譚海 卷之六 京都町人おはん・長右衛門を殺害せし盜人刑せられし事(おはん長右衛門心中物語實說)
[やぶちゃん注:これまでのフライング単発で、推定歴史的仮名遣の読みは勿論、句読点・記号変更・追加、段落成形を行ってきた関係上、以下でも、読者の読み易さを考え、「卷之六」以降、それをルーティンに正式に採用することとする。
なお、この前条の「勢州二見浦津浪の事」は、既にフライング公開している。
標題の「殺害」は古式に「せつがい」と読んでおく。]
○今年、京都より歸鄕せし人の物語せしは、
「そのかみ、京都にて、おはん・長右衞門とて、『心中淨るり』に作りて、もてはやせしは、誠には、心中にて死(しし)たるには、あらず。
長右衞門といふ商人(あきんど)あり。有德なるものにて、鄰家に『おはん』といへる娘ありけるを、幼稚より可愛がりて、娘の如くせしが、ふと、出來心にて、渠(かれ)と密通せしに、おはん、すでに懷姙せしかば、その身は、四十に及び、おはんは、十六、七歲のもの、殊に長右衞門は、妻子もある身のうヘの事ゆゑ、かたがた、外聞を、いとひて、長右衞門、おはんを召(めし)つれ、ひそかに出奔して、攝州のかたに赴(おもむか)んとして、桂川のわたりにかゝりけるに、長右衞門、金子貳百兩、懷中して居《をり》たるを、わたし守、ひそかにしりて、渡守、兩人いひあはせて、長右衞門・おはん兩人を殺害(せつがい)し、金子を奪取(うばひとり)たるを、かく、心中のやうに、いひふれたる事也。
然して後(のち)、此わたし守、金子を両人にて、わかちとり、各(おのおの)、京都へ出(いで)、商賣をかせぎけるに、幸(さち)ありて、相應の身帶[やぶちゃん注:「身體」に同じ。]になりて居《ゐ》たりしを、しる人、さらになかりしに、壹人の渡守、病氣にて、臨終におよぶとき、その子供、壹人を、まねきて、ひそかに始終を、ものがたりして、兩人、商賣にかゝりたる時、互ひに、
『子孫にいたるまで、もし、いつれ[やぶちゃん注:ママ。「いづれ」。]にも不如意に成(なり)たらば、合力(かうりよく)みつぎ、つかはすべき約束なる。』
よし、かたりて、死(しし)たり。
其後(のち)、此子ども、甚(はなはだ)不行跡(ふぎやうせき)にて、親のゆづりあたへし所帶、ほどなく、放埒(はうらつ)につかひ崩し、朝夕のけぶりも、たてかぬるほどに成(なり)しとき、親の遺言を、おもひ出して、同類の渡守、紙商賣して、有德にくらすもののかたへ行(ゆき)て、遺言の次第を、ひそかに、のべて、無心いひければ、紙屋も止事(やみこと)を得ず、少々の金子、合力せしに、又、この子ども、放埒に、つかひはたして紙屋へ行(ゆき)、無心いふ事、數ケ度(すかど)に及び、もはや、紙屋にても、あひしらひあしく、合力も、つかはしくれざるほどにいたりしを、此子ども、いきどほりを、ふくみて、公儀へ、右の次第、訴へせしかば、紙屋は、早速、召(めし)とられ、その子供をも、併(あはせ)て、町中ひきまはし、梟首にせられける。
あさましき事也。
長右衞門を殺せし年より、此年まで、三拾八年ありて、盜人(ぬすつと)、露顯せし。」
と、かたりぬ、
天罰、のかれざる事、恐るべし。
[やぶちゃん注:「今年」寛政七(一七九五)年。
「『心中淨るり』に作りて、もてはやせし」は私の好きな浄瑠璃の世話物(恐らく、三度は見ている)「桂川連理栅(かつらがはれんりのしがらみ)。菅専助作の二段物。安永五(一七七六)年、大坂北堀江座で初演。先立つ十五年前の宝暦一一(一七六一)年、京都の桂川に十四、五の娘と、五十男の死体が流れついた巷説を元に脚色した文楽。信濃屋の娘お半と、隣家の四十男の帯屋長右衛門とが、伊勢参りの石部の宿での契りから、お半は懐妊、二人が桂川で心中する筋である。
「三拾八年」不審。数えとしても、三十五年前である。]