »